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Microsoft Word - 季刊2-3_新井雄_.doc

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親台湾派・桑原寿二の思想と政治活動

井 雄

(国立政治大学歴史学科博士課程)

【要約】

日中国交正常化時期において、日本のマスコミ、政治家、企業家、 学者、評論家の多くが中華人民共和国(以後、中国と省略)1との「国 交回復」支持へと傾斜した。その潮流とは対照的に日本と中華民国 (以後、台湾と省略)との関係は悪化した。同時期において、台湾 との関係維持を表明することは、日本の世論すべてを敵に回すよう なものであり、ましてや台湾訪問などはとてもできそうにない雰囲 気が日本国内に蔓延していた。ところが、そのような環境において も、一部の政治家、学者、評論家の中には台湾擁護を主張し、中国 へと傾斜する日本世論と真正面から立ち向かった人々が存在した。 本論において取り上げる桑原寿二も、その一人である。 本論は、親台湾派と呼ばれた人々の思想及び活動を詳らかにする 上での一事例研究として、現代中国研究者・桑原寿二の思想を考察 し、さらに戦後日台関係における桑原の活動を取り上げ、桑原と彼

1 本論においては便宜的に、中華人民共和国政府を「中国」と記し、その略称を「中」 とする。また、中華民国政府は「台湾」と省略し、略称は「台」とする。また、中 国あるいは台湾が正統政府として主張するところの「中国」は括弧つきで「中国」 とする。

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を中心とする人脈が果たした役割を明らかにするものである。

【キーワード】

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一 はじめに

国家と国家の交流とは、つまるところ、人と人との繋がりである。 たとえ、政府間の交流が断絶したとしても、国家間における人的交 流がすべて断ち切られるわけではない。日台関係においても、それ は同じである。現在も日本と台湾に政府間関係はないが、経済、文 化交流を中心に人的交流は年々深化している。しかしながら、1972 年の日中国交正常化及び日台断交時期において、マスコミ、政治家、 企業家、学者、評論家の多くが中国支持へと傾斜した。その潮流と は対照的に日台関係は悪化した。同時期は、戦後の日台関係史上最 も冷え込んだ時期といえよう。そのような状況下において、台湾擁 護を表明することは、日本の世論すべてを敵に回すようなものであ り、ましてや台湾訪問などはとてもできそうにない雰囲気が日本に 蔓延していた。ところが、そのような政治的、社会的環境において も、一部の政治家、学者、評論家の中には台湾擁護を主張し、中国 へと傾斜する日本世論と真正面から立ち向かった人々が存在した。 本論において取り上げる桑原寿二も、その一人である。 桑原は、1908 年 6 月 22 日、和歌山県田辺市生まれである。1931 年、東京外語学校中国語学科卒業後2、北京に留学する。その後、満 州国協和会、華北政務委員会などの勤務を経て、1946 年に日本へ帰 国し、国際善隣協会資料主任、総合研究所中国部長、国際関係研究 所参与などを歴任した。1972 年から『問題と研究』の発行人を務め、 『問題と研究』出版株式会社が設立されると、1973 年 10 月から代表 取締役に就任した。また、1971 年 12 月、呉俊才・国際関係研究所主 任らと協力し、両国の学者、研究者を糾合し、「日、中『中国大陸問

2 現東京外国語大学。

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題』研究会議」3を組織した。また日本側の窓口である大陸問題研究 協会会長として、第3 回会議(1974 年)から第 18 回会議(1991 年) まで団長を務め、多くの日本側の学者、研究者を率い、中国研究と 日台両国の学術文化交流に多大な功績を遺した4。桑原は、日台断交 から2001 年に逝去されるまで、日台関係を影から支え続けていた人 物である。 本論は、親台湾派と呼ばれた人々の思想及び活動を詳らかにする 上での一事例研究として、桑原寿二の思想を考察し、また彼の戦後 日台関係における活動を整理し、桑原と彼を中心とする人脈が果た した役割を明らかにする。

二 桑原寿二の中国観と台湾観

前述の如く、桑原は『問題と研究』出版株式会社設立とともに代 表取締役に就任し、また「大陸問題」研究会議を組織し、同会議の 会長を務め、現代中国研究と日台両国の学術文化交流において大き な功績を遺した。桑原は日台関係の維持、発展に対し貢献したので あるが、その思想的背景はどのようなものであったのであろうか。 桑原が中国ではなく、台湾を支持した理由は以下の三つにあると考

3 「日、中『中国大陸問題』研究会議」の名称であるが、第 4 回会議より、「日華『大 陸問題』研究会議」となり、第 32 回会議より、「日台『アジア太平洋問題』研究会 議」と改名された。本論では、便宜上、「大陸問題」研究会議で統一する。 4 主な著書に『毛沢東と中国思想』(1969 年)『北京の異変』(1972 年)『中国の実像』 (1973 年)、『中国のなかの中国』(1980 年)、『中国の新しい選択』(1987 年)、『中国 が危ない』(1989 年)など、訳書に李天民著『周恩来』(1973 年)など。かかる長年 にわたる桑原の研究に対し、1990 年、中華民国から、紫色大綬勲章が授与されてい る。また、2000 年 2 月、第 15 回正論大賞特別賞(産経新聞)が授与されている。2001 年7 月逝去(『問題と研究』編集委員一同「桑原寿二先生のご逝去を悼む」『問題と 研究』、第30 巻 12 号、2001 年 9 月、1-3 ページ)。

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えられる。 1 桑原の「反共」思想 第一の理由は「反共」ということである。桑原の「反共」思想が 現れている事例として、1989 年 6 月の天安門事件に対する桑原の分 析が挙げられる。 ①天安門事件の結果は、共産主義体制そのものが末期的であり、 武力行使以外の他に手段がなくなったことを意味している。 ②民主化運動を「動乱・暴乱」と規定したことは、共産主義シス テムの失敗を実証した。 ③共産主義システムの失敗は、ソ連のエリツィン現象、ポーラン ドの連帯(独立自主管理労働組合「連帯」)の圧勝で証明された。 それは、共産圏を含めた全世界が反共であることの証明であっ た。 ④天安門の虐殺の結果、冷戦以来「反共」が最も悪質な反動とさ れてきたが、共産主義を信じるものが最も悪質な反動というこ とになった。 以上が、桑原が分析するところの「天安門の世界史的意義」であ る5。桑原は共産主義の危険性及び同システムの限界を把握し、共産 主義は世界に受け入れられる制度ではないと考えていた。 また桑原は中国の外交戦略を次のように分析している。中国の「統 一戦線と一点集中主義」とは、主要敵(ソ連)を確立し、その主要 敵 打 倒 を す べ て の 政 策 の 中 心 に 据 え る こ と で あ る と い う 。「 主 要 敵

