• 検索結果がありません。

フリードリヒ・ヘルダーリン (その5) フランクフ ルト時代

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "フリードリヒ・ヘルダーリン (その5) フランクフ ルト時代"

Copied!
45
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

フリードリヒ・ヘルダーリン (その5) フランクフ ルト時代

その他のタイトル Friedrich Holderlin (5)

著者 高尾 國雄

雑誌名 独逸文学

巻 19

ページ A179‑A222

発行年 1974‑04‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00017840

(2)

人はかねて友人エーベル に二人の従兄弟はフランクフルトに着いた︒

( H e n r i   G o n t a r d )

が詩人を 詩人の幼年時代を育んでくれたニュルティンゲンの秋も︑イエーナヘの憧憬にさいなまれている詩人の心を慰め てはくれなかった︒また﹁黄金の再会﹂

( D a s g o l d e n e   W i e d e r s e h e n  

! )

 

(一七九五年二月二十二日母へ︶と自ら待

ちあぐんでいた帰郷もながくなるにつれて︑いつとはなくもの憂く︑単調なものとなった︒それ故二年前にワルタ

ースハウゼンに旅立ったときほどの歓びはなくとも︑再び家庭教師としての新生活にはいるために︑ マイン河畔の

フランクフルトに向って母の膝下を離れたのは︑十二月十五日であった︒途中シュトウットガルトに暫らく滞在し

て︑ノイッファーを初め友人達との別離を惜しみ︑またここでシェリングとも最後に会っている︒彼の叔父のマイ

ャ ー

( M a j e r )

が牧師として働いていたレッヒガウ

( L o c h g a u )

の町が︑ハイルプロンからハイデルベルクヘゆく

旅の途中にあったので︑数日この地に滞在してクリスマスを祝い︑イエーナ大学に遊学しようとする叔父の息子と

ともに︑その年も暮れ近く︑二十六日に叔父の家を立ち︑﹁退屈で困難な旅をつづけながら﹂︑二十八日︵月曜日︶

従弟はイエーナのニートハンマーに宛てたヘルダーリンの紹介状をもってその翌日フランクフルトを立った︒詩

私は只今のところ︑

( E b e l )

  のとりなしによって決められていた旅館 N

u r t a   S d t   M a i n z

に暫らく足を留め

なければならなかった︒それはゴンタルト家で詩人のために当てていた室の改造がまだ出来あがっていなかったか

らである︒三十日には︑彼の将来の教え子となるべき八オのヘンリー・ゴンクルト

宿に訪れている︒このことを詩人は叔父マイヤーに知らせている︒ ﹁昨夕私の将来の教え子が尋ねて参りました︒

この前の教え子が私に与えた不幸な時の損害をかなりの程度において︑賠償してくれると信ず

フ ラ ン ク フ ル ト 時 代

1 7 9  

(3)

るあらゆる根拠がございます︒﹂︵一七九五年十二月三十一日︶この手紙を見てもわかるように︑この少年の人柄に

好感はもっているようだが︑この前のワルタースハウゼンの苦い体験にこりた詩人は︑手放しに今度の教え子に全

幅の信頼感を寄せているようでもない︒

叔父に手紙を書いたその日に︵十二月三十一日︶ヘルダーリンは初めて挨拶のためにゴンタルト家を訪れてい

る︒しかもこの日に初めて未来の愛人ディオティーマにめぐり会ったのである︒彼がゴンタルト夫人から受けた印

象を一七九六年一︲月十一日︑弟に宛てた書簡で述べているが︑この場合も︑この前のカルプ家の人々に対するよう

には卒直な表現ではなく︑自己の判断に対して極めて慎重を期しているように見える︒﹁しかしその間僕の身辺に

はいろいろと多くのことが起った︒そのうちでもごく最近のことは︑僕がいま現実に僕の境涯に足を踏みいれたと

いうことだ︒即ち︑勿論まだ固ってはいないけれど︑僕の最終的な判断によると︑最善の人間を友人としてもち︑

野蛮なところのない︑卒直︑けがれのない自然を求めても︑なかなか容易には二度と見出せないこうした人達の子

供等を教え子にもつということだ︒﹂︵一七九六年一月十一日弟に︶またズゼッテの方は︑初めてこの家庭教師に

会ったとき︑一目見て自分の兄弟が彼に非常に似ていることに驚いたということである︒︵プランデンブルク︶こ

れがまた二人の間に兄妹のような信頼感と精神上の近親性とを培っていった基盤でもあったろう︒

詩人はフランクフルトに着いても︑直ぐに教育の職務についた訳ではない︒その間の小閑を利用して︑近くのホ

ンブルクに住んでいる友人シンクレーアの招きに応じて︑その地を訪れている︒また弟に宛てたこの手紙による

と︑詩人はホンブルク滞在中﹁極めて興味ある人間﹂ご附言言討8綴目誌巨の5sの域パ第六巻一九八頁︶に出会って

いる︒そればかりではなく︑詩人の運命にとってこのホンブルクの土地ほど因縁の深い場所はない︒それは一・度は

﹁愛と憎しみに引き裂かれ﹂︵ノイッファー宛て書簡︶て︑この世もあらぬ悲しみに打ちひしがれ︑愛人ディオテ

180

(4)

rl

イーマの懐から遁げ去っていったところが図らずもこのホンブルクであり︑また二度目には一八○四年の夏︑精神

的苦悩の深淵に陥っていた詩人が︑再びシンクレーアの斡旋で︑へシセン公の司書官としてホンブルクに滞在した

ことである︒かく二度までも友情の深い友人の手に導かれて︑詩人の生涯のうち最も憂うべき危機をこの土地に避

け得たのである︒上述の﹁極めて興味ある人間﹂といっているのは︑疑もなく特にシンクレーアと親交の深い︑し

かしまたノイッファーとも知己を結んでいる宮中顧問官ユング︵可日日三害の言言長ミヨ1房認︶と︑詩人と

同じくシュワーベン生れの牧師ライトワイン︵勺三一gも﹈農9F①詳言の旨︶を指している︒この二人は資性は非常

に異っていても︑秀でた教養と︑高雅な人間的価値と強力な刺戟力という点では共通している︒即ち前者は火のよ

うな情熱に富んだ︑感激家であり︑社交的な政治家であり︑そしてフランス大革命の熱烈な信奉者である︒これに

反し後者は︑前者に較べて一層もの静かな︑内向性の強い人であり︑従って心情のこまやかな︑豊かな魂の持ち主

で︑一言にしていえば思想堅実な人柄である︒なお︑前者の経歴に一筆加えておくが︑ユングは一七八六年以来︑

ホンブルク宮廷に職を奉じて︑若いシンクレーアの師であると同時にまたホンブルク伯の友人でもある︒しかし彼

は︑急進的な民主思想のため一七九四年伯と不和になり︑一七九八年マインッにゆき︑一時フランス政府に仕えた

こともあったが︑しかし一八○二年︑失望と嫌悪のあまり︑警部の職を投げうち︑一八○六年一私人としてフラン

クフルトに帰っている︒しかし一八一四年以来︑今度は学問と芸術の指導者として再びマインッに戻る︒彼の文学

者としての功績は︑一八○八年に公にした三巻の﹃オーシアン﹄の翻訳である︒ヘルダーリンが彼等両人に近づく

ことのできたのは︑﹃ヒュペーリオン﹄第一巻を初めその他数々の詩作による詩人としての令名と︑特にシンクレ

ーアの情熱的な紹介の言辞によったのは勿論のことだが︑それにもまして重視すべきことは︑哲人フィヒテに対す

る共通の尊敬の念からであったろう︒特にユングはフィヒテと個人的な交遊を結んでいたのである︒

IiI

I

I

181

(5)

