﹁考える葦﹂から﹁考える肢体﹂ へ
山 下 佳 代 子
第一章 序論
第二章 PのロSかe de derri㌢e︵−︶
第三章 Pensかのde deくant
第四章 ﹃パンセ﹄後半の概観
第玉章 Pens訂de derユ㌣e︵N︶
第六章 結論
− ﹁考える葦﹂から﹁考える肢体﹂ へ11−
第一章 序 論
﹁それらはみな一緒に綴じて︑いくつもの束になっていたが︑そこには何の秩序も︑何のつながりもなかったT︶︒﹂
これはパスカルの死の直後の﹃パンセ﹄の状態を示す︑甥エチエンヌ・ペリエ舌tienne Pかrier−窒N⊥畏○︶ の証
言である︒そして﹃パンセ﹄研究の困難な歴史も︑この時から始まったと言えるだろう︒このばらばらの断章の集ま
りを読者に提供すべく︑校訂者達の苦心にも並々ならぬものがあった︒先ず︑ひどく乱雑に書かれたパスカルの自筆原
﹁考える葦﹂から﹁考える肢体﹂ へ ︵山下︶一
二稿を判読することからして︑ただならぬ困難な仕事であったことだろう︒まして︑何の秩序もつながりもなく書きつ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽけられたかに見える九百を越える断章の間に︑何らかの論理の筋道を与えて︑これをともかく読めるものとして世に送り出すことは︑まさに至難の業であったことと思われる︒多くの校訂者達のうち︑或る者はパスカルの自筆原稿を
そのまま現代綴りに改めて出版することを試み︵2︶︑また或る者は直接自筆原稿の中に分け入って︑そこに断章分類
の辛がかりを得ようとした︵3︶︒
こうして︑校訂者達の多年にわたる努力の結果︑私達は今日︑﹃パンセ﹄について︑優れた二つの版を持つことができたのである︒﹁ブランシュヴィク版﹂︵−衷−itiOnBrunschくic野−讐5と﹁ラフユマ版﹂︵−︶か旨iOnLaどmaこま︼︶
がそれである︒︵以下︑それぞれB版︑L版と略す︒︶ しかも︑これらは全く異なった立場に立って編纂された二つの版
である︒即ち︑キリスト教弁証論のプランは失われたとするB版に対して︑L版はそのプランの実在を実証してい
る︒このことから︑二つの版の間には当然︑断章の配列方法にかなり違いのあることが予想される︒そして更に︑
この配列方法の相違が各断章の解釈の上にいくらかの相違をもたらすかも知れない︒この観点に立って︑私達は今
から三年程前に︑断章解釈の一つの試みとして︑B版とL版とについて︑小さな比較検討の作業を行なったのであ
る︵4︶︒今ここにその結果を要約してみるのも無駄ではないだろう︒というのも︑私達のこの研究はそこを出発点とすることになるかも知れないからである︒
さて︑比較検討の一例として︑私達は﹃パンセ﹄の中で最も人々に親しまれている﹁考える葦﹂︵ROSeau penSant︶
の二つの断章︑︵L・ごu−B・い念︵5︶︶と︵L・N書﹀B●い台︵6︶︶を取り上げてみた︒ここで︑両版における二つの断章の
位置を確かめてみると︑先ずB版では︑二つの断章は﹃パンセ﹄の中程︑第六章﹁哲学者達﹂の中に︑相前後して配
ヽ ヽ列されている︒従って︑二つの断章の解釈にあたっては︑少なくともその位置の上からは︑相違は問題にならないこ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽとになる︒結局︑ここでパスカルは考えること︵pensかe︶のうちに人間の偉大さの象徴を見ているように思われる︒
だから︑人間はこの能力をよく生かさなければならない︒よく考えなければならない︒それが人間の存在の本質に適
ったやり方だ︑とパスカルほ言う︒こうして︑B版のパスカルは︑どこかデカルト︵RenかDescaユes︼等千−既○︶の
﹁コーギト﹂を思わせる︒
ところが︑L版では事情はかなり異なる︒先ず︑﹁考える葦﹂の二つの断章は別々に配列され︑一つは第六章﹁偉
大さ﹂に︑他の一つは第十五章﹁人間の認識から神への移行﹂の中に見出される︒そこで今度は︑この二つの断章間
の距離が問題となる︒この位置の隔たりは二つの断章の解釈に際して何か意味をもつものだろうか︒この点に注意し
ながらテキストを読んでみると︑B版と解釈の上で相違の認められない第一の﹁葦﹂ の断章︵L●い︶ はよいとして
も︑第二の﹁葦﹂ の断章︵L.N書︶はなかなか微妙な問題をもった断章であることがわかった︒そこで︑いまこの断
章の位置をもう一度確かめてみよう︒先ず︑第十玉章 − そこに第二の﹁葦﹂の断章︵L・N00︶が含まれている1
に至るまでに︑信仰のための心の準備はすっかりでき上がっているのである︒即ち︑人間の幸福は神においてのみあること︑人間に救いをもたらすキリスト教のあること︑そして横井者イエスのことが教えられ︑更に︑人間の理性の
限界が明示され︑しかるべき時には服従することを知る従順な理性の必要が既に説かれた︒こうして︑人間の側での
準備をすべて終えて︑いよいよ神そのものへ移行しようとするのが︑第十玉章である︒そしてこの重大な瞬間に︑人
間は再び自分の姿をよく見極めなければならない︒この時人間は︑無限と無との二つの深淵の間に釣り下げられて︑
事物の原理も究極も知ることができず︑それら両極の間を定めなく漂う自分の姿を見て︑限りない不安に襲われ︑同