5 桑原寿二「天安門・血の弾圧を考える」『問題と研究』(1989 年 7 月);所収桑原寿二 著・伊原吉之助編『賢人がみつめた中国』(東京:扶桑社、2002 年)、383 ページ。

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から身を守るため、日本との妥協は当然」であり、中国が日本と手 を結ぼうとするのは、「中国の伝統的な術策」に当てはめれば、「夷 を以て、夷を制す」ということである。「主要な夷を打倒するため、 他の夷と手を結ぶのは当たり前」という戦略である6 つまり、中国が日本に接近してくる理由は、ソ連打倒のための戦 略である。統一戦線の一環であるというのである。 桑原からすれば、西側陣営は、第二次世界大戦において、ソ連を 味方としたことが、ソ連強大化の跳躍台となったと考えており、中 国と手を結ぶことは、その過ちをもう一度繰り返すことと考えてい た7。中国を援助することは、近い将来必ず日本の脅威となる。それ を知るべしということである。桑原は、たえず共産主義の危険性を 強調しており、その脅威を誌上において何度となく訴えた。この「反 共」意識を礎に、桑原は台湾の重要性を考えていた。桑原は、日台 断交前の誌上において、以下のように台湾擁護を表明している。 我々に与えられた選択基準は、自由か共産かの価値観しかあ るまい。中国問題の核心は台湾問題になりつつあるが、そのま た核心は、この価値基準であろう。いま我々は、敗戦によって 得た唯一のこの価値をあまりにもお粗末にしてないか。自由を 脅かす左右両翼の全体主義は、いずれにしても排撃すべきであ ろう。それが“日本の筋”というものであろう8 中国は「自由」を脅かす共産主義の国家である。だからこそ、中

6 桑原寿二「中国・外交戦略のねらい」『週刊世界と日本』(1980 年 4 月 28 日)、所収 前掲桑原寿二著・伊原吉之助編、前掲書、245-246 ページ。 7 同上、246 ページ。 8 桑原寿二「日本の筋」『改革者』(1970 年 7 月、第 136 巻)、39 ページ。

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国を支持するのは危険であるということである。上記のような主張 を展開した時期、まさに日本の世論は中国へと大きく傾斜していた。 ゆえに、共産主義国家である中国を支持しようとする日本の世論に 対し、桑原は警鐘を鳴らしたのである。 また桑原は「共産主義世界の軒並みな経済崩壊はその国の指導者 の指導能力に問題があるのではなく、体制そのものの問題である」 と考えていた9。指導者の能力に関係なく、共産主義体制であること が危険なのである。それが、桑原の共産主義に対する考え方の基本 であった。だからこそ、自由主義陣営の一員である台湾との関係を 重視したのである。桑原は、台湾を自由を守るための砦と認識して いた。 2 桑原が見た中国と台湾の国内状況 桑原が台湾を支持する第二の理由として、中国経済に対する不信 及び台湾経済に対する信頼があった。70 年代初頭、桑原は台湾と中 国の経済状況を比較し、国際経済面における台湾の重要性を訴えて いる。当時、台湾の一人当りの国民所得が292 ドルであるのに対し、 中国のそれの最高推定額は 100 ドルである。つまり、約 3 倍の開き があった。また国民総生産額における工業、農業の占める比率が逆 転した台湾に対し、中国は、10 年間の年平均農業成長率は約 1.2% で 人口自然増加率推定 2% と極端なアンバランスを呈しているという ことから、農業が「国家工業化のための資本蓄積源としての機能を はたしていない農業国家に中国は転落した」と分析している。さら に、貿易面においても、台湾の1970 年度の貿易総額は 30 億 8900 万

9 桑原寿二「近代化と党権力―十二中総会は何を問い、何を問われたか」『問題と研究』 (1986 年 3 月)、所収桑原寿二著・伊原吉之助編、前掲書、295 ページ。

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ドルであり、一人当り貿易額も 213 ドルに達し、入超から出超に転 じ、輸出構成も50% 以上を工業製品が占めるという状況にいたった のに対し、中国は同年度貿易総額が約42 億ドル、1 人当り貿易額 5.6 ドルである。中国と台湾の人口比率は50 対 1 にもかかわらず、貿易 総額は4 対 3 ということになる。桑原は、「自由中国と共産中国の勝 負は、この面に関する限り、すでにあったと言わねばなるまい」と 述べている。かつ「台湾は繁栄型経済の段階に離陸した」というの が桑原の見解であった10。その台湾とは対照的に中国の経済に光は見 えない。80 年代に入り、近代化政策を進める中国に対しても、その 経済面に関して桑原は、懐疑的に見ていた11 さらに、中国の近代化が成功しない原因として、中国の「教育行 政の失敗」と「人口問題」を指摘している。台湾や韓国と異なり、 教育に予算を使わず、人材が育たない。さらに、増加する人口に対 して具体的な対策を講じず、治安は悪化し、政局も不安定になる。 桑原は、同時期の中国の状況をまさに危機的状況とみていた12。 以上のように桑原は、中国の国内状況及び経済の発展に対し、悲 観的観測を持っていた。それとは対照的に、台湾をすでに繁栄型経 済状況へと移行した地域としてみているだけでなく、中ソ関係にお ける台湾の存在を鑑み、台湾のアジアの安定に対する貢献を評価し、 将来は、「台湾を中心とした文明圏が構成される」と述べている13

10 桑原寿二「中国と“中国”―台北の街頭で思う―」『問題と研究』1971 年 10 月、第 1 巻第1 号、19-20 ページ。 11 台湾国立政治大学国際関係研究センター『問題と研究』誌編集室「中日学者による 『中国大陸問題』座談会紀要」『問題と研究』1981 年 4 月、第 10 巻第 7 号、74 ペー ジ。 12 桑原寿二「中国―近代化の鐘は鳴るか」『問題と研究』1980 年 7 月、所収桑原寿二著 ・伊原吉之助編、前掲書、247-263 ページ。 13 桑原寿二・柴田穂・中嶋嶺雄『毛沢東 最後の挑戦』(東京:ダイヤモンド社、1976

