1
。
ノ、
第I期
第E期 一O
月一 五日 (士 )一
O月
三一
日(
月)
一一 月一 日( 火) 一一 月一 一二 日( 日)
平城宮跡資料館秋期特別展
地下の正倉院展式部省木簡の世界
ー役人の勤務評価と昇進│
第 E 期展示木筒
第皿期
一一
月一
五日
(火
)│
一一
月二
七日
(日
)
※本解説シ
lト
では
︑今
回の
展示
にあ
たり
再検
討し
た結
果︑
報告
書の
釈文
を改
めて
いる
場合
があ
りま
す︒
I 勤務評価に使われた木簡
のであろう︒﹁去出﹂をやや右に寄せて書いているのは︑その左側には﹁今O﹂と今年の評価を書き込むための余白である︒また︑姓名に続く割喜の年齢・本貫地の下には︑今年の上回数(出勤日数)を書き込むための余白が設けられている︒今年の資料がなくてもわかる部分は先に書いておいて︑出勤日数や決定した評価が追記されるのであろう︒理由はわからないが︑この木簡は今年の情報を書き込む前に︑再利用されることもなく廃棄された︒孔が表面に近い位置にあることは︑何度か削って使用されたことを示す ︒
‑ v し ち ゃ
︿ し し よ し
﹁位子﹂は六位から八位までの役人の月評弘官際には庶子も含加戸才能に応じさらに試験を行った上で大舎人(天皇の従者)・頃補(天皇を守衛し行幸に従う兵士︒夜は京内山古川警も担当)・使部(諸司の雑役に従事)などに任じられた︒﹁元位﹂(﹁元﹂は﹁無﹂の異体字)は位がないということであるが︑二一O階ある位階のさらに下の一つの位階として機能したJ
てん
Uょ
う
国名ヤマトの表記は︑大倭←大養徳(天平か
F
克 三 七 二
二月から天平一九年三月まで)←大倭←大和(天平宝字元年︿七五七﹀頃以降)という変遷がある︒東西溝
S
D四 一
O
の大部分は天平宝字末年から宝亀初年まで(七六回i O出土木簡
七七
O )
のものであるから︑﹁大和国葛上郡﹂の表記はこれと整合する)
ga
律令制に基づく役人の勤務評価には︑毎年の評価である考課(単に﹁考﹂ともいう)とその一定年数分の積み重ねによる位階昇進
12 考
課(毎年の勤務評価)に使われた木簡3
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土
︒﹃ 平城 宮木 簡五
﹄六 四六 八号
︒
以下︑宮五六四六八のように略す)
︹ 叶
ヵ ︺
去 出 年 口 四
位子尤位同車造梶訳
大和国葛上郡
長 さ
( 一
二 二
O )
皿・
幅(
一八
)皿
・厚
さ二
一皿
O一
五型
式
や ま と か ず ら き の か み
駄加国葛上郡(今の奈良県御所市の大部分にゐ社特抽湖
γ
に本貫地(戸籍の所在地)のある︑三四歳とみられる日置造梶訳という役人の勤務評価の木簡︒完全に近い形で残る勤務評価の木簡の一つロ保存処理をまだ行っていないため︑水漬け(防腐剤としてホウ酸・ホウ砂の入った0・三%程度の水溶液)の状態で展示す
る︒
こ う
︿ り し ん せ ん し ょ う じ ろ
︿
日置造氏は高句麗
P A
拘瀧擁深持族(﹃新撰姓氏録﹄)︒葛上郡には日置郷があり(﹃和名類衆抄﹄)︑日置造氏の本拠地だったの
だろ
う︒
きよしゆっ﹁去出﹂は去年初めて役人として出仕したことを示すロ恐らく勤務日数などの関係で去年はまだ勤務評価の対象とならなかった
2
せんじよの評価である選叙(単に﹁選﹂ともいう)の二種類があり︑これは考課木簡の例︒いずれも役人一人ずつの個人カlドの体裁をと
るの が特 徴で ある
︒
また︑勤務評価の木簡は︑考課・選叙どちらの場合も側面に貫通する孔があるのが普通︒個人カlドの木簡を多数横に並べ︑紐を通して順序を固定するための工夫である︒この木簡の場合は︑上端から一一六皿の位置に孔があいている︒径は約四皿︒焼け火箸状のものであけた痕跡がある︒下端は折れ︑左辺は割れ︑右辺は二次的に削っている︒縦に二片に割れており︑左半分は右半分より上下の欠失部が多い︒裏面は孔より下が剥離した状態だが︑廃棄の際の剥離にしてはきれいで︑意図的に剥がしたり削ったりしている可能性がある︒
13 考
課(毎年の勤務評価﹀に使われた木簡の断片7
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四│三人
O
ニ
去不
従 八 位 円
長さ
(四
九)
皿・
幅二
O
皿・
厚さ
一
O皿O
一五
型式
従八位(上または下)某の考課木簡の断片︒孔は木簡の上端から四三皿の位置にあり︑径は約五円焼け焦げの痕が見え︑焼け火箸状のもので孔をあけたとみられる︒何度も削って再利用するうちに︑孔が木簡の表面に出てきそうになり︑孔の部分に刃を入れ︑折って廃棄したものである︒側面に孔をもっO一五型式の木簡の断片は︑ほとんどが孔より上部の断片である︒これは恐らく︑下部はまだ他の用途の木簡に再利用できたからであろう︒つまり逆にいえば︑こうした廃棄が行われたのは︑折れやすい孔の部分を除去して︑使える部分を別
の調 拍車 ふの 木簡 に再 利用 する ため だっ たと みる こと がで きよ う︒
﹁去不﹂は去年︑評価の対象外であったことを示す︒今年の評
価は 書か れて いな いロ 14 考
課(毎年の勤務評価)に使われた木簡の断片8
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒官四│三八
O一 二
)
去上
﹁ 今
上 ﹂
(裏
)口
大初円
( 表
)
長さ
(七
二)
皿・
幅一
一六
皿・
厚さ
人皿
O
一五
型式
だ い そ い
大初位(上または下)某の考課木簡の断片︒孔は木簡の上端から六五皿の位置にあり︑径は約三皿︒焼け焦げの痕が見え︑焼け
火箸 状の
・も ので 孔を あけ たと みら れる
︒
間と同じく孔のところで折られており︑孔が木簡の表裏面に対して水平ではなく︑斜めにあけられていることがよくわかる︒左側面では孔は裏面に近い位置にあいているが︑右側面では表面に顔を出す位置にある︒表面を削ればまだまだ再利用できるはずであるが︑そうすることなく廃棄されたのは︑斜めにあいている孔
の調炉付らさのためかも知れない︒﹁去上﹂は︑去年の評価が上中下の三段階評咽初仕等であった
ことを示す︒左上部にやや薄い墨で書かれる拝包﹂は︑今年
