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学位授与番号 32675乙第236号 学位授与年月日 2018‑09‑15

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在日コリアンの北朝鮮帰国事業に関する研究 : 大 規模な集団移住の過程と諸要因の分析

著者 菊池 嘉晃

著者別名 KIKUCHI Yoshiaki

発行年 2018‑09‑15

学位授与番号 32675乙第236号 学位授与年月日 2018‑09‑15

学位名 博士(国際文化)

学位授与機関 法政大学 (Hosei University)

URL http://doi.org/10.15002/00021293

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法政大学審査学位論文の要約

在日コリアンの北朝鮮帰国事業に関する研究

―大規模な集団移住の過程と諸要因の分析―

菊 池 嘉 晃

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博士論文要約

在日コリアンの北朝鮮帰国事業に関する研究

-大規模な集団移住の過程と諸要因の分析-

菊池嘉晃

序章 問題意識と研究目的

本論文が考察の対象とするのは、東西冷戦期の 1959 年から 1984 年にかけて在日コリア ンとその家族計 9 万 3340 人(日本国籍者約 6800 人を含む。そのうち日本人妻は推定約 1830 人)が日本から北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)へと渡った北朝鮮帰国事業(帰還事業)

である。

帰国問題研究が本格化したのは、2000 年代に入る頃からであった。1990 年代までは、帰 国事業終了から時間を経ておらず、関係国・機関の史料公開が進んでいなかったうえ、北 朝鮮に関する客観的な議論を行いにくい日本社会の雰囲気が存在していた。帰国事業に関 する関係各国の外交文書や赤十字国際委員会(ICRC)文書など新たな一次史料が、2000 年代前半から本格的に公開され始め、それを踏まえた研究が活発化した。ただし、先行研 究は、帰国問題における特定の時期や一部の関係国・団体、帰国問題における特定のテー マ、分野を対象にしたものが少なくない。

一次史料を豊富に活用し、帰国問題を全般的に考察しようとした研究としては、高崎宗 司・朴正鎮編著『帰国運動とは何だったのか――封印された日朝関係史』[平凡社、2005 年]、テッサ・モーリス-スズキ『北朝鮮へのエクソダス 「帰国事業」の影をたどる』[朝 日新聞社、2007 年]、菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業 「壮大な拉致」か「追放」か』[中央公 論新社(中公新書)、2009 年]、朴正鎮『日朝冷戦構造の誕生 1945~1965 封印された外 交史』[平凡社、2012 年]などがある。上記の研究を中心に多くの点が解明されたものの、

限界や課題は少なくない。在日コリアンの集団帰国を主導した主体や目的は何だったのか、

すなわち、帰国問題を最初に提起したのは日本側なのか、あるいは北朝鮮側ないし在日コ リアン側なのか、帰国を提起し推進した意図や戦略は何であったのかなど、幾つかの重要 な論点でなお論争があり、未解明な点も残されている。それらの点を含めて、9 万人を超 える大規模な在日コリアンの集団移住が生じた諸要因に関する多角的な分析は行われてい ない。さらに、北朝鮮に渡った後の帰国者や日本人妻らの適応過程については、当事者の 手記や証言は数多いものの、研究レベルでの考察は十分になされていない。結果的に四半 世紀も続いた帰国事業の長期化の原因や、その影響に関する考察も同様である。

本論文では、先行研究の課題と限界を踏まえつつ、以下の点について解明、分析するこ とを目的とする。第 1 に、在日コリアンにとって最初の移住であった朝鮮半島からの渡日 期(明治期~戦前期)、戦後の帰国事業「前史」の時期、及び帰国事業の実施期全般を対象 とし、在日コリアンの帰国問題に関する歴史的な展開過程を関係各国や関係機関・団体な どの 1 次史料、各種の文献などを活用して詳細に明らかにすることである。筆者自身の先

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行研究(菊池、2009)との比較では、以下の点について新たに、あるいは、より詳細に検 討を行う。

・戦前の朝鮮半島から内地への移住(最初の移住)と、植民地朝鮮の人口排出要因。

・終戦直後(朝鮮戦争以前)の朝鮮半島帰還の展開過程。

・民戦期の帰国運動と路線転換との関係。

・帰国問題と日朝経済・文化交流の進展。

・帰国事業の長期継続と 1980 年代半ばに終了した要因、及び在日社会の変容との関係。

・1950 年代後半の北朝鮮革命戦略・対南戦略と、ソ連、中国、日本など周辺国同胞の帰 国推進政策との関係。

・帰国者の北朝鮮における適応状況。

上記以外の点についても、筆者の先行研究で明らかに出来なかった、帰国問題に関する 歴史的事実や論点等について可能な限り検証し、帰国を主導した主体や目的、北朝鮮の帰 国推進意図など重要な論点について再検討する。

上記の考察で活用する 1 次史料は、日本、北朝鮮、韓国、ソ連、米国など関係各国で作 成された政府外交文書などの公的資料、帰国事業で帰国者の「意思確認」などに携わった 赤十字国際委員会(ICRC)の内部文書、そのほか帰国運動や帰国事業に関係した人々 の回想記などである。北朝鮮から脱出した多数の脱北者の証言も活用する。これらの史料・

証言の多くは筆者の先行研究でも使用したが、その際に十分使えなかった史料も本論文で 多数活用している。

第 2 に、北朝鮮への集団帰国を移民性の強い「帰還」(移民的帰還)と捉え、9 万人以上 もの在日コリアンら(日本人配偶者及び在日 2 世以下の家族含む)の大規模な集団移住(移 民)が生じた諸要因とその影響について、近年の移民システム理論を念頭に置きつつ多角 的な分析を行う。たとえば、移住を促進した送出地(日本)と移住先(北朝鮮)の経済的・

社会的・人口的・法的・政治的な要因(広義のプッシュ要因とプル要因)、両地域の結びつ きや交流、情報、交通手段の発展と大規模な人口移動との関係、移住を選択した人々の動 機と心理・文化・アイデンティティの問題、移住者の定住と適応及び移住先社会の反応、

移住者が与えた移住先の社会構造・文化等への影響、移住先と送出地との新たな交流関係 などについて相互の関係にも留意しながら考察する1。こうした作業を通じて、冷戦期の「移 民」のケーススタディとして、他の国際人口移動との比較に必要な知見を提供することを 目指す。

第1部 日朝・日韓関係と「帰国問題」の展開

第1章 在日コリアン社会の形成と発展(明治期~昭和戦前期)

第1部(第 1 章~第6章)では、帰国問題の歴史的展開過程を詳細に明らかにする。ま ず戦前の在日コリアン社会の形成過程と日本社会との関係について概観する。

韓国併合以前の明治初期から労働者や学生、官吏などの渡日者が存在し、次第に炭坑労

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働者なども増え始めた。しかし、併合前の渡日者は少数で、韓国併合(1910 年)時点でも 在日コリアン数はわずか 2600 人に過ぎなかった。その後、日本統治期を通じて植民地朝鮮 から日本(内地)へと大規模な人口移動が生じたのは、朝鮮のプッシュ要因と日本内地の プル要因のほか、日朝間の交通・輸送手段の発達や渡航管理制度など、さまざまな要因が 複雑に絡み合った結果であった。

すなわち、植民地体制下、日本人と朝鮮人との民族間経済格差や、階層間の経済格差に 関連した生活難、生活満足度の低下という人口排出圧力(プッシュ要因)が朝鮮にはあっ た。一方、内地には、労働力需要と雇用機会の多さ、賃金水準の高さというインセンティ ブ(プル要因)が存在した。移動、交通手段、情報の面を見れば、韓国併合に伴い朝鮮半 島と内地間の移動は同一国内の移動となった。1920 年代半ばから朝鮮人の渡日に関して渡 航管理制度が整備されて規制が加えられたものの、「大日本帝国臣民」として(通常の外国 人に対するような)入国制限は存在しなかった。関釜連絡船や阪済航路など交通・輸送手 段も発達し、季節労働や中短期の出稼ぎを目的とした渡日・往来、短期滞在から、次第に 定住していく人々が増えていった。出稼ぎ者の口コミや、内地の情報を伝えるメディア(た とえば、内地で成功するためのガイドブックなど)を通じて内地への関心は広がり、渡日 へのインセンティブを高めた。先に渡日し定住していた親族や知人の呼び寄せによる移住

