東医大誌
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-200, 2018
最 終 講 義
英語教室での 27 年
─おもに私の翻訳書について A Recollection of My 27 Years at the
English Department :
Mainly About My Translation Works
宮 本 高 晴 Takaharu MIYAMOTO
東京医科大学英語教室
Department of English, Tokyo Medical University
私のこの最終講義は次のようにお話しさせていた だこうと思っております。まず「1. 私の大学院時 代」、次に「2. 私の翻訳書」について、そして最後 に「3. 英語教室における教育活動」として「TOEFL
-ITP のスコア報告」をさせていただきます。
1. 私の大学院時代
私は学部は早稲田大学法学部を卒業、大学院は早 稲田大学文学研究科の演劇専攻を修了、後期課程を 中退して大学の教壇に立つようになりました。それ が 1987 年のことで、1991 年の 4 月に当東京医科大 学英語教室の講師に就任しております。
はじめに私の大学院時代について簡単にお話しさ せていただきます。
早稲田大学の文学研究科演劇専攻には、日本演劇、
西洋演劇などに混じって映像・映画研究というもの がありました。私はここに入って英米映画を、ジャ ンルとしてはコメディを、映画作家としてはビリー・
ワイルダーという監督を研究対象に選びました。
私の指導教授は山本喜久男先生でした。山本先生
には「日本映画における外国映画の影響」という大 著があり、これによって映画研究に〈比較映画〉と いう分野を確立された大先生でした。先生はこの本 で 1984 年芸術選奨文部大臣賞を受賞されています。
先生にはまた、「小津安二郎の美学 映画のなかの 日本」という翻訳書もあり、これはアメリカ人研究 者による小津論でしたが、すばらしい日本語に訳さ れていて、私が映画研究書の翻訳に惹かれることに なった直接のきっかけは先生のこの御本でした。
さて、大学院ではとくに二つのことが私に大きな 影響をあたえました。ひとつは私にとって最も印象 深かった授業です。それは本来は英米文学専攻のた めに開講されていた「西洋演劇演習」という授業で した。担当されていたのは東京女子大学のクレア・
リー・コールグローブ教授です。そこでは毎週ひと つずつ指定された劇を読んでくる。ただ読んでくる のではなく、学生にはそのさいそれぞれ 課 題 があ たえられていて、授業ではその課題に答えるかたち で短い発表を行なう。それぞれの発表に基づいて ディスカッションをし、その劇について理解を深め
*本論文は平成
30
年1
月19
日に行われた最終講義の要旨である。キーワード
:
映像映画研究、翻訳、TOEFL-ITP
(別冊請求先
:
〒160
-8402 東京都新宿区新宿 6
-1
-1 東京医科大学英語教室)
TEL : 03
-3351
-6141 FAX : 03
-3226
-7030
ていくというものでした。これはすべて英語で行な われますので、準備に時間もかかり、学生にとって 負担の大きいたいへんな授業でしたが、ひじょうに おもしろく、とくに私のようにそれまできちんと文 学を学んでいなかった者には教えられることばかり の、きわめて刺激的な授業でした。
私はこの授業を五年間つづけて受けました。プロ グラムも毎年変わりましたので、この授業だけでか なりの数の劇作品に親しむこととなりました。この 授業で得たことは、映画を分析するさいの大きな助 けとなり、修士論文を書くときにもそれを活かすこ とができました。
大学院時代にもうひとつ、その後の私に大きな影 響をあたえたのは翻訳の仕事の経験を得たことでし た。山本先生に声をかけていただき「映画の教科書」
という映画研究の入門書の翻訳に加わりました。全 5 章のうちの二つ、第一章「芸術としての映画」と 第四章「映画史のかたち」を私が担当しました。こ のとき一般読者にわからないような用語、事項、人 名などには訳注を付けるものだと教えられ、訳注作 りの作業を訓練させられました。そしてそれがひ じょうにいい勉強になるということをおぼえまし た。
大学を出てからは、論文も書いてはいましたが、
それと並行して翻訳の仕事にも精を出し、結局翻訳 の方が私の主な仕事となっていきました。私の映像・
映画研究というものは翻訳の仕事のなかに溶け込ん でいったように思われます。そこで次に、私がどの ような翻訳を行なってきたかをざっと説明させてい ただき、私の研究の紹介に代えたいと思います。