詩人が家庭教師としてとどまるべき筈の家は︑フランクフルトの有名な門閥︑銀行家ゴンタルト︵○○三胃e家

であった︒ここでこの家の主人及びその妻ズゼッテa宮の①茸①︶について一言述べておこう︒ヘルダーリンがこの

家の家庭教師となったときは︑ズゼッテはヤーコプ・フリードリッヒ・ゴンタルトの妻となってからまだ満十年は

すぎていなかった︒彼女はハンブルクの︑矢張りゴンタルト家と同族の富裕な家庭に生れた︒彼女の父はハインリ

ッヒ・ポルケンシュタイン︵国の言風9m目訂吊詰言弓弓lミゴ︶という商人であった︒この人が一七六八年︑

六十三才のとき︑フランクフルト出の母をもつ︑ズザンネ・ブルグィーア命匡3口ロの団口缶昌閂弓らI弓謁︶と

結婚した︒ズゼッテはその長女として生まれ︑つづいて一男二女が生まれた︒ポルヶンシュタイン自身はまたハン

ブルクの郷土作品︾︾ロ閏団g言筈の三里︽︽︵弓全︶︵切口呂富三匹︺画意再国鳴口ぐ○国雰三のロ号笛巳の作者として既

に著名であった︒ボルケンシュタインの死後︑母は寡婦としてハンブルクに住んでいたが︑一七八六年にその居を

フランクフルトに移した︒その年の七月十八日︑当時十七才の長女ズゼッテは︑それ以前から求婚されていたヤー

コプ・フリードリッヒの妻として迎えられ︑その結婚の祝宴には詩人クロップシュトックも列席していた︒夫のヤ

ーコプ・ゴンタルト︵弓窪1房お︶はその時二十二才であった︒さてシュタール夫人︵三四9日の号の冨堅︶︵一

八○三年の日記︶によって﹁事業第こ︵F閉四廟巴蔚の四ぐ四三ざ三︶と呼ばれていたこのゴンタルト家の先祖はグ

ルノーブルに定住していた商人ペーター・ゴンタルト︵勺曾閂oopsa岳Sl弓誤︶がナント勅令の発布後ドイ

ツに移住し︑この地でゾフィー・カタリーナ・フォン・シュタインas三①厨四書胃冒画く○国聾①言︶と結婚した︒

フランクフルトのゴンタルト家は銀行業を営み︑傍ら毛糸及び綿糸の運送と仲買の業務を兼ねていた︒ヤーコプの

肖像は晩年︑即ちズゼッテの死後のものしか残っていないそうだが︑その円形浮彫は五十才位のものらしく︑毛髪

もうすく︑円顔をしている︒その表情は実業家によく見かけるものだそうで︑冷徹な熟慮︑意志︑庶民的な才能な

182

(6)

どが読みとられる︒それからずっと後のパステル画︵六十代の終り頃か︶は頭を前に屈めた表情で︑商人的な老桧

さはいく分残っているが︑人の良さがかなり強く写しだされているそうだ︒家族に伝っている話では︑若いときは

大変病弱な躯であったが︑体躯の大きい︑堂々たる人として皆の記憶に残っているということだ︒その他家族の人

々の伝承では︑彼の人柄は尊敬を払われるに値し︑特に家庭の幸福に対して慎重な配慮をめぐらしたことがほめた

たえられている︒︵三甘言︸︾一六四頁以下︶

以上述べたようなミヘルの証言から察しても︑この家の主人は︑勿論精神的にすぐれた教養を身につけた紳士で

はないが︑その容貌は一部の伝記作者のいうように︵プランデンブルクは片眼で短気といっている︶必ずしも醜

いという方ではない︒しかしこれに反し彼の妻ズゼッテは︑当時既に八才の長男を頭に四人の子女Iヘンリー

国の口風︵一七八七年生れ︶ヘンリエッテ国①貝耐茸の︵一七八九年生れ︶ヘレーネ国巴のロの︵一七九○年生れ︶アマ

ーリエシ日農の︵一七九一年生れ︶Iの母親でありながら︑いまだに過去の美しさを失わず︑黒い怜瀧な眼と長

い黒髪とは︑輝くばかりに白い素肌とギリシャ式に完成された顔容と美しく調和していたと伝えられている︒しか

のみならず幼年の頃から只管美しいもの︑調和あるもののみに心を傾けていた彼女は︑今なおこの方面の教養の摂

取には意を用いていた︒かような女性が形式と物質とを生活の基礎としているフランクフルトの家庭と社会に身を

おいたとき︑言い難い欠乏の感と︑何物かより偉大なもの︑より崇高なものを求めようとする憧慢を感じたであろ

うことは想像に難くない︒こういう心の空虚を感じていたときズゼッテはわが詩人へルダーリンとの出会いを初め

て体験したのである︒この日は前にも書いているように︑一七九五年十二月三十一日のことであった︒一目見るや

彼女は直ちに詩人との確かな類縁を感じたことであろう︒

そしてまたこの高雅にして聰明な夫人ズゼッテのもつ美しさも詩人の感能に根強く流れてきた︒詩人が年来求め

1701ⅡHill■︲f0Lllf︲11凸1lIllⅡ1100■1Ih41︑︑

183

(7)

あぐんでいた憧慢が︑遂にその対象をこの女性に見出したのである︒﹃ターリア断片﹄ではまだ詩人の憧慢の域を

でていなかったメリーテ︑イエーナ時代の﹃ヒュペーリオン﹄の草稿にその面影を偲ばせておいたディオティーマ

は今では現実の女性として詩人の面前に立ち現われてきた︒早くも一月十五日︑ノイッファーに宛てた書簡で﹁わ

れわれの心はある程度いつも貧寒でなければならないという僕の言葉を君はきっとわかってくれるね︒僕もまた僅

︑︑︑︑ かなもので満足し︑永遠の美に等しいものを運命から期待せずに︑寧ろ自己の努力と営為とによってそれに近づこ

うと一層心をそれに傾けることに︑なお一段と馴れてくるだろう︒﹂この書簡に現われている﹁永遠の美﹂は︑既に

詩人の魂の中に描かれているディオティーマの象徴であり暗示である︒ヒュペーリオンが﹁生存のある時期に︑僕

の渇望している魂にかならず出会うべき唯一なるもの︑聖なるもの︑忠誠なるもの﹂︵第三巻二三頁︶とベルラーミン

に予感として書いているのもまたこのディオティーマに外ならない︒またこの二つの魂が寄りそって︑互に共鳴し

たその瞬間を︑詩人は﹃ヒュペーリオン﹄の中で︑初めてヒュペーリオンが友人ノターラの手引きでディオティーマ

に会ったときの描写においてこれを再現している︒雪閉の言○甘言壷ロロ号昇の四侭ggロシロg画旨〆言○画弓四

雪$gg凰呂号口2回ごQg言見︵二つの心がかくの如く互に予感し︑互に相近づく瞬間にくらべれば数百年

は何だろう︶こうしてヘルダーリンはうら若い︑物に職されない清純な情熱と︑美に酔う詩人的魂の歓びとをもっ

てズゼッテにひそかな愛を捧げている︒またズゼッテもいちはやく詩人の心の美しさと純粋さとを感知し︑無限の

愛に対して感謝を捧げ︑人生の青春に早くも蹉跣した不幸な詩人の胸に平和と光りとを投げ与えた︒二月十一日︑

弟に宛てた書簡で﹁私の躰は今や少くとも二︑三ポンドの余計な重さを失って︑今までよりは自由に敏活に活動で

きると思う︒神はわれわれに幸福な安息を与えてくれた﹂と︑かくしきれぬ現在の幸福を告白している︒それなれば

こそ霊愛の慈光に恵まれた詩人は︑ディオティーマに捧げる詩において彼本来の生命に蘇ったことを歌っている︒

184

(8)

幼きときの黄金の日︒ 不思議や思いださるるは などてかくも変わり果てしかや/ わが憎み嫌いしものみなは

しら ベ

なつかしき調かなでつつ

よ ふ し

わが生の歌と節あわす︒

ひ と

われこの一人の女性を見し日より

か ね

時鐘の知らせにつれたちて ああ/われはなおも生に戻らん︒ 心の枝は花咲き芽生ゆ︒

さち

わが花の幸ある芽ぐみ

さや

しわがれる英を破りて

七 ら

大気と光に向うごと 生の力にふくらめられて 美しきこの世に会釈し 永く死し︑深くとぢこめられしわが心

1 8 5  

(9)

をレーダと呼んだようにプラトーンの﹃饗宴﹄の中にでてくる賢明にして慈悲深きマンティネア生れの女性の名を 借りて愛人に与えた名である︒このディオティーマは詩人の霊にとって決して見知らぬ女性ではなかった︒

荘 厳

な る

よ 人

/ .