(連鎖移民)も、1920 年代以降に急増していった。さらに戦時期の労働動員などによって、

朝鮮から内地への人口移動は激増した。そうした結果、1945 年 8 月 15 日の敗戦時、約 200 万人にのぼる在日コリアンが存在することとなったのである。

朝鮮から渡日した人々は、大部分が低賃金労働と劣悪な生活環境で暮らし、日本社会の 底辺で不安を抱えていた。エスニック・コミュニティを形成し、互いに助け合って生活す るケースも多く、そうしたなかで各種の団体が結成され、在日社会独特の文化も花開いた。

日本人との間で個別には交流や協働作業も行われた。しかし、日本社会に根強かった植民 地の民族に対する優越意識や差別的な対応と当局の「同化政策」の下、民族的アイデンテ ィティの動揺と葛藤、苦悩を余儀なくされた。そのような状況で在日コリアンらは(個々 人の温度差、意識的か否かの違いはあるにせよ)必然的に次の 2 つの課題に直面すること になった。

第 1 に経済的な生活の安定と向上である。さらに自らの文化やアイデンティティを大切 にしつつも日本社会で一定の地歩を築き、日本人からも対等な扱いを受けて暮らしていく ことが第 2 の課題であった。日本社会で差別されず、朝鮮人としての文化やエスニック・

アイデンティティが日本人からも認められ、日本社会の正当な一員として生活していくと いう願いであった。

第2章 解放~朝鮮戦争期の在日社会(1945 年~1953 年)

1945 年 8 月 15 日、日本の連合国に対する無条件降伏により朝鮮半島は 35 年間にわたる 植民地支配から解放された。終戦時の在日コリアン約 200 万人のうち、朝鮮戦争が勃発す るまでの 5 年弱の間に約 3 分の 2 にあたる約 140 万人が朝鮮半島南部(韓国)に帰国した。

朝鮮半島北部(北朝鮮)には、米ソ協定に基づく 1947 年の集団帰還で 351 人が帰国した。

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「南」への帰国は、1946 年初めごろから帰国者数が急減していた。同年 3 月時点で在日 コリアンの約 8 割が郷里のある朝鮮南部に帰還したいと考えていたにもかかわらず、実際 の帰国者数が急減したのは、解放後の朝鮮半島の政治的な混乱(米ソによる南北の分割占 領、朝鮮南部の左右の政治勢力の対立・抗争)と、経済的な混乱(食糧事情の悪さ、膨大 な失業者の発生)が日本にUターンしてきた帰国者などから伝えられたことが大きい。さ らに連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)による持帰金制限(当初 1000 円)があったた めである。たとえ郷里のある朝鮮南部に帰還しても生活のメドが立たないと考える在日コ リアンが増え、祖国に帰りたいと思わせるインセンティブ(プル要因)は急速に低下した のである。

1946 年時点で日本に残留していた在日コリアンは、日本在住歴の比較的長い人々が多く、

郷里に生活基盤がない一方、日本の生活にはある程度「融合」していた。終戦直後の混乱 期、日本国内では密造酒製造や闇商売などで生計を維持することも可能であった。一度帰 還すれば日本に戻れないという状況の下、帰還と残留の狭間で悩み、祖国の政治的、経済 的な状況の推移を慎重に見極めようという人々が少なくなかったのである。日本に残留し た在日コリアンの多くは日本永住を決意して留まったわけではなく、残留は消極的・暫定 的な選択であった。あくまで「仮住まい」として生活を維持しつつ、いつかは故郷で暮ら したいという帰国願望を持ち続けていたと考えられる。

生活の見通しが立たない郷里・朝鮮への帰還は見合わせ、当面の日本残留を選んだとは いえ、大多数の在日コリアンの生活は依然として厳しい状況が続いていた。生計維持のた め少なからぬ在日コリアンが手を出した密造酒製造や闇商売に対して、当局の取り締まり は次第に厳格になった。連合国の占領期、法的地位は二重規範に基づく曖昧なものであっ た。対日講和条約締結まで建前上「日本国籍保持」とされながら、参政権は停止され、外 国人登録令などでは「外国人」とみなされた。朝鮮からの密入国者や闇市をめぐる抗争事 件などがクローズアップされ、一部の日本人による排外主義的な言動も相次ぎ、占領下の 日本においては、戦前以上に疎外の強まった面があった。

在日コリアンらは幅広い層を網羅した民族団体の在日本朝鮮人連盟(朝連)を結成し、

占領当局に対して「解放民族」としての処遇を求めるなど生活権擁護闘争を展開した。民 族学校も設立して自らの文化とアイデンティティを取り戻す活動にも取り組んだ。ところ が、本国の政治情勢にも影響されて左右の対立は激しくなり、朝連から右派(のちの韓国 民団系)が脱退して分裂。左派(朝鮮人共産主義者)が朝連の主導権を掌握する。朝鮮半 島の南北では米ソ分割占領の下でそれぞれ単独政権樹立の動きが強まり、1948 年に南部に 大韓民国(韓国)、北部に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の 2 つの国家が樹立された。

在日コリアン団体も在日本大韓民国居留民団(民団)は韓国を、朝連は北朝鮮を支持して 両団体の対立は一層激化した。

朝連は日本共産党の朝鮮人党員が指導し、同党との共同闘争を展開した。朝連幹部と北 朝鮮とは北朝鮮政府樹立前から水面下で連絡を取り合っており、政府樹立直後には韓徳銖 らが密航して金日成から教示を受けた。朝連の指導者、金天海は北朝鮮への帰国実現に期 待を示す発言も行っていた。北朝鮮政府樹立とともに朝連系活動家の間には北朝鮮志向の

「祖国志向型ナショナリズム」が形成されていった。

占領当局や日本政府は在日コリアンらの生活安定に向けた政策に取り組むことはなく、

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とりわけ日本政府は帰還促進と管理強化・取り締まりにしか関心を抱かなかった。吉田首 相は米国に在日コリアンの強制送還策(送還先は韓国)を打診したこともあった。朝連と 日本政府・占領当局との対立が深まるなか、1949 年 9 月に朝連は強制解散された。朝連系 民族学校の大半も「共産主義教育」の場であるという占領当局の認識の下、閉鎖に追い込 まれた。

朝鮮戦争期(1950~53 年)には、旧朝連系を中心に在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を結 成。のちに「極左冒険主義」と批判される「51 年綱領」に基づく日本共産党の指導も受け つつ、北朝鮮軍の後方支援としての過激な闘争を行った。活動家たちにとっては「祖国存 亡の危機」に対する愛国心の発露であり、彼らの間に北朝鮮志向の祖国志向型ナショナリ ズムを高揚させた(韓国軍を支援した民団の活動家はやはり韓国志向のそれを高めた)。

民戦は占領当局や日本政府との対立を深刻なまでに強め、日本社会からも反発を招く結果 となった。

朝連の時期から在日コリアンの出身地と、国籍、南北の分断国家に対する支持傾向との 間に捻れ現象(非対称性)が生じていた。すなわち、在日コリアンは「南」出身者が大多 数(95%以上)を占めるにもかかわらず、韓国籍取得者は少数にとどまり、「北」を支持す る朝連や民戦の影響下にある人々が多数を占めるという捻れ現象である。貧困層の多い在 日コリアン社会で朝連の組織力と影響力は、民団など韓国系団体を圧倒していた。朝連系 の民族学校が民団系に比べて圧倒的多数を占めており、そのネットワークも大きな影響力 となっていた。朝連は政治的な活動だけでなく、民族学校を含む各種組織の運営・活動を 通じて、同胞たちの朝鮮人としての誇りと文化、コミュニティの結束を維持し、相互扶助 活動も行う在日社会の中核的組織であった。日本社会における差別・貧困と、支援対策な しに強硬措置に訴える日本政府・占領当局への強い不満を抱いていた在日コリアンの多く が、朝連を支持し、「人民の政府」を標榜する北朝鮮に好感を持つのは自然なことだった。

