新官僚・革新官僚と社会派官僚 : 協調会分析の一 視角として
著者 高橋 彦博
出版者 法政大学社会学部学会
雑誌名 社会労働研究
巻 43
号 1・2
ページ 33‑64
発行年 1996‑11
URL http://doi.org/10.15002/00006710
二、国家三、新倉四、革新五、結び してくるのである。」一、はじめに 「殊に国体論を以てその求呂政治、経済、社会に側する組織論理を税かうとする所論に接したとき、世人の疑惑は一価期
新官僚から革新官僚へ革新官侃と社会派官仇 l内務官恢としての協洲会上腕職H1国家官僚としての新官僚
新官僚・革新官僚と社会派官僚 l協調会分析の一視角としてI
l社会派官僚から安本官倣へ- 永井亭(協調会常務理事)『国民柵神と社会思想』巌松堂、一九二四年。
高橋彦博
社会政策学会における私の報告は「コーポラティズムとしての協調会」と題されたが、当日配付の報告要旨と報告資料で詳しく示したように、報告内容は、「協調会コーボラテイズム論」と「協調会官侭の分析」という二側面から るアプローチである。
一九九六年五月了
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予定である。 財団法人・協調会が連合国による占倣体制下で解散に追いやられたのが一九川六年七月であった。それからすでに(1)半世紀が経った。この間に蓄積された協調会に関する研究文献は二○点を超えている。協調会解散五○年の時点において、これまでの協調会分析の蓄臓を蹄まえた上で、協洲会について今日的な把握を試みる作業は、社会述助史や労使関係論の分野における作業としての意味を持つだけでなく、そこから提起されるであろう何点もの論点を通じて、現代政治論、現代社公論に何ほどかの寄与をする作業となるに迎いない。私の場合、今日の時点における協調会分析は、二つの角度から試みられることになる。一つは、協調会二七年の歴史を戦Ⅲ川コーポラティズムとして捉える視点からするアプローチである。他の一つは、協調会二七年の経過を担って来た協調会上層職員を新官僚、革新官僚、社会派官僚、という三つの官僚層の輻轆関係において捉える視点からす
年五月一八日に開催された社会政策学会九二回大会は、協調会解散五○周年の時点における企画として、科会の一テーマに「協調会の今日的検討」を取り上げた。この社会政莱学会分科会でなされた愛媛大学矢
国学院大学木下順氏、そして私による三本の報告は、「大原社会問題研究所雑誌」の近刊号に掲載される 一、はじめに
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折」を、今回、蒲くして逝一少の資料補過を含んでいる。 のアプローチを交錯させるものとなっていた。学会における口頭棚告を文謝報告に換えるに当たって、私は議論の川確化を図ろため、交錐する二つのアプローチを分離し、それぞれのアプローチが提起するそれぞれの論点に検討を加える形をとることにした。私の識論の一つである「協調会コーポラティズム論」については、社会政策学会における報告として「大原社会問題研究所雑誌」近刊号に発表することとし、私のもう一つの議論である「協調会官似の分析」を、今回、潴くして逝っ九四川洋二教授追悼の意味を込めて本誌に発表させていただくことにした。いずれも多
新官僚とか革新官僚とかの捉え方は、当時のジャーナリズム川語に端を発している。現代史研究の分野において厳密に規定された概念として定着しているわけではない。それぞれ個別の領域における実証分析を通じて、さらに確定的な概念規定の確立が試行されている途次にあると言えよう。たとえば、一九三○年代以降における総合国策研究機
関の総体的把握を試みた古川雌久氏が、総力戦体制の担い手を硴定する視点から新宮恢屈と革新禰位肘に次のような(2)区分を一がしているのが、実証的把握の一例となっている。 一几三○年代後半に派生した社会派国家官仙晒を砧新宮休胴と捉える皿解が通説となっている。まず、商等、造Ⅲ機関としての東京帝国大学法学部の卒業年次を基準にし、その上で、学生時代におけるマルクス主義への接近絲験の有無を指標にする社会派国家官僚層の分類方法は、新官僚層と革新官僚層の輩出の背景を捉え両者を区分する一般論として的確てあり有効であると言えよう。
しかし、協調会に対象を絞り協調会上肘職員の軌跡を迫って行くと、一般論とは兇なった新而似胸の誕生と球新官
僚胴の分化を確認することが出来る。政党政治への対応を自覚し政友会や氏政党との関述で浮鋤する浦恢政治家として社会政策の公共政蛎化に取り細んだのが添川敬一郎であった。添川と巡って、二人政党システムがもたらすス細イ
ルズ・システムヘの反抗から既成政党に組みせずに、当初から金憩学院であるとか凶縦会であるとかの回家並新派官僚組織に属して、軍部クーデタ後の官僚内閣にポストを得たのが吉田茂であった。この二人の間に、画然とした一本の線がⅧけるのである。この二人の間の一線が、協調会の場で確認Ⅲ来る新宿隙と北新宮仮の区分線となっているのであった。一九一八年における原敬内閣の成立という政党政治冊始時点に遡る新宮隙燗の形成の確認と、一九三一年における政党政治解体過程において明確となった革新向仇屈の派生の確認が協調会の場において可能となるのであっ
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どのような分頬でもそうであるが、ある特定の圦耶におけるその分航の有効性であり、新席恢と革新官低について
の古川氏の明快な分緬も、当然なことながら、分斌城雛を換えるとその終然さが乱れることになる。農林官恢に焦点(3)を柵・えた大竹稗介氏の分析によれば、古川氏の分頒で新官位の枠に収められた右恐忠篤と小平椛一は、国家機描の一端としての農林官僚としての本来の在り方を保持し続けた「省士」であり、各省の枠を超える意識の新官僚とは異質の存在であったとされている。同じように古川氏の分峨で砿新官隙の川辺に位世付けられた和川博雄は、大竹氏の分餓によれば、国家を超えた社会観念への捉われにおいて「革新官僚たりえなかった」人であって、あえて言えば「革
新餓'1t1に (#(よ左れ 派ばL-、
