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CHAPTER6 戦時性暴力とどう向き合うか

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戦時性暴力とどう向き合うか 6

──グアテマラ民衆法廷の取り組み──

柴田修子[大阪経済大学]

問題の所在

戦時性暴力という言葉が使われるようになったのは,1990年代以降のこ とである。この言葉は単に戦闘時に行使される性暴力を意味するのではな い。そこには,戦争行為主体である国家による制度的暴力であるという含 意があり,責任の所在を個人のみならず構造のなかでとらえようとする意 図がある。戦争における性暴力そのものは,現代に特有の現象ではない。

しかしその解釈をめぐって,単なる個人的な欲望から制度的暴力へと変化 してきた背景には,現実からの働きかけがある。それは性暴力に関する国 際法上の定義を明確にする取り組みであると同時に,言説として,戦時性 暴力がなぜ起きるのかに対する理解が深まる過程でもあった。その結果,

性暴力の必罰化へ向けた国際的な流れができつつある。とりわけ国際刑事 裁判所の設立と,国際刑事裁判所規程に性暴力が人道に反する罪と明記さ れたことは,大きな成果であった。一方,国際刑事裁判所は設立以前の事 例を裁くものではなく,癒されることのないまま過去の傷を抱える被害者 もいる。

刑事訴追による加害者の懲罰は,被害者がトラウマから抜け出すための 重要なプロセスであるのは言うまでもない。しかし,被害者にとっての

「正義」とは加害者懲罰のみにとどまるものではない。中満によれば正義 の概念にはいくつかの側面があり「被害者のニーズに配慮した広範な「正

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義」を追求しなければならないという考え方は,近年の紛争後の平和構 築・和解をめぐる議論において,専門家の間では主流になりつつある」と いう(中満 2008:249)。また国際法を人権の観点から論じる阿部は,国 際刑事法廷の本質的意義は①逸脱行為によって動揺した規範の妥当性の回 復,②被害者の尊厳の回復に資すること,③「記憶の暗殺」あるいは「歴 史の修正」の阻止,④復讐の連鎖を絶つこと,のつに集約されると述べ ている(阿部 2010:214-215)。

司法プロセスによる懲罰や国家による補償が困難なとき,犯罪事実の告 発や被害者の尊厳回復に資するための場として,民衆法廷が一定の役割を 果たしてきた。たとえばベトナム戦争時に行われたラッセル法廷は反戦運 動の高揚につながり,東京女性国際戦犯法廷は戦時性暴力に対する国際的 関心を高め,被害者の尊厳回復の一助となった。本章ではその事例研究と して,グアテマラで行われた戦時性暴力に対する民衆法廷を分析する。ま ず節で戦時性暴力をめぐる国際的な動きおよび言説の変遷をたどり,

節でグアテマラ内戦の状況を概観する。さらに節で「女性への戦時性暴 力に対する民衆法廷」の経緯を紹介し,節でその意義を考察したい。

戦時性暴力をめぐる動き

──個人の問題から制度的暴力へ──

(ઃ) 国際法の枠組みと言説

戦争において性暴力が行使されてきたのは,新しい現象ではない。しか しそれが処罰されるべき重大な罪であると認識されるようになったのは,

比較的最近のことである。そこには戦争と性暴力をめぐる議論の深化と,

暴力を人道に対する罪として位置づけようとする国際的な機運があった。

本項では,そのつの側面から戦時性暴力がどのようにとらえられてきた かをみていきたい。

戦争における性暴力を最初に規制したのは1907年のハーグ陸戦条約であ

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る。これは戦時における人道問題を扱った最初の条約であり,国際人道法 の基礎となっている。性暴力については第46条で「家ノ名誉及権利ハコレ ヲ尊重スヘシ」(大沼編 2007:634)として,家の名誉を毀損する行為と しての強姦を禁じた。この規定は女性の保護が「家の名誉」と不可分であ るという観念に基づいており,個人の権利として確立したものではなかっ た。第二次世界大戦後,国連を中心に新たな国際法の枠組み作りが進めら れ,1949年にジュネーブ諸条約が採択された。第条約27条で「女子は,

その名誉に対する侵害,特に強かん,強制売いんその他あらゆる種類のわ いせつ行為から特別に保護しなければならない」と定められた(大沼編 2007:692)。

一方1960年代以降フェミニズム運動の興隆とともに,女性の権利保護を 求める声が強まっていった。1976年から85年までを「国連女性の10年」と 定められ,1975年にメキシコシティで世界初の女性会議が開かれたのをは じめ,1979年には女性差別撤廃条約が採択されるなど,女性の人権状況を 改善するための取り組みが行われていった。その結果,性をめぐる権利も 個人の人格権としてとらえられるようになった。性暴力という観点では,

1993年の第48回国連総会で「女性に対する暴力の撤廃に関する宣言」が採 択された。1979年の条約では暴力に関する条項がなかったが,93年宣言で は家庭,一般社会,国家というつの場における暴力を定義し,その撤廃 に各国が取り組むことを義務づけた。1995年の北京女性会議で採択された

「行動綱領」では戦時性暴力に言及し,戦争・武力紛争下での性暴力は戦 争犯罪であり,人道に反する罪であると宣言された。また1993年,世界人 権会議では武力紛争下の性暴力が女性の人権問題として取り上げられ,国 連人権委員会に「暴力の特別報告者」を設置することが決定された。これ を受けて1996年「クマラスワミ報告」,1998年には「マクドゥーガル報告」

が提出された。なかでもマクドゥーガル報告は,戦時性暴力を国際法の下 で訴追するための枠組みを提唱しており,必罰化に向けて大きな流れを 作った。

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国際的な動きとともに,性暴力をめぐる言説においても,戦時性暴力の 問題が取り上げられるようになっていく。戦争と性暴力の関係性を考察し た初期の代表的なものとして,1976年に発表されたブラウンミラーの著作 がある(ブラウンミラー 2000)。彼女は性暴力が戦犯法廷のなかで副次的 にしか扱われてこなかった歴史を批判し,軍隊の特徴である男性性がいか に暴力を生み出すか,そして戦争という非日常のなかでその暴力がどのよ うに許容されていくかを明らかにした。彼女にとって戦時性暴力は男性性 の究極の表現に他ならない。「どのような組織や体制においても,男が女 から引き離され “銃” という力を付加されれば,その力がすべての女に向 かって振り下ろされるのは当然のなりゆきである。なぜならば戦争で女が 強姦されるのは,その女が敵を象徴しているからではなく,彼女が女であ るからであり,女であるがゆえに敵となるからなのだ」(ブラウンミラー 2000:77-78)。彼女の論によれば,男性は女性を支配下に置きたいという 潜在的な欲望をもっている。戦争という非日常が,押さえ込んでいたはず の欲望をあらわにし,それを遂げる口実を与えるのである。

一方,リアドンは1985年に発表した著作のなかで「家父長制社会では,

人は暴力と権威主義──それにうまく対処するか,それを押しつけるか

──を仕込まれる」と述べる(リアドン 1988:69)。彼女によれば,力に よる支配をその本質として備える家父長制社会において,性暴力が享受さ れるのは自明のことですらある。なぜなら家父長制とは暴力が社会関係の 最終的決定者であり,公衆秩序の構造は力によって支えられる社会だから である。レイプの本質が力と暴力によって人々に従属と従順を強いること である以上,戦争に際してそれが行使されるのは何の矛盾もないこととし てとらえられる。家父長制は,男性に攻撃性を,女性に従順を教え込み,