時に自分の無力さを知って︑謙遜にならざるを得ないだろう︒そして︑自然の無から無限への運行をただ黙って眺めるほかなかったのである︵7︶︒
そこで︑﹁考える葦﹂ の第二の断章であるが︑このような状況のもとでは︑人間は﹁思惟によって私が宇宙を包み込む︵8︶﹂などと言って︑唯ひたすら思惟の偉大さを称える気特にはなれないであろう︒この時人間は︑自分が満たす
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽことのできない空間や時間の無限の広がりを前にして︑それでは自分はどのように身を処すべきかを真剣に考えるに
違いない︒
﹁だからよく考えることに努めよう︒ここに道徳の原理がある︵9︶︒﹂
こうして︑考えること︵pe己計︶のうちに︑人間の道徳の原理を見るのが︑第二の﹁考える葦﹂の立場であると言
﹁考える葦Lから﹁考える肢体L へ ︵山下︶三
四えるだろう︒
以上が︑私達が先に試みた比較検討の作業の要約である︒そして︑私達のこの研究はそこを出発点としたい︒私達
は先ず︑第二の﹁考える葦﹂の断章の問題点をもう一度検討することから始めよう︒
ヽ ヽさて︑先程述べたように︑第二の﹁考える葦﹂の断章では︑考えること︵pensかe︶は道徳の問題として取り上げら
れている︒即ち︑ここでは︑どのような行為をすべきか︑何をなすべきかを考えることが必要であった︒しかしなが
ら︑この問題に対するはっきりした答えは︑まだ私達に与えられてはいない︒ただ第十玉章の位置とその内容から︑
私達は一応の答えを引き出すことはできるだろう︒即ち︑みずから満たし得ないこの空間や時間の無限の広がりの中
に︑神の威光を見て︑その前に己れを空しくすること ー ここから人間の行為の規範はすべて導き出されることにな
るだろう︒しかし︑このような答えはあくまで推測に過ぎないのであって︑私達は当然︑パスカル自身の答えを知りたいと思う︒そして︑そのための一つの方法は︑﹃パンセ﹄を通読することであろう︒私達は﹃パンセ﹄全体のうち︑
前半十五章を読んだに過ぎない︒残りの十二の章を読まなければならない︒その後︑再びこの間題に立ち返ることに
ょって︑或いはよい結果が得られるかも知れない︒このようにして︑私達は先ず﹃パンセ﹄後半をL版の順序に従っ
て読んで行くことにしたい︒
ヽ ヽ ヽところで︑﹃パンセ﹄後半部は︑聖書によるキリスト教の歴史的論証の部分であり︑前半のパスカルの人間観の部
分とは異なって︑一般に余り親しみ易い部分とは言えないようである︒更に︑聖書の知識が決して十分とは言えない
私達にとって︑後半部を読むということは︑或る意味では前半部を読むこと以上に困難な仕事であり︑恐らく初学者
の手に余ることに違いない︒そこで︑この作業にとりかかる前に︑予め視点を小さく絞っておくことが賢明であるよ
ぅに思われる︒さて︑私達はpensかepasca−ienneにおいて重要な意味をもつ﹁後ろ側の考え﹂︵pensかedederri㌣e︶
− それについて︑私達は先頃小さな考察を試みたのであるが︵10︶ − に視点をおきたいと思う︒そして︑この
︽penSかedederri㌢e︾を言わば一本の軸として︑﹃パンセ﹄の後半部を読み進んで行きたいと思う︒
さて︑以上のような﹃パンセ﹄通読の作業の上に︑もう一つ︑次のような小さな視点が重なり合うことになるだろう︒
﹃パンセ﹄後半部を瞥見する時︑誰でも気がつくことは︑このアポロジーの終り近くに︑第二十六章﹁キリスト教
の道徳﹂という早が設けられているということ︑更にこの章の中に︑次のような表題をもつ一群の断章が見出され
るということであろう︒
﹁考える肢体﹂︵P宕mbres pensPnt00︶
そして︑これらのことが私達の関心を強く捉えて離さなかった︒先ず︑聖書による歴史的論証という︑言わばアポ
ロジーの論理的な展開のあとに︑いきなり﹁キリスト教の道徳﹂という倫理の問題が提出されるということは︑一見
唐突な感じを与えかねないし︑またそれだけに一層︑それがアポロジー全体の中で何か大きな意味をもっているので
はないかという考えを起こさせずにはおかない︒次に︑﹁考える肢体﹂という表題に注目しなければならない︒この
断章を︑先頃私達が取り上げた﹁考える葦﹂の断章との関係において考えてみるのもあながち不自然なことではない
ように思われる︒というのは︑この二つの断章には︑いくつかの共通の問題点が見出されるからである︒今それをあげれば︑
︵i︶ ﹁葦﹂︵rO∽eau︶と﹁肢体﹂︵m〜旨br2且とは︑共に聖書に深い係わりをもつ言葉であること︵n︶︒このことは︑
﹁彼が殆ど全部を暗諦するほど︑それに専心した︵崇﹂ といわれる聖書とパスカルとの関係を改めて思い起こさせる︒
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ︵⁚11︶ ﹁葦﹂と﹁肢体﹂とは共に﹁考える﹂︵pensant︶という現在分詞を従えている︒聖書のことばと考えること−
ヽこの一見矛盾するような組み合わせが︑私達の注意を強く引くのである︒そこには︑真のキリスト者としてなお︑考
ヽ ヽ ヽ ヽえることに並々ならぬ関心を抱き続けるパスカルの姿を彷彿させるものがあり︑なかなか興味深い︒︵⁝m︶ 第二の﹁葦﹂の断章と︑﹁肢体﹂の断章とは︑共に道徳の問題に触れている︒そこで︑これを注意深く調べ
