• 検索結果がありません。

著者 石原 静子

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "著者 石原 静子"

Copied!
28
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

シンガポールとチベット : アジア二つの地域の夢 と現実(「民族と言語教育 : アジアを中心として」

プロジェクトチーム)

著者 石原 静子

雑誌名 東西南北

巻 2002

ページ 138‑164

発行年 2002‑03‑20

URL http://id.nii.ac.jp/1073/00003611/

(2)

当プロジエクトの目的と方法

チーム発足にあたって研究所に提出した計画書には︑

次のように書かれている︒ 表記のチーム名は︑和光大学総合文化研究所の共同研 究プロジェクトの一つで︑この報告書は所属メンバー教 員四名が二○○一年三月下旬にシンガポールで現地調査 した結果をまとめたものである︒このプロジェクトは二 ○○○年度にスタートした︑つまりは初年度の研究報告 だから︑まず研究目的・方法とその意味を簡単に述べ︑ シンガポールを対象に選んだ理由及び背景となる当地の 諸状況を記すことにする︒ lはじめに ﹁民族と言語教育lアジアを中心として﹂プロジエクトチーム○ シンガポールとチベット アジア二つの地域の夢と現実 石原静子・本署誉驚 1・シンガポールの場合

﹁研究目的l共通文化とマィノリティの教育という大

きなテーマを︑民族と言語問題について探求するために︑

問題の現状と各国︵地域︶での具体的とりくみ︵対策︶

を調査する︒

研究計画と方法l複数民族の言語問題が顕在化してい

る地域︵アジアを中心にして︶を選んで︑言語教育問題

の現状と歴史を調査する︒二○○○年度l民族と言語教

育問題の多様な状況を調査し把握する︒アジアの一地域

を選び︑現地調査を含む研究︒二○○一年度lもう一つ

の地域の調査︒二○○二年度1両地域の比較﹂

これは限られた枠内の要約的記述であるため︑少しこ

の研究が持つ意味について補足説明しよう︒

ある人間集団が︑その成員に共通な特有の言語を持ち

次世代に教え継ぐことは︑その集団の同一性を保ち進め

ノ38

(3)

る絆である︒したがってその営みは家族内での自然な母

語使用に始まり︑学校教育システムでの﹁国語﹂及び他

教科の母語による学習を通じて進行する︒しかし他集団

と接する場面では︑理解と親和を目指す友好的な言語相

互学習が生ずるとは限らず︑さまざまな負の現象も生じ

得る︒宗教の違いと同様に異言語は違和感・敵視を生み

得るし︑力ある側の他方への優越・征服となれば︑極端

な場合は相手集団言語の禁止︑自言語の強制によって当

民族の同一性圧殺に至る︑暴力の具ともなりかねない︒

二○世紀中葉︑第二次大戦終結と共に多くの植民地が

独立して︑このような悲劇は減じたといっていい︒しか

しなお複数民族から成る国や地域では紛争・内戦が多発

しているし︑少数民族が多数者の国家内にある場合には︑

緊張が常在してともすれば深刻な事態に至りかねない︒

これらの地域は︑被植民歴が多く少数民族の並存するア

ジアに多い︒

他方でさらにグローバルに見ると︑その時々の世界状

況のなかで︑力ある民族の言語がおのずから弱中小国の

言語を侵食し︑それらの国の言語教育を左右する現象が

見られる︒実例はいうまでもなく二○世紀末近く︑英語

学習の急速な広がりであり︑日本でも一部で英語公用語

化論が起こった︒日本語自体も同じ頃︑周辺アジア諸国

で学習熱を生じ︑これが日本経済の浮沈と共に消長した

ことが︑第二の例である︒ このように歴史のなかの民族のいわば運命が︑その言

語及び言語学習と共振する事実は︑言語が本来人類に特

有な思考と交流の具体物であり︑その民族の体験と世界

観を凝縮しているからにほかならない︒逆に言うと︑民

族と言語教育をその尖鋭な場面で研究することによって︑

歴史を読み解き人間の今後を考える契機とすることがで

きよう︒

そこで本プロジェクトの具体的研究方法は︑上記の通

り﹁複数民族の言語問題が顕在化している地域をアジア

を中心に選び⁝⁝現地調査する﹂ことになる︒三年計画

だから次年度は﹁もう一つの地域の調査﹂をし︑最終年

は﹁両地域の比較﹂だが当然︑日本の現状も含めて課題

を深く考えることを含む︒

シンガポールを選んだ理由と当地諸状況

周知の通りシンガポールはマレー半島南端の小さな島

国で︑地下資源乏しく人口過密︑第二次大戦後英植民地

から独立したが︑貿易・金融等ビジネス立国で今やアジ

ア屈指の豊かな国となった︒中国人が多数でマレー系イ

ンド系を少数民族とする移民国家だが︑英語を公用語の

筆頭つまり第一言語とするバイリンガル教育システムを

作っている︒上述第一の状況つまり資源に乏しい小国で

戦後富裕化は日本と似ているが︑第二の民族条件は大き

く違っていて︑しかしそれだけに英語への独得な対処が

ノ 3 9 − −

(4)

興味を引く︒第三に︑第二次大戦の初期数年間日本が占

領支配したことがあって︑その現在への影響も知りたい︒

*I*ツー

シンガポールの歴史と現況について︑要点のみを記そ

中和

う︒国土は狭く日本で言えば淡路島程度︑現人口は約三

○○万人で︑うち中国人が七八%︑マレー人一四%︑イ

ンド人七%で︑残る一%がその他の在住民族である︒一

九世紀初めまでは人口少数の漁村だったのを英人ラッフ

ルズが貿易港としての将来に着目して︑オランダから主

権を譲り受けた︒植民地経営に必要な労働力として︑東︑

北︑西の三方から移民が集まり︑現在の比率に至った︒

日本は占領中に敵国だった中国人多数を殺し︑インド人

は優遇して対英独立戦を勧めた︒戦後マレーシア独立後

しばらくは同連邦の一部だったが︑人口構成︑資源・産

業等すべて異なるため︑連邦を脱して独立国となったの

が一九六五年︒リー・クァンュー︵李光耀︶率いる英国

留学経験者たちが︑かなり徹底した中央集権政府を樹立︑

貿易・ビジネスに力を入れて国を富ませる一方で︑高層

公共住宅を建てて国民の約九○%を住まわせ︑しかも民

族のすみ分け・対立を防ぐ混住政策を貫いた︒小国ゆえ

地方自治体はなく︑議会は一院制︑政党は複数あるがリ

ーらの人民行動党が結果的に一党独裁の形を続けている︒

言語教育の背景となる教育制度についても︑必要な箇

本4

所を略述しよう.六〜一二歳が初等教育で︑義務ではな

いが無償で就学率は一○○%近い︒一三〜一八歳が中等 教育︑その上に大学四〜六年︑大学院と続く形は大方の 先進国と同じだが︑特徴は数度にわたる全員試験でエリ ートを絞る一方︑各人の資質・能力に応じた教育を目指 すことである︒小学校四年の終わりに教師の評価と本 人・家族の希望とで三コースに分けるのが初回の振り分 けで︑英語を第一言語とするのは同じだが母語の扱いが 違う︒英語と同じ程に力を入れるEMlコース︑第二言 語扱いがEM2コース︑会話程度でいいのがEM3コー スで︑人数比率はこの順で一○︑七五︑一五%とする︒

