近代日本の地域の女性と教育に関する歴史的考察
−三重県の女子師範学校と高等女学校を事例として
−
著者 梅村 佳代
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 57
号 1
ページ 1‑12
発行年 2008‑10‑31
その他のタイトル Historical Inquiry on Women and Education in Regions of Modern Japan − Examples of Women
s Normal School and Women s Secondary School of Mie Prefecture −
URL http://hdl.handle.net/10105/721
近代日本の地域の女性と教育に関する歴史的考察
−三重県の女子師範学校と高等女学校を事例として−
梅 村 佳 代
奈良教育大学学校教育講座(教育学)
(平成20年5月7日受理)
Historical Inquiry on Women and Education in Regions of Modern Japan
− Examples of Women s Normal School and Women s Secondary School of Mie Prefecture −
UMEMURA Kayo
(Department of school education, Nara University of Education, Nara 630-8528,Japan )
(Received May 7, 2008)
Abstract
This paper performs a historical inquiry on women and education in regions of modern Japan, using Mie Prefecture as an example. It investigates to clarify the founding, philosophies and educational contents of Mie Prefecture Women s Normal School (school to develop teachers) and Prefectural Women s High School, looking at the female teachers who worked there.
This was investigated in prior research in Japanese women s history and regional education history. In women s history, gender history in recent years clarified the actual situations of social, economic, and cultural gender disparities and discrimination towards women. In particu- lar, though one can say that various aspects of relationships with men such as family, labor, and social position were clarified, it is difficult to say that studies sufficiently clarified the field of his- tory of modern Japan s middle school education, which had a separate male and female educa- tional system such as women teachers, normal schools, and women s schools.
Regional education history has only recently begun to clarify issues of modern primary edu- cation in some primary school systemization processes, such as roles of regional cooperative organizations, popular consciousness, and formation in recent times of regional intellectual net- works revolving around scholarship and education.