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桑原は、台湾の経済力を評価し、台湾の存在価値を認めているから こそ、台湾を見捨てるかのような日本世論を憂い、台湾擁護の言論 活動及び政治活動に尽力したのである。 3 「中国」を継承する台湾と破壊する中国 桑原が台湾擁護を主張する第三の理由として、台湾を「中国」の 伝統文化及び思想の正統な継承者として考えていたということであ る。桑原が初めて台湾を訪れたのは、1970 年の初頭であった。そし て、2 回目は 1971 年 2 月、3 回目が前述した「大陸問題」研究会議 のための台湾訪問であった。その一度目と二度目の台湾訪問をまと めた「中国と“中国”」というテーマの論文が、日中問題研究会編『中 華民国の印象』の中に収録されている。下記にあるように、同書に おいて桑原は初めて見た台湾の印象を端的に記している。 台北を訪れた人は、定めし、台北市をかこむ山上(陽明山) に 建 設 さ れ た 規 模 雄 偉 な る 建 築 物 に 目 を 注 が れ た こ と で あ ろ う、中山樓(孫文記念館)の壮大な建物、文化学院の創設、そ こに現出された文化学園都市的な構想、教育施設への重点政策、 故 宮 博 物 館 の 広 大 な 建 設 と そ こ に か も し 出 さ れ た 歴 史 と 文 化 への郷愁、中央研究院(アカデミー)の創設とそこに所蔵され ている文物等々によって伺われる発想は、武力反抗もさること な が ら 、 よ り 多 く 「 中 国 」 の 伝 統 と 文 化 を 台 湾 島 に 受 け 止 め 、 それを継承し、そこで結実・開花・展開させようという、なみ なみならぬ決意が先行していると私は見た14

年)、193-194 ページ。 14 桑原寿二「台北の街頭に思う」日中問題研究会編『中華民国の印象』(東京:永田書

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桑原が台北における充実した文化財や教育、研究施設から嗅ぎ取 ったものは、「『中国』の伝統文化と伝統思想による祖国復帰への民 族的信念」であった。そして、桑原は「中国」文化あるいは「中国」 民族を「強靭なる復元力をもった巨人」と定義し、その離れ小島で ある台湾に歴史的意義を感じた。台湾を仮の住居とせず、「中国」の 伝統と文化護持のための本格的建設や建設体系に「民族の洞察」を 意識したのである15。桑原は、台湾を「中国」文化、「中国」民族と の繋がり中で捉えている。「大陸問題」研究会議に参加した桑原は、 台湾を「『中国』の歴史の線上において、『中国』の真理の線上にお いて、『中国』の文化、伝統の線上において立体的に取り上げなけれ ばならない」と指摘している。つまり、「台湾は国民党政府統治下の 台湾であることもさることながら同時に、もう一つ『中国』民族に 還元して台湾というものを取り上げるべき」であるというのである16 以上のような桑原の台湾観は、桑原の蒋介石に対するイメージに も反映している。桑原によれば、蒋介石及び台湾指導部は「『中国』 の歴史・伝統・文化の真理性と生命力を確信し、その正統継承者た ることにおいて、無限なる意義と使命感を発見し、『中国』は一つな りの民族的背景を持っている」というのである17。 桑原は、蒋介石をはじめとする台湾指導者から「『中国』文化の正 統継承者としての誇りと信念」を明察している。台湾における「中 国」文化の継続性、それが桑原の台湾論の根幹であった。つまり、「台 湾こそが真の『中国』である」というのである。ゆえに、桑原は、

房、1972 年)、103-104 ページ。 15 同上、106-107 ページ。 16 同上、112-113 ページ。 17 桑原寿二「蒋総統の逝去と道義的生命力」『問題と研究』1975 年 6 月、第 4 巻 9 号、 5 ページ。

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李登輝時代における台湾の民主化を「『中国』の民主化、『中国』史 上初めての壮挙である」と喝破している18 以上の台湾観とは対照的に、桑原は中国の本質を「破壊」として 捉えている。同時期における桑原の中国分析を見てみると、いずれ 「中共は『中国』に飲み込まれる」と結論付けている19。現在、中国 は急速な経済発展をとげ、国際経済面において大国となったが、90 年代に入り文化大革命を否定し、近年には「中国」文化に対する見 直しが始まった。この中国による「中国」文化の見直しは、視点を 変えれば、中国の「中国」化とみることもできる。「中共は『中国』 に飲み込まれる」と主張した桑原に先見の明があったということで ある。 桑原は上にあげられたような思想を基本として、日台関係におけ る政治活動を展開していく。以下、桑原の政治活動を説明していく。

三 桑原寿二と「大陸問題」研究会議

1 「大陸問題」研究会議の成立とその背景 1964 年、フランスの中国承認以降、台湾の国際的地位が脅かされ、 益々孤立化していく情勢に対応するため、台湾政府は対外関係の多 元化を図り、国際関係研究所20に「学術外交」を推し進めるようにと

18 桑原寿二「鄧以後の大陸そして台湾」『ASIAN REPORT』1995 年 9 月、第 23 巻第 272 号、11 ページ。 19 同上。 20 国際関係研究所は、1961(民国 50)年 7 月に創立され、一民間学術研究機構として 同年10 月政府教育部の批准を得て登録を済ませた。以後、70 年代までに国際関係と 中国大陸問題の研究、ならびに関係資料の出版提供において重要な学術センターの 一つとなった(呉俊才「国際関係研究所について」『問題と研究』第1 巻 4 号、1972 年1 月、21-22 ページ)。

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要求した。当時の呉俊才21・国際関係研究所主任は、アメリカ及び日 本で良いパートナーを探していた。日本においては、まず中国研究 の泰斗であり、新聞雑誌で中国批判の論陣を張っていた桑原寿ニに 白羽の矢を当てた。1969 年秋、呉俊才はアメリカから帰国する途中、 東京に立ち寄り、日本国際情勢研究所主催の座談会において中国の 状況について意見を交換し、その席上で呉俊才は、桑原寿ニと初め て会談すると、両人は意気投合し、学術交流の第一歩を踏み出した。 呉俊才が帰国後間もなく台湾駐日大使館を通して、公式に桑原の訪 台を要請し、桑原は翌年の1970 年 1 月に初めて台湾の土を踏み、そ の後の協力関係と交流事業について協議し、逐次実行に移していっ た22。まず、国際関係研究所が東京に特派員事務所を設け、「中共」 問題の研究雑誌『問題と研究』を1971 年 9 月に創刊、1972 年 11 月 より桑原が雑誌の発行人を担当することになった。そして、同誌発 行にあたり、呉俊才の意を体して、張棟材23が来日した。彼らの協議 の結果、雑誌名を『問題と研究』と決定した。以後、同雑誌の発展 は、張棟材及びその後を継いだ楊合義24の尽力による25

21 1972 年に党中央文化工作会主任、78 年に中央日報社長、87 年に総統府国策顧問、93 年に「中国」電視公司董事長などを歴任(劉紹唐主編「民国人物小伝:呉俊才」『傳 記文學』第69 巻第五期、1996 年 11 月、130-131 ページ)。 22 曾永賢「日華中国大陸問題研究会議を回顧して」『問題と研究』第 32 巻第 8 号、2003 年5 月、97 ページ。 23 「大陸問題」研究会議発足当時、国際関係研究所駐日特派員。 24 国立政治大学国際関係研究センター助理研究員、副研究員を経て研究員。同研究セ ンター駐東京特派員兼日本語版『問題と研究』編集長。平成国際大学教授を経て現 在名誉教授。 25 桑原寿二著、伊原吉之助編、前掲書、449 ページ。

