<研究ノート>「軍政」から「民政」へ : 米国統治 移行期における沖縄の保健医療システム
著者 杉山 章子
出版者 法政大学沖縄文化研究所
雑誌名 沖縄文化研究
巻 47
ページ 337‑382
発行年 2020‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00023261
( 13)注
4と同
六一八頁。
(
14)注 4と同
六四二頁。
(
15)注 4と同
六六二頁。
(
16)注 4と同
六四四頁。
(
17)注 4と同 六六七〜六六八頁。
(
18)注 4と同
六九五頁。
(
19)注 4と同 六七三〜六七四頁。
(
20)注
4とな第五には、「処分をす条に当り、土人狼狽騒の四同「四五九〜四六〇頁。琉一球藩処分方法」第擾
するときは、可成懇篤に説諭し、若し反状を顕はし凶暴の所為に及ふときは、警察部に附して之を捕縛する
とも、又は営所に謀り兵力を用ゆるとも、其場合に依り相当の処分をなすへし」と記されている。
(
21) 編『沖縄文化論叢二第川巻民俗編一』平徹小比」嘉春潮「翁長旧事談初彦、出一九三三年(大藤時凡
社、一九七一年)七九、九一頁。
(
22)注 11と同。
(
23)—と転換期における病社近会」(『文化/批評』代世・こ琉れについては拙稿「球近処分と天然痘沖縄の八、
二〇一七年)に詳しい。寄留商人によるバイオテロの風説と県当局の対応については、「天然痘麻疹患者心
得書」(『八重山文書』石垣長夫家文書六の一所収)にその内容が見られる。
「軍政」から「民政」へ 米国統治移行期における沖縄の保健医療システム
杉 山 章 子
はじめに
一九四九年五月、沖縄
)1
(の長期保有を大統領決定
)2
(した米国は、一九五〇年、恒久的基地の建設に着手する。同年「公衆衛生の恒久プラン」 )3(が発表され、保健医療システムの形成が始まった。本稿の目的は、長期占領に向けた保健医療システムを医療保障の視点から明らかにすることにある。扱う時期は、米国が長期統治へ動き出す一九四九年から沖縄・奄美・宮古・八重山の四群島政府の設置を経て琉球政府が誕生する一九五二年までーすなわち、戦時国際法下の短期占領から対日平和条約第三条に基づく長期占領への移行期である。米国は、一九五〇年一二月に琉球列島米国民政府(United States Civil Administration of the
Ryukyu Islands、以下
US
AC
Rと記す)を設立し、軍隊の論理による「直接軍政」ではなく軍隊と
住民の共存を目指す「間接軍政」(民政)を掲げた。沖縄側の民政機構として自治権拡大の可能性を秘めた群島政府は短命に終わり、一九五二年四月に米軍支配下で全琉を統治する琉球政府が誕生、恒久的「基地社会」
)4
(の枠組みが固まった。この時期の保健医療については、中野育男氏が公衆衛生から住民福祉まで幅広く論じている
)5
(。医師として同時代を担った照屋寛善氏の論考
)6
(からは、当時の医療行政の実態を具体的に知ることができる。崎原盛造氏らは戦後沖縄の保健医療史をたどる中で米軍政期について多角的に論述している
)7
(。主として沖縄群島における政策面を扱ったこれらの研究を踏まえ、本稿では人々が保健医療サービスを受ける環境に着目し、奄美・宮古・八重山にも目を向けて、「基地社会」形成過程の医療保障を検討する。現在の日本では、公的医療保険が医療費を保障し、主として民間の診療所や病院が医療サービスを供給している。しかし、移行期の沖縄に医療保険制度はなく、医療機関も専門職も不足していた。米軍は、沖縄を太平洋における軍事拠点として長く安定的に活用するシステムを企図する。基地とその周辺には、軍事施設だけでなく、兵士やその家族・軍属の生活に必要な水道が敷設され、病院・診療所の建設も進んだ。米軍への医療保障が着々と整備される一方で、沖縄住民への対応は遅れがちだった。
地域資源による経済的な基地運営を目指す米軍と自らの生活と健康を守ろうとする住民は、しばしば対立した。だが両者は常に二項対立関係にあったわけではない。「基地社会」の仕組みには非軍事的要素が含まれ、軍隊と住民が協力する場面も見られた。感染症の予防・治療施設や衛生的環境といった健康にかかわる社会基盤は、それが米軍と基地を中心に整備されたとしても、地域住民への波及効果が生じる。また、米国と沖縄双方の医療者が専門職として連携しながら課題に取り組んだ例も少なくない。この時期の保健医療システムは、様々な組織や人が活動する中で多彩な表情を見せた。本稿では、「基地社会」の形成過程で創られた保健医療システムを群島別に検討する。この時期米軍は、各群島の民政機関を統合した中央政府新設を進め、長期占領管理体制を構築していった。占領初期に生まれた各群島のシステム
)8
(は、琉球政府に統合されていく。しかし、気候風土や地域事情が異なる四群島の保健医療を、公的に編成された単一組織で担うことは難しい。また、基地配置状況の違いから、群島ごとに独自の「基地社会」が生まれた経緯も見落とせない。軍事基地が次々と建設され多くの米軍関係者が居住した沖縄群島と新たな基地建設のなかった他の群島では、保健医療の仕組みは同一ではない。琉球政府成立後ほどなく鹿児島県に戻った奄美群島と、長期占領体制に組み込まれた宮古・八重山群島との違いにも留意が必要だ。本稿では「戦時」から「平時」へ軍政が移行する時期の保健医療システムを群島別に検討し、「基地社会」の基盤形成の諸相を明らかにする。
Ryukyu Islands、以下
US
AC
Rと記す)を設立し、軍隊の論理による「直接軍政」ではなく軍隊と
住民の共存を目指す「間接軍政」(民政)を掲げた。沖縄側の民政機構として自治権拡大の可能性を秘めた群島政府は短命に終わり、一九五二年四月に米軍支配下で全琉を統治する琉球政府が誕生、恒久的「基地社会」
)4
(の枠組みが固まった。この時期の保健医療については、中野育男氏が公衆衛生から住民福祉まで幅広く論じている
)5
(。医師として同時代を担った照屋寛善氏の論考
)6
(からは、当時の医療行政の実態を具体的に知ることができる。崎原盛造氏らは戦後沖縄の保健医療史をたどる中で米軍政期について多角的に論述している
)7
(。主として沖縄群島における政策面を扱ったこれらの研究を踏まえ、本稿では人々が保健医療サービスを受ける環境に着目し、奄美・宮古・八重山にも目を向けて、「基地社会」形成過程の医療保障を検討する。現在の日本では、公的医療保険が医療費を保障し、主として民間の診療所や病院が医療サービスを供給している。しかし、移行期の沖縄に医療保険制度はなく、医療機関も専門職も不足していた。米軍は、沖縄を太平洋における軍事拠点として長く安定的に活用するシステムを企図する。基地とその周辺には、軍事施設だけでなく、兵士やその家族・軍属の生活に必要な水道が敷設され、病院・診療所の建設も進んだ。米軍への医療保障が着々と整備される一方で、沖縄住民への対応は遅れがちだった。