その男女間の基本的関係に基づいて社会が成立する。暴力による脅しと従 属という関係は戦争の論理そのものであり,性暴力は戦争システムの究極 的な隠喩なのである(リアドン 1988:72)。

戦争と性暴力の問題を男性性との関係でとらえているという意味で,リ

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アドンはブラウンミラーと共通しているが,ブラウンミラーが男性性を個 人の欲望の発露という観点からとらえているのに対し,リアドンはこれを 家父長制という社会構造と結びつけて論じている。彼女にとって本質的な 問題は男らしさの誇示ではなく,そうふるまうよう仕向ける社会構造にあ る。性暴力は男性が欲望を発散する個人的行為にとどまるのではない。む しろ問うべきなのは,「他者に対して暴力を用いたいという根源的願い」

を「早くからの訓練と社会化の継続によって条件付ける」社会構造そのも のなのである。

狭義の戦争を扱ったものではないが,ラテンアメリカの軍事政権という 暴力状況における性暴力を分析したのが,ブンスターである(Buns- ter-Burotto 1986)。彼女の分析でも,性暴力の根幹にあるのは男性性の 問題である。ラテンアメリカに根強い文化規範として,男性優位を示すマ チスモと女性の存在価値を母性に求めるマリアニスモがある。マリアニス モは聖母マリアに連なる母という役割を付与することで女性を半神格化す る一方,男性への従順を正当化する。軍政は,カトリックの影響や歴史的 過程を経て社会に内在化したこうした価値観を利用し,女性を性的に痛め つけることで,彼女自身のアイデンティティ,女性・人間としての尊厳を 奪い去ってきた。それを実行したのは,男性性を解放された「ありふれた 男」ではなく,心理学や「洗練された」拷問方法の訓練を受けた専門家た ちである。性暴力は,過剰な性欲にかられた一部の軍人や警官の行きすぎ た行為ではなく,政府に反抗的とみなした女性および反抗的な男性の家族 である女性に向けて行われた組織的かつ制度的な暴力だった。彼女が明ら かにしたのは,性暴力が必ずしも個人的行為ではないという事実である。

そこで追及されるべきは個人の責任のみではなく,それを指揮した国家そ のものである。

シンシア・エンローは,戦時におけるレイプの背後にある政治性に着目 することで,「男はしょせん男だ」式の説明による免責のパラドックスか ら抜け出すべきだと論じている(エンロー 2006)。彼女は①男性兵士に

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「充分に利用可能な」軍事化された売買春が供給されないために起こると 言われる「娯楽的レイプ」,②不安に陥った国家を景気づける道具として の「国家安全保障レイプ」,③明白な戦争手段としての「組織的な大量レ イプ」のつの観点から分析し,軍事作戦のなかに組み込まれた管理され たレイプに目を向ける必要があると指摘している(エンロー 2006:65)。

戦争につきものの逸脱行為として軽視されてきた戦時性暴力は,フェミ ニズムの視点から照射することで男性性・家父長制に内在する本質的な問 題であることが明らかにされた。戦争にひそむ男制主義をあばき,これま で副次的にしか扱われてこなかった戦時性暴力の重大性を明らかにしたと いう意味で,ブラウンミラーやリアドンの功績は大きい。その一方で,女 性の権利のために闘ってきた経緯から男─女の二項対立が強調されている 面は否めず,その帰結は過剰な個人の欲望の発露という解釈であった。そ の後,軍政や内戦期の実態調査を通じて性暴力を国家との関係から再考す るブンスターらの研究によって,戦時性暴力は国家による制度的暴力とし て捉えなおされるようになった。

(઄) 必罰化に向けて

これまでみてきたように,戦争における性暴力を規制する国際的枠組み は20世紀初頭から存在していた。しかしながら現実には,国際軍事裁判の なかで性暴力が重要視されることはなく不処罰が続いた。これについてブ) ラウンミラーは,強姦が国際法上禁じられているにもかかわらず軍事裁判 のなかで副次的にしか扱われてこなかったのは,男性優位主義思想のもと

「戦争につきものの行為」として許容されてきたからだと強く批判してい る。一方,国際犯罪としての性暴力を論じた建石は,「国際人道法違反に 関する国際的な普遍的管轄権の存在していない状況では,他国の人道法違 反に対する法的な介入は不可能であった」とし,実際に裁く「場」の不在 が根本的な問題であったことを指摘している(建石 2008:267)。ブラウ ンミラーの指摘する性暴力をめぐる解釈に介在するジェンダーバイアスお

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よび建石の指摘する「場」の不在が,必罰化を困難にしていたと考えられ る。

戦時性暴力必罰化に向けた国際的な取り組みがなされるようになったの は,1990年代に入ってからのことである。ひとつには先に述べたように女 性の人権に対する意識が高まるとともに,暴力を裁くことの重要性が認識 されるようになってきたことに加え,旧ユーゴスラビア内戦やルワンダ大 虐殺における激しい性暴力の実態が明らかになったことで,国際的な気運 が高まったのである。「(虐殺のあいだ)レイプがなかったほうが例外で あった」と国連報告が出されるほどの暴力状況に国際社会は震撼し,1993 年旧ユーゴスラビアに,翌年ルワンダに国際刑事裁判所が設立された。ど ちらも強姦を「人道に対する罪」に含めており,処罰の対象とした。1998 年ルワンダ法廷において元タバ市市長ポール・アカイエスに対し有罪判決 が下された。市警察および憲兵を指揮下に置く立場だった彼は,ツチの女 性たちに対する組織的な強姦や殺害を誘発,奨励し,拷問に直接関与した 罪に問われたのである。この判決はつの点で画期的なものであった。ひ とつには,国際刑事裁判において強姦の定義を行ったことである。この定 義は旧ユーゴにも適用され,性暴力に関して複数の有罪判決が出された。

もうひとつは強姦をジェノサイドの罪としたことである。強姦がツチの女 性にのみ向けられたことに着目し,①父系社会における異なる民族集団の 子の誕生を意図,②トラウマによりその後の出産を阻止したというつの 観点から,ジェノサイド条約の「集団内における出生を防げることを意図 する処置」に相当すると解釈した(建石 2008:278)。

戦争犯罪を裁く「場」の設置は,1998年の国連外交会議で国際刑事裁判 所ローマ規程条約が採択されたことで実現した。2002年に条約が発効し,

2003年には重大な国際犯罪を行った個人を裁く常設機関としてオランダの ハーグに国際刑事裁判所が設置された。裁判所の管轄はジェノサイド,人 道に反する罪,戦争犯罪,侵略罪である。性暴力については第条人道に 反する罪のなかで「強姦,性的奴隷,強制売春,強制妊娠,強制不妊,ま

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たはそれらと同等に重大なその他のあらゆる形態の性的暴力」と規定して いる(大沼編 2007:353)。またアカイエス判決以後,強姦をジェノサイ ドの罪として裁くことも想定されるようになった。

このように1990年代以降性暴力は,国際社会のなかで裁かれるべき普遍 的犯罪という認識が高まりつつある。2000年には国連安全保障理事会が

「女性と平和・安全保障に関する国連安全保障理事会決議」(1325)を採択 し,女性に対する戦争の影響および平和構築への女性の役割が明記された。

さらに2008年に採択された「紛争状態における文民に対する性暴力に関す る決議」(1820)では武力紛争における強姦および他の形態の性暴力が戦 争犯罪,人道に対する罪またはジェノサイドの罪に結びつく行為であると 定義し,その対処のため国際社会が断固たる態度をとることが強調された。

