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108 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996) 6) 背 景 を解 明 す る手 が か りに な る と思 わ れ る 実 証 的 に解 明 した しか し, 集 落 形 成 に つ い て の研 究 で しば しば 集 落 を構 成 す る同 族 の 構 成 展 開 につ い て詳 言

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人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996)

戦国期越後 にお ける集落形成

-北

越後色部氏領における牧目村を事例

として-田

I は じ め に II 中 世 「色 部 」 の 景 観 (1) 色 部 氏居 館所 在 地 と して の 「色 部 」 (2)「 色 部 」 か ら 「牧 目」 へ III 寛 文11年 検 地 帳 に み る集 落 と耕 地 (1) 耕 地 の存 在 形 態 (2) 検 地 帳 名 請 人 とマ キ の総 本 家 (3) 有 力 百 姓 の所 有 耕 地 IV 集 落 の形 成 とそ の要 因 (1) マ キ の展 開 と耕 地 開発 (2) 土 着 伝 承 と集 落 の形 成 V お わ り に キ ー ワー ド: 越 後, 戦 国 時代, 同族 組 織, 耕 地 開発, 集 落 I は じ め に 本 研 究 は, 越 後 国岩 船 郡 に位 置 す る牧 目村 を 事 例 に, 戦 国期 に お け る集 落形 成 の一 事 例 を提 示 し, そ の特 徴 を検 討 す る こ と を 目的 とす る。 戦 国 期 にお け る集 落 形 成 に 関す る代 表 的 な研 究 に, 畿 内 や そ の近 国 にお け る惣 村 を対 象 と し た研 究 が あ る。吉 田敏 弘 は近 江 国得 珍 保 今 堀 郷 を事例 に, 15世 紀 以 降 「今 堀 惣 」 の主 導 の下 に 水 田 ・畠 地 ・屋 敷 の 明瞭 な土 地 利 用 分 化 が 進 行 1) し, 集村 景観 が形 成 さ れ た こ とを 明 らか に した。 吉 田 の研 究 は, 集 落 形 態 の み な らず, 耕 地 や 集 落 内部 の社 会 構 成 を視 野 に入 れ, 生 活 空 間 の全 体 的 な把 握 を通 して, 集 落 形 態 の変 化 の プ ロセ 2) ス の解 明 を意 図 した もので あ っ た。 ま た, 対 象 とす る 時代 の史 料 のみ を利 用 す る傾 向 に あ った 従 来 の歴 史 学 に対 して も, 近 世 史 料 の 活用 や, 集 落 の形 成 や 耕 地 形 態 の変 化 の実 証 とい う点 で 3) 多 大 な貢 献 を もた ら した。 畿 内 や そ の 周 辺 地 域 に対 して, 戦 国期 の東 国 にお け る集 落 形 成 につ い て の研 究 は比較 的遅 れ て い た 。 しか し, 近 年 に は, 発 掘調 査 の進 展 と と もに, 東 国 の 集 落 を対 象 と した研 究 が盛 ん に な りつ つ あ る。 そ の 一 例 が, 越 後 国 に お け る戦 国 期 の 集 落 形 成 で あ る。 矢 田 俊 文 は, 岩 船 郡 を 対 象 に, 15世 紀 末 に中 世 前期 の 集 落 の廃 絶 ・移 4) 動 が あ った こ と を明 らか に した 。 また, 坂 井 秀 弥 は, 頸 城 郡 の保 倉 川 流域 を事 例 に, 中世 の集 落 ・耕 地 が再 編成 され, 集村 的景 観 を もつ 集 落 5) が16世 紀 に形 成 され た こ と を明 らか に した。 こ れ らの研 究 は, い ず れ も考 古 学 の成 果 を基 に, 絵 図 や 地籍 図 を活 用 して, 集 落 の移 動 ・再 編 を 1)吉 田 敏 弘 「「惣 村 」 の展 開 と土 地 利 用-得 珍 保 今 堀 郷 の歴 史 地理 学 的 モ ノ グ ラ フ と して-」, 史 林61-1, 1978, 122-149頁 。 2) 対 象 とす る 時代 は異 な る もの の, 吉 田 の研 究 と共 通 す る 目的 ・方 法 を もつ 研 究 と して, 畿 内 の 村 落 にお ける 集 村化 が, 土 地利 用 ・水 利 条 件 の変 化 と と も に進 行 した こ と を 明 らか に した 金 田 章 裕 の研 究 が あ る。 金 田 章 裕 『微 地 形 と中世 村 落 』, 吉 川 弘文 館, 1993, 256頁 。 3) 仲 村 研 『中世 惣 村 史 の研 究-近 江 国 得 珍 保 今 堀 郷-』, 法 政 大 学 出版 局, 1984, 117頁 。 4) 矢 田俊 文 「中世 越 後 にお け る集 落 移 動 に関 す る一 考 察 」, 新 潟 史 学26, 1991, 26-40頁 。 5) 坂 井 秀称 「越 後 の 道 ・町 ・村-中 世 か ら近 世 へ-」(網 野 善 彦 ・石 井 進 編 『中世 の 風 景 を読 む4-日 本 海 交 通 の 展 開 -』, 新 人 物往 来社, 1995) 55-100頁。

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-1-108 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996) 6) 実 証 的 に解 明 した 。 しか し, 集 落 形 成 に つ い て の研 究 で しば しば 言 及 され る集 村 化現 象 につ い て み る と, 各 時代 や地 域 に お け る類似 した現 象 の 指 摘 に止 ま り, 個 々 の集 落 の 特 徴 や, そ の特 徴 を生 み 出 した要 因 に言 及 され る こ と は なか った 。 そ の 原 因 と し て, 既 往 の研 究 が, 集 落 や耕 地 の 変 化 に対 して は詳 細 な検 討 が な され る一 方 で, 景 観 変 化 の担 い手 で あ る集 落 の 構 成 員 を研 究 の 対 象 と して こ な か っ た こ とが あ げ られ る。 集 落 を構 成 す る同 族 の あ り方 や 各 々 の 同 族 の 展 開 は, 形 態 の み で は明 らか に され な い集 落 の特 徴 を語 る もの で あ り, 集 落 の形 成 過 程 や 集 落 形 成 を促 す 社 会 的 な 背 景 を解 明 す る手 が か りに な る と思 わ れ る。 集 落 を構 成 す る同 族 の 構 成 ・展 開 につ い て詳 細 な検 討 を行 な っ た研 究 と して, 岡村 光 展 の研 7) 究 が あ げ られ る。 岡村 は, 村 落 内 部 の個 々 の家 系 を 遡 及 し, 同族 関 係 (マ キ) を復 原 す る と と もに, 集 居 ・散 居 とい っ た集 落 形 態 の差 異 と同 族 的 紐 帯 の強 弱 との関 連 を示 唆 した。 本研 究 で も, 集 落 内部 の 同族 の 構 成 ・展 開 を検討 す る こ とに よ り, 集 落 の特 徴 を提 示 し, 集 落 の形 成 過 程 を解 明す る手 が か りとす る。 本 研 究 で対 象 とす る牧 目村 は, 現 在 の神 林 村 大 字 牧 目に あ た る。 神 林 村 は, 中央 部 の 水 田地 帯 を挟 ん で, 西 部 の 日本 海 沿 い は砂 丘 地 帯 で あ 第1図 研 究 対 象 地 域 (国 土 地 理 院発 行5万 分 の1地 形 図 「村 上 」「中条 」 を使 用) 6) 矢 田 論 文 に お い て集 落移 動 の根 拠 と な っ て い た酒 町 の場 所 に つ い て は, 近 年 異 論 が 提 示 され て い る。 高橋 一 樹 「小 泉 荘 加 納 の 下 地 中 分 につ いて 」, 新 潟 史 学33, 1994, 34頁 。 同様 に, 矢 田 が 酒 町 の痕 跡 と した 蔵 の 町 も, 今 宿 (神 林 村 今 宿) に 接 す る 有 明最 西 端 に存 在 す る地 名 で あ り, 酒 町 と は異 な る場 所 で あ る。 矢 田 の 着 眼 を生 か す に は, さ らに詳 細 な現 地 調 査 が 必 要 で あ る と思 わ れ る。 7) 岡 村 光 展 「近 世 越 後 にお け る 同族 集 団 マ キ の 復 元 的 研 究」, 人文 地 理34-4, 1982, 56-74頁 。 同 「胆 沢 扇 状 地 にお け る近 世 の 散居 集 落-近 世 初 頭 に お け る村 落 構 成 と家 系 の 復 元 的 研 究 を中 心 に-」, 人文 地 理43-4, 1991, 1-24頁 。

