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後藤新平の立憲制認識と公民教育論

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後藤新平の立憲制認識と公民教育論

一大正デモクラシー期における政治と教育に関する一考察一

中 島

         目   次 はじめに

1 後藤の「自治主義」と教育事業

ll デモクラシー的状況をめぐる民本主義知識人の  対応と公民教育論の諸相

皿 後藤の立憲政治思想と教育  1.「デモクラシー」観と政治教育  2.「公民読本」の執筆

むすびにかえて

はじめに一問題の所在

 本論は、大正期において、デモクラシー的社会状 況の進展を背景に、さかんに主張されるにいたった 立憲政治論が、教育の論理として説かれた場合に、

いかなるズレと矛盾とを生ぜしめていったのかとい う問題を、ひとりの政治的人物である後藤新平

(1857−1929)の思想に即して明らかにすることを ねらいとしている。この問題を検証することは、当 時において、国民に教育を通じて民本主義思想の浸 透を図ることが、なにゆえに困難であったのかを知 るうえで、ひとっのてがかりをわれわれの前に提示 するものとなろう。筆者がこのことを問題とするの は、玉城肇の名著『日本教育発達史』(1954)のな かでの次の記述に示唆されてのことである。玉城は 自らの体験を顧みながら「民本主義」教育の実際を 以下のように述べている。

 ちょうど私達は、第一次大戦の期間中に中学校の  生徒だったから、その当時の教育がどのようにお  こなわれたかを思い出すことができる。私の中学  校(東京府立四中)の校長は修身の時間ごとに、

 その頃主張されていた「民本主義」にっいて講義  をしたものだった。この「民本主義というものは、

 日本では決して新しいものではない。日本では古  来から民本主義的であったのである。聖徳太子の  憲法にも民を本とする精神が盛り込まれているし、

 歴代の天皇はみな民を本として政事をおこなわれ  た…」ということからはじまって、何時間にもわ

 たって日本における「民本主義的伝統」を説いて  聞かせた。私の学んだ中学校は決して「自由教育」

 をモットーとするものではなかったから、このよ  うに説かれたのかもしれないが、もしも「伝統し  た国民的特性」とか、「社会をより良くするため  の国民的特性」というものを、このような内容の  ものとしてとらえたとすれば、これは一一Ptの国家  主義的教育以外の何ものでもなかったといってよ

 いであろう( )。

 玉城が指摘したような、この時期の教育実践にお いて説かれた「民本主義」思想の矛盾を、アカデミ ズム憲法学説の主潮流と小中学校で用いられた修身・

公民科の官製教科書における憲法解釈の異同におい て見いだし、実証したのが、家永三郎の研究であっ た(『日本近代憲法思想史研究』1967年)。家永によ ると、大正デモクラシー期に入り、政党政治勢力の 隆盛を背景に議会中心主義理論に立脚した美濃部辰 吉に代表される天皇機関説憲法学は、君主絶対制を 唱える穂積八束理論を継承した上杉慎吉の憲法学を 圧倒し、ほぼ学会を独占する状況をもたらしたと述 べる。しかしながらその一方で、教育界における穂 積理論の「正当」学説としての地位は、太平洋戦争 の敗北に至るまで一貫として維持されっづけてきた という事実を、学校教科書における憲法の取扱いの 分析により明らかにした(2)。こうした、学界や政 界で通説とされた憲法解釈と、教育界におけるそれ

とのへだたりは何ゆえに生じたのか。

 鶴見俊輔が説くように、「明治国家」においては、

天皇の権威と権力が、「顕教(=:通俗的)」と「密教

(:高等的)」の二様に解釈され、国民全体には、小 中学および軍隊教育により天皇を絶対君主として信 奉させ、この国民のエネルギーを国政に動員する一 方、国政を運用する秘訣としては、立憲君主説、す なわち天皇機関説を採用する仕方で国家を運営する という方式がとられていた(3>。だが、資本主義の 発展にともない、大正期に入り顕著となる政党や知 識人、ジャーナリズムに指導されての大衆の政治・

(2)

社会運動の高まりは、もはや従来のような「顕教」=

タテマエ的な統合原理では国民の合意を獲得するこ とは不可能であるとの認識を支配層に抱かしめた。

すなわち、「顕教」的支配から覚醒した一部の国民 は、内大臣、枢密院、貴族院を閥族、官僚の牙城と みなし、政治運動の打倒目標に掲げるにいたったの である。鶴見も言うように、顕教の大衆的エネルギー を、支配層による密教が統制し、駆使するという明 治国家のルールは明らかにこわれはじあた。

 民本主義が、その内容と趣を大きく異にするせよ、

反体制運動サイドだけでなく新・旧の支配層におい て説かれたのは、藩閥官僚政治の矛盾を深くした国 家のシステムと、民主主義的自覚を得た国民エネル ギーとの衝突を、憲法を盾に各々が解釈する「立憲」

政治の実施により解決せんとしたためであった。藩 閥官僚の典型ともいえる山県有朋が、米騒動の事態 に対し、「政体は立憲君主制を執り、政治は民本主 義でなければならぬ」(4)との見解を示したのは、か れのような保守的な人物ですら、旧来の専制的政治 のままでは、体制の安定を図ることはもはや困難で あるとの認識を持っに至ったことによる。

 こうした政治的民本主義一立憲制認識を軸と する国民統合様式の変化が、教育界においてどのよ うな影響をもたらし、また同時に、それは政治社会 の動向との間にいかなる懸隔を生ぜしめたのか、こ れらの問題を、本論では天皇機関説事件(1935)を きっかけに、政党内閣政治に終止符を打ち、大正民 本主義を事実上闇に葬った日本ファシズムとも関連 づけて、考察をあぐらしたい。その対象として後藤 新平を取り上げる。