ひ と

生の不安より救われし、わが心に神々の若さを約束せしはこの女性ぞ••…

•O

と わ

われ等の空は永久に変らじ

えにし

不可思議の縁に結ばれて

かたみ

われ等互に見ぬうちに

お く が

心の奥底知りそめぬ

われなお幼き夢を夢みつつ

わが庭の樹々のもと︑

マウルブロン時代にルイーゼをステラと呼び︑テュービンゲン時代にエリーゼ

初まりしとき

南風のごと︑ディオティーマの精霊 しのび寄る歓びと美しさにひたり︑

さ つ き

わが心の五月 あたたかき大地に伏するとき︑ 霧れわたる日さながらに心なごみて︑ ディオティーマよ/

さち

幸ある人よ/ デ ィ オ テ ィ ー マ と は 曽 て 詩 人 . が ︑

1 8 6  

(10)

わたしの妹かそれともわたしの妻であったのだ︒

由来こうした類縁の思想はプラトーンのシロ四日ロ$菌︵回想︶の思想に基いたものだというが︑上記のゲーテの

﹃シュタイン夫人に寄せて﹄の詩を初めシラーの﹃回想の神秘︑ラウラに寄せて﹄e閉Qg凰日画厨ロ日詞①日宇

目闇の旨.シロF四口国.弓雷︶にも現われている︒

歓喜がとうに静まった日に

なぜわれわれは既に一つに溶けていたのか︵マイャー版シラー全集第一巻四○頁︶

またヘルダーリンは︑ヒュペーリオンをして﹁われわれ二人のうちの一人がそれと気づかぬうちに︑われわれは

お互に親類関係にあったのだ﹂といわしめている︒ この詩を読むとき︑われわれはゲーテがシュタイン夫人に捧げた詩を憶いだすだろう︒

シ○戸・匡言豊里言画ずい巴の茸の口圃囚詰口

戸南凰ロ①の○面言のの蒜の烏○口の儲画肖凰ロの甸烏四口.

︵量璽日閏閏︲シ屋路画す①シ茸.胃団具吟切君︶

われわれという人間が既に編みあわされていたのか︑

それは心臓が共鳴するためだったのか︑

太陽の光の消え去った中で︑ ああ︑お前は前の世に われにさざめき寄りぬ︒

凸111卜4︑■

187

(11)

﹁僕は新しい世界にいる︒僕は美しく善良なものを知っていると以前には信ずることができたが︑僕がそれを見

てからは︑僕のすべての知識などは一笑に附したい︒親しい友よ/僕の精神が数千年の間離れることのできな

い︑そして離れられない人がこの世にいるのだ︒その人に会ってからはなお僕の精神は︑あらゆるわれわれの思惟

とか理解というものが︑それと相対する自然の面前に立つと︑何と未熟なものかということが分るのだ︒優美と典

雅︑平安と活動︑精神と情緒と形態とはこの人においては一つの幸福な一体をなしている︒かかる人間は滅多に予

感されず︑またこの世の中で再び見いだすことは困難だという僕の言辞を誓って君は信ずることができる︒僕はど

ういうふうであったか︑いかに平凡なことは僕にとって苦痛であったかを君はよく知っている︒僕はいかに無信仰

で生きていたか︑僕の心と共にいかに僕は乏しくなったか︑従って僕はいかに悲惨であったかを君はよく知ってい

る︒もしもこの一人の女性が僕に現われないで︑僕にとってもはや価値がなくなった人生を春の光をもって若くし︑

強くし︑陽気にし且つ讃えてくれなかったならば︑現在僕があるように︑鷲の如く楽しくなることができたか︒

僕には僕の昔のすべての憂いが︑子供のように全く愚かしく︑不可解に思われる瞬間がある︒..⁝︒ああ愛兄よ/ ︑︑︑︑ 幸福であれ︑歓喜なくしては永遠の美はわれわれの心の中に本当に栄えることはできない︒大なる苦痛と大なる歓

びとは人間を競もよく形成する︒﹂︵第六巻一二三頁︶

︑︑︑︑ この書簡に現われている詩人の溢れるような響をたてて聞えてくる言葉が︑この唯一なる女性︑即ち永遠の美に

出会ってから︑詩人の内なる心の世界と外なる生活とがいかなる変化を遂げたかを物語っている︒それは讃歌﹃デ

ィオティーマ﹄に於いて雪耐の○四口号厨璽耐需言○a①三と歌っている詩句においても窺われる︒ 宛てた書簡である︒ 以上の詩篇の外に︑当時の詩人の感情を最も明らかに物語っているのは︑この年の六月の上旬にノイッファーに

I

188

(12)

﹁今もなお僕は最初の瞬間と同じようにいつも幸福なのだ︒それはこの憐れな精神も秩序もない世紀に本当に迷

いこんだ人間との永遠のたのしい神聖な友情である︒僕の美感は今は擾乱に妨げられる憂いはない︒僕の美感は永

久にこの聖母の顔で方向づけられてゆくからだ︒僕の悟性は彼女のもとで習練し︑僕の不統一な情緒は︑日々彼女

の満ち足りた平和を受けて︑平静となり︑快活となる︒親愛なるノイッファー君/僕は君にいう︒僕は本当に善

良な少年になる途上にあるのだ︒その他僕に関しては︑僕は少しばかり今までよりは自分に満足しているのだ︒僕

は詩を作ること少なく︑哲学上の思索に耽けることは殆んど全くない︒しかし僕が詩作するものは︑より多くの生

命と形成とをもっている︒僕の空想は今までよりも進んで︑世界の諸々の形姿をとりいれようとしている︒僕の心

情は歓喜にあふれている︒従って聖なる運命が僕のために幸福な人生を維持してくれるなら︑将来今までよりも多

くのことをなしたいと望んでいる︒⁝・・・僕は僕の所有や地位を概算もせずに︑むしろ子供のように楽しい美しい平

和のうちに進んでゆきたい︒というのは僕のもっているものは︑いかなる思想をもってしても︑完全には把握され

ないからだ︒僕は彼女の面影のみを君に示したい︒そしてそれには一言も必要としないだろう/彼女は天使のよ

うに美しい︒優しい︑精神的なこの世ならぬ美しい顔ノああ︑僕は千年の永い間幸福な観照に浸って彼女のもと

すがた

で自己と一切のものをうち忘れることができるだろう︒この像にやどるこの謙譲な静かな霊は無限に豊かである︒

荘厳と温雅︑愉悦と厳粛︑甘味な戯れと崇高な悲しみ︑生命と精神︑すべては彼女のうちにおいて結合して︑一つ

の神として全体となっている︒⁝⁝﹂︵第六巻︑二三五頁︶

小説﹃ヒュペーリオン﹄のディオティーマ讃美を連想させるこの二つの書簡にも現われているように︑ダンゞテに って綴られている︒ ズゼッテに対する愛はその翌年︑二月十六日︑久し振りに同じノイッファーに宛てた書簡において更に情熱をも