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2 第一回会議の開催とその内容 続いて、台湾側では呉俊才、日本側では桑原寿二を中心に、「大陸 問題」研究会議の開催を決定し、1971 年 12 月下旬、台北にて第一回 研究会議を挙行した。会議開催を前に、桑原は日本側代表団長の人 選を考えた。結果、日頃から交際のあった中村菊男・慶応義塾大学 教授に的を絞り、団長就任を懇請した26。かくの如く日本側代表団に 慶応大学の中村教授を迎え、桑原を副団長に総勢30 数名の学者、専 門家27が台北に赴き、中国研究のシンポジウムを挙行した28。その 2 ヶ月前の10 月に台湾は国連から脱退し、台湾の人心も落ち込んでい た矢先の日本代表団の訪台は、まさに「雪中に炭を送る」ものであ ったという29。当時の日本世論は、中国との関係を重要視する傾向が 極 め て 目 立 っ て い た 時 期 で あ り 、「 台 湾 に 行 っ た ら 中 国 大 陸 へ 行 く

26 桑原寿二「呉俊才先生を追思する」『問題と研究』(第 28 巻第 3 号、1998 年 12 月)、 所収桑原寿二著・伊原吉之助編、前掲書、450 ページ。 27 日本側第一回中日大陸問題研究会議出席者は以下の通りである。団長・中村菊男、 副団長・桑原寿二以下26 名(50 音順)。池井優(慶應義塾大学助教授)、宇野精一(二 松学舎大学教授)、遠藤欣之助(民主社会主義研究会議編集部長)、岡本幸治(大阪 府立大学講師)、上条末夫(現代史研究所員)、川島弘三(国際情勢研究会研究員)、 倉田信靖(大東文化大学講師)、倉前義男(亜細亜大学講師)、桑原寿二(総合研究 所「中国」部長)、小林正敏(中央学院大学助教授)、小平修(京都産業大学助教授)、 佐藤慎一郎(拓殖大学教授)、須藤真志(京都産業大学講師)、高木桂蔵(工商通訊 社編集部長)、中村菊男(慶応大学教授)、根本宏(評論家)、原子林二郎(評論家)、 広瀬一(国際情勢研究会研究員)、広田洋二(欧亜協会常任理事)、福永安祥(明星 大学教授)、藤井彰治(国際情勢研究会研究員)、矢島鈞次(東京工業大学教授)、柳 内滋(香港中文大学講師)、山田勝美(上智大学教授)、山村治郎(国士館大学講師)、 利光三津夫(慶応大学教授)(上条末夫「中・日『「中国」大陸問題』検討会の概要 報告(上)」『問題と研究』第1 巻第 6 号、1972 年 3 月、58 ページ)。 28 岡本幸治「断交二十年に思う」『問題と研究』第 21 巻 12 号、1992 年 9 月、12-14 ペ ージ。 29 曾永賢、前掲論文、97-98 ページ。

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ことができなくなる」という流言が出るほどであった30。そのような 時期における日本代表団の訪台に、台湾側は賞賛を送った。 会議は、12 月 20 日から 26 日まで一週間にわたり、台北のアンバ サダーホテルにおいて開催された。呉俊才によると、同会議の趣旨 は「中・日両国の学術界の中国問題に対する研究の成果を交換し、 相互の理解と認識を深め、客観的な討議を通じて中国の本質と中国 統治下にある大陸の現状及びその将来発展の趨勢について合理的、 正確な推断を得ること」にあった31。会議の内容は、22 の分科会を 設け、43 本の論文が報告され、多角的な角度から中国を分析するも のであった32。とりわけ、台湾側にとっては政治的な意義もあり、同 会議の開催は歓迎された。当時の台湾のマスコミも評価し、『中央日 報』は社説において「日本からの友人に歓迎の意を表する」と述べ ている33 さらに、以下、表 1 は第 1 回会議における台湾側参加者のリスト である。興味深いのは、参加者の肩書である。表1 における「肩書 1」 は、台北の国史館に所蔵されていた資料に記載されていた肩書であ り、「肩書2」は『問題と研究』に発表されていた肩書である。比較 してみると、政府、軍、党の職員が肩書を変え、同会議に参加して

30 会議に参加した岡本幸治氏の回想によると、当時、ある大学の老教授が雑談の折に 次のようなことを言ったという。「いま台湾などへ行ったら大陸へ行けなくなります からねえ。私は中共には何のかかわりもないが、大陸へ行けぬようになっては困る ので、小の虫を殺しています」。20 年前、このような異常な雰囲気が言論が自由なは ずのこの日本に存在していたという(岡本幸治「断交二十年に思う」『問題と研究』 第21 巻 12 号、1992 年 9 月、15 ページ)。 31 呉俊才「開幕の辞」『問題と研究』(第 1 巻 6 号、1972 年 3 月)、1 ページ。 32 上条末夫、前掲報告書、及び上条末夫「中・日『「中国」大陸問題』検討会の概要報 告(下)」、『問題と研究』第1 巻第 7 号、1972 年 4 月。 33 社説「文化の角度から「中国」大陸をみる」『中央日報』(1971 年 12 月 20 日)。

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いたことが分かる。これより、当時、いかに台湾政府が同会議を重 視していたか明らかである。 表 1 台湾側大陸問題研究会議出席リスト 名前 肩書1(國史館史料) 肩書2(『問題と研究』) 呉俊才 国際関係研究所主任 国際関係研究所所長 政治大学教授兼東亜研究所所長 鄧公玄 国際関係研究所副主任 国際関係研究所副主任 郭乾輝 国際関係研究所副主任 仲肇湘 中央日報總主筆 中央日報社総主筆 李廉 「中国」時報總主筆 「中国」時報社総主筆 許晏駢 中華日報總主筆 中華日報社総主筆 汪民楨 新生報總主筆 新生報総主筆 楊選堂 連合報總主筆 連合報社総主筆 沈宋琳 中央社總編輯 項迺光 情報局研究室主任 中国研究雑誌社社長 張鎮邦 情報局第二處處長 国際関係研究所兼任研究員 范権元 (范植元) 情報局研究室組長 中国研究雑誌社研究員 余延苗 (玄黙) 情報局研究室組長 中国研究雑誌社研究員 陳定中 情報局研究室組長 中国研究雑誌社研究員 洪幼樵 情報局研究室副主任 中国研究雑誌社研究員 趙育申 情報局研究室研究員 中国研究雑誌社研究員 陳森文 調査局處長 国際関係研究所兼任研究員 曾永賢 調査局研究員 中国問題研究家 黎明華 調査局研究員 中国問題研究家 王章陵 調査局研究員 中国問題研究家 呂永澍 情報参謀次長室處長 国際関係研究所兼任研究員 陳裕清 中四組主任 国際関係研究所兼任研究員 姚孟軒 中四組總幹事 大陸問題研究所研究員 李喆 中四組研究員 大陸問題研究所研究員 李健華 中四組副主任 大陸問題研究所研究員 楊鋭 中四組副主任 大陸問題研究所副所長 崔垂言 党史會副主任委員 国際関係研究所特約研究員

