著者 基督教研究会
雑誌名 基督教研究
巻 63
号 2
ページ 26‑39
発行年 2002‑03‑12
権利 基督教研究会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004250
[小原]これからパネル・ディスカッションを始めます。最初に 3 人の講師の方々へ のコメントを森神学部長よりいただきます。
[森] 講師の方々のお話を伺って、私の感想、意見、質問などを挙げさせていただ きたいと思います。沖田さんは、日本教育史の中で世俗的教育と実利的教育がどうい う関係にあったのかという詳しい分析をしてくださいました。結局は富国強兵のため の実利的教育、主知的教育が主であったのだということですが、沖田さんが「疑似宗 教」という形で国家神道について述べてくださっていることは、神道というのは宗教 ではないという「神道非宗教論」によって神道を国教化し、それを宗教という名前を 使わずに宗教教育を行っていったというのが現実ではないか。それが第二次世界大戦 の敗戦と共に崩れる。その時どうなったか。それまでの国民の道徳という形での宗教 教育、国家神道教育はなくなる。それと共にすべての宗教教育がなくなり、結局は実 利教育だけが残ったというのが、戦後の教育なのではないかと思うわけです。
それを宗教教育、「心の教育」ということから見ると、戦後 55 年の負の遺産であり、
そのことは非常に大きいと思うんです。井上さんがおっしゃったように、教師が宗教 教育をどうやって教えていいかわからない。教師自身、宗教教育を受けていないとい う現状を生み出していると思います。そういう中で沖田さんは、「心の教育」の歴史 的な蓄積としての宗教を最後に評価されたわけですが、それを日本の教育現場で行っ ていく上での何らかの突破口について、沖田さんご自身はどういうふうにお考えなの か、それを教えていただければと感じました。
菅原さんのお話は宗教的・哲学的なご発題であったという印象を受けました。文部 科学省が理解している「畏敬の念」「心」「命」というものは、実は呪術的なものであ って深みがない。菅原さんの言葉で言うと「根源的なもの」になっていないというご 指摘で、根源的な意味での情操教育こそ行われなければいけないというご指摘だった と思います。これも後の井上さんのご発題との関係で、「できること」「できないこと」
パネル・ディスカッション
Panel Discussion
ということで考えてみると、誰がどうやってやるのか。それができる人は本当に限ら れて、ある資質をお持ちの先生に限定される。それは難しいことなのではないか。そ うであるならば、迷信と根源的な宗教という区分けをして、呪術的、迷信的なものを 避け、そうじゃないものを教えるというのではなく、こういうものもあるのだ、こう いうあり方もあるのだ、呪術的、迷信的な、表層的なものもあるのだという形での、
宗教の多様性についての教育を行うことの方が、公立学校においては現実に実行可能 なのではないかという印象を持たせていただきました。
井上さんの発題から感じたことですが、現実的な問題として「できること」「でき ないこと」を的確にご指摘いただいて、まさにその通りであるとは思います。しかし 同時に、「できること」「できないこと」という形で話ができる、日本が置かれている 状況は平和なのだという印象を持ちました。多くの国で「できないんだ」という形で、
ほうっておけるような状況ではない。ちょっと日本は平和すぎるのではないかと思い ます。日本も諸外国並に「できないけれども、やらなければ仕方がない」というとこ ろまで追い込まれつつあるのではないかという印象を持ちました。井上さんの発題と 比較する形で、アメリカ合衆国のケースについて、私が知っている範囲のことをお話 したいと思います。
アメリカと日本の教育制度は全然違うわけで、アメリカ全土には 15,000 〜 16,000 の 教育委員会があると言われています。たとえば京都市くらいの市の中には 10 〜 20 の 教育委員会があって、教育委員会の委員は選挙で選ばれる。2 年に 1 度選ばれること が多い。州によって違いますので、フロリダは州に 1 個らしいですが。選挙で選ぶと いうことは、具体的に、親の価値観や親が置かれている状況が教育委員会にまともに 現れてくるということです。宗教教育に関しても現実に国や州が、これをやるべきだ という提案をしたとしても、現実にどういう教育を行うか、どういう教科書を選んで どういう内容でやるかについて、親の意思が反映されるシステムになっています。
最近、アメリカでは公立学校における宗教教育が盛んに議論されていまして、この 分厚い冊子は公立学校における宗教教育についてのマニュアルです。そのタイトルが
「共通の基盤を求めて」(Finding Common Ground)となっています。どうしてこういう 議論が最近盛んになされるようになってきたか。それはやらざるをえないからです。