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戦 国 期 越 後 に お け る集 落形 成 (田 中) 109 り, 東 部 は 山地 と な って い る。 大 字 牧 目は, 水 田地 帯 の ほ ぼ 中央 部 に位 置 して い る (第1図)。 牧 目の集 落 は, 北 に隣 接 して 九 日市 の 集 落 が あ り, 景 観 的 に は牧 目 と九 日市 とで 一 つ の 集 落 を 形 成 して い る。 しか し, 近 世 に は牧 目村 は独 立 した藩 政 村 を形 成 して お り, 九 日市 も同 様 で あ 8) った。 神 林 村 は, 中世 にお け る小 泉 庄 加 納 方 に ほぼ 相 当す る。 小 泉 庄 加 納 方 には, 鎌倉 時 代 に地 頭 と して色 部 氏 が 入 部 し, 戦 国 末期 まで在 地 領 主 と して存 続 した 。 色 部 氏 に 関 して は, 多 数 の 中 世 史 料 が 現 存 し, な か で も,『 色 部 年 中行 事 』 は, 戦 国 期 にお け る対 象地 域 の生 産 や社 会 の具 体 的 な様相 を追 求 して い く うえ で好 適 な 史料 で あ る。 佐 藤博 信 や藤 木 久志 は, 色 部 氏 の 年 中行 事 に対 す る百 姓衆 の役 割 の増 大 か ら, 戦 国 末期 にお け る色 部氏 の支 配 形 態 の変 化 を示 唆 して い 9) る。 しか し, 戦 国末 期 に お け る色 部 氏 領 の百 姓 や, そ の基 盤 で あ る村 落 の具 体 像 を提 示 した研 究 は乏 しい 。 そ の意 味 で も, 本 研 究 で色 部 氏 領 内 に位 置 す る集 落 を と りあ げ る意 義 が あ る と思 わ れ る 。 さ らに, 牧 目村 は, 第II章 以 下 で 詳 述 す る よ うに, 戦 国期 に形 成 され た と推 定 され る 村 で あ り, 周 辺 村 落 と比 較 して 特 徴 あ る集 落 構 成 を有 して い た。 こ の点 で も, 本 研 究 で 検 討 す る好 適 な事 例 で あ る と考 え る。 以 下, 第II章 で は, 中世 にお け る宗 教 施 設 や 水 田 の あ り方 を復 原 し, 対 象 地 域 にお け る中 世 の 景観 の特 徴 を考 察 す る と と もに, 文 書 ・絵 図 史料 を用 い て戦 国期 に お け る 景観 の変 化 を指 摘 す る 。 第III章で は, 牧 目村 に残 る最 古 の土 地 台 10) 帳 で あ る寛 文11年 (1671) の 検 地 帳 を用 い て, 当 時 の牧 目村 の有 力 百 姓 の所 有 耕 地 の存 在 形 態 を, 牧 目村 の水 田 の水 が か りに照 ら しつ つ 検 討 す る 。 第IV章 で は, マ キ の展 開 や, 各 家 に残 る 伝 承 を手 が か りに, 集 落 の形 成 過 程 を考 察 す る。 II 中 世 「色 部 」 の 景 観 (1)色 部 氏 居 館 所 在 地 と して の 「色 部 」 牧 目村 内 の小 色 部 集 落 の一 角 に は 「小 色 部屋 敷 」 と呼 ば れ, 色 部 氏 が 居 住 した とい う伝承 が残 る 11) 場 所 が あ る。 小 色 部 は かつ て は 「古 色 部」 と も 12) 呼 ば れ てお り, 色 部 惣 領 家 の在 所 で あ った 「色 部 」 が, 色 部 氏 が 在 所 を離 れ た こ と に よ り 「古 色 部 」 と呼 称 され る よ う に な った と考 え られ て 13) い る。 中世 にお け る 「色 部」 の 景 観 的 な特 徴 につ い て 検 討 す る材 料 と して 第2図 を作 成 した。 こ れ をみ る と, 小 色 部 周 辺 に宗教 施 設 や そ の存 在 を 表 わす 地 名 が 集 中 して い る こ とが わ か る 。 「小 色部 屋 敷」 の東 方 に は 「山 王」 とい う地 名 が あ り, か つ て 山 王社 が存 在 して い た こ とを示 して い る。 こ の 山 王 社 は,『 色 部 年 中行 事 』 に あ る 「こ い ろ へ の さ ん わ う」 に該 当 す る もの で あ ろ 14) う。 また, 隣接 す る字 「十二 林 」 に は, 十 二神 社 ・地 主 堂 ・仁 王 堂 が あ った 。牧 目集 落 にあ る 8) 第1図 に記 載 され て い る 小 色 部 は牧 目村 内 の 一 集 落 で あ る 。 9) 藤 木 久 志 『戦 国 の 作 法-村 の 紛 争 解 決-』, 平 凡 社, 1987, 229頁 。 佐 藤 博 信 「「色 部 年 中行 事 」 に つ い て」, 日本 歴 史 288, 1972, 82頁 。 10) 神 林 村 牧 目 ・河 内家 文 書,「 牧 目村 惣 本 田畑 検 地 帳 写」, 明 治4年 (1871)。 現 在 残 っ て い る寛 文11年 検 地 帳 は 明 治4年 (1871) の写 で あ る 。 寛 文11年 に お け る検 地 実 施 の事 実 は 牧 目村 明 細 帳 に よ り確 認 さ れ る (神 林 村 史 編 纂 委 員 会編 『神 林 村 誌 資 料 編 下 』, 神 林 村, 1983, 164-168頁,「 越 後 国 岩 船 郡 牧 目村 指 出 明細 帳」, 文 政13年 (1830))。 ま た, 河 内 家文 書 に は 他 に元 禄14年 (1701) の 「本 田畑 高 反 別 壱 人立 ニ改 下 帳 」 とい う名 寄 帳 も あ り, そ こ に記 載 され る人物 と検 地 帳 の 名 請 人 とが 一 致 して い た り, 一致 して い な く と も屋 敷 面 積 が 同一 で あ る事 例 が 多 々 み られ る こ とか ら, この 検 地 帳写 も信 憑 性 に足 る もの で あ る と思 わ れ る 。 11) 小色 部 集 落 にお け る聞 き取 りに よ る 。 な お,「 小 色 部 屋 敷 」 は, 近 世 に お け る 田 中 郷 左 衛 門 の屋 敷 地 に ほ ぼ相 当 す る。 田 中郷 左 衛 門 の屋 敷 地 につ い て は第7図 参 照 。 12) 新 潟 県 『新 潟 県 史 資 料 編4』, 1983, 543頁,「 古色 部 よ り立 候 段 銭 之 日記 」, 大 永5年 (1525)。 13) 前 掲4), 矢 田 論 文, な らび に, 坂 井 秀 称 「絵 図 にみ る城 館 と 町」(石 井 進 ・萩 原 三 雄 編 『中世 の城 と考古 学 』, 新 人 物 往 来 社, 1991) 143-169頁 。 14) 前 掲12), 756頁 。

