被害者の承諾における欺罔・錯誤(二・完)
その他のタイトル Tauschung und Irrtum bei der Einwilligung des Verletzte (2)
著者 森永 真綱
雑誌名 關西大學法學論集
巻 53
号 1
ページ 204‑240
発行年 2003‑06‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00023361
︵以 上五 二巻 三号
︶
︵以 上本 号︶
目 次 は じ め に
一刑法上重要な欺岡・錯誤の内容ー法益関係的錯誤説の検討ー—!
1・ Ar zt
説
2
.主観的考察と客観的考察3・ Ar zt
説登場以降の学説の展開
4
.若干の事例検討括
. 5
二欺岡・錯誤と客観的帰属論
ー
. 序 論
2.欺岡に基づかない錯誤3
.欺岡により惹起された錯誤括
. 4
三 結 び被害者の承諾における欺岡・錯誤
森
永
︵ ニ
・ 完
︶
︱ 1
0
四真 ︵ 二
0
四 ︶
綱
被 害
者 の
承 諾
に お
け る
欺 岡
・ 錯
誤 ︵
ニ ・
完 ︶
で あ
ろ う
か ︒
欺岡・錯誤と客観的帰属論
頼んできた場合はどうであろうか︒あるいは B が ﹁ 右 の ︵ 木 製 の ︶
二
0 五
例 え
ば ︑
A が鉄製のボールなのに木製ボールであると B を馴して︑あるボールを足の上に落とすことに承諾させる
ことにより︑法益主体である
Bに大けがをさせたという場合︑これまで述べてきた基準に照らすと︑
Bの錯誤は法益
関係的であり︑またそれを惹起した行為者の欺岡も法益関係的であることから︑ A に傷害罪が成立する︒つまり︑刑
法上重要な欺岡・錯誤が存在することから承諾の構成要件阻却効はなお生じないというわけである︒しかし︑この錯
誤 が
A の欺岡により惹起されたのではなく︑ B が勝手に錯誤に陥り︑ B の側から鉄製のボールを足の上に落とすよう
ボール﹂というところを﹁左の︵鉄製︶
の ボ
ー
ル﹂と言い間違え︑奇妙だと思った A が﹁本当に左なのか﹂と聞き直したにもかかわらず︑ B がなお﹁左だ﹂と言う
の で
︑
A がこれに応じた場合︑どのように判断されるべきであろうか︒最初の事例と結論が異なる場合がありうるの
従来︑法益主体の錯誤が問題となる場面において挙げられる事例においては︑錯誤が欺岡によって惹起されたこと
が前提となっているものが多かったように思われることから︑本稿においても錯誤が欺岡によって惹起されたことを
前提に︑﹁刑法上重要な欺岡・錯誤とは何か﹂という形で論じてきた︒しかし︑先に挙げた諸事例のように︑錯誤が
欺岡によって惹起されたわけではない場合や︑それどころか錯誤が法益主体の落ち度に基づくような場合もある︒特
に最後に挙げた事例のような場合において︑常に法益主体の法益関係的錯誤を援用し︑法益侵害の 1
. 序 論
︵ 客
観 的
︶ 構
成 要
︵ 二
0
五 ︶について考察することにしたい︒ 第五三巻 件該当性︑違法性を認めることは妥当でない場合もあり得るように思われる︒このように︑欺岡の存在や法益主体の 落ち度などのような︑いわば錯誤の﹁原因﹂が被害者の承諾の場面においてどのような意味を有するのかについても 検討する必要があるのではないだろうか︒これが︑本稿の後半部分︑すなわち︵二︶
で取り扱われるテーマである︒
日本においてこのような錯誤の﹁原因﹂について詳細に考察したものはこれまでほとんど見られなかったように思
われるが︑ドイツにおいては既に
M e
t z
g e
r が 二
0
世紀の中頃には︑﹁軽率
( l e i c h t s i n n i
g ) ﹂になされた承諾は完全に
︵ ﹈
︶
有効であると述べていたのであった︒そして最近では錯誤が欺岡によって惹起された場合と法益主体自ら陥った場合 に区別して論じる見解も増えつつある︒ドイツにおけるこのテーマに関する議論を参照することは日本の議論にとっ ても少なからず有益であるように思われる︒特に︑錯誤を理由に承諾が無効となり行為者が処罰される場面の多くは 錯誤が欺岡によって惹起されている以上︑はたして欺岡が本テーマにおいてどのような意味を持つかを吟味すること は︑日本の学説が暗黙の前提としてきた理解を顕在化させることができるように思われるからである︒
そこで以下では︑まず法益主体自ら錯誤に陥った場面の考察から始め︑この場面で法益主体が法益関係的錯誤をは じめとする重大な錯誤に陥っているにもかかわらず︑法益侵害が構成要件に該当しない場合があり得ることを確認す る︒その次に︑錯誤が欺岡によって惹起された場合に取り組み︑欺岡が本テーマにおいてどのような意義を有するか
関法
一 号
二 0
六二0
六 ︶
ようになった︒例えば︑
二
0
七一度手術をすると元に戻すことができないことを 法益主体が法益関係的錯誤を典型とする刑法的に重大な錯誤に基づき法益処分をした場合にも︑法益侵害者の行為 が違法であると判断されない場合がありうるのではないかという考慮は︑先にも指摘したように既に一九四
0年代に
は見られたが︑このような考慮が活発に行われるようになったのは一九七
0年代に入ってからである︒まずかかる考
慮は︑法益主体が誤った表示をしたために︑法益侵害者が承諾の存在を信じ法益侵害を行った場合を巡って行われる
( 2 )
一 九
七
0年に出版された N
i p f
の
D is s
e rt a
t io n
においてそのような分析を見ることができる︒