できる、できないということを言っておられない状況がアメリカ社会の中に現れてき ている。アメリカでも、教師の宗教教育の資質に関してはあまり大差はないと思いま す。しかしやらざるをえない状況が出てきている。それは何か。キーワードとして
「文化戦争」(culture war)という言葉が使われています。具体的には価値観の対立だ と思いますが、アメリカで大統領選挙の時にも人工妊娠中絶をどうするのかというこ とがホットなテーマになるような社会です。それに対して賛成か、反対かで価値観が
真っ二つに分かれてしまう社会の現実が、アメリカの中にある。宗教右派と言われる 片方のグループは、伝統的なユダヤ・キリスト教的価値観によって、しかも原理主義 的なキリスト教の価値観でアメリカを統一しようとしてくる。そこでは宗教の価値を 前面に出してくる。それ一辺倒で行けばいいのか。そうではないわけで、そうでない 形で宗教をどうとらえたらいいのかということを考えざるをえない。文化戦争によっ て国家が分裂状態になることを避けるために、教育における宗教を重んじなければな らないという人たちの意思も汲みながら、しかし原理主義的にならずに、他の宗教に ついての理解を深めていく。アメリカの歴史と宗教とのかかわりを学校の中でどうや って扱えばいいのかを考えざるをえない状況、それが宗教教育を最近、議論の中心に 置こうとしている原因であると思うわけです。
この冊子をつくっているのは州でもなく、国でもなく、ボランティアの団体です。
NGO のボランティアの団体で、今から 200 年前、憲法修正第一条として政教分離、
信教の自由と表現の自由が憲法に書かれましたが、それをどうやってアメリカ社会の 中に実現していけばいいのかということに取り組むボランティアの団体が、アメリカ の PTA や教師の団体、いくつもの教育関係の団体、イスラムを含む多くの主要な宗 教団体と協議しながら、公立学校における宗教教育ができる範囲と、その内容につい て、この冊子をつくりました。井上さんはネットワークと言われましたが、どこにイ ンターネットでリンクしていけばそういう情報が得られるかという情報、教師はこの 問題について、こういう本を読めばいいという参考文献の紹介をまとめてある。これ が政府の手によって行われるのではなく、ボランティア団体が主体的に、親やコミュ ニティの問題として行おうとしている。そうやらざるをえない状況がアメリカにはあ るということです。
片一方に文化戦争がある。もう片一方には、大都会に見られる現実の多様性ですね。
大都会ではクラスの 3 分の 1 がイスラムの子どもたちであるという現実がある。その 人たちと一緒に暮らしていくにはどうすればいいのか。多様な者が共通の基盤を求め ながら一緒に暮らしていくということはどういうことなのかを、現実に考えざるをえ ないという状況が、これをなさしめているのではないかと思うわけです。
全体的なことに関して、一つだけ印象を語らせていただきたいと思います。「心の 教育」ということが文部科学省から出されてくる。沖田さんの指摘のように、それは 否定できない。皆、それは重要だと思う。それはどうしてなのかというと、学校の中 に、生徒の中に心の荒廃の現実があるからだと思うんです。心の荒廃の現実はどこに 起因するのか。それを克服するために何を教育すればいいのかと、文部省は考えてい るように思うのですが、これは価値観の問題だと思うんです。井上さんが「異なった 価値観の存在は教えられる」と語られましたが、実は学校の現場においても、家庭に
おいても、日本社会においても、多様な価値観があるということが本当に語られない し、認められていない。単一の価値観しか存在しないような現状の中に、生徒たち、
子どもたちが置かれているのではないか。いくら異なった価値観を教えこまれたとし ても、「偏差値が大切だ」と、「偏差値のレースに勝ち残って、お金を十分稼ぐように なるのが価値なのだ」という、その価値しか存在しない学校、家庭、社会の中にあっ ては、結局は、子どもの心の荒廃はいつまでたってもなくならないのではないか。そ う考えると、何かを教えること、心の何かを教える、宗教の何かを教えることによっ て、この問題は解決しないだろうという思いがいたします。そのような教育でがんじ がらめになってきている日本の若者の現実は、本当に大変なことであって、それがオ ウムを生み出した現状でもあるのではないかと思うんですね。
オウムについては井上さんがご専門ですが、私が疑問に思うのは、今、言ったよう な教育現場、家庭、日本の社会において単一の価値観しかないということに対して疑 いを持ち、それから抜け出したいと思った若者たちがオウムに行って、麻原という非 常に単純な答えに満足してしまった。この現実ですね。これは構造的に今も全く変わ っていないと思うんです。唯一の価値観しかない。偏差値、経済的な成功という価値 観に疑いを持ち、そこから離れたのに、麻原という唯一の価値観を答えとすればいい のだという思考方法から抜け出せない。これは原理主義だと思います。ファンダメン タリズムだと思います。そういうファンダメンタリズムをどう克服していくか。多様 性を、家庭の中で、親子関係の中で、社会の中で、どのように実現していくか。これ が実は「心の教育」にとって重要なのではないかという印象を持っております。