(અ) 正義実現の手段としての民衆法廷

戦時性暴力の必罰化へ向けた議論の形成に寄与したのが,日本軍「従軍 慰安婦」をめぐる問題である。1980年代から徐々に明らかにされつつあっ たその存在は,1991年,金学順が初めて名乗り出たことから注目を浴びる ことになった。彼女を嚆矢として多くの女性たちが証言を行い,実態の解 明が進むようになった。1996年には「暴力の特別報告者」クマラスワミが 国連人権委員会に付属文書「戦時下軍隊・性奴隷制問題に関する朝鮮民主 主義人民共和国,大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」を提 出,日本軍性奴隷制が国際法違反にあたることを認め,日本政府がその法 的責任をとること,被害者に対して賠償を行うこと,責任者の処罰などを 勧告した。日本政府は当初公的関与を一切否定していたが,国連人権委員 会その他の機関で問題提起され,公聴会が行われるなど国際的な注目が集 まると,一定程度の関与を認めて遺憾の意を表した。そして1998年にマク ドゥーガル報告が提出され,日本軍「慰安婦」問題が国際法上の犯罪であ ることをあらためて確認した上で,日本政府に対して責任者処罰と被害者 への国家賠償を行うための具体的な方策が勧告された(マクドゥーガル

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1998)。

しかし実際には,補償問題はほとんど進展しなかった。1991年以降日本 各地で起こされた日本政府に対する損害賠償請求の訴訟は,そのほとんど が被害者である原告の敗訴に終わった。1995年,政府は被害者女性への賠 償のためアジア女性基金を設立したが,法的責任を回避したため被害者自 身からの激しい拒絶にあって頓挫した。一方国際刑事裁判所は,規程発効 後の犯罪のみを扱うため従軍慰安婦問題を裁くことはできない。こうした 状況を打開するために企画されたのが,女性国際戦犯法廷の開催である。

1997年に東京で開催された「戦争と女性への暴力」国際会議の参加者が中 心となって結成されたVAWW-NET JAPANが提案したものであり,慰 安婦問題を追い続けてきたジャーナリストの松井やよりが代表を務めた。

この裁判は,ベトナム戦争中の1967年,バートランド・ラッセルの提唱 によって開催された,アメリカおよびその同盟国の戦争犯罪を裁くための

「ラッセル法廷」に倣った民衆法廷である。民衆法廷とは市民による市民 のための法廷であり,国家や国連などの国際機関が設置した正式なもので はないため,法的強制力はない。しかしラッセル法廷の意義は法的裁きを 下すことではなく,戦争犯罪を告発することで国際的な反戦運動を高揚す ることにあったとされる(古田 2000:206)。また,なぜ従軍慰安婦問題 について民衆法廷を開催するのかについて松井は,戦争犯罪を裁く目的を,

①真相究明,②補償,③処罰の三本柱からなるとした上で,一部の軍事資 料しか公開されず,日本政府として戦犯処罰が行われたことのないなかで,

民事訴訟が次々と敗訴する状況はつの柱のどれも手詰まりであることを 示しており,高齢化する被害者女性たちの思いに応えるためには民間によ る法廷しか手段がなかったと語っている(松井 2000)。

法廷は,2000年12月日から12日まで東京で行われた。日本軍性奴隷制 の犯罪性を明らかにし加害者の責任を問うことと,戦時性暴力の不処罰を 止め再発を防ぐことを世界に訴えるというつの目的をもっており,法廷 の進め方は,韓国など被害国側の要望で刑事裁判に近いものにしたという

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(松井 2000:113)旧ユーゴおよびルワンダの法廷に携わった国際法の専 門家を裁判官や検事として迎え,被害者による証言および膨大な文書,ビ デオ等の証拠物件による事実認定を行った。その結果,軍の一部として慰 安所が組織的に設置されたことなど,日本が当時批准していた条約に対す る違反があったことを認め,陸海軍の大元帥であった天皇裕仁にコマンド 責任があったとして有罪が言い渡された。また日本国家に責任があるとし て,責任者処罰や賠償に関して12項目からなる勧告が出された。先に述べ) たように判決には法的拘束力はなく,日本政府に対する12項目の勧告はい まも実現していない。国際戦犯法廷の目的は補償を含めた正義の実現であ り,その意味でこの運動は法廷開催によって終わるものではない。法廷を きっかけにアクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」の開 設や,「慰安婦」問題解決を求める意見書採択の自治体への働きかけなど,

地道な努力が続けられている。)

民衆法廷の大きな成果は,被害者の尊厳回復にとって不可欠なプロセス につながったことにある。被害者にとっての苦痛は,過酷な体験のみにあ るのではない。社会規範から外れた者としてその後も疎外や差別に苦しめ られ,沈黙を強いられてきたことにもあるからである。法廷はその事実を 認め次のように認定した。「証言を通じて一貫して語られていたのは,性 暴力の被害者である女性たちの苦痛が,自らの地域社会に帰ったときに 人々から拒絶されることで一層ひどくなるということであった。その悲劇 の責任が彼女たち自身にあるとみなす性差別的態度の結果,恥辱に苦しみ,

沈黙を強いられてきた」(女性国際戦犯法廷検事団 2001:299)。公の場で 被害の認定がなされたのみならず,その被害が現在まで続いていると認め られることは,そこからの回復を目指す第一歩となる。証言者の人は

「法廷で日本政府に対して有罪が宣告された時,私たちは勝った,私たち を恥辱に陥れた犯罪者はとうとう裁かれたという思いで涙が自然とこみ上 げてきました」という感想を後に送ったという(西野 2001:52-53)。

また,女性国際戦犯法廷の意義は,それだけにはとどまらない。法廷の

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あいだに行われた「現代の紛争下の女性に対する犯罪」国際公聴会では,

東ティモールやアフガニスタン,コソボ,グアテマラなど世界各国から集 まった女性たちが,現在も続く戦時性暴力の被害を証言した。そしてその 経験が,民衆法廷の輪を広げることにつながったのである。以下に,グア テマラで行われた民衆法廷の事例を紹介する。

グアテマラにおける内戦の状況

(ઃ) グアテマラ内戦の経緯

グアテマラは中米に位置し,北をメキシコ,東をベリーズ,南をエルサ ルバドルおよびホンジュラスと国境を接している。国土面積は10万8,890 平方キロメートルと小さいが,カリブ海,太平洋に接し,熱帯雨林から山 岳高原地帯まで豊かな自然に恵まれた国である。人口は1,436万1,666人

(2010年)で,そのうち約40%(2002年)をマヤ系先住民が占めている

(Instituto Nacional de Estadística)。この国では1961年から武力紛争が始 まり,1996年に国連の仲介によって政府とゲリラの統一組織であるグアテ マラ民族革命連合(URNG)とのあいだで和平協定が結ばれるまで,36年 にわたって内戦が続いた。本項では内戦の経緯と特徴をまとめておきたい。

内戦の発端は,1940年代後半から50年代にかけて着手された一連の社会 改革の挫折にある。労働法制定に尽力したアレバロ大統領の後を受けて 1951年,大統領に就任したアルベンス・グスマンは,さらなる近代化を目 指して国の改革に着手した。だがその核となったのが大規模な農地改革で あり,米系企業ユナイテッド・フルーツ社の土地を国有化したため,米国 政府と関係が悪化した。1954年,米国政府の干渉でアルベンスは亡命を余 儀なくされ,グアテマラには保守的な親米政権が誕生した。これに反発し た若手将校グループが蜂起したことが,内戦の発端である。