【内務官僚】後藤文夫、吉川茂、松本学。【腿林官恢】石黒忠鱒、小平権一。【商工宵仇】吉野傭次。【大蔵官似】打渡粧太郎、H雁皿逝、…など。革新官僚一九二○年代(大正末期)に東大を卒業して官僚になった人々である。彼らは程度の差はあれ学生時代にマルクスエ雑の影孵を受け、統制経済についての経験を械み、Ⅲ中戦争勃発前後から頭町を表しはじめ、戦中川(「革新官恢」と呼ばれるようになるのはこのころから)には各竹の課長、局長、総合囚箙機側の幹部や立案スタッフとして漏勅する。【商工官恢】岸信介、唯名悦三郎、美漉部洋次。【逓信官似】奥村再和男。【大蔵官似】毛里災於兎、迫水久常。【腱休官似】川川柳雄、…など。 新官僚一九一○年代に東大を卒業して官僚になった人々である。彼らのうち、内務、鰹林官恢は、恐慌対鞭に関与するうち、政党政治に批判的になった人々であり、その他の人々は産業統制、総動員政策、外為管理、満洲国統治など、「革新派」的政簸の線上にある新しい政策に携わった人々であるが、体制糀新まで構想している者はいなかった。彼らは戦中期には次官、大
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協調会上層職員を内務省社会派の国家官僚と見なして、その軌跡を追うと、添田敬一郎のような一見、平凡な単な3
仮などとなる。であった。
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る国家官僚とその同瞭である永井享や爺下である藤井梯に新向依としての位世付けがなされることになり、吉川茂のような公認の新宮仮に先鞭である後峨文男を含めて岫新官似としての位悩付けが与えられることになる。さらには、
、、革新浦似と見なされていた和川博雄が、協調会職員であった稲菜秀一一一や勝間川消一と此〈に、社会派国家淌恢としての
、、在り刀を超えた社会化志向の社会派宵似と位例付けられる》」とになる。以下、社会派凶家官俶と社会派宵恢の微妙な
使い分けにご注意いただきたい。
(1)本稿末足の「『協調会論』文献一覧」を参照。この一覧表は、川棚「「協調会誌』(稿本)と『協調会史』(正史)とのⅢ」(『大原社会問題研究所雑誌」第四四五号、一九九Ⅲ年一二月)掲赦の文献リストを術正したものである。(2)古川陥久『昭和戦中期の総合国策槻側」吉川弘文館、一九九二年、一八~一九ページ。折滴恢と革新官僚の肝川論文として分析作業の起点になるのは橋川文三「革新官僚」、神烏二郎編『権力の思想」筑摩書房、一九六五年であろう。(3)大竹啓介『幻の花-和川博雌の生涯(上)』楽瀧啓一尻、一九八一年、一三一~一一一一二ページ。
二国家官僚としての新宮催
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内務官僚・添田敬一郎 内務官恢としての床次は、早くも一九一三年、鉄道院総放の現職に在りながら政友公に入党し、官吏の祇口服柾の(2)是非についての議論を呼び起こしていた。床次は、一九一四年以降、衆議院議員に当選八回を取れる官瞭政治家となっている。政党政治が進行する状況で出現した官位政党人としての床次が原内閣の内川となり、政党内閣を柵強する「官・財・労・協議体制」としての協調会設立を提唱したのであった。協調会は、政党政治との緊張関係にあった
添川が協調会常任理事に就任した直後に、「社会政筑時報』に発表した「協調会堂一一局」(一九二○年一一Ⅱ)があり、(5)「筒一言」の趣旨を説明した二水の論文がある。添川によれば、協洲主義とは柵怖主義でもなければ階級闘争主我でもないのであった。協調主義は、添田によれば、「世界を風際し尽くしたるデモクラシー」を認め「対等なる人格の相互尊耽」を求める思想であって、断じて「資本家と労働背とを現状の側に於て妥協せしめんとするもの」ではないとされている。慈恵政策ではない社会政筑を股間するための各界協調の機関として、特に労働組合代表を参加させた(6)「述柵主義」の機関として、協洲会を疋粁させることが、災画的な理事長としての添川の役別として自覚されていた。社会政策の「徹底実施」を求める立場こそ協調主義であると強調する添田であったが、その際、添田は、何よりも先ず「労働問題に於いて股も危険なる刀而は非国家的思想の発現である」と旧家主義原則を明示することを忘れない
でいる。単なる争議調停機関にすぎないとする社会的批判に対して、労働委員会法や労働組合法の建議で答え、公共政策展開の主体となる立場を誇示する協調会であった。その協調会の爽画的な理事長として、添川は、「社会政策の目標はより善き社会の実現に在らねばならぬ」と「社会改造」論を提示する境地に到達していたのであったが、あくまで、国家官僚の頂点に立つ内務官僚としての、党を見失うことはなかった。 を承諾させられた経過は、添田にとって「甚だ意外且迷惑」であり「残念の心地」であった。添田と同様に協調会に04出向する}」とになった内務省桝記向の川沢義姉について、添川が「非常な犠牲」と述べているのは自身の}」とでもあったのであろう。添川の水野宛の謝簡によれば、添川は、協調会に対する「現内閣の武柾」の砿大なるを思って川(4)向を了承したのであった。添川が米騒助対簸や協調会設立醜務を担当する立場にあり、労働問題や社くま政策に強い側心を持っていたことは確かであったろうが、出向する添田にあったのは、何よりも国家官僚としての責務遂行自覚であった。
新宮(liI.?(iWrI訓]、とlll:会派Ti(li1
