著者 森永 長壹郎
雑誌名 新島研究
号 99
ページ 82‑98
発行年 2008‑02‑29
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011717
同志社第2代社長・小崎弘道と アメリカン・ボード
森 永 長壹郎
はじめに
小崎弘道が第2代同志社社長に選ばれたとき、彼は「宣教師たちからも完 全な承認を得た」(『同志社談叢』第19号p. 22、以下『談叢』とする)のに、
なぜ小崎はアメリカン・ボードと手を切らねばならなくなったのかについて 述べたい。小崎は過去の「誤解」を一掃するために「古い関係」を切って
「新しい関係」を築きたかった(『談叢』p. 59)ということである。誤解、古 い関係、新しい関係とは何かに迫りたい。
小崎は1879年卒業の熊本バンドの1人である。彼の在職期間は1890(明治 23)年から1897年までの7年間であった。初代社長の新島襄は1890年1月23 日に逝去し、その後を継いだのが小崎弘道であった。新島の死後、「1890年 4月に社員会が開かれ、当分の間、社長を選ばないことに決めた。その代わ り、学校の管理は金森を委員長とする委員会の手に委ねられ、小崎弘道が各 学校の校長を務めることになった」(『談叢』p. 22)のである。 “Thursday, May 1, 1890 Voted that we heartily welcome Mr. Kosaki to the school as princi- pal” (Doshisha Faculty Records 1879-1895. p. 251) とある。小崎が「公的に社 長の地位に就いたのは1891年6月」(『談叢』p. 22)のことであった。それま での彼は番町教会牧師であり、『基督教新聞』や『六合雑誌』を担当してい た。小崎は「1880年、・・・植村正久、田村直臣らと東京基督教青年会
(YMCA)を創設し、同年その事業の一環として『六合雑誌』を発刊し、自 ら編集を務め・・・1883年には湯浅治郎らと警醒社を起こし自ら編集に当 た」(鵜沼裕子解説『小崎弘道』p. 214)っていた。
小崎の社長在職中は「基督教教育の最も困難なる時代」で「欧化主義の反 動として国粋主義盛に起り、排外的精神は到るところ猖獗を極めたから、基 督教は勿論、英語をも排斥するものが少くなかった」(小崎弘道著『70年の 回顧』pp. 91−92、以下『70年』とする)と彼は述べている。1890年には教 育勅語が出され、井上哲次郎が『教育と宗教の衝突』を発表し、キリスト教 を攻撃したのもこの頃であった。外国留学をした日本人は「高等批評とそれ に類する思想」(J・マール・デイヴィス著、北垣宗治訳『宣教の勇者デイ ヴィスの生涯』p. 261、以下『生涯』とする)という「過激な理論にまった く鼓吹されて」(同前)帰ってきた。「これまで福音主義的キリスト教の前進 を指導してきた数名の著名な牧師たちはいまや牧会を去り、或る場合には彼 らが先頭に立って教えてきた真理とは真正面から対立した。・・・キリスト 教は外国の宗教として烙印を押され、宣教師たちはもはや反古となった真理 の抜け殻を教えているとして非難」(同前)された。
学内ではJ.D.デイヴィスがN.G.クラーク宛てに手紙を書き、同志社は新島 の死からくる危機を日本人の虚脱状態を脱しつつあるものの、その打撃から 回復していない。英語を学ぶ熱意は前ほどではないし、生徒の数は減少して いる。昨年[1891]3月31日で1,000円の赤字。今年も同じ程度の赤字になりそ うである、(J.D.Davis to N.G.Clark, 1892.2.9)と心配している。更に彼は同じ 年、1892年4月の年次報告の中で同志社の状況について次のように述べてい る。「学校は・・・道徳的な低調と責任感の退潮を示しつつある。このこと は特に日本人教師たちの多くについて言える」(『談叢』p. 26)と言う。デイ ヴィスは具体的に例を挙げる。「安息日や毎週の祈祷会に教師たちが出席し ないこと、朝の祈祷会に出席する生徒の数は半数に過ぎないこと、日曜学校 に出席する者はたった百人であること、クラス毎の祈祷会はほとんど全面的 に行なわれていないこと、生徒たちの一般的な品行も低下している」(『談叢』
p. 26)などである。更にデイヴィスは、「教員たちの毎月の祈祷会は堕落し
て『懇親会』のようなものとなり、また教員たちは飲酒にふけり、時には劇 場に行く者もある」(同前)と嘆く。このようなことは以前なら「追放処分」
(同前)になる行為であった。デイヴィスのこの報告内容は日本人と宣教師 の関係を危うくさせる結果になった。デイヴィスはその報告を書いたことで
きびしく非難された。
小崎はデイヴィスの報告をアメリカン・ボードとの最初の「破綻」(『同志 社百年史』資料編二p. 1226, 以下『百年史』とする)とみている。同じ学校 の教師として、「同僚の不都合を公にする不都合なるのみならず・・・日本 教師の道徳品行の影響なるものも、日本教師のみに限るへからさること」
