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南アジア研究 第27号 002研究ノート・田中 鉄也「現代インドにおける「公益の仕事」としてのヒンドゥー寺院運営」

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執筆者紹介 たなか てつや●日本学術振興会特別研究員 PD、国立民族学博物館外来研究員 宗教学、 南アジア研究 ・田中鉄也、2014、『インド人ビジネスマンとヒンドゥー寺院運営―マールワーリーに とっての慈善・喜捨・実利―』、風響社。 ・田中鉄也、2015、「規制された寺院における『信仰の自由』の諸相―サティー犯罪(防 止)法によるラーニー・サティー寺院規制を事例に―」、『現代インド研究』、5、197-209 頁。 研究ノート

1

 はじめに

本稿は、ラージャスターン州ジュンジュヌー市に存するラーニー・サ ティー寺院を事例に、同寺院運営が依拠する「公益性」がインド独立以 前と以後でいかに変容したのか、そして寺院を支えるコミュニティがい かなる集団であるのかを具体的に明らかにする1。 ここで分析対象として取り上げられるラーニー・サティー寺院2は、ア グラワールに属するジャーラーンという名のリネージ出身の伝説的女傑 で、中世期に寡婦殉死を行いサティーマーター(サティー女神の意)と なったナーラーヤニー・デーヴィーを本尊として祀っている(表1)。こ の寺院は公に開かれた寺院として、ジュンジュヌー内外から多くの参拝 者が訪れる一方で、ジャーラーンの成員や同リネージが帰属するバンサ ル・ゴートラにとって、この寺院の意味は他と大きく異なる。主神のラー ニー・サティーはバンサル・ゴートラのクル・デーヴィー(家の女神の 意)とみなされているからである。

現代インドにおける

「公益の仕事」としての

ヒンドゥー寺院運営

―マールワーリー商人にとってのラーニー・サティー寺院―

田中鉄也

(2)

スデーシュ・ヴァイッドとクムクム・サンガリは、1950年代ラージャ スターン州で敢行された土地制度改革とラーニー・サティー信仰の隆盛 との関連性を指摘する。1952年に領主制が撤廃され、続く1954年に小 作人の土地所有権が認められたことが契機となり、ラージプートなど旧 地主層が伝統的な支配力を失う事態に陥った。そんな彼らが過去の威信 を取り戻すべく拠ったものが「サティーの伝統」とされ、50年代に同州 内で寡婦殉死の件数が増えたという。ヴァイッドらは1957年にカルカッ タで設立された同寺院の運営母体(慈善協会)に着目し、カルカッタに 移住したビジネスマンたちがこの時期に盛り上がった「サティーの伝 統」に影響を受け、伝統的権威を競い合うように寺院運営に乗り出した と解釈する[

Sangari and Vaid 1991: WS7-WS12

]。

50年代の土地制度改革とラーニー・サティー信仰の盛り上がりを関連 づけた彼女たちの先行研究は、旧地主層の没落と新たなパトロンとして の商人層の台頭を示唆する点で傾聴に値する。しかし後でも検討するよ うに、土地制度改革が始まる以前の1912年から同寺院の建立事業は始 まっている。それゆえ端的に50年代の土地制度改革だけが同寺院と新 表 1 ラーニー・サティー寺院概要 1 寺院名 ラーニー・サティー寺院(Śrī Rāṇī Satījī Maṇdir) 2 所在地 ジュンジュヌー市 3 州、県 ラージャスターン州ジュンジュヌー県 4 建立年代 1912年 5 起源年代 1295年(ヴィクラマ暦1352年) 6 主神名 シュリー・ラーニー・サティージー 7 碑文 6 8 区画 11 9 社殿 4 10 宿坊 6(全部屋数約750、うちAC付90) 11 牛小屋 なし 12 花園 2 13 鳩舎 1 14 公会堂 1(敷地外に1) 15 学校 1(敷地外に2) 16 診療所 1(敷地外に1) 17 図書館 2(敷地内の1は1988年から閉鎖)(敷地外に1) 18 食堂 1 19 敷地面積 82,400㎡(32ビーガー) [Gupta 1964]を下地に聞き取りに基づいて作成

(3)

たなパトロンの登場を促したと断定できないだろう3。ヴァイッドらの説 に対して、カルカッタに移住した寺院運営者たちの「故郷喪失」に注目 したアン・ハードグローヴの主張は、同寺院の登場の社会的背景を示唆 した点で幾分説得的である。彼女は寺院運営者たちがサティーマーター とクル・デーヴィーとを同一視している点に着目する。それは家庭の〈外 側〉と〈内側〉との両領域を象徴する存在として、コミュニティの「公 的なアイデンティティ」の拠り所となり得るという[

Hardgrove 2004:

256

]。ジャーラーンに帰属する寺院運営者たちは、もともと植民地期に 交易の機会を求めてカルカッタへ移住したマールワーリー商人として 知られる。その移動性ゆえに伝統的な基盤が脆弱になったからこそ、共 同体の出自を再確認し、コミュニティの紐帯を強化するために、ラー ニー・サティー寺院という「故郷」は創造されたというのだ。 ハードグローヴの分析は主張としては興味深いが、しかしながら説明 が不十分で疑問点が多い。例えば彼女の指摘するコミュニティが具体的 に誰を指し、この寺院は誰にとっての「公的なアイデンティティ」の源 となったのか。マールワーリー全体なのか、寺院運営者が帰属するリ ネージのジャーラーンに限定されるのか。またこの寺院がいかなる歴史 的背景の下に登場し、どのように運営され「公的なアイデンティ」とし て構築されたのか、ハードグローヴは十分に説明できていない。 そこで本稿ではまず同寺院建立のため1912年に組織された信託基金 に着目する。そして19世紀後半から20世紀初頭にかけてベンガル管区 で実施された信託法・所得税法の改正に従って、いかにマールワーリー 商人が寺院へ自分たちの財を寄進し始めたのかその動機を、政治経済的 並びに法的な文脈から明らかにする(第2節)。次に1957年の運営母体 となる慈善協会の設立を端緒に、独立後のインドにおける寺院運営の特 徴を、特に寺院を支えるコミュニティの構築と確定の動き(排除と包摂) に力点を置いて明らかにする(第3節)。特に本稿はインド独立を境に同 寺院運営の性格が変化した点に注目している。英領インド期からヒン ドゥー寺院は「公共の財」として管理・運営が求められてきたのだが、 独立を契機に法律が示す「公共の範囲」が明確に変容したのである。執 筆者はこの変容に従って寺院の具体的な性格付けがなされたと想定し ている。

(4)

