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長崎県川棚の軍需産業都市化に伴う景観変化

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【調査実習報告―佐世保市(教員)】

長崎県川棚の軍需産業都市化に伴う景観変化

大平 晃久 (国際文化講座教員)

Ⅰ はじめに

長崎県東彼杵郡川棚町。この町を訪れると,JR駅前であるにもかかわらず直線で歩道の整備さ れた国道205 号線や,碁盤目に区画された市街地に目が留まる。小さな町には不釣り合いにすら 思えるこうした景観は,太平洋戦争中の軍需産業都市化の置き土産である。

太平洋戦争開戦前の日本では,国防上の観点から工業の地方分散が進められた。そうした政策 の中心となったのが,軍需工場の周辺地域を大規模に開発整備する新興工業都市計画である。こ の計画は「大工業の興起してゐる地点を中心とし,附近五百万坪程度を将来の大都市地域と想定 し,之に計画局が二十年の都市計画の経験を集積し理想的な大都市を実現せんとするもの」1)とさ れ,1940年から公共団体施行の土地区画整理への国庫補助が制度化された。表1に示した全国23 地区が指定を受け,佐世保軍港・海軍工廠を擁する長崎県では川棚のほかに大村,相浦の計 3地 区が指定されていることが目を引く。また,新興工業都市計画とは別に,軍事施設立地市町村に 対してインフラ整備に高率の国庫補助を行う軍都整備事業も1944年に制度化され,川棚町は街路 と学校の整備に補助金を得ている2)

表 1 新興工業都市計画土地区画整理事業一覧

府県 現在の市町 地区 面積(ha) 事業年度(昭和) 主要施設 神奈川県 相模原市 相模原 1,594 14~25年 陸軍兵器製造所

〃 大和市 大和 620 18~35 飛行場,海軍工廠

群馬県 太田市 太田 932 16~26 中島飛行機

茨城県 日立市 多賀 108 16~43予定 日立製作所

愛知県 豊川市 豊川 545 16~35 海軍工廠

〃 春日井市 春日井 95 16~23 海軍工廠,補給廠

〃 豊田市 拳母 220 13~21 トヨタ自動車工業

三重県 四日市市 臨海 518 14~27 海軍燃料廠

兵庫県 姫路市 広 991 13~35 日本製鉄

山口県 光市 室積 71 17~35 海軍工廠

〃 〃 光 208 16~32 〃

宮城県 多賀城市 多賀城 15 18~21 〃 京都府 宇治市 宇治 684 16~

福岡県 苅田町 苅田 437 16~35 日本ソーダ,日立製作所

〃 春日市ほか 春日原 460 17~32 海軍工廠,九州飛行機 埼玉県 川口市 川口 474 15~

富山県 富山市 東岩瀬 386 14~

青森県 八戸市 八戸工業地帯 391 15~37 アルミナ

岡山県 岡山市 福浜 99 18~42 倉敷絹織,立川飛行機

和歌山県 和歌山市 河西 27 15~37 住友金属工業 長崎県 佐世保市 相浦 20 18~27 海兵団

〃 大村市 大村 23 18~25 海軍工廠,航空基地

〃 川棚町 川棚 250 19~ 〃

土木学会日本土木史編集委員会編『日本土木史-昭和16年-昭和40年』土木学会,1973,281頁による。

一部省略・修正した部分があるが,(いささか問題のある)「主要施設」はあえてそのまま記載した。

浦上地理 第1号 2014

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新興工業都市計画は単に戦時体制下の一事業ではなく,戦後につながる地域開発として注目し うるものである。例えば都市計画学者の越沢明は,新興工業都市計画について「新都市(ニュー タウン)の建設という我が国初の体験であり,戦災復興事業の計画標準の原型をつくり,日本住 宅公団の宅地事業,各地の臨海工業地帯,新産業都市の先駆けをなすものであった」という評価 を下している3)。また,広い意味での軍都の一種としても,これら新興工業都市計画の対象となっ た軍需産業都市は注目される存在といえよう。これまでも水内俊雄による和歌山や富山の事例4), 中野茂夫による日立市多賀の事例5)など新興工業都市を扱った研究が進められてきた。

本稿で扱う川棚は,新興工業都市計画事業の中でも事業開始が1944年と非常に遅い。また計画 の全容が明らかになっていないこともあろうが,近年刊行された『佐世保市史』では川棚の事業 区域について,「具体的に何かに利用されることもなく現在に至っている」と非常に低く評価して いる6)

