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Vol.47 , No.2(1999)005則武 海源「西チベット仏教史の一考察」

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Academic year: 2021

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印 度 學 佛 教 學 研 究 第 四 十 七 巻 第 二 号 平 成 十 一 年 三 月 一 八

西

西 チ ベ ッ ト は 仏 教 史 で ガ リ ・ コ ル ス ン (ガ リ の 三 区 分 ) と し て 登 場 し 、 古 く か ら 仏 教 信 仰 の 一 大 拠 点 で あ る 。 ガ リ ・ コ ル ス ン の う ち 本 論 で は 得 に 現 在 の ガ リ 地 区 を 中 心 と し た 地 域 を 対 象 に す る も の で あ る 。 ガ リ 地 域 は ト デ ィ ン 僧 院 、 グ ゲ 王 城 跡 な ど が 現 存 し 、 チ ベ ッ ト 仏 教 文 化 財 の 面 か ら も 重 要 な 地 域 で あ る 。 し か し こ の 地 域 の 歴 史 そ の も の あ る い は 仏 教 発 展 に 関 す る 歴 史 的 見 地 は 空 白 の 部 分 が ( 1 ) 多 く 、 民 族 あ る い は 王 統 の 系 列 に も 多 く の 問 題 を 抱 え て い る 。 本 論 に お い て は こ の ガ リ 地 域 に 焦 点 を 当 て 、 仏 教 史 的 観 点 を 踏 ま え て 小 考 を 行 う も の で あ る 。 一 、 女 国 と 西 チ ベ ッ ト 漢 文 資 料 に お い て 現 在 の 西 チ ベ ッ ト ・ ガ リ に 相 当 す る 地 域 が 中 国 文 献 の 中 で 登 場 す る の は ﹁女 国 ﹂ と い う 名 称 で あ る 。 ( 2 ) こ の ﹁女 国 ﹂ は ﹃ 階 書 ﹄ に 次 の 箇 所 を 見 い 出 す こ と が で き る 。 女 国 在 葱 嶺 之 南 其 国 代 以 女 為 王 王 姓 蘇 毘 字 末 掲 在 位 二 十 年 女 王 之 夫 号 日 金 聚 不 知 政 事 ⋮ 亦 数 与 天 竺 及 党 頂 戦 争 ・ ・ と あ り 、 女 国 の 位 置 は 葱 嶺 の 南 で 隣 接 し た 天 竺 や 党 頂 と 争 え る 位 置 に あ る と い う こ と に な る 。 ﹁ 女 国 ﹂ と ﹁東 女 国 ﹂ に 関 し て い く つ か の 論 文 が あ る が 、 中 国 文 献 で は ﹁女 国 ﹂ の 内 容 と ﹁東 女 国 ﹂ の 内 容 が 混 在 し て 記 ( 3 ) さ れ て い る よ う で あ る 。 新 ・ 旧 唐 書 で は 以 下 の よ う に 記 さ れ て い る 。 東 女 亦 曰 蘇 伐 刺 肇 雀 咀 羅 莞 別 種 也 つ ま り 、 東 女 国 は 莞 の 別 種 と い う こ と に な る 。 莞 は 中 国 北 西 部 に お け る チ ベ ッ ト 系 遊 牧 民 で あ り 五 胡 と し て 数 え ら れ て い る 。 蘇 伐 刺 肇 盟 咀 羅 と い う 名 は 、 玄   の ﹃ 大 唐 西 域 記 ﹄ 巻 ( 4 ) 四 に 見 る こ と が で き 、 此 国 境 北 大 雪 山 中 有 蘇 伐 刺 肇 盟 咀 羅 国 唐 言 金 氏 出 上 黄 金 故 以 名 焉 東 西 長 南 北 狭 即 東 女 国 也 世 以 女 称 国 夫 亦 為 王 不 知 政 治 丈 夫 唯 征 伐 田 種 而 巳 ・ . ⋮ 東 接 吐 蕃 北 接 干 閲 西 接 三 波