彼は︑まず当時の学説状況を分析した上で︑いわゆる同意
( Ei n
w il l
i gu n
g )
りで同意は無効であるということについては完全な一致があるという︒しかし︑欺岡が同意の相手方によってなされ
たものではなく︑かつ欺岡の存在についてこの相手方が知らない場合︑異なった判断を行うべきことを主張し︑この
ことを明らかにするために
Ni p f
は︑以下のような事例を挙げる︒すなわち︑ある夫婦は二人子供がおり︑これ以上
欲しくなかったので︑夫は妻に断種をするよう勧める︒妻はこれに応じたので︑夫は学友の産婦人科医のところに相
談に行ったところ︑手術の必要な説明を全て夫に行った上で︑特に一度手術をしてしまえば元に戻すことはできない
ことを指摘し︑これらのことを妻に伝えるよう頼んだ︒さて夫は︑
妻に説明すれば︑妻は手術を拒否することが分かっていたので︑このことを秘して︑妻に手術に応じるよう説得した︒
妻は元に戻すことができないことについて錯誤に陥った状態で手術に承諾し︑手術は成功に終わった︒以上が
Ni p f
が挙げた事例である︵もっとも医師が妻本人に直接説明しない点で若干奇妙な事例ではある︒よって例えば大学病院
被 害
者 の
承 諾
に お
け る
欺 岡
・ 錯
誤 ︵
ニ ・
完 ︶
過失犯の成否 2 .欺岡に基づかない錯誤
の場合︑欺岡を同意の相手方が行った限
︵ 二
0 七 ︶
第 五 三 巻 一 号
︵ 二
0
八 ︶の教授が患者に虚偽の説明を行い手術に承諾させ︑執刀医はこの承諾に基づいて手術を行うという事例の方がわかり
やすかったかもしれない︶︒ともあれ︑
Nipf は︑彼が挙げた事例において︑夫に間接正犯が成立し︑かつ医師が不処
罰になることは疑いのないところであるが︑問題はそもそも医師の行為が構成要件に該当するかどうかであり︑これ
は表示と内心のいずれに焦点を当てて承諾の有効性を判断すぺきがという問題に依存するという︒そして同様の問題
性は︑外部の誰によっても惹起されたわけではない錯誤の場合に︑より先鋭化することを指摘した上で︑特に当時の
学説の中には動機の錯誤は重要でないとするものがあったが︑このような見解は法益主体の心理過程としての処分行
為にのみ焦点を当てたものであり︑相手方の利益に十分配慮していないと批判する︒そこで
Nipf は︑承諾の表示は
二つの要素︑すなわち処分行為とこの処分の明示から成り立っており︑相手方にとって手がかりとなるのは後者であ
るところ︑前者の処分行為に瑕疵があるか否かは︑相手方が自分で錯誤を惹起したか︑あるいは第三者が惹起したこ
とを知っていない限り︑知り得ないし︑さらに︑同意は自由に撤回可能である点も留意しなければならないと述べる︒
このような事情に鑑みれば︑同意者と相手方の利益調整をよりよく行うために︑相手方が当該同意をどのように理解
し︑判断しうるかということに焦点を当てるべきであるというわけである︒
このように問題提起した後︑ N ipf は︑以上の問題を論ずる前提として︑同意がなされる過程を①法益放棄の決意︑
②この放棄の外部への表明︑③この同意の相手方の認識という三段階に区別し︑①の段階の意思に焦点を当てること
は法的安定性を害し妥当でなく︑よって②の段階に焦点を当てるべきであるとして︑意思表明説が妥当であることを
確認し︑ただこの表明の形態は黙示的なものであってもよく︑結局同意の意味や射程は︑平均的な観察者を基準に決
定されるべきであるとする︒そしてその意味や射程がはっきりしない場合には︑相手方に照会義務が生じる場合もあ
関法二0 八
被 害
者 の
承 諾
に お
け る
欺 岡
・ 錯
誤 ︵
ニ ・
完 ︶
二
0
九り得るという︒このように一次的には表示の客観的意味から出発すべきであるとし︑ただ相手方が自ら不当な態様で 法益主体の処分行為に干渉した場合︑第三者の干渉を認識している場合に例外的に承諾は無効になるというわけであ 処罰となるかどうかの問題ではなく︑そもそも客観的構成要件該当性を認めるべきではないことを指摘した点は妥当 である︒ただ︑具体的にどのような不都合が生じるかを明確にしていないが︑おそらくすぐ後に紹介する
Ar
zt
が言
う正当防衛の危険という発想がその背後にあるものと思われる︒また︑承諾の方式の論点に絡めて表示の錯誤の論点
を論じたり︑相手方が錯誤を認識している場合に限り承諾を無効とする点は︑後に見る
R o x i
n らの見解に影響を与
えたものと評価できよう︒もっとも
Nipf の構想に関するさらなる考察は︑彼の見解をも参考にしつつ自説を展開し
た
R o x i
n の見解の検討において合わせて行うことにし︑同年に提唱された
Ar
zt
の構想を先に見ていくことにしよう︒
Ar
zt
もまた本論点に関する議論を活性化する契機を作った論者の一人といえる︒前述の通り
Ar
zt
が一九七
0年 に
( 3 )
法益関係的錯誤説を提唱したことは周知のことであるが︑同見解を提唱した著書の最後の箇所で︑法益主体自ら錯誤
に陥った場合と欺岡によって錯誤が惹起された場合とを異なった取り扱いをすぺきであるとし︑特に表示の錯誤の場
合︑常に承諾を無効とすることは︑理論的にも結論的にも不当であることを指摘していたのである︒
ま ず
︑
Ar
zt
が指摘する従来の通説の理論的な不当性についてまとめると以下のようになる︒当時の通説は被害者
の承諾という制度を︑法益侵害者を負責から解放するための特別の恩恵
( P r i v i l e g )