2

 英領インド期におけるラーニー・サティー寺院運営

2-1 マールワーリー商人と慈善活動 本稿が主たる分析対象とするアグラワールは、マールワーリーと呼ば れるコミュニティの代表的な存在とみなされるが、すべてのそれがマー ルワーリーではない。端的にはラージャスターンに居住するアグラワー ルはマールワーリーとは言えず、ハードグローヴが指摘するように「彼 らはラージャスターンを離 れ て 初めてマールワーリーになる」 [

Hardgrove 2004: 6

]。すなわちその地域的出自4と、かつそこから離れ て別の地で生活する状況下にいる人々がマールワーリーという集団範 疇に適応される。 19世紀に入ると、商人たちは徐々に交易の拠点を求め、マールワー リーとして全国的に拡散し始めた。特に1860年代にデリー・カルカッタ 間の鉄道が完成したことによって、ベンガル管区への進出は加速した。 彼らはやみくもに商業機会を求めてカルカッタへ行ったわけではなく、 すでに当地で活躍中の商会を経営する親族を頼って移住した。このよう な親族組織を基にしたマールワーリーの互助的ネットワークは、特に婚 姻対象者をラージャスターンの出身地から選び、地域的な帰属性を維持 することによって強化されてきた[

Bayly 1978: 179-180

]。19世紀後半 になると、商品作物への投機によって財を築いた彼らは、カルカッタ管 区を中心にイギリス人商人とともに貿易・金融の支配的なポジションを 確立し始めた[

Markovits 2008: 202

]。 しかし彼らの移住先での経済的成功は、カルカッタ地元の社会から 「新参者」への嫉妬と羨望の眼差しを向けられることをも意味した。ラー ジャスターン的な服装、慣習そして言語など、彼らがコミュニティ・ア イデンティティの象徴として維持してきた「お国文化」は、カルカッタ での彼らの異邦人性をことさら際立たせた[小松

2013: 137-140

]。商 売でマールワーリーが誇る地縁に基づいた互助的ネットワークは、結果 として他のコミュニティからの富の独占を招き、「強欲で吝嗇、そして利 己的な商人」としてのマールワーリーのネガティヴ・イメージが形成さ れた。 そのような社会的評判を克服するために、もしくは少なくともコミュ ニティ内での威厳を回復する営みとして、寺院への寄付などは格好の手

(5)

段であったと言える。クリス・ベイリーが指摘するように、豪商たちに よる豪奢な祭礼市の実施は、自らの経済的成功の誇示以外に、地域社会 の大人物として各自帰属するコミュニティのための贈与をも意味した [

Bayly 1983: 373

]。英領インド期に入ると宗教的贈与のみならず、イギ リス人行政官が好むような「近代的な慈善活動」にも着手し始めた。彼 らは宗教的贈与と慈善活動を併用しながら、在地社会と植民地政府との 要望に臨機応変にこたえることによって、ビジネスの成功者とコミュニ ティの指導者としての立場を確保してきた[

Haynes 1987

]。 2-2 宗教的・慈善的な財と所得税の控除 ラージャスターンに居住していないマールワーリー商人が自らの商業 的利益を「故郷」に寄付する行為は19世紀後半から20世紀初頭にかけ て特に目立ち始めた。クロード・マルコヴィッツはその理由を、ベンガ ル管区など彼らが商売の拠点とする場所で所得税法が施行・改正される ことによって生じた「税金逃れ」であったとする[

Markovits 2008: 204

]。 この税金逃れは、より正確には1886年改正の所得税法から始まり、そ して慈善的ならびに宗教的信託法(1920年)や所得税法改正(1922年) によって完成した「宗教的そして慈善的な財産由来の所得の税金免除」 という制度枠組みにおいて説明される。

まず1886年改正の「所得税法(

The

1886

Income Tax Act

)」では「宗 教もしくは公益慈善目的のためだけに適切に用いられた財産由来の所 得」であれば所得税が控除されることが規定された[

Birla 2009: 55

]。 この改正に端を発し、所得税が控除されうる「公益慈善目的(

Public

Charitable Purpose

)」とはいかなるものか、それに関する法的議論が始 ま っ た。 例 え ば1890年 に 施 行 さ れ た「 慈 善 寄 進 法(

Charitable

Endowments Act

)」では、「貧者の救済や、教育そして医療の推進、ま たはその他全般の公益性のある目的(

any other objects of general

public utility

)を示すが、そこにはある宗教的な教義や信仰に特化する ような目的は含まれない」意味での公益慈善目的が定義づけられた5。そ して慈善活動を行う主体が植民地政府の認可を得た「公益団体」である ことが成文化された。ここで公益団体とは「宗教寄進法(

Religious

Endowments Act

)」(1863年)を基礎に登場した公益信託(

Public Trust

) と1860年に施行された「協会登記法(

Societies Registration Act

)」に

(6)

よって登場した慈善協会(

Charitable Society

)を意味する6。他方で 1882年に施行された「インド信託法(

Indian Trusts Act

)」のように、特 に宗教的な財産を私的に管理する私益信託(

Private Trust

)も存在する。

しかし1890年代以降、議論はますます複雑化していく。例えば世俗 的な慈善活動ではなく、巡礼客を宿泊させる宿坊や貧民への喜捨におけ るいわゆる「宗教的な」贈与活動になぜ「公益性(

General Public Utility

)」 が認められないのかが裁判で頻繁に審議され、行為ごとにその公益性が 認められ始めたのである[

Birla 2009: 119-134

]。最終的に1920年「慈 善的ならびに宗教的信託法(

Charitable and Religious Trusts Act

)」が 制定され、先述の公益団体による活動であれば、宗教的贈与とみなされ てきた行為にも公益慈善目的が認められた。続く1922年に改正された 「所得税法(

The

1922

Income Tax Act

)」では「慈善目的には貧者の救 済や、教育そして医療の推進、またはその他全般の公益性のある目的が 含められる」と明記され、寺院運営を含めた宗教的な公益活動は「その 他全般の公益性のある目的」のうちに定義されることとなった7。以来、 宗教的贈与と慈善活動の両方に関わる公益団体に所得税の控除という 「利権」が認知され始めた。 リトゥ・ビルラーによれば、19世紀後半から20世紀初頭にかけて実施 された所得税法・信託法の改正により、宗教的・慈善的の両方の活動を 含んだ公益活動が所得税の控除となるのかが明確化されるにつれて、 マールワーリーを初めとする多くの商業集団が、自らの商業的な利益 を、家族によって運営される「公的な基金」として再編するようになっ たという[

Birla 2009: 109]