しかし,新興工業都市計画に代表される軍需産業都市化が川棚に与えたインパクトは決して小 さなものではない。例えば元川棚町助役・元同町議会議長の池田良一は「海軍と県の都市計画事 業が一体となって道路などの町の整備をやったことが,川棚町の発展をつくったといっても良い」,

「都市計画事業も海軍工廠が出来ていなかったら始まっていない」と対談の中で語っている7)。『佐 世保市史』の否定的評価とは異なり,軍需産業都市化は川棚に明瞭なインパクトを与え,現在の 景観に織り込まれているのである。本稿は,戦前と戦後の地形図の比較から川棚における軍需産 業都市化の実態を示すとともに,今日それがどう残存しているか明らかにしたい。

Ⅱ 海軍工廠設置と町の変容

川棚には佐世保海軍工廠の分工廠が1942年10月15日に開庁した。魚雷の増産のために新工廠 建設が必要となり,佐世保海軍工廠造兵部水雷工場主任の坂本義鑑造兵中佐が各地を視察して川 棚を選んだという8)。太平洋戦争開戦直後の1941年12月17日に海軍建築部係官の巡視が行われ,

21 日には早くも買収協議会が開かれるというあわただしさであった9)。分工廠としての開庁後,

1943年5月1日に川棚海軍工廠として独立し,1944年4月1日には航空機用魚雷を扱う第一水 雷部と艦艇用魚雷を扱う第二水雷部に分かれている10)

一方,川棚新興工業都市建設事業は,「川棚新興都市建設土地区画整理」として1944年1月27 日付で官報に告示されている11)。『川棚町郷土誌』などによれば,現JR川棚駅から2㎞ほど内陸 の中山郷地区までの区画整理が計画され,計画人口は 5 万人であったという12)。ただし,官報に 示された「地積 約弐百参拾万坪」(約760ha)という予定面積は表1とは一致しないが,いずれ にせよごく一部しか実現しなかった。

都市計画に従事した人たちの回想を示しておこう。当時,川棚で都市計画業務に従事した人物 は,主な業務として「新駅前の整地並びに区画整理,江川橋の架橋,集団疎開地の選定,臨港線 の計画施工など」をあげている13)。また,長崎県の都市計画に長く携わった矢内保夫は,佐世保,

川棚,大村の「軍都整備事業」について「それぞれ10万坪以内に収縮してけりをつけた」と回想 している14)。なお,川棚の「10万坪以内」とは,駅前の栄町地区のことである。

工廠の設置で川棚はどう変化したか,工廠設置前と戦後の2枚の地形図からみてみよう(図1,

図2)。

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まず気づくのは,鉄道よりも南側の水田や集落が消え,新たな埋立地とともに,広大な空き地 となっていることである。これが海軍工廠跡地であることはいうまでもない。工廠建設前,ここ には廃止塩田の転じた水田が広がり,1928年に長崎日日新聞が主催した「県下海水浴場人気投票」

で三景,五勝に次ぐ十境に入選した15)海水浴場があった。

海軍工廠跡地は1950年に元の所有者に払い下げられたのち,1955年に長崎県土地開発公社が 再度買収のうえ工業用地として造成した16)。現在は主に工場や倉庫が立地している。工廠当時の赤 レンガの倉庫2棟,鉱滓レンガの元変電所の建物,警備員用防空壕入口などが現存している。

なお,戦争の激化に伴い,1944年初めから海軍工廠は内陸の石木川の谷に疎開を開始した(図 2の北東部)。現在でもトンネル工場跡や総務部防空壕,半耐爆型建造物跡が残されている17)。市 街地(鉄道と橋梁)は1945年7月31日に空襲を受けて69人の死者を出したが18),終戦まで工廠 には空襲の被害はなかった。

工廠の外をみると,川棚駅駅舎が線路の南側から北側に移され19),線路南側を走っていた県道は 工廠敷地になり,線路北側に国道や碁盤目状の市街地(栄町地区)が整備されている。栄町地区 は「工廠の納品商社や中心商店街の予定であった」20)というが,商店街の形を成したのは戦後にな ってからである21)。これらが直接的な新興工業都市計画の痕跡であり,それは決して小さなもので はないことがわかる。