の勤務評価を余白に書き込んだもの︒裏面にも合点状の墨痕がみ
られるが︑意図は不詳︒
15 考
課9(毎年の勤務評価)に使われた木簡の断片
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒官四三八
O五
)
( 表
) 去
上
(裏
)口
長さ
(二
六)
皿・
幅一
一六
皿・
厚さ
五皿
O
一五
型式
3
考課木簡の断片︒孔は木簡の上端から左辺で二=一皿︑右辺で二一皿の位置にあり︑真横方向ではない︒径は約三円焼け焦げの痕が見え︑焼け火箸状のもので孔をあけたとみられる︒孔の部分で折って廃棄した勤務評価の木簡としてはかなり薄い部類に属する︒去年の勤務評価部分のみが残り︑今年の評価は書かれていない︒裏面にも墨痕がみられるが︑意図は不詳︒
16
者選木簡を再利用した式部省の召文
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮六八四九七)
(表
)式
部省
口
召度 品
目 百
万 呂
︹尺
カ︺
︹ 召 カ
︺
︹ 緩 カ
︺
口今口急向参其口々
( 裏
)
U
月九日長 さ
( 二
二
O ) 皿
・幅
三四
皿・
厚さ
一二
皿
O
一九
型式
( O
一五
型式
)
し き
ぷ し
よ う
一 さ
か
bE
の あ
ぎ ま
ろ
め拭官省が尺度品百万昌に急いで省に来るよう命じる呼び出し状(召文)の木簡ロ上端と左右両辺は削りの原形を留めているが下端は折れて欠損している︒上端から五九皿の位置の側面に径約五皿の穿孔がある︒勤務評価の木簡を別の用途に転用したもの︒使
用できないほど孔が表面に出てきているわけではないので︑作り置きしであった考選木簡を拝借した可能性もあるかも知れない︒全体に腐蝕が著しく︑判断が難しいが︑用件などの記載はなさそうである︒尺度比司万呂がどのような人物かも不明︒勤務評価に関わって呼び出しを求められたのかも知れない︒なお︑尺度は坂
l vみ
き
門・坂戸とも書く︒尺度と表記する例としては︑尺度忌寸人口(宮七一一一O二六)︑尺度君万呂(﹃平城宮発掘調査出土木簡概報﹄二四︑七頁上段︿二三﹀︒以下︑平城木簡概報二四七上︿二三﹀
のように略記)などがある︒
E
考選木簡の削屑の世界
81
考遺木簡の長大な削暦5
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮四四二九四)
︹勲 三
口位内蔵真嶋
円
U
右大臣
口 口
O九
一型
式 東西溝
S
D四 一
OO
の木簡の大部分を占める天平宝字末年から
陪 う き
宝亀 抗悼 の
h抗
日ハ
四 1
七七
O )
までの時期に右大臣に任締法﹂れたのは︑藤原豊成(天平宝字八年き沌
F
咽﹀し仇戸持︑同永手(天平神護二年︿七六六﹀正月任)︑吉備真備(神護景雲三年︿七六八﹀十月任)の三名である︒勤務評価の木簡の書式としてはやや不自然で︑別類型の木簡の削屑の可能性がある︒82
考還木簡の長大な削暦6
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
O
O出土︒宮五│六六一五)
年五十二
野守
山背園相楽郡
O九
一型
式 和
束山宮 町背主 国 精相主 華楽主 町 郡
胃 、?は
城の山 今
村京
な 却Eど扇
主
に 南要 品 ま
堵珂市
と 相 楽 郡 笠 置 町 83
考遺木簡の官職部分の削暦6
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒官五七
O六
六)
4
︹ 留
カ ︺
資人口O
九一
型式
しじんりゅうしよう﹁資人留省にか乍続く部分の削屑であろうロ留省は︑本主(主人)の唱法や解官によって職を失うなどして︑式部省付きになっている資人(玉位以上の諸王・諸臣︑大臣・大納言などに与えら
れる
従者
)︒
84
考還木簡の官職部分の削屠7
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土
︒宮 五│
七OO
九)
方大舎人
O九
一型
式 85
考還木簡の官職部分の削屠8
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮玉│七八八六)
︹ 造
方 ︺
口車内内司O
九一
型式
ぞd
Jb
れているが︑東区北方の内裏を指す可能性も否定はできない︒ と同じ意味とみられ︑一般に平城宮東院に置かれた施設と考えら ﹁造東内司﹂は平城宮の東内の造営を担当した役所︒東内は東宮 うだいしkcうぐう
造東内司と山一わ珪肺現γ
既に平城宮出土木簡にみえ(宮三三
0
会﹃西大寺旧境内発掘調査報告書一﹄二O 内から出土した木簡により明らかになっている(奈良市教育委員 0六)︑また石上宅嗣が長官を務めていたことが西大寺旧境
一三 年)
︒東 内の 造営 は
神護景雲元年(七六七)末から同三年初めにかけて行われた︒ この削屑は﹁内﹂が重なっており︑習書の可能性もあるが︑造東内司に勤務した役人の勤務評価の木簡の一部と考えておく︒
86
考遺木簡の位階・人名部分の削屠4
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮四│四四九三)
円
〕
︹万
呂ヵ
︺
口口口口﹁初位額四台麻呂﹂
O九
一型
式
人名とみられる記載が連記されており︑習書の可能性もあるが︑ここでは勤務評価の木簡の一部とみておく︒
87
考遅木簡の位階・人名部分の削屠5
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒官四四三六八)
従七位下在
O九
一型
式 88
考遅木簡の人名部分の削屠2
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒官五七五五一二)
︹虫
麻カ
︺
枇益口口
O九
一型
式
ひ と か は ね お ぴ と ふ ひ と て ん び ょ う し よ う ほ う さ い
﹁謹トラ抑噛で︑元は﹁首﹂あるいは﹁申じい天平梅宝九歳
(U
天平宝字元年︿七五七﹀)に聖武天皇の詩である首と︑藤
&
O K
原不比等の名を避けるため︑姓の首・史を﹁耽登﹂に改めたらし