てみなければならない︒というのは︑私達が先程取り上げた﹁考える葦﹂の道徳の問題に対する答えが︑そこから導き出されるかも知れないのである︒
そして最後に︑この﹁葦﹂から﹁肢体﹂に至る道程において︑パスカルの︽penSかe de derri㌣e︾がかなり大きな
働きをすることが当然予想される︒以上のことを心に留めながら︑私達は﹃パンセ﹄の後半部を一歩一歩読み進んで
﹁考える葦Lから﹁考える肢体﹂ へ ︵山下︶五
六
行くことにしたい︵13︶︒
︵1︶ ︽:●○ロ訂s︵tO宏lesかcrits quゴaくait家t∽S宅Cette mati㌢e︶trO≦1ptOuS enSemble en空かs en di霊rSeS−iasses︶mais
saロS auCun Ordre et saロS auCune Suite::︾ ︵Etienne P町ie:b昏c鴫計︑﹀詮叫︑叫03計七Qr㌣知Q盲㌣−笥○−dans望aise
Pasca−⁚−ざ鼓試筆:訂 3鼻音3 監衰弓や邑官曇 白−軍票▲ぷ音き● lntrOductiOn dの LOuis La2ma︸ t.−−−﹀p●−ぃやーEd● du
Lu誓mbOurg−−やuN︶︵AbrかくiatiOn⁚LA−t●H︻H︶
︵2︶ この例としては︑﹁ミッショ一版﹂や︑プランシュヴイクの﹁㌻?Simi−か版﹂などがある︒
︵3︶ その思想体系を論理的に再構成して︑アポロジーの復元を試みるものであり︑﹁ポール・ロワヤル版﹂や﹁ブランシュゲィ
ク版﹂などがこれにあたる︒
︵4︶ 拙稿﹁PASCALのー甘3わ卦hのte巳escLtiqu認の解釈の一例﹂︵﹃フランス語フランス文学研究﹄第九号︑一九六六年︑p●ヾ∽q.︶
︵5︶ ︵L.u−B.u念︶︽ROSeau penSant●
Ceロ﹀認t pOint de l一e∽paCe quejのdOis che岩her ma dignitか︶mais c.認tdurかg−ementdemapeつS計● Jen﹀au⊇ipOi已
d﹀aくantage en pOSSかdant des ter記S︐par l−espace l−uniくer00me COmpleロd et m√ng−Outit cOmme uロpOi乏︵S−︶⁚p胃−a
p中ロSかeje訂cOmprends●︾﹃パンセ﹄の引用文はL版による︒以下同様︒
カツコ内は︑パスカルが一度書いた後︑線を引いて消した部分を再現したものである︒以下同様︒
︵6︶ ︵L.N00﹀ B.窒づ︽H.u−LゴOmme n√st qu︑un;Sguこe p−us︷巴b−巾
ne訂ut pas qu巾−ビni≦川rS¢ロti巧S︸arme pOur−軒raserいunの■く由peu♪une
ービniくerS−︑かc⊇詔;−t︸−ゴOmmの
ーざくantage que−.uniくe詔a Su↓
TOuteロOtre dignitかcOnSi警の Serait encOre p−us nOb訂 ︵号音雇︶ que
−ui.LノトniくerS n√n sait ri巾n. de−a naturのーmais c−現t un岩Sgu pのロS寧ロt●︻−
gOutte d√au su諦t pOur−のtuer● Mais quand
Ce qui 訂 tue−p2Squピ sait qu︑i−m空−rt et
que ロOuS
︵7︶ ︵L.−¢¢−
︵8︶ ︵L●u−
︵9︶ ︵L一N00﹀ ne sauユOnS r巾mp−i︻●
B.りN︶ dOnC en−a pensee.C−est de−少quピnOuS
T︻Pくai−−On∽dOnC針bien pens寛⁚づOi−脚−e 訂ut︻e−付くeretnOnde−︑espaceetde−adurかe.
pr−nC−pe de−a mO⊇−e●︾
甲山畠︶︽:●−par−a pens計je訂︵−ビniくer且cOmp記nd防−︾
B.いヰゴ︽:一TraくPil10nS dOロC脚bieゴpenSer⁚﹂ちOi−㌢−e priロCipede−a ︻ゴOrale.︾
︵10︶ 拙稿︑p.¢及びp.ご.なお︑この︽pens計dのdのrri㌣e︾については︑後程︑章を改めて再び触れることにする︒
︵11︶ ‖﹁葦﹂は前田陽一教授の考証によって︑
れることになった︒
﹁:::⁚. 旧約﹃イザヤ書﹄第四十二章の﹁メシア予言﹂の次の個所に結びつけて解釈さ
彼は叫ばず︑声を上げず︑
その声を巷に聞かせない︒
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ傷める葦を折ることなく︑消えかかった灯心を消すことなく
やから彼は諸国の族に公義を斉らす︒﹂︵旧約聖書﹃イザヤ書﹄︑下︑関根正雄訳︑岩波文庫︑昭和四十一年︑p.N︼.なお︑傍点筆者︶
その他︑﹃マタイによる福音書﹄︑﹃ルカによる福音書﹄︑﹃マルコによる福音書﹄などにも︑﹁葦﹂に関する記述があることを︑
前田陽一教授は指摘されている︒︵前田陽一﹃パスカル︑﹁考える葦﹂の意味するもの﹄中央公論社︑昭和四十三年︑p.−誅sq.︶
回 ﹁肢体﹂については︑聖パウロ﹃コリント人への前の手紙﹄︵SaintPau−⁚hざS挙句昏叫冨きk9さ註害︶第十二幸