地域資源による経済的な基地運営を目指す米軍と自らの生活と健康を守ろうとする住民は、しばしば対立した。だが両者は常に二項対立関係にあったわけではない。「基地社会」の仕組みには非軍事的要素が含まれ、軍隊と住民が協力する場面も見られた。感染症の予防・治療施設や衛生的環境といった健康にかかわる社会基盤は、それが米軍と基地を中心に整備されたとしても、地域住民への波及効果が生じる。また、米国と沖縄双方の医療者が専門職として連携しながら課題に取り組んだ例も少なくない。この時期の保健医療システムは、様々な組織や人が活動する中で多彩な表情を見せた。本稿では、「基地社会」の形成過程で創られた保健医療システムを群島別に検討する。この時期米軍は、各群島の民政機関を統合した中央政府新設を進め、長期占領管理体制を構築していった。占領初期に生まれた各群島のシステム
)8
(は、琉球政府に統合されていく。しかし、気候風土や地域事情が異なる四群島の保健医療を、公的に編成された単一組織で担うことは難しい。また、基地配置状況の違いから、群島ごとに独自の「基地社会」が生まれた経緯も見落とせない。軍事基地が次々と建設され多くの米軍関係者が居住した沖縄群島と新たな基地建設のなかった他の群島では、保健医療の仕組みは同一ではない。琉球政府成立後ほどなく鹿児島県に戻った奄美群島と、長期占領体制に組み込まれた宮古・八重山群島との違いにも留意が必要だ。本稿では「戦時」から「平時」へ軍政が移行する時期の保健医療システムを群島別に検討し、「基地社会」の基盤形成の諸相を明らかにする。
システムの構成要素は、組織、人、技術・方法、法規・規範など多岐におよぶ(図参照)が、本稿では保健医療にかかわる組織と人に焦点をあてる。公的保険なき自由開業制のもとで医療はどのように保障されたのか。①米軍の公文書および関係者の記録 ②沖縄民政府や群島政府の公文書および諸記録 ③県史・市町村史、新聞、個人記録など の資料を用いて各群島の状況を検討し、保健医療システムの多面性を浮き彫りにしたい。まず当時の保健医療状況を概観し(Ⅰ
成形の」会社地基「 をⅡる(す討検況状の別島群に次)、況状の療 保健医 ——群島別の状況
システムの諸相)むすびとする。 特療医健保Ⅲて(めとまを徴のムテスシの島群四 )。に後最
Ⅰ 保健医療の状況
【
( 安書告勧の議会障保全家国の月五年九四九一 1】 公衆衛生の恒久プラン
NS
C文の経期長②発開地書基縄沖①は、)済
官 関 民
沖 縄 米
Ⅰ 米 国機関
・連邦政府 (大統領,議会,省庁,
軍等)
・琉球列島統治機構 (軍政府,民政府)
Ⅱ 米 民間機関
・宗教・社会事業団体 (LARA,赤十字社等)
・保健医療関連 (医師,看護師等)
Ⅳ 沖縄 民間機関
・行政関連 (厚生協会,救癩協会等)
・地域・職能団体 (青年会,婦人会,
医師会等)
Ⅲ 沖縄 民政機関
・中央政府 (沖縄諮詢会,支庁,
民政府,群島政府等)
・市町村(地区)
・保健医療関連 (保健所,病院,診療所等)
図 保健医療システムの構成要素
計画の策定と実施
)9
(③沖縄統治の国際的な承認④沖縄の政治・経済の日本からの分離 等を沖縄統治の基本政策として提示した。十月には、琉球列島軍司令官としてジョセフ・
た軍政府の縮小と軍政官府の拡大によって行政面の強化を図っ 官日にはシャーマン副長で名月通常命令第一号を発令、八十期向の長る。占領にけ沖た軍政が始ま縄 R・し、任就が将少ツーシ
)(1
(。一九五〇年二月に
GH
Qが沖縄に恒久基地建設を発表、同月「保健医療分野の長期計画
—公衆衛生の恒久プラン」が公表された。二月十六日軍政官府情報課の定例記者団会見で、軍政府公衆衛生部長スコアブランド博士及び軍政官府公衆衛生課長アーカス少佐は、医療制度公衆衛生向上のための永久的プランとして①医師薬剤師の自由開業施行②保健所設置③医療人の再教育と日本への医学留学生のための特別指導学校設置を揚げて、医療制度、施設整備、人材養成の枠組みを提示した。医師の自由開業は、「医療公営」の沖縄群島で大きな問題となった。自由開業制が続いていた他の群島においても開業医が自由に診療できる環境があったわけではない。医療資源が乏しい状況下で奮闘する医師たちからはむしろ公的な支援を求める声があがり、「自立」は困難を極めた。保健医療サービスの実施機関として重視されたのは保健所である。一九四九年十二月に来島した
HG
Q/
CS
APの公衆衛生福祉局長サムス准将が「保健所の設置と性病対策」を強調すると、琉球
軍は民政府に対して保健所設置を勧告、民政府は半分を軍負担として一九五一年度予算に建設費を計上した
)((
(。
システムの構成要素は、組織、人、技術・方法、法規・規範など多岐におよぶ(図参照)が、本稿では保健医療にかかわる組織と人に焦点をあてる。公的保険なき自由開業制のもとで医療はどのように保障されたのか。①米軍の公文書および関係者の記録 ②沖縄民政府や群島政府の公文書および諸記録 ③県史・市町村史、新聞、個人記録など の資料を用いて各群島の状況を検討し、保健医療システムの多面性を浮き彫りにしたい。まず当時の保健医療状況を概観し(Ⅰ
成形の」会社地基「 をⅡる(す討検況状の別島群に次)、況状の療 保健医 ——群島別の状況
システムの諸相)むすびとする。 特療医健保Ⅲて(めとまを徴のムテスシの島群四 )。に後最
Ⅰ 保健医療の状況
【
( 安書告勧の議会障保全家国の月五年九四九一 1】 公衆衛生の恒久プラン
NS
C文の経期長②発開地書基縄沖①は、)済
官 関 民
沖 縄 米
Ⅰ 米 国機関
・連邦政府 (大統領,議会,省庁, 軍等)
・琉球列島統治機構 (軍政府,民政府)
Ⅱ 米 民間機関
・宗教・社会事業団体 (LARA,赤十字社等)
・保健医療関連 (医師,看護師等)
Ⅳ 沖縄 民間機関
・行政関連 (厚生協会,救癩協会等)
・地域・職能団体 (青年会,婦人会, 医師会等)
Ⅲ 沖縄 民政機関
・中央政府 (沖縄諮詢会,支庁, 民政府,群島政府等)
・市町村(地区)
・保健医療関連 (保健所,病院,診療所等)
図 保健医療システムの構成要素
計画の策定と実施
)9
(③沖縄統治の国際的な承認④沖縄の政治・経済の日本からの分離 等を沖縄統治の基本政策として提示した。十月には、琉球列島軍司令官としてジョセフ・
た軍政府の縮小と軍政官府の拡大によって行政面の強化を図っ 官日にはシャーマン副長で名月通常命令第一号を発令、八十期向の長る。占領にけ沖た軍政が始ま縄 R・し、任就が将少ツーシ
)(1
(。一九五〇年二月に
HG
Qが沖縄に恒久基地建設を発表、同月「保健医療分野の長期計画