 後藤新平は、内務省・公衆衛生行政官出のテクノ クラートのさきがけ的な官僚政治家であった反面、

スケールの大きい教育事業家でもあり、とりわけ大 正期に教育問題にっいて多くの発言と著述を残して

いる。

 後藤が、国民に対する啓蒙・教化を自らの政治課 題の柱に据えざるをえなかった必然性は、「大正デ モクラシー」と呼ばれるこの時期の社会状況に対し、

かれが置かれた独自の政治的立場に起因する。後藤 は周知のように児玉源太郎・桂太郎・寺内正毅といっ た藩閥軍事官僚の下で活躍し、かれらの庇護により 政治的地位を築きあげた人物であった。そして台湾 民政局長(1898−1906)・満鉄総裁(1906−08)と10 年におよぶ植民地統治の経験から、本国を、帝国主 義的膨張の主体たるにふさわしく改造しようと、反

政党勢力を結集しての「挙国一致内閣j政治の実現 を唱え、数次にわたり国務大臣級の重職を歴任した。

だが、当時の民衆の政治意識の高まりを背景に、議 会制政党政治と欧米協調外交政策を旗印に、体制へ のブルジョア的支配を貫徹させようとしていた既製 政党、とりわけ原敬ら政友会勢力を前にして、後藤 の掲げた政治構想はことごとく棄却され、かれ自身 もっいには政治的首班の地位に上ることはなかった。

政友会と藩閥の新旧勢力の間にあって独自の地位に あった後藤の教育家としての存在と活動がクローズ・

アップされるのはまさしくこうした藩閥政治時代か ら政党政治時代へと移行する過渡期であったが、そ れは官僚政治家として意のままの行動が取れなかっ たかれの苦悶する姿でもあった。したがって、後で みるように自らの政権構想と客観的社会情勢の隔た りを国民への教化・啓蒙によって克服しようとする 教育による社会改造一「教育主義」の論理がこ の時期の後藤に強くはたらきかけたと思われる。

 しかしながら、このことと深く関わって、かれの 思想と行動は、]930年代以降、わが国の立憲政治史 がたどった軌跡を考慮すると、かれの生きた時代と は別様の歴史的な意味を帯びてくる。すなわち議会 制民本主義と政党内閣政治の凋落は、軍部と非政党 系官僚による反政党キャンペーンと組織的な選挙干 渉によってなされてゆくが、その路線は後藤が用意 したものであった。後藤の晩年の政治的活動の基調 をなした普選による第一回総選挙(1928)に向けて の「政治の倫理化」運動は、既製政党の地方党勢拡 張運動に代わるものとして構想され、講演・遊説活 動を中心に実施されるが、後藤の生前にはほとんど 効果を上げることなく終わった。だが、この運動は、

斎藤実・二荒芳徳といった後藤と親交のあった政治 家や、のちに「新官僚」と呼ばれる後藤文夫、田沢 義鋪ら内務官僚の指導によっておこなわれた官民総 動員の選挙粛正運動に引き継がれ、それまで既成大 政党の票田であった地方末端の町村にも徹底した官 僚的統制を及ぼし、のちの翼賛選挙体制の成立に連 なる政治地盤を用意する(5)。日本ファシズムが立 憲制議会政治の否定の上に成立した事実を考えれは、

後藤の反政党政治を終始貫徹したかれの政治的立場 は、教育家としての人物像とも重なって、ある種の 先駆的性格を帯びていたとみなすことができよう。

1.後藤の「自治主義」と教育事業

後藤新平が、その政治的生涯において多くの教育

(3)

事業を手がけていることは、あまり知られていない。

とくに社会教育においては信濃木崎夏期大学の有力 なる推進者として、新渡戸稲造らとともに「信濃通 俗大学会」の財団法人化(1916)に尽力したほか、

東京市長時代(1920−−23)には社会教育課を新設し、

さらに、市の社会教育活動の一大拠点たらしめよう と東京自治会館を設立し、各種の成人教育講座の市 民への開放等を行っている。また晩年には東京放送 局の初代総裁に就任し(1924)、公民教育の一環と

しての放送教育事業の振興を唱えるなど、都市社会 教育において先駆的な試みをなした人物であっ

た(1)。

 後藤は、第一次大戦後の国際秩序の再編に伴う日 本の国家経営策の根本指針を、これまでの「武装的 文弱」にかわる「文装的武備」に求めた。これは狭 義の軍事力にかえ、国民の広義における生産活動を

こそ日本の帝国主義的発展の原動力であるとし、独 占資本制を後だてにした経済侵略によって大陸進出 を積極的に推し進めようという内容のものであった。

後藤はこの「文装的武備」を指標に、国内産業の保 護、社会政策の完備、教育・学術の振興により民力 の拡充を図り、日本を帝国主義的国家膨張の本体た るべく改造すべきことを主張した(2)。後藤が、東 京市長時代に労働行政を重視し、社会政策的観点か

ら教育事業を展開しようとしたのも、また在野にあっ た1920年、ときの原敬内閣に統制経済政策推進の

「参謀本部」たる「大調査機関」設置案を献策した のも、こうした「文装的武備」の論理に導かれての ことであった。

 そして後藤は、この「文装的武備」的国家改造に 向けての政治体制を、党利党勢の拡大にのみ専心し、

その本来の政治的使命を忘却するに至った政党内閣 政治にかわる、「挙国一致内閣」に求めた。ここで かれが唱える「挙国一致内閣」とは、っまるところ 政党による政権の独占を打破するために、政党政派 にこだわらず広く様々の政治勢力から人材を集め、

「適材適所」に政務の要職を与えようというもので あった。そして後藤はそれが真に国民に立脚し、国 民的輿望と利害とを積極的に担う「国民内閣」たる ことを国民に訴えようとした。かれが寺内正毅内閣 時代(1916− 18)に、地方行政が政友会に代表され

る既製大政党の党勢拡張運動に翻弄されている事態 を憂い、全国の青年団体をして選挙監視と精神修養 とを兼ねた自治団へ再組織しようと試みたのも(3)、

また晩年(1926)に普選法成立後初の衆院選挙に向

けて新有権者を組織すべく「普選準備会」を設け全 国に会員を募ったのも(4)、この「挙国一致内閣」政 治実現に向けて国民的支持を獲得しようとしてのこ

とであった。

 後藤は、上のような政治改革構想を説く際に、政 党内閣政治を排斥する際の国民的理念として「自治 主義」を掲げた。そしてこれはかれの行った教育事 業において一貫するモチーフでもあった。後藤は、