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-3-110 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996) 福 厳 寺 (第2図 参照) の境 内 に は, 元 応 (1319∼ 21) の 紀 年 を もつ板 碑 を含 め て4基 の 板碑 が 現 存 す るが, これ ら は 「十 二 林」 にあ った もの を 明治 時 代 以 降 に移 した もの で あ る 。 さ らに, 字 「川 端」 に は 「阿 弥 陀 屋 敷 」 とい う地 名 が あ り, か つ て そ こに 阿弥 陀堂 が 存 在 して い た こ とが わ 15) か る。 また, 現 在 は九 日市 の 集 落 北 端 に位 置 す る 薬 師堂 も, か つ て は 「小 色 部 屋 敷」 の北 隣 り に あ っ た と伝 え られ て い る。 小 色 部 周 辺 にお け る宗教 施 設 に 関 す る も う一 つ の 特 徴 は, こ こに あ げ た宗 教 施 設 の全 てが, 現在 の 牧 目 ・小 色 部 で は祀 られ て い ない こ とで あ る 。 近 世初 期 に は, 既 に 山王 社 ・阿弥 陀 堂 は 地名 と して残 る の みで あ り, 建 築 物 な ど は存 在 16) しな か っ た。 薬 師 堂 も近 世 に は現 在 地 に移 動 し 17) てい た。 その 他 の 宗教 施 設 も, 現在 で は そ の存 在 す ら忘 れ 去 られ て い る状 況 で あ る。 こ う した 状 況 は, これ らの 宗教 施 設 が, 小 色 部 に居住 し た地 頭 色 部 氏 と関係 の深 い もの で あ り, 色 部 氏 の居 住 地 で な くな る と と もに, 徐 々 にそ の存 在 18) 意 義 を喪 失 した こ とに よ る もの と思 わ れ る。 以 上 の 考 察 よ り, 中世 の 地 頭 居 館 を中 心 と した 第2図 牧 目村 に お け る 水 田 の 地 字 と 宗 教 施 設 (村 上 地 方 法 務 局 「明 治28年 大 字 牧 目全 図 」, 河 内家 文 書 「明 治4年 牧 目村 耕 地 絵 図 」, 増 田 家 文書 「明治 15年 地 価 帳 写 」, 平 山家 文 書 「大 正期 水 路 図」 お よ び 聞 き取 りに よ り作 成 。) (注)・ 平 山家 文書 「大 正期 水 路 図」 の等 高線 が 尺単 位 で あ った た め, 本 図 も そ の ま ま尺 単 位 で 記 載 し た 。10尺 は約3m, 15尺 は 約4.5mで あ る 。 ・薬 師 堂 は 移 転 前 の 位 置 を推 定 で 示 した 。 ・カ ッ コ内 の 地 字 は 「明 治28年 大 字 牧 目全 図」 に お け る小 字 で あ る。 □集 落-道 路-水 路 ……村 境 ……小字境-等 高線(単位:尺) (1)仁王堂(2)地主堂(3)十二神社(4)山王社(5)阿弥陀堂(6)薬師堂 (A)密蔵院(B)若宮八幡社(C)福厳寺(D)馬頭観音堂(E)虚空蔵堂(F)神明社 15) 神 林 村 牧 目 ・河 内 家 文 書,「 牧 目村 耕 地 麁絵 図 」, 明 治4年 (1871)。 16) 前 掲10)。 寛 文11年 検 地 帳 にお い て 「阿 弥 陀 屋 敷 」 は既 に畑 地 化 され て い る。 17) 前 掲10), 184頁,「 御 巡 見 御 廻 りニ 付 御 案 内 」, 延 享3年 (1764) に は, 九 日市 村 の 宗 教 施 設 が 列 挙 され て い る が, そ こ に 「一 真 言宗 岩 船 最 明寺 末 寺 塔 光 寺 」,「一 石 地 蔵 一 体 但 シ塔 光 寺 地 内 ニ 有 之 候 」 とい う記 載 が あ る。 こ の塔 光 寺 が 薬 師 堂 の こ とで あ り, 現 在 も薬 師 堂 の 前 に石 地 蔵 が 存 在 す る。 また, 塔 光 寺 は 白 山 神 社 の 別 当 寺 で あ る が, 白 山神 社 は延 享3年 の時 点 で は既 に現 在 地 に存 在 して い る。 これ ら よ り, 延 享3年 の 時 点 に薬 師堂 も現 在地 に存 在 した もの と考 え ら れ る。 18) 戦 国 期 にお け る 色 部 氏 の 居 館 は, 要 害 の 存 在 した 平 林城 の 山 麓 の 「殿 屋 敷 」 に営 ま れ た。 色 部 要 害 (平 林 城) の 史 料 上 の 初 見 が永 正5年 (1508) で あ る (前 掲12), 211-212頁,「 上 杉 定 実 書 状 」) こ とか らみ て も, 色部 氏 の 居館 が平 林 に 定 ま った の も, 水正5年 をそ う さ か の ぼ る もの で は な い で あ ろ う。