[小原]ありがとうございました。いくつものポイントが提起されたと思います。こ れらのポイントに触れていく前に、休憩中に寄せられた質問からいくつかご紹介した いと思います。個別にすべてお答えすることはできませんので、ご了承ください。
菅原さんに対する質問です。「よい宗教、悪い宗教というものを判別できるのでし ょうか。宗教の迷信的な部分、根源的な部分と言われましたが、その区別も可能なの でしょうか。可能だとすればどういう基準があるのでしょうか」というご質問です。
井上さんに対する質問です。宗教の周辺的な部分として語られたことに関して「占 い、オカルト、超常現象、死後の世界は宗教の周辺と括れるのだろうか」という質問 です。
沖田さんに対する質問。脱宗教化された道徳教育が内面化された道徳を生み出さな かったということに対して「宗教と道徳の関係について教えてください」。現代の問 題にかかわって「宗教化された道徳教育が内面化された道徳を生み出すとするならば、
なぜ宗教戦争で人殺しが行われるのでしょうか」というご質問です。
その他、「今、宗教教育を語っていますが、そもそも宗教とはどういうことを意味
しているのでしょうか」「宗教教育で意図することはわかるが、宗教という言葉、宗 教的な用語を使わずに、そのめざすところを教えることが必要ではないか」というご 意見もありました。
そういうご質問があったことを踏まえていただいて、これから自由にディスカッシ ョンしていただきたいと思います。はじめに菅原さん、今のご質問を含めてご意見を おっしゃってください。
[菅原]そういう質問が出るだろうと思っていました。まず「よい宗教、悪い宗教」
「迷信的な部分と根源的な部分」の問題です。ここには、いろんな宗教の方がおられ るのでご批判もあるでしょうが、私は「宗教とは信じるものではない」と思っていま す。本当の宗教は信じるものじゃない。強く思い込むとか、エクスタシーとかに身を 任せるとか、そういうことが宗教の本質ではないのです。本当の宗教は気がつくもの でしょう。納得すること、了解すること、仏教では了解(りょうげ)というのでしょ うか。神様や仏様にしろ、自分が信じなくては存在しない、というのは違うはずです。
信じようが、信じまいが、神様や阿弥陀様はおられるわけで、こっちが信じなくては 存在しないというなら、それは怪しいものだと思います。
ここで、久松真一さんの言葉を紹介します。『無神論』(法蔵館)の中にある言葉で、
「これからの時代は「『信の宗教』ではなくして『覚の宗教』になって来なければなら ない。普通は信が宗教的作用と考えられているが、結局中世的なものにならざるを得 ず、『覚』がそれであるような宗教こそが、近世を超えてゆく宗教と考えたい」とい うご意見です。私は、こういうものが宗教の根源的な部分と考えているのです。久松 さんは禅の方ですが、仏教だけでなく、イエスという方、マホメットという人も根本 的にはこういう要素があったのでしょう。「コーラン」にも、「確固たる信仰もった 人々には、この地上にさまざまな神兆がある。それからお前たち自身の中にも。お前 たち、これが見えないのか」(51 章 20 − 21、岩波文庫、井筒俊彦訳、下巻)という言 葉があります。
ルドルフ・オットーは、有名な『聖なるもの』(岩波文庫、山谷省吾訳)の中で
「宗教の中には、教えられるもの、すなわち概念をもって伝え得るもの、また学校の 教育において移し得るものが、非常に多い。ただ、その奥にあり、基礎をなす部分に ついては、そうは行かない。それはただ、揺り動かし、目醒めさせるより外に方法が ない」と書いていますが、全くその通りだと思います。
宗教について学校で教えられることは、いっぱいあります。知識教育、安全教育、
寛容教育とかは十分、公立学校でも教えられるのです。たとえば、対宗教安全教育に ついて、井上さんは意見が違うとおっしゃいましたが、井上さんのレジュメの「でき ること」のところを拝見しますと、私の考えている通りのことが書いてあります。た
とえば、現代の宗教に対する一般的判断力の養成、とありますね。何々宗、何々教が いけないと学校で具体的に教えることはできないが、ここにある項目は十分教えられ るのではないでしょうか。すぐ金銭がからまる話になるとか、何十万円も献金させる のはおかしい、といったことです。もちろん、どんな金額ならいいか、といった線は 引けない。大なり小なりキリスト教も献金はやっているし、仏教にもお布施があるの ですから。そうしたことについて具体的な尺度は教えられないけれど、一般的な注意 はできるはずです。理科教育を徹底することによって、空中浮揚はありえない、輸血 は大事な医療行為だ、といったことです。
