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「表現主義的自己」から失われたもの : テイラー とへーゲルの距離

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「表現主義的自己」から失われたもの : テイラー とへーゲルの距離

著者 大橋 基

出版者 法政哲学会

雑誌名 法政哲学

巻 1

ページ 17‑31

発行年 2005‑06

URL http://doi.org/10.15002/00008005

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C・テイラーとG・W。F・ヘーゲルはひじょうに似通った自己概念を分かち合っているといわれる。なぜなら、

テイラーは行為者を「表現主義的自己(輿ご忌圏ぐ田の]{)」

として理解するさい、その理論的手引きを、ヘーゲルの「行為(『目)」論、とりわけ『精神現象学』「理性」章に求めているからである。彼らの描く行為者像は、特定の共同体のうちで共有された「共通善」に自らの価値判断や意志決定を規定されていると同時に、共同体内外の他者との関わりのなかで繰り返し、自分自身が何者であるかを見出し、自らの真の在り方を獲得していく、という特徴を有してい

「表現主義的自己」から失われたもの

はじめに

lテイラ「とへ「ゲルの距離I

る。こうした自己概念は当初、テイラーにとって、従来の功利主義や自由主義が想定してきたような、何らかの目的を恋意的に設定し、その実現のために合理的な手段を選択しうるという行為者像の非現実性を露わにするための批判原理であった。そして、それはやがて、彼自身の理論構築

の基礎概念として、「真正さ(冒昏の三宣亘)の倫理」と「承 認(『の8四三・口)の政治」を結実させたのである(1)。とこ

ろが近年、テイラーの理論的成果は、彼と少なからず問題意識を共有するはずの論者たちによって批判を投げ掛けられており、その焦点は他ならぬ自己概念、特にその共同体との密接不可分な関係性へと向けられている。例えばA・センは、テイラーの自己概念の難点を、「集団的アイデンティティ」が「発見」されるだけで「選択」されえない、

大橋基

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という点に見出し、そこから、個人の自己了解が社会の側から一方的に与えられるにすぎないような想定に依拠する理論は、個人に対して当人が帰属する社会集団から要求される役割への無批判な従属しか許容しえない、という含意

を導いているす)。本稿では、テイラーがそうした批判を

被りながらも、容易に反駁できずにいる理由の一端が、彼のヘーゲルに対する批判的評価にあることを指摘する。逆に言えば、それは、テイラーがヘーゲルの理論を継承するなかで、彼の自己概念から失われてしまったものを明らかにする作業を通して、彼が陥っている随路から脱け出すための道筋を、その思想的源泉に求め直す試みであると言えるだろう。

さしあたり、テイラーの理論枠組みの概観からはじめたい。その出発点をなすのは、いわゆる彼の「哲学的人間学」である。それによれば、行為者には自分の欲求に対する「弱

い評価(君の鼻図巳冨二・口)」と「強い評価(旨opm2巴局註・ロ)」

という二階の評価様式が備わっている。前者は、共同体の規範に縛られず、個々人が自分の欲求や嗜好に導かれながら事物に対して下す判断で、選択肢のどちらがより望ましい結果をもたらすかを「量的」に比較考量する様式である。 「表現主義的自己」の問題圏 他方、後者は、それを行為することによって自分に与えられる形容の「質的区別」、すなわち量的な比較を許さない「高貴な/下賎な」または「誇らしい/恥ずかしい」といった自己言及的な言語の対照性に即して欲求を評価する様式である。このとき、いかなる行為がどのような形容に値するかは個々人の恋意に委ねられるのではなく、行為者が属する共同体の規範に規定されるがゆえに、「強い評価」は共同体の「共通善」を基盤とし、それを現実社会に媒介すると言える。また、「強い評価」には自己自身への反省も含まれている(匹臣・凹津・)。なぜなら、行為者は自分の欲求を上述のような自己言及的な言語を通して分節化し、当の欲求がもっている価値を評定し、自分の生の在り方についても反省せざるをえないからである。こうした「共通善」との連関が考慮外に置かれたとき、M・サンデルが「負荷なき自己(目82ヨワの局□冊一馬)」と称した行為者像が生ずるわけである。テイラーは人間を、このような形でいつもすでに自己理解によって形成されている「自己解釈的な動物(思亭