彼らはその後キューバ革命の影響を受けた共産主義グループと合体し,

山中に拠点を置いてゲリラ活動を開始した。東西冷戦構造の下,イデオロ

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ギー対立として内戦が始まったという意味で他のラテンアメリカ諸国と共 通しているが,ほかの国々と異なる点は,政府軍対ゲリラの構図がしだい に先住民へのジェノサイドへと発展したことにある。1970年代から先住民 運動が高揚し,政府にとって先住民が安全保障上の脅威とみなされていた 上,70年代半ばからゲリラが先住民村落に支持基盤を浸透させていったこ とが,ジェノサイドへつながったとされる。(狐崎 2006;Le Bot 1995:

111-133)。政府はゲリラと先住民を同一視し,先住民運動のリーダーや宗 教的リーダーを選別的に殺害するとともに,ゲリラと関係がある可能性が ある村落を破壊した(Asturias 2010:9)。ジェノサイドは1980年代前半 に集中しており,なかでも1982年に政権の座についたリオス・モント将軍 は徹底した弾圧を行ったとされる(レミー 2000:21-23)。内戦によって 626の先住民村落が破壊され,20万人以上の人々が殺害,あるいは行方不 明になった(レミー 2000:5)。内戦終結後の調査によって,こうした暴 力の93%が国家機関によるものであり,犠牲者の90%は非戦闘員で,その うち83%が先住民であったことが明らかにされた(Comisión para el Esclaracimiento Histórico)。

グアテマラの内戦の特徴は,激しい暴力性である。政府軍は拷問や遺体 への辱めを通じて人々の恐怖心を煽り,反政府運動への参加を抑止しよう とした。内戦中に行方不明になった人々の多くが殺害され秘密墓地に捨て られていたことが,和平合意後の調査で判明し,現在遺体の発掘作業が進 められている。多くの場合遺体には激しい傷跡があったことが,調査に よって明らかになっている(Melgar 2010;モスコソ 2009)。個人に対す る迫害を行う一方で,政府軍はゲリラへの参加や支援を行っているとおぼ しき先住民村落を定期的に攻撃した。たとえば筆者が聞き取りを行った ラ・モンタニャ村では,アナ・イムル・デ・レオンさんが次のように証言 している。

「82年月日,歳のとき政府軍が来て,家も畑も全部焼かれた。

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残った人は壕を掘って隠れたり,死んだ人のあいだに横たわって死んだ ふりをして助かった。回目に軍が来て父がつかまり,パラシュトゥト の教会に連れて行かれ日間食べ物も与えられず拷問を受けた。その後 家族とともに別の村に逃れたが,そこにも軍が来てはゲリラではないか と疑って乱暴した。そんなことが年くらい続いた」。)

また同じ村の別の女性は姉を政府軍に連れて行かれ,自分は着のみ着の ままで逃げ出したが,水がなかったために死体が浮いた川の水を飲まなく てはならなかったという。叔母が目の前で暴行されたり,家に閉じ込めら れて火をつけられるのを目撃したという証言もあった。

ラ・モンタニャ村は,キチェ県パラシュトゥトの町から時間ほど山を 登ったところにある。中心部をもつ村ではなく,山を切り開いて畑を作り,

60家族ほどが定住してコミュニティをなしていた。徒歩以外にアクセスの 方法はなく,ゲリラとの関係が疑われて80年代初頭からたびたび政府軍の 襲撃を受けた。82年以降は村に住むことも許されなくなり,町に強制移住 させられたという。

これらの暴力は,政府軍兵士や警察によってのみ行使されていたのでは ない。1980年代に入ると,政府軍は先住民村落に自警団を組織し,成人男 性を強制的に加入させた。公式な数値は残されていないが,15歳から60歳 までの男性約90万人が組み込まれたという推計もある(レミー 2000:

117)。自警団員は軍の指導のもとで公民教育と軍事訓練を受け,猟銃や山 刀,棍棒などで武装し,パトロールを行った。自警団への加入を拒めばゲ リラと疑われたため,事実上強制的に参加せざるを得なかったが,なかに は,軍事訓練を重ねるにつれしだいに積極的に参加する者も現れた。その 過程で性暴力が行使されたことが,内戦終結後の調査で徐々に明らかに なってきた。

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(઄) 真相究明委員会とレミー報告書

マチスモ/マリアニスモの規範が強いグアテマラでは,性暴力を公に語 ることはタブーである。したがって内戦中の性暴力被害のみに焦点を当て た調査は存在しないが,人権侵害の実態調査の一環として性暴力に触れて いるものはつある。ひとつは1996年の和平合意を受けて設置された真相 究明委員会の調査である。1960年代から80年代にかけて権威主義体制を経 験したラテンアメリカ諸国では,民主化の過程のなかで,過去の著しい人 権侵害を調査するため真相究明委員会が設置された。1990年代以降には,

国際紛争や内戦後の戦後処理の過程で真相究明委員会を設置することが和 平の構築と正義の実現にとって不可欠であるという認識が世界的に広まり,

ラテンアメリカのみならず世界各地で真相究明委員会が設置されるように なった。こうした世界的潮流のなか,グアテマラにおいても和平交渉の際,

国連,政府,ゲリラ組織の合意で真相究明委員会の設置が取り決められた のである。その目的は客観性,公平性をもって内戦中の人権侵害を調査・

記録することであり,国連によってドイツ人法学者クリスチャン・トム シャット,グアテマラの法学者アルフレド・バルセルス・トホ,先住民問 題の専門家オティリア・ルス・デ・コティの人が委員に任命された。

1997年に調査を開始し,99年月『グアテマラ:沈黙の記憶』と題した,

「内戦の起源的要因」「人権侵害および暴力行為」「内戦の影響と結果」の 部からなる報告書を提出した。

もうひとつは,カトリック教会が中心となって1995年に始められた「歴 史的記憶の回復プロジェクト」(通称レミー)である。レミーは国民的和) 解を目指す活動であり,なによりもまず被害者の視点から人権侵害の実態 を明らかにすることが重視された。そのため被害者に近しい人々が聞き取 り調査を担うものとし,被害にあった村々で募った志願者に対して,メン タルケアやインタビュー技法などの訓練を行った。半年間の養成期間を経 て「アニマドーレス」(勇気付ける人)となった人々が行った年間の調 査によって,6,494件の証言が集められ,1998年,巻からなる報告書が

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発表された(レミー 2000:13)。1992年度ノーベル平和賞受賞者のリゴベ ルタ・メンチュウはこのつの報告書について,「つの報告書は内戦期 にグアテマラ軍が起こした犯罪行為の本質を記録している点で非常に重要 であり,先住民のコミュニティリーダーをインタビュアーに起用した「下 から」の歴史的記憶回復を目指すレミーと専門家による真相究明委員会の 調査は相互補完的なものである」と評価している(Burt and Rosen 1999:

