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同志社と神戸女学院 : アメリカン・ボードとの関 係をめぐって

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同志社と神戸女学院 : アメリカン・ボードとの関 係をめぐって

著者 森 孝一

雑誌名 同志社談叢

号 32

ページ 163‑190

発行年 2012‑03‑01

権利 同志社大学同志社社史資料センター

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013069

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一六三同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって 同志社社史資料センター  企画展「まかれた種─神戸女学院と同志社」  公開講演会  2011年

6月 25  日クラーク記念館クラーク・チャペル

同志社と神戸女学院   ─アメリカン ・ ボードとの関係をめぐって

神戸女学院  理事長・院長

  森       孝    一

   2011年度の同志社社史資料センター企画展として、アメリカン・ボード創設200周年「神戸女学院と同志社─まかれた種」を開催いただきましたことに対して、神戸女学院を代表して、心から御礼を申し上げます。

分析の手法

  企画展の一部として、この公開講演会の機会を与えられましたので、今日は「同志社と神戸女学院─アメリカン・ボードとの関係をめぐって」と題して、お話しをさせていただきます。このテーマについての私の分析の方法として、ミクロ的研究ではなく、マクロ的研究を考えています。アメリカン・ボードと同志社との個別の関係についてのミクロ的研究は、本井康博先生はじめ、同志社の多くの研究者によってなされてきました。神戸女学院とアメリカン・ボードの関係については、史料室の佐伯裕加恵さんはじめ、とくに職員の皆さんに

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一六四同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

よって研究が進められています。

  私は自分の研究領域であるアメリカ宗教史研究の手法を用いて、アメリカン・ボードと同志社あるいは神戸女学院との関係を、アメリカ宗教史、あるいはアメリカ史の枠組みの中で分析するという、どちらかと言えば、マクロ的視点からの分析を行ってみたいと考えています。

現在の両校の違い─海外の支援団体との関係において

  神戸女学院には在米の支援組織として、KobeCollegeCorporation (KCC) があります。KCCは昨年、創立 て賄われました。 神戸から現在の西宮に移転したとき、ヴォーリズによる校舎建築のすべての費用は、KCCからの寄付によっ 90年を迎えました。アメリカン・ボードの後継団体と考えていいでしょう。1933年に、神戸女学院が   KCCは現在も神戸女学院にとって重要な組織であると位置づけられています。神戸女学院寄附行為細則の「まえがき」には、次のように記されています。

   我々は、学校法人神戸女学院が、その創立以来永年にわたって、KCC及び公益社団法人神戸女学院教育文化振興めぐみ会(同窓会)と、相互の深い信頼と協力による親密な関係を維持し、運営されてきたことを神に感謝する。我々は、今後とも三者の関係をいっそう発展させ、学院とその名においてなされるすべての業が、キリスト教に基づく建学の精神にのっとり、三者の共同の業としてますます進展し、神の栄光をあらわすものであることを願う。

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一六五同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって   神戸女学院理事会の理事の人数は 15名ですが、そのうち

3名はKCC推薦理事です。評議員互選の理事が

2

名であるのと比較すると、神戸女学院にとってのKCCの位置づけがどのようなものであるかを、ご理解いただけると思います。

  理事の数だけではありません。院長の選任、文部科学省の認可を必要とする寄附行為の改正については、理事会での決定の前に、評議員会だけでなく、KCCと「めぐみ会」(同窓会)に意見を聞かねばならないと、寄附行為細則に定められています。これに対して現在の同志社は、海外支援団体との関係はほぼ皆無であると言えるでしょう。

  なぜこのような両校の違いが出てきたのかについて、本稿の後半で考察を試みたいと思います。

アメリカン・ボードの設立とその背景

  アメリカン・ボード(AmericanBoardofCommissionersforForeignMissions)の設立は1810年のことでした。1806年にウィリアムズ・カレッジ(WilliamsCollege )の学生

言われています。これが「干し草祈祷会」とのちに呼ばれるようになりました。 小屋に駆け込んだあと、そこで祈りの会を持つことになり、将来、海外伝道を志すことを互いに語り合ったと 6人が、通り雨を逃れて干し草   彼らの何人かは1808年に創立されたアンドーヴァー神学校に進学し、1810年の会衆派教会(Con­gregationalChurch )のマサチューセッツ州の年次大会で、海外伝道に参入するための請願書を提出し、会衆派教会はこれを承認いたしました。このようにして、アメリカの会衆派教会の海外伝道組織であるアメリカン・ボードが設立されました。アメリカにおける最初の海外伝道組織です。

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一六六同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

第二次大覚醒の影響

  それではアメリカン・ボードの設立には、どのような背景があったのかを考えてみたいと思います。アメリカン・ボードが設立された1810年は、アメリカ宗教史においては「第二次大覚醒」(TheSecondGreatAwakening)のまっただ中にあったと考えられています。大覚醒とは、「その時代の全アメリカを巻き込んで起こる宗教復興運動」であり、現在までに

開けつつあったフロンティアでした。 4回の大覚醒が起こったと言われています。第二次大覚醒の舞台は、

  第二次大覚醒は1800年から1830年にかけて、フロンティアにおいて起こりますが、この第二次大覚醒を通して、その後、1960年代までのアメリカにおける「二大教派」へと成長したのは、バプテスト教会とメソディスト教会でした。それでは、アメリカン・ボードの母体となった会衆派教会は、第二次大覚醒運動の中でどのような姿勢をとったのでしょうか。