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西 チ ベ ッ ト 仏 教 史 の 一 考 察 (則 武 ) 一 九 詞 国 と あ る 。 こ の ﹃ 西 域 記 ﹄ の 内 容 か ら こ こ で 言 う 女 国 は 吐 蕃 の 西 、 干 閲 の 南 に 位 置 す る と 言 う こ と に な る 。 こ の 場 所 は 現 在 の ガ リ 地 域 に 相 当 す る の で は な か ろ う か 。 吐 蕃 成 立 の 同 時 期 に こ の ガ リ 地 域 に は 国 家 が 存 在 し た と い う こ と に も な ろ う 。 こ の 国 家 が 吐 蕃 と 同 種 で あ る か は 文 献 か ら は 特 定 で き ず 、 王 統 の 繋 が り が あ っ た と い う 記 載 も な い 。 ま た 、 仏 教 が こ の 地 域 で 信 仰 さ れ て い た と い う 記 事 も な く 、 こ の 時 代 は ま だ 仏 教 が こ の 地 に 根 付 い て い た と い う 確 証 を 得 る こ と は で き な い 。 し か し な が ら 西 を カ シ ミ ー ル に 接 し 、 北 を 干 閲 、 南 を 印 度 に 接 し て い る こ の 一 帯 に 、 仏 教 の 伝 達 が 全 く な か っ た と は 到 底 考 え ら れ ず 、 ﹁女 国 ﹂ が ガ リ の 地 に 存 在 し て い た の で あ れ ば ﹁ 女 国 ﹂ 自 体 に も 早 く か ら 交 易 ル ー ト を 通 じ て 、 仏 教 の 何 ら か の 影 響 が 見 ら れ て い た と し て も 何 も 不 思 議 は な い こ と で あ る 。 二 、 吐 蕃 と 西 チ ベ ッ ト ・ ガ リ チ ベ ッ ト に お け る 最 初 の 統 一 王 国 は 周 知 の 通 り 吐 蕃 で あ る 。 通 称 ダ ル マ と 呼 ば れ て い る 吐 蕃 最 後 の 王 の 破 仏 を 機 に 吐 蕃 は 滅 亡 し 、 そ の 子 孫 達 が 西 チ ベ ッ ト に 逃 れ た と い う 記 述 も あ る が 、 こ の 吐 蕃 最 後 の 王 と い わ れ る ダ ル マ 王 の 子 孫 達 と こ の 西 チ ベ ッ ト ・ ガ リ が ど の よ う し て 結 ば れ て い る の か 、 そ の 経 緯 を こ こ で 考 察 し て み る 。 ま ず ラ ン ダ ル マ の 在 位 年 の 確 認 で あ る が 、 こ れ は 諸 説 が あ ( 5 ) り 確 定 し て い る わ け で は な い 。 ラ ン ダ ル マ の 在 位 年 に 関 し て は デ プ ゴ ン に よ る と ( 6 ) と あ り 、 八 三 六 年 チ ツ ク デ ツ ェ ン レ ル パ ン チ ェ ン の 後 を 受 け 、 即 位 し た と い う も の で あ る 。 つ い で 、 ( 7 ) と あ り 、 辛 酉 の 年 す な わ ち 八 四 一 年 に ペ ル ギ ・ ド ル ジ ェ に 暗 殺 さ れ た と あ る 。 へ 8 ) こ れ と 同 じ 内 容 が 、 フ ゥ ラ ン 史 に も み ら れ 、 当 初 は こ の テ プ ゴ ン の 年 代 が 信 懸 性 の あ る も の と さ れ て き た 。 し か し 近 年 の 研 究 で は 、 ダ ル マ の 廃 仏 の 年 代 は 他 の チ ベ ッ ト 文 献 に お い て も 八 四 一 年 と し て あ げ て い る も の の 、 先 述 の 通 り ダ ル マ の 即 位 か ら 没 年 時 に 関 し て は 大 き な 開 き が あ る 。 サ キ ャ パ の タ ク パ ギ ェ ン ツ ェ ン の       ﹃ チ ベ ッ ト 王 統 記 ﹄ の 記 述 に 従 っ て ダ ル マ