日露戦後から大正期にかけて全国各地に結成されて ゆく少年団体の連合組織として、1922年に設立され た少年団日本連盟の初代総裁に就任するが、これは 将来の有権者たる児童に、「公民的態度の基礎(「遵 法」および「相互扶助」の精神)」を体得させ、体 制的な「立憲自治民」としての素地を養わせようと する意図においてのことであった(5)。そこで後藤 は少年団員児童に、「自治の三訣」として「人の御 世話にならぬよう/人に御世話をするように/そし て報いをもとめぬよう」(6)のスローガンを守るべき ことを説いた。これらの言葉に端的に示されるよう に、後藤が説いた「自治」の内実は、個人の自由と 権利を中核とした市民自治・住民自治の概念とはか けはなれた国家社会に対する義務奉公の観念を殊更 に強調するものであった。

 こうした後藤の「自治主義」は、「各個人をして その特有の性格技能を十分に発展せしめ、他律的消 極的の国家的服従を自律的積極的に国家奉仕又は貢 献たらしむるに存するもの」ωと評された。かれ自 身の言葉によれば自治とは、人間に生得する自衛本 能が社会化したもので、「国家の有機体的組織の根 本」であり、「国家の組織をなして居るところの一 っの原則」 (8)であった。このことから、国民の「自 治生活の要義」とは、「国民各自の公共的精神を酒 養し、被渥し、一致団結、以て相互的協力の美風を 作興する」(9)ことであるという。したがって、「自 治生活は、国家の活動力の源泉たり、国民の憲政的 活動の練習所ともなるから、凡そ国家憲政の確立は、

健全なる自治生活を基礎としなければならぬ」 a)と 述べる。すなわち後藤は、自責的な内容の「臼治」

を国民に強いることにより、国民の自発的な服従を 引き出し、「挙国一致内閣」実現の国民的基礎を培 おうとしたのである。こうして後藤が唱える「自治 主義」は、その倫理主義・精神主義的性格ゆえに、

国民に対する教化・啓蒙への強い期待となって、教 育事業において展開してゆくのである。

(4)

llデモクラシー的状況をめぐる民本主義 知識人の対応と公民教育論の諸相

 1917年から18年にかけて国内外に相次いで起こっ た大事件は、日本の政治・社会情勢に大きな衝撃を もたらした。1917年11月のロシア革命・1918年8月 の米騒動・同年11月の第一次世界大戦の終結がそれ である。これらのうちロシア革命は、国内において 多少の混乱をもってうけとめられたものの、曲がり なりにもそれが世界で最初の労農政権国家であるこ とを各国の民衆に知らしめた。そして富山県魚津町 の一主婦による米よこせ運動に始まった米騒動は、

たちまち全国各地に波及し、1道3府32県、100万 人近くの人々を巻き込み、寺内内閣を瓦解せしめる にいたった。さらにまたオートクラシーに対するデ モクラシーの戦といわれた第一次大戦は、「デモク ラシー」の側の勝利に終わり、敗戦国にまわった帝 政国家はその没落と崩壊を急いだ。そしてこの間の 日本資本主義の急速な発展は、市民社会の成熟をも たらし、民衆は権利意識・階級意識に目覚め、普選 運動に加え、労働組合運動・社会主義運動を高揚さ せていった。

 ところで、このような内外のデモクラシー的状況 の進展を背景に、民本主義的知識人はいかに対応し ていったのか。ここでは、米騒動をめぐる対応にっ いて、代表的論客ともいえる吉野作造・大山郁夫を 取り上げ、かれらが説いた、公民教育論・政治教育 論とも関わらせて見てみることで、この時期の民本 主義政治と教育の関連にっいて概観しておこう。

 吉野、大山らの民本主義政治論が、普選実現を望 む都市中間層市民の支持を多く得るにいたったのは、

それらが明治憲法の枠内で、国民の国政参与を最大 限に可能とする論理をかれらの前に提示したからで あった。吉野は著名な論文「憲政の本義を説いて其 有終の美を済すの途を論ず」(1916)において、「民 本主義」なる言葉は、西洋語のいうデモクラシーの 訳語であるとし、それは二っの意味に用いられると 考え、一っは「国家の主権は法理上人民にあり」と いう意味であり、他は「国家の主権の活動の基本的 の目標は政治上人民に在るべし」(1)という意味であ ると説いた。「民本主義」とは後者の意味にあたり、

前者の意味には「民主主義」の語を用いるべきだと 言う。そして「民本主義」の原則とは、「政権運用 の目的」=「政治の目的」が、「一般民衆の利福に 在る」ということであり、また「政権運用の方針の

決定」=「政策の決定」が、「一般民衆の意響に拠 る」(2)ということにほかならないという。これら民 本主義の二っの内容のうち、両者は別次元の問題で あるとしながらも、後者の民意尊重の原則は、前者 の民衆利益の追求の原則に優位するものとした。

 また大山郁夫も、「近代デモクラシー」を構成す る原理として、「シヴイル・リバーチー」=個人の 生命・自由・財産に関する市民の権利と「ポリチカ ル・リバーチー」=一般民衆の参政権、の二っをあ げる。そして両者の関係について「ポリチカル・リ バーチー」の増進する所において、「シヴイル・リ バーチー」の減退する傾向にあることを認めながら、

「近代デモクラシーの最大要素」は「参政権」(3)で あることから、「ポリチカル・リバーチー」の達成 をイニシアルな課題として重視する見解を示してい た(大山「デモクラシーの政治哲学的意義」1917)。

