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(1)

「ゴードン・ヒラバヤシ」キャンプ場について :  カタリナ連邦刑務所と日系アメリカ人徴兵忌避者た

著者 和泉 真澄

雑誌名 同志社法學

巻 64

号 7

ページ 2643‑2666

発行年 2013‑03‑31

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000014493

(2)

(    同志社法学 六四巻七号六一七

―カタリナ連邦刑務所と日系アメリカ人徴兵忌避者たち―

和    泉    真   

 アメリカ合衆国南西部、アリゾナ州ツーソン(

T uc so n

)市の北東に広がるサンタ・カタリナ山脈にカタリナ・ハイウェイと呼ばれる道が通っている。一九三三年に建設が始まり、一九五一年に完成したこのハイウェイは、ツーソン市と山脈の最高峰、マウント・レモン(

M ou nt L em m on

、二七九一m)を結んでおり、サンタ・カタリナ山脈に点在するリゾート、天文台、展望台やキャンプ場などの施設をつなぐ唯一の舗装道路である。全長わずか二七マイルの短いハイウェイであるが、起点と終点の標高差は、約一・八キロメートルあり、サボテンが立ち並ぶソノラ砂漠から、針葉樹林の森を抜け、高山性気候までを、ヘアピンカーブを繰り返しながら一気に体験することができる 1

。一年に訪れる観光

二六四三

(3)

(    同志社法学 六四巻七号六一八

客は百万人を超え、高山のリゾート村サマーヘイヴンの他、冬はスキー、夏はキャンプなど、さまざまなアウトドア・スポーツを楽しむために人びとが世界各地からやってくる。 一九三三年、このカタリナ・ハイウェイを建設するために、山脈のふもとに、連邦刑務所の収監キャンプが設営された。ハイウェイ建設費用削減を目的として、受刑者による労働を動員するためである。このキャンプには、もうひとつの目的もあった。﹁オナー・キャンプ(

ho no r c am p

)﹂と呼ばれたこの刑務所は、連邦刑務所としては初の鉄格子のない監獄であった 2

。これは、一九三〇年代に連邦刑務局(

F ed er al B ur ea u of P ris on s

)によって発案された、警備を最小レベルにとどめ、﹁受刑者自身の名誉(

ho no r

)﹂を重視することで脱獄を防ぐという新しい刑務所のコンセプトにもとづく試みであった。一九三九年、キャンプはふもとから七マイルほど上がった場所に移された。主として脱税犯や窃盗犯、メキシコからの不法移民や若年軽犯罪者などを対象としたこの刑務所の敷地は、白く塗られた岩で区切られている他は、外との間に壁や仕切りがなく、鉄条網も監視塔も設置していなかった。受刑者には仕事が与えられ、それを通じて収監中に﹁技術を身に付けると同時に、自らの人格的問題を認識することで、釈放後に生産的市民となる﹂ことをめざしていたのである 3

。もちろんこのようなシステムでは脱獄を完全に防ぐことはできず、三〇〇名ほどの収容能力をもっていたこの刑務所では、毎年二五名ほどが脱獄を試みた 4

。しかし、脱獄者は、厳しく乾燥し、とげに満ちた植物に覆われた真っ暗な山のなかを一晩放浪した末、およそ八五パーセントは翌日に喜んで保護されたという。一九四二年から二〇年以上看守を務めたユーリー・アーミジョは、新聞の取材に対し、﹁見つからなかった者の多くは、おそらく断崖の下で白骨になっているだろう﹂と語っている 5

。 一九三三年から一九五一年までの一八年間に、ハイウェイ建設に動員された受刑者は、約八〇〇〇名であった。彼らのうち、一九四二年から四五年までに収監され、労働にかりだされた者の多くは、良心的兵役忌避者であった。第二次 二六四四

(4)

(    同志社法学 六四巻七号六一九 世界大戦中、キャンプには、宗教的理由から兵役を拒んだエホバの証人信者や先住民のホピ族、そして政治的信条から徴兵忌避した学生などが数多く収監されたのだ。そして、そのなかに日系アメリカ人ゴードン・ヒラバヤシと、戦時転住所(

W ar tim e R elo ca tio n C en te rs

、いわゆる日系人強制収容所)から移送された四五名ほどの日系二世の徴兵忌避者が含まれていたのである 6

。本稿では、これら日系人たちの体験を中心に、これまでほとんど日本で紹介されたことのない、アリゾナ州カタリナ連邦刑務所の歴史をひも解いていくこととする。

アリゾナ州ツーソン市(

T uc so n, A riz on a

)  アリゾナ州南東部の街、ツーソンは、カリフォルニア州南部からメキシコ北部、そしてアリゾナ州南部に広がる広大なソノラ砂漠の東端に位置している。メキシコ国境からわずか車で一時間ほど北上した、人口五二万人(郡部を含むと約一〇〇万人)ほどの、アリゾナ州第二の都市である。州都フェニックス(