として捉えるものであり︑それ
は
M a
u r
a c
h
の﹁最も弱い不法阻却事由﹂という言葉に象徴されている︒このような通説の立場からは︑法益主体の
︵ 二
0
九 ︶以上の
Nipf の構想のうち︑まずそもそも表示の錯誤の場面で︵特に故意︑過失を阻却することが考えられる︶不
る ︒
第 五 三 巻 一 号
︵ ニ ︱
O )
危険負担という視点は問題とならず︑承諾の有効要件を厳格に設定し︑行為者にのみ危険を負わせることについて何
ら疑念は生じないことになろう︒実際︑通説は︑内心の意思と表示された意思の一致を承諾の有効要件と解し︑表示
の錯誤の場合に承諾を無効と解しているのである︒しかしこのような通説の構想は妥当でない︒法益主体の処分可能
性は法益の重大な構成要素と解されるところ︑承諾という制度はあくまでも法益主体の利益のための制度である︒そ
して︑このように法益主体の利益に資することを目的とした制度であると解される以上︑そこから生ずるリスクにつ
いてもある程度法益主体が負わなければならないのである︒このことは︑民法上の心理留保の場面を考えてみれば明
さ ら
に ︑
Ar
zt
のように考えないと︑結論的に不当な結果に至ることになるとして以下のようにいう︒通説からは
法益主体の正当防衛権を認めざるを得ないであろう︒しかし︑正当防衛権を用いて錯誤の結果を行為者に転嫁するこ
とは︑特にもっとも穏やかな手段である法益主体による撤回の表示がもはや間に合わない場合に︑不都合が生ずる︒
民法上表示の錯誤を理由に取り消す者は︑損害賠償義務を負うのと同様︑刑法上も表示された意思に対する行為者の
信頼は保護に値する︒このように正当防衛状況が生ずる場合がありうることから︑行為者に対し責任阻却事由を認め
るだけでは不十分であり︑既に違法性を阻却しなければならないのは明白である︒刑法においても︑自己答責性の原
則は承諾者に対し︑行為者に危険を負わせることを禁じているのである︒
以上のようなど•
z t
の主張のうち︑後者の主張︑すなわち誤った表示をした法益主体による正当防衛権の不当な行
使を制限できるところにこのような理論構成の意義があることを強調している点は︑日本の議論にとっても示唆に富
むものであると思われる︵前述の通り︑これは
Nipf も示唆していたことである︶︒特に︑過失を専ら責任要素と解し
ら か
で あ
る ︒
関法二 ︱ °
被 害
者 の
承 諾
に お
け る
欺 岡
・ 錯
誤 ︵
ニ ・
完 ︶
一 般 的 に は 攻
( 4 )
︵伝統的な旧過失論︶承諾の有効要件について意思方向説を採用する学説にとって︑決して無視することはでき ない問題提起といえよう︒なぜなら︑法益侵害者が︑承諾が錯誤に基づいていることについて認識せず︑またそのこ とについて過失もなかった場合︑責任段階で故意・過失が阻却されるからいずれにせよ不処罰を導くことはできるが︑
既に法益侵害を違法であると評価していることから︑法益主体の正当防衛権は容易に認められることになろうし︑さ らに意思方向説を一貫して適用し︑承諾の撤回も法益主体の意思方向で足りるとすれば︑ますます法益主体の正当防 衛権の行使が簡単に肯定されることになってしまうからである︒このような場合︑法益主体による挑発防衛として構
成することにより︑妥当な事例解決を図ることができると
A m e l u n
g は主張する︵但し︑彼は意思表明説を採用し︑
( 5 )
かつ法益関係的錯誤説にも反対する︶︒彼は︑通常は︑法益主体が自分の誤りに気付いた場合︑承諾の撤回が最も穏 やかで適切な手段であるし︑例外的に撤回が間に合わないか不可能な場合にも︑正当防衛状況に対して答責的な法益 主体は︑正当防衛権の行使が制限されることになるであろうから︑不当な結論に至ることはないと言うのである︒し かし︑なぜ法益主体は︑﹁違法な﹂攻撃者に対して撤回の表示をしなければならないのか明らかでないし︑特に撤回 が間に合わないか不可能な場合︑法益主体等による正当防衛権の行使は﹁制限﹂されるとしても︑法益侵害者にとっ て酷な結果になるのは避けられないであろう︒また︑日本におけるこれまでの挑発防衛に関する議論を前提とした場 合︑表示の錯誤の場合はもちろんのこと︑心理留保のような場合にも︑挑発防衛として構成しうるかについては疑問 が残る︒なぜなら︑挑発防衛を理由とした正当防衛権行使の制限を比較的広く認める立場においても︑
撃の認容のみならず︑積極的に防衛状況を利用する意図で挑発したことが︑挑発防衛成立の要件とされているからで
( 6 )
ある︵もっとも挑発防衛として把握したところで︑結局は承諾者やその相手方の態度を考慮せざる得ず︑主観的帰属 つ
つ
口
R o
x i
n を挙げることができる︒彼は︑ もっとも︑このように
A r
z t
の構想は示唆に富むものであるが︑表示の錯誤の場合︑基本的に承諾を有効と解すべ
きであることを指摘したにすぎず︑例えば N
i p f
のように相手方が表示の錯誤に陥っていることを知っている場合に
例外的に承諾は無効となるかどうかについて検討していないなど︑あくまでも問題提起に留まっていたものと評価で
きよう︒また︑承諾の有効性という要件の中で本問題を扱うことが妥当かどうかについては︑先に見た
Ni p f
や 次
に
見 る
R o
x i
n
の見解にも妥当することであるが︑なお検討を要すると思われる︒これらの点については後述する︒
以上のような
A r
z t
や N
i p f