十二節及び二十七節に次のような記述がある︒
ヽ ■﹁身体は一つであるが肢体は多く︑また身体のすべての肢体は数が多くても一つの身体を形作るのであるが︑キリストも
それと同じである︒L︵−N﹀−N︶ ︵傍点筆者︶﹁あなたがたはといえば︑あなたがた一人一人がキリストの身体であり︑その肢体である︒L︵−N−Nヾ︶
︽De mのme−巾ロe詳t︐que−e cOrpS e∽−uロこOu−eロayan−p−usieurs membres−e−que−Ou∽−認m巾mbres du cOrpS﹀訟
ロOmb記u粥SOiのロTi−s﹀ロe訂rment quビn s空レーcOrpS.ainsi eロe裟・i−du Ch︼汝t:⁚︾︵−N︸−N︶
︽POul七du00︐くOuS曾es︼e cOrpS du Chl賢et ses mのmb記S︸Chacun pのr岩nn︵己のm¢ロt一︾︵−N︸Nゴ︵La Sainte Bib−e du
ChanOine C2mpOn︸Par耳SOCiかtかde Saint leaローーEくang巴iste﹀Desc−かe﹀−現N﹀p.−笥︶
︵12︶ ︽⁚・i■s.y︵針−顔critu岩Sainte︶e∽tOit si訂︻t app−iquかーq↑こa∽aくait:.tOutのpar CRur:⁚︾︵La≦e de M∽∽訂ur
Pasca−−かcrite par Madame Pかrie♪Sa S馬uJ LA●こ.︻−−﹀p.N¢︶
︵13︶ この研究に使用したテキストは次のものである︒
︵i︶ 空ai謁Pasca−⁚>菱卦?賀:ざコ鼻骨≦巴ご弓ふ蓋音琴:昌ぎ謁屋号わ.−nt岩ducti05d巾LOuisLafuma︸山く○−.Paris.EditiOロS
﹁考える葦﹂から﹁考える肢体﹂ へ ︵山下︶七
八
du Lu舛巾mbOur野−¢山ド
︵ii︶ B−ai物巾Pasca−⁚七町3わ計諷○▲曾宍已屡pub−iかsa諾CuneintrOductiOn︸desnOtices et des nOteS par M●LかOn野un∽Ch5.Cg−
Pa已s.Hach巾tte︸−現↓.
第二章 Pens軒de derri町e︵−︶
ヽ﹃パンセ﹄の後半部に取りかかる前に︑ここで今後の考察のいわば軸となるはずの︑パスカルの︽penSかe de de?ri㌣e︾について少し考えておきたい︒私達は︑先頃試みたL版による﹃パンセ﹄前半部の概観の際に︑パスカルのこの
特徴ある考えに始めて出会ったのであるが︑今その地点に遡ってこの問題を考えてみるのもよいかも知れない︒さて︑L版の次の二つの章に特に注目したい︒
第玉章 現実の理由︵Rai岩nS des e辞ts︶
第六章 偉大さ︵Grandeur︶
L版によれば︑この護教諭は︑先ず冒頭に﹁順序﹂︵Ordre︶という早を設けて︑全体のプランと説得のための順
序︑方法を示し︑以後そのプランに従って着々と護教諭が展開されることになるのであるが︑それは先ず﹁人間をよ
く知る︵l﹀﹂ことから始められる︒そして︑現実の人間のあらゆる営みに鋭い観察の目を向けた結果︑著者が私達に
描き出して見せるのは︑みずから求めるものは真理も善も幸福も手に入れることのできない惨めな人間の姿である︒
ところが第玉章に至って︑著者は急に歩みを止めるのである︒相変らず人間の悲惨さを見せつけて︑読者を不安に陥
れることをやめて︑ここでパスカルはこの人間の悲惨さの理由は何かと問うのである︒自然学者の眼は人間の現実を
知ること1それはモンテーニュ ︵Miche−deMOntaig莞︼訟u⊥篭N︶のよくなしたことであろう1のみには満
足できずに︑更にその向う側に︑人間のこのような﹁現実﹂の﹁理由﹂は何かと追求せずにはいられない︒
ところで︽rais名d悪e昏t切︾とほ当時の自然学の用語であるといわれる︵2︶︒これをそのまま現実の事柄に当て
飲めて人間観察を試みるあたり︑如何にも自然学者パスカルらしいやり方といえるだろう︒それはともかく︑今この
ヽ ヽ興味深いパスカルの考えをテキストの中に探ってみることにしよう︒先ず︑正義︵justice︶とカ︵訂rce︶・とに関する
一連の断章がある︵3︶︒著者は現実の社会における両者のあり方を彼一流の注意深い目で見守りながら︑次の一句に
よって︑先ず私達を驚かせる︒
﹁カなき正義は無力である︵4︶︒﹂
正義はそれ自身で社会に通用するほど強いものである︑などとつい考えがちな私達のナ
フ
突き刺す︒正義と力とがそれぞれ別々に存在する限り︑社会は混乱を免れ得ないだろう︒
カ、か、のつ、な心をこの二言が鋭くない正義は忽ち悪人達 ヽ ヽ
ヽ ヽ ヽに反対されるだろうし︑一方︑正義のない力も非難の的になる︒そこで両者を一緒にしなければならない︒ところ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽが︑正義に力を与えようとすれば︑論議無用の力が自己の正当性を主張して無力な正義に歩を譲ろうとはしない︒そ
こで結局︑
﹁人は正しいものを強くすることができなかったので︑強いものを正しいとした︵5︶︒﹂
ヽ ヽ ヽというのがパスカルの結論である︒カが正義の衣をまとって平和が維持される︒﹁最大の不幸は内乱である︵6︶﹂以