小学校六年の終わりに初等学校卒業試験を全員に課し︑

改めて特別コース︵英・母両語重視︶︑快速コース︵英

第一︑母語第二扱い︶︑普通コース︵前同様だが技術教

科中心の技術コースを新設︶に三分する︒比率は一C︑

五○︑四○︵技術組はうち二○〜一五︶%とする︒四年

修了つまり一六歳時に普通教育終了試験GCEを課して

適性に応じた三度目の振り分け直しをし︑ポリテクニク

︵技術工専︶︑技術研修所︑あるいは職場へと進む普通コ

ースと︑大学進学を前提とする予備門コースとに分かれ

る︒予備学習二年後に後者だけ対象のGCE上級レベル

試験があって︑英語と小論文及び希望学部ごとの必要教

科三〜四科目が課される︒大学はシンガポール国立大学

ほかの三校がある︒

この項の最後に︑言語教育の背京として重要な︑言語

*5*6

に関するきまりを記す︒われわれには奇異に映るがシン *5太田勇﹁国語を使わない 国lシンガポールの言語環境﹂ 古今書院︑一九九四年 *6東照二﹁バイリンガリズ ムーニ言語併用はいかに可能

か﹂講談社︑二○○○年 *3綾部恒雄・石井米雄綱 ﹁もっと知りたいシンガポール﹂ 弘文堂︑一九九四年. *2田村慶子﹁頭脳国家シン ガポール﹂講談社︑一九九三年︒ *1小竹裕一﹁変貌するシン ガポールー︿豊かな社会﹀の 実現のなかで﹂勁草瞥房︑一九

九一年︒

*4*lと*3を参照︒

0

(5)

ガポールの国語はマレー語で︑もと一緒だったマレーシ

アとの関わりゆえという︵ついでだが時差その他共通の

きまりは多い︶︒公用語は英︑中︑マレー︑タミル︵イ

ンド系移民多数の出身地域︶の四語である︒中国語は︑

省ごとの方言が互いに通じにくいほど異なるため︑公用

は北京語つまり標準華語である︒日常生活でも方言をや

めてこれを使う運動を︑建国以来政府が主導していて︑

前述の混住政策は華人の出身地にも及ぶ︑つまり多数派

民族内部の融和をも政府は目指している︒

11現地小学校訪問調査と街で見た子どもたち

シンガポールには仏教︑イスラム︑ヒンズー︑キリス

ト教の各寺院があって︑それぞれ独得の建築や飾りが

街々で目を引く︒これも平和共存の一面といえるし︑寺

は洋の東西を問わず学校を兼ねた長い歴史を持つ︒そこ

で当地有力と思われる仏教寺院立の小学校を︑泊ったホ

テルと近いこともあって訪問先に選んだ︒

校訓校則を見︑校長と懇談

日本と違って派手な色使いの寺のすぐ隣り︑四角い四

階建ビルで︑﹁弥陀小学﹂と英・漢両字で書いた外壁の

大文字がなかったら︑学校とは分かるまい︒入ってすぐ

右手は講堂風のかなり広い建物で︑正面に大きな仏像が

鎮座し︑反対側の壁近くでは休み時間か男児数人が卓球 に興じていたから︑体育館も兼ねるらしい︒その先は講 堂とほぼ同程度の広さしかないコンクリート床の運動場 で︑一年生と見えるごく幼い子らが遊んでいた︒左奥は 食堂らしく長い卓と椅子が並ぶ室で︑奥に調理場調理人 が見えた︒やがて若い女の先生の一声で︑一年生たちは さっと教室への通路に集まり︑整列して腰を下ろした︒ 男女とも校名を縫いとりした制服で︑肌色顔つきは全員 中国系のようだ︒小さなペットボトルを皆が手にしてい て飲む子も多く︑あとでどの教室でも同様だった︒赤道 直下近くしかも乾季とあって︑この水分補給は随時公認 だそうだ︒

講堂の向かいの壁に︑校訓校則を書いた大きな板が掲

げてあり︑英・中両語併記である︒校訓は﹁慈・良・真﹂

などの四漢字と︑対応する四英単語とである︒校則の方

は十数項もあって︑後の方だが制服着用や髪の長さまで

規定しているのは︑日本の中学校あたりと似ている︒こ

の掲示板のすぐ横に階段があって﹁外来者進入禁止﹂と

あり︑教室への入口らしいから︑生徒たちは日々諸往き

来ごとにこれらを目にするしくみになっている︒

校長室に案内された︒ほっそり長身で色白の若々しい

女性なので︑ちょっと驚いた︒寺院立だから僧でなくて

も年輩の男性を︑何となく予想していたからだ︒あとで

聞いたら彼女は教歴三一年︑ここの校長になって三年の

大ベテランだそうで︑その割に若く見えるのにも驚いた︒

I 4 ノ ー

(6)

この小学校は生徒数六○○人︑仏教立の学校は全国に

あと小︑中各一校だけと意外に少ない︒キリスト教立が

一七校と多く︑別の意外である︒しかし教員の給料を含

め基本的な所要費用の九五%は国から出るし︑カリキュ

ラムや教科書等々すべて政府が決めるので︑公立とあま

り違わない︒独自費用である五%は仏教関係の教具教材

や行事等用だが︑月暇に全生徒が講堂に集まって仏前で

歌う︑土曜に独自の教科が組んである︑程度という︒寺

からはもっと宗教教育をと要望が来るが︑全国統一カリ

キュラムとの調整はなかなか困難とのこと︒新学年は一

月で二月まで︑一○週勉強したら七日の休みが入る三

学期制で︑全国共通の学事暦である︒

公立は︑もっと大きな生徒数二〜三○○○人の小学校

が多い︒ここは小じんまり︑しかし学力は高い方︑と校

長は胸を張った︒教員二三人で︑うち男性は一人だけと

聞いて驚いた︒公立も同様でせいぜい一○%というから︑

日本よりまた他のアジア諸国と比べて女教師率は著しく

高い︒女性に適職ゆえかと質問したら校長は︑今やIT

ビジネスに男性が多く向かうのが主因︑とあっさり答え

た︒寺院立でも教員の任命は政府で︑彼女もここへ転任

の際仏教徒だから違和感はなかった︑と話した︒仏教徒

家庭と限定してはいないが自然にその子弟が多く︑これ

も自然に漢族以外はいない︒﹁マレー系の子が来ても第二

言語としてマレー語を︑ここでは実際に教えられません 授業を見学︑生き生きと学ぶ子ら われわれの希望を快く受け入れて校長は︑気軽に各教 室に案内してくれた︒どの学年の教室でも生徒たちは生 き生きと熱心に学習しており︑なるほど若い女教師ばか りである︒一行が入るとどの室でも︑子どもたちは一斉 に立って英語の短い歌を斉唱し︑﹁グッドモーニング﹂

と礼をする︒あらゆる機会に英語使用を促すきまりの一 し﹂ともっともである︒転任前にいた公立校では諸民族入 りまじる多様さで︑こことの一番の違いだった︑と話す︒

授業はすべて英語で︑一年生もそうと聞いて驚いた︒

幼稚園から英語を教えるから大丈夫とのことで︑この国

の英語第一主義はかなり徹底しているようだ︒低学年の

子はまだ教室でも母語を使うことがあるが︑そんな時は

穏やかに︑﹁英語で話してごらん﹂と促すそうだ.教室

では専ら英語使用がきまりで︑休み時間や生徒同士は

英・華語半々のようだが︑一々答め立てはしない︒家に

帰れば半々や華語中心とか︑祖父母と同居なら省方言も

まじるのだから︑子どもたちは自然に相手次第で︑三語

を使い分けることになる︒週に二時間標準華語を学ぶ︒

例の三段にわたる統一試験はすべて英語で出題︑その一

部に華語︵マレー︑インド系は各々︶のテストがあるか

ら︑学年が進むほど英語使用が増え確かなものになって

いぐ︑︑少﹄いマフ︒

ノ42

(7)