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西 チ ベ ッ ト 仏 教 史 の 一 考 察 (則 武 ) 二 〇 王 の 該 当 個 所 を ま と め る と 、 以 下 の 通 り で あ る 。 長 兄 の ツ ァ ン マ は 庚 辰 の 年 (八 ○ ○ ) に 政 を 行 わ ず 、 ロ ー タ ク ・ 、ブ ム タ ン で 、 ロ ブ サ レ ク ジ ェ と ナ ナ ム マ ン モ ジ ェ に よ り 毒 殺 さ れ た 。 そ の 系 列 は 今 な お あ る 。 真 ん 中 の 子 猿 頭 ラ ン ダ ル チ ェ ム コ (ラ ン ダ ル マ ) は 癸 未 (八 〇 三 ) 、 十 五 歳 の 時 父 が 亡 く な り 、 十 九 歳 の 時 弟 が 亡 く な っ た の で 、 そ れ か ら 政 を 行 い 、 六 カ 月 悪 行 の 王 と な り 、 辛 酉 の 年 (八 四 一 ) の 末 、 正 法 を 滅 し 、 そ れ か ら 六 ヶ 月 半 悪 行 の 王 と な り 、 総 じ て 一 年 半 に お よ ぶ 。 犬 の 年 (八 四 二 ) に 菩 薩 の ペ キ ト ル ジ ェ に 殺 さ れ た 。 オ ス ン と ユ ム テ ン な ど は 兄 弟 で あ る 。 . . ・ こ れ に よ る と 八 四 二 年 に 没 し た と い う 見 方 が で き る の で あ る 。 さ て 漢 文 献 で は ﹃ 旧 唐 書 ﹄ で は ダ ル マ と い う 記 述 は 見 い だ す こ と が で き ず 、 ﹃ 新 唐 書 ﹄ や ﹃資 治 通 鑑 ﹄ で は 會 昌 二 年 ( 八 四 二 ) に な く な っ た と し て い る の で あ る 。 生 年 や 即 位 の 年 代 に 関 し て は チ ベ ッ ト ・ 漢 両 文 献 に お い て 不 確 定 要 素 が 多 く み ら れ 諸 説 に お い て 言 及 さ れ る で あ ろ う が 、 没 年 時 に つ い て 億 八 四 二 年 と い う も の が 現 時 点 に お い て は 多 数 み う け ら れ る と こ ろ で あ る 。 三 、 ダ ル マ 以 后 の 西 チ ベ ッ ト . ガ リ そ れ で は 西 チ ベ ッ ト 、 特 に ガ リ が 大 き く 仏 教 史 上 の 文 献 に 登 場 す る の は い つ 頃 か ち か と い う と 、 ダ ル マ が 没 し 吐 蕃 王 国 は 崩 壊 し 、 小 国 が 割 拠 す る 頃 か ち で あ る 。 つ ま り 九 世 紀 中 葉 以 降 と い う こ と に な る 。 フ ゥ ラ ン 史 に 沿 っ て ガ リ 地 域 の 地 名 が で て く る 箇 所 を 探 す ( 10 ) と ま ず こ の よ う に 記 さ れ て い る 。 教 法 の 後 期 弘 通 の 生 じ た 有 様 は 、 ラ ン ダ ル マ が 教 法 を 破 壊 し た と き 、 ペ ル チ ュ ウ ォ リ に お い て ツ ァ ン の ラ プ セ ル ヨ の ゲ ジ ュ ン マ ル の シ ャ ー キ ャ ム ネ の 3 人 は 毘 奈 耶 を 一 匹 の 螺 に 積 ん で ガ リ へ 逃 れ て 、 カ ル ロ ッ ク か ら ウ イ グ ル の 国 を ま わ っ て 、 ド カ ム メ の ア ン チ ュ ン ナ ム ゾ ン に 到 着 し た 。 こ れ は ダ ル マ 王 の 代 に 吐 蕃 王 国 が 崩 壊 し た 後 、 仏 法 を 護 持 す る た め 上 述 の 三 名 が 西 チ ベ ッ ト の ガ リ に 逃 れ た と い う も の で 、 フ ゥ ラ ン 史 の 後 述 で は そ の 後 の 様 子 が 以 下 の よ う に 記 さ ( 11 ) れ て い る 。 オ ェ ス ン 王 の 御 子 ペ ル コ ル ツ ェ ン は 8 つ の 寺 院 を 建 立 し た 。 そ の 大 后 の 御 子 は キ デ ニ マ ゴ ン で あ り 、 小 后 の 御 子 は タ シ ー ツ ェ ク パ ペ ル で あ る 。 こ の 二 人 の 国 が 殆 ど ユ ム テ ン の 子 孫 に よ っ て 奪 わ れ た の で 、 ガ リ へ 逃 れ た 。 ・ ・ ・ ・ ・ ⋮ コ ル レ に 2 人 の 御 子 が あ り 、 ナ ー ガ ラ ー ジ ャ と デ ヴ ア ラ ー ジ ャ で あ る 。 こ の 御 父 子 た ち は 、 ト ン リ ン