一方、在日コリアンの法的地位を協議する日韓会談が 1951 年後半から開始されたが、両 国の見解は鋭く対立して合意に至らなかった。52 年 4 月の対日講和条約(サンフランシス コ平和条約)の発効で日本が独立を回復すると、在日コリアンは日本政府により日本国籍 からの一斉離脱措置がとられて、実体のない「朝鮮国籍(朝鮮籍)」を保持する「外国人」

として極めて不安定な法的地位に置かれた。これを前後して外国人管理体制も強化された。

講和条約の発効後、在日コリアンは社会的にも一層厳しい疎外に直面し、大半の人々は依 然として日本社会の底辺で貧困にあえぐ生活を余儀なくされたのである。

差別や相互不信など矛盾を内包しながらも日朝両民族が「運命共同体的関係」にあった 戦前に対して、戦後は両民族間の矛盾が一気に顕在化した。在日コリアンへの理解に乏し い占領当局や植民地統治の責任意識に乏しい日本政府の硬直的な政策、それに反発する在 日コリアンの激しい闘争という脱植民地化と民族問題の側面に加えて、左右対立の激化と 本国における冷戦構造の深化(南北分断政権の成立)、さらに朝鮮戦争の勃発は、在日コ リアンをめぐる状況を一層困難なものに追い込んだ。戦前から続く「経済的な生活の安定・

向上」「アイデンティティの安定・充足」という 2 つの大きな課題は、解決の展望が見えず、

日本社会におけるプッシュ要因は低下しないまま、朝鮮戦争休戦後も在日社会には閉塞感 が漂い続ける。

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第3章 在日コリアン運動の転換と帰国運動(1953 年~1955 年)

1953 年 7 月の朝鮮戦争休戦後も在日コリアンをめぐる状況は依然として厳しかった。朝 鮮戦争中の 1952 年 4 月、対日講和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効と同時に、前 述のように在日コリアンは日本国籍からの一斉離脱措置がとられ、明確に「外国人」とし て位置づけられたことで、日本国内における差別・疎外は一層強まった。日韓会談で日本 政府は厳しい退去強制基準を適用することを主張して、反対する韓国政府と対立していた。

在日コリアンにも生活保護費は支給されたが、1954 年末時点で全国の(日本人を含めた)

平均的な保護率の 10 倍以上に達していた。戦前及び占領期から続く「経済的な生活の安定・

向上」「アイデンティティの安定・充足」という 2 つの大きな課題は、解決の展望が見えず、

日本社会におけるプッシュ要因は弱まらないまま、朝鮮戦争休戦後も在日社会には閉塞感 が漂い続けた。

一方、朝鮮戦争からの復興を急いでいた北朝鮮は、まだ多くの帰国者を受け入れる余裕 はなかった。北朝鮮の内情も日本にはよく伝わらない状況で、一般の在日コリアンにとっ て北朝鮮への帰国のインセンティブ(プル要因)は強いとはいえなかった。しかし、上記 のような在日社会の閉塞感と、朝鮮戦争期に高まった祖国志向型ナショナリズムを背景に、

朝鮮戦争休戦後、民戦系の在日コリアンの一部に帰国願望が再燃した。帰国希望者が自費 での北朝鮮帰国を望んだとしても、終戦以来、日朝間の交通ルートは依然として閉ざされ ており、香港経由では当時として莫大な費用が必要であった。そもそも戦前から日本に居 住する在日コリアンは、「外国人」ではあっても旅券を所持していなかった。そのため交 通手段や渡航費、渡航証明書の発給などに関して日本政府などの援助なくして北朝鮮帰国 の実現は不可能であり、政府に働きかける運動が必須であった。

民戦は、大村収容所収容者らの韓国への強制送還反対運動の一環として北朝鮮への送還

(帰国)の可能性を探る一方、北朝鮮への技術者や使節団の派遣運動と祖国復興資金を集 める運動を開始した。北朝鮮側では経済建設に必要不可欠な技術者と熟練労働者の深刻な 不足に直面しており、民戦の技術者・使節団派遣運動と祖国復興支援運動は、北朝鮮側の 要望と合致したものであった。民戦の運動は、日朝間の自由往来実現や日韓会談の揺さぶ りを狙うとともに、在日コリアンの北朝鮮に対する親近感を高め、祖国志向型ナショナリ ズムを一層高める効果も期待された。ただし、当時の民戦を主導していたのは、在日コリ アンを日本の革命に従事させたい日本共産党の指導に忠実な民対派であり、同党による帰 国運動批判もあって、「帰国」を前面に出さない形での限定的かつ比較的小規模な運動に とどまっていたのである。それが民戦期の帰国運動(第 1 期)の特徴であった。

日本政府は治安上や財政上の負担とみなしていた在日コリアンに対する「厄介払い願望」

を持ちながらも、占領期に米国に打診したような強制送還策(送還先は韓国)は検討の対 象外であった。占領期であれば、大規模な強制送還策をとっても韓国側からの批判と責任 追及の鉾先は占領当局に向けられる。しかし、講和条約発効により日本が独立を回復して 後、そうした強硬策は不可能であった。日韓会談で日本側は在日コリアンに対する厳格な 退去強制基準を主張していたとはいえ、法令違反者など一部の強制送還対象者以外も含め た在日コリアン全般に対する強制送還策が(送還先が韓国であれ北朝鮮であれ)日本政府

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内で検討された形跡はない。北朝鮮への帰国希望者に限って日本政府支援による大規模な 帰国を推進することも、1955 年前半まで日本政府は及び腰であった。国交正常化交渉を進 める韓国の猛反発が予想されたためである。

一方、民戦内部では 1952 年半ばごろから、「極左冒険主義」とされる過激な闘争方針を とっていた日本共産党の指導と民対派の運動方針に対して、北朝鮮=朝鮮労働党の指導の 下で朝鮮革命のために闘争すべきだと考える韓徳銖ら祖国派の批判と反発が次第に強まっ た。北朝鮮が祖国派を水面下で支援し、1953 年 3 月のスターリン死去と同年 7 月の朝鮮戦 争休戦を経て「平和共存路線」へと舵を切り始めた中ソ両共産党とも協議しつつ、最終的 には日本共産党の了解も得て、民戦の路線転換を実現する。日本との経済・文化交流と国 交正常化を呼びかけた 1955 年 2 月の南日外相声明を経て、路線転換が確実になった同年 3 月ごろから民戦系団体「解救」を中心に帰国希望者調査が始まり、帰国運動が積極的に展 開され始めた。そして同年 5 月、民戦は解散し、北朝鮮の革命戦略・対南戦略に基づく統 一戦体である在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)が結成され、帰国運動は再編されること になる。

第4章 朝鮮総連と帰国運動の再編(1955 年~1958 年)

1955 年から 1958 年前半にかけての時期は、在日コリアンの困難な状況が続くなか、北朝 鮮帰国事業の実現に向けた模索が、日本、北朝鮮、ICRCなど関係各国・組織の間で本 格化した時期であった。

1950 年代半ばにおいても、在日コリアンの生活難は変わらなかった。日本経済は高度経 済成長に入ったばかりで、その果実は一般庶民にまで行き渡っておらず、日本人の生活も 豊かではなかった。過剰人口問題が取り沙汰され、日本人の南米移民も推進されていた時 期であった。厳しい民族差別もあって、安定した職業に就きにくい在日コリアンの失業率 や生活保護受給率は、依然として高かった。そうしたなか日本政府は 1956 年~57 年にかけ て、生活保護の「不正受給」を是正するとして“作戦”を展開し、在日コリアンの生活保 護受給率は 1955 年 12 月~57 年 6 月の 1 年半の間に約 4 割縮減された。