ヽ ヽ ヽ上︑それでよいのだと︑このフロンドの乱の経験者は考える︒こうして︑現実の社会秩序の背後に︑彼は正義と力と
の皮肉な関係を突き止めたのであり︑これがパスカルの︽r巳sOn des e辞t00︾に他ならない︒
一体︑人間の現実の事柄には︑それが一見偶発的なものに思われる場合にも︑すべてその由って来たる原因がある
ヽ ヽ ヽ ヽもののようである︒しかも︑その原因と結果とが必然の糸によって結ばれてはいないことを︑パスカルの︽raisOnde00
e詳ts︾は私達に教えてくれる︒即ち︑自然科学の領域におけるのとは異なり︑人間の領域における︽raisOn de∽e幹t∽︾は殆どすべての場合︑必然の彼方に︑或いはその対岸に見出されるのが普通である︒このようにして著者は︑
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ凡そ私達の予想もしないところに次々と現実の理由を見つけ出しては私達の不意を突くのであるが︑私達が︑これか
ら取り上げようとする︽penSかedede﹂邑㌢e︾という考えに出会ったのも︑この同じパスカルの︽raisOnde∽e辞ts︾においてである︒
﹁考える葦むから﹁考える肢体Lへ ︵山下︶九
一〇さて︑次の断章に注目しよう︒
﹁現実の理由︒
段階︒民衆は高貴な生まれの人々を敬う︒生半可な識者達は︑生まれというものはその人自身の優越ではなく︑
偶然のもたらしたものであるといって︑高貴な生まれの人々を軽蔑する︒識者達はその人々を敬う︒しかし民衆の
考えによってではなく︑後ろ側の考えによってである︒⁝⁝︵7︶﹂
こうして﹁高貴な生まれの人々﹂という一対象をめぐって︑それぞれの意見が正から反へと段階をなして漸進して行く様子をはっきりと見せてくれる点で︑この断章はパスカルの ︽ra訂On des e辞ts︾ の一つの典型をなすものであ
り︑同時に所謂パスカルの弁証法の型を示すという意味でも︑これはなかなか重要な一節といえるだろう︒しか
し︑この問題は後日に譲ることにして︑ここではパスカルが ︽ra㌃On des e穿ts︾を求めるに際して︑︽penSかe
de d彗r−㌢e︾という興味深い独自の表現を用いていることに注目しよう︒
先ず︑民衆︵peup−e︶が自然的無知の中にあって︑しかも健全な意見を持つことはパスカルのしばしば指摘すると
ころである︵且︒次いでこれに反対の立場をとる生半可な識者達︵demThab−㌃s︶の段階を経て︑実の識者達︵hab㌃s︶
は再び民衆と同じ意見に達するのであるが︑しかしそれは民衆と同じように考えるからではなくて︑︽ra訂On des
e浮ts︾を求めることによってである︒そして︑この︽ra訂On des e≠訂ts︾を求めること︑識者のみがなし得るこの
精神の働きを︑パスカルは︽penS針de derr㌫re︾と呼んでいる︒こうして︑民衆と識者とが同じ意見を持つのは︑
パスカルによれば︑民衆の自然的無知︵ignOranCe natule−−e︵9︶︶が︽penSかedederri㌣e︾の働きによって︑識者の
賢明な無知︵茸nOranneSaくPロte︵10︶︶へと導かれたことになるのである︒
ここで︑︽penS計dedelr軒e︾という句の意味をもう少し考えてみよう︒パスカルが他の断章で説明しているよ
うに︑それは﹁頭の後ろにある考え︵11︶﹂のことである︒又︑﹁大貴族の身分について﹂︵ゴ︑Q叫旬鼓岩Qミ叫簑ヽ訂c昌・
熟︑計3計hg2き諌︶という小品においても同様の考えが述べられている︒即ちパスカルは貴族の少年に向かって︑﹁二
重の考え方をしなければならないこと︵望﹂︑そして﹁一層奥に隠された︑より真実な考え︵13︶﹂によって本来の自分
の身分︑位置を考えねばならぬと諭している︒かくてパスカルの︽penSかedederr小㌣e︾とは︑頭の後ろに隠され
た︑より深いより真実な考え︑ということができよう︒そしてそれは同時に︽ra訂Ondese︷粁ts︾を求めて止まない
強い精神の働きであると考えられる︒ヽヽヽそして︑先程著者が地上の平和という現実の背後に正義と力との皮肉な関係を見抜いて私達を驚かせたのも︵14︶︑
この同じ︽penSかedederr−㌣e︾によってであったことが︑今は容易に理解できるであろう︒ヽヽヽヽヽヽさて︑これまで見てきたところから︑パスカルの︽penSかedederr瞥e︾は所謂直進する考えではないように私達
には思われる︒それは常に現実の事柄の後ろ側を縫ってジグザグに道を辿りながら︑その進むところ到る所に痛烈な
皮肉を残して通り過ぎて行く︒こうして︑パスカルの︽penSかedederr−㌣e︾は出会い頭に︑先ず私達の意表をつ
き︑私達を驚かさずにはおかなかったのである︒そして︑この重要なpensかepasca−訂nneを提示したことによっ
て︑L版第五章は︑ジャン・メナール教授︵Jean2訂snard︶の言うように︑アポロジーの中での一種の道草︵d小gres・
巴On︶であるとしても︵15︶︑これはなかなか意味深い道草と言えそうである︒
次いで︑第六章に至って︑パスカルにおける︽penSかedederr軒2︾の位置は一層はっきりすることになるだろ