工廠施設以外で最大の変化といえるのが,計画的な住宅地が付け加わったことであるが,これ については次章で検討したい。それ以外にも,海軍共済病院(1944年7月)を受け継ぐ国立療養 所(現,国立病院機構長崎川棚医療センター)や警察(警部派出所)など22)が海軍工廠時代に設け られた。また地形図からはわからないが,上水道も軍需産業都市化の遺産である。

Ⅲ 住宅地の形成と現状

上述したように,新興工業都市計画では区画整理を実施して川棚を人口 5万程度の都市にする 計画であった。そのような計画的な都市形成は画餅に終わったが,図1と図2を比較すると,図2 のA~D付近に計画的な住宅地が形成されていることがわかる。

これらはむろん工廠設置に伴うもので,Aは軍人・軍属の官舎地区,B~Dは工員住宅地区であ った。こうした住宅地形成もあって,8,000人足らずであった川棚町の人口は,工廠の最盛期には 2万数千人にまで達したとされる。

これら住宅地については『長崎県の近代化遺産』(1998年)に取り上げられている23)。ただし,

工廠,軍事施設と住宅にのみ言及され,軍需産業都市化全体を視野に入れたものではない。また そこに示された当時の「原形をとどめ」ているとされる住宅の戸数はわずか 20戸で,(理由は不 明であるが)明らかに少ない。

筆者の調査結果は図3と表2に示した。以下,A~Dの地区ごとに若干説明を補うことにする。

Aは軍人・軍属の官舎地区で,城山の斜面にいずれも木造の平屋 1戸建と平屋セミ・デタッチ ド(2戸連接)の住宅が並んでいた。西側に主に上級軍人の官舎があり,工廠長以下,階級によっ て敷地面積・住宅面積が異なっていたとされ,それは空中写真からでも容易にみてとることがで きる。なお,ここには水交社も立地していたが,戦後はカトリック教会になったのち建て替えら れている。一方,東側は軍人・軍属の官舎地区で,それぞれ同一設計の平屋1戸建(図4)と平屋

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図 1 工廠開設前の川棚 2万5千分の1地形図

「川棚」(1924年)を縮小。

図 2 戦後の川棚 2万5千分の1地形図

「川棚」(1954年)を縮 小,補記。

0 500m

A B

C

D E

F

G

(5)

37 セミ・デタッチドが整然と並んでいた。

B~Dはいずれも工員住宅地区である。そのうちB,Cは工員住宅整備のために隣接する彼杵村 から編入(1943年4月1日)した区域にまたがっていた。Bは木造1階建で2戸からなる長屋形 式の住宅(図5)が並んでいた。大半が低地に位置するが,東の方では斜面を階段状に整地して建 てられている。

図 3 工廠関係住宅地区の現状 太枠で示したのが残存する住宅。大きさ で完存,半分残存の違いを示した。A~D 地 区の概要,A の①~④の区別は表 2 を参照。

⑤は水交社跡。なお,住宅地区には空地や 関連施設も含まれ,すべてが住宅であった わけではない。

国土地理院標準地図 2500 に加筆・縮小。

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Cは木造2階建で1,2階がそれぞれ2戸からなる共同住宅(図6)で構成される地区である。

外観からみて2タイプあり,これは空中写真からもわかるが,表2では区別せず合計を示した。

元来は4戸が入居する共同住宅であるが,現在では上下の2戸分が1戸にまとめられて居住され ているようである。一部,池を埋め立てて造成された土地を含み,斜面を階段状に整地して住宅 地が建設された。

表 2 工廠関係住宅地区の旧状と現状 地区 住宅タイプ 米軍撮影空中写真(1947

年)に確認できる棟数

2012年の残存棟数 完存 半分残存 A

西 平屋1戸建 ① 17 1 ― 平屋セミ・デタッチド ② 6 0 0 東 平屋1戸建 ③ 50 15 ― 平屋セミ・デタッチド ④ 10 0 2

B 平屋2戸長屋 169 27 40

C 2階建共同住宅(4戸) 101 3 14

D 2階建共同住宅(4戸) 45 0 2

「米軍撮影空中写真(1947年)」は1947年11月2日撮影。2012年の残存棟数は筆者の調査(目視)に基 づき,部分的に2013年の調査で補っている。「半分残存」は,セミ・デタッチドと2戸長屋であれば半分の1 戸分,2階建共同住宅であれば半分の上下2戸分のみが残っているものを指す。