っだろうが︑皆にこにこと動作も声も揃って楽しそうだ︒

三年生は算数の時間で︑四〜五人が黒板に並んで︑分

数の計算式を書いていた︒それぞれ分母の数字が違う三

項の加減算だから︑かなり複雑な約分を要する高度な計

算である︒本人たちはもちろん自席で見守る子らも︑真

剣そのもの・できれば生徒との対話を願い出て︑﹁算数を

好き?﹂﹁何の時間が好き?﹂に始まる一連の質問をし

たかったが︑この雰囲気では中断は無理︑とあきらめた︒

二年生はちょうど英語の時間で︑机ごとに薄手のテキ

ストがある︒そっとのぞくと英文で﹁リンゴは次のどれ

に属しますか﹂とあって︑﹁フルーツ︑野菜︑穀物⁝﹂

と並ぶ英単語から選ぶ式だ︒これも年齢にしては高級な

内容で︑科学を兼ねていたのかもしれない︒次の四年生

は机三〜四脚固めて何やらグループ討論中︒ここでも斉

唱のあとすぐ討論に戻ったから︑テーマ・内容をたずね

そびれた︒どのクラスも三○〜四○人見当で︑公立も含

め大体こんなものとのことだ︒

校長がやや誇らしげに案内した次の一室は︑パソコン

が人数分つまり四○台ほどズラリと並ぶ特別教室で︑ち

ょうど授業はしていなかった︒一年生から操作を学び始

める︑週二時間と決まっているが︑カリキュラムにどう

組むかは各校の工夫次第という︒全国の小学校に国が備

えつけて七〜八年になるそうだから︑日本より先進的と

いえる︒一隅に若い女性がいたので︑この教科専門の教 員かと質問したら︑答は否で︑全教員が自分のクラスを 指導できる︑と胸を張った︒だからいた人は個人指導徹 底のための助手らしく︑体制は整っているようだ︒音楽 室も見たがピアノと五線黒板以外はあまりそれらしくな く︑さっき校長室で﹁ブラスバンドなどクラブ活動も盛 んですよ﹂と写真を見せてくれたが︑大小の楽器類は別 室に収納だそうだ.

六年の教室では︑英語とパソコン両練習を兼ねたよう

な時間で︑そうと知らずに入ったから︑板書の英単語の

略字や変わった組み合わせにちょっととまどった︒各机

にあるテキストをのぞくと︑絵入りの英文でパソコン学

習のシーンが次々︑マンガ風の吹き出しつきでわかりや

すく書いてある︒ここも三〜四人組のグループ学習をし

ていて︑固めた机ごとにOHP装置があり︑答の出た組

は半透明の紙に決まった形の字を丁寧に書きこんでいた︒

やがて映写幕に投影して発表し合うそうで︑これら機材

は各教室にあるとのこと︑これも国のかなりな設備投資

である︒ 次は図書室で︑やや広く細長い室の半分が書棚群︑半

分は机と椅子が並ぶ︒中学年見当の子らが︑書棚の前に

立って本を捜す子︑本を持ってきて机に向かう子︑床に

座って本を囲んで小声で話し合うグループ︑とそれぞれ

に勉強していた︒最後の一室は幼稚園風に動物や花など

色とりどりの絵が壁を埋め︑絨毯敷きのリラックスでき

I43一一一一

(8)

校外学習や街でみかけた子どもたち

別の機会に街で見た子らの姿を︑書きとめておこう︒

一つは後述する歴史博物館での見聞である︒館の前に停

まったバスから小学校中学年位の女子ばかり三○人ほど

が︑ぞろぞろ降りるところで︑バスのボディに大きく校

名がある︒国立の大きな博物館で︑うち一室のジオラマ

シリーズで歴史勉強中の彼女たちとあとで出会った︒小

さな人形造りの各景は︑一九〜二○世紀のこの国の歴史

を一○二○年刻みで表現しており︑英華両語の説明が

ついている︒順に見て行って最後の二○番で︑少女たち

が景を囲む形で床に座りこみ︑若い女教師の講義を聴い

ているのに出くわしたのだ︒さりげなく近づくと︑かな

り早口だし距離があるので言葉の一々は聞きとれないが︑

英語なことは確かだ︒ケース内を指しながら熱心に話し

て時々︑少女たちは一斉に笑い声を立てる︒楽しげなタ

イミングが︑暗くした室内に師弟の快い交わりの波を広 そうな部屋だ︒何かと思ったら︑英語学習の不得手な遅 進児たちのための補習室だった︒専門に教える女性がい て︑カウンセリングを兼ねると話した︒どの学年にも該 当の子はいるが︑最大でも一○人のクラスで教える少人 数の個人指導式である︒バイリンガル教育にどうしても 伴うだろう不具合を︑こうしてケアする行き届きぶりに 感心した︒ げるようだった︒彼女らが去ってから見たら二○番は︑ 一九六五年シンガポールが独立国となって最初の議会風 景で︑中央に立つのはリー・クァンュー人形であろう︒ なるほど先生が熱をこめて話し︑少女たちも和したはず だ︒彼女たちの国の現代史がスタートした輝かしい日の 物語なのだから︒

同じ博物館の別の室で︑やはり先生引率の少し年かさ︑

高学年風の一団と出会った︒やはりオール女子で制服も

同じ︑色だけ違ってこちらは青︑さっき見たのは白だか

ら︑同じ学校の別学年が揃って歴史勉強に来て︑それぞ

れ担任が指導していたのだろう︒やはり生き生き楽しそ

うに学んでいて︑さわやかな風が重々しい空間を吹き抜

けるようだった︒

この時以外でも街のあちこちで︑子どものいろいろな

姿を見た︒と書きたいところだが︑あいにくというか不

思議なことに︑滞在数日あれこれの訪問・見学をして狭

い国内かなりの範囲を歩き回ったのに︑街で小・中学生

や幼児位の子を見ることはほとんどなかった︒他のアジ

ア諸国では早朝から夜まで︑どの時間どの街でも︑子ど

もが群れて特に駅や観光地︑ただの街角でさえ物売り物

乞いの子らに出会うことは共通の経験だったから︑ここ

は確かに異質といえる︒限られた国土に人口過大となら

ぬよう︑政府が出産数をかなり厳しく規制すると本にあ

ったから︑そのせいか︑それとも少ない子らが学校や塾︑

ノ稗

(9)