6)。

真相究明委員会の報告のなかで性暴力は第部「人権侵害および暴力行 為」のなかの第巻第章に記述されている。この報告書によると,性暴 ) 力被害の実態解明は困難を極める作業だったという。他の人権侵害と異な り被害者自身にも責任が帰される傾向にあるため,よほどの信頼関係がな い限り進んで体験を語ることはないからである。(CEH:31,33)。また ほとんどの場合,被害者はほかの被害者と体験を共有する機会がなく,罪 の意識を抱いたまま孤立しているという問題がある(CEH:32)。さらに 事態を複雑にしていたのは,現在も加害者と被害者が同じ村に居住する ケースが少なくないことだった。後述するように,強姦の多くは自警団や 軍コミッショナーによって行われた。自警団は村の男性によって構成され たのであり,コミッショナーは農園主など地元の有力者が軍から委託を受 ける場合が多かった。彼らは和平合意後も同じ村に住み続けており,被害 者は報復を恐れて口を閉ざしたという(CEH:34)。そこで真相究明委員 会では,他の人権侵害につけ加えて語られる性暴力を丹念に拾い集めるこ とで,実態の解明に努めた。被害者本人だけでなく,同じ村の人や親戚の 証言も合わせることで,1,465件の証言を集めた(CEH:39)。

調査によれば,内戦における性暴力被害者の99%は女性であり,被害者 の88.7%は先住民であった(CEH:41)。性暴力の被害者はつねに女性と は限らず,また男女間に特定されるものではないことは世界の常識となり つつある。しかしながらグアテマラの場合,男の力を見せつける格好の機 会として利用されており,男性優位の社会構造に起因した暴力だったと真

(16)

相究明委員会は指摘している(CEH:46)。さらにその多くが先住民で あったことは,内戦がやがてジェノサイドへと変化していった過程と重 なっている。

グアテマラ内戦下の戦時性暴力を特徴づけるのは,加害者の多くが政府 軍およびその関係者だったという点である。調査の結果,加害者の89%は 政府軍,15.5%は軍が村人を組織して結成された自警団メンバー,11.9%

は軍によって任命された地元の有力者である軍コミッショナーであった

(CEH:44)。また,上官からの命令で参加を強制される兵士もいたとい) う証言が複数あることから,コマンド責任があることを明らかにした

(CEH:57,129)。これらの証言から,性暴力は戦時下における個人の行 き過ぎた逸脱行動で片付けられるものではなく,ゲリラ鎮圧のために政府 が用いた軍事戦略の一環として行使された暴力であると結論づけた

(CEH:2, 129)。

調査に伴う困難は,レミーにおいても見られた。「強姦は,つねに被害 者に罪と恥の意識がつきまとい,拷問や殺害のような他の人権犯罪と比べ て告発されにくいことに注意すべきである」と報告書のなかにあるとおり,

証言のなかで性暴力の被害者が確認されているのは92件149人であった

(レミー 2000:206)。しかし特定にはいたらないまでも,虐殺事件の 件 に件は女性への強姦が証言として語られており,実際には数値より多く の事件があったことが予測できるとしている。

レミーは性暴力には権力の誇示,勝利の表現,交換貨幣,戦利品という つの意味を象徴していると分析している。強姦された上に殺された場合 も多く,「『ゲリラ』だとの疑いが女性への暴力を常に正当化し,性暴力と 叛乱鎮圧の暴力がひとつに溶け合った」と指摘している(レミー 2000:

209)。そしてその上で,証言の分析だけで女性への暴力が軍事戦略の一環 だったと結論づけるのは難しいものの,状況や時期の違いにもかかわらず 軍の女性に対する扱いには共通性があることから,性暴力は大量虐殺戦略 の一部であったことは明らかだとしている(レミー 2000:210)。

(17)

女性への戦時性暴力に対する民衆法廷

(ઃ) 「戦時性暴力の被害者から変革の主体へ」プロジェクト)

「女性への戦時性暴力に対する民衆法廷」で原告団となった「戦時性暴 力の被害者から変革の主体へ」は2002年に結成された。直接のきっかけは,

2000年,東京で開催された女性国際戦犯法廷に参加し,公聴会で自らの被 害体験を証言したグアテマラの人権活動家ヨランダ・アギラルの発案によ る。彼女は世界各国から集まった被害者との交流のなかで,お互いの経験 を受け止め合いそれを告発に結びつけることの重要性を実感したという。

当時グアテマラでタブー視されていた戦時性暴力の被害を語り合う場を作 ることを呼びかけ,被害の実態調査の経験から同じ必要性を感じていた ECAP(Equipo de estudios comunitarios y acción psicosocial:共同体お よび社会心理行動研究グループ)とUNAMG(Unión Nacional de Mu- jeres Guatemaltecas:グアテマラ全国女性連合)がそれに賛同して,

2002年からウエウエテナンゴ,チマルテナンゴ,アルタ・ベラパス県で

「戦時性暴力の被害者から変革の主体へ」プロジェクトが始まった。) 最初に行ったのが,プロモーターの養成である。それぞれの地域で先住 民言語とスペイン語を話せる先住民女性たちを募集した。保健プロモー ターなどの活動経験がある女性たちにアンケート用紙を配布し,それに答 えてくれたなかから研修プログラムを受講する女性を探した。たとえばマ チルダの場合,もともと地域の保健プロモーターをしていたが,ECAPの アンケートに答えたことがきっかけで,研修を受けることになった。数カ 月の受講後,性暴力を受けた女性たちの話をたどって互助グループを作っ たという。同様にしてプロモーターとなった女性たちが戸別訪問しながら10) 希望者を募り,60人の女性が集まった。その後イサバル県が加わり,現在 110人が参加している。

プロジェクトの目的はつからなっていた。まず,被害者がお互いの体

(18)

験を共有する場を作ることである。各地で互助グループを作り,プロモー ターが連絡役を務めて月回グループミーティングを行っている。そこで 少しずつ体験を語り合い,つらい経験を共有することで,グアテマラの政 治社会コンテクストのなかで自らの出来事をとらえ直すようになっていっ たという。また体験を語り合うと同時に,壁画制作や紙粘土などのアート セラピーも行っている。つ目には性暴力が犯罪であるという社会的認識 を広めることである。ラジオ放送や「国際女性への暴力撤廃デー」である 11月25日のデモへの参加,壁画の公開などを通じて,性暴力に関する意識 を高めるキャンペーンを行ってきた。民衆法廷の直前には,性暴力が犯罪 であるというテレビCMも放映した。つ目は補償問題である。国家補償 プログラムの対象に性暴力を含めるための働きかけや,補償を受けるため の手続きのアドバイスなどを行ってきた。しかし実際にはこのプログラム11) で性暴力の補償を受けたケースはない。つ目が正義の実現手段としての 裁判である。

被害者にとって責任者の処罰,補償が重要であり,そのためには民衆法 廷より司法制度に基づく裁判が求められるのは言うまでもない。「変革の 主体へ」の女性たちも,当初は刑事訴追の可能性を検討したという。それ にもかかわらず民衆法廷を開いたのは,刑事訴追が非常に困難だったこと による。まず,免責の問題がある。グアテマラでは和平協定の際国民和解 法が成立し,内戦期の政治犯罪に対する免責が保障された。ジェノサイド と人道に対する罪に関しては免責の対象外とされたものの,責任者処罰が 進まないなか人道に対する罪で立件するのは非常に難しい。もうひとつに12) は,性暴力に対する社会的認識がある。性暴力は犠牲者に非が押し付けら れる唯一の犯罪である。被害者は自ら罪の意識を抱えたり,周りからの非 難を恐れて被害を明らかにすることを躊躇する場合が多い。マチスモ/マ リアニスモの規範が強いグアテマラでは,性暴力について語ること自体が タブーとされてきた。UNAMGの代表マヤ・アルバラドは雑誌のインタ ビューのなかで,「変革の主体」プロジェクトを設立したきっかけについ