5
し ょ
︿ に ほ ん ぎ ほ う き
い(﹃続日本紀﹄宝亀元年︿七七O﹀九月壬戊︿三日﹀条)︒しかし︑実例による限り︑その後も首・史を称し続ける例も多く︑実際に﹁枇登﹂に改められたのは天平宝字五年(七六二前後と
もい
われ
る︒
日開
(E
期展示)にも類例がある︒
89
考還木簡の人名・年齢・本買地部分の削屑2
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四四
OO
八)
口〔 口 川
造力口背
豆 〕
カ ロ 比 近 年 〔
江 口 ‑ H I f "
園 口 四
犬ロ
ヵ上 口
11
O九
一型
式
お う み い ぬ か み
近江国犬上郡は︑今伊鳴門調謀議拍幡市と犬上郡甲良町・捗噴町・
豊郷町にわたる地域︒﹁川背造豆加比﹂のうち︑﹁造﹂は止しせ山恒刷枇↑こが名︒長屋王家木簡に︑近江国犬上郡に本貫をもっ川背舎人造氏の事例がある(﹃平城京木簡﹄一│七一など)︒
90
考還木簡の人名・年齢部分の削屠1
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮五六九一九)
口 年
サ ム
ハ
O九
一型
式 91
考還木簡の人名・年齢部分の削屠2
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土
︒宮 四│
O四
五七
)
年六十
口 口
︹麻
呂カ
︺
O九
一型
式 92
考遅木簡の本貫地部分の削屠4
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒官五六七四四)
波 国 多 紀
O九
一型
式
た ん ぱ た き
﹁丹波国多紀郡﹂と続く部分の削屑であろう︒丹波国多紀郡は︑
今の 兵庫 県篠 山市
︒ 93
考選木簡の本貫地部分の削屠5
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮四│四
OO
三)
口蔵
困
O九
一型
式
むさし
﹁武蔵国﹂と続く部分の削屑であろう︒武蔵国は︑今の東京都
と埼玉県︑及び神奈別保の一部︒微細な墨痕のため詳細は不詳だが︑勤務評価木簡の本貫地部分の記載であれば︑左行に墨痕は来ないのが普通なので︑勤務評価木簡の削屑ではない可能性も否定
はで
きな
い︒
94
考遅木簡の上回数部分の削暦3
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮四三九
O八
)
6
︹ 百
方 ︺
上回二口O
九一
型式
95 考課木簡の前年評価部分の削屠
3
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮五六四四六)
去 不
O九
一型
式
き ょ ふ
﹁去不﹂は︑去年は勤務日数が不足するなどして評価の対象とされなかったことを示す︒
96 考課木簡の前年評価と位階部分の削屠
2
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四三人二九)
会 中
︹ 上 方
︺ 従八位口
O九
一型
式 あ
ハ 「
ぶ 去t
こ中?
と 」を は
耳て 、
す 去 年の 評 価 が 段 階 評 価 上 中 下
の中等で
97 考課木簡の今年の評価部分の削屠
3
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四│三人二五)
︹ 上
方 ︺
今日
O九
一型
式
あ
る Xぃ
E
~寸ま上 ;
を」
示 は
す。今
年 の 評 価 が 段 階 評 価 上 中 下
の上等で
98
選叙木簡の考の年数・上回数部分の削暦
3
(三
一一
次補
︑ S
D四 一
OO
出土
︒宮 五│ 六二 三一 二)
四考回一千七十二
円 U
O九
一型
式
選叙の期限内の出勤日数の合計を記した部分の削屑︒﹁考﹂の﹁四﹂は選叙の対象となる年数で﹁四考﹂は四年分を示し︑﹁日﹂以下の数字はその聞の出勤回数の合計︒
99 還叙木簡の考の年数部分の削屠
2
(三
一一
次補
︑ S
D四 一
OO
出土︒官四三七七五)
五考口
O九
一型
式 1
∞
選叙木簡の上回数部分の削暦
3
(三
一一
次補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮五六五一
O )
口町一千二百口
O九
一型
式 101
選叙木簡の考の内訳部分の削屠
3
(三
一一
次補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮五六二四七)
7
口 四 上 等
O九
一型
式
選叙の期限内の評価の内訳を記す部分の削屑︒上等騨畑任四年分受けていることを示す︒六年で選叙の評価を受ける内分番(中央の非常勤の役人)の場合であれば︑残りの二年度分の結果が左行に﹁二中等﹂︑あるいは二中等/一下等﹂などと書かれていた
はず
であ
る︒
102
還叙木簡の昇進位階部分の削屠2
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮五│六二七八)
︹外
力︺
口 今 投 口
O九
一型
式
いま会ず︿﹁今授﹂は選叙の評価による叙位の結果を示す︒木簡中程に書かれる場合は︑木簡上端の余白に書かれる場合(聞など)とは異
なり
︑﹁ 位﹂ を省 かず
︑上 に﹁ 今授
﹂を 伴う (宮 五六 一一 七一 など )︒ 103
還叙木簡の本貫地・昇進位階部分削屠2
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四三七九二
︹今 技力
︺
口 口
︹ 白人
郡力
︺
O九
一型
式
ほんがん﹁口︹郡カ︺人﹂は本頁地記載の末尾︒右側には年齢が書かれていたはずである︒本貫地の園郡名や左・右京のあとに﹁人﹂を 書くのは︑類例からみると︑選叙の木簡の大きな特徴である︒
104
遅叙木簡の本貫地部分の削暦4
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒官五│六五三八)
方京人
O九
一型
式 105