日本政府の基準に照らして生活保護の「不正受給」があったとしても、基準の厳格な適 用は、安定的な職業につく道がほとんど閉ざされていた在日コリアンにとって、過酷な処 置であった。生活保護の支給は、旧「日本国民」として戦後も残留を余儀なくされた在日 コリアンに対する、行政側のほとんど唯一の支援であったからである。日本の植民地支配 と解放後の朝鮮半島の政治的、経済的な混乱の結果として存在する在日コリアンについて、

日本政府の歴史的な責任意識と、在日コリアンの立場を踏まえた政策立案への意欲は希薄 だった。管理、取り締まり、帰還・送還のみを重視する日本政府の在日コリアン政策は「人 道的配慮を欠いていた」(ICRC使節団の訪日報告書)と指摘されても致し方ないもの であった。日本社会全体としても、在日コリアンとともに「共生」を図っていこうという 意識は、革新系日本人の間にさえ浸透していなかった。

以上のように貧困と民族差別という日本社会におけるプッシュ要因は強く存在してお り、依然として「経済的な生活の安定・向上」「アイデンティティの安定・充足」という 2

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つの課題は、解決の見通しすら立たなかったのである。

在日 1 世が中核となっていた当時の在日社会では、祖国で安定した生活ができる見通し があれば帰国したいという「潜在的な帰国願望」は依然根強かったとみられる。しかし、

1950 年代半ばの在日コリアン社会で、生活保護削減などプッシュ要因は強まりながらも、

北朝鮮への帰国希望者が急増したわけではなかった。北朝鮮への帰国希望者について、朝 鮮総連から「3 万人」や「6 万人」という予想が日赤に示されたが、これは条件が整えば帰 国してもよいという「潜在希望者」の数とみられた。一方、現実に帰国したいという「顕 在希望者」の数は、1956 年 7 月の朝鮮総連の集計で 3214 人、1957 年 3 月の公安調査庁調 べでも約 5800 人(総連への未申請者も含めた数)にとどまっていた。1956 年 2 月の日朝赤 十字平壌会談で、北朝鮮側は在日コリアンの帰国実現を要望したが、想定していた帰国希 望者数は、大村収容所の北朝鮮帰国希望者を合わせても 770 人ほどに過ぎなかった。同会 談では日本側の反対で在日コリアン問題は公式議題にされず、北朝鮮残留日本人の引き揚 げのみが実現した。

一方、北朝鮮は 1950 年代半ば、朝鮮戦争からの復興と「社会主義の基礎」を築くための 経済建設の過程にあった。その様子は、日本人訪朝者や記者のルポなどによって表面的な がらも少しずつ伝えられるようになっていた。しかし、朝鮮半島南部(韓国)に郷里を持 つ大多数の在日コリアンにとって、北朝鮮への帰国は移民的帰還であり、北朝鮮に帰国し た場合にどのような生活が与えられ保証されるかが問題であった。北朝鮮は復興が緒に付 いたばかりで、「地上の楽園」というようなプロパガンダは行われておらず、帰国した場合 の生活がどうなるのか具体的な情報はほとんどなかった。そのため一般の在日コリアンか ら見て帰国後の生活に関する不安は少なくなく、プル要因が弱かったことが、上記の顕在 希望者の少なさに表れていたと考えられる(この時期、韓国も、政治的には「独裁」「人 権弾圧」など負のイメージが強く、経済的にも困難な状況が続いており、プル要因は弱か った。そのため永住帰国しようとする人々は少なく、1956 年約 740 人、57 年約 700 人、58 年約 590 人にとどまっていた)。

民族団体の動きを見れば、1955 年に結成された朝鮮総連は、民族権利擁護団体の性格を 持ち在日社会で多数の支持を得ていたが、当時は日本での永住を念頭に活動していたとは いえなかった。実際には朝鮮労働党の指導の下、北朝鮮の対南戦略・対日政策を実現する 統一戦線組織として「朝鮮革命路線に基づいた在日朝鮮人運動」を展開するよう位置づけ られていた。

北朝鮮は日本との経済・文化交流の発展と国交正常化を望み、日韓会談への牽制も狙い として対日接近政策を展開しており、朝鮮総連もそれに連動して活動する。朝鮮総連は結 成時の一般方針で北朝鮮帰国運動を盛り込み、帰国運動は新たな段階(第 2 期)に入った。

在日 1 世の間で根強かった「潜在的な帰国願望」や在日貧困者の救済策も念頭に、朝鮮総 連は帰国の実現を日本政府や日赤に要請しており、その動きは日本側の「厄介払い願望」

と“奇妙な共鳴”を見せていた。しかし、この時期の北朝鮮にとって帰国問題はあくまで 対日接近政策の宣伝・推進の手段に過ぎなかった。北朝鮮側が想定していた帰国者は、(1)

北朝鮮への進学希望者、(2)「事情によって帰国を希望する」一般の帰国希望者、(3)大村 収容所の帰国希望者――であり、限定的であった。総連も北朝鮮の対日接近政策と歩調を 合わせるなかで、帰国運動の規模は大規模にはなりえなかった。

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一方、日本政府は、治安上や財政上の負担軽減という観点から、在日コリアンに対する

「厄介払い願望」を引き続き持っていたものの、1955 年半ばまで北朝鮮への集団帰国の実 施には消極的であった。在日コリアンの北朝鮮帰国を韓国の統治権(管轄権)への侵害と みなして猛反対していた韓国政府との関係悪化を恐れていたからである。対韓関係が悪化 すれば、「李承晩ライン」を超えて拿捕され抑留されている日本人漁民問題がますます深刻 化することも懸念された。

韓国政府は、在日コリアンに対する韓国の統治権の問題に加え、多数の在日同胞の北朝 鮮帰国が実現すれば、在日コリアンが韓国より北朝鮮を支持しているという宣伝に利用さ れる可能性が高いこと、帰国船の往来によって韓国の共産主義者や北朝鮮の工作員、工作 員教育を受けた「北送同胞」が日本を中継地として南北間を自由に行き来できるようにな ることを恐れていた。日本政府にとっても冷戦下に体制の異なる北朝鮮への集団帰国を行 うことは、治安上の問題や密貿易の恐れなど様々な副作用が懸念された。

一部の研究者や論者は、北朝鮮への「大量帰国」の動きが日本側から始まったと主張す る(スズキ、2007 など)が、上記の経緯を見れば、実証性に乏しい解釈といえる。日本側 が本格的に動き始めたのは、朝鮮総連による北朝鮮への帰国要請が行われるなか、北朝鮮 側の帰国者受け入れ意思が明らかになった後の 1955 年末頃からで、赤十字国際委員会(I CRC)の介入の下での北朝鮮帰国実現を模索し始めたのである。ICRCも北朝鮮、日 本、韓国に使節団(調査団)を派遣し、3 国の赤十字社、とりわけ日赤と頻繁な連絡を取り ながら、北朝鮮帰国問題に関与するための検討を重ねた。

その間、日本での生活難を逃れて北朝鮮への帰国を希望する在日コリアン 48 人(当初は 47 人)が 1956 年 4 月、日赤や日本政府に帰国の実現を要求する。依然として日朝間の交通 手段は、香港経由などの高額な第 3 国迂回ルートしかなかった。旅券のない在日コリアン の第 3 国通過には公的効力のある「旅行証明書」が必要なため、日本政府や日赤、ICR Cなどの支援なくして帰国は困難だった。数ヶ月以上に及ぶ曲折を経て、日赤などの支援 により彼らは 56 年 12 月と 57 年 3 月の 2 回に分けて北朝鮮へ帰国する。これが米ソ協定に 基づく帰還(1947 年)以降、初めての北朝鮮への集団帰国となった。