P ho en ix

)からは、州間高速道路(

In te rs ta te

F re ew ay

)一〇号線で二時間強南下した位置になる。巨大なサワロ・サボテンが林立するサワロ国立公園をすぐ西に有し、北・東・西を山に囲まれた谷に作られた街である。紀元前から先住民が農耕をして暮らしていたことが考古学的調査で分かっているが、ツーソンの名がついたのは、一七七五年スペイン人がこの地に築いた要塞をそう名付けたことによる。一八四八年の米墨戦争の後、一八五三年に行われたガズデン購入で合衆国領土となり、一八八〇年に南太平洋鉄道が開通することによって、街として大きく発展した。フェニックスに州都が移るまでアリゾナ州の州都が置かれ、旧くからアメリカ南西部の交易の中心地のうちのひとつであった。近くには、﹃OK牧場の決闘﹄などで知られるトゥームストーン(

To m bs to ne

)という町もあり、また酋長ジェロニモなどの活躍で知られたアパッチ・テリトリーも北部か

二六四五

(5)

(    同志社法学 六四巻七号六二〇

ら東部に広がっている、まさに西部劇の舞台となった場所でもある。 二〇〇五年から二〇〇九年のアメリカン・コミュニティ・サーベイによれば、ツーソン市の人口構成は、ヒスパニックを除く白人が四九・三%、ヒスパニック/ラティーノが三九・九%を占め、残りの一割をアフリカン・アメリカン(四・五%)、アメリカ先住民(二・九%)、およびアジア系(二・七%)で分けている 7

。ツーソンの南西側には、トホノ・オーダム(

To ho no O ’o dh am

)ネイションの広大な土地が広がり、また街の南部近郊にパスクア・ヤキ(

P as cu a Ya qu i

)族の居留区がある。ツーソンを含むピマ郡(

P im a C ou nt y

)の先住民人口は、センサスで混血と答えた人びとも含むと、約四万五〇〇〇人、郡人口の四・五%である。アジア系では中国系(三五九九人)が最も多く、続いてフィリピン系、ベトナム系、インド系(いずれも二〇〇〇から二五〇〇人の間)と続き、日系/日本人は一〇二二人である。アリゾナ州では戦前以来、フェニックス周辺に日本人移民が一定数居住しており、現在の日系アメリカ市民協会(

Ja pa ne se A m er ic an C iti ze ns L ea gu e

、JACL)のアリゾナ支部もフェニックス近郊に置かれている。現在ツーソンに居住あるいは滞在している日本人は、アリゾナ大学の関係者が多く、いわゆる日系アメリカ人の人口はかなり限定されると思われる。 アリゾナ州は、特に二〇〇一年の同時多発テロへの対応として創設された、合衆国国土安全保障局(

D ep ar tm en t o f

H om ela nd S ec ur ity

)による厳しい国境警備対策、ならびに州政府による過激な不法移民取締策によって、近年全米レベルで物議をかもしている。特に二〇一〇年に成立した﹁アリゾナ州上院法案一〇七〇(

A riz on a Se na te B ill 10 70 , SB 10 70

)﹂は、三〇日以上合衆国に滞在するすべての一四歳以上の外国人に法的滞在許可文書の常時携行を義務付けた。﹁上院法案一〇七〇﹂は、警察官や国境警備隊員などに、不法移民と疑われる人物にいつでもどこでも文書の提示を求める権限を与え、法的滞在許可をその場で証明できない場合には逮捕・拘束できるとした。この法案は執行される一日 二六四六

(6)

(    同志社法学 六四巻七号六二一 前に、連邦政府が差し止め命令を出し、そのことで連邦と州の間では、訴訟が行われた 8

。二〇一二年六月に連邦最高裁は同法の一部を無効としたが、州警察が不法移民と疑わしき人物に文書の提示を求める権限については認めた。 ﹁上院法案一〇七〇﹂の件にも象徴されるように、アメリカ人の一般的な印象で言えば、アリゾナ州は、銃所持に対して寛容、移民に対して不寛容という、保守的なイメージを持たれていると言えよう。しかし、保守傾向の強い州都フェニックスに対して、メキシコ国境に近いツーソンは、皮肉なことに、街全体としてはどちらかと言えば寛容でリベラルな傾向があると言われている。事実、保守的で強権的な州政府の政策に不満を持つリベラルなツーソン市民のなかには、少数ではあるが、アリゾナ州南部をアリゾナ州から独立した州﹁バハ・アリゾナ﹂に昇格することを要求する﹁

St ar t

O ur S ta te

﹂という団体も存在するほどである 9

。また、二〇〇一年以降、国境警備が強化されたことで、メキシコから陸路を通って不法入国する移民たちは、広大で危険なソノラ砂漠を徒歩で渡るようになり、毎年の移動中の死者の数が激増した。ツーソンを中心に国境地帯では、これら移民たちの命を救うために、砂漠に飲料水を置いたり、負傷者を救護したりといったボランティア活動も行われている ₁₀

。 以上のように、国境地帯特有の膨大なラティーノ人口と、砂漠に広がる広大な先住民居留区を抱え、人種的多様性と豊かなアメリカ南西部文化を有するツーソンの街であるが、一見日系アメリカ人とは関わりの薄そうなこの街の郊外のマウント・レモンへ上がるハイウェイに、﹁ゴードン・ヒラバヤシ・キャンプ場(