。そしてその活動は公益慈善目的を果たす限 りにおいて、所得税が控除される点で彼らにとって非常に魅力的であっ た。このような彼らの「投機」の範囲は慈善団体の組織から寺院への寄 進へと多岐に渡った[Ś

arm

ā

1988: 144-161

]。そして本稿が特に注目 するのは(それまでは寺院とはならなかったような)個々の親族組織の クル・デーヴィーを祀った寺院が建立され、このような公益団体に運営 されるようになった点である。 2-3 家族のためか、公共のためか 以上のような宗教的・慈善的な財にかかわる法整備の下で、ラーニー・ サティー義捐基金は設立された。同寺院の運営委員会によれば、ナー

(7)

ラーヤニー・デーヴィーが寡婦殉死を行った1295年に作られた小さな 祠が寺院の原型であり、ジャーラーンのある家族によって代々受け継が れてきた。彼らによればこの女神信仰はおよそ700年もの間受け継がれ てきたとされるが、寺院として建立される計画が持ち上がったのは1912 年になってからである。この年ジュンジュヌーの地方名望家72名が集ま り、寺院建立のために「ラーニー・サティー義捐基金(

R

āṇī

Sat

ī

Sah

ā

yat

ā

Ko

ṣ)」が設立された[

Gupta 1964: 91

]。この信託基金設立によって、空 間的・精神的にある特定の親族集団に限られていた私的な女神信仰が寺 院建造物へと変質することが可能となった。公共空間で自らのクル・ デーヴィー信仰のあり方を他者へ明示するという意味で、基金設立は ジャーラーンにとって重要な転機といえる。 この義捐基金を説明する史料が限られているために、具体的に委託者 (寄付者)がいかなる人々であったのか全てを明らかにすることはできな い。しかし現在の寺院運営者によれば、一定数の委託者がマールワー リー・ジャーラーンで、基金の中心的存在であったという。例えば寺院 の敷地内の碑文等で確認できる人物として、当時40

,

000ルピーを寄付し たボンベイのマールワーリー商人シヴァチャンドラーエ・ジュンジュヌ ワーラーが挙げられる。「シンハドワール(ライオンの扉の意)」の名で 知られ、同寺院にとって象徴的な正面玄関に「この扉はヴィクラマ暦 1991年(西暦1934年)にボンベイ在住の豪商シヴァチャンドラーエ・ ジュンジュヌワーラーによって建立された」と記されている。彼は1957 年カルカッタで創立した慈善協会「ラーニー・サティー寺院」の初代理 事長に就任した。 カルカッタのマールワーリー社会の代表的な存在とされたスーラジ マル・ジャーラーンもまた当時の主要な委託者の一人で、本殿へと至る 壁面の「義捐基金寄付者一覧」に彼の名と寄付金43

,

000ルピーが記さ れている。後に詳述するように彼の息子モーハンラール・ジャーラーン は1960年代の受託者の一人となる。これらの事例から分かるように、同 寺院基金の委託者(パトロン)の一部は1957年からそのまま受託者に 就任したのだ。 ここで義捐基金設立の動機をいかに解釈できるだろうか。まず先述の 先行研究に従えば、ラージャスターンに居住していないマールワーリー が、自らの私的な財産を故郷の同寺院へ投資することで「公共の財」へ

(8)

と読み替えたと考えられる。税務当局へ多額の所得税を支払うぐらいで あれば、商人たちは基金を設立することでコミュニティの代表者として の社会的名声を望んだのであろう。しかしながら、本稿では所得税控除 以上の「経済的な恩恵」もが加味されていたと想定している。 例えば1941年にボンベイで登記された「ゴールダンダース・ゴーヴィ ンドラーム・ファミリー・トラスト」を見てみよう。ラージャスターン州 ジュンジュヌー県ナヴァルガル出身で、ボンベイ管区において綿花業で 成功したマールワーリー企業家ゴーヴィンドラーム・セークサリヤー (1888―1946)が自身の家族のために公益信託を設立し、委託者である 彼自身がその受託者を担った。興味深いことにその信託目的には「受託 者の判断で支援が必要だと思うヴァイシャやそれ以外のヴァルナに帰 属する貧しいヒンドゥー教徒に支援をさしのべる」ことと同時に「その 支援はナヴァルガルに在住の(アグラワールに帰属する)セークサリヤー の家族を最優先する」8と記されている。ボンベイの税務当局は1951年 にこの団体が創設者の親族成員のみにその支援を限定しているとして 「公益慈善目的」を果たさない「私的な」団体であるとみなし、所得税 控除の特権を破棄した。 この判例は、あるマールワーリーの公益団体が受託者の親族間の私的 な財産共有のために公益信託を利用していたことを断じたものである。 しかしより着目すべき点は独立を経て生じた「公益性」の変容にある。 端的に言えば20世紀初頭においては家族の貧しい成員を支援するため に公益団体を組織しても「公益慈善目的」を果たすとみなされたのだが、 一方で独立後それが認められなくなったのだ。1912年ラーニー・サ ティー義捐基金に参加したマールワーリー・ジャーラーンの一部は、自 らを委託者(寄付者)のみならず受託者(運営者)としても位置づけ基 金運用の核となった。彼らはその基金を通じて所得税控除を得るのみな らず親族組織への援助を主たる慈善目的とできると認知していたので ある。 寺院建立のための信託基金を基礎に1917年寺院敷地が確保されたこ とで寺院の建立事業は開始した。インド独立後ラージャスターン州が統 合されるまで(1956年)の間に寺院建設は着々と進展した。しかし独立 後このような受託者の親族間の私的な財産共有のために公益信託は認 可されなくなったために新たな「公益性」に則した寺院運営が求められ

(9)

るようになったのだ。

3

 現代インドにおけるラーニー・サティー寺院運営

3-1 コミュニティのためか、公共のためか

1957年2月7日「ラーニー・サティー寺院(

Shree Rani Satiji Mandir

)」 の名称でカルカッタにおいて「慈善協会(

Charitable Society

)」が登記 され、ジュンジュヌーの寺院の新たな運営母体となった。 独立後のインドでは、寺院運営の行政監督を一元的に統括するような 全インド的な行政組織は設立され得ず、その管理はそれぞれ各自州政府 によって実施された。インド憲法は当然ながら宗教団体の運営の自由権 を認めており、その団体の自治権や人事権等は、行政の介入を受けない 傾向が強い。他方でその自由は個々の利益や都合を優先できるわけでは なく「公の秩序、道徳および衛生を理由に制限される」[孝忠

2009: 88

]。 寺院運営が地方有力者の権力闘争や内部の諍いで腐敗・混乱しているた めに「公共の財としての寺院」の適切な管理を促すような行政指導も頻 発した[杉本

1999: 169-170

]。しかし州政府の介入は時に運営当事者 たちから大きな抵抗を招きそれが法廷闘争に至ることが多かったため に9、憲法26条(宗教団体の運営の自由権)に留意して司法が寺院と州 政府とを調停するようになったのである[