このように大山がデモクラシーの機能を、狭義に

「政治的機会均等主義」ωとしか規定し得なかった のは、「ポリチカル・リバーチー」の進歩に従って、

社会の権利が個人の権利以上に尊重されるにいたる ことが、近代デモクラシーの必然的帰結なのだとみ なす歴史認識にかれが依拠していたことによる。

 ところで、吉野作造と大山郁夫の米騒動に対する 各々の感想も、きわめて近似した論理を構成してい

た。

 吉野は、この米騒動のそもそもの原因は、「今日 の政治法律が、貴族富豪の階級を偏愛し、下層階級 の利益と発達の為には、考ふる所比較的浅いという」

現実があり、「下層階級の生活の問題」にっいて、

「政府が怠慢にして何等為す所がなかったからこそ、

彼等は最後の手段として自分の力に訴へんとするの である」(5)という。このようにかれは、米騒動の起 こるに至った理由にっいて民衆の側に同情を寄せっ っ理解しようとした。この点、寺内内閣の内相であっ た後藤新平が、「騒擾の標語は即ち米価の騰貴にあ るも、真に生活難に泣くものは寧ろ彼等群集の中に あらざるが如し」(S)とその実態を事件の背後にある

「扇動者」と「モップ」の策謀によるものとみなし、

軍隊と官憲による弾圧を指示したのとは対照的であっ た。だが一方で、吉野はこの民衆運動を、かれらの 要求のなせるままに放置してしまっては、「当初の

要求とは何等の関係もない滅茶苦茶の運

動」(7)になってしまうという。ゆえにこうした問題 の「根本の解決」としては、「貧民の富豪に対する 要求を法律的権利として認める」こと、すなわち

(5)

「選挙権」の拡張と、民衆に対し、「平素訓練の機会 を与へて、危険なる異変の勃発を未然に防ぐ用意」、

すなわち「宗教教育の社会的勢力の振興」(S)を図る ことにあるとした。なお、大正末年において吉野は この見解をさらに深あ、「普選」とワン・セットで なされる「政治教育」は政治運動団体が提唱するご とくの新有権者を政治的に動員するような不純な動 機に基づくものではなく、すでに幼年期のうちから、

児童をしてかれらが他日公民となった時に必要とさ れる態度の基礎一「公徳心」を養うべく、学校 内での「疑似選挙」等により、団体生活における

「正義篤実の気風」や「自発的行動」(9)の訓練といっ

たことを内容とすべきであると説いている(吉野

「普選と政治教育」1925)。

 大山郁夫も、米騒動が、米価の高騰をきっかけに

「富豪者流殊に成金輩の祓属に対する一般庶民の反 感」が噴出したものだとし、それは「人生の幸福を 単純に交換価値を有する財貨の所有の多寡に依って 測定せんとする現代の悪風潮に基因する」(1°)という。

そしてこの事件は「徹頭徹尾近代的資本主義が齎し 来った社会の必然の結果」であるゆえ、「若し経世 家にして此風潮を根絶一若しくは矯正せんと欲 せば、外的手段としては社会立法の広汎なる設定に 依って資本主義の産業に厳重なる制限を加ふること であり、内的手段としては社会奉仕の観念を基調と したる新倫理の樹立を促進すること」(11)が必要であ るとした。こうして大山は、この事件の原因の全て を階級問題に還元できないとして、民衆の「社会的 公正の観念」にも問題があることを指摘する。かれ はこの米騒動が、「単なる示威運動の程度を越えて、

乱雑極まる略奪的暴動となったのは、遺憾の極であ る」とし、将来のわが国の「憲政の推運」のために は、「立憲的」に行動する素地たる「選挙権」の 付与と、一一方で「公民教育の普及並に発達を図るこ

と」(12)が重要であると説くのである。

 このように吉野も大山も、民衆の生存権・生活権 をかけた自生的な運動に、同情を寄せながらも、そ の過激化を危険視し、かれらの要求を政治的に利導 するためには、参政権を付与すると同時に、公民教 育・政治教育を施すことが必要であると考えた。そ してかれらは、西洋デモクラシーの、特殊日本的な 法体制を鑑みての現実的解釈にっとあ、その合法化 に向けての理論を構築した。しかしながら民衆のぎ りぎりにまで切迫した生活現実をみずからの思想に 意識的に繰り込むという点にっいては徹底さを欠き、

またそのことから生じた民衆とのぬきさしならぬ距 離ゆえに、かれらの民本主義政治論は、階級問題を 軽視し民衆の政治道徳に期待をかける人格主義的・

倫理主義的偏りを示す性格のものとなった。そして        この問題を、その発想の起点においてではなく、民

      の    

衆に対して取ったスタンスとしてのみ見るならば、

かれらの発想は同じく「デモクラシー」の名の下で 普選と公民教育の実施を説いた後藤新平とも共通す

る側面をもっていたといえよう。

 後藤は、同時期「国民に自治的能力の備はるもの と認められる以上」、「其の参政権の如きも一日も早 く普通選挙の程度にまで拡張すべきである」( 3)と説 き、政友会等各政党関係者が国民の選挙権拡張をや むなしとしながらも、普選法の制定にっいては時期 尚早とみなしていた中にあって、その早期実施を唱 えていた。そして後藤は、発想の起点こそ異なるも のの、吉野や大山と同様に、公民教育を、普選実施 にあたっての不可欠の条件ととらえていたのである。

大山郁夫は1920年代になると、労働者階級の立場に 立ち、ブルジョア的価値観に替わる新しい「文化価 値」の担い手を育成する労働者教育を通じて、民衆 の「階級的利害観念」を喚起し、それによりて社会 改造を達成しようとする「民衆文化主義」を嘱える に至るが(14)、この時期においては資本家と地主の 利権が交錯する不合理な立法の矛盾と国家による教 育行政支配下で行われる公民教育の官僚的性格を突 くような視点は持ち得なかったといえる。それでは 吉野作造や大山郁夫の唱える民本主義政治論と、後 藤のそれとはその内容をいかに異にしていたか、こ の問題を次章において明らかにしよう。

川 後藤の立憲政治思想と教育  1.「デモクラシー」観と政治教育

 後藤の教育家としての思想が、もっとも集約的に 展開されたのは、さきに述べたように東京市長時代 から政治的晩年にかけての時期であった。とくに東 京市長時代においては、「帝国の縮図」である東京 市が、「余が平生の所信を試むべき地」(1)となるこ とを確信し、自らを政治首班とした「挙国一致内閣」

政治実現に向けての実験場とみなすことで、「八億 円計画」と呼ばれた大規模な市政改革を構想し、ま たその一環として教育事業の振興にも積極的に取り 組んだ。とりわけ、東京市を「日本デモクラシーの 中心として、都市オウトノミーの中心として機能さ せること」(2)を理想に掲げた後藤は、「東京市の自