家庭で勉強やゲームにすごしているためだろうか︒分か

らない︒

手がかりの一つになるかとあとで﹁世界の統計﹂︵二

○○○年版︶を調べたら︑人口一○○○人当たりの出生

数を︑一九五○年から二一世紀初頭の予想まで記した表

をみつけた︒比較のために日本とインドネシア︵多島多

民族の人口大国︶のデータを添える︵表l︶︒

植民地だった五○年代の多産が独立後たちまち半減し︑

二一世紀初には日本に接近するほどの少子化進行が分か

る︒同じ多産からスタートしたインドネシアとの違いは

唯一偶然の目撃は︑滞在最後の日の夕刻︑日本でいえ

ば新宿か池袋に相当する繁華街のデパートで︑人びとの

行き交うフロアの片隅を巧みに占めて︑高校生くらいの

男女七〜八人が︑学校帰りか制服姿で鞄を持ったまま︑

しゃがんだり座りこんだりして楽しそうに談笑する姿を

見たことだ︒顔の色で明らかな異民族の少年も屈託なく

まじっていて︑どこの若者も同じだな︑ごく自然に民族

融和してるな︑とちょっとほっとしながらそっと傍らを

通り過ぎた︒

ll国立教育研究所で言語教育と教員養成を聴く

前節に述べたようなバイリンガル教育をきちんと行な

うには︑制度の完備と並んで実施を担当する教員の養成 る︒同じ多寺 明白である︒ が欠かせない︒ところが事前に集めたどの資料もこの面 が不明確で︑とにかく現地で当たるほかはない︒教員養 成と一番関わりそうな教育機関名は﹁国立教育研究所Ⅱ NIE︵z農︒昌冒呂冒席昌圏月呂︒呈だが︑ナンャン エ科大学の一部とあって教育学部でもあるのか︑キャン パスは別とあるし正体不明だ︒現地で入手した地図を見 て出向いたら︑何と昨年暮れにナンャン大キャンパス内 の新築校舎に移転したばかりという︒今さらのように日 本での情報不足と︑現地地図の不備怠慢を嘆きながら︑ 大分離れた新キャンパスにたどり着いた︒

バイリンガル制度の成り立ちと今後

そんな回り道をしたせいで︑ちょうど昼休みにかかっ

て責任者たちは不在︒われわれも昼食をすませて出直そ

うと︑別棟の学生食堂に入りこんだ︒弥陀小学が街なか

で校長も歎く狭さだったのと対照的に︑広々と丘陵地を

占めるキャンパスで︑とりわけ食堂から見渡す熱帯雨林

の豊かさはすばらしい眺めだった︒数多いテーブルはほ

とんど満席で︑白いかぶり物のイスラム女性や一目でイ

ンド系と分かる優美なサリー姿が︑TシャツにGパンの

漢族学生たちと︑楽しげに談笑しながら食べている︒日

本の学食に多い生協とかの一手経営でなく︑多彩複数の

出店なのが珍しく︑中に宗教的禁忌クリアを明記した特

定民族食の看板もまじる︒カフェテリア式で大盛りに取

人口1000人当たりの出生数(単位:人)

シ ン ガ ポ ー ル 日 本 表 1

イ ン ド ネ シ ア

1950〜1955年44.4

23.7 43.0

1970〜1975年21.2

19.2 38.2

1990〜1995年17.8

9.7 24.6

1995〜2000年14.8

9.9 22 7

2000〜2005年12.3

10.1 20.1

「l11界の銃『汁」2唖年版より

l 4 5 − −

(10)

っても日本円にして二○○円足らず︑やはり安いが他の

品々も均らして︑アジア諸国の中では日本との物価差は

少ない方である︒

研究所に戻ってしばらく待つうち︑所長︵学部長︶ほ

かが現れ︑ぶじ懇談開始となった︒メインの相手は副所

長︵副学部長︶で︑日本の大学にしばらくおられたそう

だが日本語はほとんど話されず︑もう一人の若い女性教

員は一九八○年代に東京工業大学に留学された心理学者︒

勢い︑英語日本語どちやまぜで必要に応じ通訳も交える︑

親しさ十分の話し合いとなった︒

この教育研究所は︑名の通りこの国の初・中等教育全

般︑つまりカリキュラムや教科書等々の研究をすると共

に︑日本でいえば文部省の一重要部局としてその実施に

関わり︑しかも初・中等教員養成を一手に計画し実行す

る︑全国唯一の機関である︒後者の役割ではナンャン大

の理工系学部と並ぶ教育学部でもあるわけだ︒われわれ

の常識からはすぐには納得しかねる幅広さだが︑人口三

○○万は日本ならちょっと大きい市程度だから︑むしろ

適した構造なのかもしれない︒研究の自由は︑とつい危

ぶんだら︑副所長は﹁大丈夫﹂と大らかである︒それよ

り今も刻々と新しくなる制度の工夫や中身の研究にうち

こむ︑新しい計画実現はこの秋の予定だ︑と元気一杯︒

建国以来エリートを選び抜くこの国の基本方針がこうし

て稔り︑彼らに自信と意欲にみちて活躍する場を作り上 げている実例︑と思えた︒

したがって当方の調査課題である言語教育に関しても︑

ここが計画と実施の元締めなわけで︑知りたかったこと

を質問でき︑率直な答を即時得ることができた︒本で知

り小学校訪問で確かめ得た英語を第一︑母語を第二とす

るバイリンガル教育が︑制度として確立したのは意外に

最近の一九九七年である︒それまでの三○年余︑研究l

立案者たちは︑諸方策を無理のない順序で徐々に種み重

ねてきた︒英・母語の双尊重︑理数科は英︑社会科は母

語の使用分け︑標準華語への緩やかな統一︑そして華人

が設立し唯一華語で教える大学だったここ南洋大学を︑

理工系の国立大学化したのが一九八○年代︒このように

して九七年遂に全教育システムを英語での授業で一貫さ

せたのである︒

しかしこれで万事問題なしとなったわけではない︒研

究所機関誌のある頁に︑子どもを対象に日常の言語使用

をたずねたアンケートの結果が載っていたが︑華人中

﹁全部英語﹂﹁英語が多い﹂と答えた子はどちらも四割︑

残る二割は﹁母語が多い﹂を選んだ︒インド系の子も似

た比率︑マレー系の英語全使用は六%だった︒少人数の

調査だが一般的な傾向とのことで︑バイリンガル教育の

効果はこれから︑の趣である︒しかも英語学習の困難な

子がどの民族にも必ずいて︑特に会話は何とかやれても

読み書き支障のケースが低学年に多発する︑と話された︒

I46

(11)