2. 私の翻訳書
私単独に出版社から依頼が来た翻訳の最初は「マ スターズ・オブ・ライト」(デニス・シェファー、
ラリー・サルヴァート編、フィルムアート社、1988 年 3 月刊行)でした。これは “アメリカン・シネマ の撮影監督たち” という副題に明らかなように当時 のアメリカのトップ・キャメラマン 11 人のインタ ビュー集でした。映画撮影の表現面、芸術面はもと より、現像方法や照明技術、さまざまな機器の性能 など、技術面の話題もたくさん出てきますので、日 本のプロの映画キャメラマンでアメリカの撮影現場 経験もある高間賢治さんに随時アドバイスを頂きな がらの仕事となりました。クレジットも高間賢治さ
んと私の共訳となっています。
「オーソン・ウェルズ偽自伝」(バーバラ・リーミ ング著、文藝春秋、1991 年 4 月)。これは演劇・映 画界の神童、革命児、異端児といわれ、俳優として も著名だったオーソン・ウェルズの伝記です。日本
語題名は “偽自伝” と少しひねってありますが、正
真正銘の本格的な伝記です。これは著者の取材・調 査が徹底していたこと、オーソン・ウェルズ本人に も長期にわたって密着取材をしたこと、それによっ て初の本人承認の伝記であったこと、ウェルズがこ の本の出版直後に心臓発作で急死したことなどがあ り、日本でも注目される本となりました。「長大な 伝記だが、ウェルズ自身の魅力もあって、面白く、
読みごたえがある」と品田雄吉氏は「週刊読書人」
(1887 号[1991 年 6 月 17 日])に書いています。ま た翻訳では原著にはないフィルモグラフィーを付け 加えました。こういう資料面をできるだけ完備させ るというのが、私が翻訳するさい目指す目標のひと つとなっていきます。
「チャップリン」(デイヴィッド・ロビンソン著、
文藝春秋、 1993 年 4 月)。これは世界の喜劇王チャー ルズ・チャップリンのきわめて詳細な評伝の翻訳で す。この頃ちょうど「チャーリー」というチャップ リンの伝記映画が作られていて、その劇場公開に合 わせて出版するということになり、1 年以内に仕上 げなければならない仕事となりました。原書は 780 頁という大部な著作であったため翻訳版は上下二冊 となり、下巻はミステリー翻訳の専門家であった高 田恵子さんにお願いし、私は上巻の翻訳と全体の監 修に当たりました。これも扱われているのがチャッ プリンであり、原著自体が内容充実の本でしたので、
大きく扱われ、書評でも数多く取り上げられました。
「少年時代からステージに立っていたチャップリン の芸能活動の詳細を調べあげたのはもちろん、その 父方と母方の家系を徹底的に調査した記録が圧巻だ
(中略)謎と人間性の秘密を読み解いていくようで、
興趣つきない手に汗にぎるドキュメントだ」(白井 佳夫「中日新聞」1993 年 5 月 16 日)。
「インタヴューズ」(クリストファー・シルヴェス
ター編、文藝春秋、1998 年 11 月)。私の翻訳には
分担訳のものもいくつかありますが、ここではこれ
ひとつだけ挙げさせていただきます。“カール・マ
ルクスからジョン・レノンまで” が広告のコピーに
なった近・現代の歴史上の人物のインタビュー集で、
86 人の有名人を 30 人の訳者が分担して訳しました。
私はマリリン・モンロー他三人の映画人を担当して います。
「ワイルダーならどうする──ビリー・ワイルダー とキャメロン・クロウの対話」(キャメロン・クロ ウ著、キネマ旬報社、2001 年 1 月)[図 1][図 2]。
この本ではそれまでとは違い、自分を売り込むこと によって翻訳の仕事を手に入れました。その経緯に ついて少しお話させていただきます。
私はこれを今はなくなった銀座の洋書店で見つけ てすぐに購入しました。本国でも出たばかりの本で した。ビリー・ワイルダーは修士論文でも書いた私 のいちばん好きな監督でしたから、なんとかこれを 翻訳したいと思いました。
具体的にどうしたかといいますと、原書の内容を 概要としてまとめ、それに感想を添えてワープロ 7、
8 枚程度の文章にし、それを翻訳権を扱うエージェ ンシーに預けました。どこの出版社が翻訳権を取り にくるのかわかりませんが、この本ならばどこかは 必ず取りに来るはずだと信じ、こういう手段を選ん だのです。 1 カ月後、キネマ旬報社というところか ら連絡がありました。そこが翻訳権を取得したので す。エージェンシーに預けてあった私のレジュメを 見て、私を訳者に選んでくれたのでした。(このア イデアは、しかし、私の発案ではありません。フリー 編集者岡みどり氏のアドバイスによるものでした。