(同前)と反論したが、この報告書が「日本教員及び外国教員との感情を大 ひに害した」(同前)とある。時の社長が熊本バンド出身の小崎であったこ とが注目に値いする。
小崎が社長に就任したとき、困難だと思ったことは、彼が宣教師の間に
「未だ充分なる信用を有しなかった」(『70年』p. 88)ことであった。小崎の 言葉を借りると、新島は宣教師に絶対的に信用され、新島も宣教師を信じて いたので、「何事にも一致の行動」(同前)を取ることができたが、自分の代 になると宣教師との間に「破綻」(同前)を生じたという。
Ⅰ.小崎弘道とはどのような人物であったのか。
1879年同志社英学校第1回卒業生で、熊本バンドの1人である。13歳で 家督を相続し(『70年』p. 5)、「家長たるの責任を自覚して母と共に一家の 財政を処理し、二弟を教育する重任を帯びたので20歳前後の若者の心持を 有し・・・志を立て将来自ら王道を行ひ・・・維新前後の政治を整理する の責任者たらんと決心した」(同前p. 16)とある。このことが具体的に現れ ている一例として洋学校時代のエピソードがある。たまたま友人同士で将 来のことを語ったとき、「某は内務卿、某は文部卿、某は司法、何は大蔵と」
(同前 p. 27)友人のみで内閣を組織したことが今では「滑稽」に思い出さ れると書いているが、「これを空想とは思はず必ず早晩実現するの日あるを 信じて居た」(同前)と続けている。総理大臣は誰であったのか書かれてい ないが、小崎自身がそのつもりであったろう。ここに彼の親分的性格を見 る思いがする。
彼の宗教について見てみたい。洋学校時代、有志で聖書を学ぼうとするも のがジェーンズの家に集まったが、小崎は「反対者の主なる一人」(『70年』
p. 17)であった。聖書を学んだものの中から信者がでてきて、1875年1月30 日には花岡山で集会を開き、「奉教趣意書」を読んで、神に祈り誓約を交わ したが、小崎はこの中に入ってはいない。小崎がキリスト教を研究し、信仰 を起こすようになったのは、明治8年熊本に中学校ができて、「数学と英語 を受持ち、専ら校長を助けて経営に当った」(同前p. 24)ときで、「他の同窓 生[洋学校の]に比し最も遅く信仰を起こした」(同前)と言う。信仰を起こす のが遅れたのは、「儒教主義を標榜して居た」(『70年』p. 17)ことや、「単に 文学や語学習得の便にするのは師に対しても敬礼を欠き紳士の所為ではな い」(同前p. 18)と考えたからだと言う。鵜沼裕子氏によると、彼には儒教 の素養などがあり、「仲間たちのように国家のためとか修身のためというよ うな」気持ちで信仰に入ることができなかった(『小崎弘道』p. 216)のであ る。「私は終始一貫今に至る迄何等信仰上の変動を見ないのは、全く最初信 ずるに容易でなかったお陰」(『70年』p. 36)だと小崎は言う。
Ⅱ.ジェーンズと熊本バンド
オーテス・ケーリはアメリカン・ボード主事、クラークに宛てて「キャプ テン・ジェーンズと関連した不安」(O.Cary to N.G.Clark, 1893.4.25)がある と書き送っている。キャプテン・ジェーンズの件とは何か。
熊本バンドの浮田和民は「帰郷後のヂェンス先生」と題する論文を1893
(明治26)年5月15日発行の『六合雑誌』第149号に発表した。ジェーンズは 熊本洋学校で教鞭をとり、自分の生徒を同志社に送って帰国した。アメリカ に戻ったあと、無実にもかかわらず妻に訴えられたのだ。日本に滞在中、不 貞をはたらいたと言うのである。そのために妻の父、スカダー氏と不和にな り、裁判の結果、夫婦は離婚した。
熊本バンドの卒業生はジェーンズの名誉を挽回するためにジャパン・ミッ ションにジェーンズ擁護を依頼したが、宣教師たちはスカダー家に同情しジ ェーンズには支援の手をかさなかった。一方、熊本バンドはジェーンズに対 して「忠誠心」をもち、彼は若者の「偶像」(O.Cary to N.G.Clark, 1893.4.25)
になったとケーリが手紙に書くほど熊本バンドはジェーンズのことを気遣っ
ていた。このことがいまだに尾を引いているのだとケーリは言う。
更に浮田は1894年8月15日発行の『六合雑誌』に「外国宣教師論」を発表 した。その中で彼は宣教師を「偶像教徒」と呼んだ。
ジェーンズは1893年に再来日し、京都にやってきた。同志社ではジェーン ズに講演してもらいたい学生がたくさんいた。当時、学生で談話会の会長で ある牧野虎次がジェーンズを訪ね同志社での講演を頼んだ。ジェーンズは引 き受け、題は「この世で最も偉大なもの」とした。最初の講演は1893年10月 21日に行われ、「同志社礼拝堂は学生、熊本バンドの人びと、宣教師たちで すしずめ」(ノートヘルファー著、飛鳥井雅道訳『アメリカのサムライ』p.