This paper s premise is modern Japan s so-called gender history of the establishment of social inequalities for women, with unequal women s development, social structure, and social norms. Using Mie prefecture as an example, this paper covers the history of establishment of women s normal schools and women s high schools and development of women teachers, clari- fying their overcoming of inequalities and developing their indispensable main roles in women s social development as working people, that is to say teachers as workers comprising normal education and development of women s school education.
Key Words: Mie Prefecture,
Women s Normal School, Women s Secodary School
キ−ワ−ド: 三重県、
女子師範学校 高等女学校
1.はじめに
本稿では近代日本の地域の女性と教育に関する歴史的 な考察を、三重県を事例にして三重県女子師範学校と県 立高等女学校の創設と理念、教育内容等を明らかにし、
それらを担った女性教員を取り上げて検討したものであ る。
先行研究では日本女性史あるいは地域教育史などで検 討されてきた。女性史においては近年のジェンダー史と して女性に対する社会的、経済的、文化的な性的格差あ るいは排除の実態が多面的に解明されてきた。とりわけ 家族、労働、教育、職業、法的地位、運動、文化、性愛、
意識や思想、社会的地位など男性との関係性において多 面的に検討されてきた。(1)また女性に対する社会的・経 済的・文化的格差が近代資本主義社会成立過程において 新たな格差として組み込まれてきたとする理論的解明も され、国際的な研究の広がりともなっている。(2)
このような研究の進展が著しい状況とはいえ、教育史 の研究分野では女性を対象とした女性教員、女子師範学 校、高等女学校など男女別学体系を持つ近代日本の中等 教育史分野での検討は十分なされているとは言い難い。
他方、地域教育史では花井信、坂本紀子らによる近代 日本の国民形成史として重要な初等教育史つまり小学校 の組織化過程における地域共同体の役割や民衆意識につ いての検討が始められている。また近世では木村政伸に より私塾を対象に学問と教育をめぐる地域の知識人の知 的ネットワーク形成の解明が着手されている。しかしこ れらの課題の検討はまだはじまったばかりである。(3)
本稿では近代日本の女性に関する格差的社会不平等成 立史いわゆるジェンダー史として女性の社会的格差の形 成や社会構造及び社会規範が成立してきたことを前提と して、それを克服する上で欠かせない課題が女性の主体 形成を明らかにすることであると考える。その上で職業 人としての女性の社会的形成つまり教員を職業人として 形成していく師範教育と教養形成としての女学校教育に ついて、三重県を事例として女子師範学校と高等女学校 成立史と女性教員の形成についてとらえるものである。
三重県における女子高等師範学校への進学による教員 免許資格取得者数は全国的には後発であるが、資格取得 した女性教員が中核となり、三重県女子師範学校及び県 立高等女学校教育の中心的な推進者となったことは明ら かである。師範学校教育や女学校教育が確立されれば社 会において女性が教職に従事するという人材養成システ ムが形成され、社会的な多大な力量を蓄積することにな る。また近世からの過渡期の女性師匠についてもふれる ことができた。
本稿は近代日本の地域の女性が高等師範学校教育によ り教員免許取得後に三重県女子師範学校と県立高等女学