旨怠己。三m目言&)」として理解した上で(津臣・a)、その

自己了解構造を「表現主義的自己」という概念をもって言

い当てる。ここで言う「表現主義(奥官①腸三m曰)」とは、自

分の内なるものを外へと提示し、その伝達をもって完結するような一般的な意味での表現主義(輿官の曇・己自)とは異

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なり、他者との関わりのなかで自分に対して明るみに出される自己自身を自らの真相として理解する、という特徴をもつ2。行為者は、常に具体的な状況に位置付けられているがゆえに、行為や発話を通して他の人々に対して自己を提示しなければならない。そのさい行為者の自己理解は、他人からの評価に媒介ざれざるをえず、それによって自己に関する勝手な思い込みが否定される。なぜなら、各人の自己理解は、とりわけ言語という媒体に依存するため、常に新たに疑われ、修正される可能性をもち続けるからである。人々の自己理解は可変的であり、常に他者や新たな経験に対して開かれているわけである。こうして行為者は、より実情に合致した自己了解へと向かわざるをえず、その一方で、「共通善」の知をもって、今以上に望ましい自己の在り方を見出していく。行為者は、そうした自分自身についての表明・確認ないしは発見・修正を繰り返していくことで、やがて、自分の属する共同体のうちで確固たる存在意義をもつ自己の在り方を知り、その実現へと接近していく。そこに生ずるのは、「自己に真実であることは、私だけが分節化し、発見することができる自身の独自性

(・1mヨニロ)に真実であることである」という「真正さ」の

理念である宙シご)。そして、そうした過程は、行為者にとっては、自己の「真正さ」への絶えざる「探求(昌婁)」であると同時に、互いのうちに「真正さ」を具えうる存在 としての尊厳を確かめ合う場面でもある。以上のような自己概念を軸にして、テイラーは現実社会

を次のように分析するZ。人が自己の「真正さ」を追求

する過程では、常に、その人のアイデンティティが成立していなければならない。アイデンティティの確保のために人は、自己を他者からの区別し、自身の固有性を肯定的に理解できなければならないのだが、それにはそうした自己理解と一致した他者からの「承認」が不可欠である。ところが、実際の「私たちのアイデンティティの一部は、他者からの承認あるいはその欠如、ときには誤解に基づく承認(三胃①・・巴菖目)によって形成されているために、もしもある個人や集団が、周りの人間や社会から、自分たちの姿が偏っていて、醜く、侮蔑的であると見せつけられれば、現実の被害や歪曲を被ってしまう。不承認(曰・目go四三・口)や誤承認は人に危害を与え、抑圧の一形態となり、歪められ倭小化された偽りの存在様式のなかに人を閉じ込める」(勺シ旨い)。そして、この歪められた自己像が内面化されたとき、人は劣等感に苛まれながら自分を嫌悪し、自分の境遇を恨んだり、自分たちが属する共同体への尊敬の念を失い、それを分裂させたりもする。このような「自己蔑視(m①一{‐□の已忌凰昌・ロ)」こそが「真正さ」の尊厳を傷つけ、人々を抑圧する最たるものである(勺シ・Beoそうした状態にある人々が自己の尊厳を取り戻すためには、「個人的

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アイデンティティ(ご;・ロ巴邑目毎ご)」を支える「集団的ア

イデンティティ(四・壱昼の呂旦)」を回復し、異なる共同体

の人々からの「承認」を得なければならない。ここに「承認の政治」が求められる。現実社会は様々な偏見で満ちており、異なる価値観の対立が続いている。尊厳を奪われた人々はそうした環境から独立して、自分の属する共同体の「普通の生活(・二言昌一瀞)」を守り、育む

ことができなければならない宮)。したがって必要なのは、

それぞれの文化の存続だけでなく、その発展を尊重しあう「価値の平等」である(宅鈩暖S。むろん、自文化への尊敬を保ちながら、他文化にも一定の価値を認めることは、容易ではない。一方で、抑圧されてきたアイデンティティの復権を要求する者やそれを抑圧してきた者は、自分たちの価値観のみが正しいという「自閉(思犀‐言目昌①曰曾{)」へと向かいかねず、他方で、それを許容しようとする「平等の政治」も、他文化に同等の価値を認めるならば各々の独自

性を消去して構わないという「均質化(ず。目。、の昌凶長)」へ

と向かいがちだからである(勺鈩いぶ)。そこでテイラーは

それら両極端の「中道」を目指すべきだとする@。そし

て彼は、自己解釈を可能にする媒体の開放性を前提として、同じ共同体の他者だけでなく、異なる共同体の他者とも交流する人々の自己解釈のうちに、「地平融合(冒凰:。(ケa8pm)」の可能性を見守ろうとする。それは、新しい価 値基準の発見によって既存の基準が相対化され、他者への偏見や自文化中心主義が放棄されることで、互いの文化のうちに尊敬の念が抱かれるような態度変更である。この可能性が説得力をもって描かれうるかという問題が、「承認の政治」として拓かれた圏域の中核に位置するのである。

では次に、テイラーが「表現主義的自己」の概念を構成するに当たってヘーゲルから継承したものを探るために、いささか煩頂ではあるが、『精神現象学』「理性」章「C自分では即かつ対自的に実在的であるとする個体性」の「行