(6)

治の本尊は東京市民の頭にあって決して他処にな い」(3)と述べ、新設された社会教育課に市長に就任 したその年の年俸を全額寄付し、また自らも講演、

執筆活動を精力的に行うなど「自治主義」の喧伝と 普及にっとあた。

 こうして後藤が説いてまわった「自治主義」にっ いて、ジャーナリストの室伏高信は、「彼の政治的 生活は、今日まで民主々義の反対者として立ってき た」とし、「その民主々義を排斥して『自治』を口 にするといふことが、私たちの常識と両立すること ができようか」㈲と厳しく非難した。後藤の説いた

「自治」概念の内実は先にみた通りであり、室伏の この指摘は肯繁にあたるといえる。だが後藤は、

「民主主義」を真っ向から否定する立場はとらず、

むしろそれを「自治主義」と引きっけて、独自の解 釈をほどこすことで国民統合の論理に転化しようと

した。

 後藤は、同時期のデモクラシ・一一的状況の進展にっ いては次のような認識を示していた。「今日は自由 の時代である。悉ゆる抑圧に反抗し、悉ゆる圧迫に 反対する時代である。国家的権力の発動に対して最

も強力なる犯行暴叛の栄ゆる時代である。悉ゆる自 由の尊重のみ肯定せらるる時代である」(5)と。そし て、「此の現象の根本を流るSは、真実の自由を要 求する人民の声である」とし、こうした事態をもた らしたものは、「人類の歴史と共に初まれる民主主 義の長足の発達である」(5)という。さらに、国民の 国家組織・国家秩序への反抗は、っまるところ「旧 来の偏頗なる抑圧的警察的命令指導方法に対する反 抗であり、反動である」ことから、たとえば労働運 動のごときも、雇用者の労働者階級に対する「経済 的圧迫」による「敵悔心」によるものではなく、労 働者の「人格無視に対する反発心の表現せられたる

ものがその大部分を形づくる」(7)のだという。した がって、「近世国民教育の最も問題となす処は、国 家組織の単なる教授にあらず、人格の特性を厳しく 保育することである」(S)という。そして「そは国家 的共同生活の悉ゆる義務並に責任を正しく理解し正 しく執行せしめ、他面、近世利益追求の利己主義的 生活に発生する特殊危険より国民を保護せるもので

ある」ω)と説く。

 後藤はこのように国民を指揮するにあたって被教 育者の人格を尊重し、なおかっ人道的態度で国家の

「強制的絶対的性質」を貫徹すべきこと一政治教 育における「民主的貴族主義」を主張する。そして

そこでは教育の対象を、「単に青少年のみとなすは 全く時代を解せざる者の事である」とし、「政治家、

労働運動指導者、医師、工業者或は企業経営者等に たずさわる人々」は、「凡て教育的責務を負へる者 である」と述べ、「統御の術の社会化」(1°)という点 から社会教育事業の振興を図ってゆくべきことを説 いたのである。

 2.『公民読本』の執篁

 っぎに、後藤新平が理想とした国民像と、その教 育内容にっいて見てみよう。ここではかれが執筆し

た『公民読本』(1925)を取り上げることにする。

同書は、「少年の巻/青年の巻/成人の巻」の全3 巻よりなり、公民教育の「自修書」として書かれた ものであるが、各巻の目次一付表に明らかなよ うに、国定修身教科書とよく似た体裁をとっている。

また内容においては読者の年齢層を想定してか、各 巻毎に構成を若干変えている。

 後藤は同書の執筆動機にっいて、「凡そ公民生活 の第一は、至誠を本とし不断の修養であらねばなら ぬ。而して修養の基礎は自我を知り、国の本を真解 するに存し、それに至る手段方法は、唯それ自治の 精神に発せねばならぬことを確信した所から、浅学 非才自ら端らず、ここに公民読本の述作を試みるに

至った」(11)と述べている。

 後藤は、同書において、みずからの国家観・社会 観・人間観を広く開陳しているが、本論ではかれの デモクラシー思想と教育論との関連を問題とするた め、さしあたりかれの立憲政治論にしぼって分析を 試みることにする。後藤の憲法思想は、かれの発言 記録や著作の多くからも、断片的にその内容を知る

ことができるが、最も体系的に書かれたものに、小 冊子「立憲同志会諸君二質ス」(1914)がある。こ の文書は、憲政擁護運動が高まるなか、政友会に対 抗するたあ、桂太郎による新党結成運動に参加した 代議士各氏に対し、第三次桂内閣の鉄道院総裁兼逓 相をっとあ、同運動の中心的人物たることを期待さ れた後藤が、自らの欽定憲法論を表明し、尾崎行雄 ら護憲運動指導者の説くような立憲政治認識の「誤 り」を改めるべきことを説いたものである。結果的 に後藤は、桂没後に後継者となった加藤高明ら幹部 との見解の相違から同会を脱党することになるが、

同文書においても後藤の反政党内閣的立場は明確に 見てとれる。『公民読本』の内容を吟味する前に、

この文書でかれの立憲政治論の理論的な枠組にっい て確認しておこう。

(7)