図 5 平屋2戸長屋の工員住宅 図 6 2階建共同住宅形式の工員住宅 表2・図3中のBの事例。2012年撮影。 表2・図3中のCの事例。2012年撮影。

図 4 平屋 1 戸建の軍人・軍属官舎 表2・図3中のA③の事例。2013年撮影。

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Dは西方に離れて位置する。丘陵を階段状に整地して,Cと同じ木造2階建共同住宅が建てら れていた24)

そのほかに,いずれも1947年時点ですべて取り払われているが,E,Fに徴用工員宿舎,Gに女 子挺身隊員と動員学徒の宿舎があった25)

これらの住宅地は,街路や諸施設とともに,戦後の川棚を支える重要なインフラになったとい える。さらに,それに加えて,引揚者住宅26)としての性格を持つことにも注目できる。佐世保は博 多に次ぐ引揚地で,1945年9月から1950年4月末(佐世保引揚援護局廃止)までの引揚者は139 万人に上った27)。彼らは浦頭検疫所に上陸ののち海軍兵学校針尾分校跡地(現,ハウステンボス)

の収容所に一時滞在し,南風崎駅から各地へ向かった。それら引揚者の中に,収容所からほど近 い川棚の旧工員住宅に入居する者がいたのである28)。海軍工廠の設立に伴う来住者29)とともに,彼 らは戦後の川棚の復興に一定の影響を与えたことが推測できよう。旧工員住宅(B~D)は 1970 年8月に国から川棚町が払い下げを受け,その後個人に払い下げられて現在に至っている30)

Ⅳ おわりに

以上,本稿では,長崎県川棚町における太平洋戦争中の軍需産業都市化に伴う景観変化とその 現状を素描してきた。川棚には本稿でもふれた工廠疎開工場群のほかにも,魚雷試験場跡,特攻 艇訓練所跡の軍事遺跡があって,比較的よく知られている。それらに比べて本稿でみてきた住宅 地や街路は決して目立つものではないが,今日の川棚の景観に大きな影響を与えた重大なヘリテ イジであるといえよう。

さて,Ⅰで示したように,長崎県内では大村,相浦も新興工業都市計画の対象となった。この うち,海軍航空廠が進出した大村においては,大規模な都市計画の立案と,大量の工員住宅建設 がみられ31),川棚とよく似た状況にある。一方,相浦(佐世保市)については,新興工業都市計画 の内容が全くといっていいほど明らかになっておらず,解明を進める必要を感じている。これに ついては別稿を期したい。

[付記] 本稿は東彼杵郡川棚町のみを対象地域とした調査報告で,「調査実習報告―佐世保市」にはそぐわない

内容になっている。上述のように本来含まれるべき相浦の検討が遅れたためであるが,佐世保工廠に関連した 事例としてここに収めた。なお本稿は,拙稿「軍事工業都市・川棚」(第57回歴史地理学会大会実行委員会編

『西彼杵半島・大村湾周辺の歴史遺産探訪―第57回歴史地理学会大会巡検案内』第57回歴史地理学会大会実 行委員会,2014)24-25頁 に加筆・修正したものである。

1) 「新興工業都市計画」区画整理6-6,1940,51頁。

2) 越沢 明「戦時期の住宅政策と都市計画」(近代日本研究会編『戦時経済(年報近代日本研究 9)』山川出

版社,1987)279-280頁。大村市,佐世保市も同様にこの事業の対象になっている。

3) 越沢 明『復興計画』中央公論新社,2005,140頁。

4) 水内俊雄「昭和初期から戦時期における都市開発と地域の変容―和歌山市を事例として」人文研究50,1998,

1-46頁。水内俊雄「近代日本の国土空間の生産をめぐる計画化思想とその実践―地方利益と都市利益の相克」

(山室信一編『空間形成と世界認識(帝国日本の学知第8巻)』岩波書店,2006)196-234頁。

5) 中野茂夫『企業城下町の都市計画―野田・倉敷・日立の企業戦略』筑波大学出版会,2009。

6) 佐世保市史編さん委員会編『佐世保市史通史編下巻』佐世保市,2003,307頁。

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7) 池田良一・岡村幹夫「対談 川棚物語」(川棚町編『かわたな夢・未来―町制施行60周年記念誌』川棚町,