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戦 国 期越 後 に お け る集 落形 成 (田 中) 111 「色 部 」 と近 世 の 牧 目村 と は不 連 続 で あ った と 考 え られ る。 牧 目の集 落 周 辺 は, 現 在 で は土 地 改 良 に よ り 平 坦 地 に しか み え ない が, 第2図 に よ り牧 目村 の微 地 形 をみ る と, 集 落 の 東 方 か ら南 方 にか け て尾 根 状 の地 形 が, そ の 北 と南 の 両 脇 に は谷 状 の地 形 が 検 出 され る。 尾根 上 に は, 先 に述べ た 宗 教 施 設 が 集 中 して お り, 谷 状 の 地 形 の 部分 に は,「 千 弐 百 苅 」「四 百苅 」 とい った苅 高 に 由 来 した地 名 が 帯状 に存 在 して い る 。苅 高 に よる土 地 の 生 産 高 表示 は石 高 表 示 以 前 か ら行 な わ れ て い た もの で あ る こ とか ら も, 苅 高 地 名 の存 在 す る谷 地状 の部 分 が 中世 「色 部 」 以 来 の水 田 で あ 19) った と考 え られ る。 (2)「 色 部 」 か ら 「牧 目」 へ 室 町時 代 にお け る 「色 部 」 の住 人 や 耕 地 を示 す 史 料 に, 永 正 6年 (1509) 作 成 の 「耕 雲 寺 領 納 所 方 田帳」(以 20) 下 「寺領 帳」 と略す) が あ る。 寺 領 帳 に記 載 され る作 人 の うち, 在 所 が 「小 色 部 」「色 部 」 で あ 21) る者 た ち を第1表 に示 した 。 第1表 に よ る と,「 三 口」 に 源右 衛 門 と彦 八 の屋 敷 が あ る こ とが わ か る。 「三 口」 は, 近 世 の牧 目村 の範 囲 内 に は存 在 せ ず, 九 日市村 地 内 22) の地 名 で あ る。 ま た, 寺 領 帳 にお い て, そ の他 の年 貢 負 担 者 の 在 所 は,「 有 明」「桃 川」「田 中」 「小 口川 」「宿 田」「牛 屋 」 な ど牧 目の周 辺 に存 在 す る近 世 の 村 名 とお お むね 一 致 す る。一 方, 年 貢 負 担 者 の在 所 に 「牧 目」「九 日市」 の 記 載 はみ られ な い 。 以 上 よ り, 永 正6年 段 階 に は, 近 世 の 牧 目村 ・九 日市村 一 帯 が 「色 部 」 と呼 ば れ て い た と考 え られ る。 次 に, 第1表 に あ げ た 寺領 の場 所 につ い て 検 第1表 色 部 ・小 色 部 を在所 とす る耕 雲 寺 寺 領 年 貢 負 担 者 (1509年) (「耕 雲 寺 寺 領納 方 田 帳」 よ り作 成) 19) 中 世 の 色 部 条 で は, 上 新 保, 中新 保, 福 屋 新 保 とい う地 域 が 所 領 相 続 の対 象 と して 登 場 し, 在 家 が 存 在 した こ とが 史料 よ り知 れ る (上 新 保 に 関 して は 前 掲12), 487頁,「 色 部 長 行 譲 状 案」, 正 慶2年 (1333), 福 屋 新 保 に 関 して は 前 掲12), 521頁,「 色 部 氏 長 所 領 請 取 状 案 写 」, 至 徳4年 (1387), 中 新 保 に関 して は 田嶋 光男 編 『越 後 国 人 領 主 色 部 氏 史 料 集 』, 神 林 村 教 育 委 員 会, 1979, 193頁,「 関東 下 知 状」, 正 安 元 年 (1299))。 史 料 に よ る と, 上 新 保 は牛 屋 条 内で あ るが, 福 屋 新 保 ・中新 保 は色 部 条 内 で あ る。 こ の うち上 新 保, 福 屋 新 保 は現 在 で は地 名 が 残 って お らず, そ の 所 在 は不 明 で あ る 。 中 新 保 に 関 して は, 近 世 の新 保 村 (神 林 村 北 新 保) 地 内 の 「畑 の 内 」 とい う小 字 が 通 称 で 中新 保 と呼 ばれ て お り (第3図 参 照), 現 在 は水 田 に な っ て い る 。 中 新 保 の 事 例 にみ ら れ る よ う に, 湿 地 帯 の な か の微 高 地 に も中世 か ら屋 敷 が立 地 して い た こ とが わ か る。 ま た, 屋 敷 の周 辺 部 に は水 田 が営 ま れて い た と考 え られ る。 20) 前 掲12), 678-698頁 。 21) 矢 田 に よ る と,「 小 色 部」 と 「色 部」 の 両 者 に 区 別 は な く, 同 じ地 域 を示 す名 称 で あ っ た と推 測 さ れ て い る (前 掲4), 33-34頁)。 22)「 三 口」 の 所 在 は 不 明 で あ る が, 村 上 市 岩 船 町 ・伴 田家 文 書,「 田 地 預 り小 作 証 文 之 事」, 天 保6年 (1835) で は,「 三 口」 の水 田3畝 歩 が 質 地 と な って い る。 ま た, 九 日市 の 屋 敷 地 は字 「東 尻 」「西 尻 」 に集 中 して い る こ とか ら,「 三 口」 が 水 田地 帯 に存 在 した地 名 で あ った こ とが わか る。

