南アジア研究 第28号 007書評・福味 敦「絵所秀紀・佐藤隆広(編)『激動のインド 第3巻 経済成長のダイナミズム』」
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(2) 書評 絵所秀紀・佐藤隆広 (編) 『激動のインド 第 3巻 経済成長のダイナミズム』. 現するという興味深い現象も指摘される。また後半では、工業化の経 験と労働市場の特徴に注目しながら、インドと中国の比較がなされて いる。中国に比してインドの工業化の停滞は顕著であり、それが経済 発展と貧困削減の面で相対的な遅れに帰結していること、またインド においては労働力の移動が緩慢であり、カーストや言語、あるいは労 働法など複合的要因による労働市場の分断が、その背景にあることが 指摘される。 インド経済の「転換点」に焦点をあてた「第 2 章 独立後インド経 済の転換点―供給制約型経済から需要牽引型経済へ」は、経済成長の ダイナミズムを長期的な視点から論じる本書にとって、いわば要となる 章である。その内容は多岐にわたるが、大きくは以下の「転換点」を めぐる三つの接近方法により整理される。すなわち第一のアプローチは 歴代政権の「経済政策」の検討であり、ここでは食糧危機をきっかけ とした国際収支危機と、経済統制の強化による対応という「経済危機 の伝統的パターン」が繰り返されなくなった1980 年前後に転換点があ るとみている。第二のアプローチは「成長トレンド」の分析であり、超 長期でみたときの第一の転換点は独立直後の1950 年、また第二の転換 点については経済自由化が本格的に始まった1991年ではなく1980 年前 後であるとの見解が根強いことがまず確認される。ただし後者につい ては異論も多く、例えば成長パフォーマンスの「性格」に注目した場 合、90 年代の成長は、民間部門の比重の急増、経済のサービス化、近 代的小売業の急成長など、80 年代までの成長とは質的に異なることが 指摘される。第三のアプローチは「経済構造」の転換点に注目するも のであり、インド経済は、独立後しばらくの特徴であった資本不足・ 農業余剰不足・外貨準備不足という供給制約から、70 年代後半より 徐々に抜け出し、つづく自由化の時代において、需要牽引方経済へと 転換したことが強調される。三つの意味での転換点は、連動しつつも 必ずしも一致しえないことに言及し、議論を結んでいる。 「第 3 章 貧困削減と社会開発」は、長期的な貧困・分配の変動を 確認することから議論を開始している。すなわち、多くの人が貧困ラ イン以下の生活を脱しつつあること、しかしながらそうした人々の所得 水準は依然として貧困ラインの近傍にとどまる傾向にあり、脆弱性と いう観点からは、厳しい状況にあることが、統計的にまず確認される。. 99.
(3) 南アジア研究第28号( 2016年). また、指定カースト・部族ほど所得は相対的に低く、カースト間格差 は今なお存在すること、所得分布の国際比較から、インドは中間層や 高所得層の購買力が相対的に小さく、市場規模としては発展途上であ ることもあわせて明らかにされる。また、社会開発の面においては、貧 困削減における一定の成果に見合う改善が進んでおらず、健康や教育 などの面で遅れは際立っていることが指摘される。こうした課題に応 えるべく自由化以降に推進された社会保障政策の現状が検討される。 ターゲティングの面で改善の余地が大きいこと、分権化の進展ととも に地域レベルでの政策の実施能力の格差が顕在化していることを課題 として提示している。 「第 4 章 金融システムと経済発展」は間接・直接の形態にとらわれ ず金融へのアクセスそのものを重視する立場から、インドの金融部門の 長期的な発展を概観している。その内容は包括的であるが、(1)金融 部門が、独立後長きにわかる金融抑圧から、自由化の時代へと転換す る経緯、(2)内生的成長モデルを中心に、マッキノンやシュンペータ ーなどの代表的な理論に基づく、経済発展における金融部門の役割の 確認、(3)金融深化プロセスの統計的検討、(4)家計部門の黒字が企 業・政府部門の赤字を支える資金循環構造の確認、(5)規制機関と規 制制度、銀行・証券・保険分野の代表的なプレイヤー、決済システム など金融インフラなど、金融システムの概観、(6)金融自由化と歩調 をあわせた財政改革の経緯と課題、以上の六点に整理できる。本章の 議論を通じて、民間部門から公的部門への半強制的なファイナンスが 輸入代替工業化を支える構造が、金融自由化と財政改革により変わり つつあるが、金融が真価を発揮し、その効果を最大限に享受するには、 さらなる改革が必要であることが示唆される。 「第 5 章 現代的小売業の発展」は、他国に比してまだまだ小さいと はいえシェアを高めつつある現代的小売業が、既存の流通や生産の構 造へ及ぼす影響が分析対象となる。議論を通じて、経済発展とともに 人々の選好に変化がみられる一方、文化・社会的要因による需要パタ ーンの多様性や、州間での制度・政策上の相違、未発達のインフラな どの問題により、各国の経験から予想される流通や生産への影響がイ ンドでは未だ限定的であることが指摘される。ただし、潜在的市場と して外国資本を魅了し続けており、外資参入による恩恵を適切に引き. 100.