189

(13)

於けるベァトリーチェ︑ゲーテに於けるシュタイン夫人の役をつとめたズゼッテがヘルダーリンに与えた多くの賜

物のうちで︑最も高価なものは安静である︒十四のときに母の家を離れて現世という浪の荒い大洋に乗り入れてか

ら今日に至るまで十余年の間︑静寂と安息の状態に身をおいたことが幾度あったろうか︒最も幸福なるべき恋すら

も二度までも苦悩の種子となり︑最も理性的に高められた精神の世界に導くはずの哲学すら彼の霊に静寂と安息と

をもたらすことはなかった︒また教育者としての自覚も十分にもちながらも現実の場においては無惨な敗北を喫

し︑母の懇請にそむいて僧職を投げうってまで︑詩人としての高い使命に信従しながらも︑シラーとの関係におい

ては必ずしも幸福な慈雨に恵まれたとはいえない︒それ故今まで永い間心の矛盾と不安に駆りたてられてきた詩人

は︑今またここでひたぶるに彼の心を揺り動かして︑再び彼を不安におとしいれるような地上の愛を必要とはしな

い︒寧ろ無限の安息の境地に彼を導いてくれる天上の愛を必要としたのである︒即ち詩人にとって新しい誕生の日

が必要となってきたのである︒そして彼が﹁人性と事相のこの世界において岐高のものとして﹂︵第三巻五二頁︶

求めあぐんだ永遠の女性こそディオティーマその人であった︒ダンテがかのべアトリーチェに初めて会ったとき︑

ご言o5詳三のg菌︽↑と日記に書き綴ったように︑ヘルダーリンは︺薑騨Q寓言悪口ロ旨戸醒の凰己旦閂三○算①

ロざ宣言①再︾gの弓品の皀昌gpogSg巨○写冨ロョ①︲○口巨言伊ロ豆言酔三日目房9$雪朋の三︵第三

巻五三頁︶とヒュペーリオンに言わせている︒

もう一つここで述べておきたいことは︑ディオティーマは詩人に突然何の予感もなく現われたのではないという

ことである︒既に詩人の心の矛盾と闘争とから生れた生の苦悩を救済する力としての愛I相対立するものに和解

を与え︑相離れたものを合一せしめる唯一なる力としての愛l詩人がテュービンゲン時代の讃歌の中で屡々歌い

つづけてきた偉大な調和の女神︑宇宙的美の女神としてのウラーニァ︑﹃ターリァ断片﹄の中にでてきたメリーテ︑

190

(14)

偶々彼等の愛をさらに深めるに好都合な機会に恵まれた︒一七九六年五月の末から︑戦雲は俄かにライン下流の

両岸に立ちこめてきた︒ョルダンとモローの率いるフランス軍は大公カールの指揮下にあったオーストリア皇帝軍

をウエッッラー付近に破り︑フランクフルトに退却中の皇帝軍を破竹の勢をもって追撃してきた︒この擾乱にゴン

タルトは心に一抹の杷憂をいだき︑彼はその妻とヘルダーリンに四人の子女を任せて夫人の生地ハンブルクに戦禍

を避けさせた︒彼等六人は主戦場となる恐れの十分あるフランクフルトを後にして︑フランス軍の砲声を耳にしな

がらカッセルまで難を避けてきた︒︵七月十三︑四日頃︶すると偶然にも彼はこの地で﹃アルディンゲロ﹄︵シa言1

︐房吾︶の作者︑老詩人ハインゼ︵雪.国の旨のの弓全1房s︶に出会った︒そもそもこの老詩人はヘルダーリンにと

ってはまことに憶い出の深い詩人である︒曽ってテュービンゲン時代に歌った﹃調和の女神に捧ぐる讃歌﹄のモット となってここに具現化されてきた︒ ﹃ヒュペーリオン青年記﹄の中に現われているディオティーマはいずれも詩人の欣求してやまない予感として描か れていた女性の希望図であった︒それがいま現実に於て詩人の眼前に突然現われたのだ︒﹁わたしのたましいが求 めあぐんでいた唯一のものを私は一度見た︒わたし達が星の彼方に遠ざけ︑時のいや果てまで押しやる完成を︑わ たしは眼のあたり感じた︒最高なるものが存在していたのだ︒人性と事相のこの世界にそれが存在していたのだ︒﹂ ︵第三巻五二頁︶とヒュペーリオンにいわしめている︒ヒュペーリオンは更にこうつづけている︒﹁至高にして至 善なるものを深奥なる知識において︑喧騒たる行動において︑幽暗なる過去において︑未来の迷妄において︑墓の ︑︑︑︑︑︑︑︑︑ うち︑星のかなたに求めつつある者達よ/おん身等はその名を知っているか?一にして全なるものの名前を知 っているか?その名こそ美である︒﹂︵第三巻五二頁以下︶かってテュービンゲン時代に寮友ヘーゲルの記念帳にエ ン・カイ・パンと書いたことがあったが︑当時は単に未熟な哲学青年の概念にすぎなかったこの言葉が︑今や血肉

191

(15)

れたのだ/﹂︵第六巻三三七頁︶ れわれの時を憶いだすか︒あれは凱旋であった/ ったのち︑ディオティーマに次のように尋ねている︒ ﹁われわれがただお互のためにだけおれた邪魔のなかったわ 一日彼はヘルマン

( H e r m a n n )

がヴァールス

( V a r u s )

の軍勢をうち破った谷に ーとしてこの作品の言葉をかかげていたことは既に述べておいた通りである︒当時ハインゼはマインツ選帝侯の侍 講と司書官とをつとめていたがアシャッフェンプルクの臨時首都から矢張り戦禍をさけて七月二十五日にカッセル にやってきた︒それ故彼等の出会いは勿論全く偶然であった︒しかしハインゼは既に以前からゴンタルト家とは知 己を結んでいた︒﹁﹃アルデインゲロ﹂の有名な著者ハインゼ氏もわれわれと共にこの地に住んでいる︒氏は実に飽 くまですぐれた人物だ︒この人のもっているような明朗な老境よりも美しいものはない︒﹂︵第六巻ニ︱六頁︶と弟 に報じている︒またヘルダーリンは壮大にして美しいこの町の自然を楽しんだばかりではなく︑ この土地にある画

廊を訪れては美術品を鑑賞し︑秀れた多くの芸術家とも知己を結んでいる︒更にハインゼの日記によると︑一行は八

月九日にカッセルを立って十一日の午前にバート・ドリプルク

( B a d D r i b u r g )

に 到

着 し

に再びカッセルに帰っている︒詩人は静寂な生活のうちに︑益々健康にめぐまれて︑自然の美とディオティーマと

の愛を全身をもって楽しんだ︒

遊び︑過ぎし年弟のカールと故郷のハールト

( H a h r d )

の森の巌の上で︑一壺の果酒を傾けながらクロップシュト

ックの﹃ヘルマンの戦い﹄を読んだ︑晴れわたった五月の午後の時を追憶している︒︵一七九六年十月十三日弟に︶

︵第六巻ニー七頁︶この疎開の旅路にあった二人の幸福はその絶頂を極めている︒それ故後年フランクフルトを去

ふたりは魂に於て︑心に於て︑眼に於て︑見ることに於て︑か

ように自由で高慢で︑活溌で︑花咲き輝いていた︒そしてふたりはこの世ならぬ平和のうちにかくもいっしよにお

ドリプルクの滞在は秋の初めまでつづいた︒十月の初め一行は三ヶ月の不在ののち︑多くの戦災をうけたフラン ハインゼは九月十三日

1 9 2  

(16)