オットーが言うように、学校でできることはいっぱいあるのです。ただ、言葉では教 えられないことは確かにあります。禅宗には「不立文字、教外別伝」という言葉があり、
お寺でさえ教えることができないのです。言葉では教えることはできないが、沈黙とか 孤独とかについて、オットーの言うように「揺り動かす」ことは可能です。人間の抱え ている不安や孤独、どこから来てどこへ行くのだろう、といった実存的な問題について 考えさせることはできるはずです。先ほど、ドイツの学校で紹介したような例もあり ます。私の小学校時代を思い出すと、学校で食事をする前に、ある先生は黙想をさせ ておられました。1 分くらい目をつぶってじっとさせる。自分と向き合わせる。そう いうことではできるはずです。「神戸・生と死を考える会」という、公立学校と私立 学校の先生が集まり、神戸市の教育委員会も応援している研究会もあって、死を考え させる授業を試みています。そういう方法もありえるのではないでしょうか。
宗教用語を使わずに宗教的なことを教えることができないか、という意見にはまっ たく賛成なのです。そうすれば無神論とか唯物論とか、宗教に関心のない人も含めて、
左から右の人も含めて、ともに取り組めるからです。さまざまな宗教だけでなく、実 存哲学にも心理学にも、同じような言葉がいっぱいある。沈黙とか、孤独とか、自分 と向き合うということは、どの宗教でもあるし、哲学や心理学にもあることです。特 別な宗教用語を使わないでもできるのではないでしょうか。もちろん、今まで 50 年 やってこなかったことを急に「すぐ、やれ」と言われても無理でしょう。しかし、こ れから 50 年のレベルで考えれば、何か方法はあると思っています。
[小原]「よい宗教」と「悪い宗教」の分類が簡単にはいかないというお話をしてい ただきました。森さんのご指摘のように、価値の多元化が問題の背景にはあると思い ます。多様な価値が共存する現実が一方にあり、他方には、ファンダメンタリズムの ような画一的な価値に向かう求心力があります。その間に我々は挟まれていると思う のですが、井上さん、今までの質問を受けて、ご意見がありましたらお願いします。
[井上]今、菅原さんが宗教用語を使わずに宗教について語るという趣旨のことを言 われましたが、私は逆のことを主張しています。宗教情操教育に関して、長く交わさ
れた議論があります。それは簡単に言うと「特定の宗教によらないで宗教的情操教育 が可能か」ということです。私はできないという立場をとっています。宗教一般の情 操を教えるというのは、一見可能に思えますが、実際はきわめて困難です。それは音 楽の比喩を使うと分かりやすい。
「音楽」という概念はあるけれども、人は音楽一般を知るわけではありません。ク ラシックを聴いたり、日本の伝統音楽を聴いたりして、音楽を知っていきます。具体 的にそれぞれの民族、社会において伝わる音楽を聴くことで、音楽に対する情操が養 えます。たとえば音階について教えられるとか、和音について教えられるという、知 的なことは学問的にできます。だが、音楽の情操については個別の音楽を通してしか できません。
同様に、宗教情操については、個々の宗教用語を使ってしか、適切に伝えられませ ん。「不立文字」なら「不立文字」という言葉を使う立場について説明する。「天啓」
なら「天啓」という言い方について説明する。そういうことを積み重ね、いろいろな 宗教の考えを説明し、宗教的世界への感覚を豊かにするしかありません。それを「命 の大切さ」とか「自然の神秘」とか、一般的な言葉だけで養うのは、限界がある。
「宗教の定義は何か」という議論と似ていて、極めて不毛になってしまうと思われま す。
それから、今の話に関係のないことですが、先ほどから「神道非宗教論」というふ うに表現されていますが、これは、正確には「神社非宗教論」です。
[小原]これまでの議論を受けて、沖田さんから何かご意見をいただけますか。
[沖田]難しい問題を出されました。「擬似宗教化された道徳」というものが、教育 勅語体制の中で、国民道徳という形でしか論じられなかった。国家を超えることはで きなかった。日本では道徳的に立派な人が、中国大陸で残虐な殺戮を犯していく。こ れは日本の国民道徳の限界であっただろうと思います。「脱宗教化」という表現です が、宗教というのは単純に考えると「自分と他者が共に幸せになる方向を模索するこ と」。もっと言えば、我々がある行動を起こす場合、「実践の契機を人間の内面に求め る」。人間の内面がより固い信念に裏付けられていることが超越者を想定していく。
それを「宗教化」という言葉で使っているのですが。
逆に「宗教化された道徳」という表現がされています。イスラム原理主義者が果た してイスラム教の本質であるかどうかという議論をすれば、私の意識では、それは非 常に「疑似宗教化された道徳」ではないか。もっと言うなら「宗教化された不道徳」
もありうるわけです。他者を殺すということは普通の意識ではできないのであって、