の構想を手がかりに︑表示の錯誤の場面をより詳細に取り扱った代表的な論者として があるといえるのではないだろうか︒
第 五 三 巻 一 号
~
︵ニ︱
二︶
の検討だけでは不十分であることを認めていることに他ならないのであるが︶︒しかし︑
A r
z t
が 指
摘 し
て い
る よ
う に
︑
法益主体の心理留保により︑どう見ても承諾しているとしか受け取ることができないような場合にまで︑法益侵害者
の行為を違法と評価することについては疑問が残る︒従来から︑教科書等において︑冗談やたわむれによる承諾は無
( 7 )
効であるという記述がしばしば見られるが︑このような一般的記述は妥当性を欠くものと言わざるを得ない︒よって︑
A r
z t
の後者の主張には︑基本的に賛成に値すると言うべきであろう︒
ま た
︑
A r
z t
の前者の主張も示唆的であると思われる
( A r z
t 説に厳しい批判を浴びせた
A m
e l
u n
g や
R o
n n
a u
も か
( 8 )
かる視点を被害者の承諾に導入したのは
A r
z t
の功績であるという︶︒たしかに
A r
z t
が言うように︑法益を処分する
場面において︑たいていの場合︑法益主体は他人の手を借りて自己の利益を実現しているのであり︑正確に︑すなわ
ち先に見た N
i p f
の言葉を借りれば平均的な観察者から見て一義的と言えるような形態で︑自己の意思を伝える義務
関法一九八四年の論文段階では特に欺岡によって錯誤が惹起された場合に絞って論
被 害
者 の
承 諾
に お
け る
欺 岡
・ 錯
誤 ︵
ニ ・
完 ︶
述 し
て い
た が
︑
( 9 )
のである︒先にも述べたとおり︑
R o
x i
n は︑法益主体の錯誤が法益主体以外の者︵法益侵害を行う者︑あるいは第三 一九九一年に出版された体系書において︑法益主体自ら錯誤に陥った場合についても私見を展開した
者︶の欺岡によって惹起された場合と︑法益主体自ら陥ったものである場合とに区別し︑前者の場合︑先述した五つ
( 1 0 )
の類型に基づき承諾の有効性を判断するのに対し︑後者の場合︑たとえ法益主体が重大な錯誤に陥っていたとしても
原則として承諾は有効であるという︒但し︑ここで
R o
x i
n はいわゆる意思表明説と意思方向説に関する議論を本論
( 1 1 )
点に援用する︒彼は法的安定性の見地から承諾は何らかの形で外部的に認識可能な状態にあることが必要であるとい
う立場を採用する︒そしてあくまでも法的安定性の問題であるから︑必ずしも法益侵害を行う者に認識可能な形態で
表明される必要はないとする︵この見解はドイツでは折衷説
( v e n
n i t t
e l n d
T h e
e o r i
e )
と呼ばれている︶︒このように
承諾は常に何らかの形で外部に現れている必要があるから︑すなわち客観的な解釈により明らかになることだけが外
部に現れていると評価できることから︑欺岡に基づかない法益主体自ら陥った錯誤の場合には︑原則として承諾は有
効と解すべきであるという︒そしてこのような解釈は︑
A r z t
と同様︑実際上も︑法益主体による正当防衛権の不当
な行使を抑止できるため妥当であるという︒但し︑このような原則には二つの例外があるという︒ ︱つは︑法益侵害
者が︑法益主体が錯誤に陥っていることを見抜いているにもかかわらず︑ことさらにこれを利用した場合には︑権利
濫用の法理により承諾は無効になるとする︒よって例えば︑木の所有者が﹁この木を切り倒すことには反対です﹂と
書くところを誤って︑﹁承諾します﹂と書いた場合︑原則として承諾は有効であることから︑木を切り倒した者の行
為はそもそも構成要件に該当しないが︑しかし︑この者が木の所有者の書き間違えについて見抜き︑意識的に自分の
ために利用した場合には︑権利濫用の法理により例外的に承諾は無効になり構成要件に該当することになる︒二つ目
~ ︵ ニ ︱ ︱ ︱ ‑ ︶
第 五 三 巻 一 号
︱つ目は︑相手方が法益主体の表示の錯誤を﹁見抜
︵ニ
︱四
︶
の例外として︑医師のように錯誤を取り除くことについて保障人的地位にある者が作為義務に反して説明を行わな
かった場合にも︑承諾は無効になるとする︒但しこの場合︑説明義務を尽くしてもなお相手方が錯誤に陥っている場
合には︑承諾を援用してもよいとする︒この類型については表示の錯誤の事例を挙げていないが︑例えば﹁右から三
︵虫︶歯を抜いてくれ﹂というところを﹁左から三番目の︵健康な︶歯﹂と患者が言い間違えた場合︑
Ro
xi
n
説によれば︑医師はその表示内容の正誤について︑検査等を通じて明らかにした上で︑抜歯を行わなければならない
ことから︑直ちに患者の表示を援用して︑法益侵害を行ってはならないということになろう︒但し︑医師がいくら説
明をしても︑なお﹁左だ﹂と言い張るのならば︑承諾は有効ということになろう︒
ま ず
︑
Ro
xi
n
が︑表示の錯誤の問題を客観的構成要件において取り扱う点については︑
Ar
zt
説を検討した際に述
べた理由から賛成に値する︒また︑表示の錯誤の場面の取り扱いについて詳細に論じており︑本問題の解決に有効な
指摘をしていると評価できる︒しかし︑二つの点で疑問がある︒
き
(d
ur
ch
sc
ha
ue
n)
﹂︑﹁意識的に自分のために利用した
(b
ew
uB
f i i r
ts i c h
a u s
n u t z
e n )
﹂場合にのみ承諾を無効とすべ