う︒この章で著者はこれまで述べて来た人間の悲惨さに︑今度は人間の偉大さを対立させようとする︒ところで︑
思惟︵pensかe︶と心情︵c馬ur︶とをもつこと−これがパスカルの考えている人間の偉大さの条件であるが︵16︶︑ここ
では問題をそのうちの思惟のみに限ることにしよう︒
ここに思惟の偉大さを述べる三つの断章がある1︵L﹂︼00︶率土︶N︶︵L.ご♪寧﹂雲︶︵﹁︼○ひ一声上白︶︵1 7︶︒そし
て︑そのいずれもが首尾一貫した正確な論理の筋道によって︑明らかに数学者の手になるものであることを示してい
るように思われる︒この点に強い関心を抱いた私達は︑先頃これら三つの断章について次のような小さな試みを思
いついたのである︒即ち︑数学のごく初歩の方程式を取り扱うように︑一つの断章の或る句を方程式の一つの項に見
立て︑それを他の断章の或る一つの旬に言わば代入することによって︑これら三つの断章を解いてみたのである︒そ
﹁考える葦Lから﹁考える肢体L へ ︵山下︶一一
一二の余りにも初歩的な課程をここに繰り返すことは紙面の都合上からも差し控えるが︵ほ︶︑このような試みの中に︑ま
ヽさに数学的な正確さで各項︵句︶が対応関係をなす︑というパスカルの文章の特徴 − 従って彼の精神のあり方そのも
のの特徴をはっきり見てとることができたのは興味深い︒同時にこの試みから︑私達は次のような重要な結論を得る
ヽ ヽ ヽことができた︒即ち︑パスカルの思惟︵pe宏㌻︶とは︑それが少なくとも人間の偉大さの象徴と見なされる場合には︑
この︽penSかe dederri㌢e︾でなければならないということである︒しかもこの場合︑それが深い思想的な考察によ
るのではなく︑専らL版の第五葺から第六章に至る断章の配列︑といういわば位置関係から自然に導かれた結論であ
ることをここに付記しておきたい︵崇︒
ヽ ヽところで︑この人間の思惟の偉大さについて科学者パスカルは早くから強い確信を抱いていたようである︒彼の二
十七︑八歳頃の作といわれる﹁真空論序言﹂︵旬Å古窯二重ご許さ貞ぎご浄:諷計︶において︑﹁無限のためにのみ作られた
人間︵空﹂が代々新しい知識を積み上げて絶えず進歩するのを︑パスカルが心から称賛しているのが見られる︒また︑
彼の発明になる計算器をスエーデン女王クリスチナに献上する際の手紙︵卜諷︑扁軋訂︑軋莞計hビ〜計︶の中で︑彼が
肉体よりも高い秩序に属する精神の優越を力説しているのも︑思惟の尊厳に対するパスカルの確信のほどを示す一例
となるだろう︵聖︒
しかしながらパスカルが人間の思惟の偉大さをひたすら楽天的な態度で肯定していたと考えるのは誤りであろう︒
ヽ ヽ ヽそれどころか彼は思惟の卑小さをも十分認めていたのである︒次の断章がその証しとなるだろう︒
﹁思惟︒
人間の尊厳のすべては思惟のうちにある︒だがこの思惟とは何であろう︒それは何と愚かなものであろう︵空︒
⁚⁚⁚Lこうして﹁考える葦﹂ の尊厳は︑部分的にはこれと共通の表現をもつこの断章の中で︑ものの見事に打ち砕かれて
しまう︒結局︑ここで思惟は一方では比類のないすばらしいものとして称えられながらも︑他方ではそれ以上おかし
なものはないという︑欠点をもつものとして大いに卑しめられているのである︒更に︑L版の断章の配列という点で
ヽヽヽヽヽヽも︑パスカルが人間の偉大さ︵第六章︶を人間の悲惨さ︵第二章−第四章︶にはっきり対立させて提出していることに注
ヽヽヽヽヽヽ目しなければならない︒そして︑この偉大さと悲惨さの矛盾という重大な問題に対して︑パスカルはやがて独自の弁
証法的解決を与えることになるだろう︒そこでは彼の︽pen臥edederri町e︾がその強い力を発揮するはずである︒
最後に︑これまで見てきたところから︑私達は次のように理解しておきたい︒パスカルは人間の思惟︵pen臥e︶にヽヽヽヽヽヽついて︑その偉大さと共に︑その卑小さをも認めていたこと︒そして︑パスカルが特に人間の偉大さのしるしと見なす
思惟とは︽penSかedederri㌣e︾であり︑それは︽1aisOndeのe幹ts︾を求めてやまない一層奥深い考えであること︒
︵1︶︵L.︼N︸B.−00づ
︵2︶中村雄二郎﹃パスカルとその時代﹄︵東京大学出版会昭和四〇年︶pp.−会⊥土∴江︵2︶
︵3︶︵L●00ー﹀戸N票Y︶二L●∞∽︶声00山鹿︶︵L一∞か﹀B●N彗︶二L●−Ou︶B.ぃや00︶︵4︶︵L●−Ou﹀B.N器︶︽:・Lajusticesans−a訂rceestimpui切Sa巳e:⁚︾
︵5︶︵L●−Ou︶声N蓋︶︽:・ロepOuくantfaire︵へrOぎむ旨邑︶quecequiestjustefPt訂ユOn㌻itquec巾q已e賢才rt芦t
JuS︷e●︾︵占こ︵L.やヰ︸戸u−い︶︽:●Lep−usgrandd認mPu粥e浩−esgue︻記SCiまーes●:●︾その他︑︵L.当メ甲山NObis︶にも︑同様の表現がある︒
︵7︶︵L.やら−声叫℃︶︽Rai岩nde∽e辞t仏●
G⊇datiOn.Lepe仁p−ehOロ01︿こ詔p巧冒nロe∽degrandenaissanc巾こ巾Sdのmi・habi−諾−esmepr−Sentd㌃antquのーanaissanc巾ヽ
n﹀認tpa∽unaづPntagedelPp寛容nロemai∽duha笛rd・L諾habi−e印−eshOnO亘ent﹀ロOnparlap昌Sか巾dGp空︼甘巾mai∽pa:apensかeded巧ri㌢巾::︾︵傍点筆者︶︒