—公衆衛生の恒久プラン」が公表された。二月十六日軍政官府情報課の定例記者団会見で、軍政府公衆衛生部長スコアブランド博士及び軍政官府公衆衛生課長アーカス少佐は、医療制度公衆衛生向上のための永久的プランとして①医師薬剤師の自由開業施行②保健所設置③医療人の再教育と日本への医学留学生のための特別指導学校設置を揚げて、医療制度、施設整備、人材養成の枠組みを提示した。医師の自由開業は、「医療公営」の沖縄群島で大きな問題となった。自由開業制が続いていた他の群島においても開業医が自由に診療できる環境があったわけではない。医療資源が乏しい状況下で奮闘する医師たちからはむしろ公的な支援を求める声があがり、「自立」は困難を極めた。保健医療サービスの実施機関として重視されたのは保健所である。一九四九年十二月に来島した
GH
Q/
CS
APの公衆衛生福祉局長サムス准将が「保健所の設置と性病対策」を強調すると、琉球
軍は民政府に対して保健所設置を勧告、民政府は半分を軍負担として一九五一年度予算に建設費を計上した
)((
(。
米軍の戦力低下を防ぐ性病治療を主眼に建設が始まった保健所は、基地機能を高め米国人の健康を守る施設として各地に設置されていく。多くの島から成る沖縄において、離島までカバーする保健所の役割は次第に拡大し、米軍のみならず地域住民にとっても重要な公衆衛生の拠点となっていった。開業制や保健所がその機能を発揮するためには、質量とも十分な専門職が要る。プランには、医師・薬剤師・看護婦
)(1
(の日本での再教育と特別指導した高校卒業生の日本留学計画が盛り込まれた。当面の対応と今後の人材養成を組み合わせたアプローチである。「公衆衛生の恒久プラン」が提示した施策(公営医療から自由開業への移行、性病の治療・予防施設としての保健所設置、米軍医転出後の医療人確保等)は、いずれも短期から長期へと変化した占領統治への対応策であり、米軍基地のある沖縄群島で幅広く展開された。他の群島では実施時期が遅れただけでなくその対象も限定的であった。
【
一九五〇年十二月十五日長期占領統治を担う 2】 統治機構の整備
US
AC
Rが発足、最高責任者の極東軍総司令官は琉
球軍司令官を副長官に任命し、軍人による統治を続行した。米国は、米軍政府を米民政府と改称して軍政は終わったとの見解を表明したが、統治の基本指令は第二次世界大戦末期に発令された「戦時」の統合参謀本部指令
CJ
S一二三一シリーズであり、実質的には軍政の継続であった。
だが、長期占領を実現するためには「民政」の側面を強調して国際社会の批判をかわす必要がある
)(1
(。
US
AC
Rは、
「民政」を掲げつつ巧妙に軍政を遂行した。米軍・軍属の健康と基地の保全という軍事的要請に基づく諸施策は、沖縄の公衆衛生向上を図る「民政」として展開されていった。米国の長期統治に対応する沖縄側の機関=琉球政府が設立されるのは一九五二年四月である。
US
CA
に前るれさ しは、景背たて生誕設し中集新にの法琉開が動活始立府政球で にいてめ定を々次規法生表る(五参)。新法規が一九一年に照 を審法規編査・衛集し、新たな現行た軍さ令発で下治統府政れ 政立設の府置琉た。いに備準球過時程期や代初治統本日は、で 言が、たし援公をへ支の際実任は自ら主席を命して支配下政府 Rは球琉はに的外対
FE
C書確すとうよし立を簡度制法たっ沿にる
US
AC
Rのねらいが窺える。
US
CA
社五誕生までの約一年か政月間、米軍政下で「基地府球は、琉 R設一の約一ヵ月前の十立月発足した群島政府に
表 群島政府期の衛生法規
発 令 年 月 日 法 令 番 号 題 名
1951年1月19日 米国民政府布令 第31号 沖縄群島における開業医師、歯科医師の配置 米国民政府布令 第32号 歯科衛生士法
米国民政府布令 第33号 開業歯科医師法 米国民政府布令 第34号 病院、診療所に関する法 米国民政府布令 第35号 看護婦養成学校法 米国民政府布令 第36号 看護婦資格審査委員会令 米国民政府布令 第37号 開業医師法
米国民政府布令 第38号 獣医師業務に関する布令 1951年4月5日 米国民政府布令 第40号 薬剤師及び薬局に関する法 1951年5月5日 米国民政府布令 第42号 歯科医師助手の廃止
米国民政府布令 第43号 医師助手の廃止 1951年6月20日 米国民政府布令 第46号 伝染病の取締について 1951年7月13日 米国軍政府特別布告 第39号 性病取締規則
米軍の戦力低下を防ぐ性病治療を主眼に建設が始まった保健所は、基地機能を高め米国人の健康を守る施設として各地に設置されていく。多くの島から成る沖縄において、離島までカバーする保健所の役割は次第に拡大し、米軍のみならず地域住民にとっても重要な公衆衛生の拠点となっていった。開業制や保健所がその機能を発揮するためには、質量とも十分な専門職が要る。プランには、医師・薬剤師・看護婦
)(1
(の日本での再教育と特別指導した高校卒業生の日本留学計画が盛り込まれた。当面の対応と今後の人材養成を組み合わせたアプローチである。「公衆衛生の恒久プラン」が提示した施策(公営医療から自由開業への移行、性病の治療・予防施設としての保健所設置、米軍医転出後の医療人確保等)は、いずれも短期から長期へと変化した占領統治への対応策であり、米軍基地のある沖縄群島で幅広く展開された。他の群島では実施時期が遅れただけでなくその対象も限定的であった。
【
一九五〇年十二月十五日長期占領統治を担う 2】 統治機構の整備
US
AC
Rが発足、最高責任者の極東軍総司令官は琉
球軍司令官を副長官に任命し、軍人による統治を続行した。米国は、米軍政府を米民政府と改称して軍政は終わったとの見解を表明したが、統治の基本指令は第二次世界大戦末期に発令された「戦時」の統合参謀本部指令
CJ
S一二三一シリーズであり、実質的には軍政の継続であった。
だが、長期占領を実現するためには「民政」の側面を強調して国際社会の批判をかわす必要がある
)(1
(。
US
AC
Rは、
「民政」を掲げつつ巧妙に軍政を遂行した。米軍・軍属の健康と基地の保全という軍事的要請に基づく諸施策は、沖縄の公衆衛生向上を図る「民政」として展開されていった。米国の長期統治に対応する沖縄側の機関=琉球政府が設立されるのは一九五二年四月である。
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AC
に前るれさ しは、景背たて生誕設し中集新にの法琉開が動活始立府政球で にいてめ定を々次規法生表る(五参)。新法規が一九一年に照 を審法規編査・衛集し、新たな現行た軍さ令発で下治統府政れ 政立設の府置琉た。いに備準球過時程期や代初治統本日は、で 言が、たし援公をへ支の際実任は自ら主席を命して支配下政府 Rは球琉はに的外対
FE
C書確すとうよし立を簡度制法たっ沿にる
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AC
Rのねらいが窺える。
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AC
社五誕生までの約一年か政月間、米軍政下で「基地府球は、琉 R設一の約一ヵ月前の十立月発足した群島政府に
表 群島政府期の衛生法規