きであるとしている点である︒このような場合には故意犯で処罰されるということになるのであろうが︑そもそも
﹁見抜いていた﹂︑﹁意識的に自分のために利用した﹂という表現の内容が明らかでない︒もし﹁見抜いていた﹂とい
う表現が未必の故意を排除するという趣旨なのならば︑中立的行為による捐助の論点における主観説に対するのと同
じ批判が妥当することになろう︒すなわち︑被害者の承諾という制度を通じて故意を段階付けることに他ならず︑ま
た﹁意識的に自分のために利用する﹂という要件と合わさり︑極めて心情刑法的な結論に至ることになってしまうの
( 1 2 )
である︒また︑未必の故意による処罰や過失犯による処罰の余地を完全に排除することは不当である︒ひょっとする 番目の
関法二︱四二︱五 と︑被害者の承諾という制度は基本的に法益主体の利益に資するものであり︑法益主体は責任を持って相手方が誤解 しないように自分の意志を明確に伝えるべきであるという考えが彼の見解の背後に存在しているのかもしれないが︑
一律に未必の故意︑過失に基づく処罰の可能性を排除すべきではない︒また逆の点でもRoxinの
︵これは通説からは受け入れがたい結論かもしれないが︶︒すなわち︑相手方が錯誤を確実に知っ
ているような場合でも処罰すべきではない場面が存在するのではないだろうか︵いわゆる特別知識の問題ーこれにつ
二つ目は︵先にも指摘したように︑
Ar
zt
説にも妥当することであるが︶︑これらの問題を承諾の有効性という要件
( 1 3 )
の中で取り扱うのはやや非体系的であるとの印象を受ける︒
こ の
点 ︑
Ja ko bs
は︑表示の錯誤や心理留保の場合︑許された危険︑信頼の原則を適用することにより︑事例の解
( 1 4 )
決を図るべきであるとする︒それ以上︑詳しくは述べていないが︑基本的には通常の過失犯の場合と同様に客観的帰
属論の中で︑それぞれの場面においてどの程度相手方の表示を信頼することが許されるかを判断すべきあるとするの
このような
Ja ko bs
の解決は︑結論的にも体系的にも満足のいく解決を提供しているように思われる︒信頼の原則
には被害者の自己答責性や︵被害者に限らず︶共同作業を可能にするための共働者間の役割分担という発想がその背
後にあるといわれる︒たしかに信頼の原則の適用範囲については争いがあるが︑被害者の承諾が問題となる場面にお
いても︑道路交通や現場作業と同じように︑法益主体と法益侵害者との関係にある程度の分業が認められることに鑑
みれば︑信頼の原則を適用し︑危険分配的な思考を持ち込むことも可能であり︑また妥当ではないだろうか︒ で
あ る
︒
被 害
者 の
承 諾
に お
け る
欺 岡
・ 錯
誤 ︵
ニ ・
完 ︶
いては後に詳しく述べることにする︶︒ 見解は妥当でない だ か ら と い っ て ︑
︵ ニ
︱ 五
︶
第五三巻一号
なお︑信頼の原則を犯罪論体系上どのように位置付けるかという問題は残るが︑社会生活上相当に振る舞ったにも
関わらず﹁構成要件に該当する﹂と評価するのは奇妙であるし︑また結果無価値論を前提としつつ﹁許された危険﹂
という違法性阻却事由を認めるのはその基本思想と相容れないものであることから︑基本的にはいわゆる行為無価値
( 1 5 )
論型の新過失犯論が妥当であり︑信頼の原則は客観的帰属を否定する原理として捉えるべきであると解する︒また︑
被害者の承諾の場面でのみ︑例えば
R o x i n
のように︑信頼の原則の問題を承諾の有効要件に位置付け︑法益侵害性
の有無の問題として捉えることは極めて非体系的であり︑賛成に値しない︒
Ni p f ︑
A r
z t ︑
R o x i
n らが承諾の有効性の
中で扱ってきた表示の錯誤の問題は客観的帰属の問題に解消することが体系性という観点からも妥当である︒
もっとも何をどの程度信頼してよいのかを一律に決定することはたしかに困難であるが︑承諾が問題となっている
( 1 6 )
状況・脈絡、表示者と相手方の立場•関係、彼らの行為の典型性などに応じて客観的に当該状況を解釈した上で、ど
の程度相手方の表示を信頼してよいかを決定すべきであろう︒例えば︑引っ越しの際に︑要るものと要らないものの
選別を事前に頼んでいた引っ越し業者向けに︑﹁この袋の中身は捨てないでください﹂と書くところを︑﹁捨ててくだ
さい﹂と書き間違えた場合︑引っ越し業者がこれを焼却炉に持っていったとしても︑その状況・脈絡に鑑みれば︑通
常はこの表示は信じてよい︒よってこの場合︑信頼の原則が適用されることにより客観的帰属が否定され︑かかる行
為は既に構成要件該当性が認められないことになる︒これに対して︑先にも挙げた事例のように︑患者が﹁右の
︵虫︶歯﹂というべきところを︑間違えて﹁︵健康な︶左の歯﹂を抜くよう医師に頼んだ場合︑医師と患者という立
場•関係に鑑みれば、医師は直ちにこの表示を信頼してはならない。この場合には、客観的帰属が肯定され、他に特
段の事情がない限り︑構成要件該当性︑違法性が認められることになろう︒
関法
二︱ 六
︵ニ
︱六
︶
被害者の承諾における欺岡・錯誤︵ニ・完︶
そして︑以上のような発想は︑単なる表示と内心の不一致の場合のみならず︑既に意思形成過程において錯誤に 陥っている場合︑すなわち法益主体が法益関係的錯誤をはじめとする刑法上重大な錯誤に自ら陥っていたために︑結 果的に真意に沿わない表示を相手方にしてしまった場合にも妥当する︒どの時点での錯誤であろうと︑危険分配の問 題は同様に生じるからである︒例えば先に挙げた引っ越し業者の事例で︑単なる書き間違いではなく︑そもそも袋の 中身を誤解していたがゆえに﹁この袋の中身は捨ててください﹂と書いた場合にも︑