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秦榕発 安全局處長 軍事評論家 李振宋 安全局秘書 国際関係研究所特約研究員 李雲漢 党史會研究員 国立政治大学兼任副教授 蒋永敬 党史會研究員 輔仁大学副教授 裘孔淵 中二組秘書 大陸問題研究所研究員 任卓宣 政治作戦学校政治研究所主任 政治作戦学校政治研究所主任 曹敏 政治作戦学校教授 政治作戦学校教授 謝海濤 政戦学校敵情系主任 政治作戦学校教授 金達凱 政戦学校副教授 政治作戦学校教授 丘宏達 政治大学教授 国立政治大学教授 李其泰 政治大学教授 国立政治大学教授 王健民 政治大学教授 国立政治大学教授 朱建民 政治大学教授 国立政治大学教授 鄭学稼 政治大学教授 国立政治大学教授 劉岫青 政治大学教授 国立政治大学教授 曹伯一 政治大学副教授 国立政治大学副教授 連戦 台湾大学教授 国立台湾大学教授 韓忠謨 台湾大学教授 国立台湾大学教授 李邁先 台湾大学教授 陳捷先 台湾大学教授 国立台湾大学教授 黄得時 台湾大学教授 張維亜 中央銀行顧問 国立政治大学講師 梁敬錞 中央研究院近史所所長 李毓澍 中央研究院近史所研究員 中央研究院近史所研究員 宋晞 「中国」文化学院院長 「中国」文化学院教授 沈覲鼎 「中国」文化学院教授兼日本 研究所所長 陶希聖 「中国」文化学院兼任教授 劉師誠 「中国」文化学院兼任教授 国立台湾大学兼任教授 沈雲竜 世界新専教授(青年党) 世界新聞専科学校教授 陳啓天 青年党主席 孫亜夫 大学教授(民社党) 国立交通大学教授 王世憲 大学教授(民社党) 東呉大学教授 尹慶耀 国際関係研究所研究員 国際関係研究所研究員 朱文琳 国際関係研究所研究員 国際関係研究所研究員 札奇欺欽 国際関係研究所研究員 国立政治大学教授

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金開鑫 国際関係研究所研究員 国際関係研究所研究員 汪学文 国際関係研究所研究員 国際関係研究所研究員 何雨文 国際関係研究所研究員 大陸問題研究所研究員 操穉青 国際関係研究所副研究員 大陸問題研究所副研究員 王蘊 国際関係研究所助理研究員 国際関係研究所助理研究員 劉懋□34 国際関係研究所助理研究員 国際関係研究所助理研究員 高向杲 国際関係研究所研究員 大陸問題研究所研究員 李天民 国際関係研究所顧問 国際関係研究所顧問 周自強 国際関係研究所顧問 国際関係研究所顧問 孫桂籍 国際関係研究所顧問 国際関係研究所顧問 (出所)台湾・國史館藏《蔣經國總統文物》「總統府秘書長張羣呈總統蔣中正為應邀出 席中國大陸問題研討會之中日兩國學者一百餘人請核示可否賜予茶會招待」典藏 號:00501030600016005、及び上条末夫、前掲「中・日『「中国」大陸問題』検 討会の概要報告(上)」58-59 頁より作成。肩書 1 は、國史館の資料を参考にし たもの、肩書2 は上条論文を参考に作成。肩書 2 が空欄の者は、國史館のリス トには名前があったが、上条論文のリストには名前がなかったもの。 第 1 回会議以降、1972 年及び 75 年を除き、毎年開催され、2009 年の第36 回まで開催されている。下の表 2 から各会議のテーマを見 てみると、1999 年の第 26 回会議から、テーマの内容が中国問題から 東アジア情勢を含めた中国問題に移行し、第30 回以降は、東アジア を中心に会議を展開しようとする意向が見てとれる。

34 □は日本語にない文字のため。左側は木ヘン、右側は「冉」。

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表 2 「大陸問題研究」会議一覧表 回数 主題 会期 会場場所 1 1971 年 12 月 20 日~26 日 台北・國賓大飯店 2 以文會友、以友輔仁 1973 年 9 月 1 日~3 日 東京・新橋第一ホテル 3 1974 年 9 月 9 日~13 日 台北・國賓大飯店 4 毛沢東以後の中国 1976 年 4 月 3 日~5 日 新宿・京王プラザホテル 5 1977 年 3 月 28 日~31 日 台北・民航局大樓 6 華国鋒の運命 1978 年 5 月 5 日~7 日 東京・ニュー大谷ホテル 7 当面の中国対内・対外策略の変遷 1979 年 3 月 31 日~4 月 2 日 台北・國賓大飯店 8 中国は何処へ行くか? 1981 年 5 月 10 日~12 日 東京・センチュリーハイヤット 9 中国当面の政策路線 1982 年 4 月 30 日~5 月 2 日 台北・民航局大樓 10 「鄧胡体制」の前途 1983 年 3 月 22 日~24 日 東京・センチュリーハイヤット 11 「「中国」式社会主義道路」と「鄧胡体制」 1984 年 3 月 30 日~4 月 1 日 台北・民航局大樓 12 「中国」における中国 1985 年 3 月 25 日~27 日 東京・センチュリーハイ ヤット 13 中国改革開放政策の争点と展望 1986 年 4 月 6 日~8 日 台北・民航局大樓 14 中国「十三全大会」の課題 1987 年 4 月 3 日~5 日 新宿・京王プラザホテル 15 「十三全大会」後の中 1988 年 3 月 21 日~23 日 台北・国際関係研究中心 16 中国政権四十年 1989 年 3 月 20 日~22 日 新宿・京王プラザホテル 17 天安門事件後の「中国」大陸情勢 1990 年 4 月 2 日~4 日 台北・国際関係研究中心 18 中国の命運 1991 年 3 月 25 日~27 日 新宿・京王プラザホテル 19 和平演變と反和平演變 1992 年 3 月 23 日~25 日 台北・国際関係研究中心 20 国際秩序の探索と中国 1993 年 3 月 22 日~24 日 新宿・京王プラザホテル 21 社会主義市場体制下の「中国」大陸 1994 年 3 月 21 日~23 日 台北・国際関係研究中心 22 ポスト鄧小平の「中国」 大陸 1995 年 3 月 27 日~29 日 新宿・京王プラザホテル 23 両岸三地の政経情勢 1996 年 3 月 25 日~27 日 台北・国際関係研究中心 24 香港返還と「中国」大 1997 年 3 月 23 日~25 日 新宿・京王プラザホテル