水井を協洲会川平に挑したのは淌浦奈喬であり、水井が協調会を追われた時、「資本家川休の不明の然らしむるところ」と永井弁池の言を吐いたのは平沼馴一郎であったと、永井回身が語っている。人脈から言えば山県閥系統に属していたと思われる水井であったが、その水井は、道徳観念としての図体論を政治・経済の倣域に持ち込むことを抓(7)否し、「国家より社会へ』と題する一丞脚を呪わすほどの公然たる社会派であった。永井の後年の回顧によれば、、水井 忠尖なる国家官倣として協調会常務理事に就任した添川であった。そうであったからこそ、添川は、政党政治腫開期の政椛政党によってなされる役職配分を光分に意識する政党系列化された国家官似となっていた。添川が最初に政界に川脇した時、政党政治展附に伴う政界再編成が巡行していた。その渦の巾で、添川は、床次や水野の後に続く官恢政治家の一人となった。そして、添川が官僚政治家としての地歩を固めた時、早くも政党政治体制の崩壊が閃始されていた。政党内閣の崩壊と添川協調会の瓦解は同時であった。幣原尚亜郎や高野岩三郎とほぼ同年であったが、大学卒年は「二八組」の数年後で、おそらくはそのためであろうか、内務省でも本省詰めが遅かった添川であった。そのような添川であり、五○歳になっていた添川であったが、協洲会常務理事として労働問題への対応を自己の役判と心得、「社会改造」派の新たな官僚政治家としての立場に己を見出す添田の在り様は、社会派国家官僚の先駆けになっていたと言える。戦間期に出現した添田のようなタイプの官僚を新宮仇と呼ぶのが妥当であろう。床次や水野にも、社会派国家愉彼の匂いが多分にあった。が、墨いた。 協調会の中に、思想と行動において添川を支える新宮仇としての在り様を示す何人かの止牌職貝がいた。その一人、添川と一緒に協調会皿事に就任した水井亨であった。この永井の場合、新宮仮であると共にその枠をはみ出して 永井享・塩沢昌貞・藤井梯
協調会は、総体として新官僚屑の居城になっていた。そこはまた、新官僚層を蚕食する社会派官恢の拠点ともなっていた。永井などは、新官僚層に属する一人というより、社会派官僚の先駆けの一人となっていた。設立当初からの協調会理事の一人に、協調会社会政簸学院の院長として社会政策思想の普及活勅に取り紺む塩沢日貞がいた。早稲田大学の政経学部長を務めただけでなく同大学の学長・総長をも務めた端沢は、内務官僚出身者が巾胴を占める協洲会上肘職口としては永井と共に異端であったが、塩沢もまた、協洲会にあっては、その考えからすれ は、発足当時、協調会は「Ⅱ本社会政筑協会」であるべきであると衿えていた。水井によれば、協調会は争議調停の機関であるよりも「労働組合法の制定による肌結権の確保」と「川体交渉による労働協約の締結」を求める機関であるべきであり、「労資代表の加盟による協議会の開催」を求める機関であるべきであった。永井は、「労働なきコーポラティズム」としての協洲会の在り様の克服を探題として自覚していたのである。添川と違って永井には、国家主義の発想が雌く凶家官僚としての使命観が稀薄であった。永井にあったのは、明快な社会樅の似想であった。永井は発足匝後の協洲会において、次のような自らの立脚点を川らかにしている。
「股近学者或は生存櫛、労働樅、団結権、休錠権の如き人的目川の椛利を主慨し、或は教育樅、慰安縦、住宅樅、他版椛、小児保護権、婦人対等権とも称すべき各般の権利を肯定する6のあるに至ったが、未だ法律上積極的の権利として充分に之を認むるの域に達しないのである。是等の権利は天賦人椛の思想に胚胎したるものと洲ひ御らる蚤が、寧ろ各個人の社会に対する椛利、即ち社会権として発達を見るべきものであって、社会に対する各人の蔵圧義務と相侯て発達しなければならないものである。大体に於いて将来は川人の利撒財醗等を目的とする川施椛の如きは適度に之にⅢ限を卯へ、個人の生命身体向山神を
艦礎とする生存権または人烙椛とも称すべき濫本的椛利に枕て一層之を岬函するの原川を確立する必要を認むるので娃型・」
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新官僚.、YiWi官隙とil:会派官(II(
火での想な:
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協調会調在課長であった藤井梯もまた、協調会上牌職uとして新悔倣脳に身を慨く一人であったが、その縄歴と思想内容からすれば、まぎれもない社会派官倣の一人であった。労働問題に温傭主義で対応するのではなく、打働組合の持つ市民樅の承認で対応すべきであるとして協洲会の軌道修正を表明したのが一几二○年一二〃の「協洲会汽言」であったが、この宣言は藤井が執筆したとされている。「協調会宣言」は添川も自分の見解表明として扱っている。火画皿珈長としてそれは当然なのであるが、添川の理事及就征に反対したという永井の回想によれば、「協洲会宣一一門」は「私が最初に試みた仕事」であり、永井が藤井に「起草を依頼した」のであった。藤井執筆とされる「協調会宣 端沢が社会政簸の城本観念は生存樅思想であるとする論文を『社会政雄時報』誌上で発表したのは、水艸が、同悲止で社会権思想を表明する少し前であった。永井は、社会権思想を述べるに当たって「生存権のみを社会問題解決の根本思想と兄ることが出来ない」としている。生存樅思想では「社会政簸の根本義が従来の個人主我又は社会主義と異なる所以の特質を説明するに足らない」のであった。永井のそのような生存権思想についての注釈は、あるいは永井論文より早く『社会政策時柵』誌に発表されていた塩沢論文に側する柵論としてなされたものであったのかもしれ (9)ば、新官仙〃脈に混入した社会派官恢の系譜に属する一人となっていた。塩沢は、設立直後の協調会においてワイマール・モデルの生存権思想を紹介して見せている。
「川して労働背の生活の改善、地位の向上の目標として十几世紀末紫以来『文化的生存』(クルトゥーァ、エギジステンッ)及『人間らしき存在』(メンシェンヴィルディゲス、ダーザイン)なる標語を使って届る。…労伽者も他の階級の荷と同じく物伍上に於ても、柵抑止に於ても此化柵を改牒向上せしめ、斯くして雌業に側係せる各階級の州和統一を川するといふ趣愈で
社会政筑の研究は進み来れるもので錘型・」
言」は、「労働組合此他の団体」が組織されることを希望しつつ、協調会が「労資盤刀の個人又は団体と親しく接触」
Iする機関となるように求めている。
藤井は、桑田熊蔵に乞われて協調会入りをしたという。協調会の調査課長に在職のまま政治研究会の中央委員となり、脈瀧政党の綱価作成作業に参加している。一几二七年には、普選突施に対応する啓蒙雑誌として、吉野作造、小(Ⅲ)野武夫と藤井の一二人が発起人となった『社会迎動」(第一巻第一号)を発行している。労働問題や社会問題の発生を認
識し、問題への対応役割を自覚するのが新官僚であったとすれば、藤井は、協調会上屑職員として新官似であると共に、政党政治展附川の社会迎助への参加役別を自己に弧し、脈産政党の糾織化に取り組む祉会派官僚であった。