弥陀小学で見た遅進児教室が対策の一つなのだなと︑中

央と現場の直結にうなずいた︒

そこで耕して根に至る改善策として︑就学前のバイリ

ンガル基礎づくりに昨年から取り組み始めた︒制度上は

研究所l文部省の管轄外だが︑幼稚園での英語学習の可

能性と方法を研究・試行し︑さらに低年齢化を探ってい

る︒一歳半からつまり発語初期から捉えて︑遊び歌いな

がら英語に親しむプレイグループの試みである︒地域セ

ンターと呼ぶ当地の生活や教育全般の指導組織があるの

で︑これを幼児教育にも活用して︑バイリンガルを含む

人間早期開発ができるかも︑と話は熱を帯びて広がって

いった︒ 教員養成は多様なコースで

この研究所︵学部︶が一手に行なう初・中等教員養成

についても︑話を聞き資料を得ることができた︒複数の

入口と学習コースが設けられていて︑最も中心的な一つ

は︑前述のGCE試験に合格して大学前期二年を了え︑

あるいは日本なら短大にあたるジュニァヵレッジニ年を

了えて教員になりたい者に︑さらに上級試験を課した上

で学ばせる二〜三年のコースである︒科学︑芸術︑体育

など本人が選ぶ領域で専門の学習をすると共に︑教授法

や子どもの発達研究等の教職科目︑さらには思考を鍛え

るための哲学などまで広く学ぶ︒第二の教員養成コース は︑国立三大学及びポリテクニクで各々の専門を学んだ 学生が︑教員資格を望む場合に適用するコースで︑得た い資格によりまた領域によって一年︑二年の別がある︒ 三番目は現職教員が休職して集中的にあるいは働きなが らパートで学べる︑現職資格上昇コースである︒これら のどのタイプにも︑中国︑マレー︑タミル語教育を学ぶ 部門があって︑初・中等段階での母語教師を養成する︒ さらにこれまで枠外だった就学前教育に関しても︑拡充 計画に対応して幼児教育の研究と教員養成の部門を︑急 ぎ拡充中である︒ 教員に関わるもう一つのここの仕事は︑校長︑教頭︑ 主任など管理職試験の扱いである︒これも小学校訪問で 実例を見た通りで納得だが︑教育のほぼ全面にわたる研 究と実現がこの組織に集中していることに︑改めて驚い た︒もらったパンフの一つに研究所メンバー一覧があっ たが︑所長︵学部長︶も入れて四十数人︑研究員や非常 勤も別にいるのかもしれないが︑この人数でとにかく仕 事がこなせるのは︑やはり国の規模ゆえであろう︒聞く と大学進学率は二○%と意外に少なく︑というよりエリ ートを囲いこみまくった末だから当然の数字ともいえよ うが︑傍系のポリテクニク等を入れても三○%に満たな いという︒シンガポール人の平均寿命は男七五歳︑女七 九歳︵九七年︶と世界統計にあったから︑各年齢同数と 仮定して単純計算すると大学生の総数は約四万人︑日本

1 4 7 一 一

(12)

ならちょっと大きめの大学一校分にすぎない︒

教師を志す学生は多いか︑と質問したら︑副学長はや

や苦笑ぎみに﹁景気次第です﹂と正直な答をした︒景気

がよくなると実学実業へと人が流れる︑と︒小学校で実

見し聴いた女教師優位現象の説明と︑ピタリ符合してい

る︒したがって国際経済地位上昇中のこの国では︑常時

教員不足の傾向がある︒そこで政府は︑人材を教職へ導

くために︑さまざまな手を尽くす︒まず教員を志す学生

は︑どの入口どのコースでも学費不要で給料にあたる支

給金まで出る︵もらった資料をあとで見たら金額まで明

記してあり︑しかもそれは目指す資格︑当人が過去三度

の試験で得た特急l普通レベル等でこまかく分かれてい

た︶︒それとは別に奨学金制度もあるが︑これはもらう

と教職最低四年間の義務がつくそうだ︒

さらに重要なのは教員になってからの給料で︑これも

着々上げている︑と副所長は明言された︒これまで訪れ

たアジアのどの国でも耳にしたことのない︑明るい答で

ある︒人材を教職に招くキメ手と分かっていてもやれな

い大多数の地域と比べて︑たしかに異質だ︒日本と似た

富裕さ︑しかもカネを有用と信ずる費目にさっと回せる

エリート組織の自在さが︑まざまざと表れている︒

以上教員養成のあれこれと︑高等教育は話が別である︒

大学教員のほとんどは外国留学経験者︑少なくとも大学

院は外国で学んで学位を得てくる︒大学の数自体が少な 教育・社会諸問題をめぐる一問一答 メィンテーマの話二つが一段落したあと︑すっかりう

ちとけた雰囲気で話題は社会一般へと広がった︒一問一

答の形で要点のみ書きとめよう︒

l日本シンガポール共に子どもの学力は高く︑例え

ば数学の国際テスト等で上位を争う仲間だが︑日本の子

は数学を好きな%が年々減って︑学習意欲減退が憂えら

れている︒貴国ではどうか︒

﹁あまり問題になっていない︒今も教育が出世だけで

なく良い人生へのパスポートになっているし︑家族の絆

の強さがそれを支え持続させる力になっているから︒﹂

lしかし国の住宅政策で親子が別に住んだり核家族

が増えることは︑そうした力を減ずるのではないか︒

﹁たしかに住環境の変化は︑民族融和等のプラスの反

面︑ご指摘のようなマイナスを伴う可能性がある︒政

府も心配してマイナスを減らす努力をしていて︑親と

子︑祖父母と孫が同居は無理でも近くに住めるよう︑

住宅配分の際考慮している︒これも小国ゆえのメリッ

トだろう︒何しろ文部省が全国の校長を集めることが

すぐ可能な国なのだから︒﹂

l混住政策による民族融和は︑どの程度目的を達し

ているのか︒〃隣の異民族より遠い同郷人〃が集まるこ いのだから︑これで需給のバランスはとれているらしい︒

I48

(13)

とはないのか︒

﹁イスラムなど宗教的結束の強いケースでは︑そうし

た傾向は残る︒しかしさっき話した地域センターが︑

住民をまきこむ行事︑例えば祭りをして異民族・異信

仰間の交流・理解をはかるなどの努力をしている︒﹂

11政府の統制が行き届きすぎて息苦しくなることは

ないか︒不満を持ったとき国民はどうするのか︒

﹁国民は諸規制の意味をかなりの程度理解していて︑

必要な痛みには耐えていると思う︒例えばクルマの購

入と使用に政府が規制を加えなかったら︑今頃はどこ

の道路も渋滞して国民生活は重大支障に至ったにちが

いない︒﹂

11学生で将来政治家になってこの国を変えたい︑舵

を取りたいと思う者は多いか︒

﹁否.もともとこの国に政治家という職業ジャンルは

特にないといってよく︑ビジネスや研究などある領域

に専念してひとかどの仕事をした者が︑推されて政治

に関わるのが普通だ︒それまでに培った広い視野や判

断・構想・行動力などを活かして︑国と世界の未来に

資する施策を練り行なうことができるのだから︒﹂

11周辺諸見聞から﹁民族と言語教育﹂を考える

短い滞在︑偶然の見聞だが印象に残った諸事柄がある

ので︑簡略に列挙して課題を考える助けとしよう︒ 緑の都市国家 赤道近いアジア諸地域で必ず見る高床式の小屋風住居 は︑全国くまなく回ったわけではないが一度も見なかっ た︒代わりに至る所で二○階建てとかそれ以上の高層住 宅群︵地質の少ない土地柄と聞いた︶と︑都心辺は官庁︑ 博物館図書館︑ホテル等のしゃれたビルが立ち並ぶ︒都 心を外れると二〜三階位の自前レンガ造りの家々が押し 合うように道の両側に並び︑衣食とりどりの物を売るが︑ 中でも壁・ドアがなく粗末な卓と椅子が路上にはみ出る テラス式簡易食堂が多い︒この国を支え富ませている多 国間商取引所や金融市場類を実見する機会は残念ながら 無かったが︑煙突とプラントが連なる工場地帯はただ一 カ所︑港近い埋め立て地に遠望したきりだし︑耕地牧草 地は一片も見ず︑海は行き交うタンカー群や巨大客船ば かりで︑漁港は見当たらなかった︒要するに国全体がオ フィス︑ホテル︑小店等ばかりから成る︑いわば近代以 前の景観や暮らしから決別した都市そのものなのだ︒日 本を含むアジアのどこの国にもない︑異質の印象である︒

不思議に思って帰国後世界統計を調べたら︑シンガポ

ールの労働人口中︑農・漁・鉱等つまり第一次産業従事

者率はたったの○・三%で︑日本の五・三%︑インドネ

シアの四二・二%よりはるかに低い︒代わりに日本より

多いのは製造︑建築︑卸小売で︑金融とサービス︵教育︑

保健等を含む︶従事者は日本が上回った︒どの項の%も

I49−−−−

(14)