運叙木簡の本貫地部分の削屠5
竺=
一次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒官五│六七五九)
口国名草郡人
O九
一型
式
﹁紀伊国名草郡﹂とみられる削屑︒紀伊国名草郡は︑山県和歌山市の大部分と海南市の一部︒ 今の和歌
106
選叙木簡の昇進位階(略式)部分の削屠4
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮五六二九二
今正六下
︹五
カ︺
口
O九
一型
式
い ま し き う ろ
︿ げ い ま さ ず
︿
上端と左辺は木簡の原形を留める︒﹁今正六下﹂は︑﹁今厚担
任加位下﹂の略で︑今年年限を満たして位階昇進の対象となり(成選)︑正六位下を授けるの意︒選叙の評価による叙位の結果を勤務評価木簡の上端に記入する場合には︑このように﹁授﹂と﹁位﹂を略した書式が用いられるロ
千 七
十二日 一 考
四98
五 考
99日 一 千
二百
100 四上
等
101
今 授 外
102郡
人今 授
103右 京 人
104国 名 草 郡
人105今
正六 下
五
106今 少 上
107
叙位の結果 官職位階
年齢 姓名 考の年数 本貫地
通算出勤日数 考の内訳
官職 位階
年齢 姓名 本貫地+ ﹁人﹂
叙位の結果
︵略式︶
野 守 年 五 十
二山 背 国 相 楽 郡
82
資
人留
83 右大舎 人
84造 東 内 内 司
85従
七位 下 在
87毗 登 虫 麻
88背
川造 豆
加比年
卌四近
江国
犬上89年
廿六
90麻 呂 年
六十91波国多 紀
92蔵 国
9394 上日二百
去 不
95去 中 従
八位 上
96今 上
97前年の評価 今年の評価 官職
姓名 位階 年齢 本貫地
出勤日数
選叙木簡1 選叙木簡2
Ⅱ章の削屑が考選木簡のどの部分にあたるか、模式的に示した。なお、官職・位階・姓名・年齢・本貫地の五項目は、個人カードとしての勤務評価の木簡に共通する記載事項であるため、この部分のみでは考課・選叙いずれの木簡の削屑かは判断できないが、便宜上、考課木簡として示した。
考課木簡
8
9
107
還叙木簡の昇進位階(略式)部分の削屠5
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮五│六三三三)
今少よO
九一
型式
四周とも木簡の原形を留めてはいないが︑附と同様に新位階を略式で記すので︑選叙木簡の上端左よりの部分の削屑とみられる︒
﹁今少上﹂は︑﹁今津抄抑位上﹂の略で︑今年年限を満たして位階昇進の対象となり(成選)︑少初位上を授けるの意︒少初位上は︑
コ 一
O階ある位階の下から二番目︒
108
特別の叙位に闘わる削屑3
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四三七七二
︹ 叙
カ ︺
進七階口O
九一
型式
理由は不詳だが︑七階級特進の叙位に預かったことを示す記載てんびょうが残る削屑︒下級役人の特別の叙位としては︑天平一二(七四九)年四月)日に︑従七位上から六階級昇進して正六位上になっさえ舎の
LE
み し さ ん ぎ
た佐伯今毛人(のち造東大寺司長官などを経て参議にまで昇る)の例(﹃大日本古文書﹄(編年)二五︑八八頁)などが知られる︒
109
﹃省符﹂と年紀の書かれた削屠3
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四│四一四四)
符
︹ 三
ヵ ︺
﹁景
品芸
口年
十月
五日
﹂
O九
一型
式
﹁符﹂の上には︑類例からみると︑﹁省﹂の文字があったとみられる︒﹁省符﹂(式部省符)と同じ日付の組み合わせの削屑が複数あり︑何らかの勤務評価の木簡の一部とみられるが︑具体的な喜﹄げいうん式は不詳︒﹁景雲三年﹂は神護景雲三年(七六九)のこと︒
110
特別の叙位に関わる削屑4
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮五六二一一九)
︹ 投
カ ︺
年特口
O九
一型
式
1 1 1 式部省で使われた横材の削屠5
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮四四二六八)
4 S
時〔ゐ母
口口
;!>rJ
? 挙
O九
一型
式
112
式部省で使われた横材の削屠6
( 三
一 一
次 補
︑ S
D四 一
OO
出土︒宮四│四八一七)
〔母キ〕
口
口口
口口
ロロ
口口
O九
一型
式
10 E
式部省木簡の広がり
大学寮解
直講正八位よ濃宜公水通 中宿直官人事
天平宥字八年口月十一日
︹ 九
ヵ ︺
長さ
二四
一皿
・幅
三ゴ
一皿
・厚
さ三
回
O
一一
型式
簡︒大学寮は︑役人の養成機関である大学を管轄する役
所 ︒
京内
の左京=一条一坊(または右京三条一坊)にあっ北花拷えられてい
る︒ 宿直 は︑ 夜勤 (宿 )と 日用 よれ 暗む かん の総
所
γ
官 講 は
︑ 博
士・
助教を補佐する大学寮の教官︒令外官で︑天平二年
(七三O)に四人を置いたのに始まる︒!'の
曹 の き み み ず み も し よ う じ よ う
Lh鴻誼公水通﹂は後に大学少允(昂三噂惜)曹に閣は謹ルいんさらに信濃介に転出したことが知られる(﹃続日本紀﹄神護景雲二年
︿ 比 玖 仏 戸
︑ 月 壬 申 朔
︿ 一 日
﹀ 条 )
︒ ふ じ わ ら
のな
か ま
ろ天戸程浮汎年は七六四年で︑えた吻点初切月十一日は藤原仲麻日(恵美押勝)の乱が勃発し︑駅鈴と内印をめぐる争奪戦があっ
た当日である︒そうした緊張した政情を背景に考えると︑
この
木簡にも︑また違った側面が見えてくるだろう︒
143
大学寮から宿直担当者を報告する木簡
3
(三
二次
補︑
S D四 一
OO
出土︒宮四│三七五三)
だ い が
︿ り ょ う し き ぷ し よ う
大学寮が上級官司の式部省に対し︑宿直担当者を報告した木
144 散位寮から宿直担当者を報告する木簡
3
( 三
一 一
次 補
︑ S D四 一
OO
出土
︒宮
四│
一一
一七五 六)
下 犬 ( 表 ) 大 属 正 六 位 勲 六 等 県 養 宿 祢 散 位 寮 解