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-5-112 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996) 討 して み よ う。 地 名 の 所 在 が 明 らか な もの をあ げ る と,「 榎 ノ木 田」 は, 有 明 村 地 内 の うち 最 も九 日市 寄 りに あ る地 名 で あ る。 さ らに,「 江 添 」 は 九 日市 村 地 内,「 西 川 端 」 は 牧 目村 地 内 の 地名 で あ る (第3図)。 これ らの事 例 に よ り, 色 部 を在 所 とす る作 人 が耕 作 して い た 耕 地 は, 近 世 の村 の範 囲 を越 え, か な り広 範 囲 にわ た っ て い た こ とが わ か る。 「牧 目」 の 史 料 上 の 初 見 は, 大 永5年 (1525) 23) の 「段 銭 立候 日記 」 で あ る。 そ こ に, 段 銭 賦 課 の 単 位 と して 「ま きの 目の 若 宮 」 が 記 載 され て い る。 若 宮 八 幡 は現 在 で も牧 目に存 在 し (第2 図参照), 近 世 以 降 は 牧 目村 鎮 守 と して の役 割 を担 っ た神 社 で あ っ た 。 「ま きの 目 の 若 宮」 と い う表 現 は, 当時 牧 目が 近 世 の 村 に継 続 す る体 裁 を整 え始 め てい た こ とを示 す もの と考 え られ る 。 また, 寺 領 帳 に お い て,「 色 部」 内 の 三 口 に 屋 敷 が 存 在 した こ とに も注 目 した い。 近 世 には 三 口 は水 田 とな っ て お り, 屋 敷 は存 在 して い な か っ た。 永 正 期 にお け る三 口 の屋 敷 はそ の 後水 田化 さ れ, 消 滅 して し まっ た と考 え られ る。 こ う した 旧屋 敷 地 の水 田化 は, 三 口以 外 に も見 出 24) され る。 こ れ ら の事 例 は, 戦 国期 か ら近 世初 期 に か け ての 間 に, 旧 来 の屋 敷 地 の 水 田化 と新 し い集 落 の形 成 の 動 きが あ っ た こ とを示 して い る。 以 上 の 変 化 の なか で,「 色 部」 か ら 「牧 目」 へ 25) の移 行 が な され た と考 え られ る。 戦 国 末 期 か ら近 世 初 期 にか けて の 牧 目村 や周 辺 地 域 の 景 観 を示 す 史 料 に, 文 禄4年 (1595) 頃 の 作 成 と され る 「越 後 国 郡 絵 図 」 の な か の一 つ で あ る瀬 波 郡 絵 図 が あ る。 同図 には, 砂 丘 後 背 部 に 岩 船 潟 や そ れ に 続 く湿 地 (「野地」) が 描 か れ て お り,「 ま きの 目村 」 は湿 地 の 縁 辺 部 に 街 道 に沿 って描 か れ て い る (第4図)。 ここ に描 か れ た 牧 目村 の 集 落 の 位 置 は, 現 在 の もの と一 26) 致 して い る。 同 絵 図 にお い て, 牧 目村 の周 辺 に あ る村 も, 大 部 分 が 近 世 と同 一 の 名が 記 載 され て お り, 各 集落 もお お む ね 近 世 と同様 の位 置 に 描 か れ て い る。 これ よ り, この 時期 に は, 近 世 の 集 落 景観 の素 地 が 形成 され て い た こ とが わか 27) る。 また, 絵 図 に お い て, 荒川 以北 の色 部 氏 領 は 面 的 な広 が りを もつ 水 田 の な か に集 落 が 島状 に 分 布 す る景 観 を呈 して い る。 こ う した水 田の 景 観 は, 荒 川 以 南 (旧荒川保) が 集 落 と耕 地 の 組 第3図 榎木 田 ・江 添 ・西 川 端 の所 在 地 (国土地理院発行2万5千 分の1地 形 図 「村 上」「坂 町」 を使用) (1)榎木 田 (2)江 添 (3)西 川端 (a)中新 保(畑 の内) (b)小 寺屋敷 23) 前 掲12), 543頁 。 24) 九 日市 の 水 田 に は 「小 寺 屋 敷 」 と い う地 名 もあ り (第3図), か つ て寺 が 存 在 した場 所 が 水 田化 した こ とが わ か る。 25) 新 保 村 の 集 落 は 「畑 の 内 」(注19) 参 照) か ら移 転 した とい う伝 承 が あ る 。 また, 田 中 村 (神 林 村 南 田 中) に も, 斎 藤 家 ・大 倉 家 な ど, 畑 の 内 か ら移 転 した と伝 え て い る 家 が 存 在 す る。 さ ら に,「 畑 の 内 」 か ら は, 耕 地 整 理 の 際 に集 落 の存 在 を示唆 す る遺 物 が 出土 して い る。 中新 保 も三 口 と同 様 に, 旧 来 の 屋 敷 地 が 水 田 化 に よ り消 滅 し, 新 保 村 と して 別 の場 所 に新 しい集 落 が 形 成 さ れ た と考 え られ る。 26) 同絵 図 に は, 牧 目村 は本 納261石8斗1升, 縄 高394石9升3合, 家 数28間 と記 載 され て い る 。 当 時 既 に 牧 目村 は, 28軒 の屋 敷 を もつ 独 立 した村 と して 存 在 して い た こ とが わ か る。 27) そ の なか で, 例 外 と して, 新 保 村 の 集 落 が あげ られ る。 近 世 以 降 に お け る新 保 村 の 集 落 が 砂 丘 の 端 に 立地 して い たの に 対 して, 絵 図で は, 新 保 村 と砂 丘 との 間 に水 田が 描 か れ て い る 。 こ の 絵 図 に描 か れ た 新 保 村 の 立 地 は, 近 世以 降 の新 保 集 落 よ り も, 中新 保 に該 当 す る もの で あ る (第4図 参 照)。 これ よ り, 中新 保 か ら現 在 の 位 置 へ の 集 落 の移 転 は, 文 禄4年 以 降 で あ っ た と考 え られ る。

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戦 国期 越 後 に お け る集 落 形成 (田 中) 113 合せ が浮 島状 に分 布 す る景 観 を呈 してい るの と 対 照 的 で あ る。 牧 目村 の周 囲 に も, 集 落 の西 側 と関根 川 沿 い に残 る野 地 を 除 い て は, 面 的 に広 が る水 田 が 及 ん で お り, 牧 目村 の水 田が 色 部 氏 領 に広 が る 水 田地 帯 の 一部 とな っ て い る様 子 が 窺 え る。 こ こに は, 前 節 に み た 中世 「色 部 」 の 水 田景 観 はみ ら れ な い。 坂 井 秀 弥 は,「 越 後 国 郡 絵 図 」 の 頸 城 郡 絵 図 を用 い て, 複 数 の 集 落 に ま たが る範 囲 に描 か れ た 水 田 が, 用 水 開 削 に よ って広 域 に 開発 され た もの で あ る こ と を指摘 し 28) て い る 。瀬 波 郡 絵 図 に み られ る水 田景 観 も, 牧 目集 落 の形 成 と と も に, 水 田 の形 態 が 変 化 した 可 能性 を示 唆 す る もの で あ る。 III 寛 文11年 検 地帳 に み る集 落 と耕 地 (1)耕 地 の 存 在 形 態 牧 目村 の 耕地 は, 集 落 を 挟 ん で 東 西 に 展 開 し て い る。 寛 文11年 (1671) 検 地 帳 に お い て, 畑 は, 第2図 で 示 し 第4図 戦 国 末 期 に お け る色 部 氏 領 の景 観 (瀬波郡絵図を基 に作 成)