  アメリカは1800年以降、フロンティアへと拡大していきます。それ以前のアメリカは、大西洋とアパラチア山脈にはさまれた地域、すなわちニューイングランドに大半の人口が集中していました。このニューイングランドにおける中心的な教派であったのが会衆派教会とアメリカにおける英国国教会(アメリカ聖公会)でした。ニューイングランドの北半分はピューリタンが中心、南半分は聖公会が中心でした。すなわち、この二つの教派は、いわばニューイングランドにおける国教会として地位を築いていましたので、わざわざフロンティアに出ていって、まさに開拓伝道を行う必要を感じなかったのでしょう。ニューイングランドに留まった会衆派教会と聖公会は、その後、バプテスト教会やメソディスト教会のような大教派となることなく、中規模の教派として現在に至っています。会衆派教会と聖公会に見られるエリート主義的傾向が、フロンティアでの第

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一六七同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって 二次大覚醒の熱狂主義を嫌ったことも、フロンティアに出ていかなかった一つの原因であったかも知れません。  会衆派教会は教派全体としては第二次大覚醒に比較的冷ややかであったことは事実だと思います。しかし、ウィリアムズ・カレッジが位置していたような比較的内陸部においては、その地域全体に広まりつつあった第二次大覚醒の宗教的情熱の高まりの影響があったことは十分に想像できます。「干し草祈祷会」の若者たちに見られるような宗教的情熱の発露に対して、会衆派教会はフロンティアではなく海外への伝道というかたちで、それに応えようとしたのだろうと推測しています。会衆派教会の神学的対立を超えるために  会衆派教会がアメリカン・ボードを設立したことのもう一つの背景として、教派内部に当時存在していたキリスト教理解(神学)をめぐる対立が考えられます。具体的には、会衆派教会における正統主義とユニテリアンとの対立です。ユニテリアンとは伝統的な正統主義的キリスト教の神理解(三位一体 Trinity)を批判し、神は「三」(tri )ではなく「一」(uni )であると主張した人びとです。すなわち、創造主としての神のみが神なのであり、「子なる神」としてのイエスは神ではなく偉大な宗教指導者だったのであり、聖霊は存在しないという立場です。  ユニテリアン的なキリスト教理解は、キリスト教の歴史において、それまでも繰り返し現れてきましたが、アメリカにおけるユニテリアン運動の起源となったのは、あの万有引力の発見者であるニュートンであろうと考えています。  ニュートンの万有引力の発見が、人類の思想史において、どのような意義を持っているかを考えてみると、

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一六八同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

まさにそれは「近代の幕開け」と考えていい事件であったと思われます。近代の特徴の一つは「世俗化」(secularization)でありました。人間が自立し、神や宗教を必要としないで生きていくことができるし、それが正しいのだという立場です。それまでは、宇宙を創造し、宇宙を司っているもの、それは神であると考えられていました。しかしニュートンは、宇宙は宇宙自体の中に運動の法則を備えていると主張したのです。

  このような近代思想の影響を受けて成立してきたのがユニテリアンたちの運動でした。ユニテリアンたちにとっての神は、ニュートンにおける万有引力の法則と同じような、宇宙を司る原理なのであり、伝統的なキリスト教理解に見られるように、神は人間を愛したり裁いたりするような存在ではないと考えました。キリスト教が現代思想を取り入れた結果として現れてきた神学運動、それがユニテリアンの運動であったと言うことができるでしょう。

  ユニテリアンの運動はニューイングランドにおいて、とくにインテリたちの間で広く受け入れられていきました。アメリカン・ボード設立直前の1803年から1804年にかけて、ニューイングランド正統主義神学の牙城であったハーバード大学の学長と神学講座教授にユニテリアンが就任するという事態が起こりました。これはイェール大学においても同様でした。ニューイングランドの諸教会の牧師養成機関であったハーバード大学やイェール大学がユニテリアン化した結果、新たに正統主義的なピューリタンの信仰に基づいた牧師養成のための機関として設立されたのがアンドーヴァー神学校であり、それは1808年のことでした。この設立当初のアンドーヴァー神学校に「干し草祈祷会」のメンバーであったウィリアムズ・カレッジの学生たちが入学していったのです。

  当時の会衆派教会内における、正統主義とユニテリアンの間の神学的対立を超えて、会衆派教会を一致団結

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一六九同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって させるための一つの手段として、海外伝道が採用されたと考えることができるように思います。モンロー主義からの外交政策の変更  アメリカン・ ボードが設立され、海外に宣教師が派遣され、ついには日本での伝道が開始された

代であったと言えます。 アメリカの外交政策としてはモンロー主義の時代であり、積極外交ではなく、ある種の鎖国政策がとられた時 19世紀は、

  ヨーロッパにおけるナポレオン戦争は新生国家であったアメリカにも影響を与えました。ナポレオンのフランスとそれに対抗するイギリスは、どちらもアメリカを味方に付けようとアメリカに働きかけましたが、アメリカはナポレオンのフランスと同盟を結び、イギリスと戦います。戦争はフランスの敗北に終わり、その結果、1814年にはイギリス軍が首都ワシントンDCにまで攻め込んできました。この苦い結果を踏まえて、第

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代大統領のモンローは1823年、モンロー主義政策を宣言します。すなわち、アメリカは外交の範囲を西半球(南北アメリカ大陸)に限定し、ヨーロッパとヨーロッパが植民地を拡大していたアジア、アフリカにはアメリカは関与しない。その代わり、ヨーロッパ列強諸国も南北アメリカ大陸には干渉することのないようにという宣言でした。これは一種の鎖国政策と言えるでしょう。アメリカはモンロー主義という鎖国政策をとることによって、国力の増進を図りました。