︵8︶︵L.宝T−戸山−u︶︵L・¢u︸B■u−か︶︵L・−○−VB●いN土など︒
︵9︶︵L●00u−甲山Nづ
︵10︶︵L.00u﹀B.u当︶
︵1
1︶︵L●ヨ薫﹂P一書︶︽:こ︸auraiaussimespen臥esdedeココ.か︻e︼at空戸⁚.︾ ︵12︶︽:・quのくOu∽dのくeNaづOir::﹀un巾dOub−ep昌乳e∵:︾︵望ais巾Pasca−⁚ゴ萱訂瓢ぎ童≒∵ヨヽ訂h至軋註ぎ:計g⊇きざ
﹁考える葦﹂から﹁考える肢体﹂ へ ︵山下︶ニ
( ( ( ′■■■ヽ (
1716151413
) ) ヽ−・・′ ) ) dans O芸雪空へ○ヨ叉〜訂叫﹀空b−iOthgue de−a P−かiade﹀Parisこ胴aごimard﹀−現♪p.已ゴ 一四
︽:.くOuS deくeZ reCOロコaぎeY par une peロSかe p−us cacF計mais p−宏象ritab−e一que:−︾︵甲Pasca−︶0℃こCit●︼p−巴ゴ
︵LJOu﹀戸山濃︶ なお︑本稿︑第二章︑p・¢●参照︒
Jean mesnard⁚b打詫阜︑−ぎミ莞空こ首§鳶 ︵い︒かd・︶P鼠s−Hatier・BOi5.n−−票か︶p﹂上声
︵L﹂−∞﹀B.全︶N︶
︵L.煎︼戸主冠︶
︽Grandeur de−ゴOmme dans sa cOnCupiscenece m佃me−d.en aくOir su︵︑亀叫r且tirer u5 r∬叫−ement admirab−e一et eロ
aくOir㌻it uロtaEeau de charitか.︾
︵L﹂︼♪B一u篭︶︽Lb彗a3deurd巾l−FOmmee没=準岩5dee3eeq已ゴ胃C9n一道叫tmi乱rab︼euコaユFreコeSeCOゴ己叫tpasmisかrab−e■
C√竺dOnCかtremisかrab−equede︵空言︶︵s且cOnnaぎemisかrab訂.maisc︶訳t曾regrandquedecOコnaぎequ﹀OneSt
mis爪rPb−e.︾
︵L.−○か﹀戸上﹂冨︶︽Graコdeur.Lesr巴竃nSde∽e辞t∽ヨ宅que3h訂管aロde弓de−ゴQmme一d−aく0山rtirかde︼むCO⊇nup−胃e2りe仁3乱be−Ordr巾一︾
︵18︶拙稿p.¢.︵19︶拙稿p.¢.︵2
0︶︽⁚﹂︸hOmme︸quin︸estp⊇duitquepOurHnP2.tか⁚:︾︵B・Pasca−⁚き金蔓:宅よ=きをござS謀dandsbダ更私空一 b旨−.de−aP−爪iade﹀Paris.−也坑♪p∴㌫空︵2
1︶B.Pasca−⁚ト各言む訂言叫莞札〜he〜阜−宏N︶dansO⊇雪空C03b︑〜冨﹀bib−・de−aP−かiade﹀Paris−−¢竺一っ・岩山. ︵22︶︵L.り宗﹀B﹂既︶︽Pens㌻TOute−adigロitかde−プ○ヨmeeSten訂pensee﹀maisqF.e芝・CequeCettepen臥e〜qu︶巾eestsOtte∵:︾
第三章 P中ロS計dのde責nt
﹁後ろ側の考えを持たなければならない︒そして︑⁝すべてのことをそれによって判断しなければならない︵1︶︒﹂
この﹁すべてのことをそれによって判断する﹂という句によって︑私達はpens計pa∽Ca−訂nneにおける︽penS計
ヽ ヽ ヽde derr−町e︾の位置を知ることができるであろう︒さて︑前章では︑私達との出会いの地点で︑この ︽penS計de
derrト㌣e︾を観察したのであるが︑今度は視点を変え︑全く別の角度からこの興味深い考えを眺めてみたい︒
︽penSかe de derr軒e︾ − この言葉に出会った時︑人はごく自然に次のようなことを考えるのではないだろうか︒
− ︽penSかedederr−㌣e︾があるならば︑︽penSかedede畠nt︾もあるはずである︑と︒この素朴な質問がこの章の
出発点となるだろう︒こうして︑反対概念によって考えること ー この章において私達が目指すところはこれである︒
そして事実︑これと同じ考えから出発した研究者がいるのである︒それはテオデュル・スポエリ教授︵ThかOdu−e
SpOerrエであり︑その﹁パスカルの頭の後ろ側の考え︵2︶﹂︵ト取−ぎわ計h計軒11叫ぎ訂㌫叫q駄句曽Cb5と題する論文はこの点で特に私達の注意をひいたのである︒もっとも︑この論文の狙いはパスカルの後ろ側の考えが︑どのよう
ヽ ヽ ヽに前面のことばに表われているかを考察することにあるようである︒しかしながら︑その文体の分析に先立って︑彼
はパスカルの︽penS計dederri㌢e︾のさまざまな姿を︽penS計de deく呂t︾との対比において実に豊かに描き出
しており︑この部分が特に私達の興味を引くのである︒そこで︑多少図式的に過ぎる嫌いはあっても︑なお多くの示
唆に富むスポエリ教授の考えをここに要約して︑私達の考察の手がかりとしたい︒
スポエリ教授はこれら二つの考えの対置を試みるに当たって︑ほとんどすべての研究者がそうするように︑これを
パスカルとデカルトとの関係において見ようとする︒先ず︑パスカルは人間の立場をあらゆる意味で︑中間︵−√ntr?