(19)

て「戦時性暴力は事実としてあったにもかかわらず,内戦の実態調査で重 要視されてこなかった。それどころか犯罪として認識されていないことに 気づき,被害者のグループを作ることになった」と語っている(Mar- tínez 2010:4)。そして性暴力を「毎日のように起こるありふれたこと」

ととらえるのをやめ,犯罪であるという認識が社会に浸透する必要がある と指摘している。

こうした状況のなか,2007年頃から「変革の主体へ」の女性たちが中心 となり,女性国際戦犯法廷にならった民衆法廷を開催することが検討され 始めた。グループミーティングで女性国際戦犯法廷のビデオを見ながら勉 強会を重ねたという。2009年には先住民女性の全国組織であるCONAVI- GUA(Coordinadora Nacional de Viudas de Guatemala:連れ合いを奪わ れた女性の会),人権活動を行う女性弁護士の会であるMTM(Mujeres transformando el Mundo:世界を変える女性たち),フェミニズム系新聞 を発行するラ・クエルダ紙が加わり,2010年の開催に向けた準備委員会が 発足した。裁判の目的は,内戦中に戦闘手段のひとつとして性暴力が行使 されたという事実を明らかにし,再発防止に向けた勧告を国家に対して行 うことである。加害者処罰ではなく,性暴力の実態を明らかにし,それを 人道に対する罪と認定する国際的な流れのなかに位置づけることに焦点を 定めた。

「変革の主体へ」に参加する女性全員で原告団を結成し,グアテマラ国 家を被告とした。世界的に著名な法律の専門家を判事とし,女性たちの代 表による被害の証言,事実関係の確認を行うため心理学者や医学者からな るエキスパートの証言によって国家責任を追及することが目指された。グ13) アテマラ政府にも代表の出席を要請したが,これは実現しなかった。また 判事の人選も難航したため当初の予定を変更し,法律の専門家人を検事 に迎え,法律の専門家ではないものの,それぞれ性暴力の問題に携わって きた女性人を「名誉判事」とした。14)

国際的な認知度を高めるため各国大使館へ招待状が配られ,ノルウェー,

(20)

ドイツ,スイス,コスタリカ,フランス,スペイン大使が出席した。また 国際機関への働きかけも行われ,国連女性開発基金(United Nations De- velopment Fund for Women:UNIFEM)のグアテマラ代表アナ・カブ レラ,グアテマラ不処罰対策国際委員会(Comisión Internacional contra la Impunidad en Guatemala:CICIG)の委員長カルロス・カストレサナ,15) 女性国際戦犯法廷の顧問を務めたアリアン・ブルネ,コロンビアの先住民 組織「紛争状況下の女性の権利擁護同盟」代表のマルガリータ・イラモ,

ペルーの「解放無罪者協会」代表マルセリナ・コロ・シルバなどが出席し た。立会人にはロサリナ・トゥユク,マリア・トフをはじめとするグアテ マラの活動家に加え,コロンビア,スペイン,コスタリカ,カナダ,ノル ウェー,ペルー,メキシコ,日本からの参加者が務めた。

(઄) 民衆法廷当日

法廷は2010年月日と日の日間にわたって,グアテマラシティの 大学施設であるパラニンフォで行われた。初日はCONAVIGUAの代表で16) 国会議員を務めた経験があるロサリナ・トゥユクによる挨拶,検事および 名誉判事の紹介の後,被害者による証言が行われた。証言者は人である。

「変革の主体へ」に参加する女性たちを代表し,イサバル県から人,チ マルテナンゴ県から人,キチェ県から人,ウエウエテナンゴ県人の 計人が証言を行った。ほかの女性たちは傍聴席で裁判を見守るものの証 言席にはつかず,あらかじめ収録された証言ビデオが一部紹介された。彼 女たちに加え,姉を奪われたグアテマラシティの女性,元ゲリラ女性がそ れぞれ証言を行った。さらに現在も続く紛争の告発として,村の立ち退き をめぐって2007年に起きた性暴力の実態に関するビデオ証言が紹介された。

東京女性国際戦犯法廷との大きな違いは,匿名性を重視した点である。

証言者の身元がわからないよう,壇上に設置された証言席は席全体が白い 布で覆われ,シルエットのみ映るようになっている。通訳者と証人が着席 し,先住民言語で語る場合には通訳者がスペイン語に逐語訳していった。

(21)

その際出身県以外の個人情報は一切語らず,自分の身に起きたことのみが 証言された。匿名性は証言の信憑性を下げることにつながるが,アルバラ17) ドによれば証言を匿名にした理由は,被害者保護のためであったという

(Martínez 2010:5)。加害者が軍コミッショナーや自警団メンバーだっ た場合,被害者と同じ村に住み続けていることもある。また家族に打ち明 けないまま参加している女性もいることから,名前の公表は行わないこと となった。

原告として集まった女性たちは,夫の理解を得て参加している場合や,

夫が行方不明である,暴行によって妊娠した子どもを育てるシングルマ ザーであるなど,その生活環境はさまざまである。たとえば2009年に来日 して講演を行った女性の場合,15歳で結婚し,夫とウエウエテナンゴ県の 村で暮らし始めた。当時その村では,カトリック教会の団体や外国の NGOによる農村開発支援のプロジェクトや先住民の権利講座などが行わ れており,彼女も参加していたという。1980年代に入ると村はゲリラとの 関係を疑われ,政府軍による弾圧を受けるようになる。彼女の夫も,プラ ンテーションに出稼ぎに行ったことがゲリラへの入隊ではないかと疑われ て軍に拉致され,そのまま行方不明になった。結婚年目,歳と歳の 子どもに加えお腹にもう一人妊娠中の出来事だったという。一方,プロ モーターの訪問を受けて年前から参加している女性は,村では嫌がらせ を受けることがあるものの,13人の子どもに恵まれ,夫の協力を得て参加 しているという。こうした状況の違いがありながら共通しているのは,内 戦によって平和な暮らしが壊されていったことへの強い憤りである。内戦 以前は貧しいながらも平穏な暮らしがあった。しかし戦争が始まり突然軍 隊がやってくることで,村の平和が壊されていった。自分の身に起こった こと以外にも,ひどい暴力をいくつも目撃している。これは証言を行った 女性たちに共通する語りである。

少し長くなるが,ここで証言の一部を紹介したい。

(22)

「私の証言を行いたいと思います。内戦の前は幸せに暮らしていました。

貧しい生活だったけど自由があり,家族がいて,耕したり歩いたり好き なことをすることができました。でも戦争が始まって軍隊がやってきて から,生活は大きく変わってしまいました。もう私たちの村で平和に暮 らすことができなくなってしまったのです。みんなおびえていました。

男たちは山に逃げなければならなくなってしまいました。夜家にいて,

軍隊が来たら殺されてしまうからです。家にいても山にいても,どこに いても殺されるのです。

私は性暴力を受けた女性です。ある日薪を探しに行ったとき軍隊に出 くわし,200人の軍に捕まったのです。次々に私を乱暴しました。夫は ゲリラだと言われました。連れていた赤ん坊とは引き離されて乱暴され,