  アメリカがモンロー主義を放棄し、積極外交への打って出たのは1898年のスペインとの戦争、米西戦争においてでした。米西戦争はアメリカの政治、外交、経済政策における転換点となりましたが、海外伝道にとっても、「福音の伝達から文明の伝達へ」という重大な宣教戦略の転換点となりました。

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一七〇同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

日本伝道の開始

  外交政策としては内向きの時代に、アメリカン・ボードはそれとは反対に、積極的に宣教師を派遣していきました。1812年のインドを皮切りに、ハワイ、パレスチナ(1819年)、西アフリカ(1830年)、東南アジア(1835年)、中国(1847年)、ミクロネシア(1862年)に宣教師を派遣し、1869年に日本への伝道を開始します。日本への伝道が遅れた原因は、切支丹禁制が未だ解けていなかったからであったと思います。

  アメリカン・ ボードによる日本伝道の本拠地となったのは神戸と大阪でした。その理由は、横浜を中心とした関東地方には、アメリカン・ボードよりも

・ のアメリカンボードが入り込む余地がなかったからであると推測されます。 10年早く、長老派教会による伝道がすでに開始されており、後発

神戸女学院の設立

  それでは次にアメリカン・ボードによる神戸女学院の設立の経緯についてお話いたします。同志社の設立については、ここにお集まりの皆さんは、すでによくご存じであるので省略させていただきます。

  神戸女学院の前身となる女子寄宿学校は、アメリカン・ボードの二人の女性宣教師によって設立されました。イライザ・ タルカットとジュリア・ ダッドレーです。二人は新島が帰国する一年前の1873年に日本に到着します。このイライザ・タルカットはのちに、同志社(京都看病婦学校)においても教鞭を執っています(1890~1896年)。

  タルカットの日本における宣教活動は、神戸女学院に限定されることはありませんでした。日本各地の教会

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一七一同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって における伝道にも積極的に出かけていきました。本井康博先生はタルカットの「主な仕事は学校以外の種々の領域や他の場所でなされたにもかかわらず、彼女の記憶は、最適にも神戸カレッジ(今の神戸女学院)の中に抱かれている」と指摘されています。(本井『アメリカン・ボード200年』

14頁)

  実は新島も神戸女学院の設立に一役買っています。神戸女学院の前身となった女子寄宿学校は現在の「異人館街」の一角、山本通に設立されます。このあたり一帯は土地区分でいえば「雑居地」で、外国人も住むことが許されていた地域でした。しかし、外国人による土地購入は認められていませんでしたので、新島を名義人として土地を購入したようです。これは「内陸地」であった京都に同志社を設立したときの経緯と同様であったと思われます。

  今回の講演のために、新島が名義人であったという史料を探したのですが、残念ながら見つかりませんでした。恐らく神戸女学院の未整理史料のなかに、埋もれているのだと思います。新島が代理人となって土地を購入したということは、第

4代院長であったソールの書簡(1893年

11月 2日付)のなかに記されています。

  アメリカン・ ボードによる神戸女学院設立の当初の目的は、日本における女性への伝道を担う女性伝道者の育成でありました。しかし、旧三田藩藩主であった九鬼隆義は、アメリカン・ボードの意図とは別に、旧藩の子女の教育のために、神戸女学院設立費用として800円を寄付いたします。同志社の設立に山本覚馬が大きな役割を果たしたと同様に、神戸女学院の場合は九鬼隆義の存在を忘れることはできません。

女性伝道者の養成機関から、女子高等教育機関へ

  第2代校長(「院長」と呼び名がかわったのは第

3か78ン(1ソクーラクら)中代途のンウラブの長校9

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一七二同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

─1882年)はアメリカのリベラルアーツ・カレッジの一つマウント・ ホリヨーク大学の出身で、伝道者養成よりも女性教育者の養成を目指しました。クラークソンに続く第3代院長ブラウン、第4代院長ソールは、神戸女学院をアメリカの高等教育機関と同様の「カレッジ」とすることをめざし、カリキュラムと施設の整備に努めました。(展示資料の当時のカリキュラム表参照)

神戸女学院運営の基本理念

  ここでアメリカン・ ボードがどのような基本理念の元に、神戸女学院での教育を行おうとしていたかを、第3代院長ブラウン(1883─1899年)と第4代院長ソール(1899─1915年)がアメリカン・ボード本部に送った報告書を引用することによって明らかにしてみたいと思います。

 ブラウン「経営のためには、神戸女学院を日本人の管理下に委ねることによって日本人の資金面での協力を確保できるかもしれないが、その場合は、自分たちが享受している『高度なキリスト教教育の最高の理想を実現するためのより大いなる自由』と『摩擦のない状態』を放棄しなければならない。」(1889年)

 ブラウン「神戸の女学校はボードの活動と関わりのあるすべての学校の中で唯一、完全に外国人の管理下にある。」(1892年)

 

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一七三同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって ソール「高度の訓育の大切さ(を守るためには、)神戸女学院はミッションの管理下に留まるべきだ。他の学校では日本人クリスチャンが自らその経営に当たり、財政上大いに貢献しているが。」(1893年8月9日) ソール「(今は)この学校を日本人の手に渡すときではない。女子教育は現在、あるべき状態にない。」(1893年 11月8日)

 クラーク総幹事「私は現行の計画の変更を望みません。アメリカのキリスト教理念に従って、婦女子のためのクリスチャン・カレッジの独創的な構想と目的を完成させましょう。」(1893年