□野 地□水 田□畑 =水

路-道

28) 前 掲5), 84頁 。

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-7-114 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996) た 尾 根 上 に あ た る 字 「山 王」「中沢 」 一 帯 を は じめ, 字 「館 の 内」 一 帯, 屋 敷 地 の周 辺 の3ケ 所 に集 中 して お り, そ の他 は大 部 分 が 水 田で あ る。 牧 目村 の水 田 の存 在 形 態 を, 近 世 を継 承 した もの で あ る 明治 期 にお け る水 が か りを もと に検 討 して み よ う (地名 に関 しては第2図 を参照)。 牧 目村 の水 田 は, 水 が か りに よ って 大 き く5つ の 区 域 に 分 け られ る (第5図)。 第1に, 境 川 (百 川) か ら字 「長 面」 の 地 点 で 分 岐 し, 境 川 と ほ ぼ平 行 して流 れ る小 色 部 川 の 水 が か り区 域 で あ る。 小 色 部 川 の 主 要 な 水 源 は境 川 で あ るが, 荒 川 か ら取 水 す る荒 川 用 水 の 一部 も小 色 部 川 に 流 入 して い た。 この 区域 を以 後, 仮 に小 色 部 区域 29) と呼 ぶ こ と にす る 。 第2の 地域 は, 小 色 部川 の水 が か り区域 の南 側 に展 開 し,「 桶 田」 と い う地 名 を 中 心 と した 荒 川 用 水 の 水 が か り区域 で あ る。 この 区域 は, 用 水 の 全 て を荒 川用 水 に依存 して い た。 こ の区 域 を以 後, 桶 田 区域 と呼 ぶ 。 第3の 区域 は, 明 治28年 地籍 図 に お け る小 字 「千 弐 百 苅 」 で あ り, 第4の 区域 は 「中 沢」 で あ る。 「千 弐 百 苅 」 と 「中 沢」 は, と もに 小 色 部 区域 と桶 田 区域 の境 目に あ り, 小 色 部 川 と荒 30) 川 用 水 の両 方 を用 い て い た。 第5の 区域 が, 字 「松 蔭 」 を中心 とす る区域 で あ る 。 こ の地 域 の用 水 は, 第1∼第4の 区域 か らの余 水 と, 砂 丘 か らの湧 水 に依 存 して い る。 寛 文11年 検 地 帳 にお いて は, この 区域 は一括 し て 「松 蔭 」 と記 載 さ れて お り, 用 水 に よる 区別 は不 可 能 で あ る。 そ の た め, 以 後 この 区域 を一 31) 括 して, 松 蔭 区 域 と呼 ぶ 。 こ う して み る と, 給 水 を全 面 的 に荒川 用 水 に 依 存 し, 荒 川 用 水 の 開 削 と開 田 とが密 接 に 関 わ 第5図 水 が か りに よ る牧 目村 の水 田 の地 域 区分 (明治期) (村上地方法務 局 「明治28年地籍 図」 および聞 き取 りによ り作成) (注) 番号 は本文 中の地域区分 に対応する。 ■集 落 □小 色部川の水がかり地域 ----水 路 □荒 川用水 の 水が か り地域 ……村 境 □小 色部川 ・荒川用水の余水を利用する地域 □砂 丘か らの湧水 を利用する地域 29) 九 日市 村 の 一部 の水 田 (「堂 田」「宮 の前 」) も小 色 部 区域 に 含 まれ る こ とに な る。 30)「 千 弐 百 苅 」 と 「中 沢 」 は 隣接 して い な い た め2つ の 区 域 に 分 け た。 31) 明 治28年 地籍 図 に お い て, 松 蔭 区域 に は小 字 と して 「松 蔭 」「蟹 田」 以 外 に 「田屋 道 」「下 北 俣 」「砂 山下 」「下道 」 が あ る が, こ れ ら は何 れ も江 戸 末 期 ま で は 一 括 して 「松 蔭」 と 呼 ば れ て い た 。 そ の た め, 寛 文11年 検 地 帳 に 記 載 さ れ る 「松 蔭」 の水 田 を水 が か りで 区分 す る こ と は不 可 能 で あ る。 そ の た め, 第5の 地域 を一 括 して 松 蔭 区 域 と した 。

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戦 国 期 越 後 に お け る集 落 形 成 (田 中) 115 って い た と考 え られ る桶 田 区域 を始 め, 小 色 部 区 域 ・「千 弐 百 苅」・「中 沢」・松蔭 区域 も荒 川 用 水 か らの給 水 を受 け て お り, 牧 目村 の水 田 に対 32) す る荒 川 用 水 の重 要 性 が 窺 い知 れ る 。 次 に, 荒 川 用水 の存 在 形 態 を概 観 す る 。荒 川 用 水 は, 名 の通 り荒 川 か ら取 水 す る用 水 で あ り, 「八 ヶ村 用 水 」 の 別 称 を も って い た。 これ は, 荒 川用 水 が, 平 林 ・宿 田 ・牛屋 ・福 田 ・田 中 ・ 山 田 ・岩 野 沢 ・牧 目の八 ヶ村 へ の給 水 を基 本 的 な 役 割 とす る用 水 で あ った た め で あ る。 荒 川 用 第6図 荒 川 用 水 水 系 図 (大 正期) (平 山家 文 書 「大 正 期 水 路 図」 よ り作 成) (注) ・山 田 ・岩 野 沢 ・北 新 保 ・長 松 ・福 田 は原 図 に集 落 が 記 載 され て い な い た め 地 名 の み 記 載 した 。 ・原 図 の等 高線 が 尺単 位 で 引 か れ て い たた め, 本 図 もそ の ま ま尺 単 位 で 記 載 した。5尺 は約1.5m, 10尺 は約3m, 15尺 は約4.5m, 20尺 は約6mで あ る 。 ・原 図 で は荒 川 の対 岸 が 描 か れ て い な い た め, 本 図 も原 図 通 りに した 。 □集落 -河 川 -主 要用水路 -等 高線 (単位:尺) 32) 荒 川 用 水 の起 源 につ い て は, そ れ を示 す 記 録 ・史 料 が 未 発 見 で あ り, 研 究 も進 ん で い な い 。 しか し, 寛 永14年 (1637) の 「南 桃 川 組 免 相 帳 」 にお け る飯 岡 村 の 項 に 「壱 石 五 斗 平 林 井 水 奉行 給 引 」 とい う記 載 が あ る (村 上 市 『村 上 市 史 資 料 編2』, 1992, 218頁)。 飯 岡 村 は八 ヶ 村 に は 含 まれ な い が, こ の 記 載 は後 述 す る荒 川 用 水 東 幹 線 を指 す もの と しか 考 え ら れ な い。 よ って, 少 な く と も寛 永14年 以 前 に荒 川 用 水 東幹 線 は 開 削 され て い た こ とが わ か る 。

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-9-116 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996)

第2表 寛 文11年 検 地 帳 にお け る字 ご との水 田 の等 級 別 面 積 (1671年)

(河内家文書 「牧 目村惣本 田畑検地帳写」 によ り作成)