二︱ 七
用されることにより︑客観的帰属が否定され︑構成要件該当性が認められないことになる︒
⑯ 故 意 犯 の 成 否
最近︑法益主体自ら錯誤に陥った場面で︑この錯誤を少なくとも未必的に認識しつつ法益侵害を行った場合に︑常
に故意犯として処罰すべきではないとの主張がなされており︑このような見解の当否如何が争われている︒例えば先
に紹介した
Ar
zt
の見解によると︑おそらく故意犯として処罰されることになろうし︑またこのような解決が通説的
な見解とも一致するものと思われる︒しかし︑先にも紹介したように︑
R o
x i
n の よ う に 錯 誤 を ﹁ 見 抜 き ﹂ ︑ ﹁ 自 分 の た
めに意識的に利用した﹂場合に限って法益侵害を違法と解するべきであるという立場もあるし︑その他中間的な立場
も存在する︒さらに
J a
k o
b s
らのように︑相手方が錯誤を明確に認識している場合であっても︑法益侵害が違法とな
らない場合を認める見解もある︒以下︑これらの見解の妥当性について検討するが︑特に通説的解決と対局にあり︑
かつ最近日本においても有力な批判を受けている
J a
k o
b s
らの見解について検討することにしたい︒特に日本の有力
説の批判の的となったのは︑
J a
k o
b s
のもとで執筆された
G o
b e
l
の 一
九 九
︱ 一
年 の
D i s s
e r t a
t i o n
の中で挙げられた以下
( 1 7 )
の よ う な 事 例 で あ る ︒
︵ニ
︱七
︶
一定の場合には信頼の原則が適
第五三巻
︵ ニ
︱ 八
︶
例えば︑花を栽培している A は隣人 B
に ︑
A の花に殺虫剤を撒くよう頼むのだが︑その際︑花を枯らしてしまうよ
うな濃度の殺虫剤を手渡してしまったため︑花が枯れてしまった︒しかし︑実のところ B は偶然にも殺虫剤に関する
専門知識を有していたため︑その殺虫剤を撒けぱ花が枯れることを知っていたにもかかわらず︑ A に嫌がらせをする
目的で殺虫剤を撒いたのであった︒この事例において法益主体である A が法益関係的錯誤に陥っていることは明白で
あるが︑この場合
Go
be
l
によれば︑当該法益侵害結果はそもそも B に客観的に帰属されず︑従って B の行為は器物
損壊罪の構成要件を充足しないという︒その理由として︑この場合隣人 B は所有者 A
の 手
足
(G
ob
el
の言葉で言えば
﹁ 伸
張 さ
れ た
腕
( v e r
l i i n
g e r t
e r
A
r m
) ﹂︶として行動したに過ぎず︑規範的見地からは A の組織領域に帰属されるべき
事 柄
で あ
り ︑
B は負責から開放されるべきであって︑錯誤の認識という単なる心理的事実によって刑法上の答責性を
基礎付けるべきではないと述べている︒これは︑
Ja ko bs
の遡及禁止論に倣ったものであるが︑要するに︑いわば
﹁単なる隣人﹂として関わった B は彼が偶然有していた専門知識を用いて︑ A の錯誤に配慮する必要はないというわ
け で
あ る
︒
Go
be
ーは︑この場合︑器物損壊罪は成立せず︑せいぜい一般不救助罪︵ドイツ刑法第三二三条 C)
に よ
っ
てしか処罰できないとしている︒
( 1 8 )
これに対し︑小林憲太郎は︑
Go
be
l
が挙げる事例を紹介した上で︑﹁現に被害者の保護されるべき利益が侵害され
ており︑しかも行為者が事情を熟知していれば︑そこで﹃行為をやめよ﹄という命令を刑罰によって担保しても︑行
為者の保護されるべき利益︵行動の自由︶は不当に侵害されない﹂と述べ︑
Go
be
l
らの結論には賛成できないとし︑
錯誤を認識しているにもかかわらず法益侵害を行った隣人を器物損壊罪で処罰すべきであると主張する︒さらに︑歩
行者が赤信号を無視して車の前に飛び出してくることを予見している場合にも︑
Ja ko bs
らの見解によると不処罰と 関法
一号
︱ ︱
︱ 八
あ る
︒
二 ︱
九
一般的にドライバーに課されている注 なってしまい不都合であるというのである︒たしかに︑
Ja ko bs
や
Go be
l
の主張を極端に展開し︑事例に当てはめれ
ば︑このような批判は当たっていると言えなくもない︒しかし︑
Go be
l
の挙げている事例においては︑そもそも隣人
の側から農薬を撒くよう頼み自分で農薬を用意したこと︑農薬の量の間違いについては専門家でなければ見抜けない
ようなものであったこと︑隣人は花の所有者に自分が専門知識を有していることを特に告げておらず一般人として振
る舞ったに過ぎないことが前提となっている点に注意を要する︒よって小林が挙げる後者の例のように︑赤信号を無
視して歩行者が飛び出してきた事例においても︑
Ja ko bs
らの見解によれば︑
意義務を果たしても飛び出しが見抜けないような状況︑つまり見抜くことが法的に期待されないような場合に限って︑
飛び出しを偶然認識していても客観的帰属が認められない場合がありうることを肯定するに過ぎない︒つまり︑刑法
上飛び出してくることを見抜くことが期待されないような場合において︑﹁大丈夫だ﹂と思うか﹁飛び出してきても
かまわない﹂と思うか︑さらに﹁飛び出してくるにちがいない﹂と思うかで結論を変えるべきではないということで
私見によればこのような
Ja ko bs