Chatterjee 2011: 68

]。 しかしこの状況は言い換えれば、各州政府が要請する寺院運営の行政 指導に沿う限り、寺院運営者たちは「運営の自由権」が保障されるとみ なすこともできる。ラーニー・サティー寺院の場合、西ベンガル州で公 益団体とみなされる「慈善協会」を組織し、「公益慈善目的」を果たす 限りにおいて寺院運営の自由が認められたと考えられる10。1957年にお ける慈善協会の設立は、寺院そのものはジュンジュヌーにあるもののカ ルカッタという遠隔地からマネージメントを行うというマールワーリー 的な寺院運営の試みでもあった。 現在、この寺院の運営母体は7名の受託者と44名の会員で構成されて いる(表2)。1957年カルカッタの登記当局に申請された団体の内規11 示すように、受託者や会員資格は「始祖ジャーリーラームの子孫である バンサル・ゴートラに帰属するもの」に限られる[

Jhunjhunuwala 1985:

7

]。7名の受託者12は、寺院に関する動産・不動産を含む全ての財産を 信託された存在で、寺院の財産管理の中枢を担う「理事会」を構成する。

(10)

財源は原則的に5部門からなる不動産並びに動産の寄付で構成され、公 益団体として所得税の控除を得るためには、寄付金による年間収入の 85%はその該当年度に使い切らないといけない(建物などへの寄付金は その改築・建設期間中は蓄財可能)。受託者の地位は生涯維持されるの だが、健康上の理由や(寺院財産の横領など)不祥事を理由に辞職する 表 2 慈善協会「ラーニー・サティー寺院」の概要

慈善協会 ラーニー・サティー寺院(Shree Rani Satiji Mandir) 創立年代 1957年2月7日

登記 西ベンガル州協会登記局 事務局 西ベンガル州コルカタ

受託者(Trustee) 理事会(Board of Trustees)7名

運営委員会 (Managing Board) 計21名 理事会/受託者7名 寄付会員7名 生涯会員7名 会員(Member) 計44名 寄付会員(Donor Member) 生涯会員(Life Member) 普通会員(Ordinary Member) 財源 (1)団体が運営する学校への寄付 (2)寺院敷地内の建造物への寄付 (3)寺院建築ならびに神像の装飾への寄付 (4)アカンド・ディーパクへの(灯明に常に足され続けられ るギーとしての)寄付 (5)鳩舎の維持管理への寄付 年収 ― 正規雇用* 計28名 現地責任者(寺院マネージャー)1名 現地責任者(学校マネージャー)1名 広報・受付担当 17名 会計担当 1名 情報通信技術担当 6名 出納担当 4名 祭司 6名 非正規雇用** 約50名 荷物持ち― 掃除夫― 宿坊担当― 食堂担当― 公会堂担当― *正規雇用者の場合、仕事は(1)10時から16時、(2)16時から22時の2シフト **非正規雇用者の場合、仕事は3組に分かれて、寺院が24時間機能するように、8時間シフトで勤務(深 夜は宿坊に泊まる巡礼者のため) [Jhunjhunuwala 1985]を下地に聞き取りに基づいて作成

(11)

場合は、残る受託者が会員のなかから候補者を選び、当該人物が51

,

000 ルピーの寄付金を支払うことで欠員が補充される。他方で会員は寄付会 員、生涯会員そして普通会員に分類され寄付会員のみが受託者になれ る。会員資格が永続する寄付会員と生涯会員になるためには各々11

,

000 ルピー、5

,

100ルピー要する。寺院最大の祭礼(8-9月頃)の時期に、全 ての会員と受託者で構成される「寺院委員会」の年次大会が開催され、 寺院運営の統括機関である「運営委員会」の選挙が実施される。ここで 14名の会員が選ばれ7名の受託者とともにその年の運営委員会を形成 する。 ここで団体の信託目的からこの寺院が誰/何のために運営されてい るのか見てみよう。

a )

ラージャスターン州ジュンジュヌーに存するラーニー・サティー 寺院を接収し、管理をすること、並びに当該協会に帰属する寺院敷 地内のラーニー・サティー及びその他の神々への奉仕、参拝、そし て儀礼を実施すること、

b )

当該協会が適切と考える神々の神像・参拝場所を建設すること、

c )

貧者を救済するための養老院、病院そして施薬所、並びにアグ ラワールに帰属する巡礼者が滞在することができる宿坊を設立・運 営すること、

d)

ヒンドゥー教の理念に則した慈善的・宗教的組織を設立・運営す ること、

e)

病院、学校、孤児院、そして未亡人の隠遁所を設立・運営し、未 亡人や貧者への支援を行うこと、

f )

ラーニー・サティーやそれに関わる他の神格の起源を調査するこ と、一般の人々へこれら神々の教えや理想を喧伝すること、そして これら神々の神像を建立すること、

g )

宗教、科学、文学、音楽、文化、そして芸術を促進し、特にア グラワールにこれら有益な知識を普及させること[

Jhunjhunuwala

1985: 1-2

]。 ここでは宗教文化の保護・推進と同時に、広く一般の人々が利用しう る公共施設(学校や病院)の設立・運営も含まれている。その意味では

(12)

受益者を社会一般に想定した「公益慈善目的」が果たされている。他方 でこの団体が帰属するアグラワールを受益者とした信託目的も存在し ている点に注意されたい。この信託目的が示す通り、同寺院では現在、 その参加・利用資格をバンサル・ゴートラ出身者のみに限定する祭礼や 施設が多い。例えば同寺院の敷地内に存在する宿坊の利用がその典型 である。 最大の年中行事であるメーラー(祭礼市の意)として知られるバード ラパダ・アマーヴァスヤー13では、6棟の宿坊には収まりきらずに、中庭 等に仮設の寝台をつくならければならないほど混雑するのだが、仮設で の宿泊でさえバンサル・ゴートラに限られる。同ゴートラの出身者か否 表 3  ラーニー・サティーの家系目録

(Śrī Rāṇī Satījī ke Vaṅśajõṅ kā Baiṅk)(2012 年度版)