・ ・
・ 宿 直 官 人 事
﹁ 注 羽 人
﹂ ( 裏
) 散 位 寮 解 ・
・ ・ 中 宿 直 官 人 事
︹ 属
ヵ ︺
U 口
円
︹ 勲
ヵ ︺
︹
a
尽
力 ︺
︹ 宿 祢 ヵ
︺
U 口
門 U
口 円
U 口
口 ﹁ 口 口
﹂
︹ 清
人 ヵ
︺
神護景雲四年六月八日
長さ
(四
九十
一八
七
)皿
・幅
(一
九)
皿・
厚さ
二皿
O八 一
型式
さ ん に り ょ う し き
Sしよう
散位寮が上級官司の式部省に対して宿直担当者を報告した木
簡︒宿直については間など参照︒散位寮は︑散位(位階を持ちな
がら特定の官職に就いていない役人)を管轄する役所で︑本寮に詰める六位以下の散位たちの勤務差配などを行った(なお︑﹁散位﹂は素直に音読みすると﹁さんい﹂となるが︑慣習的に﹁さんに﹂と読むことが多い︒ちなみに︑位階のひとつコニ位﹂は﹁さんみ﹂
じ ん ご け い う ん し よ
うと︿と読む)︒神護景雲四年は七七
O
年で︑八月四日に称湘
一吠皇が崩御し︑その後の光仁天皇の即位に伴い︑一
O
月一日に宝亀と改元され
た︒
材は反対面の文字が透けて見えるほど薄く︑現状では王片に分かれている︒そのため︑削屑と同様にプレパラートに封1V
ん打
保
管している︒これほど薄い板材としては︑不用になった槍扇に
11
かな め
墨書している可能性などが考えられるものの︑要の孔など槍扇に特有の加工はなく断定はできない︒今回展示する東西溝SD四一
OO
出土の式部省への宿直報告木簡には厚さの薄いものが多い
(川
︑川
︿
I期
展示
﹀︑ 閣︿
E期
展 示
﹀ 一 円 市
︿
I期
展示
﹀︑
旧 叩 : 二
皿
o
m
︿E期展示﹀︑同:士一皿︒四五期展示﹀・:五
皿︒すなわち︑九点中三皿以下のものが六点を占める)ロあるいはこれも何度も削って再利用していることによるものであろうか︒表裏とも同一の内容が記されているとみられる︒ただ︑表面の﹁下﹂や﹁犬﹂は書き落としたものを行の右側に追記しているようであり︑まず表面を記したのち︑脱字に気づいて裏面に改めて書き直した︑などといった場面も想定される︒しかし︑そのように考えると︑表裏とも﹁清人﹂の三文字が自署(自筆のサイン)風なのがやや説明しにくいかも知れない︒自署したあとで脱字に
気付 いた ので あろ うか
︒ 145
宿車担当者を報告する木簡の断片2
(三
二次
補︑
SD
四一
OO出土︒宮四三七五九)
裏 表
U
宿 神 直 護 官 景 人四 大雲 事
円 属 円
長さ
(七
五)
皿・
幅(
一一
)皿
・厚
さ二
回
O八一型式
しきぷしよう
小さな断片だが︑他の類例から︑式部省が管轄した役所から
式部省宛てに出された宿直担当者を報告す片山吠書木簡の一部とみられる︒式部省の管下にあったのは大学・散位の滴寮のみで︹文学寮については叩散位寮については叫を参照)︑九勝は眠・出町
の崩咽噂措であるから︑差し出しはそのい却炉河川も矛盾はない︒神護景謹畑年は七七O年で︑八月四日に#門戸天皇が崩御し︑その後の光仁天皇の即位に伴い︑一O月一日に宝亀と改元された︒いわゆる四字年号が用いられた最後の年である︒ 左右両辺とも欠失しているため︑文字はいずれも半分ないしそれ以下しか残らない︒特に︑表面の﹁大属﹂や裏面の﹁神護景雲四﹂は:::同・糊などを参照しながら︑ぜひ判読に挑戦してみて
いた だき たい
︒ 146
練労銭(資銭)の付札7
( 二
= 一
次 補
︑
SD
四一
OO
出土︒宮六九
O五
九)
(表 )位 子山 辺君 忍熊 本貝 銭五 百文
﹁勘
瓶原
泉人
﹂ 神亀五年九月七日
長さ
一六
一皿
・幅
二
O
皿・
厚さ
四皿
裏
O三二型式
や ま ペ の き み お し
︿ ま し せ ん し ょ
︿ ろ う せ ん
山辺君忍熊が納めた資銭の付札︒資銭は続労銭ともいい︑特定の官職に就いていない者がその年の勤務評価を受ける資格を得
るため︑勤務する代わりに納める銭のこと(制渡吃のものを指す場合もある)︒一年玉
OO
文が定額であった1位子は六位から八
ち ゃ く し し よ し
位ま付切役人の嫡子を指すが︑実際には庶子を含む場合もあっ
た︒神亀戸評料些ま玩年︒
裏面の瓶原東人は収納を担当した式部省の役人で︑川(I
期展示)にも見える︒﹁瓶﹂は﹁義﹂の異体字﹁戎﹂を用いているが︑﹁塾原﹂姓の事例はなく︑﹁瓶﹂ど判断している︒﹁勘瓶原けんきょう東人﹂部分は他とは筆跡が異なり︑検校(チェック)を終えた際に追記された東人の自署(自筆のサイン)であることを示して
い る
文字はよく整い読みやすく︑また表裏とも下端までのスペース 面から裏面に移る際にもう一度墨をつけ直しているようである︒ 裏面の﹁神亀﹂は表面の﹁位子﹂と同じくらい墨が濃いから︑表 でを一息に書き︑ここで一度墨をつけ直したのであろう︒また︑ 百文﹂からは少し墨が濃くなっている︒﹁位子﹂から﹁資銭﹂ま 墨の濃淡に着目すると︑黒々とした墨痕が徐々に薄くなり︑﹁五 ︒
12
を意識してバランスよく割り付けられているロ特に表面はきちんと切り込みの下から書き始めており︑これなら紐を掛けても文字が隠れる心配はない︒四周もしっかり削り整えられ︑上端の切り込みは形や大きさ︑位置とも左右でほぼ対称︒全体に丁寧な作り
が目を引く付札である︒
147
続労舗の付札8
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮六九
O六
O )
(表 )尤 位笠 取直 龍銭 五百 文 (裏 )神 亀五 年十 月一 日﹁ 勘物 部口 足﹂
長さ
一七
四皿
・幅
二二
皿・
厚さ
四皿
O三
二型
式
かさとりのたつ笠取龍が納めた銭拘鮒凱︒税目などは書かれていないが︑類例中挫額からみて︑続労銭に付けられたものであろう︒続労銭は資銭ともいい︑定員オーバーで官職に端初唯かh吃六位以下の役人や位子(六位から八位までの役人の嫡子︒庶子を含む場合もある)などが納める銭のこと︒これにより位階昇進判定の対象
となる資格(考)をつなぐことができる︑文字どおり﹁労﹂を﹁続﹂
ぐための﹁銭﹂であった︒
‑ ん き も の の ペ
裏面の神亀五年は七二八年︒﹁勘﹂は検収の意味で︑物部某はこの続労銭の検収担当者︒﹁勘物部口足﹂の部分は銭の収納に際し