ゴミと都市交通と

国全体の緑地化公園化もだが︑もう一つ政府の重要政

策はクリーン化つまりゴミ撲滅と︑交通のすみやかな流 インドネシアより格段に多い︒なるほど︑と景観の異質 が数字の裏づけを得ると共に︑この国の経済活動全像が つかめて興味深かった︒

その一方でシンガポールの景観の特徴は︑緑の多いこ

とだ︒建ち並ぶビルの間々には豊かな熱帯の大樹が繁り︑

都心にも一定の広さの緑の空間が随所にある︒高層住宅

群が囲む団地中央部も同様で︑ベンチまである︒それら

の地面は皆丈夫そうな幅広い草が植えられて︑むきだし

の土はほとんどない︒全国を縦横に走る舗装道路の両側

は︑すべて丈高い熱帯樹の並木と︑四季花咲く植込み︑

草地だ︒建国三○年余︑国土計画の成果に違いなく︑熱

帯ゆえ植物の成長も速いのだろうが︑国全体が近代的公

園の趣である︒これがまた世界中から観光・レジャー客

をひきつける一因になっているのだろう︒二○○○年に

は日本からだけで観光客は九三万人︑一日平均二五○○

人と朝日新聞にあった︒南端にある小島︵英軍砲台跡な

どがあるセントス島︶にも帰国前日に訪れたが︑全島緑

あふれる中にゴルフ場等のレジャー施設が点在する一大

遊園地で︑本島とは海を見はるかすロープウェイで結ば

れていた︒ れとである︒事前情報に﹁ゴミを捨てると罰金﹂とあっ たから︑実見が楽しみだった︒なるほど日々︑路地など の指定場所に規格のゴミ袋が山と種まれ︑早朝にゴミ運 搬車が走っていたし︑辻々にはポスト風ごみ入れが立ち︑ 団地内緑地や街路を長い帯とちりとりで掃いて回る人 ︵市民でなく公務員風︶を度々見かけた︒アジア各地に 多い道路イコールごみ捨て場式とは︑異質のクリーン度 である︒しかしそれでもなお時にビニール袋が舞ったり︑ 何かの食べかけが捨ててあったりしたから︑罰金規定は 幾分緩和されたのかもしれない︒

狭い国土に鉄道も新幹線もなく︑バスと地下鉄だが

﹁駅に二○分以上いると罰金﹂と本にあった︒年平均気

温二七〜八度ゆえ涼み目的の不心得者を排除して︑混雑

を防ぐ規制である︒また四方海の小国でいざという時国

民が逃げこむシェルター役も兼ねるそうで︑実見したか

ったが乗る機会がなかった︒バスは路線︑台数︑停留所

みな多い感じで︑二階建てのもあってどの時間帯も大体

すいたのが悠々街路を走る︒待ち客群をおしのけ必死で

バスにぶら下がるのとは︑異質の光景である︒

タクシーも程よく走っていて︑一時間近く乗っても日

本円で一○○○円足らず︑他の物価に比べて安さが目立

った︒NIEをたずねて南へ西へ走ったとき︑緑の続く

道は高速道らしく信号ゼロ︑渋滞ゼロ︑おまけに高速料

金もゼロでまことに快適なドライブだった︒街なかには

− ノ 0

(15)

もちろん信号があるが︑車の通行が適度だから人びとは

左右を見てゆったり信号無視することが多く︑われわれ

もやがて学んだ︒やはり日本車が多く︑社名堂々と走っ

ているのは他のアジア諸国と共通である︒

警官や兵士の姿を街で見ることはなかった︒たまたま

警察学校の前を通って︑運動場に整列・訓練中を見たし︑

徴兵の二年間は高等教育にとってマイナスと本で読んだ

から︑どちらも居るにちがいないが︒少なくとも交通整

理や犯罪とりしまりに常時目を光らせたり︑市民の諸活

動を監視威圧する必要は︑日常ないらしい︒その分見え

ない規制があれこれ強いともいえようが︒

あき地と建ちかけビル

人口密度の高い都市国家だが︑高層ビルや小店に緑地

で寸分の空きも無し︑というのではない︒オフィス・繁

華街をちょっと外れると街々には︑不思議なほどかなり

広い空き地が至る所にある︒ただしそのどれもが︑破れ

一つない金網や頑丈な金属白板でしっかり囲ってあって︑

﹁無用者立入禁止﹂の標識と共に建築予定の諸項を詳し

く記した札が立っている︒工事開始近いらしく機材山積

みの所もある︒すでに数十階の形に建ち上げた建設途中

のビルもあちこちでみかけたが︑どれも事故や迷惑を防

ぐ青い金網で厳重に包まれていた︒

つまりこの国では︑すでに造成し建築を終えた地区は 緑の樹や草を植えて万人に快適な公園化する一方で︑空 き地はすべて使用目的を確定明示して︑着々実現する︒ 教育研究所で聞いたことと似てるな︑と思い当たった︒ 数年数十年先を見通して計画を立て︑無理のない範囲・ 順序でいつも建設・改築・発展中の教育諸制度であり︑ 街であり国なのだ︒

戦争記念あれこれ

歴史博物館で小学生と出会ったことは︑前に書いた︒

類似の博物館や記念館が国土面積の割にたくさんあり︑

国の成り立ちと文化を国民に︑そして多分外来客にも知

らせようという努力は︑かなりのものである︒われわれも

いくつか見学したので︑まとめて要点を記しておきたい︒

見学して共通に分かったことは︑一九四二四五年日

本による占領は︑シンガポールにとって忘れ得ない大事

件だったという事実である︒その意味は︑いくつかある︒

一八世紀以来欧米人の支配に服し続けてきた地だから︑

白人がアジア人にあっけなく負けた驚きが第一だ︒次は

日本の占領が︑華人の殺りく︑多額の献金強要︑強引な

日本化など︑植民政府を上回る暴力的支配となった悪夢

の経験である︒第三は︑やがてこの暴政に抵抗する地下

組織ができ︑相次ぐ逮捕︑拷問︑刑死に耐えてゲリラ活

動を続けた事実だ︒これらの深刻な体験が︑やがてイギ

リスによる再植民地化を経て小さな島が独立に至る︑っ

I 5 I ‑

(16)

まり単なる移民の集住地から︑シンガポール人としての

同一性形成と自覚を促す契機の一つになったといえる︒

だからどの展示でも︑日本軍関係の記録︑人形等々は

必ず残虐と恐怖が描かれ︑原爆投下が救済への門として

強調されていた︒日本ではシンガポール占領は︑緒戦勝

利の華やかなイメージ記憶が主だから︑日本の敗退こそ

が住民にとって﹁解放﹂であったという現地の事実との

落差を知ることには︑大きな意味がある︒

占領に伴う暴力を扱った一室に︑印象的な展示があっ

た︒中央の大きなガラスヶースの中に︑人の輪郭めく形

が微妙に揺れている︒よく見ると細かい金網で作った三

体の等身大人形だ︒一体はうしろ手に縛られてひざまず

き頭を下げた姿勢︑二体目はクーリー風菅笠の老人で腰

が抜けたように座りこんでいる︒第三の像は若い女性の

立ち姿で︑赤ん坊らしい小さな形を両手で捧げ抱くが︑

子ののけぞった形はすでに死体なのだろう︒つまり日本

軍の犠牲となった最も無力な人びとの象徴像である︒ガ

ラスヶースの一部が開けてあって︑室内だが自然に通う

空気の動きが︑金網を微妙に揺らして︑彼らが今も生き

て訴えている印象を強めるのだ︒

この博物館から遠くない都心の一等地に︑慰霊塔があ

る︒何十メートルあるのか︑回りの高層ビルに負けない

細長い柱四本から成るクリーム色の塔で︑傍らの大きな

石板に﹁日本占領時期死難人民紀念碑﹂とあり︑英︑華 最後に︑シンガポール現地調査によって得たことを︑ 課題に即してまとめておこう︒短期間の僅かな調査には 限界も誤りもあることは当然で︑それを前提としつつ次 へのメモとして︑見たまま考えたことを列挙する︒