校に着任して行った知識教育と教職教育の全容をとらえ ようとしている。筆者は既に先行して三重県四日市市立 高等女学校を事例に検討を始めている。(4)
2.明治期、地域における女子師範学校の成立と 女性教員
2.1.女子師範学校の法制的整備
三重県においては女子師範学校の創設は1901(明治
34)年に始まる。三重師範学校内に同年9月1日に女子
部が設置された。この頃には三重県知事古荘嘉門は女子 師範の創設の必要性を認識し、1903
(明治36
)年4
月に は校舎の位置を調査させ検討させ、同年7月には鈴鹿郡 亀山町に位置を決定した。1904(明治37)年4月1日に 県令28
号にて「三重県女子師範学則」を制定して本校 と附属小学校を設立した。とはいえ、新築校舎の落成は4月末であったので、暫くは女子部内での仮教授で、5月 10日に移転した。
初代校長は沖縄県師範学校長であった生駒恭人が
3
月19
日に着任した。7
月21
日には女子部以来の本科第三学 年40人が第一回卒業生として卒業した。7月8日には「三重県女子師範学校附属小学校規則」も制定され、12 月
17
日には有松英義知事の臨席による落成式も挙行さ れた。そして12
月12
日には勅語謄本が下賜されたのに 続き1905年10月16日には「御真影」も下賜されて女子 師範も学校として整ってきた。1904
(明治37
)10
月1
日には尋常小学校女子准教員講 習科が開設され、生徒40
人が入学した。そして翌年3
月27日には第一回卒業生37人が送り出されている。また 1908(明治41)1月28日、三重県告示48号「尋常小学校
本科正教員講習科規程」が定められたのにともない学則 改正により女子師範に尋常小学校本科正教員講習科が設 置された。そして二年後の1910年には第一回卒業生34 人が送り出された。この間に生駒恭人校長が死去したことにより、教諭の 池田義郎が
1906
年9
月1
日に暫定的に校長心得となった が、同年9月25日には正式に三重県立高等女学校長から 秋鹿見橘が着任したが、すぐに翌年6月14日に栃木県女 子師範学校に転出となった。その後任として愛知県第一 師範学校から小山光彦が校長として着任した。生駒校長 の死去が予想外のことで多少の困惑が予測されるが、当 時全国的に師範学校が多く開設されて校長はどこも必要 とされ余儀ないことであった。女子師範教育も軌道に乗ってきた。
1908
(明治41
) 年10月26日には戊申詔書が下され、日露戦後の地域の 経済振興と民衆に対する道徳的心情形成が新たに強調さ れた。教員に対する資質の論議もさかんになされ、改善策と
して二部制度の設置となった。師範生徒は尋常あるいは 高等小学校卒業後ただちに師範学校に入学して教員とし ての基礎的形成が行われてきたが、初等教育から専門教 育へ短絡的に接続することは教師の人間としての器量を 形成する上では充分ではないと次第に認識され、改善策 として一般的教養、幅広い教養をもった教員資質を形成 することが着手された。すなわち中等学校卒業生を二部 生として受け入れ、教職教育と教育実習など職業的能力 を一ヶ年から二ヶ年間の修学により実現しようというも のであった。男子は中学校、女子は高等女学校卒業後に 一年間二部生として入学し、教育に関する学科目や教育 実習などを修学した。この改善策は教員の資質向上と共 に、中等学校生の就職開拓としても時宜にかない地域の 民衆からも受け入れられた。しかし師範学校の一部生徒 と二部生徒の関係は円滑ではなかった。年齢の相違、学 力格差、階層差などを学内に孕むこととなり生徒間の対 立を生む要因となった。
女子師範では1910(明治43)年4月に本科第二部を設 置し、
4
月25
日には二部生23
人が入学した。第一回の卒 業生は23
人で翌年3
月24
日卒業した。二部生入学年度の11月16日と二年後の1912年には皇太子(後の大正天皇)
を迎えて女子師範本科生の授業や成績品、二回目には体 操・遊戯の授業が観覧されている。(5)
師範教育が明治末年には軌道に乗って早期の確立をみ たのは法制面からもみてとれる。「学制」公布以後、政 府は一般民衆に小学校への就学を奨励し、教育令、学校 令を公布して制度的な整備を推進した。それと共に教員 を早期に養成することを重点方針として師範学校令を公 布し、各府県に一校の師範学校設置を義務づけて師範教 育を強力に推進した。
2.2.「 師 範 学 校 令 」 公 布 か ら 「 師 範 学 校 規 程 」 の成立
1886(明治19)年4月10日、森有礼文部大臣により勅
令13