クフルトに戻ってきた︒これより先き詩人がフランクフルトに来た年︵一七九六年︶の冬は哲学の研究に全心を捧

げた形跡がある︒﹁僕の今おかれている新しい環境は有難くも鹸良なのだ︒僕には自分の仕事をする多くの余暇が

ある︒そして哲学はまたしても殆んど僕の唯一の仕事だ︒僕はカントとラインホールトの研究にとりかかった︒そ

して君が目撃していたあの成果のあがらなかった努力によって散漫となり︑薄弱となった僕の精神を︑この本領に

おいて再び集中し︑強化したいと望んでいる﹂︵第六巻二○二頁︶とニートハンマーに彼の念願を告げている︒

︵九六年二月二十四日︶﹁しかしイエーナから持ち越した余韻はいまでも余りに力強く僕の心の中に響いている︒

そしてその憶い出は今でも大きな力をもちすぎているので︑現在は僕にとって効験あるものとはなりえないだろ

う︒いろいろの線が僕の頭の中で交錯している︒そして僕はそれをほぐすことはできない︒設定された哲学上の課

題が必要とするような持続的な骨の折れる仕事をするにいまだ十分心が落ちついていない﹂と︑偽わらざる自己の

心境を披瀝している︒これはヘルダーリンがディオティーマに接近して詩人の世界観に一大転換をもたらした新し

い境涯と現在とに直面しているが︑詩人に何の効験ももたらしていない姿を物語っている︒それだけにまた他方イ

エーナヘの郷愁に苦しんでいる詩人の姿をも物語っている︒それはシラーやフィヒテから受けた諸々の精神的危機

を憶いだしながらも︑イエーナを去っ︷てから形而上学的翼をもった空気の精霊︵F呉信①璽閂︶の影響を脱し切れ

ずに︑今もって悩んでいる詩人の姿を物語ってもいる︒しかしそれはその年の十一月二十日︑ヘーゲルに宛てて︑

﹁僕がフランケンから携えてきた地獄の精霊や︑イエーナから僕についてきた形而上学的翼をもった空気の精霊は

僕がフランクフルトに来てからは僕を見捨ててくれた﹂と書いているところをみると︑ディオティーマとの愛によ

って詩人として成長するにつれて︑形而上学的雰囲気から漸次遠ざかっていったと思われる︒それは翌九七年二月

十六日︑ノイッファーに宛てたディオティーマ讃美の書簡の中で︑﹁僕は殆んど全く哲学の思索をしない﹂︵第六巻

11叩

193

(17)

二三五頁︶といっているところによっても明らかである︒ヘルダーリンは︑ベーリング︵弓言呂貝国四閂言巴も

いっているように︑詩人であると同時に思想家である︒この事実は正に彼の偉大と意義とを示す本質的な基礎であ

る︒が︑しかし第一にしかも彼の本質の最も深い根底においては彼は徹頭徹尾詩人である︒それ故その年も新緑の

煙るとともにディオティーマとの愛がたかまってくると︑純粋思惟の活動は鈍って︑感情生活がもたらしたディオ

ティーマをめぐる多くの讃歌を初め︑﹃標の木﹄e5国g悪屋日の︶﹃春に寄せて﹄︵津ロ号ご国三三言巴﹃エーテ

ルに寄せて﹄︵シロ号ロシ吾閂︶﹃さすらい人﹄e閂三四国烏蔚己というような新しい形式の多くの自然詩を産む

に至った︒しかしこれらは単なる自然の風物を歌った詩ではない︒詩人の心に深く根ざしている︑自然を神として

仰ぎ見る崇高な自然観が歌われている︒自然の生命を信仰をもって直感してこそ初めて感ぜられる確信を歌ってい

る︒従って一一ユルティンゲン時代の﹃自然に寄せて﹄に現われているような不安な悲歎がない︒﹃柵の木﹄では︑

自然を喪失してしまった人工的な庭園から出てきた詩人は巨人の群のように︑人間界よりもおだやかな世界にそそ

り立つ槻の木に想いをはせる︒まだ俗世の汚濁に染まらず︑たのしく︑自由に︑力強い根もとから互に上へ上へと

せり合い︑鷲が餌物をとらえるように遅ましい腕で空間をつかみ︑雲の方へ︑朗らかに大きく︑日に輝く梢を向け

て︑空の星が大きな個々の存在でありながら︑宇宙の調和のうちに栄えているように︑めいめいひとりの神として

自由な結合をして共存する棚の木をみて︑わが身のうとましい窮屈な現在と比べている︒そして詩人は現在のフラ

ンクフルトの︵広い意味ではドイツの︶奴隷の状態︻扁呂扇呂画沖を耐えしのぶことができさえするならば︑こ

の榔の木の森を決して羨むこともなく︑喜んで世間づき合いに身をまかそう︑もし愛を離れきれない心が私を世間

づき合いに縛りつけさえしなければ︑どんなにか喜んで君たちの間に住むだろう﹂と歌っている︒〜

﹃エーテルに寄せて﹄を読むと︑詩人は﹁父なるエーテル﹂に心ゆくばかりの惜しみない讃美の声を寄せてい

1

194

(18)

rる︒﹁ああ父なるエーテルよ/神々と人間のうちだれも︑おんみのように親しく真心を寄せてわたくしを育てて

かいな

くれたものはない︑母が腕にわたしを抱いて乳房をふくませてくれた時より以前に︑おん身はわたしをやさしくと

らえて天の甘露を聖なる気息をまずわたしの芽生えゆく胸の中にそそいでくれた︒﹂

いのち

生命あるもの何一つとしてエーテルの美酒に育てられないものはない︒それ故生命あるものはいずれも皆エーテ

ルを愛し︑たえずエーテルを求めて力戦苦闘しながらよろこび育ってゆく︒植物は眼でエーテルを求め︑丈低い

灌木も内気に腕をエーテルの方へ延ばしている︒種子はエーテルを見い出さんとして穀を破り︑森はエーテルの浪

おもて

に浴さんとして雪を払いのける︒魚は生れおちるやエーテルに憧れて輝やく流れの面に躍りいで︑地上を歩む動物 はがねうなじ はエーテルにひそかな愛を寄せては︑鳥のようにエーテルのもとに天翔けりゆく︒駒は曲った鋼鉄のように頚をぴ

ひづめ

んとはねて︑蹄の跡も砂にのこさない︒牡鹿もその足を草の茎に軽く触れて︑激流を跳び越え︑目にもとまらぬよ

うに逸くまを馳けてゆく︒しかしエーテルの寵児︑幸多き烏は父の永遠の大広間に心楽しく棲み︑戯れている︒﹁な

ふるさと

つかしい故郷のように︑エーテルは天上よりさし招く︑するとわたしはアルペンの嶺に登って急ぎゆく鷲に呼びか

けよう︒かつてツォイスの神がガニメートを腕にいだきかかえたように︑わたしを虜囚の境からエーテルの大広間

︑︑︑︑︑ ﹃棚の木﹄で﹁奴隷の状態を耐え忍ぶことができない﹂と願った心境と︑ここで﹁虜囚の境からエーテルの大広

間に運んでくれ﹂と念ずる心境とは一つである︒この歌もまた﹃榔の木﹄と同じように当時のフランクフルトの社

会︑否広くドイツの政治的・社会的状勢のただならぬ不自由と窮屈とを感じて︑⑳神々の愛を想う広大無辺な﹁エー

テル﹂の世界に憧れている︒しかし詩人にとっては母なる大地も父なるエーテルと同じように離れ難い愛着の世界

である︒それ故この詩は次の詩句で終っている︒﹁だがわたしは︑おん身がほの青い波で見も知らぬ岸辺をつつむ に速んでくれと︒﹂

I

195

(19)