一︑バイリンガル教育を国の制度として持つのはおそ 11まとめ をはじめ四語の説明がついている.殺された人数は今も 正確には不明で︑五千人とも二万人ともいわれ︑この塔 は独立まもない一九六○年代後半に︑華人経済団体の尽 力で建てられた︑とあった︒

柱四本はシンガポール人を構成する民族を表すそうで︑

多数派の中国人と少数民族たちとで大きさ美しさ共に区

別してはいない︒死難の大多数は当時敵だった中国人だ

が︑インド人の独立義勇軍も対英作戦の無理で少なくな

い死者を出したのだから︑同じ日本占領の機牲者たちで

ある︒

セントサ島のイメージ博物館では︑歴史博物館の小さ

なジオラマと違って︑等身大の人形をしかも動いたり発

声したりするしかけの展示が多く︑また民族の習俗や文

化を表す室が続いていた︒例えば結婚式のシーンが同大

で三景続き︑中国︑マレー︑インドそれぞれに美しい民

族衣装を着けて夢みる表情の男女が︑独得の飾りつけや

料理を前に平和によりそっていた︒

J32

(17)

らく世界でも類例が少ないが︑シンガポールでは︑一応

平穏に全階梯全学校で実施されている︒

このことは宗教立学校で確認でき︑NIEで明言を聞

いた︒二重負担だし第一言語がどの民族母語でもないの

だから︑無理や不自然もあるかと予想したが︑見た限り

子どもたちは生き生きと学んでいて︑二語のスムースな

併用は進行中のようである︒

二︑一の平穏な実施は︑三母語を平等に第二言語とし

たことおよび周到な準備施策に負うように思われた︒

人口の八○%を占める多数派の母語を優位とせず︑少

数民族と同じ扱いにしたことには︑禰極的意味がありそ

うだ︒またNIEの担当者たちは︑制度確立までの三○余

年に順次言語扱い諸方策を種み重ねて今日に至っていた︒

三︑英語学習困難児の問題は残るがケアの努力がなさ

れ︑バイリンガル基礎づくりの低年齢化がはかられている︒

制度化によって万事解決ではないことが︑策定側NI

Eと現場の両方で確められた︒同時に対策も実施中なば

かりか︑さかのぼって幼児期バイリンガルが試みられて

いる︒発語期まで捉える思いきった発想も聴いた︒

四︑バイリンガル制度は教育領域単独の実施ではなく︑

居住方式をはじめとする生活の中の民族融和策を伴って

いる︒

公共住宅の民族・出身地混住政策は︑新しい国民の融

和︑同一性形成を目指すもので︑言語教育のねらいと一 致しその進行を支えている︒その他随所に︑例えば博物 館の歴史展示等に︑同様の意図が見られた︒

五︑バイリンガル制度とIT教育とが平行して進めら

れ︑教員養成も国のIT経済活動と微妙に連動する︒

言語教育と情報教育とが︑低年齢から同時進行中なの

を実見した︒この両面とも︑現代の国際的経済活動と関

係するから︑人びとの働き方を左右する︒この流れを教

職にも向けて人材を得るために︑政府は数々のかなり思

いきった手を打っている︒

六︑言語教育方針は多面的な国家計画の一環であり︑

他の諸面と同様︑常に改変・前進しようとする柔軟さと

意欲を秘めている︒

全国の緑化クリーン化をはじめ貿易・観光立国など︑

小規模国の利点を生かした政府主導の国づくりが多面に

わたり同時進行していて︑言語教育はその重要な一環で

ある︒制度成立は終点でなく︑状況に応じ未来を見て改

変・前進する気構えが︑NIEで語られ︑ほかでも見た︒

国民もエリート指導者たちを信頼して従ってきたのが︑

これまでの三五年らしいが︑さて今後はどうであろうか︒

七︑バイリンガルの功罪はなお未知数であり︑国づく

り全般を含めてシンガポールは生きた実験場といえそう

だ︒

建国以降バイリンガル制度に至る歩みが︑今日の英語

国際語化到来を見通してのことだったのかどうかは︑分

1 5 3 ‑ ‑

(18)

以上シンガポールを対象とした調査報告は︑﹁民族と

言語教育﹂プロジェクトチーム正規の研究報告であり︑

以下はメンバーの一人石原の個人的体験に基づく︑した

がって番外の記録である︒後述する通りシンガポールと

チベットとは︑アジアの中でも対照的といえるかなり多

数項の相違点と︑にもかかわらず考えさせられる類似点

や問題性もあるので︑チームメンバーの了解を得て付録

のような形で載せることにした︒

私︵石原︶が中国領土の一部であるチベット高原に二

○○一年七月後半行くことになったのは︑本共同研究プ

ロジェクトと何の関係もなかった︒別の個人的な仕事

︵和光大学の卒業生数十人にインタビューして本にまと

める︶で対象となった一人が︑今聖喜云術学科を卒業した

ばかりの留学生で︑故郷チベットに小学校を作る活動を lはじめに からない︒植民文化の名残りや︑指導者たちの留学歴の 影響もあり得るからだ︒しかしとにかく︑英語を第一と するバイリンガルは︑さしあたって二一世紀にまたがる 国際的言語動向と一致した︒﹁はじめに﹂で述べた通り これも︑目下の力関係による言語の侵食・浸透現象とす 2・チベット自治州︵中国・四川省︶における言語教

始めていて︑インタビューの終わり近くに︑七月建設予

定地を見にいくツァーの計画を話し︑同行を勧めたのが

発端である︒インタビュー記録原案を送るとき参加申込

書を同封し︑当日空港に行ったら︑和光の教員・学生・

卒業生など関係者はメンバー一六名中やっと過半で︑あ

とは秘境に魅かれて参加した一般人︵定年退職者中心︶

が大部分︑引率兼添乗は当の留学生U君である︒

旅行社のミニバスは︑重慶空港から成都を経て四川省

の甘孜チベット自治州へと︑一日数百キロメートルずつ

次第に進入した︒周知と思うがチベット高原は︑中国の西

南部を占めて日本国土の六〜七倍︑中国は第二次大戦後

ここを武力で占領・支配して以来︑首都ラサ近辺を自治

区︑その東・南の漢族との混住地域を自治州としている︒

一九五九年と一九八八〜八九年にチベット人による広汎

な抵抗運動があり︑祭政一致の法王ダライ・ラマ一四世は

申﹃j*8

インドに逃れて亡命政府を樹立︑すでに四○数年になる︒ れば︑なお未来は未知数である︒アジアの一隅にありな がら近代以前の景観・暮らしのほとんどを振り捨てたシ ンガポールは︑他の諸面と同様に﹁民族と言語教育﹂に おいても︑注目すべき生きた実験場といえよう︒見守り 続けたいと思う︒

*8P.A・ドネ︑山本一郎 訳﹁チベットー受難と希望︑﹁雪 の国﹂の民族主義﹂サイマル︑

一九九一年︒

*7ペマ・ギャルポ﹁チベッ ト入門﹂日中出版︑一九九一年.