号「師範学校令」が公布された。はじめての師範 学校に関する包括的法令が整備された。第一条では「師 範学校ハ教員トナルヘキモノヲ養成スル所トス 但生 徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目ス ヘキモノトス」(6)とあり、森有礼独自の教員像である「順良信愛威重」の文言が盛り込まれた。それに師範学 校が高等と尋常の二種類とされ、高等師範学校は東京に 一箇所設置され、尋常師範学校は各府県一校設置すると された。続く同年
5
月26
日には文部省令9
号「尋常師範 学校ノ学科及其程度」が公布された。師範学校の学科と 教育課程、修業年限などが定められたもので師範教育内 容の基本法制である。第一条では尋常師範学校の学科は「倫理、教育、国語、漢文、英語、数学、簿記、地理歴 史、博物、物理・化学、農業・手工、家事、習字、図画、
音楽、体操」とされた。但し、農業、手工、兵式体操は 男生徒、家事は女生徒に課すとされた。尋常師範学校の 修業年限は四ヶ年とされ、一学年が一学級である。学科 ごとの授業時間は別表(
1
)の通りであり1
年は40
週、1
週は34時間以上とされた。(7)1891(明治24)年11月16日勅令217号により「師範学
校官制」が公布され、師範学校職員の官制と職務内容が 規定された。師範学校に置く職員は学校長、教諭、助教 諭、舎監、訓導、保姆、書記であり(第一条)、教諭、助教諭、舎監、訓導、保姆、書記は判任文官待遇(第二 条)と位置づけられた。また職務内容は学校長は「府県 知事ノ命ヲ受ケ校務ヲ掌理シ所属職員ヲ統督シ兼テ府県 内ニオケル小学校教育ニ関スル学事ヲ視察ス」(第三条)
とされた。また教諭は「生徒ノ教育ヲ掌ル」(第三条)、 助教諭は「教諭ノ職掌ヲ助ク」(第三条)、舎監は「教諭 助教諭ノ中ヨリ之ヲ兼任ス、舎監ハ学校長ノ命ヲ承ケ寄 宿舎ニ関スルコトヲ掌ル」(第三条)とある。そしてこ れらの職員の人員、俸給は文部大臣が定める(第九条)
とされた。師範学校の組織体制は整備確立にむけて確実 に進展した。
続いて1897(明治30)年10月9日には勅令346号「師 範教育令」が定められた。これは東京に男子と女子の各 一校ずつ設立された高等師範学校については「師範学校 尋常中学校及高等女学校ノ教員タルヘキ者ヲ養成スル所 トス」とされ、女子高等師範学校は「師範学校女子部及 高等女学校ノ教員タルヘキ者ヲ養成スル所トス」とされ たのに対して師範学校は「小学校ノ教員タルヘキ者ヲ養 成スル所トス」とされ、師範学校は地方長官の管轄下に おかれることとなった。経費は地方税負担、生徒の学資 は文部大臣の定めるところにより学校から支給するこ と、予備科や講習科などを設置できるとされた。
1907
(明治40
)年4
月17
日に文部省令第12
号「師範学 校規程」が公布され、師範学校と教育に関しては確立を みた。一部と二部の体制に移行する法的措置であり、師 範教育の根幹となる教員の資質、教養について「生徒教 養ノ要旨」(第一章)として第一条にて下記の六点につ 表1 1886年(明治19)「尋常師範学校、学科及其程度」文部省編『学制百年史 資料編』175頁 1973年10月1日刊
いてまとめられた。
一、忠君愛国ノ志気ニ富ムハ教員タルモノニ在リテ ハ殊ニ重要トス故ニ生徒ヲシテ平素忠孝ノ大義 ヲ明ニシ国民タルノ志操ヲ振起センコトヲ要ス 二、精神ヲ鍛錬シ徳操ヲ磨励スルハ教員タルモノニ
在リテハ殊ニ重要トス故ニ生徒ヲシテ平素意ヲ 此ニ用ヒシメンコトヲ要ス
三、規律ヲ守リ秩序ヲ保チ師表タルヘキ威儀ヲ具フ ルハ教員タル者ニ殊ニ重要トス故ニ生徒ヲシテ 平素長上ノ命令訓誨ニ服従シ起居言動ヲ正シク セシメンコトヲ要ス
四、教授ハ教員タルヘキ者ニ適切ニシテ小学校令及 ヒ小学校令施行規則ノ旨趣ニ副ハンコトヲ旨ト スヘシ
五、教授ハ常ニ其ノ方法ニ注意シ生徒ヲシテ業ヲ受 クル際教授ノ方法ヲ会得セシメンコトヲ務ムヘ シ
六、学習ノ方法ハ偏ニ教授ノミニ馮ラシムヘキモノ ニアラス故ニ生徒ヲシテ常ニ自ラ学識ヲ進メ技 芸ヲ研クノ習慣ヲ養ハシメンコトヲ務ムヘシ(8)
教員の資質と職業的能力についての基本的な考え方が 出ており、現在までも貫徹している。理念として「忠君 愛国」は国家理念として前提とされること、精神性と道
徳性の強調、規律と秩序への服従と法令遵守、教授方法 の会得、学習手法として自発的な学識形成と技芸を研く ことを求めている。理念としての忠君愛国と道徳の精神 性の形成と職業的能力としての教授力の双方の形成が
1900年代初頭において既に教員資質として明確にされ、
求められることとなった。
2.3.三重県女子師範学校学則の内容