らの構想自体は決して不合理であるとは思われない︒実際︑先の事例において︑
殺虫剤を撒いたため花が枯れた後︑隣人が実は庭師であったとか︑前日に偶然にも花屋で同じ種類の農薬のカタログ
を見たとか︑あるいは前日に農学部在学中の友人と殺虫剤のことについて電話で話したことが発覚したからといって︑
彼の行為を構成要件に該当するものとして評価し︑器物損壊罪による処罰を肯定することは妥当であるとは思われな
い︒結局︑被害者の承諾︑間接正犯︑詐欺罪の場面のように︑法益主体の錯誤を利用して行う犯罪においては︑﹁錯
誤を利用してはならない地位﹂を有していない限り︑構成要件該当性は認められないのである︒錯誤︑すなわち誤っ
被 害
者 の
承 諾
に お
け る
欺 岡
・ 錯
誤 ︵
ニ ・
完 ︶
︵ ニ
︱ 九
︶
第五三巻一号
ニ ニ 〇
︵ ニ ニ
0 )
た表象に対して答責的である場合にして初めて︑彼の行為は構成要件に該当すると評価すぺきなのである︒これは︑
先に述べた過失犯の成否が問題となる場面における信頼の原則の適用と同様の発想に基づいている︒つまり︑相手方
が法益主体の本意に添わない法益侵害結果に対する危険を分担すべき地位にある場合にして初めて︑この者の行為を
構成要件に該当するとすべきなのである︒
このような構想の正当性は︑特に法益侵害を行うことが業務となっている場面を考えたとき︑より明確になるよう
に思われる︒例えば︑﹁こんな古い壺︵底がぬけている︶は何の価値もないし邪魔だから捨てることにしよう﹂と
思った︵実は時価十万円である︶壺の所有者が︑ゴミの運搬車に持っていってもらう目的から︑自宅の門の前に置い
たところ︑運搬車に乗ってゴミの回収をしていた学生が偶然にも古美術の知識を有していたため︑置いてあった壺を
見て︑﹁これは間違って捨てたのではないか﹂と未必の故意を有しつつ︑この壺を運搬し︑処理センターで処分した
という場合︑器物損壊罪の成立を認めるべきなのであろうか︒他の例として︑大金持ちの娘が一人暮らしを始めたの
だが︑彼女は親元にいる間︑身の回りのことは全て家政婦にやってもらっていたため︑本当は電球を換えれば済むの
に︑そのことを全く知らず︑電気スタンドは壊れて二度と使えないと思いこみ︑電気がつかなくなるたびに︑電気ス
タンドを買い換えていたのだが︑このことを認識していたゴミの回収業者は電気スタンドを回収しこれを損壊しては
ならないのであろうか︒電気のコードが抜けているだけなのに電気製品が壊れたと思いこみこれをうっかり捨ててし
まいがちな者が︑やはり同誤解に基づきテレビを捨てたところ︑運搬業者が﹁今回もコードが抜けていただけに決
まっている﹂と表象していたという場合︑器物損壊罪を成立させるべきではないであろう︒このような場合︑その都
度運搬業者は所有者に問いたださなければならないのであろうか︒あるいは︑回収を思いとどまり︑その場に放置す
関法であろうが︑類型化などを通じてその限界を探るべきである︒ べきなのであろうか︒常にこのようなことを要求すれば︑社会は機能不全に陥ることになろう︒
このように︑様々な具体例を考えたとき︑とりあえず法益主体が法益関係的錯誤をはじめとする刑法上重要な錯誤
に陥り︑それを認識しつつ法益侵害を相手方が行ったからといって︑直ちに法益侵害は違法であると評価すべきでな
いことが明らかになった︒問題は︑どのような場合に相手方が︑法益主体の意に添わない法益侵害結果に対する危険
を負担すべき地位にあるといえるかということであるが︑基本的には信頼の原則の場面で述べたことと同じことが妥
当するものと思われる。承諾が問題となっている状況・脈絡、表示者と相手方の立場•関係、彼らの行為の典型性な
どに応じて客観的に当該状況を解釈した上で︑意に添わない法益侵害結果を誰の答責領域に帰属すべきかを決定すべ
きであろう︒先に挙げた壺の例で言えば︑ゴミの処理という脈絡において︑ゴミ捨て場に底の抜けた古い壺が通常の
態様で置かれており︑またゴミ処理業者である以上壺の鑑定までは要求されないことに鑑みれば︑通常は︑法益主体
の意に添わない法益侵害結果はゴミ処理業者の答責領域に属さない事柄であるというべきである︵だからといって常
に法益主体の答責領域に属するというわけではなく︑誰の答責領域にも属さない︑単なる不運という場合もあろう︶︒
誤ってそこに置かれたものであることが一見して明白である場合にしてはじめてゴミ処理業者の答責領域に帰属され
ることになるのである︒例えば︑ゴミ捨て場の真横に止まっている車の中で母親が赤ん坊のおしめを換えている場面
で︑ゴミ捨て場に開かれた状態のバギーが置いてあるような場合︑車から降りてバギーに乗せようとしたとき赤ん坊
のおしめが濡れていることに気付いたためその場にバギーを放置し︑車に再度乗り込みおしめを換えているだけで
あって︑バギーは捨てられた物でないことを見抜かなければならないであろう︒ともかく様々な限界事例は存在する
被 害
者 の
承 諾
に お
け る
欺 岡
・ 錯
誤 ︵
ニ ・
完 ︶
~
︵ ニ
ニ ー
︶
調であると述べている︒
第 五 三 巻 一 号
な お
︑ 最
近 R
o n
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u は
︑ 二
0 0
一 年
に 出
版 さ
れ た
H a
b i
l i
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o n
に お
い て
︑ J
a k
o b