て相王者自身が追記した自署(確認のサイン)︒EELV ︹涜位﹂(﹁元﹂は﹁無﹂の異体字)とあるから︑初めての叙位
1
治に与る前に︑笠取龍は何らかの事情で職を解かれたのであろうか︒いずれにせよ︑叩が使用された時点で龍は無位無官だったことになる︒それにも関わらず銭を納めなければならない︑下級役人の苦労を雄弁に物語る木簡であ尚一し
ところで︑古代には生まれ年の干支(十二支)に因んだ名前がつけられることがあったとされ︑笠取龍も︑あるいは辰年生まれ だったかもしれない︒もしそうならば︑神亀五年は奇しくも辰年.(戊辰年)のため︑この年︑龍は今で言う年男だったことになる︒けもうん位階を持たないことから︑慶雲元年(七O四︑甲辰年)生まれの二四歳(数え二五歳)とみるべきであろうか︒仮にそうであれば︑今は無職でも将来の出世に希望を抱き︑前向きな気持ちで続労銭を納める若者の姿を想い描くこともできるかもしれない︒だが︑もしもそれ以前の辰年生まれであったとしたら:・いつの時代も︑小役人に都会の風は冷たい︒
148
続労銭の付札9
会=
一次
補︑
S
D四 一
OO
出土
︒宮 六│ 九
O六 二
(表)位子雀部朝臣道奥銭伍何文
(裏
)﹁
泰筆
﹂
長さ
一七
五皿
・幅
二五
皿・
厚さ
四皿
O三
二型
式
き書きペのみちの︿雀部道奥が納めた銭抑抑乱︒税目などは書かれていないが︑類例や金額からみて︑続労銭に付けられたものであろう︒続労
銭や
勧乎
につ
いて
は四
・叩
参照
︒て
んび
ょう
しよ
うほ
う
措嚇埴視指諸措瞳し視正弘通き︑天平勝宝六年(七五四)二月
の 舎 人 井 雑 工 等 よ 知 連 帯 に 見 え る (
﹃ 大 旦 震 壁 ( 輔 年 )
二五︑二ハ一頁)︒戸平宝字八年(七六四)の藤原仲麻呂の乱の際の功績に詩句
γ
世宗位上から従五位下に昇って貴族の紳澗片山りを果たし(﹃続日本紀﹄同年十月庚牛︿七日﹀条)︑さらに常陸介(次
)
官ι
挺炉もれている(﹃続日本紀﹄同月辛卯︿二凶1
﹀ 条
) ︒
裏面の秦筆は収納を担当した式部省側の責任者︒山
(I
期展示)にも見えるが︑川とは異なり﹁筆﹂は通常の字体で書かれる︒下端は︑かなり鈍角ながら両辺から削り込んで尖らせられている︒そのため︑型式番号はO三三(上下両端のいずれかに切り込みをもち︑他端を尖らせたもの)とされても良さそうだが︑角度
13
の緩さや実用性が認めがたいことから︑現状ではO三二型式(上下両端いずれかに切り込みをもつもの)に分類している︒一方︑上下両端とも約九O度の山形に整形する間
(E
期展 示) には
︑
Oコ一三の型式番号が与えられている︒型式番号設定の難しさを示す事例である︒ちなみに川
(I
期展示)は︑切り込みがある上端のみが約一三五度の山形に整形されている︒
149
式部省で使われた題鍍軸7
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮四三七六
O )
(表
)奇
人放
出
(裏
)宥
字八
年
口
長さ
(二
四二
﹀皿
・幅
二一
三皿
・厚
さ五
皿
O六
一型
式
だいせんじ︿軸部の下半を欠損した題畿軸︒題畿部の長さは七四円題簸軸は紙の文書を巻き付けて巻物に仕立てるための軸の一種で︑細長い軸部の上方に幅広の部分(題畿部)を作り出し︑そこに文書のタイトルなどを記しておくもの︒題銃部はいわば現在の書籍の背表紙に当たり︑これを使えば︑一々巻物を開かなくても文書の内
容がわか崎潤れものである︒表面の資人は︑位階や官職に応じて貴族にあてがわれる公的な従者のことで︑和訓は﹁とねり﹂︒﹁放出﹂は︑本主
(H
資人が配属された貴族)の死去などにより資人の身分を失うこと︑あるいは失った者を指す︒したがって︑闘に巻かれた文書としては資人の放出に関わる基礎資料群︑あるいは放出となった資人の歴名(リスト)などの可能性が考えられる︒tぴょうほうじ裏面は︑今回新たに文字を確認し北
U L
靖hFA年﹂ゐ訣し評宝字八年のことで︑七六四年︒いわゆる藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が勃発した年である︒仲麻呂の敗死︑また連座した高官たちの処分などにより︑この年は例年以上に﹁放出﹂となる資人が多か ったことも想像される︒あるいは︑そのような事情を背景に閣に巻かれた帳簿も必要とされ︑作成されたのであろうか︒表面の墨痕は黒々と鮮やかなのに対し︑裏面の文字はほとんど見えず︑また表裏で木肌の色合いも異なる︒土中で現状での表面が下になって埋もれ︑そちらの面だけが泥にぴったりと密着し保護されたことにより表裏で遺存状態に差が生じた︑といった可能性
が想 定さ れよ う︒
表面の﹁人﹂と﹁放﹂は︑立派な右払いが日を引く︒木簡に喜かれる文字は払いの押さえが弱いものが多く︑これほどしっかり押さえを効かせた右払いはやや珍しいと言えるかもしれない︒
150
式部省で使われた題範軸8
( 三
一 一
次 補
︑
sD
四 一
OO
出土︒官五│六一六五)
(表
)諸
司移
(裏
)神
護景
雲
三年
長さ
=一
八九
四・
幅二
六皿
・厚
さ九
皿
O六
一型
式
さまざまな役所から式部省に送られてきた文書を貼り継いで巻だLV唱λロ︿物としたものの題畿軸︒軸が折れて題集部のみ残るものが多いが︑閣は完形で残っている︒上端の厚さは五皿で︑下へ行くほど厚くなる︒上端の角を落とした丁寧な作り︒題畿部の長さは四八回︑
軸部 分の 幅は 一
O
皿 ︒
﹁移﹂は︑統属関係にない同格の役所伊調印い伊やりとりに用いる
文書の様式︒文書の内容はわからない︒神護景雲=一年はよ六九年︒
なお︑相じ東西溝
S
D四 一
00
からは︑表面に﹁諸司解﹂︑壊簡に﹁諸司移﹂と書ゆれた題畿軸(叩︿I期展一応)や︑﹁諸家井/諸司口口︹移牒カ︺﹂と書かれた題畿軸(ゆ︿E
期展 示﹀ )も 見つ かっ てい る︒
14
151
式部省で使われた題隼軸9
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土
︒宮
五│
六一
七二
一)
(表
)史
生省
掌 神護 景品 寄元 年
(裏
)史
生省
掌 神護 景品 審元 年
長さ
(六
七)