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陸情勢 25 「中国」共産党大会後の情勢 1998 年 3 月 22 日~24 日 台北・国際関係研究中心 26 変動中の国際環境と「江朱体制」 1999 年 3 月 28 日~30 日 新宿・京王プラザホテル 27 21 世紀の東アジアの安 全と両岸関係 2000 年 3 月 26 日~30 日 台北・国際関係研究中心 28 米台中新世代と両岸関 2001 年 3 月 25 日~29 日 新宿・京王プラザホテル 29 新世紀の「中国」 2002 年 3 月 26 日~30 日 台北・国際関係研究中心 30 転換期の東アジアと日 台中関係―三十年の分 析と展望― 2003 年 3 月 26 日~30 日 新宿・京王プラザホテル 31 2004 年の「中国」大陸と東アジア 2004 年 3 月 24 日~27 日 台北・国際関係研究中心 32 東アジアと日台中の新 潮流 2005 年 3 月 28 日~29 日 新宿・京王プラザホテル 33 変動する東アジアの国際関係 2006 年 3 月 29 日~4 月 1 日 台北・国際関係研究中心 34 東アジアはどこへ行 く?-政治・経済・安 全保障 2007 年 3 月 26 日~27 日 新宿・京王プラザホテル 35 2008 年東アジアの新政局とその展望 2008 年 3 月 27 日~28 日 台北・福華大飯店 36 経済危機下の東アジア 2009 年 4 月 2~3 日 市谷・アルカディア市谷 (出所)曾永賢、前掲論文における日華『「中国」大陸問題』研究会議一覧表を加筆修 正したもの。 また、桑原は、第 3 回会議から第 18 回会議まで団長を務め、19 回以降は貴賓として参加、23 回から 26 回までは、日本開催の会議の み参加している(表 3 参照)。

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表 3 「大陸問題研究」会議における双方団長及び日本側貴賓一覧表 回数 双方団長 日本側貴賓 1 呉俊才・中村菊男 2 杭立武・宇野精一 船田中 3 杭立武・桑原寿二 船田中 4 蔡維屏・桑原寿二 船田中 5 蔡維屏・桑原寿二 船田中 6 蔡維屏・桑原寿二 岸信介・船田中 7 蔡維屏・桑原寿二 船田中 8 張京育・桑原寿二 倉石忠雄・灘尾弘吉 9 張京育・桑原寿二 倉石忠雄 10 張京育・桑原寿二 岸信介・倉石忠雄 11 張京育・桑原寿二 12 邵玉銘・桑原寿二 岸信介・田中龍夫 13 邵玉銘・桑原寿二 椎名素夫 14 邵玉銘・桑原寿二 藤尾正行 15 張京育・桑原寿二 椎名素夫 16 張京育・桑原寿二 長谷川峻 17 林碧炤・桑原寿二 藤尾正行 18 林碧炤・桑原寿二 藤尾正行 19 林碧炤・笠原正明 佐藤信二・桑原寿二 20 林碧炤・笠原正明 佐藤信二・桑原寿二 21 林碧炤・笠原正明 平沼赳夫・桑原寿二 22 邵玉銘・笠原正明 藤尾正行・桑原寿二 23 邵玉銘・笠原正明 藤尾正行 24 邵玉銘・笠原正明 賀陽治憲・桑原寿二 25 邵玉銘・古屋奎二 麻生太郎 26 何思因・古屋奎二 亀井久興・桑原寿二 27 何思因・古屋奎二 亀井久興 28 何思因・高野邦彦 亀井久興 29 何思因・高野邦彦 亀井久興 30 何思因・高野邦彦 粟屋敏信 31 林碧炤・高野邦彦 藤井孝男 32 林正義・高野邦彦 平沼赳夫 33 鄭瑞耀・高野邦彦 亀井久興

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34 林碧炤・高野邦彦 玉澤徳一郎 35 鄭瑞耀・高野邦彦 玉澤徳一郎 36 鄭瑞耀・高野邦彦 平沼赳夫 (出所)曾永賢、前掲論文における日華『「中国」大陸問題』研究会議一覧表を加筆修 正したもの。 3 桑原寿二の日本政界における人脈 当時の情勢下では、「大陸問題」研究会議開催に際し、政界の大立 者を総後見人として据える必要があった。そこで、桑原はかねてか ら昵懇の間柄であった岸信介・元総理の事務所を訪ね、援助を要請 した。台湾大使館の口添えもあり、承諾を得ることができた。それ は、この会議の権威のためにも、また継続する上でも意義があった。 そして、岸元総理の力添えにより、日華関係議員懇談会(以下、日 華懇と省略)灘尾弘吉・会長の援助を受けることができた。以降、 日華懇は、「大陸問題」研究会議の政界における後ろ楯となった。こ れで、会議の政界地盤が構築された。後に、会長として船田中・元 衆議院議長、倉石忠雄・元農相の参加も、すべて岸信介の指名によ って実現した35。 さらに、第 3 回会議からこの会議の権威を一段と高めるため会長 を置くことになり、李天民36と供に岸を訪ね、相談申したところ、岸 は船田中を推輓した。以後、第 3 回から第 7 回まで船田中が「大陸 問題」研究会議会長を担当した37

四 桑原人脈の「トラック 2」としての役割

桑原を中心とする「大陸問題」研究会議参加者の学者は、日台断

35 桑原寿二、前掲「呉俊才先生を追思する」、450 ページ。 36 「大陸問題」研究会議発足当時、国際関係研究所顧問。表 1 参照。 37 桑原寿二「開会の言葉」『問題と研究』1983 年 4 月、第 12 巻 7 号、126 ページ。

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交後、事実上の「トラック 2」38の役割を果たした。その具体例が、 「江崎ミッションの派遣」であった。断交後、日台双方は亜東関係 協会と交流協会を設立して民間組織の形で日台関係の問題を処理し てきた。しかし、日台間で長期的に存在していた貿易のアンバラン ス状態は改善されないのみならず、益々悪化の一途を辿っていた。 1982 年 2 月 12 日、台湾は対日貿易格差是正の措置として、1533 品目にのぼる日本製品の輸入禁止を決め、翌2 月 13 日から実施した。 経済部国際貿易局が明らかにしたところでは、1981 年の対日貿易赤 字が34 億 4700 万ドルに達しており、この格差是正のために輸入禁 止が行われた。規制の対象品目には、化粧品、プラスチック、ガラ ス製品、繊維、大型トラック、バスなどが含まれていた39 翌 3 月初旬、日本側はこの対日輸入制限の即時撤廃を申し入れ、 日台経済摩擦は一挙に深刻化した。3 月 4 日、交流協会台北事務所の 人見宏・所長は亜東関係協会の張研田・理事長に対し、文書で輸入 禁止の解除を申し入れた。この申し入れは日本政府の訓令に基き日 本 側 見 解 を 伝 達 し た も の で あ っ た が 、「 台 湾 が こ の 措 置 を 継 続 す る 場合は関税上の便益供与の停止などなんらかの措置をとらざるを得 ない事態に立ちいたることを懸念している」として、特恵関税の停