(1)Ⅱ本の官恢制と猟官制との関係については、後藤文夫の回顧が参巷になる。内政史研究会「後藤文夫氏談話第一回速記録(一九六三年七月二Ⅱ)」『内政史研究資料・第四巣』一二~一四ページ。(2)吉野作造は禰史の立候補は「苦々しい現象」であるとし、寺内内側において官吏の立候補が「概括的」に許され、脱内側において脳似の立候柵が「鰍什」になったと問皿の綴過を肌察している。古好「総選喉に於ける話Ⅲ随」『現代政胎諦和』文化生活研究会、一九二六年、所収を参照。(3)編集委員会編「添田敬一郎伝』同君記念刊行会発行、一九五n年、四六~四八ページ。水野疎太郎と添田の関係は「互いによびすてにする仲」であった、との脂摘もある。小山博也「第一爪代(埼玉県知耶)添川敬一郎」『埼玉県史研究』第一七
(4)同右。添川は協調会出向に当たって貴族院議員に勅選の内示を受けた。協調会への出向は左避であったのであり、突現はしなかったが勅選議員の内示は一種の手当てであったのであろう。協調会常務理事在職中、添川が大阪府知事へ転出する内交渉を受けたのは「栄祇」の機会提供であったとされている。同上『添川敬一郎低』丘o~正一ページ。(5)添川散一郎「労働問題の帰結」『社会政簸時報」一九二一年一月。同「協調に対する二砿の非難」『社会政策時報』一九二 号、一九八六年。
一年三月。
新宮(l((・〕Y(Wi官恢と11|:会派官(Ⅸ
(7)永井亨「協洲会の思い川」(一九六近年二几二六Ⅲ付)、『協調会史-協調会三十年の歩みI』偕和会刊、一九六近年、所収。水井は協洲会を追われる価前に『Ⅲ本思想論-国家胆似より社会思想へ』の姉妹耐として『川家より社会へ』(早稲川人学出版部、一九三○年)を刊行、「国体の観念」や「国民の梢抑」の高揚は「明治時代の帝国の弧念」であり「封建時代の刑囮の柵抑」であるとして「国民の覚醍」を促している。水井による図体論を川対化する理論的営為については、「国民柵神と社会思想」巌松堂諜店、一九二四年、参照。なお、永井は農商務省出身であった。拙稿、前掲〔一の(1)〕「『協調会誌」と「協調会史』との間」を参照。(8)永井亨「社会政策の根本思想」『社会政簸時報」一九二一年六Ⅱ。(9)法学博士・塩沢昌貞は、一九二○年一月、協調会理事に就任。一九四五年七月に死亡するまで、その任にあった。前掲〔この注(7)]『協調会史』一五五ページ。なお、塩沢と早稲川人学の関係については、内川満「忘れられた先駆者・家永蝋吉-現代アメリカ政治学形成期の目撃者」(上・下)「UP」一九九六年爪月、六月、の該当部分を参照。(、)塩沢昌貞「労働問題の本質と此解決方針」『社会政簸時報』一九二○年一二月。(Ⅱ)藤井伽は、一九二七年二Ⅱから一九三○年六川に交通耶故で死亡するまで協刈会剛耶の職にあった。前掲〔この派(7)]『協調会史」一派七ぺ1ジ。なお、前掲[この注(6)]「協調会と大原社研」の該当注記をも参照。
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設立、後の協調会において、拙附班義から協調主義への転換がなされ、その転換の拙い手となったのが添川であった。拙「協調会と大願社研」「社会労働研究』第四二巻三号、一九九五年一二川、参照。一九一三年。埼玉県知耶に就侃した添川、当時から「社会問題への関心」を示していたという。小山、前掲〔この注(3)〕「第一万代(埼玉県知珈)添川敬一
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添川敬一郎や永井亨が更迭された後に協調会に幾場したのは内務官僚としての吉田茂であり、吉川の配下としての町川辰次郎であり、吉川の同調者としての長岡保太郎であった。添川と同じく、鶴保同系列ではばく、主流から外れ
た吉川であったが、添川とは一五歳の年齢差だけでなく思考の体質においてかなりの迷いがあった。社会問題、労働問題への対応課題を自覚していた点において、吉川も添田と同じく内務省社会局系統から派生した国家官僚社会派の一人であった。しかし、添川と巡って古川は、政党政治の猟腐制に身を委ねる官俶政党人のコースを選んではいな 内務官僚・吉田茂 三新官僚から革新官恢へ
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内務宵仇正統派であった後藤文夫は、当時、ジャーナリズムから新宮隙の旗手と呼ばれていたように、並新宮仇が政府機関へ進出する橋頭墜の築き手であった。協調会上層職員としての吉田の政府機関への上昇は、後藤の後に続く形でなされている。まだ四○歳台であった後噸や吉川など疏新官僚が、思考し判断する行政官僚テクノクラートとして、野心と能力を発揮した舞台は、五・一五クー・デタ直後から続いた二つの非政党内閣であった。
評伝『吉川茂』の編繊委員長は後藤文夫となっているが、内務省関係者や安岡正篇などの貴重な証言を記録したこの評伝の実質上の編者は勝問田清一であった。第二次世界大戦後、日本社会党の委員長となる勝間川は、協調会職員
であった当時の思い出として、「先生(吉田茂)が書記官長になられてまるで協調会が組閣本部みたいになったこと(5)がありましたね」と語っている。一九一一一二年の五・一近クー・デタから一九一一一六年の二・二六クー・デタの問に成立した二つの非政党内閣、斎藤実の「挙国内閣」と岡田啓介の「官僚内閣」に、協調会上層職員を含む革新官僚層は密 事に転川した当時、ばならぬならぬ」と
革新官僚と国維会 後藤や吉田において、政党政治にまつわる猟官政治への反発が、先輩新官僚の二大政党に癒着する在り方を乗り越える動機となっていた。後藤や吉川が選んだ革新派耶人と協調して行政決定権を独得するコースは、そのまま国家革新を求める国家官僚の立場から国家コーポラティズムを指向する革新官僚の立場の選択となっていた。協調会常務理事に転川した当時、吉川はすでに国維会の機関誌上で.党一派の利害の如きは、之を椴牲とする丈の覚悟を持たれ(4)ばな、bぬならぬ」と説いていたという。 (3)がある。 けないというようになってきて…」と、当時の内務省高等官が「政党の弊が侵潤」した状況について証言している例
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禰する立場をとっていた。