1904(明治37)年4月1日、三重県令第28号により
「三重県女子師範学校学則」が成立し、その後1907(明 治
40
)年に学則改正され、翌年4
月1
日から施行された。その内容は文部省が
1904
年4
月17
日文部省令12
号により 公布した「師範学校規程」に則して改正されたものであ る。「師範学校規程」では第四条で本科第一部の修業年 限は男女ともに四ヶ年であったが、本科第二部は男子は 一ヶ年、女子は二ヶ年又は一ヶ年とされた。又女子に課 される学科目については第七条にて修身、教育、国語及 漢文、歴史、地理、数学、博物、物理及化学、家事、裁 縫、習字、図画、手工、音楽、体操とされ英語は随意科 目とされた。本科第二部の女子の学科目は修身、教育、国語及漢文、数学、博物、物理及化学、裁縫、図画、手 工、音楽、体操とされ、二ヶ年の修業年限の場合は地理、
歴史が加えられ、英語は随意科目とされた。第五十九条 にて学資、第六十一条において卒業後の服務規程などが 定められた。
二 毎 週 時 数 六
二 二 三 二 四
一 三
二 三
三 一
一 二 四
二 二 三 二 二 四
一 三
二 三
三 一
一 四 三
二 一
二 一 二 二 四 一 三
二
三 三 一
二 三 九 二 二
四 二 三 二
一 二
三二
修
身
教 育ニ 関 ス ル勅 語 生 徒心 得 道 徳ノ 要 領 作 法 国
語 講 読・ 文 法
・作 文 漢 文 講 読 日 本歴 史 日 本地 理 算 術代 数 縫
方裁 方 繕 方等 楷 書︑ 行 書
植 物 植 物ノ 実 験
︑標 本 採 取保 存 法 人 体 図
画 写 生画 臨 画 考案 画 幾 何画 黒 板上 ノ 練 習 手 工 竹 細工 編 動 造花 楽
典 基 本練 習 歌 曲︵ 単 音 唱歌
︶ 普 通体 操 遊 戯
教 育 ニ関 ス ル 勅語 ノ 復 習戊 申 詔 書 道 徳 ノ要 領 作 法 国
語 講 読
・作 文 漢 文 講 読 日 本 歴史 外 国 歴史
算 術 代数 幾 何 物
理
︑化 学 物 理
︑化 学 ノ 実験 行
書
︑草 書 平 仮 名黒 板 上 ノ練 習
心 理 外
国 地理
縫 方
︑裁 方
︑ 繕方 等
人 体 動 物 動 物 ノ実 験 標 本 採取 保 存 法 図
画 写 生 画臨 画 考 案画 幾 何 画 黒 板 上ノ 練 習 手 工 編 物 造花 粘 土 石 膏 細工 小 学 校手 工 楽 典 基 本 練習 単 音 唱 歌 歌 曲 二 部 輪 唱歌 複 音 唱 歌 楽 器 普 通 体操
遊 戯
教育 ニ 関 スル 勅 語 及戊 申 詔 書ノ 復 習 道徳 ノ 要 領 倫理 学 ノ 一斑 論理 教育 ノ 理 論 教授 法 保育 法 国語 講読
・ 作 文 小学 校 国 語読 本 ノ 講読 小学 校 ニ 於ケ ル 国 語教 授 法 漢文 講読 外国 歴 史 小学 校 ニ 於ケ ル 日 本歴 史 教 授法 算術 代 数 幾何 小学 校 ニ 於ケ ル 算 術教 授 法
自然 地 理 人文 地 理 小学 校 ニ 於ケ ル 地 理教 授 法 物理
︑ 化 学 物理
︑ 化 学ノ 実 験 小学 校 ニ 於ケ ル 理 科教 授 法 草書
平 仮 名 黒板 上 ノ 練習
小学 校 ニ 於ケ ル 書 方教 授 法
縫方
︑ 裁 方︑ 繕 方 等 小学 校 ニ 於ケ ル 裁 縫 教授 法
衣︑ 食
︑ 住︑ 実 習
鉱物 鉱物 ノ 実 験︑ 標 本 採集 保 存 法 博物 通 論 小学 校 ニ 於ケ ル 理 科教 授 法 図画
写生 画 考 案画
幾何 画 黒板 上 ノ 練習
小学 校 ニ 於ケ ル 図 画教 授 法 手工 小学 校 手 工
簡易 木 金 細工 小学 校 ニ 於ケ ル 手 工教 授 法 楽典
基本 練 習 単 音唱 歌 二 部輪 唱 歌 歌曲 二 部重 音 唱 歌
三 部輪 唱 歌 三 部重 音 唱 歌
楽器 小学 校 ニ 於ケ ル 唱 歌 教授 法 普通 体 操 遊戯
小学 校 ニ 於ケ ル 体 操教 授 法
教師 ノ 心 得
小学 校 ニ 於ケ ル 修 身教 授 法 我国 民 道 徳ノ 特 質 法制 ノ 大 要
近世 教 育 史 学校 管 理 法 教育 制 度 学校 衛 生 教育 実 習 国語 講演
︑ 作 文 漢文 講読 算術
代 数 幾何 物理
︑ 化 学 物理
︑ 化 学ノ 実 験 養老
︑ 看 病︑ 育 児
︑ 家事 経 済 実習 縫方 裁 方 繕方 等 小学 校 ニ 於ケ ル 裁 縫 教授 法 図画
写生 画 考 案画 黒板 上 ノ 練習 手工 簡易 木 金 細工 楽典
基本 練 習 単 音唱 歌 二 部輪 唱 歌 歌曲