平気で残虐なことをするために宗教化されていく場合もありうるわけです。脱宗教化 された道徳教育が内面化されない、または宗教化された不道徳もありうるのだという
ことです。
森先生が言われたことで、日本の宗教教育の中で可能性をどこに見いだすかという ことですが、一つは、井上先生が「学校を開く」という言葉を使われました。私もそ うだと思うんですね。これまで学校の中に何もかも閉じ込めてきた。案外、日本の庶 民は健全な宗教意識を持っているのではないか。明治以降、ある方向に向かっていっ たわけですが。神社信仰と神道を分けて使うと言われましたが、日本人が生活の中で、
伝統的に生活の内に取り込んできた宗教意識がある。それを学校、社会、家庭の中で 発掘していく。明らかにしていく中で、これまで明治以来、問われてきた「擬似宗教」
の問題も明らかにできるのではないか。そのことは学校教育の中で、庶民の生活や共 同体をとおして培われてきた宗教というものを自覚化していくことが、一つの宗教教 育の可能性を切り開いていくのではないかと思います。
[小原]それでは、これからは自由に議論を交わしていきたいと思います。
[井上]オウム真理教の話が出ましたが、今、まだオウム信者は数百人、教団にとど まっています。彼らはなぜ残っているのか。私が感じているのは、彼らは麻原に真理 を教えてもらったという意識があるということです。それは何か。空中浮揚とかとい うようなレベルではありません。一番重要なポイントは「輪廻転生」、カルマといっ た話です。つまり、自分が存在するのは、この世だけではないということです。自分 は現世でいろいろな目に遭っているが、これはカルマだと理解する。この世がどうあ ろうと次の世が問題だとも考える。カルマというのは、インド思想の最も根幹をなす ものの一つです。オウム真理教は、邪教とか、えせ宗教とか言われたが、彼らが受け 入れた限りにおいては、むしろ「正統」のインド思想に近いものになっています。麻 原は伝統仏教がきっちり教えられないところを、自信たっぷりに教えました。しかし 最後のところで大変などんでん返しをやってしまった。私はそう理解しています。そ れがなければ、もっと影響が広まったかもしれません。
宗教についての判断というのは非常に難しい。先程の音楽の比喩を用いれば、西洋 の音楽は素晴らしいが、演歌は三流だと決め付けるわけにはいきません。音の外れた 歌を歌って周りから変だと言われても、本人が楽しければいいということもあります。
それと似たように、宗教にもどの観点から「正統だ」「疑似だ」「正しい」「間違って いる」というのでしょうか。それは難しい。ではおまえはこの点について、どういう 判断をするかと問われれば、結局「人間が選ぶんだ」ということになります。短いス パンではいろいろな評価があるけれども、長い間には必要な宗教は残ると考えるしか ありません。キリスト教だって歴史的にみれば、そうとう悪いことをしています。し かし 2000 年続いたということは、それなりのものがあるのだろうというような見方 ができます。このようにしか「正しい」「間違っている」ということは言えないので
はないかというのが、私の立場です。
[小原]いくつかポイントが出てきたと思います。沖田さんからは、日本の民衆、庶 民の中に比較的健全な宗教意識があったのではないかという指摘をいただきました。
その一方で、井上さんからは、実際の公教育の中で先生方がそれを担えるか、という 問いをめぐって「到底むりだ、そう断言できる」という見解が表されました。また、
同時代におけるアメリカでの試みを森さんから紹介していただきました。アメリカと 対比して、これから日本で現実的に市民がかかわるような、学校教育における宗教教 育の可能性に関して、森さんからコメントをいただけますか。
[森] 具体的にはわからない。しかしわからないということをわからないと言った方 がいいと思う。親の問題だと思う。親がわからないのに、わかっているかのようなこと を子どもに言うことが、子どもにとっては一番大変なのであって、僕はそれがファンダ メンタリズムだと思うんですね。ファンダメンタリズムには、いくつかの共通する特徴 があると思うんですが、「答えは単純だ。自分は知っている」ということですね。本 当の答えはじっくり出てくるものであって、そんなにすぐにわからないんだというこ とを認めない。言い換えれば、「待てない」。親はわかっていないのにわかったかのよ うに、答えを持っているかのように子どもに接していく。そういう親のあり方が大変 だと思うから、親を巻き込む教育というものを、親の教育も含めてやっていかないと、
解決はない。じゃ、日本の教育制度の中でそれがどういうふうに可能なのか。
アメリカの場合はかなり可能なんですね。だからブレもあるんですよ、地域によっ て。片方では大学でイスラムを教えてもいけないということがテネシー州で起こって くる。しかし反対に、サンフランシスコやニューヨークでは、全く反対の形になると いうブレがある。それを選んでいる主体は誰なのかというと、親であり、地域の住民 であるという、そういう形態を日本の学校制度の中で、どうやってつくっていけるか。