deu且と見るのである︒有名な︽二つの無限︵3︶︾の断章において︑彼は人間を無限と無との二つの深淵の間に釣り
下げられて︑その両極の間の海を定めなく漂う航海者として描き︑私達の心を限りない不安に陥れずにはおかない︒そこで彼は次のように私達に勧告する︒
﹁だから私達の限度をよくわきまえよう︒私達は何ものかであって︑全体ではない︵4︶︒⁝﹂
パスカルの根本的な立場が︑この短い一節のうちに︑簡潔にしかも余すところなく表現されているといえよう︒
﹁考える葦Lから﹁考える肢体﹂ へ ︵山下︶l五
ハ
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ﹁何ものかであって全体ではない﹂人間が事物の知識を少しばかりもったからといって︑それが何ほどのものであろ
うか︒ここでパスカルははっきりと次のように結論する︒
﹁それ故に︑私達は何の確実さも堅固さも求めないでおこう︒私達の理性は常にうわべの定めなさによって欺か
れる︒何ものも有限を︑それを取り囲み︑そしてそれから逃れ去ってしまう二つの無限のあいだに固定することは
できない︵5︶︒﹂
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽところが︑この点でデカルトはパスカルに同意することができない︒パスカルが︑言わば中間に対する怖れを以て
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ私達に迫るのに対してデカルトは︑この恐れから自分自身の手段で逃れ︑この中間に心地よく居を構えようとする立場の人々に大いに力を与えることになる︒
さて︑デカルト哲学の最初の歩みを示す一節がある︒﹁ただ一人︑そして簡の中を歩いて行く人間のように︑大そうゆっくり進むこと︑そしてすべてのことに周到な
注意を払うことを決心した結果︑私はたとえほんの僅かしか進まないにしても︑少なくとも転ぶことはないよう
に気をつけよう︵6︶︒﹂
﹁ただ一人︑そして闇の中を歩いて行く人間L − この有名なイマージュの中にpensかe cartかsienneの出発点が見
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ出される︒そこで︑彼の注意は当然転ばないようにすることに常に向けられることになる︒ところでこれは同時に人
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ間の根本的な本能︑安全性の要求でもある︒
さて︑スポエリ教授は一種の興味深い着想によって︑この人間の根本的な本能という観点から近代という時代の本質
ヽ ヽ ヽを説明している︒即ち︑近代を特徴づけるものはこの安全性の要求である︒というのは︑近代に至って始めて人間はよ
ヽ ヽ ヽ ヽり上級のカに頗ることなく︑自分自身の手段によって︑生活すること︑世界を構築することを意識的に企てたのであ
ヽ ヽ ヽる︒ここに至って彼は︑自ら求める安全性をもはや神のみ手の中に委ねることができなくなってしまったのである︒
彼は一人で歩もうとする︒彼はもはや彼自身の理性以外の光を用いようとはしない︒こうして人間は自分自身で︑
ヽ ヽ ヽ自分の手の中にその安全性をしっかり握っておくほかないのである︒そしてこの観点からスポエリ教授は ︽penSかe
dedeくant︾の特徴を次の三点によって私達にみせてくれる︒以下ごく大まかにその要点を述べることにしよう︒
ヽ ヽ︵一︶ 共通の次元への還元︑即ち空間及び時間における連続への還元︒
思考の歩みを確かなものとするためには︑空間においても時間においても穴︵trO亡S︶のないことが絶対に必要であ
ヽ ヽ ヽ ヽる︒何物も突然なされるのではない︒﹁自然は飛躍をしない︵7︶﹂ のである︒デカルトにとっても︑転ばないためには︑
ヽこの穴1裂け目−を作らないことがどうしても必要であった︒そこで彼は次のような格率を自らに課することになる︒
﹁私の思考を順序に従って導くこと︒知るのに最も単純で︑最も容易なものから始めて︑最も複雑なものの認識
にまで︑少しずつ︑だんだんと登って行く︵8︶﹂
こと︒これは要するに﹁幾何学者が常に用いる︑まことに単純で容易な論拠の長い鎖︵9︶﹂を用いることに他ならな
ヽい︒いずれにしても︽penSかe de deくant︾においては穴は禁物なのである︒
ヽ ヽ︵二︶ 共通の単位への還元︒即ち質から量への変化︒
デカルトの有名な﹁蜜蝋の小片﹂︵ト〜SQ言昌監軒cぎ︶を例にとってみよう︒巣からとって来たばかりで︑まだ蜜
の甘さや花の香りを幾分かはとどめている蜜蟻の小片は︑やがて次のような変化を受ける︒先ず︑いじられて形が変
わり︑火に近づけられて堅さがなくなる︒こうして次々と色︑香り︑硬度を失った結果︑遂には蒸気︑焔︑煙となっ
て消失するだろう︒しかし全くこの世界から失われたのではない︒蜜蟻のかけらや切れ端︑或いはその原子がそこに
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ留っているのである︒さて︑この一連の現象は何を意味するのだろうか︒結局︑蜜蝋の小片は質であることを全くや
ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽ ヽめて量へ︑即ち延長 ︵かtendue︶ へ︑外在性︵e已賢Oritか︶ へと姿を変えたのである︒外在性−アラン︵A−ain−∞霊・
−漂︼︶ がその ﹁デカルト研究﹂︵塑ざ計詮買hす昌蔓且 の中で明確に述べているように︑それはそれ自体では何ら内
的な固有の本性をもつことなく︑隣接する部分から他の隣接する部分へと次々に辿って︑結局すべてのものから受ける
ヽ ヽ変化以外にはいかなる特性をももつことはないのである︵10︶︒こうして︑蜜蝋の小片は︑その特性︵qua−itか︶の衣装を
﹁考える葦﹂から﹁考える肢体L へ ︵山下︶一七