為」論を検討することにしようZ・

当該箇所でヘーゲルが叙述しているのは、行為者が自らの確信する個別的な自己を他者からの承認によって普遍的なものへと高めていく様子である。ヘーゲルによると、「普遍的理性」とは、普遍性と個別性の統一という目標を、「根

源的に限定された自然(巨『g自信一一sのず婁言曰忌z画冒『)」と

して自分のうちに抱き、それを現実において確証しようとする意識形態である(忠。]①)。ここで言う「自然」とは、当初は潜在しているという意味で「根源的」であり、その発揮が特定の領域に限られるがゆえに「限定され」ているような、個々人に固有な才能や能力、言わば生来与えられ 二「質的に区別された個体性」

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ている「天賦(ogの)」を意味する。そうした「自然」によって意識は、各々が他に取り替えようのない「質的に区別された個体性」として存在している。この意識は、自分のうちに潜在的に備わっている個性は他者によって普遍的に承認してもらえるに違いない、という見通しに立脚して、「自己を表現ないし表明すること」へと向かう(星。】全・)。ただし、ここで留意すべきは、こうした確信をもつ意識が、自分の「行為」を、通常の人間行動の理解、すなわち個人が主観的に設定した目的や抱いた欲求を充足するために適切な手段を選択する、という理解とは異なった形で了解している点である。なぜなら、意識にとって、自分のうちではすでに普遍性と個別性の統一が実現しているのだから、それに実在性を与える現実社会には、それを顕在化させる諸条件が用意されているはずだからである。逆に言えば、「行為」は、目的・手段・結果が一連の必然的過程の契機として同一不可分となっている場面に、それらを発動させるものとして投げ込まれた場合にのみ成就されることになる。ゆえに「行為はみられないものをみられるものへと移す純粋な形式なのである」(星。]い)。さて、そうした「行為」の具体相は、個々人が自己の定在としての「作品(ミ①島)」を他の自己意識の前に投げ出し、自己の普遍性を調達しようとすることから始まる。しかし、「行為」は、当初確信していた自己が他者によって 否定され、疎遠な姿で与え返される、という「偶然性」の側面をもつ(zPP目)。なぜなら、彼の「作品」は、対象的存在として、多くの他者に対しても存在するために、彼等によって別の現実として捉え直されうるからである。そこで意識は自分の内的普遍が現実のうちでそのまま妥当するわけでないことを知り、他者によって認知された「普遍的自己」の方を自己の真実態として受け入れる。それは、意識が自分と他者が作り為した「作品」の普遍性を確信し、その「必然性」の側面に自らを定位することである。つまり、「個体性」は自分の確信と現実との分裂に挫けることなく、むしろ、自己の「作品」の「消失」を普遍的な「作品」の契機として積極的に受け止め、後者を「存在し存続するもの」とみなすわけである(zQ呂凶)。ここに「個体性と対象性との、対象的になった相互浸透そのもの」と

しての「事そのもの(蟹&のい①一宮{)」が意識される百)。換

言すれば、それは「実体についての意識」である。ところが「事そのもの」は、その実質的内容を、意識が定立する「行為」の諸契機に依存しているがゆえに、意識が勝手に本質と称する形式的普遍性にすぎない。そうした実情が露呈するのは、意識が、自分を普遍者に釣り合わせよう、という「誠実さ(要『一一.罠の弓)」を示す場合である(星。旨い)。「誠実さ」は「行為」の只中で不誠実な真相を露呈する。なぜなら、自らの知をもって普遍者との統一を成就しよう

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とする意識は、個別的な結果が生じた後でも、当初の目的は普遍的な「事」の実現であったと弁明する自己欺職や、「事そのもの」に関与するさいに自分の個別的な関心を隠しもつという他者欺職を免れえず、偶然性を払拭できないからである。ここで意識は「必然性の側面」と「偶然性の側面」の両方を「同じく本質的な契機として経験し」、「事そのもの」があらゆる個別的な関心事を自分の契機として解消する普遍性であることを知る(宝P旨『)。こうして「事そのもの」は、「万人かつ各人の行為(『目巴一国目ロー&円)」として存在し、各々の「個体性」にとっての本質