s ら
の 見
解 や
R o
x i
n の
見 解
を 検
討
した上で︑独自の見解を主張したので︑簡単に紹介し検討を加えることにしたい︒Rg
n a
u は
︑ R
o x
i n
と 同
様 に
︑ 法
益主体の錯誤が欺岡によって惹起された場合と︑自ら陥った場合とに区別する︒但しRoxinと異なり︑欺岡によっ
て錯誤が惹起された場合には︑基本的に承諾は無効になるとしている
§
︵ ニ ニ ニ
︶
については︑明確に述べていない︶︒これに対し︑法益主体自ら錯誤に陥った場合には︑法益関係的錯誤の場面とそ れ以外の錯誤を区別して取り扱うべきであるとする︒法益主体が法益関係的錯誤に陥っている場合には︑侵害者の可 罰性の制限は専ら故意阻却によってのみ行うべきであるという︒つまり︑︵彼が採用する犯罪論体系がどのようなも のであるか必ずしも明確でないが︶どのような体系を前提にしようとも︑法益主体が法益関係的錯誤に陥っていると いう事情のみで客観的構成要件の充足を認めるわけである︒他方︑錯誤の内容が法益関係的でない場合︑例えば緊急 状況に関する錯誤等の場合︑原則として侵害者による錯誤の認識は承諾の有効性とは無関係であり︑侵害者が医師の ように保障人的地位にある場合にのみ錯誤は無効になるという︒Ronnauは自説の根拠付けとして︑法益主体が法益 関係的錯誤に陥っている場合には︑そもそも承諾が存在していない場面なのであり︑よって︑Jakobsらのように法 益関係的錯誤を侵害者が認識している場合にも客観的帰属関係の切断の余地を認めることは︑自己答責性の過度の強 以上のようなRonnauの見解には賛成することは出来ない︒先にも述べたとおり︑法益主体が法益関係的錯誤に
陥っている場合にも︑錯誤に対して法益主体が自己答責的であると評価すべき場面も存在するからである︒しかしよ り問題なのは︑少なくとも彼の挙げる基準を形式的にあてはめる限り︑緊急状況に関する錯誤に法益主体自ら陥って
関法
︵但し︑どのような欺岡が刑法上重要であるか
一律に法益侵害は違法ではないとしている点である︒このような主張こそ︑自己答責性の過度の強調で はなかろうか︒とりあえず結論だけ述べれば︑緊急状況に関する錯誤の場合にも︑当該脈絡で要求される程度の注意 を払ったとしてもなお緊急状況であると見間違えるような状況で︑錯誤を認識しつつ法益侵害を行っても構成要件に 該当しないと評価すべき場合もあろうが︑常に法益主体の自己責任とすることは妥当でないと思われる︒例えば︑
A
︵ こ
の 犬
の た
め に
A が以前に買ったあげた︶ ぬいぐるみとじゃれているのを遠くから見ていた A は︑他人
の犬を襲っていると見間違えて﹁このままでは相手の犬を殺してしまうだろう﹂と思い︑犬の側にいた
B
に ︑
﹁ 今
に も相手の犬をかみ殺してしまうだろうから︑君が持っている猟銃で私の犬を殺してくれ﹂と叫んで頼んだところ︑そ
の日の狩猟で獲物がとれなかったためムシャクシャしていた B は︑犬の近くにいたのでぬいぐるみであることは完全
に認識していたにもかかわらず︵また誰が見てもすぐぬいぐるみと分かる︶︑憂さ晴らしの好機と考え︑犬を射殺し
た と
い う
場 合
︑
B を器物損壊罪として処罰してもよいと思われる︒以上のことから分かるように︑法益関係的錯誤と
( 1 9 )
それ以外の錯誤を一律に異なった取り扱いをすることは妥当でないと思われる︒
以上により︑法益主体が錯誤に陥っていることに加えて︑その錯誤に基づく法益侵害結果に対して答責的である場 合にして初めて︑相手方の行為が構成要件に該当すると考えることが妥当であることが明らかになった︒つまり︑既 に客観的構成要件の該当性が欠けるのであるから︑たとえ相手方が錯誤を認識していたとしても必ずしもこの者に故
意犯が成立するとは限らないことになる︒そして︑
R i : i n n a u
のように︑錯誤が法益関係的か否かによって取り扱いを
区別することは妥当でないことも指摘した︒なお︑この答責性の問題を客観的帰属論の中でどのように位置付けるか という問題が残るが︑これについてここで明言することは避けることにしたい︒例えば︑
J a k o b s
は︑遡及禁止論の
被 害
者 の
承 諾
に お
け る
欺 岡
・ 錯
誤 (
‑ ︱
・ 完
︶
の飼い犬が い
る 場
合 に
︑
i ~
う実質的判断もあるのかもしれない︒ 第五三巻
ニ ニ 四
︵ ニ ニ 四
︶
問題として捉えているようであるが︑彼自身の遡及禁止概念はかなり独特のものであり︑なお検討を要すると思われ る︒とりあえず︑ここでは﹁錯誤を利用してはならない地位﹂と呼んでおくことにしたい︒
3 .欺岡により惹起された錯誤
以上により︑特に法益主体が自ら錯誤に陥った場合︑法益主体が錯誤に陥っているにもかかわらず︑客観的帰属が 否定されることにより︑法益侵害が既に客観的構成要件に該当しない場合があることが明らかになった︒では︑錯誤
が欺岡によって惹起された場合︑どのように判断されるべきであろうか︒
Ar
zt
と R
o x
i n
の い
ず れ
の 見
解 も
︑ 各
自 の
基準に照らして刑法上重要と判断されるべき欺岡により同内容の錯誤が惹起され︑その間に因果関係が認められれば︑
常に法益侵害は違法と評価されるように読める︒このように︑欺岡によって錯誤が惹起された場合に法益侵害が構成
要件に該当しない場合について特に検討されていないのは様々な理由に基づくものと思われる︒まずは︑
Ar
zt
や