一方、ICRCは在日コリアン帰国問題への介入意向を日赤、朝赤に伝えるが、韓国に 抑留された日本人漁民問題の悪化を懸念する日本政府は、慎重姿勢を崩さなかった。岸首 相は 1957 年 9 月、北朝鮮帰国の実現には「適当な時機と方法」を選ぶよう日赤に伝えてい た。その後、57 年末に釜山抑留の日本人漁民と大村収容所などの朝鮮人(韓国人)の相互 釈放が日韓両政府間で合意に至り、翌 58 年前半に相互釈放が一段落すると、北朝鮮帰国問 題は新たな段階を迎える。

朝鮮総連ではその間、韓徳銖の独裁体制が確立されたが、「48 人」の帰国が実現して以降、

帰国運動についてはむしろ抑制的な姿勢に転じていた。1958 年 5 月の第 4 回全体大会では

「長期生活計画の樹立」を運動方針に盛り込み、一般の在日コリアンの帰国に積極的な方 針は打ち出さなかった。

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第5章 関係国の対立と帰国事業の実現(1958 年~1959 年)

1958 年以降も在日コリアンをめぐる状況(生活難や民族差別など)は大きく変わること なく、「鍋底不況」と呼ばれる景気悪化もあって、プッシュ要因は強いままで推移してい た。とはいえ、1958 年前半までの段階では、依然として一般の在日コリアンの間で本国へ の帰国希望者が急増してはいなかった。

ところが、1957 年末の日韓両政府による大村収容所の韓国人(不法入国者)、在日コリ アン(刑罰法令違反者)と、釜山収容所の日本人漁民(拿捕漁船員)の相互釈放合意を受 けて、事態が急展開し始める。韓国送還を恐れる大村収容所の北朝鮮帰国希望者が、1958 年 6 月頃から北朝鮮への帰国実現を求めてハンストに入ったことが導火線となった。58 年 8 月の神奈川県川崎市中留地区の在日コリアンによる集団帰国決議を契機として、朝鮮総連 による帰国運動が全国的に拡大し大規模化。同年 9 月には金日成首相自らが、帰国者を熱 烈に歓迎し帰国後の生活を保障すると表明したのである。南日外相も同様の声明を出し、

金一・副首相は北朝鮮側が帰国旅費を負担し帰国船を配船する用意があることも明らかに した。

朝鮮総連による帰国運動の突然の大規模化とそれに続く北朝鮮側の帰国者受け入れ表明 は、1958 年 7 月頃から周到に準備されていた北朝鮮当局のシナリオと事前工作に基づくも のであり、北朝鮮側が革命戦略・対南戦略に基づく政経両面の利益を狙ったものであった

(第 7 章)。北朝鮮は「地上の楽園」であるという大々的なプロパガンダが朝鮮総連を中 心に展開され、「社会主義祖国」での生活保障、無償の医療・教育などが約束された。当 時の在日コリアン社会(特に総連系)にあった「社会主義祖国」への期待を背景に、北朝 鮮のプル要因が急激に強まった。在日コリアンにとって「生活の安定・向上」と「アイデ ンティティの安定・充足」という 2 つの課題を解決する選択肢として、北朝鮮への帰国が 大きく浮上してきたのである。朝鮮総連によれば、1959 年 1 月末の段階で帰国希望者は、

実に「11 万 7000 人」を超えたとされた。

「地上の楽園」という誇大な宣伝を伴う大規模な帰国運動は、それまでの帰国運動とは 質量ともに次元の異なるものであり、新しいステージ(第 4 期)に入ったといえる。朝鮮 総連の帰国運動と革新系日本人による帰国協力運動(帰国支援運動)が急激に拡大し、北 朝鮮側が帰国者の受け入れや帰国船配船を表明したのを受けて、日本政府も決断を迫られ た。1959 年 2 月 13 日、日本政府は「居住地選択の自由」という大義名分の下、ICRCの 介入を条件に北朝鮮帰国事業の実施を閣議了解した。日本政府が帰国実施に踏み切ったの は、外務省の内部文書によれば、(1)激しい大衆運動を展開する在日コリアンをめぐる治 安上の負担、及び多額の生活保護費支給など財政上の負担の軽減、(2)あえて帰国を認め ることによる北朝鮮や国内左翼系政党・諸団体の「政治的謀略封じ」、(3)日韓会談の休 会中に帰国事業を実施して「最大の障害」を除去し、「クリーンハンド」で将来の会談に 臨む――などの意図があった。日本政府は帰国事業の短期完了を念頭に置いていた。

ところが、日本政府の閣議了解後、ICRCの介入と帰国者の意思確認などをめぐって 日朝韓 3 か国による激しい駆け引きが行われ、ICRCの承認を得て正式な帰還協定の調 印に至ったのは同年 8 月 13 日であった。韓国政府、民団による実力行使を含む強硬な反対

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運動で最後まで波乱の続くなか、1959 年 12 月 14 日に第 1 次帰国船が出航し、帰国事業が 開始された。日本政府はICRCの介入と帰国者の意思確認を制度化したことで、韓国か らの批判をかわそうとしたが、韓国側は官民をあげて激しい反対運動を続け、日韓関係は 冷却化した。翌 1960 年 4 月には「4・19 学生革命」により李承晩政権が崩壊し、日韓会談 は韓国の政情が安定するまで見合わされることになった。

第6章 帰国事業開始後の推移と日朝関係

帰国事業開始の翌 1960 年と 1961 年は帰国のピークで、それぞれ 4 万 9036 人、2 万 2801 人が「北」へと渡った。1959 年 12 月から 61 年 12 月末までの 2 年間の帰国者は計 7 万 4779 人を数えた。

しかし、帰国者数は 1960 年後半から減少に転じ始めていた。1961 年 1 月中旬、大阪、

京都、神戸、大津の日赤支部窓口(帰国申請窓口)などを視察した赤十字国際委員会(I CRC)代表団は内部報告で、いずれの窓口でも申請者が減少していると指摘し、帰国希 望者が帰国を見合わせている理由として次の点を挙げた。すなわち、(1)日韓会談と日韓 国交正常化の可能性、(2)在日コリアンの法的地位改善の可能性、(3)朝鮮統一の可能性、

(4)北朝鮮での重労働と消費物資不足などの情報、(5)日本の経済成長の持続、(6)北朝 鮮から日本へ戻るのが不可能なこと――である。

上記(1)と関連する(2)、及び(5)は日本側のプッシュ要因が、(4)は北朝鮮側のプ ル要因がそれぞれ弱化し始めていることを意味していた。特に(4)については、帰国者か らの手紙などで北朝鮮の重労働、消費物資の不足といった否定的な情報が伝わり、北朝鮮 が宣伝していたような「地上の楽園」ではないという噂が広がっていた。懐疑心を抱いた 帰国希望者らが帰国をためらっていたのである。

日本政府は帰国事業の実施を決めた閣議了解(1959 年 2 月)の時点から、帰国事業の短 期完了を念頭に置いていた。ところが、帰国者の減少に対して、政経両面の利益を確保し たい北朝鮮とその指導を受けた朝鮮総連は帰還協定延長運動(帰国運動第 4 期)を展開し、

革新系日本人団体がそれを支援する。1963 年からは並行して日朝自由往来運動も本格的に 展開していく。日本政府・日赤は協定の打ち切りを模索しながらも、結局は毎年、帰還協 定の延長に応じていくことになった。

この間、朝鮮総連は 1961 年頃から帰国者の「掘り起こし」を図るとともに、企業家や技 術・技能者の優先帰国、及び日本人妻の帰国抑制を打ち出し、日本の治安当局から「帰国 運動の質的転換」として注目された。企業家や技術者らの優先帰国方針は、北朝鮮の第 1 次 7 カ年計画に活用する意図からであったと考えられる。帰国事業及び、帰国運動と並行 して展開された日朝貿易促進運動によって拡大した対日貿易の両方を通じて、北朝鮮は日 本から技術・資材の導入を図ろうとしたのである。日本の治安当局は、帰国船を利用した 工作活動の活発化に警戒を強めるようになった。