たる「精神的実在(m四畳、の雪の閉己)」へと高まるのである。

こうした成り行きは、意識が徐々に実体的なものに自己の根拠を見出していく個人の社会的な発達過程であると同時に、それと相即して、実体的なものが意識に対して顕在化し、意識のうちに現実存在を得ていく過程でもある。まず前者の面からその到達点をみていくと、今や、意識は自分を「行為」へと駆り立てた「根源的に限定された自然」という当初の動機がもっていた「肯定的な意義」、すなわち自分がその「天賦」に即した領域の枠内で唯一固有の自己として現実に存在するという個別的な目的を捨て去っている(宝P旨函)。彼にとって自分の「行為」の意義は、「万人かつ各人の行為」の契機として、普遍的実体の存在に寄与する点に見出されるようになったからである。つま り、意識をそれぞれ「質的に区別された個体性」として根拠づけるのは、各人の内なる才能や能力から、「精神的実体」の一分肢たることへと転回したわけである。また後者の面をみると、普遍的な実体の存立構造が浮かび上がってくる。つまり、「精神的実体」は、それを自分の「行為」の根拠として自覚し、その内容を自己の真実態とみなす諸個人の「行為」を通して、彼らが織り成す関係のなかで個別的な定在を得る。このように実体は、個人の存在意義を保証するという形で、各々の「行為」を規定する。それゆえ個々人は、実体に含まれる諸契機を自己自身として分節化し、他者との関わりのなかでその妥当性を確かめることによって、行為を導く規則を意識することなく更新していく亘。このとき「精神的実在」は人々の生活全体を可能たらしめ、自己の内容を規定する「人倫的実体」に成っているわけである(zP巳◎)。ただし、そうした実体は「個体性」の発達を前提するだけでなく、発達を遂げた「個体性」がそこに自己を見出すに値するような分肢を含むことなしには、現実存在しえない。これが、普遍性と個別性の統一という確信に導かれて「普遍的理性」が到達した自己自身の、すなわち「個体性」の「精神的実体」に対する関連なのである。

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では、ここでヘーゲルの「行為」論に関するテイラーの評価をみていくことにしよう。一九八三年の論文「ヘーゲルの精神(旦己)の哲学」のなかでテイラーは、ヘーゲルの議論を、人間行為を個人の心的状態から導かれる因果関係には還元できないとみなす「質的な理論」として肯定的に評価している(津虐・二)。彼によれば、行為が遂行される背景には個人の思惑を越えた「共通の制度や実践」が存在しており、そうした制限のなかで人間は自分に為しうることや自分の個性を発見していくような「探求」を営む(竃F》雪)。そこにおいて人々は、あらかじめ明確に自分の行為の目的を自覚できているとは限らず、むしろ、行為に対して事後的にそれを認識していくのであり、結果として達成された成果を知ることで、自分が事前に抱いていた目的を修正する。そして、制度的枠組みのなかに自己を定位した者の行為のうちには、同じ共同体に属する人々にとっての「共通善」が「具体化(§ず。&日曼)」される(匹臣寧践)。このような意味で、行為は各々の個人の心的状態に還元しえぬ集合的で「質的」な性質をもつである。テイラーはこれらの諸契機をヘーゲルのうちに読み取り、「行為」を通して社会化することで個性を得る「個体性」の姿を「表現主義的自己」の先駆とみなすのである。こうしたテイラー 三自己解釈の開放性とその制限の理解は、ヘーゲルの「精神的実体」にみられる「個体性」への依存に触れず、行為者が共同体という枠内で本来的な自己を見出す面のみを取り出すという誇張がみられるにせよ、妥当であると言えよう。そしてまたテイラーは、記号・身振り・話し言葉・書き言葉といった表現媒体を、指示するものを越えてより以上の何かを意味する開放性をもち、しかも自己自身をより忠実に表現するように発展・発見・発明される余地をもったものとして捉える「表現主義」の思想的系譜に立ち返って、ヘーゲルのなかにその継承の跡を探る(田筐L・召)。彼によれば、その痕跡が明瞭に見出されるのは、精神が自己知に至るための媒体の推移、つまり、『精神現象学』での宗教から絶対知への移行、また、後の哲学体系における「絶対精神」の場面での芸術から宗教を介して哲学への展開であるとされる。しかし、この「行為」論の枠組みから外れた指摘には、実のところ、ヘーゲルに対するテイラーのアンピバレントな評価が含まれているのである。一九七九年の『ヘーゲルと近代社会』のなかでテイラーは、社会を個人の総和や道具とみなす近代的見解に陥ることを回避させる論理としてヘーゲルの存在論を摂取しつつも、その全面的な受容には向かわない。その理由は次のよ