12月 11日)

   第

3代院長ブラウン、第

のアメリカ文明を日本の若い女性に伝えることであったと考えていいでしょう。それは ・ 取ることのできる、当時のアメリカンボードが目指していた神戸女学院における教育の基本理念は、最先端 ・4代院長ソール、そしてアメリカンボード総幹事クラークの以上の記述から読み

養成に努力したのでした。 す。神戸女学院はこれを疑うことなく、従順に受け入れ、アメリカ文明を身につけた「自律的な近代女性」の る述)と同じ流れにあ識意達」であったと言えま(後伝じのに対する使命と信て世いた「世界に対する文明界 19世紀末のアメリカが、

  神戸女学院は上記の教育目標を、高度な女子専門教育機関となることによって達成しようとしました。政府は1899年に「文部省訓令第

12号」によって、宗教系学校の教育から宗教教育を削除することを目論みまし

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一七四同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

た。主なる標的がキリスト教主義学校であったことは明らかでした。これに従わない学校に対しては、兵役免除などの特権を剥奪する強権を発動したために、キリスト教主義男子校を中心に、厳しい学校運営を強いられることとなりました。文部省訓令第

判断の背景としては、訓令の 院は特権としての上部学校への進学資格を剥奪されることを覚悟で、この訓令に従うことを拒否します。その 12号に対する神戸女学院の対応は大変興味深いものがあります。神戸女学 ことになっていました。 のクラーク総幹事と中部婦人伝道会会長のスミス夫人の相談により、そのための資金は中部婦人伝道会が出す 学院のカレッジ化は、すでに1890年にアメリカン・ボードによって正式に決定され、アメリカン・ボード 戸女学院は1909年に、専門学校令による専門部(現在の大学)として認可されることとなります。神戸女 あったのだと思います。政府のサポートがなくても、自前で十分に高等教育を行えると考えたのでしょう。神 10年前からカレッジ・レベルの女子高等教育を実際に行ってきたことへの自信が

中部婦人伝道会(Womanʼs Board of Missions of the Interior[WBMI])

  1865年に終わった南北戦争は、女性が社会参加する機会を増やすことになったと言われています。アメリカン・ボードも例外ではなく、1868年にアメリカン・ボード内の組織として、三つの地域に婦人伝道会(WomanʼsBoardofMissions )が設立されました。(坂本、

23─ 24頁)明治

9年(1876年)から大正

援であったことが分かります。 あり、神戸女学院の経営を支えていたアメリカン・ボードからの支援は、実質的には中部婦人伝道会からの支 会国シカゴ婦人伝道社は、よりの寄贈金額」と「米に戸表」24年)までの神女(1学院の「経常費年度別9 13年

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一七五同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって   1907年には中部婦人伝道会の勧めで、神戸女学院は規約を定め、アメリカン・ボードの承認を得て理事会を設置します。その際の規程には、「院長の任免は中部婦人伝道会の同意を必要とする。院長以外の理事は中部婦人伝道会が選任する。会計はミッションの会計が兼任する。日本人理事を認める」となっており、当時、神戸女学院の経営は実質的には中部婦人伝道会によってなされていたことが分かります。Kobe College Corporation (KCC)の設立   1918年、キリスト教

す。神戸女学院は専門部を大学部と改称し、「本物の女子大学」を設立することを目指しました。 ンと中部婦人伝道会はこの申し出を拒否し、神戸女学院は独自に女子高等教育機関として発展する道を選びま ・ 戸女学院も専門部を廃止して新大学に合流するよう誘いがありましたが、アメリカンボードの日本ミッショ 6教派共同のキリスト教主義女子大学として、東京女子大学が設置されました。神   1920年には中部婦人伝道会のなかで、とくに神戸女学院を積極的に支援しようという理事たちを中心に、キャンパス移転も含めて、専ら神戸女学院を支援するために、KobeCollegeCorporation (KCC)が設立されました。

  第5代院長デフォレストの時代に、神戸女学院は神戸から現在の西宮市岡田山にキャンパスを移転します。土地の購入代金は同窓会である「めぐみ会」が募金して集めましたが、ヴォーリズ設計の校舎建設の費用はすべてKCCが募金で集めた資金によって賄われました。KCCは1929年までに、目標の

達成します。岡田山への移転は1933年に完成します。 70万ドルの募金を   神戸女学院はアメリカン・ ボードによって設立され、とくに中部婦人伝道会からの財政的支援によって運営

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一七六同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

され、それがKCCに引き継がれていきました。これまで見てきましたように、実質的には神戸女学院は外国の支援団体によって財政的に支えられ、教育の面においても実権を握っていたのは宣教師たちであったことがお分かりいただけたと思います。

同志社とアメリカン・ ボードの関係   それでは同志社の場合はどうであったのでしょうか。同志社の場合も設立当初から、アメリカン・ボードの支援なしには存在することはできませんでした。現在の今出川キャンパスの土地と重要文化財に指定されているすべての建物は、アメリカン・ボードからの財政的支援によって、同志社のものとなったのはご存じの通りです。

  ところが同志社と神戸女学院は、設立当初から、アメリカン・ボードとの関係においては対照的なあり方をしていたことが、今回の展示内容からも明らかになっています。   今回の展示に、両校の第

KobeCollege語院はのちにを英第の学校名が、とします A.B.C.F.M.SchoolofGirlʼsKobe ま学女戸神す。れいのれています。神戸女学院卒て業証書には「」と印刷さ 1回卒業式の卒業証書が展示されていますが、ここにも両校の違いがはっきりと表