(4) 書評 絵所秀紀・佐藤隆広 (編) 『激動のインド 第 3巻 経済成長のダイナミズム』. 出す政策的工夫が求められることが示唆される。補論「ナランタール・ アグラッサー小売業」は、小売業への参入を企図する企業のケースス タディであり、進出地域の選定、地域住民の需要、ライバル企業の動 向、求められるライセンス、損益のシミュレーションなど、企業が消 化すべき様々な課題を具体的に示すことで、第 5 章を補完している。 「第 6 章 企業部門と経済発展」は、独立後に統制経済の傾向を強 め、当初の理念とは裏腹に企業の活力が失われていく様を踏まえた上 で、1980 年代の公企業民営化の開始、1991 年以降のインド企業のグロ ーバル化など、企業とそのビジネス環境の歴史的変遷が、財閥、経済 団体の動向も含めて確認される。また政策転換以降、ダイナミックな 成長を続ける企業部門であるが、課題として、州の特徴、政策、各地 の産業資本化の動向によって企業発展に地域間格差が生じていること や、被差別カースト・部族がおかれたビジネスにおける不利な状況な どが指摘される。最後に、鉄鋼業に焦点を当て、タタなど財閥系と地 場中小企業の事例に基づきながら、激変する環境のなかで、企業がど のように発展してきたのか具体的に示される。本章の内容は多岐にわ たるが、経営者の出自となるビジネスコミュニティへの視点がひとつの 縦糸となっており、古来より商売を担ってきたコミュニティに加えて、 他カースト出身の「新しい資本家」の台頭が近年の傾向として言及さ れている。 「第 7 章 土地市場」は不動産市場に着目した数少ない学術研究であ る。不動産市場は活況を呈しており、とりわけ 2005 年の外資規制緩和 以降、同部門への資金流入は急増していること、ただし、土地市場制 度は未発達であり改善の余地が多く残されていることが指摘される。 その上で、地価が急激に上昇している現状について、動学的非効率性 の観点から検討すると、パラメータの設定によってはバブルが発生して いる可能性が否定できないことを指摘し、議論を結んでいる。 以上の様にいずれの章も、標準的な議論を踏まえつつも、直近の研 究成果のフォローと、統計に基づく議論を展開することで、インドの 経済成長の長期的な理解を試みている。また本書は、これまで必ずし も十分に分析されてこなかった産業に焦点をあてている点でユニーク なものとなっている。例えば、金融政策や制度に関する論考は多くあ るが、産業としての金融業に着目し、現状を詳らかにした学術研究は. 101.
(5) 南アジア研究第28号( 2016年). 少ない。この点については不動産産業についても同様であり、また導 かれたバブル発生の可能性という結論も興味深い。したがって本書を 通読することで読者は、インド経済を理解する上で必要な基本知識を 得るとともに、研究のフロンティアに触れることができるだろう。いわ ば今後のインド経済、開発経済学研究のインフラとなるべき必読の書 である。かかる本書の意義を強調した上で、課題として以下の二点を 挙げておきたい。 一つは、インフォーマル部門の取り扱いである。人口の 8 割を超える 人々が今なおインフォーマル部門に職を得ているが、同部門はインドの 経済成長や企業発展とどのように関係づけられるだろうか。無いもの ねだりではあるが、この点を含め、インフォーマル部門を中心に議論す る章があれば、労働市場の分断や工業化の遅れを指摘する第 1章や、貧 困削減をテーマとする第 3 章との関連からも、本書の完成度をより高め たのではないだろうか。 二つに、インド経済の特異性をどう扱うかという、本シリーズのテ ーマとも重なる、より大きな課題に言及しておきたい。本書を通読す ることで評者のなかに残ったのは、伝統的社会が溶解する一方、今な お様々な局面で少なからぬ影響を及ぼす、インドの特異性であった。イ ンドの経済成長はマクロ的には標準的なパターンをみせることもある が、足下をみるとグランドセオリーから乖離する点が多々見られる。本 書を構成する各章に通底するのは、グローバル化がインドにとっての 最大の「黒船」であったとの基本認識であるが、理論的に整理が困難 な事象については、その解釈と検討が読者に委ねられた部分も多い。 「激動のインド」から、広い意味での理論へのフィードバックを目指し て、冒険を開始しても良い頃かとの印象を持った。 もっとも以上の点はいずれも評者の自戒を込めた指摘であり、本書 の価値を減じるものではないだろう。急速に姿を変えつつあるインド経 済に関心を寄せる全ての人々が手に取るべき書であることを改めて強 調し、筆を擱きたい。 ふくみ あつし ●兵庫県立大学. 102.
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国立極地研究所 広報室職員。日本 科学未来館職員な どを経て平成26年 から現職。担当は 研究成果の発信や イベントの 運 営な