斎藤内閣の農林大臣に、余熱学院のメンバーであり吉田と共に国維会を設立した一人であった後藤文夫が着任したのは一九三二年五月のことである。政党政治と国家官瞭の関係を断絶する象徴的動向が、後藤の入閣であった。非政党人である後藤の入閣は、当時のジャーナリストの表現によれば、「全官僚群」に「政党人たらずとも大臣になれる」(6)という自信を与えたのであった。ここで「全官僚群」は「政党政治の重圧から救出された」のであった。五・一五クー・デタ以後は、政友会や民政党の幹部となった官僚政党人が新官恢として政府の要職に進出するのではなく、革
僚新派軍人と連携する「新たな新官僚」、すなわち革新官僚が、決定権のある行政ポストを獲得する「国維会の時代」
●91癖が来たという状況認識が「全官似群」によって共有されることになったのであった。 陰海軍軍人であり枢密顧問官であり帆鮮総督であった斎藤実が組閣した「挙国内閣」の構成を見ると、農林大臣、商
i“工大腿、外務大臣、陸噸大臣、内務省警保局長、警視総監、東京府知事、広島県知事、農林人匝秘書官、などの行政
(7)縮決定権を行使する役職が国維〈琴に属する官僚によって占められている・斎藤と同じく海軍軍人であり斎藤内閣の海州 即であった岡田啓介が斎藤内閣の「延長内閣」として組閣した「官僚内閣」においては、内務大臣、大蔵大腿、内閣書
Ⅸ刺記官長、など行政決定の要めのポストが国維会官僚によって占有され、「内閣自体の中核」部分を節部と癒着した斬
新(8)官僚、すなわち革新官僚が担う構造が実現している。斎藤内閣は軍部と既成政党とのパーフンスをとる内閣であり、 たのは、内蓉郎であった。 行政官僚テクノクラートの自覚が特に強烈であった吉田茂は、’九三二年一月、金鶏学院の安岡正篇を指導者とする国維会を組織した。吉田は、国維会において、革新官僚の在り方を、思考し判断する行政官僚テクノクラート体制、すなわち行政官僚テクノクラシーの制度的担い手となる方向へ切り替える踏み切りを見せた。国維会の中心にいたのは、内務省警保局長出身で貴族院議員の後藤であり、協調会の吉田であり、協調会職員実力派としての町田辰次「挙国内閣」であると見なされたが、岡川内閣は「反政党的色彩を濃厚」にした内閣であり、「官僚内閣」であると見(9)なされた。やがて二・二六クー・デタで標的とされた斎藤内閣と岡川内閣であったが、共に脚維会内閣であったのである。斎藤内閣は帝人事件で崩壊し、岡田内閣は二・二六クー・デタで倒壊する。ここで注目されるのは、岡川内閣倒壊より早く、圃維会が自ら解散の道を選んでいた事実経過である。国維会の解散は、岡川内閣発足迺後の一九三四年一二月のことであった。解散の指示を発したのは、ほかならぬ金鴎学院の安岡正鱒である。国維会の中心人物が続々と「時局の煽り」で「顕要の地位に就いた」のは「地下百尺の約」に反する、(川)とするのが安岡の解散脂一水理川であった。国維会が解散せざるを得なかった第一の理川として、安岡は、財政上の班
川を挙げているのであるが、国維会解散の真の理由は、「改革の衝に当たるべきものが改砿されねばならぬ問題の賀任者になったこと」にあったのではなかろうか。国維会に属する内務官僚が国維会の「地下百尺の約」に反したとする安岡の厳しい指摘は、後藤と吉川に対する直接の批判となっていたのではなかったであろうか。
行政官僚テクノクラートは、あくまで官僚としての役割と権限を自覚すべきであった。官位が政治の表層に剛り出て枢要の地位に衝き、責任主体として新たな課題の提起と政策の選択を行ない、同時に政策過程の担当者となることは許されないとする判Ⅲが、ほかならぬ川本主義の場においてなされたのであった。行政官隙テクノクラートが提起した行政官僚テクノクラシーは、u本主義としての国家主義によって拒否されたのである。伝統主義による国家機柵構築を基本理念として信奉する日本主義は、欧化拒否の潔癖な感性において、合理主義の精繊な構造を特性とする官隙ロボットが頭脳を持って独り歩きすることを、その初発点において封殺したのである。革新官僚による国家コーポラティズムは、岡田内閣への参画を通じて第一の挫折を経験した。国家機構の頂点に革新官僚が立つ行政コーポラティズムは、非常時局に直面した国家体制が主動脈を補佐する副動脈を埋め込むパイ・パ
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新官僚・革新官僚と社会派官僚
一九三二年の最初の時局対策委員会に日本労働総同盟を代表する鈴木文治の名が連ねられている。これによって、(Ⅱ)協調会は「労働なきコーポラティズム」の状態からの脱川に成功し、設立当初からの悲願を達したのであったが、こ
の時、協調会のコーポラティズムは、すでに社会統合をもとめる国家コーポラティズムとなっていたのであり、労働代表ポストに与えられた社会的難盤は脆弱なものであった。
吉川が協調会を去った後、常務理平として協調会を支えたのは内務次官の経歴を持ち、協調会設立の提案者であったとされている河原田稼吉であったが、’九三七年、林内閣の内務相に就任し協調会を去る。そこで新常務理事として登場したのが、東京市の課長、協調会の課長の経歴を持つ異色の人物、町川辰次郎であった。町田は、さっそく、(皿)吉田の企図を継承する形で、再び時局対策委員会を設置する。一九三八年二月のことであった。この一一回目の時局対 に存すべきである」災がなされていた。 革新官僚による国家コーポラティズムは、一九一一一六年の二・二六クー・デタの後、総力戦体制を補完する社会諸団体統合機柵の術築に自己の役割を限定する。協調会が試みた時局対策委員会の提起と産業報幽迎勅の提唱がその具体的な動きとなっていた。そこで、革新官僚主導の国家コーポラティズムは、第二の挫折を経験することになる。内務省社会局長から協調会常務理事に捗った吉川茂の第一声は、「労使協調…此の平凡なる言葉の狸に力強い新鮮な意義を見出し得ると忠ふ」とするものであり、社会政策の使命は「調和あり統一ある健全なる社会状態を実現するに存すべきである」と肯一言するものであった。吉田のこの新方針に従って、協調会による最初の時局対策委員会の招 み出しがなされた瞬間に、
革新官僚の非常時局対応 ス手術として認められただけの事態であったのであり、既設の国家機構を代替する方向で行政テクノクラシーへの踏み出しがなされた瞬間に、天皇親政指向からの逸脱として日本主義による拒絶の処置がとられたのであった。