表 「公民読本」総目次

少 年 の 巻 青 年 の 巻 成 人 の 巻

】、 大日本帝国 建国・創業 皇位・皇室

2 我が国体 列聖の御慈悲 国運の発展

3 忠君愛国の精神 崇祖・敬神 世界における帝国の位置

4 我等の家 国体と国民性 国交の親善

5 祖先と敬老 国憲・国法 外国人に対する道

6 親子の道 遵法の精神 海外の雄翔

7 兄弟・姉妹 権利・義務 国家の組織

8 社会と個人 自治制の本旨 我が国の政治

9 隣近所 公民の資格 帝国議会

10 朋友の交わり 自治と青年 議員選挙

11 正直と信用 道徳的生活 行政官庁

12 恭敬・謙譲 修養の方法 司法裁判所

13 礼儀・作法 品性と常識 公共団体

14 協同と競争 至誠・廉直 国家の財政

15 彼も人なり、我も人なり 自重・自信 納税の義務

16 学芸に志すの道 寛宏・大度 国家の防備

17 就学・習業の心得 剛健・逼進 兵役の義務

18 勤勉と怠慢 献身的精神 義勇奉公

19 克己・忍耐 責任の尊重 現代文化の大勢

20 規律と習慣 実業の真価 都会と地方

21 健康と衛生 農工商の関係 国民道徳

22 生き甲斐のある人生 産業組合 社会奉仕

23 職業の尊重 男女同尊 国民の健康

24 職業の選択 人 生 会社・銀行

25 自立・自営 利用厚生 交通

26 国の富 最善の娯楽 実業と青年

27 貨幣の用 相互扶助 世界大戦後の世界

28 一家の経済 多難・多望の前途 帝国の使命

29 勤倹の民 帝国青年の覚悟 国民の理想

30 少年団と自治精神 国民精神作興に関する詔書 帝国青年の本領

31 国民精神作興に関する詔書 国民精神作興に関する詔書

 この中でまず後藤は、政党政治主義に基づく責任 内閣政治が、明治憲法の精神と根本的にそぐわない

ものであり、政権運用の方法としても不合理だと指 摘する。そもそも「我国政の動力たるべきもの」は、

「衆議院其の一」にあるだけでなく、「貴族院も衆議 院と同等の権限を有し、均しくその責務を負ふもの」

であることは「明白」(13)である。また「枢密顧問」

も「憲法所定の機関」であり、「重要なる職責を 有」(14)している。しかるに「衆議院」だけを「民意

の代表機関なりと称し」て、「之を偏重する」こと は、いきおい「他の機関の権能を軽視するの結果に 陥り易く、政見の実行を傷つくること頗る大」⑯だ

という。だから「政務の完全なる運行を期」するに は、「人材を各方面に求」あ、「適材をして政務の職 に当らしあ」㈹ねばならず、そのことからも、政務 官を党人にのみ限る「政党政治」にっいては、これ を是認できないという。

 また外国の例を用いながら、「立憲政治の慣例」

(8)

には二通りがあるとし、一っは「英国」のように

「君民同治」の立場から、政府が「議院と君主とを 合し」た「パーリアメント」に対して責務を有する

「責任内閣制」を取るところと、もう一っは「普国 及濁国」のように「国務大臣の選」を「国家の政務 を執行するは最も堪能」とする「官僚の中に求む」

る、「官僚内閣制」(17)を採用する国である。そして

「二者各一得ありて一失なきを得ず」とし、いずれ の政体を採る国も、「多くの除外例を設けて広く適 材を党派及官僚の内外に求あるの已み難きに到れり」

とするのが、「最近における立憲先進国政治の錦向 の実際」(18)なのだという。このことから、わが国の 政治も、「内閣の組織は固より一っに君主の大権に 存すと難、之か奏薦は其の包容を大にし、広く適材 を各所に求あ、国家の為に最善の政治を施すを以っ て終局の目的と世ざるべからざるなり」( 9)と述べる。

そしてこうして初めて「我建国の歴史と国情とに適 したる内閣を組織する」(Z°)ことができるのだと説く。

後藤は以上のような文脈から、政権運用の機関を衆 院議会に限定しようとする政党指導者の立憲政治論 を欽定憲法の精神に反するものだとし、「立憲先進 国」の政治動向をふまえっっ自らの憲法思想を表明

したのである。このような後藤による「立憲政治」

解釈は、明治憲法における天皇主権主義との対決を さけつつも、そこで明記された国政における協賛機 関のうち、帝国議会のもっ国民的立法権限と機能と を最大限にひきだすことで、実質的な意味での議会 主義政治の実現をめざそうとした吉野作造や大山郁 夫らの解釈とは対極に位置するものであったといえ

よう。

 では一般国民向けに書かれた『公民読本』では、

立憲政治論はどのように説かれているであろうか。

〈少年の巻〉では、欽定憲法論は独立した課として 扱われていないが、第2課「我が国体」において、

後藤は「国体」と「政体」との関係を次のように述 べている。すなわち、「国体とは、一口にいへば、

国柄といふことことである。人に人柄があると同じ ように国には国柄がある」(Z )という。そして「これ は、国家を統治する権力を、誰がもって居るかとい ふことによって決まるのである」(22)という。なお

「国体」には、「アメリカ合衆国やフランスのように、

人民全体がこの権力をもって」いる「民主国体」と、

「英国」や「日本」のように、「君主がこの権力をも って」いる「君主国体」(23)の二種類がある。このよ うに「我が国と同じ国体は外にもあるが、その中味

に突き込んで我が歴史を考へるときに、我等は、我 国体が世界に比類のない立派なものであることをよ ろこばずには居られないのである」⑳と述べる。そ して、この「万国無比」の「国体」の独自性にっい て、「外国ではその歴史が物語って居るやうに、初 から国体が変らないという国は一っもないが、我が 国では天照大神の御教によって、皇孫顔慶杵尊がこ の国をお治めになってから、皇統連綿として天地と ともに窮まりがな」㈲い歴史を持っ点を挙げる。ま た「皇室は我等国民の大宗家である」とし、「従っ て皇室の大事業は我等国民の大事業であり、国家全 体の事業である」㈱という。このように、わが国で は「皇室と国民とが宗家分家の関係であるからこそ、

天皇に忠義をっくすことは、やがて親に孝行をっく すこととなる」(2 )という。そして「この皇室と国民 とが世界に比類のないほど親密な間柄にあることが、

やがて世界に比類のない国体を生み出したのであ る」(28)と、皇室国家論と家族国家論を接合し、「国 体」論を展開する。

 一方で、政体との関係にっいては、「政体という のは実際に政治をするやり方をいふのである」こと から、「国体と政体とは別々に考えねばならぬ」⑳ と述べる。そして「我が国に於ては神代には、八百 萬の神々に御相談になって治められたこともあり、

神武天皇以来藤原氏がその勢力を恣にするに至るま では、天皇御親ら政をおとりにな」(3°)ったのだと言

う。「また色々の事情から、特に藤原氏とか平氏と かに政治をおまかせになり、武家政治となっては将 軍といふ職を御命じになって、その人に萬事の政を おまかせになった」(31)。そして「明治二十二年、明 治天皇は、帝国憲法をお定めになり、帝国議会を御 設けになってここに立憲君主政体になったのである」