325、以下『サムライ』とする)になった。デイヴィスたち宣教師を悩ませ たのは、「同志社の伝統的プロテスタントとしての立場の主な教義を、大尉 が軽蔑したことだった。彼は無遠慮に『超自然主義』を批判」(『サムライ』
p. 327)したからである。キリスト教の聖書は「想像力の書であって、われ われの行動の基準たりえない」(『談叢』p. 29)と宣言した。
第2回目の講演は同年12月2日に行われた。ジェーンズは宣教師たちの信 仰について攻撃を続けた。「時代遅れの思想とは手を切ろう」(『サムライ』
p. 331)と主張し、「この世における最も偉大なことがら」は、「人類そのも
のであり・・・宣教師の見解である『想像上の創造主』が命令によって創造 したとする理論を斥けた」り、「物質、性、奇跡に関する超自然主義の見解 を非難」(『談叢』p. 30)した。
第3回目の講演は12月9日に行われた。「なかでも最悪でした」(『サムラ イ』p. 338)とデイヴィスは書いた。ジェーンズは「教会と超自然主義的な キリスト教を公然と笑いものにし、神と魂と来世の存在を否定し、宣教師た ちを公然と非難した。」(『談叢』p. 30)
講演が終了すると、「宮川が講壇に上がってジェインズを非難した。理化 学校の教師の一人[中瀬古]は立ち上がって、その講演の通訳をしたことを公 に謝罪し、ジェインズのことを、学校の基盤を破壊しようとする『下劣の野 郎』と呼んだ。」(同前)
談話会は追加講演を提案し、12月16日に予定されたが、デイヴィスは、
「教師と講演委員会の生徒に働きかけ、翌朝、懇話会は・・・講演中止を決
定」(『サムライ』p. 339)した。デイヴィスはこの講演を聞いて、ジェーン ズは、「神学教育を非難し、教会と進歩と自由の敵として批判し、宣教師を あざけり、人格神の存在を否定し、キリスト教の根本的な教義をひやかした」
(『生涯』p. 263)と述べている。
1890年末になると、「宣教師たちが努力しても、同志社は『ハーヴァード 流』に、学問的で非宗教的な組織に変化して」(『サムライ』p. 342)いった。
ジェーンズの講演は、「同志社の外国人教師と日本人教師との亀裂を広げ、
学校とアメリカン・ボードの分離を促進する結果」(本井康博著『京都のキ リスト教』p. 292)となった。
Ⅲ.アメリカン・ボードの来日に備えて
アメリカン・ボード代表団の来日に備え、ボード側と同志社が準備した議 題は次の通りである。
アメリカン・ボードは次の3つを問題とした。
第1の問題 京都の宣教師館9棟の問題
第2の問題 同志社病院と看病婦学校の管理と運営をめぐる問題 第3の問題 同志社がキリスト教の基盤を捨てたかどうかの問題
(『談叢』pp. 49−51)
同志社が準備したものは次の5つである。
「米国伝道会社代員に対する意見」(明治28年10月)
第1、同志社と同会社の関係 第2、京都にある教師館問題 第3、病院並びに看病婦学校問題 第4、教員問題
第5、米国伝道会社に対する将来の希望
(『百年史』、pp. 1213−1218)
先ず、京都にある宣教師館問題である。宣教師館はアメリカン・ボードの 資金で建てられ、最初から同志社の名義で保持されてきた。しかし宣教師た ちは同志社からの「干渉を受けることはなくそれを管理」(『談叢』p. 40)し
てきた。ところが1894年の暮に「同志社の会計の湯浅[治郎]はアメリカ人に 対し、今後彼らは京都の宣教師館で住所を変える場合には、事前に社員会の 了承を得なければならない」(同前)と告げたのである。小崎がゴードンと アルブレヒトに書いた手紙によると、「外国人教師によって使用されている 教師館と土地の同志社の所有権は、無条件に完璧なものです。今後、教師館 の住人に変更があれば事務所に報告し、前もって許可を得なければならない」
(Hiromichi Kozaki to Gordon and Albrecht 1894.12.21)と英語で書いている。
これに対してゴードンとアルブレヒトは小崎に宛てて、「宣教師館の同志社 の所有権を現実なものとして認める」ものの、このことは「住人を決める力
(power)をも含んでいる」(Albrecht and Gordon to Kozaki 1895.1.18)と述べ た。これに対し湯浅は、「京都の宣教師館は無条件で同志社に帰属しており、
社員会は必要とあれば家賃の徴収を始める」(『談叢』p. 40)と言った。アル ブレヒトとゴードンはこのような権力を行使することは「これまで存在して いた同志社とアメリカン・ボードの代表との関係に過激な(radical)変化を もたらすことを含んでおり・・・今までの関係は正式な契約(formal covenant)というより友情による協力(friendly cooperation)であった」