G or do n H ira ba ya sh i C am pg ro un d

)﹂という、日系二世の名を冠した屋外キャンプ場が存在することに、筆者は少なからぬ驚きと興味を覚えた。そして、調べてみると、この﹁ゴードン・ヒラバヤシ﹂キャンプ場こそが、序で挙げたカタリナ・ハイウェイ建設のために作られた連邦刑務所の跡地だったのである。そこで次に、日系二世ゴードン・ヒラバヤシがツーソンにやってきたいきさつと、彼のカタリナ連邦刑務所での生活について記述することにする。

二六四七

(7)

(    同志社法学 六四巻七号六二二

日系アメリカ人強制収容とゴードン・ヒラバヤシ

 一九四一年一二月、日本による真珠湾攻撃によって日本とアメリカ合衆国は戦争状態に入り、合衆国内に居住していた日本人移民とその子孫は﹁敵性外国人﹂となった。翌年二月一九日、合衆国大統領フランクリン・D・ルーズベルトは﹁行政命令第九〇六六号(

E xe cu tiv e O rd er 90 66

)﹂を発令し、陸軍に対し、米国領土内に軍事地域を指定し、そこからいかなる人物をも立ち退かせることができる権限を与えた。翌三月、陸軍西部防衛司令部は、この行政命令に基づき、太平洋岸から一〇〇マイル地域を﹁防衛地域﹂に指定し、そこから﹁日本に人種的起源をもつ人物﹂全員を、その国籍に関係なく強制立ち退きさせる命令を発した。こうして、アメリカ西海岸に住んでいた一二万人以上の日本人移民および日系アメリカ人は、住んでいた家や土地を追われ、内陸部の強制収容所に移動させられた。いわゆる、第二次世界大戦中の﹁日系アメリカ人強制収容事件﹂である。 一九四二年五月一六日、当時ワシントン大学の学生であったゴードン・K・ヒラバヤシは、シアトルのFBIオフィスに弁護士を伴って出頭した。彼は五月一一日に日系人立ち退きのための登録を義務付けられていたが、それを怠り、また敵性外国人に課されていた夜間外出禁止令に違反した容疑で逮捕された。二四歳のクエーカー教徒であったヒラバヤシは、FBI捜査官に対し、日本人の血を引く者全員に対する立ち退き命令は﹁我が国が依って立つ民主主義的原則﹂に違反すると抗議し、命令に従うことを拒否する旨を記した信条書を提出した ₁₁

。ヒラバヤシは五カ月間、シアトルのキング郡刑務所に拘束されたのち、一〇月二〇日に裁判にかけられた。第一審は、ヒラバヤシを立ち退き命令違反ならびに夜間外出禁止令違反について有罪とした。第一審を裁いたロイド・D・ブラック判事は、最初、それぞれの罪状について各三〇日、合計六〇日の懲役という判決を下した。ヒラバヤシはそれに対し、刑期を延長されても、刑務所への収 二六四八

(8)

(    同志社法学 六四巻七号六二三 監の代わりに道路キャンプでの労働に従事したいという希望を表明し、判事はこれを認めた。そこで、ヒラバヤシの判決は最終的に、それぞれの罪状について各九〇日、ただし二つについて同時に服役することとなった ₁₂

。ヒラバヤシの裁判は、同じく日系二世で、オレゴン州ポートランドで逮捕されたミノル・ヤスイ、およびカリフォルニア州サンレアンドロで逮捕されたフレッド・T・コレマツの裁判とともに、日系アメリカ人強制立ち退き・収容の合憲性を争うテストケースの一つとなった ₁₃

。 ヒラバヤシ、ヤスイ、コレマツ事件は、最高裁判所で争われ、ヤスイとヒラバヤシについては、一九四三年六月二一日に二人の夜間外出禁止令違反を認める判決が出された ₁₄

。第一審の後、他の日系人とともに戦時転住所に送られていたヤスイ、コレマツと異なり、ヒラバヤシは最高裁判決を待つ間、連邦刑務所で過ごし、途中保釈されてワシントン州スポケーンにあったクエーカー団体、アメリカ・フレンドシップ委員会で働いていた ₁₅

。最高裁で有罪が確定すると、刑期の残りをスポケーンの刑務所で服役するよう命じられたヒラバヤシは、再び道路キャンプでの労働を希望した。ワシントン州フォートルイスにあった連邦刑務所の道路キャンプは太平洋岸一〇〇マイル地域内にあったため、そこでの服役は認められなかったが、もうひとつの連邦収監キャンプであったツーソンのキャンプでの服役は認められ、ヒラバヤシはツーソンに行くことになった。これは法的にはとても皮肉な決定だった。というのは、陸軍が日系人の立ち入りを禁止した﹁軍事地域一(

M ilit ar y A re a 1

)﹂は、太平洋岸一〇〇マイル地域に加え、アリゾナ州南部も含まれていた。したがって、ヒラバヤシが向かったツーソンは防衛地域内に位置し、日系人の立ち入りは本来ならば許されていなかったのである。 ツーソンでの服役を認めたものの、スポケーンの地方検事はそこへの移送手段も費用を用意しなかったので、ヒラバヤシは自分一人でツーソンまで移動することになった。途中、アイダホで両親を訪ねたり、友人に会ったりしながら、