うな点にあるT9・ヘーゲルが個々人を越えた共同体を

「客観精神」として捉えたのは妥当だが、そこから捉えら

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れる様々な共同性を、ひとつの精神が自己定立と否定を繰り返し、やがて近代国家という境位で自己自身へと還帰し、そこにおいて人間が絶対精神との統一を果たす、という目的論的構成をもった歴史哲学のなかに回収してしまうのは不当である。なぜなら、ヘーゲルの見通しとは異なり、現代でもなお啓蒙主義によって拍車をかけられた個人主義的な錯誤は乗り越えられておらず、また、そうした理論構成は多様なはずの共同体の差異を抹消し、ある特定の文化的価値観に還元しかねないからである。このときテイラーにとってヘーゲルの「絶対精神」の哲学は、すでに存立している「客観精神」の自己了解形式として、表現媒体の開放性を端緒として切り開かれていく異文化相互の自己解釈の刷新を予め切り捨てたものとして理解されるであろう。したがってテイラーは、様々な「客観精神」を秩序づけ統合する「精神の歴史」という視点を退け、各々の共同性を背負った行為者の実践的そして文化的な交流の場を切り開くことで、人々が「地平融合」に至る可能性を確保するという見地を選択したのである。こうした理由からテイラーは、ヘーゲルの「行為」論から「表現主義的自己」の骨格を取り出しながら、精神の歴史的展開という視点を排除したわけである。では、そうした批判的評価と引き換えに、テイラーの自己概念からは何が失われたのだろうか。ここで、われわれはその重要性を知るための補助線として、テ イラーに投げ掛けられたある批判へと目を向けておきたい。W・E・コノリーはテイラーの議論を、自己の「個人的アイデンティティ」の存立が既存の社会秩序に依存し、しかも、そこに含まれる「共通善」の実現が自己の統合と「調和」すると考えるものと捉えた上で、そのように制度に同一化するアイデンティティを追求することこそ、「規律的な社会システム」を現代生活にもちこむ危険な方策で

ある、と批判している(1)。なぜなら、フーコーが指摘

したように、近代以降の権力は、主体に対して働き掛ける「統治/従属」関係から、主体を通して働く「支配/服従」関係へと移行しているからである。つまり、ある特定の欲望はそれが顕在化されたときに否定されるのではなく、言説によって禁止すべき欲望として生産され、そのような欲望を自らに禁じた人間のみが「主体」として認められる。言わば、言説となった権力を内面化し、それに「服従」した者のみが「主体」でありうるわけである。そうした視点からすると、アイデンティティの根拠を「共通善」に求めるテイラーの議論は、当の共同体が存立しうるための条件として、そこに組み込まれている言説権力への「服従」を暗黙のうちに肯定していることになる。その場合、「主体性や規範化の鋳型に合わないものを解放する」手掛りとなるはずの「権力を媒介することに抵抗する複数の自己を具える自己」も見失われてしまう。もし、テイラーが多様な

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コノリーに代表される批判的論者に対してテイラーは次のような反論を企てている。彼によれば、「主観主義的で、浅薄な新ニーチェ主義的諸理論」は、あらゆる価値判断を「究極的には権力の構造によって押し付けられ、この構造をさらに補強するものである」とみなしている(勺シ・吠一)。彼らによれば、ある共同体とその内外の被抑圧者との関係を論ずるに当たって、当の共同体に属しながらその抑圧からの解放を語ることは、被抑圧者に対する見 共同体の共存と交流のなかで「地平融合」の可能性を見守ろうとしたとしても、共同体との「調和」が前提されていては、上述の意味での「解放」の立脚点となるべき自己内の他者性、つまり規範的な主体からすれば逸脱や未熟さとみなされるものは、依然として抑圧されたままにとどまるわけである。このようなコノリーによる批判は、テイラーの「表現主義的自己」の概念がもつ偏りを露わにする。端的に言えば、それは、共同体の一員として自己の固有性を得るために、社会的に認められうる自己を学び知る側面しか捉えられていない、という問題である。この論点を検討していくことで、われわれは、テイラーがヘーゲルから切り捨ててしまった可能性を目にすることになる。

四精神の他者としての「疎外」 せ掛けの同情や尊敬という偽善を施すにすぎず、結局は、その共同体に対する抵抗の沈静化に帰着するとされる。しかし、そうした考え方は、被抑圧者との連帯を語り、抵抗の戦線を開くだけで、「承認の政治」が目指す多様性のなかでの尊敬への道筋を閉ざしてしまう。なぜなら、政治は権力機構へと一面化された悪しきものとして否定されるだけで、それに依存して可能になる人々の共存が肯定されえないからである。ここで留意すべきは、こうしたテイラーの反駁が、抑圧そのものの存在を否定しているのではなく、それを扱う者の理論的な偏りへと向けられている点である。その背景にあるのは、おそらく、本来は共同体内在的であるはずの個人の自由を、その存立条件から切り離してしまうような逸脱への轡戒感であろう。テイラーからすれば、コノリーの立場は、自己の本能的欲求を超えた評価の地平を否定し、他者との関係を道具的なものへと一面化する

「主観主義(の巨互の&吾曰)」と表裏一体なのである。だが、

彼の反論が問題の把握の仕方に向けられているのであれば、それゆえにこそ逆に、すでに存在している共同体の問だけでなく、共同体が抑圧している内なる他者に対しても解放

への通路が開かれねばならないT2)。換言すれば、自己

批判なしに他者への尊敬を語ることは困難であろう。もしその可能性を欠いた場合、テイラーの待望する「地平融合」は、個々の伝統を越えたより高次の「共通善」を許容して

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しまいかねない。例えば彼が、ヘルダーの「神の摂理」の観念に含まれた「文化の多様性は単なる偶然の出来事ではなく、より偉大な調和をもたらすべく意図されたもの」であるという思想を取り上げ、「私はこのような見解を排除できない」と述べるとき(宅シ暖e、あたかも、異なる文化による宗教的信念の共有をもって現存する対立を乗り越えようとする普遍主義を擁護しているように解されてしまうのは、共同体に対する内在的反省に具体性が欠けている