1994)3頁。なお,岡村は町長。

8) 坂本義鑑「佐世保随想」(高村勝一編『思い出―佐世保海軍工廠水雷工場』佐世保二水会,1979)121頁。

9) 喜々津健寿『川棚物語』川棚町,1972,206頁。

10) 佐世保市史編さん委員会編『佐世保市史軍港史編上巻』佐世保市,2002,438頁。

11)「内務省告示第三十八号」官報5109,1944,458頁。

12) 川棚町教育委員会『川棚町郷土誌』川棚町教育委員会,2002,202頁。

13) 竹林勝則「新駅前の整地や江川橋架橋 初めての川棚」(川棚史談会『戦後60年私たちの記憶』川棚史談 会,2006)76-78頁。なお,竹林氏は1944年4月に長崎県都市計画委員会川棚事務所に着任。

14) 矢内保夫「長崎の復興事業」新都市15-11,1961,45-47頁。なお,吉川 厳氏による「軍都整備都市計 画で喰い散らかした,大村,川棚,佐世保の相の浦の跡始末にも追われ,私が川棚,相の浦の担当でした」

という回想もある。石丸紀興『長崎市の戦災復興計画と事業―いくつかの談話と資料等による記録』石丸紀 興,1983,19頁。

15) 喜々津健寿『川棚歴史散歩(筑紫文庫 7)』,芸文堂,1986,41頁。

16) 長崎県高等学校教育研究会地歴公民部会地理分科会編『長崎県の自然と生活改訂版ふるさとレポート』啓 隆社,2002,102頁。

17) 村田明久「川棚町の旧軍施設」(長崎県教育委員会編『長崎県の近代化遺産』長崎県教育委員会,1998)

156-158頁など。

18) 前掲12)203頁。

19) 駅舎の完成は1946年7月。長崎県自治調査センター編『年輪-県北編』長崎県自治調査センター,1979,

59頁。

20) 前掲12)202-203頁。

21) 1948年4月に商店街が設立。前掲12)439頁。

22) このほかにも,いずれも現存しないが,憲兵分隊(戦後は澱粉工場,のち農協選果場),工廠工員養成所

(戦後は川棚農学校,のち住宅団地)などがある。

23) 前掲17)。

24) 『長崎県の近代化遺産』は,このDにある木造1階建の住宅が「百津から疎開移転したものである」とし

ている。前掲17)156頁。確かに百津(B)と類似する長屋形式の住宅がみうけられるが,『川棚歴史散歩』

掲載の写真(「海軍工廠の白石工員住宅〈昭28〉」というキャプションあり,前掲15)188頁。同じ写真が 川棚町歴史民俗資料室に展示されている)と1947年11月2日米軍撮影の空中写真から,戦後しばらくはD には2階建共同住宅のみが建っていたと判断した。すなわち,『川棚歴史散歩』の写真は正確な撮影位置は 明記されていないが,Dの北東部を北西から撮ったものと判断できる。さらにこの写真には2階建共同住宅 が並ぶ様子が写っており,現在は百津(B)と類似する住宅がある位置にも2階建共同住宅があることが確 認できる。また,空中写真からは1階建か2階建かははっきりしないものの,一帯が同じタイプの建物と判 断できる。従って,戦後かなり経ってからBからDに移築されたことは考えられるにせよ,「疎開移転」と 表現されるような戦中のことではなかったと判断できる。

25) 前掲12)202頁。Fは現在川棚高校の敷地になっている。

26) 島村恭則「引揚者が生みだした社会空間と文化」(島村恭則編『引揚者の戦後(叢書戦争が生み出す社会

Ⅱ)』新曜社,2013)11-100頁。

27) 佐世保市史編さん委員会編『佐世保市史軍港史編下巻』佐世保市,2003,345-383頁。

28) 『川棚町郷土誌』によれば1949年10月時点での川棚町の引揚者の総数は1917人(603世帯)。前掲12)

206頁。

29) 佐世保海軍工廠関係者は「佐世保から川棚に移籍した人の中にこの地に定住する者が多い」と述べている。

伊藤憲士「工場史Ⅲ 工場作業の変遷」(高村勝一編『思い出-佐世保海軍工廠水雷工場』佐世保二水会,

1979)235頁。

30) 前掲12)215頁。

31) 第二十一海軍航空廠殉職者慰霊塔奉賛会編『放虎原は語る―大村大空襲と第二十一海軍航空廠』大村市,

1999など。

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