発 令 年 月 日 法 令 番 号 題 名
1951年1月19日 米国民政府布令 第31号 沖縄群島における開業医師、歯科医師の配置 米国民政府布令 第32号 歯科衛生士法
米国民政府布令 第33号 開業歯科医師法 米国民政府布令 第34号 病院、診療所に関する法 米国民政府布令 第35号 看護婦養成学校法 米国民政府布令 第36号 看護婦資格審査委員会令 米国民政府布令 第37号 開業医師法
米国民政府布令 第38号 獣医師業務に関する布令 1951年4月5日 米国民政府布令 第40号 薬剤師及び薬局に関する法 1951年5月5日 米国民政府布令 第42号 歯科医師助手の廃止
米国民政府布令 第43号 医師助手の廃止 1951年6月20日 米国民政府布令 第46号 伝染病の取締について 1951年7月13日 米国軍政府特別布告 第39号 性病取締規則
会」の基盤形成を担った。「自治組織」として知事と議会議員は公選されたものの、権限は軍政府の布告・布令等に反しない範囲に限られ、その制約下で「自立」を求められた。米国民政府設立を指示する
FE
C書簡(十二月五日付)には、住民の生活水準を戦前の程度まで引
き上げることが促進すべき事項として示され、保健衛生状態の標準維持は軍の安全保持上欠かせないとの指摘がある。注目すべきはその達成のための財源である。米軍の支出は「米国軍人・軍属の保健衛生上きわめて重要なこと」に限定する一方、沖縄の政府に対しては米軍の援助に頼らずに財政の自立を図るよう促している。保健医療は、国籍や立場の違いにかかわらず沖縄に住むすべての人々の生命と生活にかかわる重要事項である。だが、米軍は「基地社会」の形成にあたって、軍とその関係者の健康を優先させた。そして、それまでに建設した基地や関連施設を継続拡大しながら、運営維持に必要な環境を沖縄の「自主財源」で整備するよう要請したのである。各群島政府は、占領に伴う諸制約の下でこの難題に向き合わなければならなかった。その過程で独自の保健医療システムが創られていくことになる。
【
た。外生上重要なもの以は健沖縄側の負担となっ衛保用の医療に関する費のうち、米国軍人・軍属健 戦時の「軍政」を平時の「民政」へ移行するにあたって、米軍は予算・人員を次々と縮減した。保 3】「経済的自立」と保健医療サービス
「公衆衛生の恒久プラン」の資金提供のあり方にはその基本方針が反映されている。米軍は、性病対策に必要な保健所建設に予算を投入する一方、琉球政府成立後は医学生の本土留学費用助成を打ち切っている。自由開業制の開始にあたっては医療機関への助成を減じ、運営を沖縄の行政機関に委ねた。地域資源の活用という占領統治の基本方針に戻ったわけである
)(1
(。
US
CA
Rは布令第三一号「沖縄群島における開業医師、歯科医師の配置」第三三号「開業歯科医
師法」
)(1
(第三四号「病院、診療所に関する法」
)(1
(第三七号「開業医師法」
)(1
(を矢継ぎ早に公布し、自由開業制を促した。賛否両論があがったが
)(1
(、議論を尽すことなく「医療公営」に終止符が打たれ、開業医の自由診療が始まる。充分な準備のないまま施行された自由開業制は、沖縄の医療界に混乱をもたらした。なかでも深刻だったのは医師養成との関係である。経験をつんだ医師たちが公務を離れて開業医に転じ、新卒医師中心の公立病院や保健所の陣容が弱体化するという問題が生じたのである。経験医が自由開業医となり留学制度で養成された若い医師が保健所に配置されるという「負のスパイラル」 )(1(は、沖縄の実情よりも軍の都合を優先させた「恒久プラン」の矛盾を示している。「医療公営」が導入されず自由開業制が続いていた奄美・宮古・八重山の各群島では、開業医たちが自由に診療する環境はなく、医療を保障するために米軍の援助を求める動きが目立つ
)11
(。基地のない地域への米軍の関与は薄く、物資も人材も枯渇した状況下で、住民の健康は少数の医療者の努力に委
会」の基盤形成を担った。「自治組織」として知事と議会議員は公選されたものの、権限は軍政府の布告・布令等に反しない範囲に限られ、その制約下で「自立」を求められた。米国民政府設立を指示する
FE
C書簡(十二月五日付)には、住民の生活水準を戦前の程度まで引
き上げることが促進すべき事項として示され、保健衛生状態の標準維持は軍の安全保持上欠かせないとの指摘がある。注目すべきはその達成のための財源である。米軍の支出は「米国軍人・軍属の保健衛生上きわめて重要なこと」に限定する一方、沖縄の政府に対しては米軍の援助に頼らずに財政の自立を図るよう促している。保健医療は、国籍や立場の違いにかかわらず沖縄に住むすべての人々の生命と生活にかかわる重要事項である。だが、米軍は「基地社会」の形成にあたって、軍とその関係者の健康を優先させた。そして、それまでに建設した基地や関連施設を継続拡大しながら、運営維持に必要な環境を沖縄の「自主財源」で整備するよう要請したのである。各群島政府は、占領に伴う諸制約の下でこの難題に向き合わなければならなかった。その過程で独自の保健医療システムが創られていくことになる。
【
た。外生上重要なもの以は健沖縄側の負担となっ衛保用の医療に関する費のうち、米国軍人・軍属健 戦時の「軍政」を平時の「民政」へ移行するにあたって、米軍は予算・人員を次々と縮減した。保 3】「経済的自立」と保健医療サービス
「公衆衛生の恒久プラン」の資金提供のあり方にはその基本方針が反映されている。米軍は、性病対策に必要な保健所建設に予算を投入する一方、琉球政府成立後は医学生の本土留学費用助成を打ち切っている。自由開業制の開始にあたっては医療機関への助成を減じ、運営を沖縄の行政機関に委ねた。地域資源の活用という占領統治の基本方針に戻ったわけである
)(1
(。
US
AC
Rは布令第三一号「沖縄群島における開業医師、歯科医師の配置」第三三号「開業歯科医
師法」
)(1
(第三四号「病院、診療所に関する法」
)(1
(第三七号「開業医師法」
)(1
(を矢継ぎ早に公布し、自由開業制を促した。賛否両論があがったが
)(1
(、議論を尽すことなく「医療公営」に終止符が打たれ、開業医の自由診療が始まる。充分な準備のないまま施行された自由開業制は、沖縄の医療界に混乱をもたらした。なかでも深刻だったのは医師養成との関係である。経験をつんだ医師たちが公務を離れて開業医に転じ、新卒医師中心の公立病院や保健所の陣容が弱体化するという問題が生じたのである。経験医が自由開業医となり留学制度で養成された若い医師が保健所に配置されるという「負のスパイラル」 )(1(は、沖縄の実情よりも軍の都合を優先させた「恒久プラン」の矛盾を示している。「医療公営」が導入されず自由開業制が続いていた奄美・宮古・八重山の各群島では、開業医たちが自由に診療する環境はなく、医療を保障するために米軍の援助を求める動きが目立つ
)11
(。基地のない地域への米軍の関与は薄く、物資も人材も枯渇した状況下で、住民の健康は少数の医療者の努力に委