二 部重 音 唱 歌 三 部輪 唱 歌 三 部重 音 唱 歌 小 学校 教 材
楽器 普通 体 操 遊戯 小学 校 ニ 於ケ ル 体 操教 授 法
学 科 目
第 一 学 年
毎 週 時 数
第 二 学 年
毎 週 時 数
第 三 学 年
毎 週 時 数
第 四 学 年
教
育
国 語 及 漢 文 歴
史
地
理
数
学
博
物
物 理 及 化 学 家
事
裁
縫
習
字
図
画
手
工
音
楽
体
操
計
本 科 第 一 部 学 科 課 程 及 毎 週 教 授 時 数 配 当 表
{ { {
表2 三重県女子師範学校 本科第一部学科課程と教授時数
三重県史編さん室所蔵『大正三年 三重県女子師範学校一覧』
59〜61頁より引用(大正3年10月31日刊)
三重県女子師範学校では本科第一部の学科課程と毎週 教授時数は別表(
2
)とされ、本科第二部は別表(3
) とされた。本科第一部の学科目は修身、教育、国語及漢 文、歴史、地理、数学、博物、物理及化学、家事、裁縫、習字、図画手工、音楽、体操とされ、図画と手工が一科 目とされ、随意科目の英語は開設されていない。教授時 間数の多い科目は教育と国語及漢文と裁縫であり、平均 すると週31時間である。本科第二部の学科目は修身、
教育、国語及漢文、数学、博物物理及化学、裁縫、図画 手工、音楽、体操とされた。三重県は本科第二部は一ヶ 年とされたことにより、歴史と地理が開設されず、随意 の英語も開設されなかった。また博物、物理、化学が一 科目とされて週三時数となったこと、国語及漢文の週三 時数というのはかなりの削減である。本科第二部の「教 育」の学科をみると心理は週二時数、論理、教育ノ原理、
教授法及び保育法、近世教育史、教育制度、学校管理法、
学校衛生、歴史地理教授法を併せて七時数、教育実習は 六時数であり、本科第二部が中等学校修了後の一年間に 教職のための学科目を集中して修得させる学科課程であ ることがわかる。
定員は
160
人とされ一学年一学級として40
人編成とさ れた。入学試験は予選試験と選定試験の二回で、郡役所 で予選試験を行い、そこで合格したものは女子師範学校 で再び試験をされた。試験科目は修身・国語・算術・歴 史・地理・理科・裁縫であり、選定試験に合格したもの を四ヶ月間仮入学させ、身体・品行・学力を審査して適切と判定された者が合格とされ入学が許可された。入学 後の課程修了と卒業試験は平素の成績考査によるとあ る。成績は各学科目の平均六点以上が合格とされた。ま た、すべての生徒は寄宿寮に入寮させる全寮制度である。
学資は食費、被服費、雑費(修理費、浴湯費、療養費、
衛生費、修学旅行費、日用雑貨費)として一ヶ月四円給 与された。講習科は尋常小学校准教員、後に本科正教員 を養成することを目的として設置されたが、修業期間は 准教員の場合は三ヶ月以上一年以内、本科正教員の場合 は二ヶ年とされた。(9)
県内には当初高等女学校が津と四日市の二校しかなか ったことから二部生の募集はされなかった。しかし
1910(明治43)年2月22日に三重県令第15号により学則
改正により本科二部生の入学定数は40人とされて募集 がなされた。このように本科第一部と第二部の双方をもつ師範学校 制度はこの時期に教養教育と職業教育という両面を同時 にもつことでほぼ確立をみた。
3.三重県女子師範学校の実際と女性教員
3.1.女子師範学校の実際
三重県において最初に師範学校に女子生徒が入学した のは『三重県教育史』によれば
1978
(明治11
)年に1
人 入学し在学したとされる。三重県は1876年に新三重県 が発足するまでは度会県と旧三重県にわかれていた。度 会県には1874
(明治7
)年に度会県師範学校が宮崎文庫 に設置され、1876
年には山田師範学校と改称され、同 年12月に「伊勢暴動」により焼失した。旧三重県では1875(明治8)師範有造学校が津藩校有造館跡に設立さ
れ1876
年には津師範学校と名称変更され、この津師範 学校は「伊勢暴動」の被害を受けなかった。1877
年1
月12日に山田の師範学校は再建されず、津に合併されて
三重県師範学校として発足した。この創設間もない三重 県師範学校に1877
に女生徒1
人が入学した。『文部省第 六年報』に小学師範学校生徒数として男175
人、女1
人 と報告がされている。(10)別表(4)は明治年間の三重県の師範学校数と教員数 及び生徒数とその男女比である。師範学校は男子と女子 の二校が設立されている。師範学校の教員数は男子が圧 倒的に多く女子教員は男子の十分の一ともいえるほど少 ない。生徒数は定数により差異がある。男子師範生徒数 に比べ、女子師範生徒数は半数ほどである。