1965 年の日韓国交正常化を受けて、翌 1966 年から日本政府は帰還協定の打ち切りに向 けて再び動き始め、1967 年の日朝モスクワ会談の決裂により、同年 11 月、締結から 8 年 3 ヶ月にして帰還協定は満了した。その後も日朝両赤十字の接触は続けられ、コロンボ会談

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で「緊急措置」による帰国が図られたが、帰還未了者と新たな帰国希望者についての合意 が成立せず、1968 年~70 年の 3 年間、北朝鮮への集団帰国は中断する。しかし、金日成の 指示により、中断期間中も朝鮮総連による帰国再開運動が展開された。

米中接近による世界的デタントの流れのなかで、1971 年 2 月、日朝両赤十字は「暫定措 置」(合意書)と「事後措置」(会談要録)に合意し、同年 5 月から帰国事業が再開された

(万景峰号も就航した)。再開後は 71 年と 72 年に 1000 人超の帰国者を数えたが、73 年以 降は 3 ケタ台で減少の一途をたどり、80 年には 2 ケタ台となり、84 年の 30 人を最後に集 団帰国は行われなくなった。

1980 年代半ばに北朝鮮への集団帰国が途絶え、帰国事業が実質的に終了したのは、北朝 鮮側のプル要因がほとんどなくなり、日本側のプッシュ要因も大きく弱化したのが理由で あった。

帰国事業の開始以降、帰国者から日本の親族に送られる手紙によって、在日コリアンの 一部に北朝鮮の宣伝に対する懐疑心が芽生え始めていたが、1979 年 8 月から始まった在日 コリアンの「祖国短期訪問」で現地を訪れた人々を通じて、北朝鮮の実情が公式宣伝と相 当異なっていることが確かめられた。それまでタブー視されていた北朝鮮の実態を告発す る著作物の刊行も 1984 年以降に日本で増加し、北朝鮮側のプル要因は大きく弱まった。

韓国の経済成長も大きな要因であった。在日コリアンの南北の「祖国」に対するイメー ジ・好感度を、従来の「北高南低」から「南高北低」へと逆転させたからである。故郷の ある「南」の発展を目にした在日コリアンにとって「北」に帰国するインセンティブは薄 れた。北朝鮮自体の実態が明らかになったことだけでなく、北朝鮮の体制競争の相手であ る韓国の発展によって、在日社会における「北」優位の祖国観が崩壊し、北朝鮮帰国をめ ぐるプル要因はほとんど無くなっていたのである。

一方、北朝鮮当局にとっても 1970 年代以降、多くの貨客船が日朝間を往来するようにな り、日朝ルートを確保するために帰国事業を継続させる必要性は薄れていた。在日コリア ンの北朝鮮との往来(再入国)や第 3 国への旅行は日本政府によって各種の制限が課せら れていたが、70 年代末には日本政府の国際人権規約への署名を前後して制限が徐々に緩和 され、日朝間の往来の自由が拡大した。在日コリアンの「祖国短期訪問」も定例化された。

終戦時から存在していた日朝間の交通・往来の制限・障害が 1970 年代末までにかなり取り 除かれたのである(ただし、帰国者や日本人妻が日本に戻る自由は、北朝鮮当局による規 制によって依然として存在していた。日本人妻の里帰り・自由往来を求める運動に対して も朝鮮総連は反対した)。日朝間の往来が活発化するに伴い、朝鮮総連は北朝鮮の在外公館 のような役割を果たすようになった。

日本側のプッシュ要因について見れば、民族差別は依然として存在したものの、1960 年 代~70 年代、プッシュ要因は弱まっていた。日本の高度経済成長により多くの在日コリア ンの生活水準は向上し、貧困からの脱却が図られた。日本の難民条約加入と、1982 年に施 行された改正入管難民法によって、朝鮮籍の人々も法的地位と社会的な環境が改善された。

在日社会では 1970 年代以降、北朝鮮への帰国のインセンティブが薄れたものの、韓国への 帰国は現実的な選択肢ではなく、むしろ従来の帰国志向(祖国志向)より定住志向(日本 での永住志向)が主流となっていく。従来の同胞同士の結婚が減り、1980 年代半ばには日 本人との婚姻件数が「韓国・朝鮮人」の婚姻総数の約 3 分の 2 を占めるようになった。日

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本人の側にも在日コリアンとの共生と差別解消を求める声が広がり始めた。

このように 1959 年 12 月の開始以来、3 年間の中断を経て 25 年間に及んだ北朝鮮帰国事 業は、1984 年を最後に帰国希望者がほぼ無くなり、実質的に終了した。しかし、帰国事業 で北朝鮮に渡った 9 万 3340 人(日本人配偶者ら日本国籍者含む)は、その後も過酷な体制 の下で生き抜かなければならなかった。それでも 1980 年代までの北朝鮮は当局の国内統制 が厳格に機能しており、脱北者が多数生じることはなかった。帰国者や日本人妻らの脱北 が本格化するのは、1990 年代半ばからであった。

第2部 北朝鮮の意図と帰国者をめぐる状況

第7章 北朝鮮の国家戦略と帰国事業

第 2 部(第 7 章~第 9 章)は、時系列で帰国問題の展開過程を明らかにしてきた第 1 章 を踏まえて、展開の背後にあった北朝鮮の国家戦略と帰国推進政策、帰国者らの帰国意思 の形成過程、及び帰国後の状況などについて考察する。まず第7章では、北朝鮮が政府樹 立以前から展開してきたとみられる、北朝鮮域外(韓国、ソ連、中国、日本)に居住する 同胞の帰国・移住推進政策について、その目的や背景を北朝鮮の国家戦略との関連で分析 した。

国家戦略は一般的に、政治発展戦略、経済発展戦略、対外戦略、文化戦略など複数の下 位戦略で構成されるが、社会主義国家の場合、国家戦略(共産党=労働党の戦略)の下に

「革命戦略」という核心的な下位戦略を有している。国家構成員と社会全体を「改造」し、

歴史を進展させるという目標を達成するための戦略である。さらに北朝鮮の場合、分断国 家であることから、分断国家のもう一方である「南」(韓国)との体制競争に勝利し、民族 統一国家を形成しようという目標を達成するための対南戦略が、重要な下位戦略となる2

北朝鮮の革命理論によれば、解放後から 1970 年代まで、革命戦略に基づいて次のような 段階を経て革命が発展してきたとされる。すなわち、▽第 1 段階=ソ連軍政下における「反 帝反封建民主主義革命」の段階(1945 年 8 月~1947 年 2 月)、▽第 2 段階=「社会主義革 命」段階への移行期(1947 年 2 月~1953 年 7 月)、▽第 3 段階=「社会主義の基礎建設」

段階(1953 年 7 月~1960 年)、▽第 4 段階=「社会主義の全面的建設」段階(1961 年~1970 年)、▽第 5 段階=「社会主義の完全な勝利を早める(繰り上げる)ための闘争」段階(1970 年~)である。

また、対南戦略は、北朝鮮政府樹立前後から唱えられた「民主基地」論を基本とし、武 力による統一企図(朝鮮戦争)、1960 年代以降の「南朝鮮革命」論、1980 年代以降の「連 邦制統一国家」建設の主張など、時期ごとに異なる対南戦略がとられてきた。在日コリア ン、とりわけ朝鮮総連に対する政策は対南戦略の下で展開されており、対日政策は対南戦 略と密接に関連する対外戦略に基づいて展開されてきたと考えられる。冷戦期の北朝鮮の 対外戦略目標は、▽「国際革命力量」の強化、▽正統性確保のための外交的優位保持(特 に韓国に対する優位保持)、▽米国と韓国の国際的孤立化――であった。