MissionsforForeignすの略語です。第なわち、神戸女学院の ・A.B.C.F.M.AmericanofBoardCommissioners るあで称名式正ドのボー続した。それにくとはアメリカン KobeGirlʼsSchool1記表としてい回はで式業卒ま 1女カリメアが院学戸回神は、に書証業卒のン

・ ボードの学校であることが明記されていたのです。

  これとは対照的に、同志社の第

1回卒業生

15生証業卒のそが、たしで学名の部)学(神科」が「予員全は書

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一七七同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって にはアメリカン・ボードの文字はまったく見られません。それどころか、卒業式の壇上には、アメリカン・ボードの宣教師の席はありませんでした。宣教師ギューリックは、このようなあまりにもアメリカン・ボードを軽視した同志社のやり方に対して批判の言葉を残しています。(本井『アメリカン・ボード200年』、120頁)  本井先生の研究によれば、同志社がアメリカン・ボードから独立したのは1887年、すなわち、財政上の権限がアメリカン・ ボードから理事会に移った時点とされています。(本井『アメリカン・ ボード200年』、125頁)同志社とアメリカン・ボードの対立は、同志社の校長であり、アメリカン・ボードの宣教師でもあった新島の存在によって、かろうじて激突することが避けられていたと言えるでしょう。ところが1890年に新島が天に召されると、重しを失ったように、両者の対立は激しさを増していきました。  新島のあとを継いで校長となった第 136頁) ・財政的支援は、神学部と女子部のみに限定されたものになりました。(本井『アメリカンボード200年』、 ・ 結果、同志社病院と京都看病婦学校は廃校に追い込まれました。その後のアメリカンボードから同志社への ・対してアメリカンボードは同志社への資金援助を中止し、すべての宣教師を同志社から引き上げます。その ・2代校長小﨑弘道は、アメリカンボードからの独立を志向し、それに

熊本バンドと宣教師たちの対立

  同志社には三つの源流があったと言われています。それは新島とアメリカン・ボードと熊本バンドでした。神戸女学院と比較して、アメリカン・ボードとの関係において、同志社が独自の立場をとるようになった主な

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一七八同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

る要因は、熊本バンドの存在であったと思います。

  この点について、一般に言われているような、熊本バンドの愛国主義や国粋主義が対立の本当の争点であったのではなく、

らかにしていきたいと思います。 19世紀末のアメリカにおける、政治的、経済的、宗教的状況を反映した対立であったことを明   熊本バンドとアメリカン・ボードの宣教師たちの対立の要因は以下の二つであったと考えています。一つは宣教師たちの文明理解、もう一つは両者の神学理解、具体的には「新神学」(自由主義神学)を巡る対立でした。

社会進化思想に基づいた文明理解をめぐる対立

  キリスト教の宣教は宣教地域の人びとを文明化することを伴うという意識は、アメリカン・ボード設立直後からあったように思います。アメリカン・ボードは当初から、ネイティブ・アメリカン(NativeAmericans )への伝道に力を注いできました。注目すべきことがらは、ネイティブ・アメリカンへの伝道は国内伝道(Homemission )ではなく、海外伝道(ForeignMission )であると理解されていたという点です。ネイティブ・アメリカンの文明化と海外伝道による「未開」の人びとの文明化が、同一視されていたことの一つの証左であると思います。

  宣教と文明化が表裏一体であるという意識は、アメリカン・ボードの設立当初からあったものの、社会進化思想(SocialDarwinism )に基づいた文明化として、はっきりと意識され始めたのは、

19世紀末から

頭にかけての「世紀転換期」でありました。 20世紀初

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一七九同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって   キューバをスペインの支配から解放するという名目で始まった米西戦争(1898年)は、戦争がもう一つのスペインの植民地であったフィリピンへと拡大したことにより、アメリカの外交政策を大きく変換させることとなりました。西半球(南北アメリカ大陸)にアメリカの外交の範囲を限定するというモンロー主義を放棄し、アメリカはアジアへと外交の範囲を拡大したからです。これが今日まで続いている「世界の警察」としてのアメリカの積極外交の出発点となりました。  当時の大統領であったマッキンリーは、フィリピンへの出兵というアメリカ外交の大変化に踏み出すことを決意したときの経緯を、のちに以下のように語っています。 私は毎晩、夜中までホワイト・ハウスのなかを歩き回っていた。…私はいく晩も全能の神に光と導きを祈った。そして、ある晩おそく、次のように神の光と導きが示された。それがどのようにして示されたかは私には分からない。しかし、確かに示されたのだった。その内容は(

McKinley,The Christian Advocate,137,p.190322,JanuaryInterviewwithPresidentLXXVIII][)”(“   ]と傍線筆者]([と眠ることができた。 ことである。…こうして、私はベッドに入り、眠りについた。そして、ぐっすりがフィリピンを統治する フィリピン人を教育し、高め、文明化し、キリスト教化するために、アメリカ(4)残されている道は、 1)…[三つの選択肢を示した後]

   マッキンリー大統領のこの言葉は、「キリスト教化」と「文明化」が一つのものとして理解されていたことを示しています。これはマッキンリー大統領に限られたことではありませんでした。世紀転換期のアメリカに

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一八〇同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

おいては、ほぼすべての国民がこの意識を共有していたと考えていいと思います。(森  孝一、「序章  文明の帝国主義」、『宗教からよむ「アメリカ」』、参照)