1904
年に 創設されてより、女性教員は少ないとはいえ3
人から4
人へ、生徒数は1903年頃から115人に増加し、1911(明 治44)年には177人の入学生徒数を実現してきた。しか し卒業生徒数からみると同年の卒業生徒数はその三分の 一ほどの54
人であり、まだ確立とはいいきれない実態心 理
︑ 論 理
︑ 教 育 ノ 原 理
︑ 教 授 法 及 保 育 法
︑ 近 世 教 員 史
︑ 教 育 制 度 学 校 管 理 法
︑ 学 校 衛 生
︑ 歴 史 地 理 教 授 法 教 育 実 習 国 語 講 読
︑ 作 文
︑ 教 授 法
︵ 書 方 ヲ 含 ム
︶ 漢 文 講 読 博 物
︑ 実 験
︑ 標 本 採 集 調 整 法
︑ 教 授 法 物 理 化 学
︑ 実 験
︑ 教 授 法 図 画
︑ 写 生 画
︑ 臨 画
︑ 考 案 画
︑ 幾 何 画
︑ 黒 板 画
︑ 教 授 法 手 工
︑ 小 学 校 手 工
︑ 造 花
︑ 教 授 法 遊 戯
︑ 普 通 体 操
︑ 教 授 法
楽 典
︑ 単 音 唱 歌
︑ 復 音 唱 歌
︑ 楽 器 用 法
︑ 教 授 法
縫 ヒ 方
︑ 裁 チ 方
︑ 繕 ヒ 方
︑ 教 授 法
算 術
︑ 代 数
︑ 幾 何
︑ 教 授 法
道 徳 ノ 要 領
︑ 作 法
︑ 法 制 ノ 大 要
︑ 教 授 法
毎 週
時 数
学 科
目
教 授 事 項 修
身
教
育
国 語 及 漢 文 数
学
博
物
物 理 及 化 学 裁
縫
音
楽
体
操
計
図
画
手
工
二 七 六 三 三 三 二 三 二 三 三 四
本 科 第 二 部 学 科 課 程 及 毎 週 教 授 時 数 配 当 表
表3 三重県女子師範学校 本科第二部 学科課程と教授時数
三重県史編さん室所蔵『大正三年 三重県女子師範学校一覧』
61〜62頁より引用(大正3年10月31日刊)
であった。しかし講習科に入学し、卒業生徒数も多いこ とから、短期間に尋常小学校本科正教員資格を修得する 意欲をもった女子師範生が増えていること、小学校教員 となった女性も少しずつ増えたことが予測される。
そんな実態とはいえ、三重県師範学校草創期である
1882
(明治15
)年には女子生徒3
人が一年課程の初等師 範学科に入学している。名前も判明している。吉田とみ(津)、青木ふゆ(度会郡)、長谷川ひさ(山口県)であ る。吉田とみは卒業後に東京の女子師範学校に進学した とある。他の二人についての詳細は不明である。(11)
また師範学校には入学していないが草創期に欠かせな い女性教員として出身小学校で初代校長として村人から 敬愛されている人物が出ている。度会県第五大区の出雲 村本郷学校の女性教員根本貞路(てる)である。根本貞 路については後述する。(12)
別表(5)は1904(明治37)年の三重県女子師範学校 創設時の教職員陣容である。まず学校長生駒恭人が着任 した。生駒は兵庫県出身の元士族であり、東京師範学校
小 学 師 範 学 科 を1875( 明 治
8)6月 に 卒 業 し て い る 。 1885(明治18)年3年16日に無試験で免許資格を取得
し、担当学科目は師範学校の「教育」である。1884
年2
月に東京師範学校七等書記に就任して、その後三重県女 子師範学校に着任したのである。2年6ヶ月後の1906(明治39)年9月1日に死去してしまった。(13)生駒恭人 急死に伴い同年
9
月25
日に秋鹿見橘が着任した。二代目の学校長、秋鹿見橘は静岡県出身の元士族であ り、高等師範学校文学科を1891(明治24)年4月に卒業 している。また同時に同年4月1日に検定外で学科を限 らずに師範学校・中学校・高等女学校の教員資格を取得 している。そして
1903
(明治36
)年に三重県立第三中 学校(阿山郡上野町)の学校長として着任したばかりで ある。急遽三重県女子師範学校長として三年後に転任し てきた。この秋鹿も1907
(明治40
)6
月14
日には転出し てしまい、三重県女子師範学校に在任した期間は僅か九 ヶ月であった。(14)創設年度に着任した教職員は別表(5)にあるように 総人数は
24
人であった。その内訳は学校医(嘱託)は1
人制で松木彦吉が着任したが二ヶ月で転任し柴田原二郎 に交替した。書記は2人で五十嵐善三郎、松井殖が任じ た。いずれも元士族である。教員は嘱託教員
4
人、教諭兼舎監3
人、助教諭心得1
人、教員雇1
人、教諭兼主事とあるのは学校長急死にと表5 三重県女子師範学校創設時教職員