皿・
幅三
O
皿・
厚さ
一
O皿O
六一
型式
だいせん下端が折れているが軸部分が二O皿ほど残る︒題畿部の長さは四人皿︒軸部は角を落として円柱状に加工しており︑断面はやや
楕円
形︒
ししよう表裏とも同祥代海省の四等官の下に位揮寸耐戸れる役人︑史生(書記官)と省掌(庶務担当)に関する神護景雲元年(七六七)ょうろうりょうの文書を巻き付けた軸︒式部省の史生と省掌であろう︒養老令の規定では式部省の史生は二O
人︑ 省挙 は二 人︒ 152
棒軸を転用した習書木簡2
(三
二次
補︑
S
D四 一
OO
出土︒宮六│八五一八)
口
渋川円
U 左
京
長さ
二八
一皿
・径
一八
皿
O六
一型
式
ぼうじ︿捲好の構噛ロ全体に腐蝕が著しい︒渋川は河内国渋川郡のことか︒側面にはこのほゆ批出文字としては判読できない多数の墨痕があるが︑いずれも習書とみられ
本来文字があったと考えられる軸木口には︑現状では墨痕は全 る ︒
く残
らな
いロ
木簡をよむ
今回展示する式部省の題畿軸をめぐって
だいせんじ︿今年の展示では︑各期三点ずつ題畿軸を出陳している︒題畿軸の多くは題畿部のみ︑または軸部をわずかに残す状態で見つかることが多い(I期展示川1
問 ︑
E期
展示 削・ 問︑
E期展示問などて題畿軸は基本的に巻き付けられた文書が不用になって捨てられるものであるから︑あるいは文書廃棄の際の作法として︑意図的に題畿部の根元付近で折って捨てた
のか もし れな い︒
その点で言えば同は︑完形品である次の聞とともに︑やや例外的な出土例と言えるロ川町の残存軸部は一七岨弱であり︑古代の紙は縦二七岨程であるのが一般的なため︑糊も元は軸部があと一
o m
以上あったと考えられる︒閣の軸部の長さは約三四咽であるから︑これを参考にすると︑閣は軸部のちょうど真ん中あたりで折れていることになる︒文書が巻かれる軸部には墨書がないのが普通であるから︑仮に聞の軸部下半が東西溝
S
D四 一
OO
から出土していても木簡と認識される可能性は低く︑まして接続に気づくのは至難であろう︒木簡であり木製品でもある遺物の分類・調査の難しさを示す事例である︒ぼう巴︿なお︑類似の機能を呆たす木製品にいわゆる﹁棒軸﹂がある︒こちらも今年は(転用されたものも含めて)各期一1二点ずつ出陳している(E
期展示即など)︒棒軸は一加を径二個ほどのきれいな円柱状に丁寧に削り出す必要があり︑また木口への筆記もきわめて細かな文字で施すことが求められるなど︑題畿軸に比べてその製作には圧倒的に手聞がかかる︒おそらくは地方からもたらされる正式な上申文書などに用いられた様式
だっ たの であ ろう
︒
これに対して題畿軸は︑役所内での一時的な文書保管の際など︑さまざまな局面で多用されたとみられる︒閣は︑軸部は角材状で全体的に加工が粗く︑また記載も最小限の内容に留まる︒ある意味︑題集軸らしい題畿軸と言えるかもしれない︒
15
‑遠江国進上雑魚勝三斤
長さ
九七
皿・
幅一
一皿
・厚
さ三
皿
O
一一
型式
在主ある賛として納められたものか︒現状︑肉眼では文字が見えづらい︒間
(I
期展示)
る初
︑ぎ
に向
山内
満州
川数
量を
含め
て片
面に
収め
てい
るい
ゅ
うな
ん を
も
っ酔沼津主許寮式上遠江国条によれば︑遠江国は中男作物として
﹁与 理等
﹂( サヨ リ) の膳 を貢 納す るこ とに なっ てい る︒
﹁コ 一 斤
﹂ は
︑
約二
K ︒
と同文であ
153 遠江田からの雑魚脂の荷札2
( 一
ニ 二
次 補
︑ S D四 一
OO
出土
︒宮玉│七八九八)
k
お と う み さ と き た い
遠江国(現在の静岡県西部)から進上された雑魚の脂(干物)の荷札︒国が進上する書式をとっていることから︑天皇の食料で
154 因幡固からの海藻の荷札
( 二
= 一
次 補
︑ S D四 一
OO
出土︒宮四│四
六六
八)
(表)困播国気多郡勝見郷中男神部直勝見麻呂作物海藻大御勢壱範六斤太
神護景雲四
( 裏
)
長さ
四
O八
皿・
幅一
一O
皿・
厚さ
五皿
O一
一 型
式
い な ほ 紅 走 め け た か ち み
因幡国からの費の海藻の荷札︒幡の字は﹁播﹂と記す︒気多郡勝見郷は今の鳥取県鳥取市気高町と鹿野町︒海藻はワカメ︒因幡国の海藻の荷札には三O
岨詳
婦︑
える
細兵
が占
有を
用い
る木
簡が
多い
︒
費は木簡では普通︑大費または御賛と表記される︒古くMM吠演で︑天平初年頃(七三
O
年前後)を境に御費へと変化する︒大御費は捌 d v 抄
除い
開
γ御賛にさらに敬称の﹁大﹂を重ねたの点均九村山つ
挺喜主計寮式上因幡固条によれば︑因幡国は海藻を中男作物
と賛の一一つの税目で負担している︒中男作物は郡・郷単位までで個人名を書かないのが通常であるが︑この木簡は個人名を記した
上で︑中男の労役によって費として納める海藻を採取したことを示す︒なお︑因幡国の荷札には︑中男作物で個人名を記す賛の海藻の荷札が︑ほかに二点ある(平城木簡概報一七│一四上︿九五﹀︑
同二
二│
三五
上士
一一
五八
﹀)
︒
因幡国の海藻の荷札で最も古いものは八世紀初頭まで遡る(﹃藤原宮木簡﹄三│一一九四)︒海藻の特産地として都への貢進を続ける中で︑細長い形状や記載事項など書式の整備が行われたようで
ある
みbベのあt ︒
い か ち み ま ろ
﹁神部直勝見麻呂﹂はこの木簡のほかには見えない︒因幡固には神部直が分布していた(﹁因幡国戸籍﹂︿﹃大日本古文書﹄(編年)
一︑
コ二
九頁
﹀)
︒ だ い じ ん ご け い う ん
﹁太﹂は大斤のこと︒﹁六斤﹂は約四
K
︒神護景雲四年は七七O年︒理由はわからないが︑﹁年﹂に相当する墨農は残らない︒16
155
太政官の役人の名を列記する木簡
( 表
)
円
︹藤 カ
︺ 正 四 位 口 原 朝 臣 縄 麻 呂 左 大 弁 従 三 位 中 臣 朝 臣 清 麻 呂 正 四 位 下 石 上 朝 臣 宅 嗣 中 弁 正 五 位 下 藤 原 朝 臣 小 田 門 従 四 位 下 口 口 少 弁 従 五 位 下 口 口 口
︹多治比人カ︺ 口
U
(裏
)亡
団事
口
口 E
告を仁口口語専に
コ緑叫
口口曜
〔吋喰〕口 口
口
コ唱をお
〔幸司
口
口 撃 叫