ノ 5 ¥

(19)

私︵石原︶は︑﹁民族と言語教育﹂プロジェクトの前

身である﹁アジアの教育11研究と交流﹂共同研究の代

表者として︑アジアの発展途上数ヵ国を調査し︑各国の

*Q﹀

初等教育の実状と問題点に理解と関心を深めてきていた︒

が︑右のような政治的状況にあるチベットでは︑例えば

ラオスあたりと違って﹁小学校がないから作ろう﹂では

済まないことも分かっていたから︑U君の活動にも簡単

には賛同せず︑まずは現地を見チベット人とその生活を

実見してから︑とツアーに加わったわけだった︒だから

旅の行程の半ば近くになるまで︑﹁民族と言語教育﹂テー

マとの関わりには︑全く思い及びもしなかったのである︒

アジアの途上国はどこも同じだが︑行く先々の村や町

至る所で︑子どもが群れていた︒自治州の奥に分け入る

ほど︑外国人が珍しいのと人なつこさのせいだろう︑村

の小店で昼食の際など見物の子らが窓に群がるし︑チベ

ット仏教の寺を見学すると︑茶と赤の法衣を着た少年僧

たちがやはり物珍らしげに寄ってきた︒旅の六日目︑ツ

アーの一人に中国語を話せる女性︵六四歳︶がいたので︑

手近な少年僧に話しかけてその手にある経文を読むよう

頼んでもらった︒経文は細長い薄紙に︑当方もちろん一

字も解らない横書きのチベット文字である︒その子は結

局恥ずかしがって逃げてしまったが︑二歳という年齢

だけは答えた︑と彼女が伝えてくれた︒

そこでハツと思い当たった︒二歳なら学齢︵中国で は小学校六年︑一二歳まで義務教宣で︑少なくとも話 しかけられた北京語︵中国の標準語︶を解し返答し︑他 方でチベット文字の読み下しが多分できるわけだ︒寺は 伝統的な経文限定の学習機関だから特殊だが︑普通の小 学校でチベットの子らは︑どんな言葉でどんな教育を受 けているのか︒自治州ゆえに支配者の語を学び中国語で 授業を受けるとしたら︑母語であるチベット語はどうい う扱いなのだろうか︒関心は突然﹁民族と言語教育﹂テ ーマとピタリつながったのである︒ lシンガポールとの対比と類同

そこで改めて考えをめぐらせると︑チームの研究が今

春対象としたシンガポールと︑今たまたま訪れているチ

ベットとは︑いくつかの点で正反対といっていいほどに

異なり︑その一方で重要な類似・共通点もあることに気

づいた・これは面白い比較研究になるかも︑と私の物好き

的研究者魂といったものが︑ムクムク頭をもたげてきた︒

相違点の第一はいうまでもなく地域の広狭で︑シンガ

ポールは淡路島の大きさしかないが︑チベットは前述の

通り日本全土の六〜七倍の広さだ︒次は地勢で︑海に囲

まれた平島と一片の海もない標高三〜六○○○メートル

の高地︒第三はこの狭い国土全部を︑前に記した通り隅

ずみまで計画的に美化し公園化した人工の地域に対して︑

チベットはほとんど人の手が加わっていない大自然その *9﹁アジアの教育l研究と 交流﹂プロジェクトチーム編 ﹁アジアの教育lその変貌と未 来﹂和光大学総合文化研究所年 報﹁東西南北・別冊肥﹄二○○

一年一二月一日.

I 5 5 − −

(20)

ままである︒さらに本文で世界統計を引用した通り︑シ

ンガポールの第一次産業は就業人口の○・三%が従事す

るにすぎないが︑チベットの農・牧業者は約八○%・人

口構成も︑シンガポールは中国・マレー・インドから近

代以降の労働移民集積地なのに対して︑チベット人はほ

ぼ土着の民である︒などなど︑こまかく言えばまだまだ

差異は数え上げ得よう︒

何より大きな違いは︑シンガポールが第二次大戦後イ

ギリスの支配を脱し︑他の多くの地と歩を揃えて独立国

となったのに対して︑チベットは歴史上少なくとも中国

と即かず離れずの独立状態だったのに︑一九五○年にな

って主権を失い植民地状況となった︑その意味でアジア

申・lU

唯一の運命をたどった国だ︑という違いである︒

二つの地域の類同点はただ一つ︑中国人が支配する地

ということである︒シンガポールは複数政党制のなかでリ

ー・クァンューら英国留学組の人民行動党が結果的に政

権を握り続け︑チベットは被占領以来ずっと中国共産党

の一党独裁支配下にある︑という経過差はあるが︑漢民族

支配の数十年は不動の共通点である︒二つの異なる地域

に臨む中国人の政権が︑域内異民族の扱いをその言語政

策においてどのように遂行しようとしているのだろうか︒

このように急きょ課題を立てたものの︑旅先それも緑

の高原とヤク︑ヤギの群ればかりの山中だ︒秘境に酔っ て天然の花畑を撮ることに夢中なツアー仲間たちにそん な話をしても︑興醒めするばかりだろう︒この状況に応 じて︑予定の日程をこなしながら個人でできるささやか な実地調査と︑その背景となるチベットの教育状況につ いて大よその知識を得ることとの︑二つの計画を立てた︒ これまで﹁アジアの教育﹂以来チームの研究方法は︑ま ずその地の文部省や教育研究所等に行って当国教育事情 の大よそを把握することと︑小学校から大学まで可能な 限り実地訪問して話を聞き生徒たちと対話する︑の二本 建てだったが︑現状況ではどうしようもない︒できる限 りの接近方法と︑得られるものとで間に合わせるほかは ない︒

そこで見回すところ当然だが一番チベット教育事情に

詳しいにちがいない当地人のU君に︑概略の話を聞くこ

とにした︒忙しい添乗仕事の合間だから途切れながらだ

が︑何とか必要最少限度の情報を手に入れた︒まずチベ

ット人の就学率は現在約六○%︑都市は九○%近いが地

方に行くほど低い︒学校が遠いとか貧しさのため中退す

る子は多い︒自治州では小学校入学と共にチベット語と

中国語︵北京語︶を学び︑三年生から英語が加わるきま

りだ︒授業はチ︑中両語で行ない︑教科書も国定で両種

あって︑子自身や親がどちらかを選べる︒中学進学率は

一○%強︑高校数%︑大学進学は一%に満たない︒ラサ

の国立チベット大学ほか三大学があるが︑学校階梯が上 *加チベット亡命政府怖報・ 国際関係肯.南野藤菟郎択﹁チ ベット入門﹂鳥影社︑一九九九

年.

− ノ 夕 6

参照

関連したドキュメント

第 1.1.2-3 図及び第 1.1.2-6

H23.12.2 プレス「福島原子力事故調査報告書(中間報告書)」にて衝 撃音は 4 号機の爆発によるものと判断している。2 号機の S/C

ただし、変更により照会者が不利となる場合において、契約書

変更量 ※1

遮へい設備については従前より設置している原子炉遮へい壁等のうち 1 号、3 号及び