せいなのであるT3)。このようなテイラーの隣路を目にし

たとき想起されるべきは、ヘーゲルの「個体性」が抱え込んでいた「精神的実体」との区別、すなわち「精神的実体」の定在になる「個体性」が、そこに自己を見出しえぬ場合もありうるという余地である。この亀裂は「精神」章Bにおいて、精神が辿る歴史的帰趨の原理として、「疎外(ご日の目○目、)」という形で再来するが、そこからは、テイラーの目指す自己解釈とは別の形で、自己が共同体の規範を流動化する様子が描き出されるのである。周知のように、『精神現象学』における「疎外」とは、「個体性」と「精神的実体」が直接無媒介に一体であった古代ギリシアの崩壊とともに成立する近代的条件のもとで

生起する事態である(13・ローマの「法状態」で自己は

「人格」として互いに孤立し、実体的なものとの分裂に陥る。しかし、自己意識はすでに到達した「普遍的理性」の 規定を伴いながら、「精神的実体」に内在する自己として実在的であることを目指して、自分自身と同等とみなした対象的実在へと還帰していく。それは、自覚を伴うことなく自分の個別性を放棄して、普遍的自己と成り、実体的な

ものを自ら担うような「外化(田昌晉涛『目、)」の営みであ

る。このようにして自己意識の側から世界を形成しようとする構えこそが、近代社会の基本的枠組みに他ならない。しかし、この「外化」の成果は、自己意識がそうした実在の担い手として振舞うことによって、当初の確信とは逆の結果を自己意識に付き突ける。例えば、「国権」を担うべく自己内の普遍性の契機に準拠した自己意識は、自分の個別性を否定して「高貴な意識」として、公けのための「奉仕」へと向かうが、実際の「行為」を通して、自分の現存在としての個別性を完全に捨て去ることはできない、という事実に直面する。ここに「疎外」が生ずる。それは、十分な自覚のない「外化」の背後に潜在せざるをえぬ、自己意識にとって自らがその自然性から離反している、という事態の意識化に他ならない。その結果、自己意識は自分のうちに個別性が存在していることを認めざるをえず、今度は、自己の個別性に拘泥した「下賎な意識」へと反転し、還帰すべき対象的実在を「財富」へと求め直さざるをえなくなる。それは、自己意識に対してより自覚的な「外化」を求める状況である一方で、実体的なものに対しても個別

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的なものへの余地を確保するように迫る事態でもある、と

いう意味で両者が「教養形成(国一s信)」を積む場面なの

である。このように「教養の実在的世界の精神は、現実そして思想の絶対的にして普遍的な転倒であり、疎外である」(星P凹胃)。ここで重要なのは、「疎外」が、自己意識をして世界を自己として経験するように導き、それまで固定されていた共同性の対立を流動化させる原理となっている点である。つまり、自己意識は事柄の成り行きのなかで、自分がある共同性に内在するさいに知らず知らずのうちに否定してしまっていた自己内の契機に気づき、そうした契機を備えていることの認識を通じて、当初は自分と不等であった別の共同性に自己を見出すに至る通路を発見するからである。そこでは、抑圧されていた自己内の他者への知が、異なる共同体の他者との共通性の知を導く、という越境の様子が語られているわけである。ところが、テイラーは「疎外」論に含まれるそうした位相を捉えることができない。彼の理解によると、「疎外」とは、社会制度の文化的差異ないし歴史的変化に直面して、「私の社会についての公的経験が私にとって何の意味ももたなくなる」ときに生じる心的状態である(因〃謡)。そして、その問題性の核心は、共同体から疎遠なものとなった自己が、「真正さ」の理念から自己規定という主観的な自由のみを取り出し、 私的な領域へと閉じこもり、共同体へと立ち返りえなくなってしまう、といった個人主義の予兆という点にある。なぜなら、彼にとって自己とは共同体と密接不可分で、いつもすでにそこに内在する存在であるがゆえに、共同体を対象化する思考形式はそうした本来的な関係を忘却したものとして否定せざるをえないからである。しかし、ヘーゲルが精神と自己の対立という相から語った「疎外」論は、共同体に内在することで得られる自由の背後で抑圧されるものの知をばねにして、自己と共同体の同一性を問い直し、自分と同様に抑圧されているものへの視野を開く。それは、自己内の他者に目をふさぐのとも、また、そこに抵抗の拠点を置くのとも異なる態度を可能にするのである。