1 カタールカー 28 ダーモーダルバースカー 55 マルシーサリヤー 2 カンタールスカー 29 デーヴラー 56 マラーヌーラカー 3 カナクシンフカー 30 ディーラースリヤー 57 マスクラー 4 カンドーイー 31 ナーガルワール 58 マハルワール 5 カレールワー 32 ナーガルダースカー 59 ムスニヤー 6 カーンベーリヤー 33 ナールサリヤー 60 モーダー 7 カーンカルカー 34 ナルプリヤー 61 モーディー 8 カールナサリヤー 35 ヌーンワーワーラー 62 モーフーカー 9 カースリター 36 ネーマーニー 63 ラームダースカー 10 クドゥクディワーラー 37 ノーパーニー 64 ルイーヤー 11 クヤール 38 ノープラーユカー 65 ラッルバールカー 12 ギドーリヤー 39 パターシヤー 66 ラーンガル 13 チョウドリー 40 パルマーナンドカー 67 ラーンディヤー 14 チャンダルセーンカー 41 パンサーリー 68 ルーンカラヌカー 15 ジャティヤー 42 パートーディヤー 69 ヴィシャンカー 16 ジャレービーチョール 43 パールディーワール 70 シヴチャンドゥカー 17 ジャーラーン 44 ピパリーワーラー 71 サマルトラームカー 18 ジャイトゥカー 45 ファテーフチャンドカー 72 サールネーカー 19 ジャジューカー 46 バターリヤー 73 スンダルセーンカー 20 ジュンジュヌワーラー 47 バーチュカー 74 スンダルダースカー 21 タムコーリヤー 48 バーンケーラーユカー 75 スルターニヤーン 22 ターンイーワーラー 49 バーンケーサリヤー 76 サーンワルラームカー 23 ティーダルマルカー 50 ブーブナー 77 ハルダースカー 24 タプシー 51 バッジューラームカー 78 ハーラン 25 タールモーパトカー 52 ボージュラージカー 79 ウダイラームカー 26 トゥルシヤーン 53 ボージャーニヤー 80 ウルドカー 27 ダヤーラームカー 54 マジュティヤー

(13)

かの峻別は、寺院の運営側によって80リネージ(2012年6月当時)がリ ストアップされた「ラーニー・サティーの家系目録」に従って寺院受付 で確認される(表3)。 以上から、この寺院は「バンサル・ゴートラのための寺院」と明確に 性格付けられていながらも、一方で「公共の財としての寺院」としての 必要条件も満たさねばならないという課題を常に抱えていると言える。 3-2 マールワーリー・ジャーラーンによる寺院の占有 20世紀初頭のように寺院財産の委託者(寄付者)と受託者(運営者) を同一にして「家族のための寺院運営」を先鋭化したのでは、独立後は 公益団体としての所得税の免除を得ることができない。従って一方では 寺院の「占有」を強化しつつ、他方で法的に許容される範囲で「占有」 を否定する必要がある。1957年以降のラーニー・サティー寺院運営の課 題は、寺院の利用をアグラワールやバンサル・ゴートラに制限しつつ、い かに「公益慈善目的」を果たすことができるのかという点に収斂される。 ここで「寺院の占有」を象徴する出来事として、1960年代初頭に起 きた事件、すなわち伝統的にジャーラーンに奉仕をしていたブラーフマ ン祭司と新設された運営委員会との間で寺院の管理権に関わる諍い、に 注目されたい。この祭司ラームダーリー・ジョーシーは、ジャーラーン の始祖ジャーリーラームの家庭祭司の家系に生まれ、代々祠を管理して きた一族の第4代目プジャーリーとされる。ジョーシー家14の伝承によれ ば、初代祭司はジャガンラーム・ジョーシーという名で、ラームダーリー の曽祖父にあたる。ジャガンラームは後述のタンダンダースの戦いに帯 同していた。ナーラーヤニー・デーヴィーが寡婦殉死を行った後に、遺 灰を馬に乗せて運び、馬が止まった場所に祠を建てる命令を、ラーナー と共に彼も受けたとジョーシー家では伝えられている。ジャーリーラー ムは彼をプジャーリーとして、ジュンジュヌーの祠への一切の管理を任 せたという。 しかし前述のように1912年に基金が組織されたことで状況は大きく 変化し、1920年代から巨大寺院建立事業が進められるほどの巨額の寄 付金が扱われ始めた。そして1957年にマールワーリー・ジャーラーンに よる慈善協会の設立を理由に、ジョーシー家は寄付金の管理を運営委員 会に一任するように求められた。第4代目プジャーリーのラームダー

(14)

リーと運営委員会との諍いは法廷闘争に至り、1962年カルカッタ高等裁 判所は寺院収益の管理権の分離を命じた。高裁の判断は、寺院建立・改 修のための寄付金は運営委員会の管轄とすべきだが、祭司に渡されるお 布施に関しては、ジョーシー家に管理権を認めるものであった[Navayug Rājasthān

(Aug. 26, 1962)

]。 カルカッタ高裁の判決以降、ラームダーリーも会員として寺院運営に 参加させるなどの妥協案が運営委員会から提案され、彼も一度はそれを 受け入れた。しかしその約束は果たされぬまま、運営委員会は別のプ ジャーリーを雇い入れ、彼は解雇された[Śekhāwāṭī Paramvīr

(Aug. 9,

2010)

]。この事件は、マールワーリー・ジャーラーンによる寺院の「占 有」を完了させた意味で、重大なメルクマールと言える。 3-3 寺院運営者としての正当性を得る さて1960年代からのラーニー・サティー寺院における運営委員会の 活動を概観すると、寺院を「占有」した上で受託者たちが何をしたいの かが明示される。注目すべき仕事の一つが「ラーニー・サティーの起源 譚」の編纂である。管見の限りでは起源譚の成文化が確認されるのは60 年代になってからである。 ジャーラーンの始祖ジャーリーラームは西暦1293年まで(現在の ハリヤーナー州)ヒサールの宰相であった。彼は、長男タンダンダー スの結婚相手に(現在のハリヤーナー州)マハム村の豪商グルサ ハーエマルの長女ナーラーヤニー・デーヴィーをと考えた。聡明で 美しいナーラーヤニーは、幼少から驚くべき宗教的能力を有してい た。ヒサール太守との諍いのため、タンダンダースは一族と妻を連 れて逃げようと試みたが、待ち伏せしていた太守の軍勢の攻撃を受 け殺された。ナーラーヤニーは、夫の剣を手に取り相手を全滅させ た後、従者ラーナーに看取られ寡婦殉死を行った(西暦1295年)。 彼女はラーニー・サティーとなってラーナーの眼前に顕現し、駿馬 に自分の遺灰を載せ、それが止まった場所に祠を建てるよう彼に命 じた。その馬はジュンジュヌーに止まり、ラーナーは一連の経緯と 彼女の命令をジャーリーラームに伝えた。ジャーリーラームは彼女 をクル・デーヴィーとしてあがめ、そこに彼女の祠を築かせた。ラー

(15)