二六四九

(9)

(    同志社法学 六四巻七号六二四

ヒラバヤシは二週間ほどかけて、ヒッチハイクでツーソンまでようやくたどり着いた ₁₆

。ツーソンの連邦保安局に出頭したヒラバヤシに対し、保安官は、彼を収監する命令を受け取っていないので帰宅するように、と言った。ヒラバヤシは、﹁そうできればうれしいが、ここまで来るのにかなり時間もかかったし、そのうち出頭命令が見つかれば、また戻ってくるのも大変なので、命令がどうなったのかきちんと調べてほしい﹂と言い、保安官の勧めで、冷房の利いた映画館で二、三時間過ごした後、保安局に戻った ₁₇

。すると書類は見つかっており、カタリナ刑務所キャンプへ彼を移送する車がすでに用意されていた。護送される間、手錠などはかけられなかった。 カタリナ連邦刑務所には、一九四三年当時、二三三名の受刑者が服役しており、ハイウェイはふもとから約一七・三マイルほど建設が進んでいた ₁₈

。敷地内には管理棟の他、三棟の受刑者用バラック、調理室と食堂棟、発電所、ボイラー棟、洗濯棟、機械ショップとガレージが建設されていた。娯楽施設としては、野球用グラウンド、ハンドボール・コートおよびバスケットボール・コートが作られていた。下水処理用腐敗槽も整備され、また近くには湧水を溜めるダムも完成していた。 受刑者の多くは日中、ハイウェイ建設の労働に従事し、一日の労働時間が終わると、一〇時の消灯時間まで、キャンプの中を自由に歩くことを許されていた ₁₉

。ヒラバヤシの場合、キャンプで最初に課せられた仕事は、野球場およびその他娯楽施設の整備であった。受刑者たちは、﹁ファーストボール(

fa st ba ll

)﹂と呼ばれたピッチの速いソフトボールを行い、ヒラバヤシの服役中も、アリゾナ大学からチームを招いて何度か試合を行った。南側の丘には、三〇から四〇名のホピ族の受刑者が、刑務所の敷地の端に隠遁小屋を建て、たき火を囲んだり、あずま屋の下でくつろいだりしていた。ヒラバヤシによれば、徴兵忌避で服役していた大学生たちが、そこへ招待されたいと一カ月以上いろいろと働きかけていたが、一度も招かれることはなかったのに対し、東洋人で顔つきが先住民とよく似たヒラバヤシは、到着した週にそ 二六五〇

(10)

(    同志社法学 六四巻七号六二五 こへ招待されたという。ホピ族の人々は、そこでヒラバヤシの髪を洗い、マッサージを施し、お菓子と熱いお茶を勧めた。 シアトルの刑務所での食事と比べると、カタリナ・キャンプの食事は大変よかった、とヒラバヤシは回想している ₂₀

。特に、パンやパイ、その他、焼き菓子などが、とてもおいしいので、ヒラバヤシはある日、刑務所のパン職人にお礼のメモを書いた。すると、数日後、食事の列に並んでいたヒラバヤシにパン職人が﹁お前がヒラバヤシか?﹂と声をかけ、﹁賞賛の手紙をもらったのは初めてだったので、本人と会いたかった﹂と伝えた。その後、出所するまでの間、ヒラバヤシはパン焼きの助手となり、また道路建設現場に温かい昼食をトラックで届けるキッチン係を務めることもあった。 こうして三カ月をカタリナ・キャンプで過ごした後、ヒラバヤシはワシントン州へのバスの片道切符を渡され、故郷に戻った ₂₁

。一九四四年後半に彼は結婚したが、その後まもなく、連邦徴兵規則違反で再び逮捕され、マクニール島の連邦刑務所で九カ月を過ごすこととなった。日系アメリカ人のみを対象としているということで﹁忠誠質問﹂への署名を拒んだためであった ₂₂

。服役中に双子の娘が生まれた。戦後は、ワシントン大学で学士(一九四六年)、修士(一九四九年)および社会学博士(一九五二年)の学位を取得し、ベイルートやカイロなどの大学や研究所に勤めたのち、カナダ、エドモントンにあるアルバータ大学に赴任した。その後、同市に定住し、退職後もその地で暮らしていたが、二〇一二年一月に亡くなった。 ヒラバヤシの有罪が最高裁判所で確定した一九四三年から四〇年後、アメリカの法政治学者ピーター・アイアンズが、日系アメリカ人事件について調査を行い、日系人が戦争中にアメリカ西海岸に及ぼす危険について、政府が重大な証拠隠滅を行っていたことを示す文書を発見した ₂₃

。アイアンズはヒラバヤシに電話し、彼の裁判について再審の可能性があることを伝えた。ヒラバヤシ、ヤスイ、コレマツの再審裁判は一九八三年から一九八七年にかけて行われ、いずれも戦

二六五一

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(    同志社法学 六四巻七号六二六

時中の有罪は破棄されたが、最高裁判決を覆すには至らなかった。 ゴードン・ヒラバヤシは、日系人強制移動・収容に法的に抵抗した数少ない人物の一人として、日系アメリカ人のなかでは最も著名な人物である。また、彼の名のついた最高裁判決