本稿では、ここまでテイラーとヘーゲルの自己概念の異同を検討してきた。その内容を簡単に振り返ると、両者はそれぞれ、他者関係のなかで自己自身に差し出される自己を自らの真相として理解する行為者像を共有し、そうした行為者による「行為」のうちには当人が属する共同体の規範が媒介されていた。しかし、自己と共同体の関係に関してはテイラーとヘーゲルの間には微妙な隔たりがあった。テイラーの場合、自己は共同体によって規定されると同時 おわりに

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に、そこにおいて自分の「真正さ」を獲得しうるものとして扱われていたが、その一方で、表現媒体の開放性を前提として、自己解釈を通して共同体の規範を相対化しうる可能性を備えてもいると考えられていた。それは、自己の共同体への内属性を確保した上で、多様な文化的差異を抱え込んだ他者との交流のなかでの自己解釈に、自己自身の属する共同体への反省を委ねるという道筋である。これに対してヘーゲルの場合、共同体の存立は、自分がその分肢として位置付けられることで自己の存在意義を見出しうる「個体性」が、それを自分の真実態として認めなければ成就しえない、という面を備えていた。言わば、そこでの自己と共同体の関係は、テイラーに比較してより相互依存的なものだったのである。そして、このような亀裂は、両者の精神的統一が現実のなかで破綻することによって、「疎外」として現れ、自己と共同体の双方に「教養形成」を迫る、という射程を含意していた。こうした両者の違いは、コノリーが投げ掛けた共同体の規範に対する自己批判の可能性という観点からみた場合に、その深みを露わにする。なぜなら、テイラーが自己の共同体への内在を強調する余り、共同体の規範の現存を前提して、それについての解釈という以外の道筋を容易できていなかったのに対して、ヘーゲルは、精神の分肢でありながら「自分の反対」へと転倒する自己意識が、同一化のさいに自ら否定していた自己 自身を再認識して、そこから自己の内在する共同性の規範を相対化する様子を提示していたからである。このように考えた場合、テイラーがヘーゲルから継承しなかったもの、逆に言えば、「表現主義的自己」から失われてしまったものは、精神が現実のなかで辿る帰趨という視座から、自己が自らの共同体に対する関係を問い直す可能性なのである。しかし、両者の議論を接合するのはきわめて困難である。そこには、「疎外」論がフーコー的な言説権力の批判をすくいとりうるのか、そもそも、それが目的論的な歴史哲学への回収を免れうるのか、といった問題だけでなく、テイラーとヘーゲルの根本的な問題意識の違いが存在するからである。つまり、テイラーにとって、近代の主観性は「表現主義的自己」から、その社会内在的な基底を捨象したところに成立する虚像であるのに対して、ヘーゲルにとっては、それが本来的な自己の姿ではないにせよ、時代の運命として、それを足場にしなければ、、すなわち反省的知性の自己破綻を通してでなければ克服しえぬほどの現実性を備えた問題だったからである。彼らは多くの思想的共通点をもつにもかかわらず、近代という時代状況に関する基本的理解からすでに大きく隔たっているのである。

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(1)テイラーの著作からの引用箇所は、本文中括弧内に、以下の略記号と原典頁数を記す。四〃『昌一畠P涛恩』§二s烏量ざ・旨三O目]宣伝⑥ロョー

くの園ご可麗.】召℃(渡辺義雄訳『ヘーゲルと近代社会』

岩波書店、一九八一年)津巨『昌一皇P聾言】二mSSQ貫冒員冒彊專晉陶。、章8』寄菖二・O自言骨の己昌蔚曇q卑霞・】@麗団シ当皇頁P曰青同暮冒・「壹壽ミミ三国圓菖二言円‐

、ご勺忌屡】@己(田中智彦訳『〈ほんもの〉という倫理

l近代とその不安』産業図書、二○○四年)二”『昌一負P專晉燭・菖冒重量§圏冒・西山亘昌〔三二国‐

昌亘勺思いの.]し函(佐々木毅他訳「承認をめぐる政治」

『マルチカルチュラリズム』岩波書店、一九九六年、三七‐’一○頁)(2)、8.シ・・容目・ョ守呉)忍迂習斡冒導の丙・冒冒四門①§へ忍弓

宅二・○蔦。&〔三二qm-q淳①閉.]し巴(細見和志訳『アイデ

ンティティに先行する理性』関西学院大学出版会、二○○三年)。さらに、センは同様の論点から、行為者が直面する社会状況の多様性や所属する集団の複数性から自己の帰属する共同性は一義的ではありえないがゆ