ねられていた。
【
しる。基地周辺に形成された歓楽街で性病が増加 名護はマラリアである。これら三疾患には、戦争・占領によって蔓延・深刻化したという共通点があ 進した。沖縄本島の三保健所にはそれぞれ重点課題が設定された。胡座は性病、那覇は結核、そして 米軍は、占領初期から軍人・軍属の健康保持と基地機能の保全に欠かせない感染症対策を強力に推 軍優先による沖縄住民の生活・健康の等閑視である。 していることに気づく。一つは戦争や占領が生み出した疾患の拡大と衛生環境の悪化、もう一つは米 「基地社会」の形成が進むこの時期の保健医療を子細に検討すると、「平時」とは異なる課題が発生 4】「基地社会」における保健医療課題
)1(
(、沖縄戦における住民移動がマラリア感染地域を拡げ
)11
(、軍作業労働者が住む密集住宅は結核の温床となった
)11
(。基地と米軍人優先の環境衛生施策が一般住民の生活に及ぼした悪影響も見逃せない。那覇市では、米軍施設建設による道路(水路)変更で塵芥物収集が滞った上に、基地だけに水道が敷設され住民は清潔な水が入手できない状況に陥った
)11
(。米軍の衛生環境整備のために住民は不衛生な生活を強いられたのである。米国人に直接脅威となる急性伝染病対策が優先されたために、慢性疾患や地域特有の「風土病」へ
の対策は遅れ、沖縄住民の医療保障をなおざりにして「基地社会」が形作られていった。
Ⅱ 「基地社会」の形成
—群島別の状況
—
【
1】 沖縄群島
(
1)保健医療にかかわる組織
沖縄の長期占領が確定した一九四九年五月以降、沖縄群島では恒久的基地建設が本格化する。五千万ドルの予算が計上され、十月に琉球軍司令官・琉球列島軍政府軍政官として着任したシーツ少将のもとで軍事基地建設が進んだ。シーツは、沖縄の安定した長期統治を目指して「復興」と「民主化」政策にも力を入れ、「基地社会」の形成が始まる。軍政府公衆衛生社会事業部長にはシーツの信頼を得たロルフ・ヴァン・スコアブランド博士が就任、ハンセン病療養所愛楽園を入所者自らが作る民主的な園にしようと指導と援助を行った
)11
(。十二月には
HG
生の恒久プラン」にも保健所建設が明記された。 の所健保に所か三護設名覇・那座・胡ずまを置月算衛衆公「上、計を予す度年一十五くべに四は米軍 Q公衛将各内島沖、来が准生ス地サの長局ム衆を病た。し促を策対性察と置設所健保後、視
ねられていた。
【
しる。基地周辺に形成された歓楽街で性病が増加 名護はマラリアである。これら三疾患には、戦争・占領によって蔓延・深刻化したという共通点があ 進した。沖縄本島の三保健所にはそれぞれ重点課題が設定された。胡座は性病、那覇は結核、そして 米軍は、占領初期から軍人・軍属の健康保持と基地機能の保全に欠かせない感染症対策を強力に推 軍優先による沖縄住民の生活・健康の等閑視である。 していることに気づく。一つは戦争や占領が生み出した疾患の拡大と衛生環境の悪化、もう一つは米 「基地社会」の形成が進むこの時期の保健医療を子細に検討すると、「平時」とは異なる課題が発生 4】「基地社会」における保健医療課題
)1(
(、沖縄戦における住民移動がマラリア感染地域を拡げ
)11
(、軍作業労働者が住む密集住宅は結核の温床となった
)11
(。基地と米軍人優先の環境衛生施策が一般住民の生活に及ぼした悪影響も見逃せない。那覇市では、米軍施設建設による道路(水路)変更で塵芥物収集が滞った上に、基地だけに水道が敷設され住民は清潔な水が入手できない状況に陥った
)11
(。米軍の衛生環境整備のために住民は不衛生な生活を強いられたのである。米国人に直接脅威となる急性伝染病対策が優先されたために、慢性疾患や地域特有の「風土病」へ
の対策は遅れ、沖縄住民の医療保障をなおざりにして「基地社会」が形作られていった。
Ⅱ 「基地社会」の形成
—群島別の状況
—
【
1】 沖縄群島
(
1)保健医療にかかわる組織
沖縄の長期占領が確定した一九四九年五月以降、沖縄群島では恒久的基地建設が本格化する。五千万ドルの予算が計上され、十月に琉球軍司令官・琉球列島軍政府軍政官として着任したシーツ少将のもとで軍事基地建設が進んだ。シーツは、沖縄の安定した長期統治を目指して「復興」と「民主化」政策にも力を入れ、「基地社会」の形成が始まる。軍政府公衆衛生社会事業部長にはシーツの信頼を得たロルフ・ヴァン・スコアブランド博士が就任、ハンセン病療養所愛楽園を入所者自らが作る民主的な園にしようと指導と援助を行った
)11
(。十二月には
GH
生の恒久プラン」にも保健所建設が明記された。 の所健保に所か三護設名覇・那座・胡ずまを置月算衛衆公「上、計を予す度年一十五くべに四は米軍 Q公衛将各内島沖、来が准生ス地サの長局ム衆を病た。し促を策対性察と置設所健保後、視
米軍は、支所を含め全琉球へ保健所を設置することによって病院に限定されていた性病の治療拡大を目指した。保健所は米軍が重視する性病対策から始まったが、各地に設置が進むにつれて、医師や看護師をはじめ多くの専門職を擁する総合的保健医療機関として発展していった。戦後初の保健所は、一九五一年七月、軍施設周辺で性病が増加していた胡座に誕生する。性病治療に必要な医薬品や医療器械が早速手配され、保健婦に対して患者の歴訪に関するデモンストレーションが実施された。留意すべきは、この時点では新保健所法は制定されておらず布令発令もなかった事実だ。性病対策を急ぐ米軍は、法整備の前に施設建設と業務開始を促した。このため、公衆衛生の恒久プランを具現する保健所が戦前の旧保健所法のもとで誕生するという矛盾が生じたのである
)11
(。自由開業制の導入によって医療機関にも変化が見られる。一九五二年一月、軍布告第三一号「沖縄群島における開業医師、歯科医師の配置について」 )11(に基づいて沖縄医師配置委員会が設置され、自由開業地区別割当によって九地区に六六人が配置された
)11
(。病院や診療所の開設が相次いだ那覇市では、医師数や医療施設の不足のため医師が過重労働を強いられる一方、医療保険がなく医療費を捻出できない低所得層が受領機会を奪われるなど多くの問題が生じた
)11
(。既存の公立病院には米国式の開放性システムが導入されたが、利用できない開業医も多く定着には至らなかった。こうした事態に対して、群島政府は医師会の要望を受け入れて柔軟に対応した
)11
(。米軍の法令を地域実態にあわせて「運用」する沖縄の行政機関の動きとして注目される。
「基地社会」の形成過程で、米軍は支援を徐々に減じて沖縄の「自立」を促した。自由開業制のもとで民間の病院・診療所が次々と新設されていく。だが、医療保険がないために受診者が限られ、感染症対策など住民全体を対象とする施策には応えられなかった。治療から環境衛生まで幅広い保健医療活動を展開したのは公的施設であり、全琉に設置された保健所がその中核を担った。
(
2)保健医療にかかわる人材