H ir a ba ya sh i v . U n ite d S ta te s

19 43

)も、

K or em a ts u v. U n ite d S ta te s

19 44

)とともに、非常事態において法の平等保護の適用を人種・出自などによって区別することを認める可能性を示した、﹁合衆国最高裁史上最悪の判決﹂のうちの一つに挙げられる。そして、日系アメリカ人が戦時中に強制収容された施設についても、一〇カ所の戦時転住所に加え、日系人が戦時転住所に移される前に西海岸各地で一時的に拘束された仮収容所﹁転住センター(

A ss em bly C en te rs

)﹂や、不忠誠とされた人々を拘束した﹁司法省収容所(

Ju st ic e D ep ar tm en t I nt er nm en t C am ps

)﹂ならびに﹁捕虜収容所(

P O W C am ps

)﹂などについては、研究が進み、また一般的にも存在が知られるようになっている。しかし、アリゾナ州カタリナ連邦刑務所に、大戦中、日系アメリカ人が収容されていたことは、ほとんど、研究者にも日系人にも知られていない ₂₄

。これは、ゴードン・ヒラバヤシ一人がごく短期間収容されていただけであれば、仕方がないことかもしれない。ところが、カタリナ連邦刑務所には、ヒラバヤシが釈放されてのち、一年もたたないうちに、再び日系人が護送されてきたのである。そして今度は一人ではなく、四五名というまとまった人数であった。そこで次の章では、﹁

T he T uc so nia ns

(ツーソン人)﹂と自称するようになったこの日系二世の若者の集団について解説することとする。

知られざる﹁

T uc so nia ns

﹂の物語

 ﹁

T uc so nia ns

﹂について語るには、再び太平洋戦争開始時まで、話を戻さなければならない。一九四一年一二月七日(日 二六五二

(12)

(    同志社法学 六四巻七号六二七 本時間では八日)の真珠湾攻撃を受けて、翌八日に米国が日本に宣戦布告すると同時に、日系二世は、アメリカ国籍のみを有する者を含めて﹁四 とこるいないてれら知りまあは ₂₅ 一一一で録記部一、名二一所(い多も最らか名容収のつ一は)ゾ徴で所容収ントスポ州ナあリをア忌避者兵出たのはし 織所で組展的に開れ収た容トンテンウマーハ州グンミフ﹁さェ忌アは実、がるあで動運避一兵員徴レイ委プ会による﹂ 五は三一あ名でったの。数人者避忌兵徴系日、ばれよに日二系が世オイワ、はのいでん進る究避研徴兵忌の問で最も題 部世も、一らなが存在る二たす対反に兵徴ので下況状うしを。詳幸田森たっ行日究研な細夫てつに者避忌兵徴世二系い 容強制収れ所へ入れらいて種づ基にみの人、しかし ま、たてら従いとるいっなと身れわの捕家軍してにも族は収容所

ig y I en ce S er vic e ell ar ilit M nt

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。そして、コロラド州アマチ収容所からの徴兵忌避者を中心に約四五名の日系徴兵忌避者を収容したカタリナ連邦刑務所の物語もまた、これまで日系人史では扱われてこなかったのである。 森田によれば、アマチ収容所での徴兵忌避者の数は三六名(WRA記録では三五名)であった ₂₆

。そのうち、一九四四

二六五三

(13)

(    同志社法学 六四巻七号六二八

年六月三〇日に有罪判決を受けた第一陣の一四名(森田はこの数字に?をつけている)が、カタリナ刑務所に護送された ₂₇

。第一陣のメンバーであったノボル・タグマは、アマチ収容所で徴兵命令を受けた時﹁両親が解放されたら入隊する﹂と言って、命令を拒否した。逮捕され移送されたデンヴァーの刑務所で、JACLを代表するミノル・ヤスイ(前述のヤスイと同一人物)とジョー・グラント・マサオカが徴兵に応じるよう説得にやってきたが、拒んだという ₂₈

。タグマらは、デンヴァーから列車でツーソンに送られ、鉄の足鎖と手錠をかけられたままトラックの後ろに乗せられて、カタリナ・キャンプまで運ばれた。アマチからの第二陣二一名がツーソンに着いたのは、四カ月後の一一月上旬のことである ₂₉

。第二陣でやってきたジョー・ノリカネも、収容所で﹁ぼくの権利が回復されたら、いつでも入隊する﹂と言って、徴兵を拒否した ₃₀

。ノリカネらもまた、手錠と足鎖をつけられ、真夜中にカタリナに到着した。カタリナ刑務所には同じころ、ユタ州トパーズ収容所からも徴兵忌避者が移送されてきており、詳細は明らかでないが、アマチ以外の収容所や郡刑務所などから約一〇名の徴兵忌避者が集められた。 カタリナ刑務所の受刑者用バラックはA、B、Cの三棟があり、Aにはエホバの証人信者が、Bにはアフリカ系アメリカ人、不法入国のメキシコ人、先住民、そして日系人が、Cにはエホバの証人以外の白人男性が入れられていた。日系人たちに課せられた仕事は、ハイウェイ建設のために、松の木を切り倒したり、花崗岩の地面にダイナマイトを埋め込む穴を大ハンマーで掘ったり、と厳しいものであった。一八カ月をカタリナで過ごしたハリー・ヨシカワは、ドリルで穴を掘る作業があまりに辛かったため、キャンプでの食糧を作る農作業に志願し、途中から玉ねぎやニンジンなど野菜を作る仕事に替わったという ₃₁