一元的な旧家政雄形成体制が雌疋される過膿で、協調会は二派に分かれる。吉川茂の直系の位悩にあった町川辰次郎などは産業報國迎吻の中央に移ったが、床次竹二郎没後の協調会副会長であり徳川家達没後の協調会会長となった(Ⅱ)水野錬太郎が産報体制と併存する協調〈室の代表となって、戦時下協調会の辛うじての組織保持を担った。新宵瞭によるリベラルなコーポラティズムは、「労働なきコーポラティズム」として未成熟なままに落果した。革新官倣による行政向隙テクノクラシー樹立の試みは、内側からの強烈な規制を受けて挫折した。パイ・パス手術に自己限定した産業報図会体制であったが、そこでは革新官僚の総てであった国家コーポラティズム構想そのものが強権 筑委瓜会が、雌業報例会の提哨母体であった。協調会による二回目の時局対莱委員会が職場単位に産業報國会を組織し、その全図的述絡組織として産業報國述淵を発足させるという「労資一本化」運動を提唱したのは、一九三八年五月であった。協調会の労働コーポラティズムの腿川は、しかし、成功したわけではなかった。職場脆報と砿業州剛述捌との関係は「何等強制を仲ふものに非ず」とされたため、「組織された雌業報剛会のうち同述川に正式に川Ⅲせるものは極めて倣少に過ぎず、砿業報剛迎洲は必ずしも所期の成績を挙げたとは言い得なかったし、中央機関として充分有力な存在たるまでには至らなかった」の(川)である。協調会が企図した産業報國述盟は、政府主導の地方長官が面接脂導する府県単位の旅業報國述△呵会の盗場に、職場座州の枇断組織としての存在意義を兄失わねばならなかった。産業紺國述棚の産業報国連合会への強行転化は、国家コーポラティズムといえども、社会川休の独自の傾城を認める組織原理である限り「剛体の本義」と「官民一体」に伸る体制原理として排除されるものとなることを意味した。大日本帝国が総力戦体制として求めたのは、一国一党体制でもなければ、国家コーポラティズムでもなかったのであ
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新官僚・革新官僚と社会派官似
の発動によって消し去られた。新官僚や革新官僚が発揮した国家官僚としての社会性は、非常時体制あるいは総力戦
体制として進行した国家機構の画一化によって、最初に活用されたが、やがて排除されて終わっている。
(1)辻禰明氏や升味準之柵氏のかなり遠砥の無い質問に、後藤文夫は「私自身が新宮慨の頭目のように言われたのですが、いつから頭目になったかわからないのですが…」ととぼけて見せる。その後藤は、他方では斎藤内閣における文官分限令改正を引き合いに出しつつ次のように言明する。「とにかく、政党はそんな具合に、政党の変るたびに地方官僚などの入れ替えをするということでほんとうの公正な行政というものは出来ないというようなことがらが、あとで、新官僚というような空気が柵来て、とにかくこういう時代には官僚自身がほんとうの国家の公正な責任者として勤めなければだめだと言ったような機巡が多少出て来ておったですね」。前胸[この注(1)]『後藤文夫氏談話第一皿速記録」、二○ページ。後醗は、こうも回顧する。「若い官僚には革新の気分が強かったんですね。たごそのような政党の弊を言うだけではなくもっとある意味の全般的改地をやらなければならぬということです。大体われわれの時代頃からポッボッと社会主義の思想というものが日本に入ってきていたわけで、又民主々義の思想も高まって来ておりました。多少みんなそういうものに触れておりますから、社会主義になったというのはありませんけれども、とにかく、たくいま凶でのようなやり方ではだめなんだ、大衆の幸福を考えて行くとすれば、少なくとも社会政策の思い切ったものをやらなければならないと言ったような思想が多少ともみんなにありましてね。」同上、一一四ページ。後藤の言う新官僚とは、政党政治の弊を衝きつつ国家体制の全般的改革を求める革新官
(2)土川信男「政党内閣と産業政策一九二五~一九三二年」(1)~(3)、『国家学会雑誌」第一○七巻一一・一二号、一九九旧年一二月。第一○八巻三・四号、一九九五年四月。第一○八巻一一・一二号、一九九五年一二月。(3)内政史研究会『安井英二氏談話第一回速記録』(一九六四年二月六日)、内政史研究宜料第一川染、六ぺlジ。後藤文夫も、猟官政治を「政党の弊」として捉え、後藤や吉田の出身地である大分にその弊が強かったことを認めている。前掲[この注(1)]『後藤文夫氏談話第一回速記録』、一五ページ。(4)河島真「国維会論1国維会と新官僚l」『日本史研究」第三六○号、一九九二年八月、参照。河島氏は、国維会幹部が既成 ありましてね。」同恢のことであった。
政党を批判していたのは確かであるが政党政治の否定者ではなかったとしている。しかし、河島氏が挙げる後藤文夫や吉田茂の当時の発言は、総て腕曲な形をとった政党政治否定論であると受け取れる。何石における回顧としての後藤発言に見られる「猟官政治の弊は政党政治の弊」とする論理は、官僚政治家による政党政治否定の論理以外のなにものでもなかった。(5)吉田茂伝記刊行編輯委員会『吉田茂」一九六五年、一七六ページ。(6)升味準之輔「n本政党史論」第六巻、東京大学出版会、一九八○年、二三一ページ。(7)河島真、前掲〔三の注(4)]参照。「国維会論1国維会と新官僚l」(8)白水正之『Ⅲ本政党史昭和編」中央公論社、一九四九年、一八五ページ。(9)同右。白木の記述は、同時代ジャーナリストによる観察記録となっている。(川)前掲[三の注(5)]『吉川茂』に収められている安岡正鱒の「国維会時代」についての回顧談を参照。河井継之肋の「地下百尺に埋もれる覚悟」が国維会のモットーであった。一八五ページ。(Ⅲ)肢初の時局対簸委風会については、前掲[この注(7)]『協調会史」六六ページ以下を参照。(胆)二度目の時局対策委員会については、同右、『協調会史」八八ページ以下を参照。なお、町田辰次郎ほか、金憩学院、国維会をめぐる人々の像について詳しくは、伊藤隆弓挙国一致』内閣川政界再編成問題1M和⑬年近衛新党問題研究のためにI」「社会科学研究」第二四巻一号。一九七二年九月、を参照。(⑬)産業報國迎盟の実態については、同右、『協調会史』九五ページ以下を参照。特に一○二ページ。(Ⅱ)協調会職員であった村山壷忠氏(協調会解散後、中央労働学園大学教授・法政大学社会学部教授)は、「協調会資料の中に産業報凹会関係資料が少ないのはなぜか」との問いに、「産報から協調会に送られてくる資料は暖房の燃料として片端からストーブにくくてしまった」と答えたという(法大大原社研関係者の談による)。同じく協調会職員であったT・T氏の談によれば、常務理事の長岡保太郎と町田展次郎がおそらくは産報問題で激論しているのを目撃したという。また、T・T氏にとっては時局に迎合しない田沢義姉常務理事(一九四○年以降)の姿勢が印象的であったという。