保健医療を担う人材として欠かせない医師は、この時期常に不足していた。占領開始時にわずか六四人であった医師数は海外や本土からの帰還者を加えて漸増したが、既存の医師だけで山積した課題に対応することは難しかった。過労で死亡する医師も出るほど医療現場が疲弊していく
)1(
(中で、当面の対策から長期的な計画まで複数の方法が提示された。当面の医師不足を補ったのは、元衛生兵や簡単な医療行為に携わっていたヤッチク(薬局生)など医療の実務経験者である。
US
AC
Rは、
「医師助手」や「医官補」として働いていたそれらの人々を、布令第四二号「歯科医師助手廃止」第四三号「医師助手廃止」
)11
(によって資格をもつ介輔とした。群島政府は、一九五一年十二月二七日に「沖縄群島介補及び歯科介輔営業府令」(群島政府令第七号)を公布して、介輔の業務内容と業務地域をより具体的に定めている
)11
(。長期的計画としては、本土への留学による医師養成が促進された。米軍政府は卒業後沖縄に帰還し
米軍は、支所を含め全琉球へ保健所を設置することによって病院に限定されていた性病の治療拡大を目指した。保健所は米軍が重視する性病対策から始まったが、各地に設置が進むにつれて、医師や看護師をはじめ多くの専門職を擁する総合的保健医療機関として発展していった。戦後初の保健所は、一九五一年七月、軍施設周辺で性病が増加していた胡座に誕生する。性病治療に必要な医薬品や医療器械が早速手配され、保健婦に対して患者の歴訪に関するデモンストレーションが実施された。留意すべきは、この時点では新保健所法は制定されておらず布令発令もなかった事実だ。性病対策を急ぐ米軍は、法整備の前に施設建設と業務開始を促した。このため、公衆衛生の恒久プランを具現する保健所が戦前の旧保健所法のもとで誕生するという矛盾が生じたのである
)11
(。自由開業制の導入によって医療機関にも変化が見られる。一九五二年一月、軍布告第三一号「沖縄群島における開業医師、歯科医師の配置について」 )11(に基づいて沖縄医師配置委員会が設置され、自由開業地区別割当によって九地区に六六人が配置された
)11
(。病院や診療所の開設が相次いだ那覇市では、医師数や医療施設の不足のため医師が過重労働を強いられる一方、医療保険がなく医療費を捻出できない低所得層が受領機会を奪われるなど多くの問題が生じた
)11
(。既存の公立病院には米国式の開放性システムが導入されたが、利用できない開業医も多く定着には至らなかった。こうした事態に対して、群島政府は医師会の要望を受け入れて柔軟に対応した
)11
(。米軍の法令を地域実態にあわせて「運用」する沖縄の行政機関の動きとして注目される。
「基地社会」の形成過程で、米軍は支援を徐々に減じて沖縄の「自立」を促した。自由開業制のもとで民間の病院・診療所が次々と新設されていく。だが、医療保険がないために受診者が限られ、感染症対策など住民全体を対象とする施策には応えられなかった。治療から環境衛生まで幅広い保健医療活動を展開したのは公的施設であり、全琉に設置された保健所がその中核を担った。
(
2)保健医療にかかわる人材
保健医療を担う人材として欠かせない医師は、この時期常に不足していた。占領開始時にわずか六四人であった医師数は海外や本土からの帰還者を加えて漸増したが、既存の医師だけで山積した課題に対応することは難しかった。過労で死亡する医師も出るほど医療現場が疲弊していく
)1(
(中で、当面の対策から長期的な計画まで複数の方法が提示された。当面の医師不足を補ったのは、元衛生兵や簡単な医療行為に携わっていたヤッチク(薬局生)など医療の実務経験者である。
US
AC
Rは、
「医師助手」や「医官補」として働いていたそれらの人々を、布令第四二号「歯科医師助手廃止」第四三号「医師助手廃止」
)11
(によって資格をもつ介輔とした。群島政府は、一九五一年十二月二七日に「沖縄群島介補及び歯科介輔営業府令」(群島政府令第七号)を公布して、介輔の業務内容と業務地域をより具体的に定めている
)11
(。長期的計画としては、本土への留学による医師養成が促進された。米軍政府は卒業後沖縄に帰還し
業務につくことを条件に学資・生活費を給付する「契約学生制度」を創設し、一九四九年二月の第一期生から一九五三年三月の第五期生まで総計百三十人の医学生を本土へ送り出している
)11
(。群島政府時代までは、制度にかかる費用を米軍が負担していた。ところが、
US
AC
Rは琉球政府成立後の六月に突如制度を廃止し、以後琉球政府が責任を持つよ
うに通告してきた。長期統治に向けて、責任を琉球政府へとシフトしたわけである。予算の乏しい琉球政府にとって留学制度継続は容易ではなかったが、日本政府の支援を得ながら「琉球公費(後に国費と改称)学生制度」の他自費学生制度を新設、医師養成は継続された
)11
(。医学生募集から本土での教育支援を経て、新たな医師が誕生するまでにはかなりの時間を要する。医師に代わる即戦力として活躍したのは看護職であった。早くから開始されていた米軍による看護職の養成・教育
)11
(は、一九五一年に制度化される。布令第三五号「看護婦養成学校法」
)11
(布令第三六号「看護学校並びに看護婦資格委員」
)11
(によって受験資格・養成期間・教育課程等が規程され、看護教育制度が法的に成立した。教育現場では米国人看護指導者
)11
(がアメリカ式の「新看護技術」を指導し、沖縄の看護職に大きな影響を与えた。看護職には、病院や診療所で働く看護婦だけでなく、助産婦や地域保健に従事する公衆衛生看護婦も含まれる。その活動は予防から治療や療養まで幅広く、都市部から離島まで琉球列島全域に及んだ。
戦後初期に米軍主導で展開された保健医療活動は、次第に沖縄の行政機関へと移管され、担い手は専門職だけでなく、自治体や民間団体の職員、婦人会や青年団のメンバーなど地域住民へ拡大していった。占領下の政治的経済的制約のもとで、行政と住民は協働しながら自らの健康を守る仕組みを形成していくことになる。
(
3)複合的ネットワークの展開
長期占領体制へ向かうこの時期、軍事基地建設が進む沖縄群島は「基地社会」がもたらすさまざまな保健医療課題に直面していた。環境衛生や感染症対策の実務には、地域の実情を知る人材が欠かせない。対策を主導する
US
CA
R公衆衛生部のスタッフは、民政府や群島政府の公衆衛生部(群島政
府では厚生局)の職員と協議・連絡・調整を重ねながら個々の課題に取り組んでいる。保健医療に関する諸組織は米軍と沖縄の行政機構の重層構造をなし、国籍・言語の異なる人々の間でやりとりが行われた。医師・看護婦・助産婦など従来からの専門職に介輔や公衆衛生看護婦ら新たな職種が加わり、彼らは課題ごとに多様な関係を取り結びながら活動した。中でも注目されるのは専門職同士の連携である。保健医療の現場では、直面する課題解決にあたって占領者と被占領者間の上下関係よりも医療者相互のつながりが重視された
)11
(。医師会など民間団体と公的行政機関の相互関係も見逃せない。