れ会みようきだいペんちゅうペんしようペん役汰の名を列記した歴名木簡︒左大弁・(左)中弁・(左)少弁
‑bじ よ う か ん さ
dん か ん
は︑太政官の官職︒合わせて左弁官とも呼ぶ︒こ時川崎山山いずれも規定上は第三等官にあたり︑大臣(長官相
A F
W
大 地一 一 一
p h
吹官咽描戸の指揮のもとで︑第咽﹁洋靖K
い 咽 拍 ゴ
す ︺
Q主
点噴
一ぷ
・左
少史
や
史生
ト﹂
曹と
もに
︑八
省の
JH
内坤
る行政実場荷担当した(兵部・刑部・大蔵・宮内各省に関わる
p v
戒部ト治部い担部各省に関わこと は︑ 右弁 官が 担当 )︒
た じ
ひの喧伸弁の﹁藤原朝臣小田門﹂は藤原雄田麻呂︑左出ゲ排山川雄噛比真人であろう︒多治比真人が左少許庁地お唯ことは︑天平神護
三年
(H
神護景雲元)二月六日付け太政官符(﹃大日本古文書﹄
(編
弁
γ
T F
ん抗
四
O頁
)か らわ かる
︒
﹃続日本紀﹄と照らし合わせ
F 4 v
日比
一つ
ぐ名
のわ
かる
玉名
の位
階︑官職を満たしている時期は︑石上宅鋼部一吐畑唯下に昇進し
た天 平神 護一 一年 (七 六六 )一
O月二五日(﹃続日本紀﹄同月丁未︿二五日﹀条など)から︑多治比真人の後任の左少弁が任じられ
っ=
一次
補︑
S D四 一
OO
出土
︒宮
四│
四一
八三
一)
口口
長さ
(三
八一
二)
四・
幅(
一二
七)
四・
厚さ
王皿
O
一九 型式 じ ん ご け い う ん し ょ く に ほ ん ぎ
た神護景雲元年(七六七)七月一OH(
﹃続日本紀﹄同月丁巳︿一
O日
﹀条
)ま
での
開点
品る
︒さ
んぎ
この時期の藤原縄麻呂は参議正四位下(﹁藤﹂とみられる文字の上には墨痕は残らないが﹁下﹂と書かれていたとみられる)︑右上宅嗣も参議正四位下であったから︑一段目には参議が列記さ
れて炉仕立位
t
なろう︒そうであれば︑晴樹園からみると︑一行目は︑藤原清河(在唐点︑とみ唄有官藤原継縄の可能性が考えられよう︒なお︑左大弁の中臣清麻呂も参議であったが︑左大弁であることを重視して二段目にまとめられたのであろう︒裏面は木目と直行する向きに人名を列記する︒判読できる文字はせいぜい一行あたり三文字程度であ品止め︑知推できる人物は見当たらない︒部分的に読み取れる﹁阿倍﹂﹁息長﹂などのウジ名ゃ
γ
以激山口計と思しき﹁舟﹂などの記載からみると︑表面と一連の太政官関係者の歴名であったとしても︑下級の役人たちの歴名 とみ られ る︒
17
156
長さ
(一
七四
)皿
・幅
二
O
皿・
厚さ
三四
O
一九
型式
ごはんを請求する手紙の木簡︒﹁飯﹂は﹁飯米﹂ることもあるので︑炊く前の米の可能性もある︒
宛先を書かず主︑﹁請飯﹂(ごはんをください)と用件から直接切り出し︑﹁大人謹状﹂(大人より申し上げます︒﹁大人﹂は名)と書き止めるきわめて簡潔な書きっぷりは︑急逮ごはんが必要になって︑慌てて用件のみを手近の木片にサラサラと書き記し︑急
いで鞭滑にもたせた︑そんな事情を物併とさせる︒要求量が﹁一二升許﹂と大雑把であるのも︑ちょっと足りないから追加を少しお願いね︑といった意味合いが読み取れる︒それにもう一つ︑﹁十二月廿九日﹂という日付も意味ありげである︒一二月二九日は小の月なら大晦日であるロ年末の慌ただしさも即の背景として読み取るべき情報だろう︒﹁大人﹂にウジ名がないのは︑役目柄か彼が宛先と親しい関係だったことによる︒叩は七七O年前後の式部省の勤務評価の木簡の削屑とともに見つかったものである︒請求木簡は物品とともに請求元に回送される場合が多い︒間の場合も︑式部省内の食料担当部署(厨など)
に宛てて出され︑ごはんとともに大人のもとに届けられてめでたく役目を果たしたあと︑大人の手で捨てられたものだろう︒なお︑﹁請﹂は︑請求の意味の﹁こう﹂のほか︑﹁うく﹂︑すなわち受け取る︑の意味で使うこともあり︑注意が必要な文字である︒どちらに読むべきか判然としない場合も多いが︑問では数量の唆昧さからみて﹁こう﹂と読むのがよい︒最後にもう一つ︑叩で気になることがある︒それは上端が斜めに折れていることである︒裏面の日付の書き出し位置も︑表面の﹁請﹂よりもさらに不自然に上端に寄っている︒これは何を意味するか︒裏面はともかくとして︑表面の﹁請﹂の上に文字があっ
た可 能性 であ る︒ しか し︑ 現状 の結 論は ノー であ る︒ それ は︑
﹁請
﹂
の上にスペースがあって︑もしも文字があるなら顔を出してもよさそうに恩われること︑そして﹁請﹂の上に差し出しがくることはまず滅多にないことなどによる︒今のところ文字のない部分がわずかに折れてなくなっていると考えておくのが穏当だろう︒ の意味で用い文還の巻敏を肥す木簡
(三
二次
補︑
S D四 一
OO
出土︒宮五七八四六)
文進五十六巻
長さ
(九
八)
皿・
幅(
一八
)皿
・厚
さ二
皿
O八
一型
式
上端は切断のままの原形︑左右両辺は割れ︑下端も折れて欠損
してか向︒表面上端には︑は苧よは側
m w v 昼
痕が 付着 して いる
︒
﹃文選﹄は︑中国南朝の梁の昭明太子(五O一1五コ一二の撲になる詩文集︒中国古代の周から梁までの約千年にわたる詩・賦・文章七六三篇を収める︒文体ごとに三七に分類し︑作者の年代順に排列する︒三O巻からなる原本は一部しか伝わらず︑七世紀半ばに李善が詳細な注釈を施した︑六O
巻からなる﹁李善注﹂
の形で流布するものが多い︒﹁五十六巻﹂は︑﹁巻第五十六﹂の意
レ ん め い る い
味か︒巻第五十六は︑策‑銘・誌の篇目にあたる︒﹃文選﹄は︑役人の養成を担当する大学寮において︑儒教の経
書とならんで︑加明科書として採用されていた︒天平初期の学制改革以後は︑﹃爾雅﹄とともに文章科の教科書に採用されたようで︑役人の教養書として広く流布していたとみられるロなお︑木簡に見られる﹃文選﹄李善注の事例としては︑平城宮内裏北外郭官街の土坑
S
K八
二
O出士の削屑(宮一六八八︑六
八九・一一七O
︿二 片接 続﹀
︑六 九六
・七
0=
O七7
六・ 七四 五・ 七六 四︿ 五片 接続
﹀) など があ る︒ 157
飯を購求する手紙の木簡
(三
二次
補︑
S D四 一
OO
出土︒宮四四六四六)
(表
)請
飯一
‑一
升許
大人
護状
(裏
)十
‑一
月サ
九日