(Albrecht and Gordon to Kozaki 1895.1.18)とそれまでの関係を振り返ってい る。そのような思いにかられるのは、「土地はボードによって購入され、宣 教師館は代表の住まいとしてボードによって建てられたのであり、経費につ いては同志社には20年間何の迷惑もかけていない。家の修理についても同じ こと」(Albrecht and Gordon to Kozaki 1895.1.18)であったからである。同じ 手紙の中で、宣教師館は1つには、教師にとって便利なように、そして健康 のために建てられ、もう1つには、同志社を面倒なことやわずらわしいこと
(trouble and annoyance)から解放する事であった。これは初期の頃には、
外国人のために京都で家を借りることを思うと大した(great)ことだった とアルブレヒトとゴードンは主張している。
宣教師側の意見に対し同志社側の意見は、次の通りである。
宣教師たちは1892(明治25)年5月、「学校の校舎と教師館との間に区別 あるや否や」(『百年史』p.1216)と社員会に質問した。社員の答は、土地、
建物などボードの寄附金で購入し、修理したものがたくさんあるが、「現今
所用の種類如何によりて同ボールドに対し何等の条件をも有せず」(同前)
であった。
会計係の湯浅治郎はアメリカからの寄附金について、「その寄付者の意志 は、所有者がだれに属するかは、問題ではない。日本の伝道に使用されれば よい」(半田喜作編著『湯浅治郎と妻初』p. 61)と信じていた。
「同志社設立21年紀念会演説」の中で小崎は、「本社の費用は、固より 米人の寄附によるものと雖も、既に寄附したる以上は、社の取り物にして、
米人の私する所にあらざるは論を待ず」(『百年史』p. 1225)と述べ、続けて、
中国の飢饉のために日本から救助米を出したが、出した以上は、日本人がそ れについてとやかく言えないのと同じで、「我日本は未だ学問の飢饉を免れ ざるなり、故に同志社は仮令悉皆米人の寄附金に成立したるにもせよ既に社 有に帰したる以上は決て米人の左右する所にあらず」(同前)と言い、更に、
「同志社は決て米国人の同志社に非して即ち日本帝国内の同志社なる事固よ り弁明を待たずして明かなり」(同前)と結んでいる。
藤倉皓一郎教授は、これを信託の問題とする。この信託財産は「きわめて アメリカ法的な考え方」(『百年史』通史編一p. 475)であると言う。「アメ リカン・ボードが同志社に投入した資金は、ボードのものではなく、アメリ カ国内の教会員から海外伝道のため負託されたもので、日本に於けるキリス ト教主義の目的に使われるべきものである。アメリカン・ボードはその信条 と合致する同志社通則に信託して資金を送った。同志社は信託に応えて、通 則を基に戻すか、さもなくば資金を寄附者に返すべきだ」(同前pp. 474−
475)という。具体的に述べると、「その特色は、いったん財産が信託される と、寄託者(寄附者)にも、受託者(同志社)にも、受益者(キリスト教主 義教育を受ける者)にも所有権はなく、信託の目的が続くかぎり、その目的 にそって運用されなければならないというところにある。同志社は受託者と して寄附者から信託された財産を、その意思に背かぬよう運用しなければな らない。アメリカン・ボードは信託者を代表して、それを監視する義務があ る」(同前p. 475)というのである。交渉の目的は「キリスト教主義をもって 全同志社の教育基本とさせるため」(同前p. 474)であった。
小崎は「誤解」ということを言っている。誤解とは何のことか。先ず「教
師館より家賃を領収しつつあるが如くにも解せらるれど、決して然らず」
(『基督教新聞』第662号 明治29年4月10日)、同志社に関係のあるものが入 居中はこれからも「家賃を求めんとするにあらざるなり」(同前)と言う。
話し合いでは、「将来同志社の財政上以外の大変動在りし場合は家賃(最低 額の)を請求するの権利あるを認めらるべし」と問うと、委員たちは「如何 なる場合にても此等の家屋より賃金を請求するは非理なり」(同前)と主張 して話し合いは決裂した。宣教師館は宣教師のために建てられたもので、法 律上の名義は同志社に属するが、使用権はボードに属するのだから、少額と いえども家賃を要求するのは「不徳義」(同前)として話し合いはうまくい かなかった。しかし実際は、「不都合の生じ居るにあらず又た困難を生ぜん とするにもあらず、畢竟するに想像を基として一方は権利を主張し一方は不 徳を責め」(同前)るばかりであった。同志社がこのようにしてまで権利を 主張して譲らない理由は、「同志社の財産として公けに」(同前)認められた ものを今になって、「単に法律上名義上の所有に止るが如くに措置せんとす るは公徳上断じて為す能はざるが故」(同前)であると念を押す。