  当時の牧師の一人、ジョサイア・ストロング(JosiahStrong )が出版した『我が祖国』(Our Country,TheBelknapPressofHarvardUniversityPress,1963[1885])は『アンクルトムの小屋』以来のベストセラーとなったと言われるほど、当時のアメリカ国民に広く読まれました。ストロングはこの書の中で、来るべき

republicanism )と、②アメリカ的キリスト教でした。値とする政治体制としての共和制( ングはアングロ・サクソン文明の内容をつぎの二つであると語っています。それは、①市民的自由を中心的価 Mission え文明を世界に伝とるこソでした。ストロンクいサ)について語ってます。それは、アングロ・命( 紀に向けて、イギリスに代わってアングロ・サクソンの「新しい中心」となったアメリカに与えられている使 20世   ストロングはアメリカ文明を世界に拡大するというアメリカの「使命」について、次のように語っています。

 アメリカは最高の自由と、もっとも純粋なキリスト教と、最高の文明の代表である。(Our Country,,p.214 )

 ギリシアがその言語と文明を地中海世界に伝えたように、アングロ・サクソンはその言語と文明を全世界に伝える。(The New Era: or The Coming Kingdom,TheBaker&TaylorCo.,1893,p.64)   ストロングにとって、海外伝道と政治的膨張政策と文明の伝達は、別々のことがらであったのではなく、ア

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一八一同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって ングロ・サクソン文明という一つの事柄の拡大に他ならなかったのでした。しかも、このようなストロングの主張を記した『我が祖国』が、ベストセラーとして広く受け入れられたということは、このような文明理解とアメリカ理解が、ストロングやマッキンリー大統領だけのものではなく、多くのアメリカ国民に共有されていたのだということを証しているように思います。  アメリカン・ボードの総幹事がアンダーソンからクラークに替わることによって、アメリカン・ボードの伝道・宣教戦略が、宣教地の人びとをキリスト教に回心させることを目的とする直接伝道(アンダーソン主義)から、教育や医療などを通してキリスト教文明を伝える宣教(クラーク路線)へと変更したと言われていますが、このようなアメリカン・ボードの宣教路線の変更は、アメリカン・ ボード内の「ミクロ的問題」ではなく、アメリカの「マクロ的変化」を反映したものであったということに注目しなければなりません。  アメリカは うな世紀転換期のアメリカの「マクロ的状況」を反映したものであったのでしょう。 を伝えるという「文明の帝国主義」が合体していきました。アメリカン・ボードの宣教戦略の変化は、このよ ・明対膨張主義と、世界にし文て的先端のアメリカ最軍事。団の乱、1900年)このような経済的・政治的 した。その結果として、当時においても強大な海外市場であった中国に進出する必要が生まれてきます(義和 ました。このような経済的要因がモンロー主義を放棄せざるを得ないという外交戦略の変化を生み出してきま 19世紀末に、工業化に伴って、初めて余剰生産物のマーケットとして海外市場が必要となってき

熊本バンドの背景としての、熊本洋学校校長L・L・ジェーンズの文明理解   文明理解を巡る熊本バンドと宣教師の対立の背後には、熊本洋学校校長L・ L・ ジェーンズの存在がありま

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一八二同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

した。ジェーンズの文明理解を分析してみますと、

・・ ヘルファー『アメリカのサムライ─LLジェーンズ大尉と日本』、法政大学出版会、1991年参照) ・・える、「突然変異的」とも言ってもいいほどの文明理解であったことに驚かされます。(フレッドGノート 19世紀末のアメリカにおける文明理解の水準をはるかに超   ジェーンズも同時代のアメリカ人と同様に、社会進化思想とアメリカ文明に対する自信を持っていたと思います。ジェーンズは次のように語っています。

 われわれの連邦政府、共和制度、自由、啓蒙、これらは何なのだろう。ただ一つの国民アメリカだけのためで十分といえるのだろうか。(ノートヘルファー、155頁)

   ノートヘルファーはジェーンズの宣教師批判について、批判の理由は宣教師たちが持っていた人種偏見であったと分析しています。しかし、私はJ・ストロングの場合と同様に、それは人種的偏見ではなく、文明に対する偏見であったと考えています。

  ジェーンズはアングロ・サクソン文明(アメリカ文明)の優越性に対する自信は持っていました。しかし日本の文明が、文明としての後進性を持っているとは信じてはいませんでした。封建制の足かせから自由になり、近代科学によって啓蒙されれば、日本人は西洋人と同様に「千年王国の栄光に到達する」能力を持っているはずだと考えていました。(ノートヘルファー、179頁)

  以下のジェーンズの横井時雄宛手紙(1888年)は、このことを明確に語っています。

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一八三同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって   彼ら[宣教師たち]が個人的に異教徒すなわち非キリスト教の民をどう見ているかは、今あまり問題ではない。しかしこの理論[社会進化思想]をしつこく邪悪にたたきこむことによって、またインド・中国

・日本の国民をそのようなものとして誤って描きだし、ヒンズー教・仏教・回教などの─あなたがたの神道や半ば宗教としての儒教もだが─宗教としての発展について誤ったばかげた描きだし方をすることによって、欧米は人類の四分の三の人びとにたいして、政治的・軍事的・外交的・社会的・宗教的関係を支配しようとしてきたのだ。これは異教の民をはずかしめるだけでなく、苦しめる。アフリカ奴隷とその売買。銃弾とラム酒によるアメリカ・インディアンたる赤色人種の絶滅。ドイツ・イギリスによって全アフリカに蔓延されたる酩酊というこれまたひどい災害。イギリスのインドへの野蛮で非人間的な征服と略奪。やはりイギリスの中国への、耐えることも描くこともできない不正。三度の戦争と口にすべからざるアヘンのわざわい。これらすべて、いやこれ以上のことには、宣教師が母国で「異教徒」について誤った説教をおこなっていることに帰すべき点が大いにある、とわたしは思う。白人キリスト教徒のうわべだけの愛情と良心は、欧米の力と貪欲による不幸な犠牲者にたいしては麻痺している。そうでないなら、どうしてこのような永続的残虐が許されてきたのであろう。」(ノートヘルファー、323頁)([  ]は筆者加筆)