ニー・サティーの恩恵によって彼の家は栄え、その子孫はジャーラー ンと呼ばれた。そしてジュンジュヌーはジャーラーンの発現地とし て知られるようになった[Barūā

1964: 43

]。 この要約からも分かるようにラーニー・サティーの起源譚は「ジャー ラーンの族譜」の役割を有している。族譜とは19世紀後半からインド諸 語で編纂されたカースト史であり、特定のカースト集団範疇の名のもと に、ヴァルナの帰属やそこに包含される家系の歴史が記述される。そこ には第一に「カースト総体の起源」が描かれ、その始祖が神話時代まで 遡って記述される。第二に「ゴートラの起源譚」へ移り、カースト総体 が幾つのゴートラで構成され、各自どのように発現したのかが記述され る。個々のリネージになると、それぞれ帰属するゴートラと共に、血統 がある特定の地名と結び付けられ「発現地」から数世代にわたってどの ように拡散されたかが記される。アグラワールもまた19世紀後半から本 格的に自らのカースト族譜を編纂し始めたのだが、すでにある程度の社 会的・宗教的地歩を獲得していた彼らにとって、族譜とは帰属ヴァルナ の上昇のためではなく、自らの優位性や出自の正統性の確認のためで あった[藤井

2003: 197-216

]。 ラーニー・サティーの起源譚に話を戻すと、アグラワールの18ゴート ラ構造など20世紀初頭に準備されたカースト枠組みを踏まえた上で、 ジャーラーンの起源が説明される。ゴートラ構造などは1870年代に出版 されたアグラワールの族譜でもすでに登場していたが、各ゴートラに帰 属するリネージが整理され、その代表的な名家と各々の事績に関する記 述は1937年のチャンドルラージ・バンダーリー他著『アグラワールの歴 史(Agavāl Jāti kā Itihās)』を待たねばならない。同著において、本稿が分 析対象とするジャーラーンを始め、ルイーヤーやトゥルシヤーンも登場 する。しかし残念ながらそこではラーニー・サティー寺院に関わる人物・ 団体の記述は見当たらない。唯一バンサル・ゴートラの各論において、 ジャーラーンの概略として「ヴィクラマ暦1354年(西暦1297年)にジュ ンジュヌーにジャーリーラームという名士がおり、彼の子孫が発展し、 ジャーラーンの名が有名になった」という記述が登場するだけにとどま る[Bhaṇḍārī et al.

1937: 235

]。 ラーニー・サティーの起源譚は1964年リシ・ジャイミニー・カウシク・

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バルーアーによって記されたジャーラーンの族譜『シュリー・スーラジ マル・ジャーラーン(Śrī Sūrajmal Jālān)』に登場する。スーラジマル・ ジャーラーン(1881-1938)とは(現在のチュールー県)ラタンガル出 身で第1次世界大戦以前にジュート産業で成功したマールワーリー企業 家である。彼は義父を頼ってカルカッタに渡来し、1907年にはマール ワーリー企業家のなかでは彼のジュート運搬船が初めて海外と直接貿 易を行い、カルカッタのマールワーリー社会で際立った財力を誇るまで に成長した[Barūā

1972: 417-422

]。同著は彼の息子モーハンラールを 中心に父親の栄誉を記念した事業として編纂された。1960年代にモー ハンラールは寺院の受託者の一人になり、同著は寺院の「正史」として 聖典化されたのである。 この起源譚にはラーニー・サティー以外にももちろんジャーリーラー ムの家系で彩られている。始祖から2代目カムラーラームそして第7代目 トゥルシーラームまで、ジュンジュヌーを拠点としていた15。トゥルシー ラームがトゥルシヤーンの始祖16である。ヴィクラマ暦1793年(西暦 1736年)にジュンジュヌーで大きな戦が勃発し、ジャーラーンやトゥル シヤーンの人々は、ジュンジュヌーを離れ、近隣のビーカーネールやファ テーフプル17へ移住した。それゆえ彼らは、その地の人々から「ジュン ジュヌーから来た人々」という意味で、ジュンジュヌワーラーと呼ばれ るようになったという[Barūā

1964: 45

]。 トーマス・ティンバーグが論じたように、19世紀からカルカッタへ移 り、成功したマールワーリー企業家でも多くがジュンジュヌワーラーと 呼ばれていたのだが、それは彼らの出身地(生まれた場所)がそうだっ たからからではなく、むしろ族譜におけるリネージの発現地が、ジュン ジュヌーであったからである[

Timberg 1978: 110

]。同著の編纂者であ るモーハンラールも彼の父と同じくラタンガル出身であり、公益団体の 他の受託者の多くもまたジュンジュヌー出身者ではなく他の近隣市町 村の出身者であった可能性が高い。この族譜の内容から分かるように、 実際にはジュンジュヌーに居住したことがないマールワーリー・ジャー ラーンが寺院の運営者として振る舞うための「正当性」が記されたとい える。

(17)

3-4 公益の仕事のためのコミュニティ策定 この族譜の最も興味深い点は、ジャーラーンだけではなく、それ以外 にもジュンジュヌーから離れる過程で、様々分派していったとされるリ ネージが計78個リスト化されている点である[Barūā

1964: 46

]。これは 現在、同寺院の諸施設を利用できる「ラーニー・サティーの家系目録」 の原型である。1964年版と2012年版を比較すると、10リネージ名が抜 け落ち、別途12リネージ名が新たに足されている。これは時代が流れる につれて、名前を変えたリネージ、また分派したリネージが生じたため で、常に刷新され続けている18。 厳密に言えば、バンサル・ゴートラに属するすべてのリネージがこの リストに符合するわけではなく、それをクル・デーヴィーとみなさない リネージも多い。しかし、始祖ジャーリーラームを出発点にジャーラー ンを頂点とした構造が描かれたこのリストに入れるか否かは、運営委員 会の判断にゆだねられる。すなわちこのリスト作成こそが同寺院を中心 にした「バンサル・ゴートラ」というコミュニティを策定する営為とい える。 ここで、このような特定のコミュニティに(宿坊の利用資格や祭礼の 参加資格を)限定した活動が「公益に資する」と見なされうる点に注目 したい。この問題は独立前後の1940年代から公益活動に関わる裁判で 長らく争われてきたテーマであったのだが、1970年代前半に一定の結論 を得た[

Rajaratnam

et.al.