次に病院と看病婦学校のことが問題であった。ケーリはベリーの不在で学 校を維持することが困難を増していること、病院の受領高(receits)が減っ たので学校の経済を助ける余剰金が減ったこと、ベリー不在で外国人病人か らの贈り物も失っていること(O.Cary to N.G.Clark 1894.7.16)などを述べ、
ベリーの存在の大きさを強調している。
宣教師委員と社員会の間に根本的な意見の相違があった。1894(明治27)
年11月の常議員会の決議によると、
(1)同志社の完全な主権の下に事を継続するや否や
(2)否の場合、従来の関係を絶つ(『百年史』p. 1217)
というものであった。ベリーが日本に戻るか否かははっきりしていなかった が、帰朝のときには、これまでの資格、即ち院長として「再び来任の事を社 長より通知」(『百年史』p. 1217)してもらうが、病院並びに看病婦学校の事 業はすべて同志社が管理する意思を京都にいる宣教師に伝える(同前)と決 議した。この問題について湯浅は「学校の運営における日本人の独立主義を 強力に」(『談叢』p. 41)主張した。病院は最初から日本人とアメリカ人の委
員会で運営されていた。1894年10月の病院委員会においてベリーの地位の問 題が提出された。湯浅は「病院を同志社社員会の完全な管理下に置きたい」
(『談叢』p.41)と強く希望した。アメリカ人は「委員会の席上でその案に強 く反対した。」(同前)3ヵ月後にアメリカ人たちは「間接的に、同志社の社 員会が病院の完全な管理権を掌握することを決め、その目的で、院長として ベリーに代わるべき東京の一医師と連絡を取っている」(同前)と聞いたの だった。この措置は病院規則を犯していた。なぜなら、規則は「同志社社員 会は外国人の寄付者の日本における代表と協議の上で、病院の医療面での役 職を任命する(『談叢』p. 41)」となっていたからである。このことについて ケーリは、ベリーは院長の地位からはずされ、ある人(a gentleman)が院 長(Medical director)になるように要請されているのだが、「このことは数 週間前になされたにもかかわらず、われわれにはひと言も伝えられなかった」
(O.Cary to J.L.Burton 1895.1.31)と憤慨し、日本人はこの件では「道徳上の 権利の範囲を越えている」(同前)という。「社員会は権限を自分たちの手中 に納め、以前に承認された権利を無視する事を決めたのだ」(同前)とケー リの怒りは収まらない。日本ミッションは「1895年1月に・・・代表団を日 本に派遣するよう正式に要請」(同前)した。
小崎や他の社員が学校に「権限の集中化」(『談叢』p. 42)をと考えている とき、「宣教師たちの反感を買ったばかりでなく、彼らの同僚の間でも反乱」
(同前 p. 43)が起こった。下村は理化学校のことで社員会と対立し、辞表 を出した。理化学校は同志社から「完全に独立したものであるという保障」
があったが、社員会が理化学校も「完全に彼らの管理下に置く」(『談叢』p.
43)と言ったからである。政法学校教頭の市原も同じ問題で辞任した(同上)。 これは「熊本バンド内における始めての公然たる分裂」(同前)であった。
Ⅳ.アメリカン・ボード代表団の来日
アメリカン・ボードは1895年10月に4名の代表を日本に派遣した。
先ず、日本側は代表団は「浮田の一件に就て談判あるべし」(『百年史』p.
1228)と予期してしていたが、代表団はその件については言及せず、「同志
社の基督教主義を鮮明にすべき」(同前)であると主張した。肩透かしを食 った同志社であったが、同志社が準備していた回答は、これは「神学問題に して哲学上の論議」(『百年史』p. 1217)であり、この論文のために何か影響 が会ったわけでもないので、同志社がこの問題を「処断するの要は無し」
(同前)というものであった。
同志社の基督教主義についての回答はどうであったか。結論から言うと、
小崎は、「同志社はキリスト教の学校ではあるがミッション・スクールでは ない」と答えた。即ち、新島がニューイングランドの教育制度に「感服」し、
日本にも「同様の学校を設立」しようと、「有志に訴へて募金したるに基く もので、他のミッション・スクールとは趣きを異にして」(『70年』p. 90)い ると言うのである。故に小崎は「私共は常に同志社を以てミッション・スク ールと同視する事に反対した」(同前)と主張した。しかし同志社は1887年 まではミッション・スクールであった。同志社は1888年、「真に本社会計の 管理権を得、本社独立の基を開きたり」(『百年史』p. 1213)とある。これ以 後同志社はミッション・スクールではなくなったのである。ミッション・ス クールではないと主張する小崎と宣教師との間には「争議」(『70年』p. 91)