   当時のアメリカの水準をはるかに越えた、このようなジェーンズの文明理解とアメリカ理解を可能にしたものは、いったい何であったのでしょうか。私はそれは、熊本洋学校で彼が実体験した、後の熊本バンドとなる学生たちの能力であったと考えています。

  『熊本班追懐録』によれば、第

1回卒業生(熊本バンド)の卒業に際して、ジェーンズは「彼らの英語の発

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一八四同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

音は、同年代のアメリカの青年と変わらない。彼らの学業の進歩は、米国陸軍士官学校と比較しても遜色ない」と語っています。(ノートヘルファー、

13頁)言い換えれば、熊本洋学校の第

当時のアメリカの一般的文明理解から彼を自由にしたのだと考えています。 進化思想とアングロ・サクソン文明至上主義、そして最高の文明の担い手であるアメリカに対する自信という、 1回卒業生の実力が、社会   不遇な晩年を経験した後、アメリカに帰国していたジェーンズを訪ねた小崎弘道と海老名弾正に、ジェーンズはつぎのように語っています。

   アメリカの文化と文明は西洋文明同様、末期に入っており、世界の精神界の指導力は移動しており、今後は日本人が世界の精神的発展の中心的役割を果たすべきだ。(ノートヘルファー、363頁)

   当時のアメリカは、衰退しつつあるのはヨーロッパの文明であり、それに代わって世界をリードするようになるのがアメリカ文明であると考えていました。来日した宣教師たちも同様であったと思います。ジェーンズの文明理解から学んだ、彼の弟子である熊本バンドの人びとにとって、善良な宣教師たちの意識下にある社会進化論的文明理解と「文明の帝国主義」は、認めがたいものであったに違いありません。

新神学(自由主義神学=Liberal Theology)をめぐる論争   同志社における熊本バンドと宣教師たちの対立点の二つ目は、両者のキリスト教理解(神学)をめぐる対立でした。それは、いわゆる「新神学」をめぐる論争でした。新神学とは神学思想史においては、自由主義神学

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一八五同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって (LiberalTheology)と呼ばれていた神学運動の日本における名称です。

  熊本バンドと宣教師たちとの神学論争の背景には、アメリカにおける自由主義神学をめぐる論争がありました。アメリカ・キリスト教史においては「ファンダメンタリスト論争」と呼ばれている論争です。この場合の「ファンダメンタリスト」は今日使われている、たとえば「イスラーム・ファンダメンタリスト」(原理主義者)のような、政治的意味合いを含んだ用語ではありません。「根本主義者」と訳すのが適当な、純粋に神学的理解についての立場です。

  ファンダメンタリスト論争はキリスト教に近代思想を取り入れるべきかどうかを巡っての論争でした。根本主義者はこれを拒否し、「近代主義者」(Modernists )はこれを受け入れるべきだと考えました。主なる論争点は、進化論と聖書批評学(TextCriticism)をめぐる論争でした。この論争は世紀転換期のアメリカ・キリスト教界を二分する論争となり、とくに北部長老派教会と北部バプテスト教会ではまさに、教派を二分する対立を生み出すこととなりました。

  同志社においては、熊本バンドは新神学の立場でした。これに対して、宣教師たちは根本主義ほど頑なな神学理解はとっていなかったものの、新神学に対しては、それを拒否する立場であったと思います。

  神戸女学院の宣教師たちにおいても、新神学に対する危惧がありました。第

ます。 4代院長ソールの言葉を引用し

 生徒たちが海老名氏の説教の影響を受けている。(1893年

11月)

 

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一八六同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

新神学は日本人が考えだしたもの。贖罪を等閑に附しており、福音的キリスト教に反対している。この学校は自分たちがキリスト教教育と考える路線を保ちたい。(1893年

11月 2日)

 新神学は日本人思想家たちの創始になり、特別に日本に合うように改められたものである。(1893年

11月 8日)

   上記のソール院長による新神学批判に反論できる者は、神戸女学院にはいませんでした。しかし同志社は違いました。1892年に、同志社は高等科を専門科に再編し、専門科の一つが神学科となります。熊本バンドの流れを組む神学科の教員は、当時のアメリカにおけるファンダメンタリスト論争を十分に理解しており、同志社大学神学科における支配的な神学的立場は新神学でした。

  同志社英学校の第

・、149頁)ボード200年』(本井『アメリカン加えています。 る」的な神を教えていてとし個厳しく批判を人は師らにおいて、外国人教を「偶像崇拝者」とまで呼び、「彼 の対立で同志社を去り、東京専門学校(後の早稲田大学)に移ります。彼は「外国人宣教師論」)(『国民之友』 1回卒業生で熊本バンドの浮田和民は、1897年、アメリカン・ボードの宣教師たちと   金森通倫は興味深い発言をしています。

   デビスの神学は保守的オルソドックス、我々の方はゼンス[ジェーンズ]やビーチャー[LymanBeecher]仕込みで、自由神学だったから、その衝突は免れない。(金森通倫『回顧録─金森通倫  自伝