えに、自己に与えられる複数の特性を序列化し秩序付ける知的作用を欠く場合、行為者が自己の多様性をとりまとめられず、人格としての統一性を保てなくなる倶れが生ずる、という含意も導いている。(3)「表現主義」には、後に見るように「真正さ」の理念が含まれており、全体論的な側面と個人主義的な側面の共存が見られる。この論点を検討するものとして、中野剛充「全体論的個人主義』とは何かlチャールズ・テイラーにおける多元主義の存在論l」『思想』九三五号、一一○○一一年、六六‐九○頁、が参考になる。(4)テイラーの議論の背景にはフランス系カトリック住民の多いカナダ・ケベック州の独立運動という政治問

題がある。巨言忌農P霞石二・の。□ご目二勺・三里百口、閏】8(

一:三口三畳・昌一『&の三三趨言三一臣・].(&.)・聖書呂与冒目』、:「逗蜜ミ言・の自重二mのロ国富『圏q卑舅・這五・

弓・】置‐ごPまた、ヘーゲルからのテイラーヘの影響と いう点では「承認(シ忌昊の目目、)」論も重要であるが、

すでによく知られた「主と奴の弁証法」の論理展開については本稿では取り上げない。(5)「普通の生活」という概念の問題性については以下を

参照されたい。ロー昌邑P]・口・・儀弓言衷昊叩目。宛の愚・昌一‐

二言、。{少蔑目旨、。&冨旦F冨蟇言三一]』・倉・).。□・ロヨ・・つつ.①『0函P

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(15)

(6)このようなテイラーの方向性に対して「再分配の平等」への道を閉ざすのではないか、という疑念を投げ掛け、「承認の政治」との接点を模索する試みとして、以下を挙げておく。田『閉曾・Z・目二■oppo芦シ・島国芽ミ盲言冨・司昏8習言莞・く:Pご&.また、テイラー自身、現在、アイデンティティ形成に関わる「公的領域」と「親密

領域」の関係への考察を重ねている。目星一・門も.』ざ烏三

ご・ミミロ困言、雪・ロ具・己凰蔚『の昌卑①囲・g三・(7)『精神現象学』からの引用箇所は、本文中括弧内

に略記号(宝①)と原典頁数のみを記す。四。鴨一・。重・田..

Q§ミヨ⑯言『q菅bい、言蜀・言§・ざ鴇号菌(靜身婁田・言二の一息『・ちき・(8)実体論の文脈での当該個所についての代表的な理解として、上妻精「ヘーゲルにおける物と事」『理想』五○九号、一九七五年、一○一‐二五頁、を挙げておく。(9)ヒュームの「黙約」を連想させるヘーゲルの議論には、規範の根拠づけという面が読み込まれうる(笹澤豊「ドイツ観念論における『規範の基礎』問題」『日本倫理学会論集一一五規範の基礎』、一九九○年、七三‐八七頁、参照)。ただし、この段階では、「優良/劣悪」ないし「善/悪」といった倫理的観念が入り込んでいない点には注意が必要である。(、)以下はテイラーの断片的な批判を本稿の関心から繋 ぎ合わせたものであるため、より包括的な視点から同様の論点を整理した文献として、山田正行「自由主義と共同体論の彼岸」『現代思想』第二一巻八号、一九九三年、一一一九一‐四○一頁、を挙げておく。(、)D・目・]一望・雪・田・・震『昌一・『・田・巨○目戸自ロ○二①目のの、...、・言・具導gご己‐四・三い壱・蚕‐ご⑦・(皿)テイラーが特定の共同体における抑圧を問題にするさいには、それ自体ひとつの共同体として存続しうるものに限られてしまう。そのとき語られうる抵抗は、自分の帰属集団に与えられている社会的ラベルの意味を再解釈して、他者に認識の修正を求める「価値転換(耳目い重臣畠:)」(四宮・ろ)、または、自分の帰属集団の実像を知り、自身の価値観を訂正する「根本的再評価(国。宮一『①‐のく昌昌・ロ)」であるが(甲凄P・]し)、それらは自己の共同体への内在を前提した解釈にとどまっている。(旧)フーコー的視座からのテイラー批判を、フェミニズムの観点から掘り下げる以下の文献は、当該箇所をそのように解釈している。竹村和子「アイデンティティの倫理l差異と平等の政治的パラドックスのなかでl」『思想』九一三号、一一○○○年、一一一一一-五八頁。(ご本稿の理解は『精神現象学』の「疎外」論に含まれる一面を取り上げたにすぎない。当該著作での用例を

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整理し、従来のヘーゲル左派的な理解に反論したもの

として、滝口清栄「ヘーゲル疎外論の構図」『現代思想』

第一一一巻八号、一九九三年、一九○‐一九八頁、参照。また、近代主観主義の内在的克服という枠組みからの読解として、星野勉「自由と疎外」金子武蔵編『ヘーゲル』以文社、一九八○年、一四九‐一七○頁、参照。

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参照

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