という。こうしたことから「我が国の政体は色々に 変ったが、美しい国体は永久に不滅なのである」(32)

と説く。このように、後藤は「国体」と政体とを区 別し、それぞれの沿革をあとづけ、前者が「万古不 易」であることを強調することで、皇室家族国家で ある日本の「国体」の尊厳を説くのである。

 ところが、〈青年の巻〉〈成人の巻〉における立 憲政体論の記述は、〈少年の巻〉とは若干その修辞 法が異なっていることに気付かされる。 〈青年の 巻〉第5課の「国憲・国法」では、「国憲とは大日 本帝国憲法と皇室典範とをいふ」とし、「世間には 往々にして皇室典範」を忘れて居るものもあるよう であるが、それは過ちである」と述べ、「皇室これ

(9)

国家である」日本では、天皇の「御家法」である

「皇室典範」も「国家の大典」㈹とみなさなければ ならないという。また大日本帝国憲法にっいては、

「明治天皇」が、「我等国民が、祖先の遺風をうけっ いで、よく皇室を中心として協同し、我が帝国の光 栄を広く中外に掲げ、皇祖・皇宗の御遺業を発揮す

ることが」できるよう「御親らこれを御定め」になっ た「欽定憲法」(34)であることを説く。また「いかに も、形の上から見ると帝国憲法の発布されたのは、

明治二十二年であるが、我が国の立憲国としての精 神は遠く、建国・創業の昔から、明らかに存してい たことを忘れてはならぬ」㈹という。そして、「こ れは八百萬の神々を高天原にお集めになって、大評 議を行はせ給うた神代から今日に至るまで、御歴代 の天皇の御政治に就いて、実際にうかがひ得るとこ ろであるが、特にこれを明らかに示し給もうたもの は明治元年に天地・神祇に誓ひ給うた五箇条の御誓 文である」㈹という。このようにわが国の立憲政治 は神代の時代から明治憲法の発布に至るまで綿々と 行われ続けてきているとみなす見解は、 〈少年の 巻〉での、わが国の政体の歴史は時代毎にさまざま に変遷を遂げてきたとする記述と明らかに矛盾する。

 また〈成人の巻〉第8課「我が国の政治」では、

まず「我が国の政治は立憲政治である」と規定す る(37)。そして「立憲政治」とは、「最高唯一不可分 の権力」たる「主権発動の本則」が、「憲法によっ て確立せられてあるもの」で、「その特色は主権の 作用を立法・司法・行政の三っに分ち、各独立の機 関をして互に侵すことなからしむる制度をいふ点に ある」と㈹述べる。したがって「立憲政治」は

「少数専制」の政治と異なり、「多数会議」の政治で あって、また「一般には立憲政治の方が国民の人格 とその生命・財産を尊重し、安寧・幸福を増進する に適した政治といはれている」(39)という。っついて

〈青年の巻〉と同じく、「我が国の政治の根本精神 は神代の昔から立憲的であった」ことを神話の例を 用いながら実証しっっ、「すなわち政治を行ふには 常に衆議に諮るというのは我が国政治の伝統的精神 なのである」(4°)という。そして我が国の立憲政治の 特色は、「多く君民の衝突の結果、血に汚された纂 奪」の歴史をもっ他の国とは異なり、「国体にその 基礎をお」く、「君臣一体の精神を根本とするにあ る」と主張する。またここでいう「君臣一体」の

「漢字の『臣』の字は、『屈服』を意味して居るのに よって大体支那の君臣の関係は理解される」(41)とい

う。というのも「かの国に於ては、君は力を以て民 を屈服せしむるにあると考へられていたのに反して、

我が国に於ては、人民または百姓は、いっも『おほ みたから』と称されて、人格を尊重され、その政治 は常に民を本と去れていたのである」(42)と述べてい る。この箇所の記述は「国体」と政体とを区別すべ きだとした〈少年の巻〉における論理と矛盾するが、

後藤がここで「国体」と政体の一致を強調したのは、

もともと儒教的倫理にほかならない「忠君愛国」の 観念を、「万古不易」の「国体」を支える国民の

「立憲的精神」として説くたあであったといえる。

むすびにかえて

 後藤が、かれの執筆した『公民読本』において、

立憲的国民精神としての「忠君愛国」論を各巻一貫 して強調しながら、〈少年の巻〉では「国体」・政 体区別論を展開し、〈青年の巻〉〈成人の巻〉では

「国体」・政体一元論を説くといったかたちで、その 内容に論理の不整合と矛盾をきたしたことは、かれ の立憲政体論が、一般国民向けに作為されたもので あったことを露骨に示しているといえる。しかしそ こでは各巻に共通して天皇の発意によってわが国が 立憲政体を採用したことが繰り返し説かれており、

その意味で、後藤が『公民読本』において展開した

「立憲政治」論とは、明治憲法の君主主権主義的=

疑似立憲的側面を強調したもので、それは英国立憲 主義における君民共治論とも大いに性格を異にする ものであった。しかもそれは先に紹介した「立憲同 志会諸君二質ス」をみても明らかなように、主権の 行使・運用機関を衆院議会に限定せず、憲法に記載 された他の、枢密院・元老院・貴族院議会等の立法 機関をも同等の権限をもつものとみなし、政党勢力 による「議会専制政治」を排除しようとする内容を もっものであった。後藤が自ら「デモクラシー」を 説く際に、普選主義と反政党主義の両方を掲げたの

は、こうした独自の憲法解釈に基づくものであり、

その点で、主権の所在と運用を区別し、主権運用の 方法として議会デモクラシーを説いた吉野作造や大 正初期の大山郁夫の民本主義政治論とも内容的に一 線を画していた。

 また、こうした自らの立憲政治思想を説く際に、

後藤はその対象により、巧みに論法を使い分けてい た。その違いは、「立憲同志会諸君二質ス」と『公 民読本』の論理の異同において明白である。後藤は、

政界関係者にあてた前者の文書においては、立憲政

(10)