ぶたれて,もし誰かに話したら殺してやると脅かされました。村では拷 問が行われ,10人の男性が殺されました。軍は妊娠中の女性を強姦し,

お腹から子どもを出して殺しました。起きたことの痛みはすべてこの体 が覚えています。夫は誘拐され,人の子どもと残されました。朝 時 に軍がやってきて二度と帰ってこなかったのです。

外国の人たちは,どうかこの苦しみを伝えてください。残念なことに 私たち先住民は尊敬されていません。起きたことを知ってもらうために,

民衆法廷を開く必要があったのです。この傷跡が癒されることは決して ありません。和平合意は履行されていないのです」。

証言がすべて「客観的事実」であるかは,証明するのが難しい。たとえ ば軍は200人いたのか,村で殺害された人の正確な人数など,現時点では 確認できないからである。また証言に立った女性たちは「私の体験は私 人ではありません,何千人もの女性たちが同じ目にあっているのです」と 語り,大勢の被害者のなかの人として語っていることを強調する。グ ループミーティングで体験を共有してきたことによる「集合的記憶」が入 る余地があった可能性はある。しかしながら法廷では自分の身に起きたこ18)

(23)

とを忠実に語るという姿勢は確かであり,悲惨な経験を語ることによって それを歴史に刻み,グアテマラの未来に「主体的に関与」しようという強 い意志がそこにある。

法廷日目は,専門家証言が行われた。軍事戦略,ジェンダー,心理学,

医学,人類学,文化,文書分析など,さまざまな分野からなる人の専門 家によって証言が行われた。前述のように,今回の民衆法廷は原告の安全19) を考え,匿名性を重視している。したがって個別の事例の証拠収集は行わ れず,内戦というコンテクストのなかで性暴力をどうとらえるか,責任の 所在はどこにあるのかを明らかにすることに焦点が置かれた。現在進めら れている内戦に関する各分野での研究の成果を集め,性暴力が行われた事 実および指揮系統を解明することが目指されたのである。証言はまず軍事 戦略の観点から行われ,軍事機密文書に記載された内容から,軍が場所や 方法を精密に決定し,戦略的に先住民虐殺を行ったことが指摘された。ま た,近年見つかった警察記録文書から,軍の命令系統や警察との関連が 徐々に明らかになりつつあることが報告された。大統領参謀本部の命令で20) 警察が逮捕監禁を行っていたことを示す文書や,家族が捜索願いを出して 分後に捜索不可能の決定が出されるなど,行方不明者の捜索は不必要で あると理解していたことが明らかな証拠が存在するという。さらに和平合 意後進められている秘密墓地(行方不明者が殺害された後埋められていた 場所)の発掘の成果として,遺体に残された性的暴行の痕跡について法医 学的観点から説明が行われた。

性暴力が被害者に与える影響については,つの点が指摘された。第一 に自責の念にかられることである。理不尽な暴力にさらされたにもかかわ らず,被害者は自分に落ち度があったのではないかという罪の意識にさい なまれ,自らを汚い存在と感じて生きがいを失っていく。それを乗り越え るには,安心できる場を作り体験を語れるようになることがまず求められ る。その上で正義を実現することで,自己肯定感を取り戻すことが重要で あり,民衆法廷はそのための第一歩であることが強調された。第二には共

(24)

同体からの排除である。イルマ・バスケスによれば性暴力を受けた女性は,

共同体でそれまで担ってきた役割を奪われ,居場所を失う。これはマヤ文 化の恥意識と結びついている。共同体がその成員である女性を守れなかっ たという自責の念にかられ,その憤りのはけ口が被害者に向けられるため であるという。政府軍による先住民村落への暴力は,征服以来の構造的な 暴力を彷彿とさせ,先住民共同体にとっては大きな恥となる。その意識を 一身に負わされるのが被害女性であり,負の連鎖から抜け出すには,正義 の実現が不可欠であると指摘された。

専門家証言の後,休憩をはさんで検事の論告が行われ,名誉判事によっ て判決文が読み上げられた。判決では,戦時性暴力の事実を認め,それが グアテマラ刑法および国際法に対する重大な違反であったとした上で,公 務員ならびに警察,軍によって実施されたそれらの行為の責任は政府にあ ると宣告した。そして今日にいたるまで免責・不処罰の状態が保証されて21) おり,性暴力が現在も続いていることを指摘し,政府に対し15項目からな る勧告を行った。その内容は,内戦期の人権侵害に対する免責の解除,国 際刑事裁判所設置条約の批准,国家およびその関係機関の情報開示,被害 者に対する補償の実行,再発防止に向けた政策作りの必要性などである。

最終判決には35人の立会人が署名し,満場一致の拍手のなか閉廷した。

戦時性暴力とどう向き合うか

──民衆法廷の意義──

民衆法廷は市民が作る裁判であり,刑事裁判と異なり判決に法的拘束力 はない。そのため単なる模擬裁判として軽視する声もある。しかし女性国 際戦犯法廷で判事を務めたクリスティーヌ・チンキンは次のように述べて いる。「民衆法廷は,『法は市民社会の道具』である,政府が単独で行動し ていようと,他の組織と共同で行動していようと,法は政府だけのもので はない,という解釈を前提としている。したがって,国家が正義を保障す

(25)

る責務を遂行しない場合には,市民社会は乗り出すことができるし,そう するべきなのである」(チンキン 2001:63)。また国際法の観点から,重 要な先例として今後国際裁判で引用される可能性はあるという指摘もある

(戸塚 2001:157)。

2000年の女性国際戦犯法廷が,判事と検事の厳密な分離,アミカス・

キュリエの設置など国際刑事裁判所規程にのっとって行われたのに対し,

グアテマラの民衆法廷は人的・時間的制約から法律の専門家が充分に揃っ ていたとはいえない。また証言が匿名で行われており,それぞれの事例に ついて証拠が提出されたわけではない。その意味で,裁判としての効果は 限定的であり,重要な先例と認められる可能性は低いだろう。この法廷の 意義は,グアテマラ史上初めて市民社会が戦時性暴力の問題と向き合った ことにある。マスメディアの反応は大きく,プレンサ・リブレ紙をはじめ,

エル・ペリオディコ紙,ラ・オラ紙など有力な新聞は写真入りで今回の法 廷を報道した。その内容は「これは,暴行され性奴隷化された女性たちに 背を向けてきた体制に対し,正義をもとめるための新たな試みである」

(エル・ペリオディコ紙月13日),「法廷は性暴力が人道に対する重大な 罪であるという国民の議論を呼び起こし,二度と繰り返されることのない よう正義の実現,補償を目指す」(ラ・オラ紙月日),「女性への暴力 に目を向けさせた」(エル・ペリオディコ紙月 日),「女性たちが不処 罰をやめることを訴えた」(プレンサ・リブレ紙月日)など,好意的 なものであった。また政府系の新聞とされるディアリオ・デ・セントロア メリカ紙も「軍およびいくつかのケースではゲリラによる女性への暴行は,

公式な法廷で扱われてこなかったものであり,女性たちが沈黙をやぶっ た」と報道した(月日)。さらにその後も複数の新聞が論評欄で署名 記事を掲載した。その論調は,現在も続く女性に対する暴力の批判,この 法廷が不処罰を終わらせるための早急かつ有効な手段であると被害者補償 を訴えていることへの評価などであった。これまで語られることのなかっ た問題に社会的関心が高められたのは,法廷の成果といえるだろう。

(26)