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新官僚・革新官僚と社会派官仇
添田協調会の段階で新官僚層を蚕食した社会派官僚の存在を見ることが出来たように、吉川協調会の段階では革新官恢に接近した社会派官恢の存在を砿認することがⅢ来る。内閣調査局から企画院へと国家機櫛の中枢部に位樋付けられてゆく総合国策機関は、革新官僚によって担われていたが、そこは社会派官僚の温床ともなっていた。
内閣調在局から企凹院に至る政府直属スタッフ機関の創設に見られるのは、一九三○年代における総力戦体制構築として顕在化した行政国家の動態であった。国家政策における「政策型思考」(松下韮この取り入れと社会政策の公共政策化による社会統合の志向は、現代史の初発点である今世紀の初頭から「現代の終馬」が自覚される世紀末の今日に至るまで貫通する日本社会の基幹底流となっている。総合国策機関のみではなく、国家意志形成過程への政策型思考の導入という現代国家の土壌それ自体が社会派官僚を発生させ育成する場となっていた。一九三○年代における現代国家の行政国家化は、協調会の存在に着目するならば一九二○年代に遡って見出すことが可能であり、第二次世界大戦後の経済安定本部の人脈に注目するならば一九川○年代に連続する動向であると確認出来る。すでに戦間期の初発点から、集権国家体制において拡大する社会領域への対応として国家意志の公共政策化 (1)あった。あった。 国家総力戦体制への対応として「昭和戦中期」における「国家の行政国家化」が進行したと観測されている。行政倒家の新機櫛として一九三○年代に出現したのが「総合国策機関」の系譜であり、この系譜の代表的存在が企両院で(1)あった。国家総力戦体制は、総理大臣への権限の集中と、総理大臣に直属するスタッフ機関の創設を必要としたので 四革新官僚と社会派官僚
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が計られ、行政テクノクラート屑の肥大化がもたらされていた。行政テクノクラートの椛力中枢化は、戦時動員体制を貫通して第二次大戦後の経済危機椅理体制へ転化して行く。国家機柵の社会化に即応する形で、ある時は新向僚厨を蚕食し、ある時は革新官僚に庇謎されながら、社会派官恢は第二次大戦倣後の社会党政椛に辿り着くのであった。添川協調会において社会政簸の公共政簸化を担当したのは、内務樹仙新感覚派とでも言うべき新官恢臓であったが、その際、国家官僚の発想から提起される国家主義の惰性を社会化政策に切り替える内部工作を試みていたのは、水井亨や藤井梯などの社会派官恢であった。商工官彼によって提起される同家統制色の磯い労働組合法案と異なって、内務省と協調会によって準備された労働組合法案が、労働述動の、然発生性を承認する労働保護法となっていた
背後にあったのは、新官僚層を蚕食していた社会派官僚の姿であった。稲葉秀三と勝問田清一
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。い稲すと共MEI,};か調卒=I:二、を内閣調査局における革新官僚と社会派官恢の合流の様相を端的に示す事業として、内閣調査局が主体となった新穀
感謝祭の取り組みがあった。斬殺感謝祭の経過と柵造の中に、「戦Ⅲ期コーポラティズム」と「ネオ・コーポラティズム」が両結している姿を見ることが出来る。
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社会派官僚の社会実験
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斬殺感謝祭は農業コーポラティズムの試みであった。宮中行事としてのみなされている新嘗祭に民衆レベルにおけ
る農民主体の祭典を対応させようとしたのが新穀感謝祭であった。斬殺感謝祭が、内閣調査局の提議、農林省の協(6)力、雌業組ハロ中央会・帝川農会など農業Ⅲ体の主伽によって附始されたのは一九一一一兀年のことである。斬殺感謝祭の「生みの親」は内閣調査局長官・古田茂、「育ての親」は農林省次官・石黒忠篇、「プランナー」は内閣調査局調査胸・川Ⅲ博雄、であったとされている。そして、斬殺感謝祭の岐初の災施者は、一付規模での試みであったが、協洲会Ⅲ狼所員として埼玉県丼泉付に常駐していた勝間川清一であった。
腿林省は、新宵祭に参加する「献穀者」への処遇を考え、「木杯下賜」の予算描椴を講じていた。そのこと自体、宮中行事における農民の処遇に対する批判的対応の意味を含んでいた。一九三○年代の始め、和川などを中心とする腿林研究会で「欧州併図には、独自の収極祭、腿業祭があるのに、珊棚の囚といわれるⅡ水にないのは残念である」とする欧州出張者からの報告がなされた。ここで、農業祭的行事の立案が農林省と帝国農会によってなされることに
なったが、その案は一九一一一一一一、一九三四年度の予算要求で大蔵宵に認められなかった。
同じ頃、吉川協調会の農村自力更生迎勁に桃わっていた勝間川は、井泉付で、斬殺感謝祭を「抑邪」「物戯展示」「祇苗交換」の行事として実施していた。勝間川は新穀感謝祭の趣旨を7新宵祭〃のuに、農民と一緒に斬殺を神(7)に捧げて農作を喜び感謝する祭事を現地で手がけたわけです」と説明している。一九二一五年、農林省から内閣調査局に川向した川川は、腿休宵で不発に終わった腿業祭行耶を、内閣調査局良としての吉川に献策、吉川は勝間川の実験と和田の献策を合流させて新穀感謝祭を実現させた。二つの企図が斬殺感謝祭に価められていた。一つは、背川茂による腿業祭を「効〃の感謝、食轍の瞭重、胆氏の、党」を昂揚させる場とする企図であり、寓中行事としての新嘗祭を国民祭典化することによって民衆生活と密肴した