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北朝鮮はこうした革命戦略、対南戦略、対外戦略などに基づき、さまざまな政策を実行 してきたが、その 1 つが、北朝鮮域外に居住する同胞の帰国・移住政策(韓国からは連行・

拉致を含む)であった。

政府樹立以前から推進したのは、分断された「南」(韓国)の人々の動員である。1946 年 7 月に金日成は、「南」の知識人を北朝鮮に連れてくるよう指示を出した。その理由は、解 放後の北朝鮮で産業・運輸施設の復旧整備、管理運営する技術者や、教育・科学・文化を 発展させる人材が不足していたからであった。一方、1949 年ごろからは「南」の「反動分 子」を拉致する対南工作も展開していた。1950 年 6 月に北朝鮮軍が南侵し朝鮮戦争が勃発 すると、北朝鮮の軍事委員会は翌 7 月、ソウル市民のうち 50 万人を北朝鮮地域に強制移住 する命令を発した。同年 9 月の国連軍による仁川上陸作戦により中断されたとみられるが、

50 年 7 月~9 月に 8 万 4000 人余りが北朝鮮に連れていかれた可能性が指摘されている。同 時期に北朝鮮軍は、韓国の政治家をはじめとする各界の著名人も多数連行した。50 万人の 強制移住計画は、徴兵や戦争被害に伴う北朝鮮の労働力や技術者の不足とソウルの食糧難 の解決を同時に図ろうとしたものであった。また、政治家や著名人の誘引や連行は、韓国 の政治状況を攪乱するとともに、著名人を北朝鮮の体制宣伝に利用する目的があったと考 えられる。

朝鮮戦争という武力統一の試みが失敗に終わった北朝鮮にとって、休戦後は戦後復興に 力を注ぐとともに、新たな革命戦略・対南戦略の構築を迫られた。それが定式化されたの が、1955 年のいわゆる「4 月テーゼ」であった。朝鮮戦争による武力統一の挫折によって 社会主義への移行は長期化するという現状認識の下、「現段階の革命任務」として「米帝 国主義者」とその同盟者である「李承晩一味」の打倒(反帝反封建民主革命)、統一と独 立を掲げる一方、当面の戦略として、統一と独立を闘いとるため「革命の根源地」たる北 の「民主基地」を強化するべく、「社会主義の基礎」の建設に力を注ぐ戦略を打ち出した。

北朝鮮では朝鮮戦争休戦後の戦後復旧 3 カ年計画(1954 年~56 年)を進めるうえで、技 術者や熟練労働者の不足が深刻化していた。朝鮮戦争で約 300 万人の死傷者を出し、戦争 中に数多くの越南民(韓国側への越境移住者)も発生していた。北朝鮮の人口は 1949 年末 の 962 万人から 1953 年末には 849 万人に激減したとされる。政権樹立以前からソ連人の技 術者、各分野の専門家が北朝鮮の経済建設を支援しており、日本人技術者の一部も米ソ協 定による引揚前後まで留め置かれていたが、朝鮮人の技術者・熟練労働者の育成は進んで いなかった。技術者・熟練労働者の供給が依然として大きな課題であることを、金日成は 1953 年 8 月の朝鮮労働党第 6 次全員会議の演説で吐露していた。

北朝鮮ではその対策の 1 つとして、ソ連在住コリアンの帰国を推進したとみられる。対 象はサハリン州(クリル諸島=千島列島含む)を中心に沿海州などに在住していた人々で あった。

北朝鮮が朝鮮戦争休戦後から帰国を促したのは、1946 年~49 年頃に朝ソ間の協定に基づ き北朝鮮からサハリン州などに派遣され、契約満了後もソ連に残留した労働者たちである。

1954 年以降に断続的に「派遣労働者」の北朝鮮への集団帰国が行われた。その後も北朝鮮 では、「社会主義の経済的基礎」を固めるための第 1 次 5 カ年計画(1957 年~61 年)と千 里馬運動の開始により、労働力はますます逼迫する。そのため派遣労働者の集団帰国は 1962 年まで断続的に続けられた。

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一方、日本統治期からサハリン州などに在住する「戦前移住者」(多くが無国籍)につい ては、サハリン残留日本人引き揚げ(1957 年~59 年)との関連で北朝鮮側は対策を迫られ た。この引き揚げで日本人の配偶者であるコリアンは日本経由で韓国に帰国することも可 能になったため、北朝鮮側は彼らの韓国への帰国阻止に向けて、国籍の確定(北朝鮮国籍 かソ連国籍か)と希望する者の北朝鮮への帰国を推進した。サハリンでは駐ナホトカ北朝 鮮総領事館による北朝鮮への帰国運動が独自に行われ、「学習組」もつくられた影響で、1959 年~61 年に「戦前移住者」のうち少なからぬ人々が帰国した。サハリンの民族学校から北 朝鮮の大学に進学をめざして帰国した生徒たちも少なくなかったという。

ソ連在住コリアンの北朝鮮への帰国者総数については資料が乏しいが、ソ連外務省文書 にある断片的な数字をつなぎ合わせると、「派遣労働者」「戦前移住者」を合わせて少なく とも 1 万人以上と推測される。

北朝鮮は中国在住コリアン(朝鮮籍居留民と中国籍朝鮮族)の帰国も推進した3。朝鮮戦 争が休戦した 1953 年、南日外相が訪中した際に、中国在住コリアンの帰国について中国側 に持ちかけ、中国政府は、国籍に関係なく彼らが希望すれば北朝鮮への帰国を許容すると 返答した。1958 年 2 月には訪朝した周恩来が金日成に対し、延辺の中国籍朝鮮族を北朝鮮 に移住させ、北朝鮮の人口増加に寄与することを検討してもよいと表明。金日成は 58 年 11 月に訪中した際、「労働力の不足」を理由に、北朝鮮への出国を希望する中国籍朝鮮族の帰 国への協力を中国側に正式に要請した。翌 59 年に吉林省、黒竜江省、遼寧省、内モンゴル 自治区の中国籍朝鮮族ら約 5 万 2000 人(朝鮮籍居留民約 1100 人含む)が中国当局の移送 により北朝鮮に帰国した。その後も中国当局による組織的な北朝鮮への移送(集団帰国)

は続けられた。同時に中国東北部から北朝鮮へ密入国する者も急増し、1961 年から 62 年前 半にかけては遼寧省と吉林省の国境経由で北朝鮮へ「脱出」したものが約 2 万 9000 人にの ぼるなど「大量脱出事件」も発生した。こうした中国から北朝鮮への移住の流れは、中国 の大躍進政策の失敗による経済状況の悪化と生活水準の低下、急激な人民公社化に対する 朝鮮族の反発など中国側のプッシュ要因と、北朝鮮側が帰国後の良好な「待遇」などを宣 伝したことによるプル要因とが相互に作用したためと考えられる。

上記のように、朝鮮戦争後の 1950 年半ば以降、北朝鮮はソ連、中国在住コリアンの帰国 を促進してきたが、その数は双方を合計しても 10 万人に満たない程度であったと考えられ る。

一方、在日コリアンの帰国については、朝鮮戦争休戦直後から民戦が技術者派遣運動の 名目で取り組んだが、日本共産党の指導下にあった民戦では「帰国運動」は前面に出され なかった。1955 年の朝鮮総連結成によって帰国運動は正式な運動方針に盛り込まれたが、

それでも限定的で小規模なものにとどまっていた。

朝鮮総連は北朝鮮の革命戦略・対南戦略を日本という立地を利用して遂行する統一戦線 体であり、「側面部隊」であった。武力統一を試みた朝鮮戦争が失敗に終わった後の 1950 年半ば以降、北朝鮮の対南戦略は比較的穏健で抑制的なものに留まらざるを得なかった。