ここが問題として考えているところです。
[小原]非常に難しい問題ですが、この点に関して、3 人の講師の先生方から意見を 伺いたいと思います。
[沖田]信教の自由というのが大きくかかわってくると思うんです。毎年、地蔵盆が 行われていた。子どもたちが楽しみにしている。中学生や親がセットして子どもの成 長を祝う。ある時、物知り顔の知識人がやってきて「これは信教の自由に反する。お 坊さんを呼んできて、自治会の会費で仏教行事をするのはけしからん」。または地域 に氏神さんの稚児さんの祭があります。子どもが 3 歳になれば、個性を隠してリヤカ ーに乗せて田舎を回る。「私の子どもではなく地域の子どもですよ、皆さんで育てま しょう」という意味があるのですが、それも「氏神は天皇信仰につながるからそうい う行事をしてはいけない。これをやるならやりたいものがしなさい」と、生活に根ざ
した宗教意識がどんどん否定されていく。この問題をどう考えたらいいのかというこ とです。天皇制以前から延々と続いてきた宗教意識や儀礼は、天皇支持としてやられ ているわけではないんです。諸々の生活の中にある宗教意識と、信教の自由、政教分 離の問題、これが公立学校における宗教教育に踏み込む時に大きなネックになってい るのではないか。この問題を先生方やフロアの方々がどうお考えでしょうか。
[井上]先ほど質問があった、「宗教周辺」ということにもかかわりますが、私はそ れはほうっておけばいいと考えます。宗教習俗的な部分は、教育が関与しなくてもい ろいろな形で関与がなされるので、それでいい。宗教的習俗は全文化的な問題だとと らえた方がいい。先程の統計でも示したように、宗教習俗は学校で教えなくても、結 局今の学生の大半が踏襲しています。あまり変わらないわけだから、それでいいので はないかと考えます。
むしろ今、必要なのは、より意識的にかかわらなければならない宗教問題です。森 さんが指摘したように、多文化的な状況になり、日本の中にもイスラム教徒(ムスリ ム)が増えている。価値観のぶつかりあいは、これから激しくなるだろうといった類 のことを教える方を、優先した方がいいのではないかと思います。
[小原]いくつか共有できた関心があると思いますので、フロアの皆さんから、こう いう関心がある、日常生活の中でこういう問題を考えているということを質問として 出していただければと思います。宗教一般に関して問うことは可能だと思いますが、
今回のテーマである宗教教育になるべく限定してご質問ください。
[フロア]菅原先生に。アウグスティヌスの有名な言葉に「時間とは一体何であろうか。
考えなければ誰でも知っている。考え始めると謎に満ちている」というのがあります。
「時間」という言葉を「命と死」に置き換えても教育ができると思うんです。そうい う宗教以前かつ宗教を超えた観点が宗教教育の根本にあったらいいと思います。教育 一般にもそういう意識を育てることが根本にあればいいと思いますが。
[菅原]宗教系の学校では、キリスト教に基づく根源的な教育、仏教に基づく根源的 な教育ができますが、公立学校ではできません。公立学校で教える道があるとすれば、
まさに今、おっしゃった方向だと思います。プロテスタントのバッハが書いた「マタ イ受難曲」は、日本語に翻訳しても感動的だが、それは仏教徒や無宗教の人にも通じ る何かがあるからだと思うのです。その何かをどう教えるかをこれから研究していき たいものです。
[フロア]最後に森さんがおっしゃった、親がわからんことをわかったように言うこと が大きな問題だと。難しいことを簡単に結論を出すのは問題であると。僕が考えます ところでは、教育という仕組み全体がそうではないかと思っています。学校ではすぐ 答えがないと話になりませんから。宗教的なことを教育という仕組みの中で取り扱い、
結果が出るか、効果が出てくるか。僕は出ないと思います。僕の独断かもしれません が、単に宗教的なことだけでなく、個々の人間が今まで、さっぱり成熟しないという のは、教育によって人間が育つという、僕から言えば幻想、それにとらわれてきたの ではないか。教育基本法1条に規定するような個人の自立を、もっと主眼に置いた教 育をするべきではないかと思っています。人間が育ち、他者と殺し合いをせず、戦争 もせず、共存していける道の可能性はあると思います。そういう主張をさせていただ きます。
[小原]森さんからコメントは? その通りですか。他の先生方、いかがでしょうか。
[菅原]学校で宗教のことを教える必要はないというのは、貴重なご意見だと思いま す。ドイツでは宗教教育を熱心にやっているし、イギリスもやっています。しかし、