38 「トラック 2」、または「第 2 トラック外交」というタームは、アメリカの元外交官 モントヴィレ(Joseph V. Montville)が 1982 年に初めて使用した。彼は、「第 2 トラ ック外交」を「紛争解決に向けて、心理的諸要因への対応を行いながら、敵対する 集団ないしは国家間の成員による非公式かつ構造化されていない相互交流の推進」 と定義した。その後このタームは、他の研究者によってより精緻化されていくが、 最大公約数的に「各国の市民ないし市民から構成される集団による、非政府、非公 式、そして“un-official”な接触および活動」として理解されるようになった(佐々木 豊「太平洋問題調査会と第2 トラック外交」『相愛大学研究論集』第 22 巻、2006 年、 111 ページ)。 39 『産経新聞(夕刊)』(1982 年 2 月 13 日)。

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止が示唆されるほど強硬な内容であったと伝えられている40 このような状況を打開すべく、7 月 20 日、江崎ミッションは台湾 を訪問した。団長は江崎真澄(元通産相)、団員には村山達男(元蔵 相)をはじめ、各分野のエキスパートを自認する議員が加わり、田 中派幹部の金丸信も顧問格として同行していた。ミッションは 7 月 12 日から 23 日にかけてタイ、フィリピン、香港、台湾を順次訪問し たが、総裁の「特使」という肩書を外すために一旦香港で解散し、 政府随員を帰国させた上で台湾を訪問している。江崎団長は、終始、 訪台の目的は自由貿易を守るためであり、純粋に経済関係上の目的 であることを強調している。しかし、訪台の直接の目的が経済問題 であったとしても、その台湾訪問自体が政治的意味を持つことは否 定できない。1972 年の外交関係断絶以来、自民党の正式機関が台湾 を訪問したのは初めてのことであったからである。7 月 21 日、江崎 ミッションは趙耀東・経済部長、徐立徳・財政部長と会談し、日台 間の意思疎通をよりよくするため、①交流協会の強化充実、②経済 人会議の充実、③自民党議員と台湾側との交流を活発化する、との 点で合意した。席上、ミッション側は台湾による禁輸措置の解除を 公式に要請した41。 その後、8 月 21 日、台湾は対日輸入制限解除の第 1 段階として 842 品目の制限解除を発表した。これは、江崎ミッションの台湾訪問に 際して、孫運璿・行政院長、趙耀東が8 月中に第 1 回の解除を行う と約束したことを実行したものであった4211 月 19 日、台湾の国際 貿易審議委員会は 689 品目にのぼる日本側消費物資の禁止を翌日か

40 『産経新聞』(1982 年 3 月 5 日)。 41 森山昭郎「江崎ミッションの台湾訪問―日台経済摩擦ノート―」『東京女子大学紀要 論集』第34 巻 1 号、1983 年 9 月、162-163 ページ。 42 同上、164 ページ。

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ら解くことを決定し、王昭明・経済次長の談話と共に公表した43。ミ ッションの結果、規制は解除された。 以上が日台貿易摩擦に端を発する「江崎ミッション」のプロセス であるが、同ミッションを成功させたのは、水面下における親台湾 派国会議員の活躍であった。1982 年 4 月、田中派の大番頭である二 階堂進・幹事長が台湾の銭復・外交部次長と東京で秘密裏に会談し、 自民党の正式機関派遣を決断しているが、この会談は、台湾側の意 向を受けた日華懇の有力メンバーである金丸信と佐藤信二が下工作 をして実現したといわれている44。そして、その金丸や佐藤等の親台 湾派国会議員と台湾政府のパイプ役をしたのが、桑原を中心とする 人脈であった。当時、桑原らは日華議員懇談会及び政財界の人脈と 密接に連絡を取り、その解決策を模索し、7 月に「江崎ミッション」 の訪台へと導いた。このように桑原を中心とする「大陸問題」研究 会議の人脈は政治的側面で日華懇と表裏一体となり、日台断交後の 「トラック2」の役割を果たし、断交後の日台関係の改善と強化に努 めたのである45 この桑原の人脈による「トラック2」は、上述した日台間における 経済摩擦のような問題が起こったときにのみ、それを解決するとい うものではなく、常日頃から日台間における相互の意思疎通や、新 しい政策、重要な政策の相互理解を行うものであった。たとえば、 1991 年にも、国家統一綱領を考案する上で、当時総統府参議であり、

43 『中央日報』(1982 年 11 月 20 日)。 44 田崎史郎「“自民党外交”の時代を告げる 江崎ミッションの ASEAN・台湾歴訪」『世 界週報』第63 巻 31 号、(1982 年 8 月 10 日)、32-33 ページ;土井正行「田中派の台湾 接近にいらだつ「中国」」『朝日ジャーナル』第24 巻 34 号、1982 年 8 月 13 日・20 日合併号、9 ページ。 45 曾永賢、前掲論文、98-99 ページ。

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国家統一委員会研究委員であった曾永賢46氏は、2, 3 名の同僚を連れ て、意見の調整のために日本を訪れている。そして、桑原の紹介に より中国問題を研究している人たち、政治家、言論人などと会見し、 同綱領に関する情報を説明した。このような会合には、随時日本の 課長クラスの外務省職員などが参加している。曾氏が日本へ行く度 に、桑原の人脈を通して、会議を開き、その座談会などに、日本政 府の関係者が参加し、意見交換を行っていた。いわば、台湾の外交 部は、桑原の人脈を介して、日台間における重要な政治課題に関す る「根回し」を常に行える環境があったのである。曾氏は、1971 年 の「大陸問題」研究会議開催から 2000 年までの間に、年平均 3、4 回、多い時には 6 回日本を訪問しており、友人に「曾氏は日本に住 んでいるのではないか」と思われるほど日本と台湾の間を往来して いたという47

五 結論

桑原の基本思想は「反共」である。桑原は、自由を否定する共産 主義を警戒し、徹底的に批判した。それゆえに、共産主義国家であ る中国を信頼せず、自由主義陣営の台湾を支持した。桑原は台湾を、 自由を守るための砦と考えていた。かつ、急速な経済発展を遂げた 台湾の経済力を信じ、台湾を中心とする文明圏が確立されるのを期 待していた。70 年代、80 年代と低迷を続ける中国とは対照的に、経 済的に成長していく台湾に光明を見ていた。 現在、国際政治経済の両面から見ても大国となった中国は、90 年

46 元総統府資政、元中華欧亜基金会副董事長。第 1 回「大陸問題」研究会議参加時期 は、法務部調査局勤務。 47 曾永賢氏インタビュー(2008 年 10 月 13 日)。