治における政権運用の方法としての「挙国一致」主 義を、最新の「先進立憲国」の政治動向からその正 当性を導いており、「建国神話」を例に挙げ「国体」

論との関わりにおいて日本の立憲政治の独自性を主 張した『公民読本』とは際立った対称をなしている。

後藤は、自らの「挙国一致」政治実現のために求め られる公民の資質として、近代的な政治知識をある 程度身にっけながらも、国政への参与を市民的な権 利の実現としてではなく、天皇を家父に仰ぐ皇室国 家への奉公として遂行していく道義観念一家族国 家倫理を求めており、その意味でそれは、守旧的・

復古的な「おおみたから」的公民像の枠をでるもの とはならなかった。後藤はこうした発想から、みず からの立憲政治思想をく政界用〉と〈通俗教育用〉

との二通りに使い分けており、そしてその点に後藤 の立憲政治論の二重底的な構造を認めることができ る。このことから、後藤がてがけた各種の教育事業 の表層をなす、進歩的・啓蒙主義的側面の底流には、

それとは一見矛盾するような政治的愚民主義の発想 が貫かれていたといえよう。したがって、後藤が大 正期における政治状況の変化に即したかたちで、国 民に対する方便として「デモクラシー」を説き、普 選論を唱えても、教育を通じ国民に吹き込もうとし た憲法思想の内容は、っまるところ、国民の市民的 権利意識の自覚と反体制思想を解消させ、上からの 思想操作を容易にするためのものでしかありえなかっ たのである。

央協会といった各種団体に加え、帝国教育会・社 会教育会・社会教育協会・政治教育協会といった 教育関係団体も加盟し、理事長には後藤系官僚の 筆頭ともいえる永田秀次郎が就任した(杣正夫

『日本選挙啓発史』明るく正しい選挙推進全国協 議会、1972年、参照)。

       1

(1)拙稿「大正デモクラシー期後藤新平の社会教  育思想」『日本社会教育学会紀要』第27号、1991  年参照。

(2)後藤『日本膨張論』〔通俗大学文庫第1巻〕

 1916年、参照。

(3)後藤「自治団綱領」同著『自治の修養』忠誠  堂、1927年所収参照。

(4) 季武嘉也「大正期における後藤新平をめぐる  政治状況」『史学雑誌』第96編6号、1987年6月、

 20−−21頁。

(5)拙稿「少年団日本連盟と健児教育」『教育学  研究年報』第9号、東京学芸大学教育学研究室、

 1990年9月参照。

(6)後藤「少年団と自治精神」『公民読本・少年  の巻』実文館、1925年、134頁。

(7)加藤峰男「後藤新平伯の思想」『吾等の知れ  る後藤新平』東洋協会、1929年、95頁。

(8)〜(10) 後藤『自治生活の新精神』新時代社、

 1919年、15−16頁。

 〔註〕

         はじめに

(1) 玉城肇『日本教育発達史』三一一新書、1956年、

 101頁。

(2)家永三郎『日本近代憲法思想史研究』岩波書  店、1967年、175頁。

(3) 久野収・鶴見俊輔『現代日本の思想』岩波新  書、1956年、152−153頁。

(4) 岡義武・林茂校訂『大正デモクラシー期の政  治一松本剛吉政治日誌』、大正7年12月2日の

 項。

(5)1930年代に活発となる選挙粛正運動は、1935  年5月、勅令により選挙粛正委員会が制度化され  たのを契機に、その実働部隊として民間レベルで  の運動団体を結集し、1935年6月選挙粛正中央連  盟が結成される。これには、東京市政調査会。中  央教化団体連合会・大日本連合婦人会・壮年団中

       II

(1)(2)吉野『吉野作造博士民主主義論集』、第  1巻、新紀元社、1948年、30−44頁。

(3) 『大山郁夫著作集』第2巻、岩波書店、1987  年、14頁。

(4)大山「政治的機会均等主義」(大正5年3月)、

 同前書、第1巻、120頁。

(5)吉野「我国に於ける労働問題」(大正9年10

 月)、前掲(Ol)書、59−60頁。

(6)鶴見祐輔『後藤新平』第3巻、後藤伯爵伝記  編纂会、1941年、960頁。

(7)(8)吉野、前掲書、63頁。

(9)吉野「普選と政治教育」、吉野前掲書、第2  巻所収、参照。

(10)〜(12)大山「米騒動の社会的及び政治的考察」

 (大正7年9月)、前掲(3)書、241頁。

(13)後藤前掲『自治生活の新精神』、40頁。

(11)

(14)大正デモクラシーを背景としての大山の思想  的変節に即応したかれの教育論の展開にっいては、

 田中征男「大正デモクラシーの教育思想   大  山郁夫の批評活動を中心に」(『講座日本教育史』

 第3巻、第一法規、1984年所収)が参考になる。

       lll

(1) 後藤『市政に就いて(未定稿)』、1922年4月、

 20頁。

(2)後藤「市長承認を承諾するにあたっての覚書」

 鶴見前掲(12)書、

(3)『万朝報』、1921年、4月25日の記事より。

(4)室伏高信「東京市長としての後藤新平」『改  造』、第3巻2号、1921年2月、38頁。

(5)〜(10)後藤「政治の倫理化演説」、前掲『後  藤新平文書』19−5。

(11) 後藤「公民読本述作に就いて」『公民読本』

 実文館、1925年、各巻収録。

(12)東京市政調査会『自治及修身教育批判』1924  年、67頁。

(13)〜(20)鶴見前掲書、490−491頁。

(21)前掲『公民読本』 〈少年の巻〉、5頁。

(22)(23) 同上書、6頁。

(24) 同上書、7頁。

(25) 同上書、8頁。

(26)〜(28) 同上書、9頁。

(29)〜(32) 同上書、9−10頁。

(33)前掲『公民読本』 〈青年の巻〉、20−21頁。

(34) 同上書、22頁。

(35)(36)同上書、23頁。

(37)〜(39) 前掲『公民読本』 〈成人の巻〉、40頁。

(40) 同上書、41頁。

(41)(42)同上書、42−43頁。

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