官製神道の在り方を確立しようとする企図であった。もう一つは、和田博雄による農業祭を「イデオロギーではなし帥に本当の意味の〃まつりごと〃という国民的なもの」にしようとする企図であり、それは新宮祭の持つ国家神道的色
彩を脱色しようとする企図であった。和川は一九三四年にドイツに渡り、ナチス政権下の収穫祭が農民的なもので
あって「ナチスのイズムに染まっていない」ことを見ていた。戦中から戦後に掛けて、新穀感謝祭は継続された。第二次大戦後、主催団体の全図農業会が解散され、農林省の仰
坐凹汀卵への関与が禁じられた。一九四七年の第一三川斬殺感謝祭は、社会党政権である片山内閣の閣僚として和旧博雄経済安定本部長官が動き、食撒対莱議員連盟を代表する日本社会党の浅州稲次郎が委員長となって開催されてい
る。一九六二年に農業祭に衣替えして新発足するまで、新穀感謝祭は計二七回開催された。
(1)古川隆久「昭和戦中期の総合国策機関」吉川弘文館、一九九二年。企画院を中心とする総力戦対応の諸国策機関については、この研究が参考になる。(2)企画院事件で逮柵された時、稲葉も勝間川も、共に、和Ⅲと同じ「高等官交友グループ」として吸われている。企画院那件については、宮地正人「企画院事件I戦時計画経済をめぐる抗争の椴牲-」『川本政治奴判史録』第一法規、一九七○年、所収、が詳しい。企画院耶件の検察担当官は、和田博雄を許容範囲内の革新官倣としてではなく、許容範Ⅶ外の「左翼的革新」官僚と見ていた。大竹啓介氏は、この例を揚げながら、和川を「革新官僚左派」であったと捉えたのであった。大竹、前掲[|の注(3)]『幻の花-和田博雄の生涯(上)」一二九ページ以下参照。(3)稲葉の経歴については、蝦名賢造「稲葉秀三I激動の日本経済とともに六○年I」西田書店、一九九二年、を参照。勝間川の経歴と主要著作の主内容については、刊行委員会編「勝問田清一著作集』第三巻、一九八七年、参照。(4)内閣調査局に「予算大綱の統制整理の権」を与える案が調査官会議で検討されていた記録がある。予算編成権を大蔵省から剥奪する案である。『Ⅲ川日記』一九三七年一月一三日。大竹啓介、前掲[一の注(3)]『幻の花(上)』、一二○ページ。
第二次世界大戦後の日本経済は、経済安定から経済復興への道を歩んだとする理解が一般的である。経済企画庁の似
赫戦後経済史の把掘がその代表例となっている。 膣しかし、この把搬では、経絲企画庁の前身である経済安定本部の位簡なり経過なり意義なりが、ほとんど抹消され 峰ることになる。第二次世界大戦後の日本経済は、まずは、経済安定本部によって強化された傾斜生箙刀式によって危
●80派機状態からの脱川が可能になったのであった。経済安定本部が雌逃した経済計画による経済復興過幌を経て、ドッ “ジ・プラン以降の自由主義経済の展開による経済安定段階へ到達することが出来たのであった。日本経済の起点部分 ”には、経済計画原理が組み込まれていたのである。
折経済安定本部の担い手となったのは、有澤広uであり側川柳雄であった。有瀞は、大学の研究室に締を赴いたまま 大蔵省の持つ予算編成権への挑戦は、やがて和田が長官となった経済安定本部において本格的に試みられた。このテーマについて、財政学専攻の故西田洋二教授と語りあったことが思い出される。(5)大竹啓介、同布『幻の花(上)』一三六ページ。松村勝次郎は協調金木川の榊勝則邪となり伺会の柵猟人となる。(6)斬殺感謝祭の経過は、大竹啓介「第一回新穀感謝祭について」、同右「幻の花(上逗五四八ページ以下による。共同通信論説委員・寺山義雄氏の「農業祭事始」『全国農業新聞』第八九四号、一九七一年二月一二日、をも参照。(7)勝間川は、新般感謝祭について、前掲、〔川の沈(3)]、伝「回想の七十余年」、「将作染』第三巻で触れていないが、吉川茂との側迎ではやや詳しく回想している。前掲、〔三の注(5)]刊行会鯏「吉川茂」一六九~一七○ページ。五、結び
I社会派官僚から安本官似へ-
で、安本長官にはならなかったが、当時、東京帝国大学の教授は、大学教授である前に、勅任官となり貴族員議員となる国家官僚であった。和田は、企画院事件で無罪となったあと、農林省へ復帰、農政局長となり農林大臣となって(1)いる。和田は、京都大学農学部教授への就任を断わって国務大臣・経済安定本部長官の役を引き受けた。有澤にも、和田にも、共通していたのは、経済計画原理の政策的展開の担い手となる経済官僚としての自負であり、国家の社会
化を推進する社会派官僚としての役割自覚であった。安本長官としての和川を支えたのは、かって内閣調査局で和旧の部下であった勝間川消一であり稲葉秀三であった。勝間川は、日本社会党川身国会議員となっていたが、兼職の形で国務大腿(安本長官)秘書官となり、和川安本
の中枢を拠った。稲蕊も、京那大学経済学部教授への就征を断わって、官房次長として安本の中順を担う一風となっている。なお、かの内務官僚革新派の伽杣であった吉川茂は、公職追放処分を受け、解除後、神社本庁那務総長の征(2)に就くが、その頃、「社会党に投派示していた」と伝えられている。第二次世界大戦後の日本経済の起点部分に経済計画原理を据える事業を成し遂げ、日本綴済を復興させる経済政策
展開に成功し、国家社会主義の力向とは別の社会主義の可能性を提示した経済安定本部の「安本官僚」の姿に、協調会上層職員の底流となっていた社会派官僚の到達点を見出すことが出来る。かって異端の国家官僚であった社会派官僚は、新設の経済計画官僚機構において、正統派の国家官僚となっていた。
(1)経済安定本部に見られる経済計画派の人脈については、拙稿「片山Ⅱ芦田内閣論」『日本近現代史41戦後改革と現代社会の形成」岩波書店、一九九四年、所収を参照。(2)吉川茂の長女であり日本母親大会の事務局長などを務めた山家和子の言。木下順「日本社会政策史の探求(上)I地方改良、修養団、協調会l」「国学院経済学」第四四巻一号、一九九五年二月、中の「吉田茂について」による。木下氏は「吉
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