。一〇カ月を服役したヒデオ・タケウチは、戦争が進み石炭の配給が減少したため、ボイラーの燃料とする木材の伐採に従事した。 食事が戦時転住所のものよりよかったという証言は、ヒラバヤシの体験と共通している。しかし、カタリナでの生活 二六五四

(14)

(    同志社法学 六四巻七号六二九 については、個人によって証言が若干異なっている。アマチからの第一陣の一人、ススム・エノキダは、約一年カタリナで過ごしたが﹁日光にあたらないことが多いから、顔はまっ白になった﹂と言っている ₃₂

。これは、ツーソンが灼熱の太陽が照りつける砂漠地帯にあり、またカタリナ刑務所の受刑者の多くが道路建設に従事していたこと、そして労働時間以外は敷地内では比較的自由に行動できたことを考えると、腑に落ちない。何か屋内にとどまらなければならない特別な事情があったのかもしれない。一方、インタヴューには出てこないが、カタリナ・キャンプの歴史を説明したウェブサイトには、前述のハリー・ヨシカワがホピ族に習ったテクニックを用いて編んだヘッドバンドの写真が掲載されている ₃₃

。ヒラバヤシだけでなく、他の日系徴兵忌避者たちも、ホピ族の人々との交流があったことがわかる。 ヨシカワによれば、カタリナ刑務所でも日系人に対しては徴兵に応じるよう、一カ月に一度看守が説得したという。このような説得は日系人に対してしか行われなかった。﹁軍隊に行くなら、懲役もその記録も抹消する﹂と看守は言った ₃₄

。それでも、ヨシカワたちは、﹁(西海岸の)家に帰し、以前持っていたものをすべて返せ。そうすれば、入隊する﹂と言って、説得には応じなかった。カタリナ刑務所にいた日系人で説得に応じて軍隊に行った者はいなかったという。 タグマは一九四四年一二月にカタリナ刑務所を出所した。同時に出所した何人かの日系二世は、家族が拘束されていたコロラドの収容所へ戻った。しかし、徴兵忌避者は他の日系人に悪影響を及ぼすということで、収容所内へ立ち入ることを禁じられた。そこで、タグマは、アマチ収容所の近くのグラナダという小さな町で魚市場の仕事についた。夜な夜な、彼は汚水槽のそばを通って収容所の裏から忍び込み、警備の目をくぐりぬけて、毎晩上映されていた映画を家族と見たという。﹁若い時には、撃たれることなんて考えないものですよ。両親に会いたい一心だったのでね﹂とタグマは回想している ₃₅

。日系人は、強制収容所から自由に出ることができなかったのはもちろん、家族と一緒に暮らすために収容所へ入る自由もまた奪われていたのだ。

二六五五

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(    同志社法学 六四巻七号六三〇

 日系アメリカ人の徴兵忌避者たちは、大戦末期あるいは戦後に恩赦を受けたが、彼らの戦後は、苦労に満ちたものだった。兵役に志願、または徴兵され、第一〇〇歩兵大隊や第四四二連隊戦闘団など、二世部隊に入った者たちは、戦場で華々しい戦果と多大な犠牲を払い、アメリカ軍のなかでももっとも栄誉ある部隊と称されるようになった。彼らの活躍の影響もあり、アメリカ国民の日系人に対する評価は急速に向上し、一九四四年一二月一七日には、西海岸への立ち退き命令も政府により撤回された。戦後のアメリカ世論で日系人のアメリカに対する類まれな忠誠心がもてはやされる一方で、忠誠質問に﹁ノー、ノー﹂と答えた者や、﹁イエス﹂と答えても徴兵に応じなかった者の存在は、家族や友人の間でさえ、埋められない亀裂となり、彼らは日系コミュニティのなかで、戦後もつまはじきにされたのである。しかし、カタリナ連邦刑務所に収監され、苦労をともにした日系二世徴兵忌避者たちは、自分たちを﹁

T uc so nia ns

﹂と呼び、戦後も二、三年に一度ずつ集まって旧交を温めてきた。一九九八年に行われた新聞インタヴューや、森田が行った二〇〇二年の聞き取り調査で、彼らは自分たちの戦中の決断は正しかったと考えており、そのことについて誇りをこめて語っている ₃₆

。 徴兵忌避者やアメリカ国籍離脱者などの物語は、戦後、日系人の歴史のなかでもほとんど語られることはなかったが、二一世紀に入り、ようやく、アカデミアのなかでも再評価が行われ、コミュニティのなかでも和解が生まれつつある。たとえば、二〇〇二年五月にサンフランシスコで、戦中戦後、どちらかと言えば積極的に徴兵忌避者を迫害したJACLが、もと徴兵忌避者たちを﹁良心の抵抗者(

re sis te rs o f c on sc ie nc e

)﹂として称え、これまでの迫害について謝罪し、和解を申し出る集会を開いたことは象徴的であると言えよう。その後、徴兵忌避者だけではなく、いわゆる﹁ノー・ノー・ボーイ﹂、さらにはアメリカ国籍離脱者などの体験についても、調査研究、あるいは、公に証言が行われるようになり、﹁どんな不正義に遭ってもアメリカに忠誠を貫いた日系アメリカ人﹂という日系人のステレオタイプが脱構築さ 二六五六