エージェンシーが私のレジュメを預かってくれたの も岡氏の紹介があったからです。)
この本の主役ビリー・ワイルダーですが、日本に はとくにこのワイルダー・ファンが多いようです。
おかげで多くの書評で取り上げてもらえました。 「新 年そうそう宝物のような本を紹介できてうれしい。
高価だけれど、珍しい写真もたっぷり掲載されてい るので、ワイルダー映画のファンはぜひ ! (中略)
聞き手のクロウ監督は、尊大でも卑屈でもないワイ ルダーの人柄をよく伝えていて、すがすがしい後味 が残る」(中野翠「朝日新聞」2001 年 1 月 14 日)。
本も増刷となり、訳者として面目をほどこすことが できました。
今から考えると、この本は私にとって分岐点と なったように思われます。自分の気持ちのなかで、
自分の仕事の中心は翻訳なのだという覚悟といいま すか、方針が定まったということです。これ以降、
2 年に 1 冊のペースで翻訳を続けていくことになり、
それはいまに至るも続いています。
「マイ・ファースト・ムービー──私はデビュー 作をこうして撮った」(スティーヴン・ローウェン スタイン編、フィルムアート社、2002 年 4 月)。副 題のしめすとおり、世界各地の 16 人の現役映画監 督がデビュー作を作るに至るまでの苦労と、デ
図2
図
1
ビュー作を完成させる製作プロセスについて語った インタビュー集です。後に大家となるスペインのペ ドロ・アルモドバル、イギリスのマイク・リー、台 湾出身のアン・リーなどが登場します。
「スコセッシ・オン・スコセッシ──私はキャメ ラの横で死ぬだろう」 [新装増補版] (デイヴィッド・
トンプソン、イアン・クリスティ編、フィルムアー ト社、2002 年 12 月)。私が 1992 年に翻訳していた 同名書籍の新装増補版です。マーティン・スコセッ シは 1970 年代なかばの『タクシー・ドライバー』
から昨年日本でも公開された遠藤周作原作の『沈黙』
まで、長らくアメリカ映画を牽引してきた映画監督 です。ここではスコセッシが自らの作品について 語っています。
「王になろうとした男 ジョン・ヒューストン」
(ジョン・ヒューストン著、清流出版、2006 年 4 月)
[図 3]。読んでおもしろいということでは、私が訳
した本のなかではこれがいちばんかもしれません。
ジョン・ヒューストンは先ほどのビリー・ワイルダー と同じ 1906 年生まれのアメリカの映画監督です。
ワイルダーの本とは異なり、これは自伝です。ヒュー ストンの映画では『マルタの鷹』『黄金』『アフリカ の女王』などが有名ですが、この監督は人物そのも の、その人生がまたおもしろい。じつに多才な人で
すが、前身がボクサー、新聞記者、舞台俳優と人生 経験が豊富で、外国の軍隊に入ったり、猛獣狩りを したりと冒険家肌でもあります。映画もスタジオに こもって作るというよりも世界各地に飛びまわって 作る。第二次大戦中はイタリアの激戦地に身を置い てドキュメンタリー映画を撮っています。女性関係 も多彩で、結婚だけでも 5 回している。脚本家出身 で、小説作品もあるくらいですから書くことはお手 のもの。ですからこの自伝は当然おもしろいものと なる。中条省平氏による「朝日新聞」の書評は次の ような書き出しでした。「途方もない自伝である。
これがすべて事実なら、ヒューストンの一生は彼の 映画より面白いといって過言でない。話芸の冴えも 類書に例を見ないほどの巧みさだ」(「朝日新聞」
2006 年 6 月 18 日)。おかげでこれも版を重ねるこ とができました。
「われとともに老いよ、楽しみはこの先にあり」 (リ ング・ラードナー・ジュニア著、清流出版、 2008 年 5 月)。米ソ冷戦下、アメリカでは共産主義者や そのシンパが各界で追放されましたが、映画・テレ ビ界はとくにその代表的な舞台となりました。この 本の著者リング・ラードナー・ジュニアは “ハリウッ ド・テン” と呼ばれまっ先に映画界から追放された 10 人の映画人のひとりでした(彼はその後劇的な 復帰を果たし、 『マッシュ』という映画でアカデミー 賞も受賞します)。本書はそのラードナー・ジュニ
アが “赤狩り” 時代を中心に自らの人生を振り返っ
た回想録です。
「英国コメディ映画の黄金時代──『マダムと泥 棒』を生んだイーリング撮影所」(チャールズ・バー 著、清流出版、 2010 年 9 月)。地味ではあるけれど も堅実な良心作を数多く製作し、とくにコメディで 名声を博したイギリスの映画製作会社、イーリング 撮影所についての研究書です。
「ロバート・アルドリッチ大全」(アラン・シル ヴァー、ジェイムズ・ウルシーニ著、国書刊行会、