業務につくことを条件に学資・生活費を給付する「契約学生制度」を創設し、一九四九年二月の第一期生から一九五三年三月の第五期生まで総計百三十人の医学生を本土へ送り出している
)11
(。群島政府時代までは、制度にかかる費用を米軍が負担していた。ところが、
US
AC
Rは琉球政府成立後の六月に突如制度を廃止し、以後琉球政府が責任を持つよ
うに通告してきた。長期統治に向けて、責任を琉球政府へとシフトしたわけである。予算の乏しい琉球政府にとって留学制度継続は容易ではなかったが、日本政府の支援を得ながら「琉球公費(後に国費と改称)学生制度」の他自費学生制度を新設、医師養成は継続された
)11
(。医学生募集から本土での教育支援を経て、新たな医師が誕生するまでにはかなりの時間を要する。医師に代わる即戦力として活躍したのは看護職であった。早くから開始されていた米軍による看護職の養成・教育
)11
(は、一九五一年に制度化される。布令第三五号「看護婦養成学校法」
)11
(布令第三六号「看護学校並びに看護婦資格委員」
)11
(によって受験資格・養成期間・教育課程等が規程され、看護教育制度が法的に成立した。教育現場では米国人看護指導者
)11
(がアメリカ式の「新看護技術」を指導し、沖縄の看護職に大きな影響を与えた。看護職には、病院や診療所で働く看護婦だけでなく、助産婦や地域保健に従事する公衆衛生看護婦も含まれる。その活動は予防から治療や療養まで幅広く、都市部から離島まで琉球列島全域に及んだ。
戦後初期に米軍主導で展開された保健医療活動は、次第に沖縄の行政機関へと移管され、担い手は専門職だけでなく、自治体や民間団体の職員、婦人会や青年団のメンバーなど地域住民へ拡大していった。占領下の政治的経済的制約のもとで、行政と住民は協働しながら自らの健康を守る仕組みを形成していくことになる。
(
3)複合的ネットワークの展開
長期占領体制へ向かうこの時期、軍事基地建設が進む沖縄群島は「基地社会」がもたらすさまざまな保健医療課題に直面していた。環境衛生や感染症対策の実務には、地域の実情を知る人材が欠かせない。対策を主導する
US
AC
R公衆衛生部のスタッフは、民政府や群島政府の公衆衛生部(群島政
府では厚生局)の職員と協議・連絡・調整を重ねながら個々の課題に取り組んでいる。保健医療に関する諸組織は米軍と沖縄の行政機構の重層構造をなし、国籍・言語の異なる人々の間でやりとりが行われた。医師・看護婦・助産婦など従来からの専門職に介輔や公衆衛生看護婦ら新たな職種が加わり、彼らは課題ごとに多様な関係を取り結びながら活動した。中でも注目されるのは専門職同士の連携である。保健医療の現場では、直面する課題解決にあたって占領者と被占領者間の上下関係よりも医療者相互のつながりが重視された
)11
(。医師会など民間団体と公的行政機関の相互関係も見逃せない。
「軍政」から「民政」へと移行するこの時期、図に示したⅠ〜Ⅳすべての領域にまたがる複合的ネットワークが展開された。
【
2】 宮古群島
(
1)保健医療にかかわる組織
沖縄群島で「公衆衛生の恒久プラン」が提示された一九五〇年頃、戦後初期に宮古群島の住民を苦しめたマラリアの大流行は終息に向かっていた。米軍政府、民政府、医師会、住民が有機的に結びついて実効性のある組織的防遏活動を展開した成果である
)1(
(。一九五二年に琉球政府が発足すると、マラリア防遏機構は宮古保健所衛生課に引き継がれた。衛生課長の下にマラリア防遏係長がおかれ、平良・城辺・下地各地区の作業員が防遏に従事した
)11
(。初期に生まれた軍政府、民政府、地域社会各レベルの組織間の相互協力関係は、移行期をへて琉球政府成立後も続く。専門職が主導する保健所管轄下のマラリア対策においても、地域社会に根づく官民協力体制は有効に機能し、一九六○年に撲滅を実現した。マラリアは、ハンセン病療養所宮古南静園にも蔓延した。当時の南静園は、病棟が消失して医療が不十分である上に食糧事情が悪く、自己退園する患者も少なくなかった。園外患者の増加は地域医療
の重要課題となり、施設の復旧工事と地域社会での「救癩活動」が並行して進められた。社会防衛上からも米軍はハンセン病対策に関心を示し施設整備への助成を決定、民政府は補助金を出して「救らい協会」を設立した。知事を総裁とする郡レベルの組織である
)11
(。救らい協会が、郡内各地で講演会や検診を実施して「救癩思想」普及をはかる一方入所者へ食糧支援を行った結果、復園者も増え一九五〇年の入所者数はほぼ戦前レベルにまで回復した
)11
(。マラリアやハンセン病は、米軍の強い要請と支援を受けた民政府が、地域社会全体を組織化することによって占領初期に一定の成果をあげた。社会防衛的健康管理と限定的ながら住民への医療保障を併せ持つこの仕組みは群島政府の時代にも継続し、宮古の保健医療システムの原型となった。地域の現場では、市町村、保健所、医師会、婦人会や青年会など関係諸組織間の関係が深まるにつれて、住民の健康を主眼とした独自の取り組みも見られた
)11
(。マラリアやハンセン病など米軍が重視した感染症対策が進む一方で、一般の医療は立ち遅れていた。明治初期の一時期を別にすると、戦前から戦中、敗戦直後にかけて宮古の公的医療機関は、国立療養所宮古南静園と県立宮古マラリア防遏所だけであった
)11
(。一九四六年に設立された要救護者を対象とする宮古施療院は翌年宮古慈善病院として再発足、同時に要救護者以外の診療も行うようになり、ようやく一般診療が始まった。その後、住民からの「強化拡充並に分院設置」の陳情
)11
(を受けて各地に分院が設置され、琉球政府成立後は、保健所に生まれ変わっている。
「軍政」から「民政」へと移行するこの時期、図に示したⅠ〜Ⅳすべての領域にまたがる複合的ネットワークが展開された。
【
2】 宮古群島
(
1)保健医療にかかわる組織
沖縄群島で「公衆衛生の恒久プラン」が提示された一九五〇年頃、戦後初期に宮古群島の住民を苦しめたマラリアの大流行は終息に向かっていた。米軍政府、民政府、医師会、住民が有機的に結びついて実効性のある組織的防遏活動を展開した成果である
)1(
(。一九五二年に琉球政府が発足すると、マラリア防遏機構は宮古保健所衛生課に引き継がれた。衛生課長の下にマラリア防遏係長がおかれ、平良・城辺・下地各地区の作業員が防遏に従事した
)11
(。初期に生まれた軍政府、民政府、地域社会各レベルの組織間の相互協力関係は、移行期をへて琉球政府成立後も続く。専門職が主導する保健所管轄下のマラリア対策においても、地域社会に根づく官民協力体制は有効に機能し、一九六○年に撲滅を実現した。マラリアは、ハンセン病療養所宮古南静園にも蔓延した。当時の南静園は、病棟が消失して医療が不十分である上に食糧事情が悪く、自己退園する患者も少なくなかった。園外患者の増加は地域医療
の重要課題となり、施設の復旧工事と地域社会での「救癩活動」が並行して進められた。社会防衛上からも米軍はハンセン病対策に関心を示し施設整備への助成を決定、民政府は補助金を出して「救らい協会」を設立した。知事を総裁とする郡レベルの組織である