が絶えなかった。同志社がミッション・スクールではないとする宣教師は少 なく、同志社を「伝道機関」(同前)と考えるものが多かったからだと小崎 は書いている。
小崎によれば、同志社の独立は1896年という。同志社は創立当時、「ミッ ションより外国教師と若干と資金の援助」(『70年』p. 106)を受けていたの で、「ミッション・スクールの形式を帯びて居たけれど、29年の独立により 名実共にミッション・スクールの衣服を脱ぎ純然たる基督教主義学校となっ
た」(同前pp. 106−107)と述べている。1896年とはどのような年であった
のか。2月に予備学校と普通学校を合体して尋常中学校と同格の中学校を作 る案を提出した。これには徴兵免除の特権を得る狙いがあったが、この案が 京都府知事に出されると、知事は「キリスト教が教えられている限り同志社 が政府からの特権を得ることは不可能」(『談叢』p. 57)と断言した。4月に 教員会議を開き「新しい中学校の科目から聖書を抹消する」(同前)ことを 決めた。これで宣教師が同志社の事業に協力しないとするに十分であったが、
次のような決議もまた拍車をかけた。『談叢』からの引用である。第1、浮 田が新しい中学の教頭になった。第2、熊本人で、強力な反正統主義者であ る海老名と市原が社員に選ばれた。これで熊本バンドがほぼ完全に学校を牛 耳るようになった。第3、社員会はカネとヒトに関し、1896年の終りまでに はアメリカン・ボードから完全に分離することを決議した。第3の決定に従 い小崎は京都の宣教師に対して、「1896年が終結したのちは、毎年の支援金 と宣教師たる教員の援助を謝絶する」(『談叢』p. 58)という社員会の決議を 通知した。1896年という年はこのような年であった。
宗教の問題に戻る。代表団は同志社はキリスト教主義の学校であるが、
「基督教は如何なるもの」か、「神、キリスト、霊魂不滅に付て簡単に信仰箇 条を表明せられたい」(『70年』p. 104)と質問した。小崎が先ず難しいと思 ったのは、「宣教師と同志社員との思想が一致せず互に信任の乏しかったこ と」(同前p. 101)であった。「宣教師等は形式に重きを置き聖書を教科書に 用ゆる事を主張するに、日本の教師等は精神を主とし、形式を軽んずる所よ り」(同前)自然と意見が衝突した。「殊に不幸なる事件」(同前)としてジ ェーンズの講演会を挙げている。この出来事は小崎が社長として行動してい くとき、宣教師に対してずっと影を落としていたと思う。ジェーンズに援助 の手を貸さなかった宣教師に対する不満がこのようなところに出てきてい る。
小崎が1893年シカゴの万国宗教大会で行った講演の中で、「宣教師たちは 正統主義の教義を説教し、教授しているが、日本のクリスチャンたちは熱心 に最もリベラルな神学を学ぼうとしている」(『談叢』p. 31)述べた。小崎が 2年間の海外生活から戻ったとき、ラーネッドは、小崎が「まじめで、忠実 な福音的説教をしています」(『談叢』pp. 38−39)と報告した。しかし小崎 ですら日本人クリスチャンの宗教的な考え方に影響されないわけにはいかな かった。小崎は、「アメリカは神学でイギリスに50年遅れている。そしてア メリカではアンドーバー、ハーバード、イェール、ユニオンにおいてのみ神 学が学問的に」(『談叢』p. 39)教えられている。同志社の宗教が「イェール やアーモスト程度に宗教的であることがいけないのですか」(同前)と答え た。このことは、小崎がエール大学在学中、ユニオン神学校のブリッグス教
授の講演を聞いたことに端を発する。ブリッグスは異端問題で当時有名だっ た人だが、彼の紹介で、オベリン神学校より異端者として排斥されていたス ミス博士を同志社に招聘しては如何(『70年』p. 134)と勧められたことがあ った。このスミスは後にアーモスト大学に招かれた(同前)人物である。そ のように主張しながらも、小崎は「福音主義的で熱烈な説教」(『談叢』p. 53)
をしていた。
代表団は「社員会が理解しているキリスト教、または同志社通則にうたわ れており、学校に適用されているキリスト教を、定義してほしい」(『談叢』
p.51)と社員会に要求した。更に代表団は「同志社のキリスト教に幾分か疑 義があるので、それを解消するため、神の人格、キリストの神性と、未来の 生命に関する信仰を簡単に表明して」(同前)欲しいと言ったとき、社員た ちはこれを「拒否」(同前)し、個人としての信仰は受け入れることが出来 るけれども、「社員としてはそれを誓約できない」(同前p. 52)と述べた。
社員としては、「如何なる教派にも加担してはならないから」(同前)と言い、