2012: 158-163

]。端的に言えば、もしある公 益活動が、その委託者や受託者と(親族関係や縁故関係に基づく)直接 的に関わりのある範囲に限定して有益である場合は、それは「公益に資 する」とはみなされない。しかしながら、裁判所がその範囲から離れて カーストやゴートラの成員全般に及ぶ、またはその範囲がインド全土に 及ぶと見なす場合においては、それは「公益に資する」と判断されたの である。 言い換えれば、たとえ公益団体が設定する活動の対象者が、被差別 もしくは貧窮な状況におかれている場合でなくても、ある程度の広い (委託者・受託者と直接的に関わりのない)範囲であれば、それは判例 の上では「公益慈善目的」を果たしうるのだ。従って、ラーニー・サ ティー寺院の運営者たちが自らの解釈に従った集団範疇を構築し、寺院 を支えるコミュニティとしてのバンサル・ゴートラを策定する活動は、自

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らの「公益の仕事」の対象となる範囲を法的に適切かつ具体的に明示す る営為であるとも解釈できる。

4

 おわりに

本稿では「バンサル・ゴートラ」という特定のコミュニティのための 寺院でありながらも、公益団体によって「公共の財」として管理されて いるラーニー・サティー寺院の運営の特徴を分析してきた。 この寺院運営の端緒は1912年に設立された寺院建立のための義捐基 金まで遡ることができる。故郷ラージャスターンを離れ、植民地経済の 中心地に移住した多くのマールワーリー・ジャーラーンがその基金に参 加していた。基金設立の背景には、移住先で新参者として晒されたネガ ティヴなイメージの克服や故郷への貢献という社会的動機と共に、所得 税控除という経済的なインセンティヴも想定される。20世紀初頭にベン ガル管区で整備された所得税法・信託法によって、「公益慈善目的」に 宗教的・慈善的な活動を含むことが明文化され、それらに従事する公益 団体の財産への所得税が控除されるようになった。さらに注目すべきは 公益団体の受益者は委託者(寄付者)と同じ親族組織でも認可された点 である。この点を熟知していたマールワーリー・ジャーラーンはこの義 捐基金に参加し、委託者/受託者になることで少数の限られた縁者の経 済的利益のための基金運用を実現した。 しかしインドが独立し、寺院の大方が完成した頃になると、このよう な基金運用は認可されなくなった。すなわち寺院運営が依拠すべき「公 益性」がインド独立を境に変容したのである。「公共な財」としての寺 院はより社会一般に開かれた運営にシフトしなければ、所得税の控除を 得ることができなくなったのだ。その課題への対策としての第一歩が 1957年カルカッタに慈善協会を設立することであった。運営組織を整備 することで、一方では寺院の占有を強化し、他方で法的に許容される範 囲で占有を否定するようになった。 このような運営課題は、1964年の族譜編纂とラーニー・サティー家系 目録の策定において一定の解決に至る。特に家系目録から端的に見て取 れるように、この寺院は寺院を支えるコミュニティとして「バンサル・ ゴートラ」を具体的に定義することよって、それが委託者/受託者から の直接的な血縁関係を持たない大きさをもったコミュニティであること

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を明示した。結果として「バンサル・ゴートラにとっての寺院運営」が 「公益活動」に資すると証明できたのである。以上は現代インドにおけ る(少なくとも独立から1970年代までの)公益性の一端を指し示すもの と言えよう。 付記・本稿は、JSPS特別研究員奨励費(25・8700)の助成を受けた研究成果の一部である。原 稿執筆にあたっては的確なコメントをいただいた 2 名の匿名の査読者へ感謝申し上げる。 1 本稿は、主に2012年1月から9月にかけてジュンジュヌー市内で実施した聞き取りと史料調 査、そして2013年12月並びに2014年4月に実施したフォローアップ調査を基に構成する。 2 1987年ラージャスターン州デーオラーラ村で当時18歳のループ・カンワルが寡婦殉死した とされる事件は社会問題に発展し、翌年に寡婦殉死と同時にサティーマーター信仰をも禁 止の対象にした「サティー犯罪(防止)法(Commission of Sati 〔Prevention〕 Act)」が制定さ れた[田中 2002a: 268-275]。本法が制定されて以降、この寺院は原則的に研究者の参与観察 を認めていない。寺院の運営委員会曰く、特に非政府系諸団体やメディアによる強引な聞き 取りや運営の妨害などによって甚大な被害をこうむってきたためである。執筆者は条件付 きながら許可を得てこの寺院での聞き取りを行ってきた。しかし特に1988年以降の裁判な どの影響や寺院運営の変化などに関しては、あからさまな非協力(例えば質問に対する沈黙 や時に叱責)が徹底されている。またラージャスターン州政府の介入やそれに対抗するため の法廷闘争によって同寺院運営は大きく転換した。本稿では原則的に州政府の介入が始ま る88年以前の運営状況について論じている。88年以後の運営状況や法廷闘争については拙 稿を参照されたい[田中 2015]。 3 ラージャスターン州における50年代の土地制度改革から伝統的な祭祀・儀礼の場面でラー ジプートなど旧地主層の立場が揺らぎ始めた事例[三尾 1994: 341-345]が報告される一方 で、調査村落の水所有に着目した中谷が指摘するように、土地制度改革は旧地主層と旧小作 人層の階層差を必ずしも是正した訳ではない[2015: 30-32]。 4 語義的にはマールワーリーとはマールワール地方(現在のラージャスターン州中西部に相 当)出身者を意味し、16世紀中ごろベンガル地方にやってきた商業従事者の自称に由来する。 彼らは次第に同郷者を呼び寄せ商業の基盤を東インドに築き始めると、そこではマール ワール地方出身者だけではなく、ラージャスターンもしくはそれに隣接する地方出身の商 人たちに対してもその呼称が用いられるようになった[Timberg 1978: 10]。

5 Charitable Endowments Act, 1890, (No. 6 of 1890). 本法第二項に記載された「定義」は

http://bombayhighcourt.nic.in/libweb/acts/1890.06.pdf を参照(閲覧日2015年12月20日)。

6 1863年マドラス管区に続き、ベンガル管区でも発布された宗教寄進法は、宗教的な寄進(信 託)を「公的なもの」と「私的なもの」という2種類に分類した。「それまでは慈善的な財とし てであれば妥当と認可され、植民地政府によって管理されたように、1863年の条例によって 宗教的寄進もまた “公的”に管理され得るとみなされた。このような公的な宗教的寄進は、植

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民地政府が受託者や管財人そして事務官を任命することによって、認可されるようになっ

た」[Chatterjee 2011: 62]。ここで信託とは、委託者(Settler)が受益者(Beneficiary)のため

に受託者(Trustee)に財産を管理する権利を委託する制度で、特に社会全般を受益者とした 公益信託を指す[樋口 2007: 224-225]。また慈善協会とは「文化、科学、芸術やその他有益な 知識の促進、または慈善目的に資する組織」として公益活動が認められた組織を意味する

[Parameswaran 2013: 1]。その慈善目的に賛意を示す会員(Member)が集められ、会費とし

て運営資金を出し合うことで協会は成り立つ。

7 1922年度改正の所得税法第4条第3項に明記された公益慈善目的の定義はAll India Spinners’

Association v. Commissioner of Income Tax, Bombay, (1944)12 ITR 482 (PC), p.486を参照。