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戦 国 期 越 後 に お け る集 落形 成 (田 中) 117 水 は, 昭 和10年 (1935) の 神 納 用 水 の完 成 まで, 33) そ の役 割 を果 た して い た。 荒川 用 水 の分 水 体 系 は, 大 き く東 西 に分 か れ て い た 。 これ を仮 に東 幹 線 ・西 幹 線 と名 付 けて 34) お く (第6図)。 この う ち, 牧 目村 の水 田 に給 水 す る の は東 幹 線 で あ り, 東 幹 線 の 受益 範 囲 は牧 目村 の他 に 山 田村 ・岩 野 沢 村 で あ った 。 第6図 をみ る と, 関 根 川 を境 に, 南 北 で 等 高 線 の 向 き が 大 き く異 な る こ とが わ か る。 西 幹 線 が, 関根 川 以 南 の水 田へ用 水 を供 給 す るの に対 して, 東 幹 線 は主 に関根 川 以北 の水 田 を灌 漑 し, 牧 目村 は そ の流 末 に位 置 して い た 。 東 幹 線 は 「牧 目用 水 」 と も呼 ば れ て お り, 名 の通 り牧 目村 が 強 い用 水 権 を有 す る用 水 で あ っ た。 この 幹線 で は, 牧 目村 へ の給 水 が最 優 先 さ れ て お り, 牧 目村 へ の給 水 が 終 了 しな い 間 は, 他 村 へ の 配水 は停 止 さ れ て い た。 さ らに, 東 幹 線 に お け る牧 目村 の優 位 は, 江 さ らい を始 め と す る用 水 管 理 が, 牧 目村 を中心 と して行 なわ れ 35) て い た こ とに も示 され る 。牧 目村 が強 い用 水 権 を有 した要 因 と して, 東 幹 線 へ の牧 目村 の 受益 面 積 ・依 存 度 が, 岩 野 沢 ・山 田村 に比 して 格段 36) に高 か っ た こ とが あ げ られ る 。東 幹 線 は, 牧 目 村 へ の給 水 を第 一 の 目的 と して 開削 され た と考 え られ る。 以 上 を踏 ま え て, 検 地 帳 の検 討 に移 る。 寛 文 11年 検 地 帳 に お け る水 田 の合 計 面 積 は78町6反 1畝12歩 で あ る。 検 地 帳 に記 載 され る水 田 に つ い て, 字 ご と ・等 級 別 の面 積 を集 計 した の が 第 2表 で あ る。 これ よ り, 小 色 部 区域 ・「千 弐 百 苅 」・「中沢 」 の3区 域, す な わ ち, 小 色 部川 の 給 水 に よ る水 田 は上 田が 主 体 とな って い た こ と が わか る。 以 下, 桶 田区 域, 松 蔭 区 域 の順 に下 田の 比 率 が 高 くな って い く。 なか で も, 松 蔭 区 第3表 牧 目村 にお ける新 田開発状 況 (河 内家 文 書 「牧 目村 惣 本 田畑 検 地 帳 写 」 に よ り作 成) (注) 括 弧 内 は 「松 蔭」 の面 積 を示 す 。 33) 関係 各 村 の 間 で の受 益 面 積 の広 狭 を知 る た め の史 料 と して は, 嘉 永3年 (1850) の 「荒 川 用 水 入 用 組 合 割付 覚 帳」 が あ る (神 林 村 牧 目 ・河 内 家 文 書)。 この 史 料 は, 荒 川 用 水 の 管 理 ・保 全 に必 要 な 費 用 を, 関 係 各 村 に受 益 高 を基 準 と して割 り付 け た もの で あ る。 こ れ に よ る と, 割 付 高 が 一 番 大 きい の は牛 屋 村 (1,727石9斗3升4合) で あ り, 以 下, 牧 目村 (1,151石8升1合), 田 中村 (1,084石3斗8升8合), 宿 田村 (1,004石6斗8升4合), 平 林 町 (569石6升9合), 山 田 村 (458石6斗8升5合), 福 田 村 (313石6升4合), 新 保 村 (210石1升6合), 長 松 村 (92石3斗3升9合), 岩 野 沢 村 (70石4斗6升) と続 い て い た 。 34) 前 掲17), 198頁,「 寛 政 三 年 大 肝 煎 佐 藤 茂左 衛 門 組 下村 々御 案 内書 上 帳 」, 寛 政3年 (1791) に 用 水 組 と して牧 目 ・岩 野 沢 ・山 田 の3村 が 記 録 され て い る。 35) 神 林 村 牧 目 ・河 内 家 文 書,「 新 江 堀 浚 人足 覚 帳」, 慶 応2年 (1866) に よる 。 さ らに, 聞 き取 り調 査 に よる と, 牧 目村 は 平 林 集 落 の裏 あ た りまで 堀 浚 い を行 な って いた 。 36) 注33) 参 照 。

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-11-118 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996) 域 の 下 田 は30町 以 上 に も及 んで い る。 寛 文11年 以 降の 新 田 開発 状 況 につ いて は, そ の概 要 を 第3表 に示 した。 そ れ に よ る と, 寛 文 11年 以 降, 享 保13年 (1728) ま で の 水 田 の 開 発 面 積 は8町7反8畝22歩 で あ った 。 また, 寛 文 11年 の新 田 は, 松 蔭 区 域 に偏 って い た 。 寛文11 年 の 段 階 で, 牧 目村 に お け る水 田 開 発 はほ ぼ 完 了 し,「 松 蔭 」 や 「関 野」 と い っ た低 湿 地 の 水 田化 が 開 発 の対 象 とな って い た 。 (2)検 地 帳名 請 人 とマ キ の総 本 家 寛 文11年 37) 検 地 帳 にお け る屋 敷 名 請 人 と, 近 代 の牧 目村 に 継 承 され た マ キ の本 家 筋 との系 譜 関係 をた ど る た め に, ま ず, 第7図 に, 明 治3年 (1870) に 38) お け る牧 目村 の構 成 を示 した 。第7図 に は, 寛 文11年 検 地 帳 に お け る屋 敷 名 請 人 の屋 敷 地 も同 時 に示 した。 同一 の名 字 を もつ 家 は, マ キ と呼 ばれ る同族 組 織 を形 成 して い た 。 同一 の マ キ に属 す る家 は 第7図 マ キ の 分 布 と寛 文 検 地 帳 屋 敷 名 請 人 の 居 住 地 (注) ・マ キ の分 布 は村 上 地 方 法 務局 「明 治28年 地 籍 図」, 河 内 家 文 書 「越 後 国 岩船 郡 牧 目村 戸 籍」(明 治3・1870年) お よび 聞 き取 りに よ り作 成 。 ・屋 敷 名請 人 の 居 住 地 は村 上 地 方 法 務 局 「明 治28年 地 籍 図 」 お よ び河 内 家 文 書 「明 治4年 牧 目村 惣 本 田畑 検 地 帳 写 」 よ り作 成 。 a東 マ キ i岸 マ キ b臼 井 マ キ j新 保 マ キ c田 中マ キ k小 川 マキ d桝 田 マキ l加 藤 マキ e増 田 マ キ f小 野 マ キ g河 内 マ キ h嶋 田 マ キ ※○で 囲 ま れ て い る の は 総 本 家 □宅 地 -道 路 -水 路 -・-・-村 境 寛文検地帳屋敷名請人 (1)彦 惣 (2)勘 十郎 (3)助 惣 (4)長 三郎 (5)茂 助 (6)郷左衛門 (7)清 右 衛 門 (8)新 左衛 門 (9)喜 平 次 (10)与八郎 (11)兵右 衝 門 (12)徳右 衛 門 (13)弥七 (14)伊右 衛 門 (15)七兵 衛 (16)喜右 衛 門 (17)兵左 衛 門 (18)新六 郎 (19)伝吉 (20)太郎 兵 衛 (21)市郎 右 衛 門 (22)長 次 郎 (23)三之 丞 (24)善左 衛 門 (25)忠助 (26)与次 右 衛 門 (27)長助 (28)御子 (29)長作 (30)十右 衛 門 (31)平右 衛 門 (32)三太 夫 (33)弥次右衛門 (34)十三 郎 (35)孫助 37) 寛 文11年 検 地 に お け る 牧 目村 内 の耕 地 の 名請 人総 数 は73人 で あ り, う ち牧 目村 住 人 は49人 で あ っ た。 また, 屋 敷 地 は41 筆 で あ り, 35人 が名 請 して い た。 こ の検 地 帳 に は, 写 が作 成 され た明 治9年 段 落 に お け る所 有 者 が 併 せ て 記 載 され て い る 。 そ の た め, そ れ を用 い て 各 々 の名 請 人 の屋 敷 地 を比 定 す る こ とが 可 能 で あ る。 38) 神林 村 牧 目 ・河 内 家文 書,「 越 後 国 岩 船 郡 牧 目村 戸 籍 」, 明 治3年 (1870), な らび に, 神林 村 牧 目 ・増 田家 文 書,「 地 価 帳 写」, 明治15年 (1882)。「 越 後 国 牧 目村 戸 籍」 は近 世 の宗 門人 別 帳 と ほ ぼ 同 一 の 記 載 内 容 の もの で あ り, こ れ らの 史料 を併用 す る こ とに よ り各 戸 の名 字 ・檀 那 寺 を明 らか に した。 なお, 明 治3年 にお け る牧 目村 の 総 戸 数 は52戸 で あ っ た。