1

最後にディオティーマ讃歌とならんでフランクフルト時代の最も秀でた詩の一つである﹃さすらい人﹄は︑ヘル

ダーリンの詩の特色ともいえる所謂国外への旅と帰郷という二段構えの結構をもっている︒そして国外への旅もま

た二段構えで旅人は先ず﹁天空からは火の雨がふりそそぐ﹂という荒漠とした不毛の地アフリカを旅し︑次に﹁雪

いまし

の穀の中で縛められた生命が死んでねむり込んでしまった﹂という氷極を流浪した旅人が最後に安息の地l故郷

の国︑ドイッーラインの岸辺に還ってくる︒ここの旅人は勿論詩人自身を象徴していることはいうまでもない︒

詩人の今までの永い生涯において︑或は炎熱焼くような不毛の土地をさすらい︑果しなく堅氷のつらなる酷烈な平

原に流転の旅をつづけてきたことは今迄の彼の生涯をみても肯定される︒この人生の苦難を体験した詩人は︑やっ

と平和な田園詩的なシュワーベンの故郷が象徴するディオティーマの愛の懐に還ってくる︒

幸ある国/この国で葡萄の樹の茂らない園とてもなく︑

秋ともなれば生い茂る草の中に︑果実は雨とふり注ぐ︒

という詩句で初まるラインの岸辺の自然の美しさを︑ヘルダーリンのこの詩のように︑荘重にしかも牧歌風になご

やかにやさしく歌ったドイツの詩人を私は知らない︒

故郷の自然よ/何とおん身はわたしにいつも変らぬ真心を示してくれるのか/

いつものようにおん身はやさしくいたわりながら今なお漂泊のわが身を迎えてくれる︒

故郷の自然がやさしくいたわりながら詩人を迎えてくれるのはこの歌においてばかりではない︒奇しくもいくた ルよ/みづか 生きていたい︒﹂ おぼろなおち方に高く想いをはせると︑おん身はざわめきながら︑果樹の花咲く梢からおりてきて︑父なるエーテ ルよ/みづからはやるわたしの心をやわらげてくれる︒しかしわたしは以前のように今も大地の花といっしょに

196

(20)

較を絶したものである︒ はでやかな太陽よ/わたしはより忠実に︑より賢くなっておん身のもとへ帰ってきたのだ︒

たい

心平らぎ嬉しく花の間に憩うために︒

と八十四行にわたるこの長い詩は終っている︒

ところで一七九七年という年は︑ヘルダーリンの詩の歴史に一つの大きな転換期をもたらしている︒テュービン

ゲン時代の讃歌の姿勢はディオティーマ讃歌においてその絶鎭を極めていると同時にまたその終末をもとげてい

る︒つまりディオティーマ讃歌で一切の押韻のある聯はひと先ず幕をとじた訳である︒それが再び乱心の時代に採

用されているが﹃ランダウァーに捧げる﹄︵シロ伊目9口2︶一八○○年十二月十一日ランダウアーの誕生日に

I詩だけは唯一の例外でその音調の簡素な点と深遠な点に於てまたその譜音の神秘な点においてドイツ詩史上比

ヘクサメータ

以上解説してきた三つの詩は形式からみても︑その内容からみても挽歌風なもので︑その詩句は六脚韻である︒

しかもヘルダーリンの鮫も円熟した詩に於いてみられるような呼吸いっぱいの幅で歌った韻律が初めてこれ等の詩

において現われたのである︒永い創作の歴史をもった小説﹃ヒュペーリオン﹄もいよいよ殻後の筆が加えられ︑そ

の第一巻がコッタ書店から出版されたのもまたこの年の復活祭であるし︑更にエムペドークレスの死を資料とした

戯曲が企てられ︑既に細密な設計が詩人の胸中にかくされていたのもまたこの時期である︒

ここで再びヘルダーリンとシラーとの関係について述べておこう︒前章において既に説明しておいたように︑ヘ

ルダーリンは︑師の作品﹃理想と人生﹄に対して飽くまで厳しい批判を下していたが︑この一事をもってただちに びも人生の苦難に打ちくだかれた詩人の生涯において︑心の安息と平和を求めるためにいくたび詩人は故郷の自然 の懐に逃げ帰ったことか︒

I

I

197

(21)

TIIIIllIlljII8Ⅱ1日ⅡlLⅡIⅡI︲11日■I︲Ⅱ︐−10︐IlljiII1II●I

人間として︑シラーから離反したと速断することはできない︒これを肯定する事実は︑﹃年刊詩集﹄のために四つ

の詩篇︵﹃知られざるものこ﹃ヘルクレスへ﹄﹃ディオティーマ﹄﹃賢明な助言者へ﹄︶を送ったことを報じている

カッセルからの手紙︵一七九六年七月二十四日︶にもあるように︑イエーナヘの巡礼は︑ヘルダーリンにとっては

寧ろ本能であり︑衝動であった︒しかしシラーはそれにも返答を与えず︑相変らず沈黙を守っていた︒

そこで遂にヘルダーリンは一七九六年十一月二十日︑シラーに宛てた第四番目の書簡で心中の苦悶を訴え始めて

いる︒これもまた先きの書簡のようにまことに悲痛な叫びであるが︑従来の書簡に見られるような若者らしい不安

の心はない︒この書簡にはズゼッテ・ゴンタルトとの愛によって克ちえた自信が溢れている︒先きに﹃年刊詩集﹄

のために送った四つの詩篇を送り返してくれという懇願がこの手紙を書く口実となっている︒﹁私についてのあな

たのお考がお変わりになったのですか︑あなたはわたくしのことをお見捨になったのですか︒﹂そういいながらも︑

彼はもう一度師に対する愛と尊敬とを心から告白している︒﹁私は何等かの業績をあげて︑もう一度あなたのご満

足の徴をえるまでは︑心休まらないことを知っています︒﹂

この書簡に対しては流石に永い間沈黙を守っていたシラーも遂に折れ︑率直に折返し返事を書いている︒一七九

六年十一月二十四日のこの手紙は︑極めて温情のこもった︑まことに好意に溢れたものである︒﹁私はあなたの考

えているように︑決してあなたを忘れたものではない︒ただいろいろと気がとり紛れ︑忙がしかったのと︑私の例

の筆不精とが︑あなたのご懇書に対してこうも永く返事をためらっていたのです︒﹂そしてヘルダーリンの送った

詩集が﹃年刊詩集﹄に載せられなかったのも︑到着が数週間おくれたためで決してシラーが故意に斥けたためでは

ない︒それ故次の﹃年刊詩集﹄にヘルダーリンの才能の円熟した永遠性のある作品が載せられるなら︑自分も非常

に歓びであるとまでいっている︒﹁願わくはあなたの全力と全注意とを集中し︑有利な詩的素材を選択し︑それを

198

1

(22)

1−︲lllIIllⅡ111︲lI1l1l.愛し︑いつくしんで胸底におさめ︑好機到来したとき静かにそれを熟せしめて︑完成してやって下さい﹂と励まし

ている︒しかしわれわれにとって甚だ不可解なことは︑若いときにあれほど哲学的思想詩にこったシラーが︑でき

るだけ哲学的素材を避けてくれ︒それは詩作にとって最も礼儀知らずのものだ︒そんな素材とつまらぬとっ組み合

いをしているうちに︑最善の力が消滅してしまう︒﹁あなたが感能の世界にもっと近づくと︑感激のうちに冷静さを

忘れたり︑或は作為的な表現に迷ったりする危険に陥ることもなくなるでしょう﹂と書いたり︑﹁また私はドイツ

詩人の牢として抜くことのできない欠点︑即ち文体の冗長迂遠に陥らないように警告したいものです︒それが果て

しなく遂行され︑詩の聯が潮のように満ちてくると︑しばしば最もかぐわしい思想をも圧殺してしまう︒これがデ

ィオティーマに捧げる詩を少なからず害ねているのです︒簡単な全体に結びついている二三の重要な特徴があれば

この詩は美しいものになったでしょう︒それ故私はあなたに何よりも賢明な節約︑重要な言葉の注意深い選択︑そ

の言葉の簡明な表現をおすすめします﹂とも書いている︒

レールプリーフ

この書簡はポルヘルト教授の所謂﹁教訓書簡﹂というものだが︑ヘルダーリンの最近の詩︑殊にディオティーマ

讃歌に対する以上の警告はまことに見当違いのものである︒シラーに送って︑彼によって非難された︺﹄己旨言昌以︽

の原文をここにあげておくが︑この詩のどこに冗漫と迂遠とがあろうか︒

ロざ蝕日四︵三登庁8国閉の自国四

Fmpmの詐○・計宮口・註の儲ぐ①時の○ぽざのの①P

⑦烏ご津冒の言国の簡巳のg底ひロの里ご巴鳶

の①言①国司の侭の豆口彦口匡口Qの石弓脇のP

zのロくopFのず①ロの丙崎四津胆$o宮言巴房 lllI

l

199

(23)

○一旨彦丙の面局のロ○○彦言㎡Fのずの房

二言討匿の時四国の一口Fロ津ppQF旨西井

室の言2国言白gの巴侭の茸gg

疹匡の号局Q働国の口国働豚のず国○三.