ソビエトの学校は 70 年間、唯物論を教えるだけで宗教については何も教えていませ んでした。それが共産党の人たちの信念でした。しかし、その他の人たちは実は宗教 を求めていたのです。そして、ソビエトが崩壊した途端に、カルトや迷信がはびこる ことになりました。何も教えないということは、宗教音痴をつくりかねないから、実 は危険なことでもあるのです。ロシアになって宗教を教える方向になりましたが、フ ランスの公立学校は依然として宗教教育をやっていません。なぜかといえば、第一の 理由は、フランス大革命の時に、カトリックの僧侶たちがアンシャン・レジームの第 一身分だったからです。フランス大革命というのは第三身分である市民が、第一身分 の僧侶と第二身分の貴族を打倒した行動です。革命を起こした側からすると、宗教は 敵だったのです。もう一つの理由は、宗教は教会で教えればいい、家庭で教えればい い、ということが前提になってきたからです。ところが 15 年ほど前から反省が出て きた。カルトの問題、道徳、倫理の頽廃もあって、やはり学校で宗教を教えるべきで はないかという意見が強まりました。家庭で宗教を教えようにも、家庭が崩壊し、教 会にも行かなくなってきている。やはり、学校で少しは教えるべきだ、というわけで す。今は、賛否両論がせめぎあっている状態でしょう。もちろん、宗教の時間は置い ていませんが、歴史教科書の中に聖書の話を多く折り込むことを始めています。200 年ぶりに姿勢が変わってきたというのが、今のフランスの教育界ではないでしょうか。
[フロア]井上先生に。教師が「できること・できないこと」について。8 月 13 日、小 泉総理が靖国神社に参拝しました。それ以前から学校で日の丸問題でトラブルがあり ますが、そういうことを生徒が尋ねた時、教師は答えることができるのか、できない のか。個人の能力ではなく、制度的、学校の規範の中でできるのかどうか。質問され た時に、どういうふうにやれるのかというヒントはございますか。
[井上]今の日本の法律とか教育制度のもとで、それがなぜ問題になるかは教えられ ると思います。ただそれに対して自分はどういう主張を持っているかまで説明すると
なると難しいのではないでしょうか。政教分離に関しても、信教の自由に関しても、
あるいは靖国参拝に関しても、常に二つの相反する立場があります。実は、小泉首相 の靖国参拝に関しては、私は毎日新聞からコメントを求められたので、「小泉首相が、
自分が神道の信者だから行くのだというなら何とか認められるが、そうでなかったら 筋がとおらない」という趣旨のことを述べました。
こうしたことに対する解釈は数多くあるので、熱心な先生ならいろんな解釈を集め て「こういう解釈があるが、君たちはどれが適切と思うか。考えてみなさい」と言う ことはできます。これが正しいということを一方的に教えるのは問題です。材料を揃 えるにとどめるのがいいのではないでしょうか。そして判断力を養わせる。この問題 を考える時には、こういうことを知って、こういう立場があると、今までの蓄積をバ ランスよく見せて判断力を養う。私は宗教学者なので、こういう言い方になりますが、
公教育だったらそのへんが限界かなとも思っています。
[フロア]今日の演題が「心の教育」の可能性を問うということで、心の教育イコール 宗教教育という構図になっているところに疑問を抱くのです。伝統的に積み重ねられ てきた、教義化された、教団化された形での宗教は、ある意味で、それが持っている レッテル、ネームバリューを直接的、表面的に教えてしまう形になってしまうのでは ないか。必ずしも心の情操までたどり着かないのではないかという意識を持っている からです。一つ伺いたいのは、今、普通に教えられている国語、算数、理科、社会と いう一つひとつの科目の中で、国語だったら読み書きだけのテクニックだけでなく、
諺、俳句を教える中から言葉を学ぶ背後にある情操を教える。数学や物理にある人間 の論理的な思考が人間の情操とどうかかわっているか。社会では人名や年代を覚えた りするのではなく、今の経済制度、資本主義がどういう形で人間の欲望をベースにし て成り立っているか。それに対して出てきた社会主義はどういう形の社会をつくろう としたか。人間論的に、一つの科目の中で教えられること、それが心の教育の可能性 と通じてくる部分があると思いますが、そういう形でカリキュラムの内容を検討する 方が、宗教教育という独立した分野をつくって、宗教そのものを教え込んでいくより、
はるかに実質的に効果があるのではないかという感を持ったのですが。
[森] またアメリカの例でお話させていただきます。心の教育にあたるものはアメ リカでは「キャラクター・エデュケーション」として出てきています。これはどの段 階でやるかというと小学校の段階です。今回アメリカで、実際に見てきましたし、
NHK でも放映されました。小学校 1、2 年のクラスで、先生を中心に丸く座って、日 常起こったことを語る。どうやって一緒に生活していけばいいのか。トラブルをどう やって解決したらいいかということを話し合うクラスです。そういうものが考えられ るようになったのはなぜか。「キレる」ことによって、アメリカの場合、銃の乱射が