社員たちの目的は「キリスト教学校を維持することであると宣言した以上は 信頼して頂くべきである」(同前)というのが理由であった。
小崎は、「同志社の主義とする基督教は欧米各国多数の基督信徒の奉ずる 史的基督教である」(『70年』p. 104)と答えることはできるが、「信仰の箇条 を明記して告白する抔は応ずる事は出来ない」(同前)と断わった。「同志社 の目的は教育であって宗教ではない」(『談叢』p. 56)と言い、新島の言葉を 引用して「若し夫れ此事を目して基督教拡張の手段なり、伝道師養成の目的 と云ふ者は、未た吾人が心事を知らざる人なり、吾人が志す所の者は、尚ほ 其上に在るなり」(同前)主張した。小崎は宣教師たちが「思想の自由を制 限しようと考えていることを非難」(同前)し、社員会は「自由の分野を拡 大し、・・・積極的な方法によって信仰の精神を活性化する」(同前)こと にあったと言う。しかし小崎は辞職について2つのことを問題にしているが、
その1つは徴兵猶予を得ることであり、もう1つは宗教の問題であった。宗 教について言えば、小崎は、「頑固に福音主義を墨守し、異説を抱く人を容 るる度量がない」(『70年』pp. 109−110)と非難されたのであった。しかし 浮田は「異説を抱く人」ではなかったか。彼は中学校の教頭であった。社員
であった海老名や市原は「強力な反正統主義者」(『談叢』p. 58)であった。
ラーネッドは「金森、浮田、横井、海老名、そして幾分低い度合いで小崎、
と言ったリベラルな運動に従事している日本のクリスチャン」(『談叢』p. 39)
と書いている。一方、小崎自身はリベラルな思想を持ちながらも、結局はリ ベラルになりきれなかった。鵜沼氏は、「彼をして・・・真に福音的なもの を選ばせ、これを信仰の核とさせるに至ったゆえんは、信仰をめぐる神学的、
哲学的な疑問を、地道な勉強を通してひとつひとつ解決しつつ、自己の信仰 的立脚地を着実に固めていく、という堅実な姿勢にあったと思われる」(『小 崎弘道』p. 216)と書いている。
Ⅴ.小崎の社長としての晩年
1896年の春の学期が終わると、「小崎社長と社員会の熊本人たちは・・・
外国人の管理から独立と自由をついに獲得し、宣教師は正統主義キリスト教 の道からはるかに逸脱してしまったと思われる学校と完全に手を切った」
(『談叢』p. 61)のだった。
小崎社長の「更迭」(『70年』p. 110)が起こったのは横井時雄が新神学を 学び帰朝し、「交際術に長ぜる」(同前)ということで、難局には適任という 声があがった。ことに財政担当の湯浅治郎が「新社長説に賛成」(同前)す ると、この流れは勢力を得た。3月末の予算案を小崎が提出すると、それは 否決され、小崎は「社長辞任の止むなきに」(同前)追い込まれた。1897年 4月15日、小崎は午前10時開会の社員会に辞表を提出した。「議事ニ入ルニ 臨ミ、小崎弘道氏辞職ノ旨ヲ申シ出ラレ、続テ辞表ヲ提出セラル。依テ午后 二時湯浅治郎宅ニ於テ評議員会ヲ開キ、重テ午后七時茶話会ニ於テ開 会。・・・審議ノ末 一 小崎氏ノ辞職ハ之ヲ承諾スル事二決ス 一 依テ 臨時社長ニ中村氏ヲ同校長ニ森田氏ヲ依頼ス」(『談叢』創刊号p. 165)とあ る。小崎は湯浅治郎について、「社員中の有力者は湯浅治郎君であるが、彼 が新社長説を主張した事は此議の容易に実行された一理由である」(『70年』
p. 111)としている。小崎と湯浅の関係は次の通りである。湯浅は安中の信 徒で、小崎たちが東京で青年会を組織したときからの仲間であった。警醒社
創立のときは会計事務を担当し、故郷では県会議長、最初の衆議院議長を務 めた人物である。小崎はこのような人に助けられることを「非常な幸福」
(同前p. 87)としていたが、最後には意見が合わず「反対側に立たれたこと は誠に遺憾」(同前)と書いている。
湯浅はなぜ小崎に反対したのか。
同志社綱領通則第一章の綱領は1888年6月に起草された。起草者は新島襄、
徳富猪一郎そして湯浅治郎(『湯浅治郎と妻初』p. 59)であった。そういうわ けで、湯浅は小崎が「中学校教育から聖書を削除したのに反対」(同前)で あった。
「通則を制定したるは明治21(1888)年9月の社員会にして不易の原則と して議定したる」(『百年史』p. 1214)とあり、内容は次の通りである。
第1条 知徳並行の主義に基き教育の業を挙くるを以て本社の目的とす 第2条 本社を同志社と称す本社の設立したる学校ハ総て同志社某校を称
し悉く本社の通則を適用す
第3条 本社は基督教を以て徳育の基本とす 第4条 京都を以て本社の位置と定む
第5条 本社の維持資本ハ如何なる場合二於ても之を支費スルを許さず 第6条 本社の綱領ハ不易の原則にして決して動かす可らず