2012 年 12 月)。これもハリウッド全盛期に活躍し
た監督の一人でとくに『キッスで殺せ』『攻撃』『ロ
ンゲスト・ヤード』などアクション映画で名をはせ
たロバート・アルドリッチの研究書です。この翻訳
では日本版独自の追加部分が多く、本文 550 頁の大
著となりました。アルドリッチは本国アメリカより
も、フランスや日本など外国での方が評価が高いと
いう異色の監督です。フランス文学者鹿島茂氏は週
図3
刊誌に連載しているコラム “私の読書日記” のなか で「私のようなディープなアルドリッチ・ファンに はこたえられない一冊」(「週刊文春」2013 年 7 月 4 日号)とこの本を紹介してくださいました。
「ルビッチ・タッチ」(ハーマン・G・ワインバー グ著、国書刊行会、2015 年 4 月)[図 4]。第一次世 界大戦の敗戦国ドイツの復興は映画から始まりまし たが、その筆頭に立った監督がこのエルンスト・ル ビッチでした。彼はほどなくハリウッドに招かれ、
ハリウッドにおいても名監督の名をほしいままにし ます。とくに洗練された喜劇、男女の仲を粋に皮肉 に描く社交喜劇とか都会喜劇と呼ばれたコメディ・
ジャンルに手腕を発揮します。その洒落た作風は、
当時から “ルビッチ・タッチ” と呼ばれ、広くファ
ンに愛され、また同業の映画人たちからのあつい尊 敬をあつめていました(ビリー・ワイルダーはルビッ チを師と崇めていましたし、日本では小津安二郎、
成瀬巳喜男といった監督がルビッチの心酔者でし た)。そのルビッチの評伝を中心に、関係者の証言 や当時の評論、追悼文などをまとめたものがこの本 で、映画研究書のなかでは昔から定評のあるものの 一冊でした。私が大学院に入ってハリウッド・コメ ディを研究したいと希望を述べますと、指導教授の 山本喜久男先生がまっ先に挙げられたのがこの本で
あったことを思い出します。この本では付録資料を 新たに執筆、翻訳に要した以上の時間をかけて内容 のさらなる充実を心がけました。書評のなかで「訳 者(中略)の手になる入念な「ルビッチ俳優名鑑」
も読み応えがある」(高崎俊夫「産経新聞」2015 年 6 月 2 日)と初めて付録について触れてもらえたの も心に残りました。
「ジョージ・キューカー、映画を語る」(ギャビン・
ランバート著、国書刊行会、2016 年 6 月)これは 私にとって最も新しい翻訳となります。ジョージ・
キューカーも映画全盛期に活躍した名監督のひとり で、グレタ・ガルボ、イングリッド・バーグマン、キャ サリン・ヘプバーン、ジュディ・ガーランド、オー ドリー・ヘプバーンら多くの女優から最高の演技を 引き出し、“女優の監督” と呼ばれた人です。これ はそのキューカーへのロング・インタビューです。
いま翻訳を進めているのは「ザ・パレーズ・ゴン・
バイ」 The Parade’s Gone By (ケヴィン・ブラウンロー 著)という本になります。この原書はこれまで関わっ たどの本よりも古い 1960 年代の出版ですが、サイ レント映画についてならまずこの一冊といわれてい る名著です。この本の原書は 600 頁を越え、本文を ひととおり訳し終えるまでに 1 年半がかかりまし た。これから訳注・付録類の制作に入ることとなり ます。この本が無事完成するかどうか、できたとし てあと何冊新たに翻訳できることか、そういったこ とは今の時点ではわかりませんが、頭と体がつづく 限りこれからも頑張っていこうと思っております。
3. 英語教室における教育活動
── TOEFL
-ITP テストのスコア報告 最後に英語教室のことを述べて、私の話のまとめ にいたします。
人文科学領域英語教室はひとことで言えば小さな 大教室です。専任教員はわずか 2 名ですが、非常勤 教員 19 名を擁し、医学科・看護学科あわせて 10 科 目、年間 180 コマの授業を担当しています。語学の クラスは少人数クラス制をしいていますので、教員 の数が必要となってくるのですが、これら非常勤教 員の方々の協力、献身的な頑張りなくしては東京医 大の英語教育は語れないものとなっています。
英語教室に関わることでここでご紹介しておきた
いのは TOEFL
-ITP のテストです。本学における
TOEFL
-ITP テストの受験は、臼井理事長、当時の
図
4
臼井学長のご指導を受け、2009 年に始まりました。
最初は 1 年生の入学時と 1 年生の年度末とに 2 度受 けるというものでしたが、その翌年の入学生から 1 年次の 2 度に加えて、2 年次の年度末にも受けると いうことになり、そのかたちで現在までつづいてい ます。[図 5]は各回の平均スコアの推移を示した ものです。それを見るとわかるように、平均スコア は 460 点代から 480 点代の間でほぼ推移しており、