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(    同志社法学 六四巻七号六三一 れつつある。刑務所キャンプからレクリエーショナル・キャンプへ  一九五一年にカタリナ・ハイウェイは完成し、カタリナ山脈には﹁発破の轟音やハンマーの音﹂の代わりに、山を登る自動車のモーター音が響きわたるようになった ₃₇

。カタリナ・キャンプは、その後、一九五七年から一九六七年の間、一七歳から二二歳の若年犯罪者の更生施設として使われた ₃₈

。一九六七年にキャンプが閉所された後、南西部インディアン青少年センター(

So ut hw es t I nd ia n Y ou th C en te r

)として数年使われたが、この先住民用施設も一九七三年にはツーソンに移転され、その後まもなく、残っていた建物などはすべて取り壊された。 一九八八年、この刑務所跡地はキャンプ場として整備されることが決まった ₃₉

。そして一九九〇年代になって、カタリナ連邦刑務所がハイウェイ建設に果たした役割について再び関心がもたれ、若干の新聞がハイウェイ建設報告書や元看守やその家族へのインタヴュー記事などを掲載するようになった ₄₀

。しかし、一九九〇年代前半の記事では、キャンプに日系人がいたことについては、一切言及がない。キャンプに日系人が存在したことが一般に知られるようになったのは、一九九八年に、日系人強制収容に関心を持っていた国立公園局所属の考古学者、ジェフリー・F・バートン(

Je ffe ry F. B ur to n

)がこの事実を発見したことがきっかけとなった。バートンが、刑務所跡地の屋外キャンプ場にヒラバヤシにちなんだ名をつけることを提案したからである ₄₁

。この命名案を聞いた、元徴兵忌避者ノボル・タグマの息子で、サンフランシスコの﹃日米タイムス﹄紙の英語セクションの編集者であったケンジ・タグマは、バートンに書簡を出し、ヒラバヤシ以外の服役者も含めるために﹁ジャスティス・キャンプ(

Ju st ic e C am p

)﹂と名付けることを提案した。この

二六五七

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(    同志社法学 六四巻七号六三二

案に対し、JACLアリゾナ支部のジョセフ・A・オールマン副会長は、アリゾナ州の収容所から出征した一一〇〇名以上の日系人のうち、四五名が命を落としたことに鑑み、その遺族たちがキャンプを﹁ジャスティス・キャンプ﹂と名付けることには賛成しにくいと発言し、ヒラバヤシの名をつけることを支持した ₄₂

。こうして、キャンプは、﹁ゴードン・ヒラバヤシ・レクリエーショナル・サイト(

G or do n H ira ba ya sh i R ec re at io na l S ite

)﹂と名付けられることとなった。ヒラバヤシは、自分の名前がキャンプ場につけられることに関して、﹁第二次大戦中に日系アメリカ人に起こったことの記憶を生かしておくこと﹂に役立つなら、と同意した ₄₃

。そして、﹁

T uc so nia ns

﹂の元徴兵忌避者たちも、ヒラバヤシの戦時中の行動を理解することによって、若い世代が自分たちのとった行動を理解する大きな助けとなる、と考えている。 一九九九年一一月七日、﹁ゴードン・ヒラバヤシ・レクレーショナル・サイト﹂の命名式が、カタリナ刑務所跡地で行われた。式には、ヒラバヤシの他、九人の﹁

T uc so nia ns

﹂とその家族や友人が招待された。一五〇名ほどの参加者を前に、ヒラバヤシは﹁看守の名ではなく、受刑者の名をつけることを連邦森林局が決めたことは喜ばしい﹂と語りかけた ₄₄

。ジム・コルビ連邦下院議員は、一九八八年に自らがリドレス法案への賛成票を投じたことに言及し、﹁議会で私が投票したなかでももっとも個人的な思い入れがあった﹂一票であったと述べている。二〇〇一年には、カタリナ刑務所の歴史を説明する写真入りの案内板が設置され、ヒラバヤシや日系アメリカ人の歴史、そして元徴兵忌避者たちの物語もそこには写真入りで説明されている。そして、案内板の完成式典には、ヒラバヤシや数名の﹁

T uc so nia ns

﹂のみならず、ホピ族の元受刑者も参加した ₄₅

。この案内板は、ハイウェイを外れて、舗装されていない道を小川に沿って少し入っていったところにあるキャンプ場の入り口近くに建てられている。これによって、キャンプを訪れた人々は、自分たちが通ってきたハイウェイを建設した人々の苦労をしのぶとともに、第二次世界大戦中に日系人がたどった苦難の歴史に 二六五八

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(    同志社法学 六四巻七号六三三 ついても学ぶ機会を得られるようになったのだった。