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西 チ ベ ッ ト 仏 教 史 の 一 考 察 (則 武 ) 二 一 ぎ の 寺 院 を 建 て 、 チ ベ ッ ト の 少 年 27 名 を イ ン ド に 送 っ た 。 ダ ル マ の 子 孫 が 殆 ど 西 チ ベ ッ ト に 移 住 し て き た と い う 事 に な る の で あ る 。 そ し て こ の 一 族 の 中 で こ の 西 チ ベ ッ ト を 舞 台 に し て 勢 力 争 い を し て い る と い う 事 が 、 こ れ ら 一 連 の 内 容 か ら 容 易 に 理 解 で き よ う 。 コ ル レ は 後 に 王 位 を 弟 に 譲 り 、 ラ ラ マ イ ェ シ ェ ー ウ と な り 、 ア テ イ ー シ ャ を イ ン ド よ り チ ベ ツ ト へ 招 請 し た 首 謀 者 で あ る 。 コ ル レ の 意 思 を 継 い だ 弟 の 子 ラ デ の チ ャ ン チ ュ プ オ ェ に よ り ア テ ィ ー シ ャ は ガ リ に 入 っ た と あ る 。 ア テ ィ ー シ ャ は 、 史 書 が 等 し く 述 べ る よ う に 、 一 〇 四 二 年 に ガ リ の ト デ ィ ン 寺 に 到 着 し 、 ﹃ 菩 提 道 灯 論 ﹄ 等 を 翻 訳 し た 。 ど の 史 書 も ガ リ に お け る ア テ ィ ー シ ャ の 記 述 は ト デ ィ ン 寺 の み で あ り 、 グ ゲ 城 に 至 っ た と い テ 記 述 は で て こ な い 。 し か し 西 チ ベ ッ ト の ガ リ は 一 〇 四 二 年 前 後 に お い て 、 協 力 な 仏 教 国 と し て の 力 を 蓄 え て い た と 考 え ら れ る の で あ る 。 チ ベ ッ ト 史 書 に 関 し て も こ れ 以 後 、 ダ ル マ 以 降 途 絶 え て い た 仏 教 に 関 す る 記 述 が 多 く 見 ら れ る よ う に な り 、 こ の 時 期 に は ガ リ で は 既 に 仏 教 を 受 け 入 れ る こ と の で き る 環 境 が 整 っ て い た と 考 え ら れ る の で あ る 。 同 時 に こ の こ と は 仏 教 を 護 持 す る 、 つ ま り 寺 院 ・ 僧 院 を 建 て た り 僧 を 国 外 か ら 呼 び 寄 せ る こ と が で き る ほ ど の 強 力 な 国 家 権 力 が そ と に 存 在 し え 乏 い う 事 と も い え る の で は 訟 か ち う か 。 グ ゲ 古 城 の 寺 院 ・ 僧 院 の 成 立 年 代 に 関 し て は 十 五 世 紀 中 期 以 降 の も の と 考 え ら れ る 。 ( 12 ) ﹃ 黄 瑠 璃 鏡 史 ﹄ に よ る 該 当 部 分 は 以 下 の 通 り で あ る 。 こ れ に よ る と 、 グ ゲ 王 の ナ ム カ イ ワ ン チ ュ ク プ ン ツ ォ ク デ 1 3 5