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代以降、「中国」文化の見直しを図り、新政策を打ち出している。こ れは見方を変えれば、中国の「中国」化であり、いずれ「中共は『中 国』に飲み込まれる」と指摘した桑原の見解が正しかったというこ ができる。また桑原が中国分析のために使用した資料は『人民日報』 と『紅旗』であり、資料は限られていたが、資料が制限されている からこそ、その資料を徹底的に読み込み、深い分析が可能であった48 かつ桑原は自身の北京留学経験を通し、「中国」民族の考え方の複雑 さ、深遠さを理解し、そこで得た経験と知識は桑原が中国を分析す る上でのレンズとなった49。桑原にとって、中国の政策は「矛盾」と 「二面性」を多分に含んだものであり、その本質を「破壊」と説い た。その中国に対し、「中国」文化を維持しようとしている台湾に大 きな価値を見顕したのである。 ただし、桑原は台湾を日本の安全保障の観点あるいは「中国」文 化の観点からの考察はあるが、国民党政権に対する言及や省籍問題 への考察など、台湾の国内問題に関する分析は管見の限り見当たら ない。それが、桑原の台湾観の限界であったといえる。 しかしながら、桑原は、「大陸問題」研究会議開催、発展に尽力し、 両国知識人の相互理解を深めるため『問題と研究』を発行し、また

48 福田恒存・桑原寿二企画監修『「中国」はどうなるか』(東京:高木書房、1976 年)、 204 ページ。 49 大学卒業後、桑原は、後見人・坂西利八郎(袁世凱の顧問をしていた人物、当時貴 族院議員)に卒業報告に行った際、その坂西の助言により「中国」留学を決意する。 坂西は、桑原を北京の友人・方夢超に託す。桑原は、方夢超の家に食客として住み、 北京の大学に通った。しかし、桑原が世話になった方夢超とは、上海日貨排斥運動 の闘将であった。そのような錯雑とした環境において青年期を過ごした桑原だから こそ、「中国」民族の日常習慣から作法、ものの考え方を知悉することができたとい えよう(桑原寿二「ある小さな歴史」『問題と研究』1986 年 3 月、所収前掲桑原寿二 著、伊原吉之助編『賢人がみつめた「中国」』、339-340 ページ)。

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彼の人脈を通して、日台関係の強化に努めたのである。大陸問題研 究会議と『問題と研究』誌、そして桑原人脈が、断交後における日 台関係の空白を少なからず埋め、日台の紐帯を維持してきたことは 否定できないであろう。

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〈参考文献〉 『中央日報』 『産経新聞』 岡本幸治「断交二十年に思う」『問題と研究』第21 巻 12 号、1992 年 9 月。 上条末夫「中・日『「中国」大陸問題』検討会の概要報告(上)」『問題と研究』第1 巻 第6 号、1972 年 3 月。 桑原寿二「日本の筋」『改革者』第136 巻、1970 年 7 月。 桑原寿二「「中国」と“中国”―台北の街頭で思う―」『問題と研究』第 1 巻第 1 号、1971 年10 月、19-20 頁。 桑原寿二「台北の街頭に思う」、所収日中問題研究会編『中華民国の印象』(東京:永田 書房、1972 年)。 桑原寿二「蒋総統の逝去と道義的生命力」『問題と研究』第4 巻 9 号、1975 年 6 月。 桑原寿二「開会の言葉」『問題と研究』第12 巻 7 号、1983 年 4 月。 桑原寿二「鄧以後の大陸そして台湾」『ASIAN REPORT』第 23 巻第 272 号、1995 年 9 月。 桑原寿二・柴田穂・中嶋嶺雄『毛沢東 最後の挑戦』(東京:ダイヤモンド社、1976 年)。 桑原寿二著・伊原吉之助編『賢人がみつめた「中国」』(東京:扶桑社、2002 年)。 呉俊才「国際関係研究所について」『問題と研究』第1 巻 4 号、1972 年 1 月。 呉俊才「開幕の辞」『問題と研究』第1 巻 6 号、1972 年 3 月。 佐々木豊「太平洋問題調査会と第2 トラック外交」『相愛大学研究論集』第 22 巻、2006 年。 曾永賢「日華「中国」大陸問題研究会議を回顧して」『問題と研究』第32 巻第 8 号、2003 年5 月。 曾永賢氏インタビュー(2008 年 10 月 13 日)。 田崎史郎「“自民党外交”の時代を告げる 江崎ミッションの ASEAN・台湾歴訪」『世界 週報』第63 巻 31 号、(1982 年 8 月 10 日)。 土井正行「田中派の台湾接近にいらだつ「中国」」『朝日ジャーナル』第24 巻 34 号、1982 年8 月 13 日・20 日合併号。 福田恒存・桑原寿二企画監修『「中国」はどうなるか』(東京:高木書房、1976 年)。 森山昭郎「江崎ミッションの台湾訪問―日台経済摩擦ノート―」『東京女子大学紀要論 集』第34 巻 1 号、1983 年 9 月。 『問題と研究』誌編集室「中日学者による『「中国」大陸問題』座談紀要」『問題と研究』 第10 巻第 7 号、第 23 巻第 272 号。 『問題と研究』編集委員一同「桑原寿二先生のご逝去を悼む」『問題と研究』第30 巻 12 号、2001 年 9 月。 劉紹唐主編「民国人物小伝:呉俊才」『傳記文學』第69 巻第五期、1996 年 11 月。 台湾・國史館藏《蔣經國總統文物》。

表 2  「大陸問題研究」会議一覧表  回数 主題 会期 会場場所 1   1971 年 12 月 20 日~26 日  台北・國賓大飯店 2  以文會友、以友輔仁  1973 年 9 月 1 日~3 日  東京・新橋第一ホテル 3   1974 年 9 月 9 日~13 日  台北・國賓大飯店 4  毛沢東以後の中国  1976 年 4 月 3 日~5 日  新宿・京王プラザホテル 5   1977 年 3 月 28 日~31 日  台北・民航局大樓 6  華国鋒の運命  1978 年 5 月 5 日~7
表 3  「大陸問題研究」会議における双方団長及び日本側貴賓一覧表  回数 双方団長 日本側貴賓 1  呉俊才・中村菊男 2  杭立武・宇野精一 船田中 3  杭立武・桑原寿二 船田中 4  蔡維屏・桑原寿二 船田中 5  蔡維屏・桑原寿二 船田中 6  蔡維屏・桑原寿二 岸信介・船田中 7  蔡維屏・桑原寿二 船田中 8  張京育・桑原寿二 倉石忠雄・灘尾弘吉 9  張京育・桑原寿二 倉石忠雄 10  張京育・桑原寿二  岸信介・倉石忠雄  11  張京育・桑原寿二 12  邵玉銘・桑原寿二 岸信介・田中

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