要するにシラーは門人の杼情詩人としてのヘルダーリンの天才性と独創性とを認識できなかったのである︒それは

﹃ディオティーマ﹄よりも一年前に制作されたシラーの秀れた杼情詩の一つである﹃理想と人生﹄e閉固の巴

ロロロgのFggご誤︶と比較してみることによって証明されると思う︒そもそも﹃ディオティーマ﹄讃歌とシラ

ーの上述の詩﹃理想と人生﹄とはある種の内的連関を保っているといわれているのは正しい︒というのは﹃ディオ

ティーこ讃歌はシラーのこの詩の場合と同じように哲学的︑反省的な色彩においてではなく︑杼情的︑個人的な

言い表わし方において地上の力も神の指図も及ばない同旨ppqシ房のたらんとする充実した永続的な生存と︑生

あらそい

の不安に満ちた﹁混沌の争闘﹂a$巴討ロO富8画三里︶と﹁窮乏と時間﹂︵zgppQNのどの支配する世界とを対

立せしめているからである︒しかしヘルダーリンはシラーのように単なる理想主義者ではない︒真に重要なことは

二人の詩人は根本的に天地雲泥の違いのある資性をもっていたということである︒極言すれば空想主義者ではなか ︑︑︑︑ ったという点である︒それ故ヘルダーリンは単に空想のうちに描いていたよりも美しく︑愛の祝祭に於いてディオ

ティーマを見い出しているのである︒

永遠の調和のうちに ああ空想の貧しさよ/

ひと

このひとりの女性をつくりしものは

11

200

(24)

本領に立ち還ったのである︒ 美しいものをこのようにいだいても︑ もうふるえたりはいたしません︒﹂ 先きに述べたディオティーマ讃歌をみて この﹁貧しい空想﹂と﹁歓びのうちに完成した自然﹂との対立は正に詩人としてシラーとヘルダーリンの対立を示 唆しているように見える︒これが更に明瞭に表現されているのは︑小説﹃ヒュペーリオン﹂︵第一巻︑第二章︑書簡 第十七︶︵第三巻七三頁︶の中にでてくるヒュペーリオンの言葉である︒﹁ああディオティーマよ/ たしは従来も︑わたしの愛が創造したほのかな神々の像の前に立っていたのです︒わたしの孤独な夢が創った偶像

まご

・﹄

の前に立っていたのです︒わたしはその偶像を真情を寄せて養い育て︑またわたしの命をかけてそれに命を与え︑

わたしの心の望みをかけて生気づけ温めてきました︒しかしその偶像はわたしが与えたもの以外には何もわたしに

与えてくれなかった︒ですから私が貧しくなったときは︑それは私を貧しいままにしておいたのです︒ところが︑

今わたしはおん身を腕にいだき︑おん身の胸の呼吸を感じ︑わたしの眼の中におん身の眼を感じています︒美しい

現在の姿がわたしの五官のなかへ流れこんできています︒そしてわたしはそれに堪え︑わたしはこの世のいちばん

も︑またこのヒュペーリオンの言葉から考えても︑ディオティーマ体験がヘルダーリンに︑どんな効果を与えたか

は言わずとも明らかなことであろう︒それはイエーナ時代にフィヒテやシラーの理想主義的な観念論の哲学の影響

をうけて︑所謂﹁空気の精霊﹂の翼に乗って詩人の所謂﹁歓びに完成した自然﹂を忘れていたのがいまフランクフ

うつしみ

ルトに来てまのあたり永遠の美︑聖なるもの︑神々の像︑ディオティーマの現身に出会って︑初めて詩人は自己の

地上の力も

神の指図もわれわれを離さず そういう訳でわ おん身︑歓びのうちに完成した自然のみ︒

2 0 1  

(25)

とも促している︒ 思想の自由にのがれよ/ 五官の制約をぬけいでて とも警告し︑またこの詩の終りの方では︑ 理想の郷土にのがれよ/ この窮屈なもの憂い人生から そのいづれを選ぶかの不安が人間にだけのこっている︒ この観点からシラーの詩﹃理想と人生﹄をもう一度回顧するとディオティーマ讃歌とこの詩との間には互に相

官能の幸福か︑魂の平和か

一七九五年には︑まだこうした二元論に悩んでいたシラーは︑

しかしヘルダーリンにとって重大なことは︑その﹁ヒュペーリオン﹂ 叉する多くの点が明らかになるだろう︒ わたしが存在していることを知っている 指尺をもって計られないところにこそ ささやかな利益も われわれが窮乏と時とを忘れ そこにこそわたしの本頷があるのだ われわれが一にして全なるものにならんとするところ︑

の中でも言っているように︑

﹁ デ

ィ オ

(26)

ヘルダーリンの抒情詩人としての真髄を看破することのできな ーマの美しい現在の姿が詩人の五官の中へ流れこんでくる﹂ことである︒ここに二人の詩人の資性に大きな相違の あることを知る︒ ヘルダーリンにとってはシラー的な峻厳な相反

1

官能の幸福と魂の平和'~は克服され、従っ

てシラーの詩において到底人間の達しえられない﹁神々の青春﹂

( G o t t e r j u g e n d )

が実現されている︒

ディオティーマ/ 幸多きものよ/

以上の叙述でも明らかになったように︑敬虔な態度で自然に随順しようとしているガニメート的なヘルダーリン

と理想主義的にいまだに自我に固執しているプロメトイス的シラーとは互に次元を異にしているので︑到底相容れ

る余地がなさそうに見える︒これはどうすることも出来ない宿命であって︑両者の間に起ったいろいろの不理解も

不幸も皆ここに胚胎しているように思われる︒しかしまた一っシラーにとって遺憾なことは︑近代の批評家のよう

ヘルダーリンの全作品を歴史的に概観する機会がなくて︑彼の手許に送られた少数の詩だけに着眼したという

ことである︒これ等の少数の詩を散見しただけで︑

かったことは勿論である︒フンボルトとの書簡の往復にもあるように︑ シラーは寧ろヘルダーリンの詩を見て︑自

分の青年時代に一度通った道と同一の道を歩んでいるのを感じたに相違ない︒それ故彼は自分の詩の病弊ともいう 変わることなく永遠の廃墟の中に咲いている 彼等の神々の青春の薔薇の花は しかるにシラーにおいては︑ 生の不安から癒やされたわたしの霊は 神々の青春が約束されたのだ/ すばらしいものよ/おん身によって