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一八七同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって ─』、

 66・頁。本井『アメリカンボード200年』、172頁参照)([]筆者加筆)

  ライマン・ビーチャーは当時の自由主義神学を代表する神学者です。ビーチャーと並べて、熊本洋学校校長のジェーンズの神学的立場が自由主義神学であり、自分たち熊本バンドはその感化を受けた者であると語っているのです。

  次に小崎弘道の場合を見てみましょう。小崎は1893年、シカゴ万国博の一環として開催された「シカゴ万国宗教会議」に参加しています。(森  孝一「シカゴ万国宗教会議:1893年」参照)

  小崎はシカゴ万国宗教会議の本会議で「日本に於ける基督教の現在及将来」について語り、シカゴ万国宗教会議の一部として本会議と平行して行なわれた宣教師大会では、「日本基督信者の立場より見たる外国伝道問題」について発題しています。

  小崎は本会議の発題で、宣教師との関係について、日本の教会においては、宣教師は補助者であり、神学においても教会政治においても主導権は日本のキリスト者が握っている点を紹介しました。とくに神学については、宣教師たちは正統主義神学を教えているが、日本のキリスト者のなかでは自由主義神学(LiberalTheology )[新神学]が主流である点を指摘しています。

  小﨑は当時アメリカの長老派教会で問題となっていたアンドーヴァー神学校と長老派教会の保守派の対立(ファンダメンタリスト論争)を取り上げ、アメリカン・ボードがアンドーヴァー神学校出身者を宣教師として認めない点を批判し、「どうして、もっと優秀な宣教師を日本に送ってくれないのか」と不満を述べています。

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一八八同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって

日本独自の「ねじれ現象」

  ジェーンズと熊本バンドの文明理解と自由主義神学(新神学)理解には、アメリカにおいては見ることのできない、ある種の「ねじれ現象」が存在していました。自由主義神学はキリスト教に近代思想を取り入れようとした立場であり、その中心は聖書批評学と進化論であったことを紹介しました。自由主義神学が受け入れた進化論とは、ダーウィンの生物進化論であるとともに、スペンサーの社会進化思想でもありました。たとえば、シカゴ万国宗教会議の議長であったJ・バローズ(JohnHenryBarrows)は、会議の報告書の中で、「万国宗教会議は世界がキリストの方向に(Christward )向っていることを示した」として、宗教会議は最高の宗教であるキリスト教に向かって、世界の諸宗教が進化しつつあることを証明したと記しています。当時のアメリカ・キリスト教界における近代主義者は、進化論や聖書批評学のような近代思想とともに、社会進化論的な文明理解を持っていたのでした。

  ところが、ジェーンズと熊本バンドの場合は違いました。聖書批評学やダーウィンの生物進化論については、それを受け入れましたが、社会進化思想に基づいた文明理解については、これをきっぱりと拒否しました。

  ジェーンズの文明理解は相対主義、多元主義、普遍主義に立ったものであったと思われます。しかし、ジェーンズの感化を受けた熊本バンドは、当時のアメリカに見られたアングロ・サクソン至上主義やアメリカ文明至上主義に対して批判的であったために、ややもすると国粋主義に陥る危険性を持っていたと思われます。欧米中心主義に対抗するために、アジアを主張するのではなく、日本中心主義に陥るという危険性です。そのような意味で、神戸女学院第

方も、あながち間違いであったとは言えないかも知れません。 4代院長ソールが感知したように「新神学は日本人が考えだしたもの」という捉え

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一八九同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって まとめ  同じアメリカン・ボードによって、同じ年に設立された同志社と神戸女学院は、これまで見てきたように、アメリカン・ボードとの関係において、対照的な歩みを続けてきました。その原因をあえて単純化して述べれば、「同志社には熊本バンドが存在したが、神戸女学院にはそれにあたる存在がなかった」からと言えるでしょう。熊本バンドの背後には、熊本洋学校校長のL・L・ジェーンズの存在がありました。

  同志社における宣教師たちと熊本バンドとの対立点は、社会進化論的な文明理解と新神学でありました。この二つは、

という、マクロ的な時代状況を反映したものであったと言えるでしょう。 19世紀末のアメリカにおける宗教、思想、文明理解、世界戦略をめぐる、アメリカ社会全体の潮流

 (参考文献)

PapersoftheAmericanBoardofCommissionersforForeignMissions. LettersfromMissionsinJapan. LetterstoForeignCorrespondents.  孝一「シカゴ万国宗教会議:1893年」、『同志社アメリカ研究』第

26号、1990年。

  (再録)アメリカ宗教と多文化主義─多様性と国家統合」、油井大三郎、遠藤泰生編『多文化主義のアメリカ─揺らぐナショナルアイデンティティ』、東京大学出版会、1999年、141─164頁。  孝一『宗教からよむ「アメリカ」』、講談社選書メチエ、1996年。本井康博『アメリカンボード200年─同志社と越後における伝道と教育活動』、思文閣出版、2010年。博「同ン・き」、『アン・年』 35、同志社大学人文科学研究所、2011年。

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一九〇同志社と神戸女学院─アメリカンボードとの関係をめぐって フレッドノートヘルファー『アメリカのサムライーLジェーンズ大尉と日本』、法政大学出版会、1991年。音「ウズ・き」、『アン・年』ット№

竹中正夫『Cデフォレストの生涯─美と愛の探求』、創元社、2003年。 35、同志社大学人文科学研究所、2011年。

参照

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