「聖書を削除」したというのは正しいのだろうか。明治28年度同志社社員会 議案を見ると、「同志社各学校教育の主義」に「基督教ヲ以テ徳育ノ基本ト シ智徳並行ノ実ヲ挙ゲンガ為メ・・・」(『談叢』創刊号p. 132)とあり、「同 志社尋常中学校設置案」には、「倫理科ハ聖書其他便宜ナル教科書若クハ講 義ヲ以テ倫理を教授スル事」(同前、p. 133)とある。尋常中学校倫理科の第 2条には、「第三年第四年第五年ハ毎月一回ハ講述ニ由リ其他ハ聖書ヲ以テ 教授スル事」(同前、p. 134)とある。聖書を用いた授業が削減された可能性 はある。第一条には、「第一学年第二学年ハ毎週一回口授若クハ教科書ヲ以 テ倫理の大要ヲ教授スル事」(同前)とある。それまでは1年、2年でも聖 書を用いていたと思われるからである。それよりも問題にしたかったのは、
第四条の「教育勅語ノ趣旨ヲ奉シ忠孝ノ道ヲ守リ国民ノ義務ヲ完フスル事」
(同前、p. 133)ではなかったかと推察する。なぜなら「聖書を削除」すると
言う言葉は見られないからである。よって同志社はキリスト教教育と教育勅 語を容認し平行していくことになったのである。
小崎が最後まで恐れていたことは、「独立を為した責任上宣教師等に対し 又世間に対し私の辞任の為め同志社の基督教主義の曖昧に附し去られん事」
(『70年』p. 111)であった。小崎の心配は的中した。新社長横井時雄は就任 後1年もしないうちに基督教主義教育の綱領をずし、宣教師や世の人々の抱 いていた不安を現実にした。(『70年』pp. 111−112)
おわりに
アメリカン・ボードの政策と小崎の思いは合致しなかったが、彼は宣教師 が学校に協力してくれることを望んでいた。彼は「教員と資金の両方を緊急 に必要としている」(『談叢』p. 66)と訴えた。社員会が1896年以降、学校は
「資金と教員のこれ以上の支援を謝絶する」(同前)と言ったとき、小崎は
「宣教師たちに引き続きいつまでもいてほしい」(同前)という思いを伝えた。
小崎が伝えたかったことは、過去の誤解を一掃するために「古い関係」を切 って「新しい関係」を築きたかった(同前)ということである。それはミッ ション・スクールではなく、管理権も含め「同志社は独立した日本人の学校 であることを完全に認め」(同前)させようという強い思いであった。
しかし、「徴兵免除の特権を得られなかったこと、有望な生徒を学校にひ きつけられなかったこと、財政問題を解決できなかったこと」(同前p. 68)
で小崎は社長を辞任した。
社会的背景、ジェーンズと熊本バンドそして小崎の親分的性格が大いに反 映しているというのが私の結論である。
参考資料
ポール・ボラ−著、北垣宗治訳『アメリカンボードと同社社 1875−1900』
(東京:新教出版社、2007)
J・マール・デイヴィス著、北垣宗治訳『宣教の勇者デイヴィスの生涯』(京都:学校法人
同志社、2006)
土肥昭夫著『歴史の証言』(東京:教文館:2004)
半田喜作編著『湯浅治郎と妻初』(群馬県高崎市:あさを社、平成6年)
川島武宜著『日本人の法意識』(東京:岩波書店、1967)
小崎弘道著『七十年の回顧』(東京:警醒社書店、昭和二年)
丸山真男著『忠誠と反逆』(東京:筑摩書房、1992)
森岡清美著『明治キリスト教会形成の社会史』、東京:東京大学出版会、2005 本井康博著『京都のキリスト教』(京都:同朋舎、1998)
フレッド・G・ノートヘルファー著、飛鳥井雅道訳『アメリカのサムライ』(東京:法政大 学出版局、1991)
北垣宗治監修 Doshisha Faculty Records 1879-1895(京都:同志社社史資料センタ−、
2004)
大庭健、鷲田清一編『所有のエチカ』(京都:ナカニシヤ出版、2000)
上野直蔵編纂『同志社百年史』通史編一(京都:学校法人同志社、1979)
上野直蔵編纂『同志社百年史』資料編二(京都:学校法人同志社、1979)
鵜沼裕子解説『小崎弘道』日本の説教II (東京:日本基督教団出版局 2006)
『同志社談叢』創刊号(京都:同志社社史資料編集所、1981)
『同志社談叢』第十九号(京都:同志社社史資料室、1999)
『基督教新聞』第六百六十二号(東京:警醒社、明治二十九年)
『六合雑誌』第百四十九号(東京:警醒社、明治二六年)
『六合雑誌』第百六拾四号(東京:警醒社、明治二七年)
Letters from O. Cary to J.L.Burton Letters from O. Cary to N.G.Clark Letters from J.D.Davis to N.G.Clark
Letters from Gordon and Albrecht to Hiromichi Kozaki Letters from Hiromichi Kozaki to Gordon and Albrecht