徐々に上昇傾向にありましたが、480 点代で最近は 落ち着きをみせています。
また最初しばらくは、入学時よりも 1 年期末時の 方が平均スコアが上がり、2 年期末時では少し下が るものの入学時よりは依然高いスコアを保ってい る、というのが特徴でした。しかし、回数を重ね、
全体的にスコアが上がるに従ってそうとばかりもい えなくなり、それにかわって 3 回の平均にさほど差 がなくなってきたのがひとつ特徴となってきたよう に思われます。そんななかで、13 年入学のいまの 5 年生が、1 年入学時よりも 1 年期末、1 年期末より も 2 年期末と平均スコアを次々と上げていったこ と、15 年入学のいまの 3 年生が 3 回すべてにおい て 485 点以上の高スコアを獲得していること、これ らはとくに注目すべき点かと思われます。
なお、左に最低点 310、最高点 677 とあるのは、
TOEFL
-ITP においては事実上のゼロ点にあたるの
が 310 点、全問正解満点をとると 677 点ということ です。また、この TOEFL
-ITP のスコアは、一般的 に 500 点以上で(アメリカの大学への)学部留学レ ベル、550 点以上で大学院留学レベルの英語力とい われています。
次に、その 500 点以上、550 点以上の学生数を棒 グラフで示してみます[図 6〜8]。これらを見ると、
500 点以上の学生数はほぼ平均スコアに対応してい ることがわかります。その一方で 550 点以上のトッ プクラスの学生数は、とくにこの 4、5 年は、平均 スコアの上下に関わらずだいたい 6 名前後でほぼ一 定となっていることもわかります。16 年入学のい まの 2 年生は 1 年次の 2 度のテストでは 550 点以上 はともに 3 名と、最近としては少人数でしたが、先 月行なわれました 2 年期末時のテストでは 6 名の
図
5
図8
図
7
図6
550 点以上の学生を出しました。
近年は TOEFL
-ITP の存在も学生の間に定着し、
学生の英語力、ならびに学習姿勢を計るよき指標と なっています。ひとつ重要なこととして、2014 年 度年度末のテストより東京医科大学医学部医学科同 窓会がスコア 550 点以上の成績優秀者に「TOEFL 優秀賞」として褒章を与えてくださるようになった ことを挙げねばなりません。これは英語の得意な学 生、真剣に試験を受ける学生をさらに奮起させるす ばらしいモチベーションとなっています。東京医科 大学医学部医学科同窓会の皆様にはこの場をお借り して改めて御礼申し上げます。
最後となりますこのスライド[図 9]は私が 2 年 生の英語の授業で使っていたプリントのひとつで す。2 年生の英語では私は医療関係の英文記事を学 生たちと読んでいました。この記事は、いまから半 世紀以上も前の 1961 年のこと、ソビエト南極探検
隊の一員であった若い医師ロゴゾフが、他に医療関 係者がおらず、設備も満足に整っていない極寒の地 で、自ら虫垂切除の手術を行なったというものでし た。ロゴゾフの当時の日記がそのときの様子を生々 しく伝えていて、思わず引き込まれてしまう興味深 い記事でした。何よりも当時 27 歳だったという若 い医師の決断力、意志の強さ、冷静な判断、仲間た ちへの思いやりには心を打たれるものがありまし た。
ロゴゾフは 2000 年には亡くなりますが、晩年、
国がその功績を讃えようといろいろ話を持ちかけて きてもまったく取り合わなかったといいます。そん なときにはたいてい笑って、A job like any other, a life like any other といって断ったというのがこの記 事の結びになっていました。その言葉の意味は、人 と同じように自分も自分の職務を果たしただけ、人 と同じように自分も自分の人生を歩んだだけという ようなことかと思われます。
私の仕事は英語を教えることですので人の命とは 直接関わりをもちませんが、将来人の命と深く関わ ることになる若い学生たちと、27 年間、授業を通 して交わりが持てたことは、私にとって貴重な体験 でありました。このようなすばらしい機会をあたえ ていただいたこと、また翻訳に専念できる生活基盤 をあたえてくださったことに対しまして、東京医科 大学の皆様には深くご恩を感じており、ここにあつ く御礼申し上げるしだいでございます。
これで私の最終講義を終わりといたします。ご静 聴ありがとうございました。
図