〔1904(明治37)年〕
生駒恭人 △ 松木彦吉 柴田原二郎 恒川鉄之助 草川よし 石崎とく 田総百合之助 阿竹安次郎 駒木根りう 田上なを 西尾家平 宇野ちぎ 池田義郎 関米吉 山本熊次郎 辻幸一郎 香川實 △ 三宅ます 徳田柳太郎 草川熊次郎 吉田貞 鹿児島マツヲ 五十嵐善三郎 松井殖
M37・3・19
〃37・4・19
〃37・5・1
〃37・3・31 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 4・1 〃 3・31 〃 5・2 〃 3・31 〃 9・2 〃 3・31 〃 〃 〃 7・21 〃 4・19 〃 7・21 〃 3・14 〃 5・21
2・6 0・2 2・5 0・6 〃 0・9 1・1 1・9 2・0 2・11 3・2 3・7 3・3 3・8 3・10 4・0 3・10 5・4 7・0 8・9 0・5 1・1 2・3 3・7
学校長 嘱託校医
〃
〃 教員
〃 〃 教諭兼舎監
嘱託教員 訓導 助教諭心得
教員雇 訓導 教諭兼舎監 〃 主事
教諭 訓導
〃 教諭 教諭兼舎監
訓導
〃 嘱託教員
訓導 書記
〃
兵庫・士 宮城・ 〃 三重・ 〃 愛知・ 〃 三重・平民 栃木・ 〃 山口・士 三重・ 〃 〃 ・ 〃 〃 ・平民 〃 ・ 〃 秋田・士 埼玉・〃
茨城・平民 三重・ 〃 〃 ・ 〃 大阪・ 〃 新潟・士 三重・ 〃 〃 ・平民 〃 ・士 福岡・ 〃 三重・ 〃 〃 ・ 〃 教職員氏名 着任年・月・日 在職年数 職 名 族 籍
年 月
△は現職中に死亡、Mは明治の省略記号 教員・教諭は女子師範、訓導は附属小教員を指す
出典:三重県史編さん室所蔵『大正三年 三重県女子師範学校一覧』
より作成
表4 三重県の師範学校数・教員数・生徒数
(1874〜1911)
明治 7(1874)
8(1875)
9(1876)
10(1877)
11(1878)
12(1879)
13(1880)
14(1881)
15(1882)
16(1883)
17(1884)
18(1885)
19(1886)
20(1887)
21(1888)
22(1889)
23(1890)
24(1891)
25(1892)
26(1893)
27(1894)
28(1895)
29(1896)
30(1897)
31(1898)
32(1899)
33(1900)
34(1901)
35(1902)
36(1903)
37(1904)
38(1905)
39(1906)
40(1907)
41(1908)
42(1909)
43(1910)
44(1911)
年 次
1 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 2 2 2 2 2 2 2 2
学校数 教 員 生 徒
生 徒
講習科 3
10 12 8 8 8 9 8 12 11 12 13 16 9 16 19 18 12 16 13 15 17 17 19 20 21 20 24 22 25 28 29 29 38 39 37 37 37
90 120 141 92 176 82 75 72 91 102 129 140 84 86 115 116 136 118 122 111 116 121 106 114 153 151 150 240 302 386 418 453 401 450 451 453 498 529
90 120 141 92 175 82 75 72 88 102 129 140 84 86 115 116 136 118 122 111 116 121 106 114 153 151 150 200 222 271 304 339 281 290 333 333 358 352
1
− 3
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
−
− 40 80 115 114 114 120 160 118 120 140 177
31 62 59 53
31 30 70 82 74 222 97 109 77 40 68 30 22
… 10 12 8 8 8 9 8
…
… 12 13
…
…
…
…
…
…
…
…
… 17 17 19 20 21 20 22 19 21 25
…
…
… 36 33 33 32
…
−
−
…
…
−
−
…
…
…
…
…
…
…
…
…
−
−
−
−
− 2 3 4 3
…
…
… 3 4 4 5
計 男 女 計 男 女
『三重県史』別編・統計(1989年3月31日刊)484頁より引用・作成