(27)

l

I

べき欠点を注意することに急であって︑ヘルダーリンの詩が全然別個の世界観的告知を含んでおり︑従ってまた全

然別個の形式を必要とすることを認識していない︒そういうわけで︑ヘルダーリンは師の的をはずれた助言を聞い

ても︑別に感銘を受けるどころか︑却って新たに失望を感じたことはいうまでもない︒それ故その後半年以上一一人

の間に書簡の往復が杜絶えたのも︑そのためであろう︒一七九七年六月二十日︑即ちシラーとシュレーゲル兄弟と

の有名な悶着が起った時代にヘルダーリンが手紙をだしている︒この書簡には従来見られない新しい調子が出てい

る︒﹁人性と事相の世界において最高のものとして﹂︵﹃ヒュペーリオン﹄第一巻第二章︶︵第三巻五一頁︶求めあぐ

んだ永遠の女性ズゼッテ・ゞコンタルトによって︑ヘルダーリンは人間として︑また詩人として成熟した︒﹁僕の悟

性は彼女によって学び︑僕の不統一の心は静まり︑そして彼女の十分な平和を受けて快活となる﹂と︑ノィッファ

ーにいっているように︑平静と安定とが彼の人格から輝きだしている︒ささやかな誇りと自負を感じながら︑こう

シラーに告白している︒﹁私は他の芸術批評家や巨匠達から独立し︑その限りにおいて必要な心のおちつきをもっ

て私の道を進むだけの勇気と独自の判断とをもっています︒然し私は金輪際あなたに依存しています︒﹂この手紙

は以前の手紙のように心の弱さを示していない︒寧ろ内心の愛情を吐露したものである︒そしてその年の復活祭に

出版した﹃ヒュペーリオン﹄の第一巻を同封で送っている︒

更に重大なことは︑ヘルダーリンの詩作の歴史において一転機を画している﹃エーテルに寄せて﹄と﹃さすらい

人﹄とを送ったことである︒しかるにシラーはこの斬新な様式の詩を批判する自信がなかったのか︑作者の名をあ

げずに︑直ちにこれ等の詩をゲーテに送ってその批判を乞うている︵一七九七年六月二十七日︶︒しかし不思議な

ことにまたすぐその後から追いかけてシラーは作者の名をあげてこう書いている︒﹁正直なところ︑私はこれ等の

詩のうちに︑私自身の昔の姿の多くのものを発見しました︒そして︑作者が私に私のことを思い出させたことはこ

ljjIlloIIjIII・1111140︲︲B巳ⅡⅡ10Ⅱ1111.IIoIIlI

204

(28)

しかしゲーテは作者の名をあげていない詩に対して︑極めて用心深い態度を示している︒﹁ここに返送する詩に

対して私は全然好意をもたない訳ではありません︒従ってこれ等の詩は読者の共鳴を博することに間違いはないで

しょう︒勿論﹃さすらい人﹄においてはアフリカの砂漠と北極とは官能的直観によっても︑また内的直観によって

も描かれてはいません︒寧ろ両方とも無いものによって表現されています︒そのため作者の意図に反して後にくる

ドイツの美しい情景とのコントラストも十分浮び出ていません︒﹃エーテルに寄せて﹄も︑詩的よりも博物学的様

相を呈しています︒従ってあらゆる動物が天国のアダムの周囲に集まっている絵を想わせます︒両方の詩には無慾

に終る温和な努力が表現されています︒この詩人は自然を明朗な眼差で眺あています︒しかしただ伝統によっての

み自然と近づきになっているようです︒﹂︵一七九七年六月二十八日︶更にゲーテは七月一日の書簡でこういってい

る︒﹁しかしこれ等の詩はあなたの作品のもつ豊かさや︑強さ︑深さをもっていません︒しかしその代わりにこれ

等の詩の価値は︑ある可憐さ︑深密さ︑節度にあります︒﹂しかし先きの書簡︵六月二十八日︶において︑﹁詩人に

なるよき要素はこの両方の詩に現われています︒しかしそれだけでは詩人になれません︒﹂これを要するにゲーテ 九七年七月一日︶ れが最初ではありません︒彼はある激しい主観性と︑それとある哲学的精神と瞑想とを兼ね具えています︒彼は危 険な状態にいます︒と申すのは︑こういう人物は仲々手に負えないからです︒しかし私はこれ等の最近の作品と以 前の作品とを比較して見ると︑ある種の改善の兆を見いだしています︒つまりこの作者はあなたが二三年前私のと ころでお会いになったことのあるヘルダーリンです︒﹂︵一七九七年六月三十日︶これに対してゲーテもまたシラー の詩とヘルダーリンの詩との間に緊密な関係のあることを認めている︒﹁私があなたに白状したいことは︑あなた の手法のあるものがこれ等の詩から感ぜられたことです︒あなたの詩に似た傾向が見のがせないでしょう︒﹂︵一七

205

(29)

でさえも︑今日われわれがこれ等の詩に対して認めている素睛らしい価値を遺憾ながら認めることはできなかった

の で

あ る

一 七 九 七 年 七 月 中 旬 ︑ シラーがワイマールのゲーテ家に滞在したとき︑

頭で助言しようという話も出たろうし︑ は容易に想像される︒そしてその夏フランクフルトを訪れることになっているゲーテは︑

シラーからは︑ゲーテの推薦どおり︑﹃さすらい人﹄を﹃ホーレン﹂誌上

かくて一七九七年八月二十二日︑ フランクフルトにおいてゲーテとヘルダーリンとの出会が起った︒勿論これは

両人の最初の出会ではない︒既にヘルダーリンのイエーナ滞在時代にシラー家において偶然二人は会うているし︑

ヘルダーリンを︑親友シラーの門人として遇していたので︑予想以上の好意

をもって彼を迎えたに違いない︒それはその翌月︵八月二十三日︶ゲーテがシラーに宛てた書簡に現われている︒

﹁昨日ヘルダーリンも私のところに見えました︒彼は少し意気錆沈して︑顔色がわるいようでした︒だが彼は本当

控 え 目 で あ り ︑

ズゼッテとの愛をめぐって深刻な苦悩に捉われていたのを︑ゲーテが看破した言辞であろう︒しかし詩作に関して

どの詩にとっても人間的に興味ある対象を選ぶように助言しておいた﹂

VIルブ91フ

不思議なことに︑ゲーテのこの忠言は先きにシラーが所謂﹁教訓書簡﹄で忠告したのと全く同巧異曲である︒

これより先きヘルダーリンは一七九七年七月二十八日附のシラーの書簡を受けとっていた筈だが︑それは遣憾な

がら今日失われている︒しかしその内容はヘルダーリンの返事︵一七九七年八月︶から推察される︒ は

︑ ﹁

小 さ

な 詩

を 作

り ︑

﹁尊貴なる貴 と報告している︒ に愛すべき男であり︑ 紛れもなく不安にかられている﹂ と書いているのは︑ 当時ヘルダーリンが であったに相違ない︒またゲーテは︑ その後ワイマールでも何度もゲーテを尋ねているので︑ ヘルダーリンにとってはゲーテは信頼の情を寄せる大先達 に︑﹃エーテルに寄せて﹄を﹃年刊詩集﹄ に発表することにきめた話もでたであろう︒ ヘルダーリンを招いてロ ヘルダーリンが二人の話題に上ったこと

206 

参照

関連したドキュメント

再生可能エネルギーの中でも、最も普及し今後も普及し続けるのが太陽電池であ る。太陽電池は多々の種類があるが、有機系太陽電池に分類される色素増感太陽 電池( Dye-sensitized

上げ 5 が、他のものと大きく異なっていた。前 時代的ともいえる、国際ゴシック様式に戻るか

前回パンダ基地を訪れた時と変わらず、パンダの可愛らしい姿、ありのままの姿に癒されまし

このように雪形の名称には特徴がありますが、その形や大きさは同じ名前で

町の中心にある「田中 さん家」は、自分の家 のように、料理をした り、畑を作ったり、時 にはのんびり寝てみた

定的に定まり具体化されたのは︑

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思

消費電力の大きい家電製品は、冬は平日午後 5~6 時前後での同時使用は控える