8 Trustees of Gordhandas Govindram Family Charity Trust v. CIT (1952) 21, ITR, 231 (Bom.), p. 235.

9 例えばタミルナードゥ州のナタラージャ寺院では、伝統的に寺院運営に関わってきた祭司 集 団 が「 ヒ ン ド ゥ ー 宗 教 慈 善 寄 進 局(Hindu Religious and Charitable Endowments

Department)」による寺院運営への介入(特に寺院を信託財産として維持管理するための運

営委員会の設立要求)に抗して裁判を通じて「信教の自由」と彼らなりの「運営の自治」を勝 ち取ってきた[田中 2002b: 165-167]。

10 西ベンガル州では公益団体は「西ベンガル協会登記法(West Bengal Societies Registration

Act, 1961)」によって管理される。同州の協会登記局に団体の活動目的と内規を提出し、協会

として登記される。他方で公益団体として認可されるためには、団体は「宗教的か慈善的い ずれかの協会」として所得税局に申請しなければならず、公益慈善目的が認可されれば所得 税控除の資格を受ける。The West Bengal Societies Registration Act, 1961 (No. 24 of 1961)

http://www.commonlii.org/in/legis/wb/act/wbsra1961357.pdf(閲覧日2015年12月20日)。 11 団体の信託目的と内規はラージャスターン州公文書館(ジャイプル)に保管されており、相 川愛美氏(デリー大学博士課程)のご厚意で参照させてもらった。 12 受託者はバンサル・ゴートラの中でも特にジャーラーン、トゥルシヤーンそしてルイーヤー という三リネージからこれまで選ばれてきた。 13 バードラパダとは北インドの祭事暦における5番目の月で、グレゴリオ暦における8月下旬 から9月上旬、そしてアマーヴァスヤーとは黒分第15日すなわち晦日を指す。この次に大き なメーラーとして「マールガシールシャ・クリシュナ・ナーヴミー」があり、ナーラーヤニー・ デーヴィーがサティーマーターになった生誕日として祝われる。マールガシールシャとは グレゴリオ暦で11月下旬から12月上旬、ならびにクリシュナ・ナーヴミーとは黒分第9日を 指す。 14 ジャーラーンの初代祭司ジャガンラームから数えると、現在の当主(B・S・ジョーシー)は第5 代目である。ジョーシー家の家系図から推察すると、ナーラーヤニー・デーヴィーの寡婦殉 死は200年ほど前の出来事とされるのだが、彼らの伝承は運営委員会によって存在しない 「異端」と処理された。彼らの伝承はジョーシー氏へのインタヴューから構成した(2011年9 月9日と2012年4月3日)。裁判と事件を整理するために参照した記事は共にジュンジュヌー 発行の地方紙のもので、ジョーシー氏のご厚意で閲覧させていただいた。 15 ジュンジュヌーを発現地とするジャーラーンの始祖ジャーリーラームはもともとヒサール 近郊マハム出身で、彼はそこに住み着いたナーレーラームから数えて7代目の当主であった [Barūā 1972: 415-416]。

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16 トゥルシーラームの5人息子の末っ子、ダーモーダルダースが、ヴィクラマ暦1779年(西暦 1722年)にジュンジュヌーに大きな階段井戸を建設し、その名声から彼らは「トゥルシヤー ン」と呼ばれるようになった[Barūā 1964: 45]。 17 この時ファテーフプルへ移住し、以来その地を発現地とするジャーラーンの分派をルイー ヤーという。ヴィクラマ暦1869年(西暦1812年)にマーニーラームが(現在のシーカル県) ラームガルに移って以降、主に綿花(Ruī)に関わる商業を生業としていたために彼らの家系 は「ルイーヤー」と呼ばれるようになった[Bhaṇḍārīet al. 1937: 235]。 18 現地責任者の1人で寺院マネージャーであるV・シャルマー氏へのインタヴューより(2012年 8月3日)。

参照文献

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Trustees of Gordhandas Govindram Family Charity Trust v. Commissioner of Income Tax (1952) Vol. 21, Income Tax Reports, 231 (Bombay).

〈新聞〉

Navayug Rājasthān (Jhunjhunu) Śekhāvāṭī Paramvīr (Jhunjhunu)

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Vaid, S. and K. Sangari, 1991, “Institutions, Beliefs, Ideologies: Widow Immolation in Contemporary Rajasthan”, in Economic and Political Weekly, 26-17, pp. WS2-WS18.

要旨 本稿は、ラージャスターン州のラーニー・サティー寺院を事例に、公益団体に よるヒンドゥー寺院運営の特徴を分析し、その活動が基礎とする「公益性」を明 らかにすることを目的とする。ジャーラーンという親族組織の極めて「私的」な 女神信仰は、カルカッタに移住してきたマールワーリー・ジャーラーンが1920年 代に自らの財産を「公的なもの」へと読み変えることで、寺院へと姿を変えた。 1957年に慈善協会を組織しこの寺院の占有権を勝ち取ることによって、受託者 たちはカルカッタを拠点とした寺院の遠隔地経営を確立した。彼らの寺院運営は 特定のコミュニティに限定した共助的活動に終始しているように見える。しかし それは「公共の財」としての寺院をいかに運営し、何をするべきかを熟知した上 で行われた「公益活動」と解釈できる。彼らは自らの活動が受託者に(血縁や 地縁などの意味で)直接的に関わりのある範囲に限定された「私的なもの」でな いことを証明するために、活動の恩恵を得る対象を具体的な大きさをもったコ ミュニティとして策定することで、彼らなりの「公益活動」を実現してきたので ある。

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Summary

Managing a Hindu Temple for the Public in Contemporary India: Marwari Merchants and Shree Rani Satiji Mandir

Tetsuya TANAKA

This paper discloses characteristics of Hindu temple management by a charitable society in Contemporary India, with a case study of Rani Sati temple in Rajasthan. This temple commemorates a legendary widow from the Jalan lineage of the Agraval caste, who became the lineage goddess in 1295. Despite the medieval origin of the goddess, the temple construction began in 1912 through the establishment of a trust fund by a group of wealthy merchants of the lineage. It took approximately forty years to complete the temple complex. In 1957, the charitable society for the temple manage-ment, “Shree Rani Satiji Mandir”, was registered in Calcutta. Although the temple managing board seems to focus on interests for a particular community, the Jalans, it deliberately conducts activities content with the purpose of “general public utility”, being fully aware of the function and framework of “charity”. Here, the definition of “general public utility” is satisfied with such purposes that the charitable society gives benefit to large enough portion of a group, at least larger than kin-relations of the settlers and the trustees. By composing the community history of the Jalans, Shree Rani Satiji Mandir has consciously proven that its activities contents with the definition of the general public utility in Contemporary India.

参照

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