「北」の戦後復興と社会主義建設を進めて「民主基地」を強化することで韓国に対する経 済的優位性を確保するとともに、韓国における米軍駐留を批判するなどして韓国の政権の 正統性を否定し、韓国内の親北勢力との統一戦線を拡大する方針をとっていた。日本に対 しては経済・文化交流の推進と国交正常化を呼びかける対日接近政策がとられ、その政策

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の枠組みのなかで帰国運動も展開されたのである。帰国の対象も「祖国進学生」「事情によ って帰国を希望する朝鮮公民」「大村収容所の帰国希望者」(南日外相声明)と限定的であ り、帰国希望者数は数千人程度とみられた。

ところが 1958 年 8 月から朝鮮総連の帰国運動が突如として大規模化し、わずか数ヶ月で 帰国希望者が 11 万人を超えるまでに激増したとされた。その裏には北朝鮮側の「限定的帰 国」から「大規模帰国」の推進への方針転換があり、金日成のシナリオに沿って朝鮮労働 党の工作部門(連絡部)が事前工作を行った結果であった。金日成は在日コリアンの大規 模な帰国の実現に「大きな政治的意味」を見出しており、北朝鮮に政治的、及び経済的な 利益をもたらすとみていた。政治的目的(利益)としては、(1)北朝鮮の社会主義体制の

「優越性」宣伝と国内外における金日成の権威強化、(2)日韓会談牽制と対日接近、(3)

朝鮮総連の影響力拡大・組織強化と統一戦線の拡大、(4)日朝ルートの確保と朝鮮総連に 対する直接指導・対南工作、(5)帰国者(在日親族含む)の南朝鮮革命(北朝鮮主導の統 一)への活用などであり、経済的目的(利益)として、(6)社会主義建設における労働力・

人材補充、(7)帰国者を通じた資産・技術の導入――などがあった(帰国事業の開始前の 時期[大規模帰国推進期]には、[1]~[4]や[6]などが重視され、特に帰国開始後の帰還協定 期には[3]~[5]、[7]、帰国中断期・再開後には[4]、[5]、[7]などが重視されたとみられ る)。

ただし、北朝鮮にとって「大規模帰国」推進の主たる目的が、一部の論者の主張するよ うな「対日国交正常化のための動員戦術」(高崎・朴正鎮、2005)と見るのは難しい。その 主張を裏付ける根拠は関連資料から明確には見いだせないうえ、帰国運動が最高潮に達し ていた 1959 年 1 月、金日成は当面の対日国交正常化に否定的な展望を示していた。

北朝鮮が 1958 年夏に帰国問題をめぐる方針を転回させたのは、1958 年という年が北朝 鮮において「1 つの転換の年」(黄長燁)だったためと考えられる。58 年 3 月の第 1 回労働 党代表者会議で、56 年の「8 月宗派事件」以来のソ連派・延安派などの粛清が一段落し、

満州派が支える金日成の個人独裁体制が確立する一方、農業協同化を終えて 58 年 8 月末に は社会主義制度の確立が宣言された。しかし、第 1 次 5 か年計画のため必要な労働力は質 量両面で不足していた。北朝鮮国内の政治的・経済的な条件が確立・安定し、新たな発展 を目指そうという時期に、日韓会談が釜山・大村両収容所収容者の相互釈放という初めて の合意に達し、大村収容所の北朝鮮帰国希望者が韓国に強制送還される最悪の事態が予想 された。北朝鮮が強く反対し阻止を企図していた日韓会談も再開された。北朝鮮側では、

こうした国内外の状況を検討した結果、革命戦略と対南戦略及び対日政策の観点から、帰 国問題について政策上の優先順位をあげ、北朝鮮にとって政経両面の利益を期待できる在 日コリアンの「大規模帰国」へと踏み切った。在日コリアンの大規模な帰国推進政策は、

北朝鮮にとって「社会主義建設(革命戦略)と対南戦略への動員」という意味合いを持って いたと考えられる。

そして、このような日本からの帰国推進政策は、北朝鮮が 1960 年代の南朝鮮革命路線を 推進する重要な基盤を構築し、朝鮮戦争以降の抑制的な対南戦略を積極的な方向へと変化 させる契機となった。

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第8章 帰国意思の形成と北朝鮮情報

第8章では、帰国事業における帰国者の帰国動機、帰国意思形成の過程や、帰国運動と 朝鮮総連系及び日本のメディアの影響、韓国側の要因について分析した。

在日 1 世にはもともと「朝鮮人なら、いずれは祖国に帰るべきだ」という帰国志向の意 識が強かった。社会主義と北朝鮮主導の南北統一への期待、朝鮮総連の活動への信頼感な どを背景に、韓国ではなく、(郷里のある地域を統治していない)北朝鮮を「祖国」とみな す意識、北朝鮮志向の「祖国志向型ナショナリズム」が総連系在日コリアンの間で形成さ れていた。日本生まれの在日 2 世以下の世代(特に総連系の朝鮮学校で教育を受けた者た ち)にも、北朝鮮への移住を「帰国」と考えた者は少なくなかった。

帰国者らの動機または理由は、以下のように大別された。すなわち、(1)生活の安定・

向上(ライフチャンスの拡大):経済的困難からの脱出、子供の将来への不安解消と進学・

就職への期待、無償医療など社会保障への期待、(2)マージナリティの解消・アイデンテ ィティの安定:民族の誇りや文化の回復と「社会主義祖国」での生き甲斐の希求、(3)北 朝鮮主導の南北統一への貢献・生活基盤構築、(4)家族との再会・合流や故郷での活躍(北 朝鮮地域出身者)、(5)韓国への強制送還の回避(韓国からの密航者)、(6)特殊な事例(総 連組織内・北朝鮮の事情や指示など:総連活動家、技術者・科学者集団、工作員の家族や 関係者)、(7)強制送還と半強制的帰国、(8)世帯主などに同伴(在日 2 世・3 世、日本人 配偶者など)――である。

このうち(6)、(7)は全体の中では少数の事例であるが、(7)は強制性の明らかな帰国、

(6)も強制性の伴う帰国を含んでいた。(8)は夫や妻または両親の意思に従っての帰国で あり、純粋な意味で本人の意思と決断とはいえない。しかし、家族に従って居住地を移る のは社会通念上ごく普通のことであるため、強制性ある帰国とみなすのは無理がある。し たがって(6)、(7)以外は、いずれも帰国者自身か家族の意思と決断によるものであり、

そのうち(1)(2)は、いずれも日本国内でのマイナス要因(プッシュ要因)が帰国先(移 住先)の北朝鮮におけるプラス要因(プル要因)によって解消されることを期待した動機 であった。(3)と(4)は日本側の要因はあまり大きな要素ではなく、主に北朝鮮の政治・

社会状況や故郷での生活への期待であった。

上記の分析と、帰国申請者の 4 人に 1 人が結果的に帰国をとりやめていた事実などから 判明するのは、第 1 に、帰国事業における帰国者で「意思に反した帰国」は例外的である こと、第 2 に、日本国内のプッシュ要因以上に北朝鮮側のプル要因が帰国の動機として重 要だったということである。

第 2 に関連して、在日社会に北朝鮮に移住した場合のプラス要因(プル要因)を伝達し たのは、北朝鮮と朝鮮総連系の機関紙誌や映像媒体、集会や戸別訪問での勧誘活動、民族 学校での教育などであった。北朝鮮については「地上の楽園」と礼賛し、韓国に対しては

「この世の地獄」などと酷評する誇大なプロパガンダ情報が流された。朝鮮総連発足以来 の運動によって在日社会に喚起されていた北朝鮮志向の「祖国志向型ナショナリズム」と 好イメージが、総連系の人々はもちろん、中立系や韓国系の一部にも急激に広がった。そ うしたプロパガンダを結果的に補強したのが、日本のメディアによる報道や革新系日本人 による訪朝体験記などであった。日本側の報道や訪朝体験記は、部分的には北朝鮮のマイ

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