)11
(。救らい協会が、郡内各地で講演会や検診を実施して「救癩思想」普及をはかる一方入所者へ食糧支援を行った結果、復園者も増え一九五〇年の入所者数はほぼ戦前レベルにまで回復した
)11
(。マラリアやハンセン病は、米軍の強い要請と支援を受けた民政府が、地域社会全体を組織化することによって占領初期に一定の成果をあげた。社会防衛的健康管理と限定的ながら住民への医療保障を併せ持つこの仕組みは群島政府の時代にも継続し、宮古の保健医療システムの原型となった。地域の現場では、市町村、保健所、医師会、婦人会や青年会など関係諸組織間の関係が深まるにつれて、住民の健康を主眼とした独自の取り組みも見られた
)11
(。マラリアやハンセン病など米軍が重視した感染症対策が進む一方で、一般の医療は立ち遅れていた。明治初期の一時期を別にすると、戦前から戦中、敗戦直後にかけて宮古の公的医療機関は、国立療養所宮古南静園と県立宮古マラリア防遏所だけであった
)11
(。一九四六年に設立された要救護者を対象とする宮古施療院は翌年宮古慈善病院として再発足、同時に要救護者以外の診療も行うようになり、ようやく一般診療が始まった。その後、住民からの「強化拡充並に分院設置」の陳情
)11
(を受けて各地に分院が設置され、琉球政府成立後は、保健所に生まれ変わっている。
増加傾向にあった結核患者については米軍の対応が遅れ、民政府と医師会が結核療養所の設計案を作成、一九五〇年に宮古民政府立結核療養所が誕生している。沖縄群島で「医療公営」から自由開業制への移行が大きな社会問題となっていたこの時期、戦前からの自由開業制が続く宮古群島では、感染症対策に忙殺される開業医から行政の支援を求める声が上がり、公的医療機関の設立が続いている。開業医が自由に診療する環境は整っておらず、米軍の援助を得て設立・運営される慈善病院や保健所で当面の課題に対応せざるをえなかったのである。
(
2)保健医療にかかわる人材
宮古群島の保健医療行政を担った民政府公衆衛生部や群島政府厚生局の幹部、公的機関の長などの顔ぶれを見ると、ほとんどが宮古医師会のメンバーである。一九四五年十一月、宮古郡医師会会長となった嵩原恵典は、宮古民政府衛生部(後に公衆衛生部)部長(一九四七年)を経て一九五七年に平良市長に選出され、一九五九年まで市政の舵取りをしている。一九四八年に民政府公衆衛生部長に就いた謝敷宗吉は、一九五〇年に結核療養所が開設されるとその所長となった。民政府と群島政府の厚生部長を務めた(一九五〇〜五二年)宮国泰誠は結核療養所長を兼任、一九五三年から沖縄赤十字社宮古支部長に就任している。限られた医療人が、行政機構、施設病院、関連団体など官民にわたる諸組織の要職に就いて、宮古の保健医療を支えていた。
一九四九年には、医師会、歯科医師会、薬剤師会、産婆会、獣医師会が宮古医療団を結成した。医師を中心に群島内の医療専門職が連携・協力して巡回医療や衛生講演会を行う傍ら、宮古医学会を立ち上げて研鑽に努めている。一方、南静園や結核療養所などの施設は深刻な医師不足に直面していた。南静園では、専任園長不在のまま医師会員が交代で園長代理を務め、結核療養所は医師不足のために十分にその機能を発揮できない状態が続いた。これを補ったのは、介輔や本土から派遣された医師
)11
(であった。医療従事者以外で注目すべきは、一九四九年から一九五七年に平良市長を務めた石原雅太郎である。石原は、市民を動員して一九五〇年に簡易水道を敷設、一九五二年には米軍から補助費を調達して水道工事を完成させた
)11
(。米国人技師と共に水源調査を行い、具志堅知事の人脈を使って米軍と交渉した石原の行動力が公衆衛生の重要な基盤形成につながったのである。
(
3)「自活」のためのシステム形成
米軍の重要拠点として基地建設が続く沖縄群島とは異なり、宮古群島に大きな軍事基地はない。駐留する兵士の数も比較的少なく米軍保護に特化した強力な占領政策は見られなかった。「公衆衛生の恒久プラン」のうち自由開業制は従来からの継続、保健所の設置は八重山より遅く、医師養成のための留学制度利用者も限られていた。
増加傾向にあった結核患者については米軍の対応が遅れ、民政府と医師会が結核療養所の設計案を作成、一九五〇年に宮古民政府立結核療養所が誕生している。沖縄群島で「医療公営」から自由開業制への移行が大きな社会問題となっていたこの時期、戦前からの自由開業制が続く宮古群島では、感染症対策に忙殺される開業医から行政の支援を求める声が上がり、公的医療機関の設立が続いている。開業医が自由に診療する環境は整っておらず、米軍の援助を得て設立・運営される慈善病院や保健所で当面の課題に対応せざるをえなかったのである。
(
2)保健医療にかかわる人材
宮古群島の保健医療行政を担った民政府公衆衛生部や群島政府厚生局の幹部、公的機関の長などの顔ぶれを見ると、ほとんどが宮古医師会のメンバーである。一九四五年十一月、宮古郡医師会会長となった嵩原恵典は、宮古民政府衛生部(後に公衆衛生部)部長(一九四七年)を経て一九五七年に平良市長に選出され、一九五九年まで市政の舵取りをしている。一九四八年に民政府公衆衛生部長に就いた謝敷宗吉は、一九五〇年に結核療養所が開設されるとその所長となった。民政府と群島政府の厚生部長を務めた(一九五〇〜五二年)宮国泰誠は結核療養所長を兼任、一九五三年から沖縄赤十字社宮古支部長に就任している。限られた医療人が、行政機構、施設病院、関連団体など官民にわたる諸組織の要職に就いて、宮古の保健医療を支えていた。
一九四九年には、医師会、歯科医師会、薬剤師会、産婆会、獣医師会が宮古医療団を結成した。医師を中心に群島内の医療専門職が連携・協力して巡回医療や衛生講演会を行う傍ら、宮古医学会を立ち上げて研鑽に努めている。一方、南静園や結核療養所などの施設は深刻な医師不足に直面していた。南静園では、専任園長不在のまま医師会員が交代で園長代理を務め、結核療養所は医師不足のために十分にその機能を発揮できない状態が続いた。これを補ったのは、介輔や本土から派遣された医師
)11
(であった。医療従事者以外で注目すべきは、一九四九年から一九五七年に平良市長を務めた石原雅太郎である。石原は、市民を動員して一九五〇年に簡易水道を敷設、一九五二年には米軍から補助費を調達して水道工事を完成させた
)11
(。米国人技師と共に水源調査を行い、具志堅知事の人脈を使って米軍と交渉した石原の行動力が公衆衛生の重要な基盤形成につながったのである。
(
3)「自活」のためのシステム形成
米軍の重要拠点として基地建設が続く沖縄群島とは異なり、宮古群島に大きな軍事基地はない。駐留する兵士の数も比較的少なく米軍保護に特化した強力な占領政策は見られなかった。「公衆衛生の恒久プラン」のうち自由開業制は従来からの継続、保健所の設置は八重山より遅く、医師養成のための留学制度利用者も限られていた。