政府は今回の法廷に対し,一切応えていない。しかし2006年,国連と政 府の合意に基づいて2008年に設立されたグアテマラ不処罰対策国際委員会 の委員長カルロス・カストレサナは法廷を傍聴し,「これらのケースは民 衆法廷ではなく刑事法廷の場で裁かれるべきであり,刑事訴追のシステム に組み入れることが必要不可欠である」とのコメントを発表している

(ラ・オラ紙月日,ディアリオ・デ・セントロアメリカ紙月日)。

また,マヤ・アルバラドはインタビューのなかで法廷の意義について「こ の法廷は公式な裁判への道を開くためのものであり,可能なケースを裁判 にもっていきたい」と語っている(Martínez 2010:5)法廷終了後,同 様のことを複数の関係者が語っており,この問題に対する社会的意識が高 まれば実現する可能性があるだろう。

一方,原告の女性たちにとっても自らの体験を語ったことの意味は大き い。原告の人は「変革の主体へ」に参加するようになってからの心の変 化について次のように語っている。「内戦中に性暴力を受けた女性たちは たくさんいて,それぞれつらい思いをしてきました。誰にもいえず悩んで きましたが,参加しているほかの女性たちと打ち解けあい,信頼関係がで きて初めて胸のうちを明かすことができました。心に抱えていた痛みを話 すことで人生の大きな転換点となり,新しい解決の糸口を見つけることが できました」。彼女は自らの体験をグアテマラの政治・社会コンテクスト22) のなかに置くことで,これまで否定してきた自分の価値を見直すことがで きたという。法廷終了後,原告の人は「自分の身に起きたことを語れる 日が来るとは思っていなかった。こうしてみんなで話せる場を持ててほん とうによかった。自分だけがつらい目にあったと思い込んでいたけれど,

そうではなくもっと苦しんでいる人もいる。以前は怯えてばかりだった。

でも闘っていかなければいけないとわかった」と語った。加害者の処罰や 補償については,課題が多く残されている。しかし性暴力に対する社会的 関心を高め,被害者の尊厳回復につながったという意味で,民衆法廷の果 たした役割は大きい。

(27)

) 第一次世界大戦においては,戦時性暴力の存在が確認されたものの性犯罪が具体 的に追及されることはなかった(芝 2000:47)。第二次世界大戦後のニュルンベル グ裁判や東京裁判においても同様である。ジェノサイドを歴史的,法学的観点から 論じた前田は,ナチス継続裁判やBC級裁判などで性暴力が一部裁かれたものの,

注目を集めることはなかったと指摘している(前田 2002:117)。

) 女性国際戦犯法廷をめぐっては,『諸君!』や『正論』などを中心に激しい批判 が展開された。主な批判としては,事実認定に対する見解の相違,弁護人不在の裁 判の不公平性などである(アミカス・キュリエがいたことについては言及していな い)。その論調は,弁護人もつけない裁判ごっこであるとして,民衆法廷そのもの を否定するものであった。たとえば秦郁彦「カンガルー裁判『女性国際戦犯法廷』

見聞記」『諸君!』2001年月号など参照。

) 源淳子によれば,2010年10月現在,31の自治体で採択されている(2010年10月17 日シンポジウム 女性国際戦犯法廷から10年──平和構築のために)。

) 2010年月10日筆者聴取。

) レミーの報告書は2000年に抄訳の形で日本語版が出版されている。日本を代表す る中米研究者たちによる解説と翻訳で,グアテマラ内戦を知る貴重な資料である。

) 真 相 究 明 委 員 会 の 報 告 書 は,Comisión para el Esclaracimiento Histórico

(CEH)のウェブページですべて見ることができる。本章ではそのうちCapítulo II, vol.3 La violencia sexual contra la mujerを参照した。文章には番号がつけられて おり,本章での( )内の数字はその番号である。

) 足すと100%を超えるのは,複数のグループがかかわる場合があるためである。

) このプロジェクトは2009年,松井やより賞を受賞し,それを記念してECAPコー ディネーターと原告女性によるスピーキングツアーが日本で行われた。筆者は民衆 法廷に傍聴人として参加し,その前後数日間を原告団の女性たちと同じ宿舎で行動 をともにして,話を聞く機会を得た。本節はスピーキングツアー,筆者が聴取した 話および,ECAP,UNAMGのコーディネーターたちへのインタビューから構成し ている。

) ECAPは内戦期にさまざまな形で被害を受けた人々の心理サポートを目的として 1994年設立された。拷問の犠牲者や家族を亡くした人々への支援,秘密墓地発掘支 援などを行っている。UNAMGは1980年に設立された団体であり,UNRGの女性組 織である。

10) プロモーターとは,地域の保健衛生プロジェクトなどを推進する専門職である。

(28)

専従の仕事として給与が支払われる。ECAPの場合年間の研修プログラムを終え ると修了証明書が出されるという。

11) 国家補償プログラムは2003年に開始されたが,狐崎によれば政府の思惑や被害者 の利害対立などさまざまな問題に阻まれてほとんど機能していないという。詳しく は,狐崎(2009)。

12) 内戦期のジェノサイドの責任者であったリオス・モントは,現在も国会議員であ り,国会の人権委員会委員長も務めた。こうした状況が,人権問題を司法で裁くこ とをさらに困難にしている。

13) 当初判事には,米州人権委員会の判事を務めていたスサナ・ビジャラン,ピノ チェト訴追等で国際的に著名となったスペインの判事バルタサル・ガルソン,ノー ベル平和賞受賞者であるリゴベルタ・メンチュウなどが候補に挙げられていたが,

予算や時間的制約などに阻まれ実現しなかった。

14) 判決文は法廷前日に判事たちが集まり,検事が中心となって作成された。検事は スペイン人弁護士フアナ・バルマセダとグアテマラ人弁護士マリア・エウヘニア・

ソリスである。名誉判事はフジモリ政権下で性暴力被害を受けたグラディス・カナ レス,グアテマラで拘留中の女性への性的暴行で初めて有罪判決を勝ち取ったフア ナ・メンデス・ロドリゲス,ウガンダの活動家テディ・アティム,女性国際戦犯法 廷の参加者新川志保子が務めた。

15) CICIGは,犯罪検挙率がきわめて低いグアテマラの状況を改善するため,2006年 の国連と政府の合意に基づいて,2008年に発足した機関である。独自の捜査権を持 ち,委員長は国連によって任命される。

16) 当初は,1,500人収容規模がある国立劇場が内定されていたが,直前になって使 用許可がおりず,急遽パラニンフォに変更された。500人規模の会場は満席で,会 場に入りきれない人もいた。

17) 唯一の例外は,元ゲリラ女性の証言である。刑事告訴も視野に入れているとのこ とで,名前や被害にあった場所について詳細に語った。

18) 証言と「客観的事実」の関係をめぐっては,リゴベルタ・メンチュウとデヴィッ ド・ストールの論争が想起される。人類学者ブルゴスの聞き取りによって記された

『私の名はリゴベルタ・メンチュウ』はグアテマラ内戦の悲惨さを告発する書とし て世界的に有名になったが,後にストールがメンチュウの語りの一部に虚偽がある ことを明らかにした。メンチュウ自身細かい事実関係の誤りを認めた上で「私の村 の物語は私自身の物語でもある」として語ることのできない殺された人々の声を代 弁しているのだと反論した。複数の学識者が「集合的記憶」としてこれを擁護した。

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