起こってくるわけです。一緒に皆が平和に暮らしていくには、どういう形でやってい けばいいのかという現実的なことについて教えるわけです。NHK のテレビでは「カ ッときたら三べん深呼吸しろ」と。こんなことを教えるわけです。それに近いことを やっているわけです。現実の日常生活の中で、違った人とぶつかって自分がキレそう になった時、どうやってやっていけばいいか。そういう緊張を伴った社会であるから だと思うんです。これは小学校の段階で終わります。
中高になった時、宗教教育が入ってくるわけです。宗教というクラスが設けられる のではなく、カリフォルニアの場合、社会、歴史という科目の中でどういう内容を何 年次に、どう教えたらいいのかという、具体的なガイドラインの中でなされています。
普通なら先生の力量にかかってくるわけだけれども、できるだけどんな先生でもでき るような形にマニュアル化していく。マニュアルですべて解決するとは思いませんけ れども。科目の中でどう反映していくかということです。ご質問、こ指摘されたこと を考慮しているのではないかと思います。
[沖田]おっしゃった通りです。しかし日本の学校というもの、教育というものは大 きな国家のシステムの中にがんじがらめになっている。ダブル・スタンダードとして、
教育理念を言っているんですね。現実のカリキュラムは学習指導要領で規定されてい る。学習指導要領が法的拘束力を持つ。もう一つは先生自体の主体性が確立されない ようなシステムがある、先生個々ではなく、そういう大きなフレームワークを我々が どう変えていくかが問題だと思います。一つは日本の学校システムをどう変えていく か。教師が主体的に教育実践するためにどういう教員養成、教員の資質が問われてく るか。国民的な運動の中でディスカッションしていかないとだめだと思います。それ を阻害しているのは何かということです。
[井上]今のご意見ですが、もっともな面があるにしても、もう一歩進んで考えると、
そう単純な話ではないと言わざるをえません。国語とか歴史とかを通じて、ある種の 理念を伝えようとすると、「歴史教科書をつくる会」みたいな話になりかねません。
また特定の新宗教の強い信仰を持った教師もいます。そういう人は信念を持っている ので、教育の場で、ある程度そうしたものを伝えようとしている人もいると考えられ ます。国語、社会、理科で何かを伝えようとすると、教師の側に何かしっかりしたも のがないと伝えられないわけです。その人の明確な価値観、こういう人間に育てたい というようなものです。しかしそれには、いろんなタイプのものが含まれてくること になります。そのことを想定しなければならないでしょう。ファナティックな教師が 現れることだってありえます。
ただ、今の学校での教育が、あまりに小手先になっているという意味での提言なら、
全くその通りだと思います。歴史は、過去に学んで、これからどう生きるかの参考に
すべきであるという視点がないまま暗記しています。古文も文法だけだったり。そう いう意味での批判とするなら、共感する。しかし、心の教育への参画という観点にな ると、今言ったような別の危険性があるということは、考えておく必要があります。
[菅原]おっしゃる通りだと思います。宗教教育とか「心の教育」というけれど、今 から心の時間ですよ、宗教の時間ですよ、という形である必要はないのです。先生た ちの力量、人格が問題になるでしょう。国語の授業で詩を読ませる先生は多いと思い ますが、そこに宗教性のある作品を取り上げられないか、と考える先生がいてほしい のです。八木重吉はキリスト教で、金子みすずは仏教だが、底に流れているものは共 通しているはずです。そういう詩を読んで子どもたちに感じてもらうことは、今すぐ 可能ではないでしょうか。文部科学省がそういう方向を打ち出せば、かなりできるの ではないかと思っています。たとえば、キリスト教の「アガペー」という言葉は普通、
「愛」と訳されていますが、カトリックの井上洋治神父は「悲愛」と訳しておられま す。一方、仏教には「慈悲」という言葉がある。この二つには共通の思想があり、慈 悲とかアガペーという言葉を使わなくても、たとえば「悲しみ」ということをキーワ ードに授業ができるはずです。そうした共通の土壌がありえるのではないか、という のが私の願いなのです。
[小原]本日はいろいろなことを話し合いました。同志社大学神学部では、今後も同 様のテーマに対し継続的に取り組んでいきたいと考えています。ご参考までに申し上 げますと、今年 12 月と来年 1 月に、それぞれフランスの事例、ドイツの事例を中心 にした宗教教育関係の講演会を予定しております。
今日のテーマは、すぐに何かが見つかるという問題ではないと思います。地道な議 論の積み重ねを通じて、私たちが何をすべきなのかという手がかりを少しずつ見つけ ていきたいと考えておりますので、皆様もご関心を持っていただき、私たちの取り組 みにご参加していただければと思います。
本日はご来場いただき、ご静聴いただきまして、どうもありがとうございました。