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西 チ ベ ッ ト 仏 教 史 の 一 考 察 (則 武 ) 二 二 の 時 代 に グ ゲ の ッ ァ フ ラ ン に ロ タ ン 僧 院 が 建 立 さ れ た と ま ず あ る 。 そ の 後 、 ロ プ サ ン ラ プ テ ン が 殊 法 王 の 教 え を 広 め 、 そ の 妃 の ト ン チ ュ プ マ に よ っ て 紅 廟 が 建 立 さ れ 、 こ の ロ ブ サ ン ラ プ テ ン と ト ン テ ユ プ マ の 3 人 の 孫 に よ り 白 廟 と 大 威 徳 明 王 殿 が 建 立 さ れ た と 記 さ れ て い る の で あ る 。 そ し て 最 後 に ゲ テ ユ ン ギ ャ ム ( 13 ) ツ オ に ガ リ の 造 営 費 が つ か わ さ れ た と あ る 。 ゲ テ ユ ン ギ ャ ム ツ ォ の こ の 記 述 は 十 六 世 紀 中 葉 の こ と の よ う で 、 グ ゲ 古 城 の 寺 院 ・ 僧 院 は こ の こ ろ を 前 後 し て 建 立 さ れ て い る と 考 え ら れ る の で あ る 。 お わ り に 仏 教 が こ の 地 で 発 展 す る 土 壌 は 、 西 チ ベ ッ ト ・ ガ リ 地 域 の 地 理 的 環 境 か ら 見 て も 古 く か ら 出 来 上 が っ て い た と 考 え ら れ る 。 も し ﹁女 国 ﹂ が こ の 地 に あ っ た と し て も 同 様 の こ と が い え よ う 。 し か し ﹁ 女 国 ﹂ の 末 喬 と そ の 後 の ガ リ と の 関 係 に 関 し て は 何 の 論 証 も さ れ て お ら ず 、 ま た ガ リ の 地 と 中 央 チ ベ ッ ト の 王 朝 と の 関 係 に お い て 考 察 す る 場 合 に も 、 チ ベ ッ ト の 史 書 に お け る 西 チ ベ ッ ト の 記 述 は あ く ま で も 中 央 チ ベ ッ ト の 歴 史 を 語 る 上 で の 一 通 加 点 で あ る 。 ま た 漢 文 献 に お い て も 空 白 が 多 い 地 で あ る た め 、 容 易 に 解 明 で き な い も の と な っ て い る 。 特 に こ の 西 チ ベ ッ ト ・ ガ リ の 仏 教 発 展 の 経 緯 と ど の よ う に 結 び つ い て い た の か と い う 点 に 関 し て は 、 ま だ 研 究 の 域 を 脱 し な い ま ま で あ る 。 1 2 巻 八 三 女 国 伝 3 佐 藤 長 ﹃ 古 代 チ ベ ッ ト 史 研 究 ﹄ 山 口 瑞 鳳 ﹃ 吐 蕃 王 国 成 立 史 研 究 ﹄ P ・ ペ リ オ な ど が 挙 げ ら れ る 。 特 に 山 口 氏 は 女 国 と 東 女 国 の 混 同 に つ き 述 べ ら れ て い る 。 4 正 蔵 五 一 巻 八 九 二 頁 5 で 八 四 二 年 ま た は 八 四 六 に 没 、 氏 は で 八 四 二 年 没 、 氏 は で 八 四 二 年 没 、 中 根 千 枝 ﹁チ ベ ッ ト 史 に お け る 年 代 基 準 の 決 定 に つ い て ﹂ ﹃東 京 大 学 東 洋 文 化 研 究 紀 要 ﹄ 五 で 八 四 一 年 没 と そ れ ぞ れ 述 べ て い る 。 6 デ プ ゴ ン 二 四 7 デ プ ゴ ン 二 四 二 五 8 フ ウ ラ ン 史 9 10 フ ウ ラ ン 史 11 フ ウ ラ ン 史

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西 チ ベ ッ ト 仏 教 史 の 一 考 察 (則 武 ) 二 三 12 13 ﹁東 方 ﹂ 8 、 東 方 学 院 で 山 口 瑞 鳳 氏 が ツ ァ フ ラ ン に つ い て 言 及 し て い る 。 デ プ ゴ ン = ﹃青 史 ﹄ 参 照 フ ウ ラ ン = 稲 葉 正 就 ・ 佐 藤 長 ﹃ フ ゥ ラ ン ・ テ プ テ ル ﹄ 京 都 参 照 ﹃黄 瑠 璃 鏡 史 ﹄ < キ ー ワ ー ド > ガ リ 、 西 チ ベ ッ ト 、 ラ ン ダ ル マ (立 正 大 学 専 任 講 師 )

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