終わりに

 筆者が﹁ゴードン・ヒラバヤシ﹂キャンプ場を訪れたのは、二〇一〇年二月のことだった。ツーソンの街中では雪を見ることはほとんどなかったが、街の西方にあった自宅から見えるカタリナ山脈は、ふもとの方は朱色の山肌が、頂上近くには雪が白く光り、美しかった。キャンプ場はふもとに近いので雪はなく、何組かのラティーノの家族が小川のそばでピクニックを楽しんでいた。刑務所の建物はすべて一九七〇年代に取り壊されたので、石積みの土台や階段、貯蔵庫であったと思われる、地面に掘り下げられ石積みの壁に囲まれた四角い空間などしか、かつての刑務所の存在をしのばせるものはなかった。 日系アメリカ人の歴史のなかで、徴兵忌避者の物語はこれまでほとんど語られてこなかった。また、ゴードン・ヒラバヤシの人生も、夜間外出禁止令と立ち退き命令違反に関する裁判の部分には光が当てられてきたが、彼に対する最高裁判決の後の出来事、すなわちカタリナ刑務所での体験と、忠誠質問への回答拒否という徴兵規則違反による投獄についてはほとんど注目されてこなかった。考えてみれば、同じく法廷で強制立ち退きに挑戦したミノル・ヤスイがその後JACLメンバーとして日系二世に徴兵に応じるよう積極的に働きかけたこと、フレッド・コレマツがほかの日系人とともに戦時転住所に入り、その後忠誠な市民として出所してアメリカ社会に再統合されたことと比較すると、ヒラバヤシの生き方は、日系アメリカ人史で描かれる典型的な日系アメリカ市民のそれではなかったと言えるのだろう。本稿で触れたとおり、徴兵忌避者の体験も二一世紀になって日系人史のなかで取り上げられるようにはなってきているが、ア

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(    同志社法学 六四巻七号六三四

メリカの研究者による彼らの行動の解釈は、これまでのステレオタイプ的な日系アメリカ人像に彼らを無理に押し込めようとしている感がある。たとえば、﹃祖国のために死ぬ自由﹄の著者エリック・ミューラーは、合衆国憲法への忠誠心を表現して徴兵を拒否したハートマウンテン収容所の﹁フェアプレイ委員会﹂の例を取り上げ、日系二世の徴兵忌避を﹁語られなかった愛国心﹂の表れとして、﹁純粋で古くからあるアメリカニズム﹂の系譜に位置付けている。同書は、日系コミュニティにおける元徴兵拒否者への不信感を説明する際に、﹁不名誉な理由﹂﹁不適切な動機﹂として、﹁怠惰、臆病さ、あるいはアメリカへの忠誠心の徹底的な欠如﹂をあげ、﹁しかし、拒否者の大半にとっては徴兵拒否はまさに良心的な行為、つまり愛国心ゆえの決断だった﹂と結論づけるのである ₄₆

。しかし、ミューラーの提示する﹁愛国心=良心的な行為﹂という論理の図式に、私は違和感を否めない。というのは、通常、良心的徴兵忌避というのは、個人が国家以外の対象、たとえば宗教的信条や人道主義などに、より強い忠誠心を抱いているときに起こす行動を指しており、愛国心とはむしろ相容れないものだからだ。もっと言えば、基本的人権のもっとも基本的な要素は﹁生きる﹂権利であり、﹁撃たれたくない﹂、そして﹁他人を殺めたくない﹂という信条もまた、兵役を拒否する﹁名誉ある﹂、﹁適切な﹂動機であるという考え方もあり得る。ヒラバヤシが、日系二世であると同時に、クエーカー教徒でもあったことを忘れてはならないのだ。 日系二世の第二次大戦中の体験は、強制収容所、軍隊、そして連邦刑務所という、三つの監獄の間で翻弄される悲しい歴史である。そのなかで、ヒラバヤシや﹁

T uc so nia ns

﹂は、鉄条網のないカタリナ刑務所で他民族の徴兵忌避者とともに働らき、彼らと交流し、そして何よりも、戦争を生き永らえた。﹁ゴードン・ヒラバヤシ﹂キャンプ場は、日系アメリカ人の体験を、戦争、人種主義、愛国心や国家への抵抗、そして自由と正義の問題について、より大きなコンテキストから考えさせる、興味深い空間である。その歴史は、矛盾と皮肉に満ち、悲しいとともに人間的で、どこかしら滑 二六六〇

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(    同志社法学 六四巻七号六三五

写真1 「ゴードン・ヒラバヤシ」キャンプ場入口の案内板(筆者撮影)

写真2 日系人強制収容を説明したパネル(筆者撮影)

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(    同志社法学 六四巻七号六三六 写真3 刑務所の建物の遺構(筆者撮影)

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(    同志社法学 六四巻七号六三七 稽な物語でもある。それは、アリゾナ州国境地帯という緊張と悲劇に満ちた土地である一方で、とても心温かい人々に囲まれてしばし暮らす機会に恵まれた、いかにもツーソンらしい逸話であると、筆者には思えてならない。

 稿Arizona Historical SocietyTucson Library and ArchivesBox “Ethnic Groups-Japanese-Arizona” Box “Prisons-Federal-Arizona-Mount LemmonTucson Ephemera Files

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