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戦 国 期越 後 に おけ る集 落 形 成 (田 中) 119 総 本 家 を頂 点 とす る本 分 家 の 関 係 を有 して お り, 一 部 の例 外 を除 い て 同 一 の 寺 の 檀 家 と な って い 39) た。 また, マ キ は,「 若 い 衆 分 家 」 と呼 ば れ る 40) 非 血 縁 分 家 も含 ん で い た 。 牧 目村 は, 小色 部 と牧 目 とい う2つ の 集 落 か らな って い る。小 色 部 集 落 は牧 目集 落 か らや や 離 れ て 立 地 し, 塊 村 状 の集 落景 観 を もつ 。 また, 牧 目集 落 も単 純 な路 村 で は な く, 集 落 の南 東 部 は塊 村 状 にな って い る 。 明 治初 期 に お い て, 小 色 部 集 落 は田 中 マ キが 卓 越 して お り, 田 中 マ キ の 集 落 とい った様 相 を呈 して い る。 こ れ に対 し て, 牧 目集 落 に は卓 越 す る マ キ は見 られず, 多 くの マ キ に よ って集 落 が 構 成 さ れ て い る。 次 に, 明治3年 に確 認 さ れ る各 マ キ の総 本 家 の屋 号 ・檀 那 寺 と, そ の屋 敷 地 の寛 文11年 の名 請 人 を第4表 に示 した。 総 本 家 の屋 号 と寛 文11 年 検 地 帳 名 請 人 とが 一 致 す る事 例 は, 田 中 ・小 野 ・河 内家 で あ る。 また, 一 致 しな くて も, 名 前 の類 似 や各 家 に残 る記 録 ・伝 承, さ ら に元禄 14年 (1701) 名 寄 帳 との対 比 に よ り, 桝 田 ・増 田 ・嶋 田 ・岸 ・加 藤 ・新 保 家 は 寛 文11年 段 階 に 41) は既 に存 在 して い た もの と想 定 され る。 以 上 の 9家 は, 寛 文11年 の段 階 に まで 遡 れ る もの で あ り, 屋 敷 地 も寛 文11年 段 階 か ら変 化 して い な い と考 え られ る。 ま た, 小 川 家 の 場 合, 明 治3年 にお け る総 本 家 の屋 敷 地 を寛 文11年 に名 請 して い るの は三 之 丞 で あ るが, 元 禄14年 名 寄 帳 に は円 秀 とい う名 が 記 載 され て い る。 小 川 総 本 家 に残 る位 牌 に 円 秀 とい う記 載 が み られ る こ とか ら, 寛文11年 か ら元 禄14年 まで の 間 に, 小 川 家 が成 立 した こ と が わ か る。 同 様 に, 元 禄14年 名 寄 帳 に屋 号 と同 じ人 名 が 登 場 す る こ とか ら, 少 な くと もそ の時 期 まで には 東 家 が 成 立 して い た こ とが 確 認 され る。 残 る臼 井 家 に 関 して は, 上述 の よ う な繋 が りは 見 出せ な か った 。 (3)有 力 百姓 の所 有 耕 地 第8図 は, 寛 文11 年 検 地 帳 に お け る各 名 請 人 の水 田 の石 高 の順 位 を示 した もの で あ る 。 こ こ か ら, 石 高 順 位 の 上 位4人 を と りあ げ て, 所 有 耕 地 の分 布 につ い て 第4表 牧 目村 の マ キ と檀 那 寺 (1870年) (河内家 文書 「牧 目村戸 籍」「牧 目村惣本田畑検地帳写」 および聞 き取 りによ り作成) (注) ・河内マキの うち弥右衛門家 ・喜右衛門家の2軒 は南 田中福源寺 の檀家 ・小川マキの うち太右衛門家 は牧 目福 厳寺の檀家 39) 第4表 の 注 を参 照 。 40) 越 後 国 南 魚 沼 郡 上 原 村 を事 例 に, 近 世 に お け る マ キ の発 展 過 程 を考 察 した 岡村 光 展 は, 上 原 村 にお け るマ キ の 起 源 が 天 和 期 (1681∼1683) 以 前 に遡 る こ と が で き る こ と を明 らか に して い る (前 掲7)。 牧 目村 で は, 近 世 史料 上 に マ キ の用 例 を見 出 す こ とは で きな い が, 本分 家 の 関係 を 有 す る家 どう じに よ って 構 成 され るマ キ 自体 は近 世 の牧 目村 に も存 在 した も の と思 わ れ る 。 41) 桝 田 家 の場 合 は屋 号 と寛 文11年 検 地帳 名請 人 とが類 似 して お り, 増 田 ・岸 ・加 藤 家 の 場 合 は各 家 の 記 録 や 伝 承 に寛 文11 年 検 地 帳 名 請 人 と同 じ名 前 が 登 場 す る。 嶋 田家 の場 合 は檀 那 寺 の 過 去 帳 に寛 文11年 検 地 帳 名 請 人 と同 一 の 人 名 が み られ る。

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-13-120 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996) 検 討 す る (第5表)。 寛 文 検 地 帳 にお け る水 田 石 高 が 村 内 で 第1位 は長 次 郎, 第2位 は三 之 丞 で あ った 。 長 次 郎 は 岸 マ キ の総 本 家 で あ り, 三 之丞 は新 保 氏 で あ る。 長 次 郎 ・三 之 丞 の屋 敷 地 は, と も に牧 目集 落 の 南 西 端 に存 在 して い る。 2人 の石 高 が 村 内 の 上位 を占 め た の は, と も に松 蔭 区域 に水 田 を大 規 模 に所 有 して い た た め で あ っ た。 長 次郎 は水 田 の持 高 の うち の61パ ー セ ン トに あ た る72石6斗3升7合 (6町3反3 畝19歩) が, 三 之 丞 は68パ ー セ ン トに もの ぼ る 67石1升2合 (5町6反2畝12歩) が 「松 蔭 」 に 42) あ る所 有 地 に よ って 占 め られ て い る。 と も に 「松 蔭 」 を大 規 模 に所 有 す る とい う点 で は共 通 す る長 次 郎 と三 之 丞 で あ るが, 両 者 の 所 有 す る 「松 蔭 」 の水 田 は異 な る様 相 を呈 して い た 。長 次 郎 の 「松 蔭 」 にお け る所 有 耕 地 は6 町3反3畝19歩 (38筆) で あ り, 1筆 あ た りの 平 均 耕 地 面 積 は1反6畝20歩 とな る。 これ に対 して, 三 之 丞 の 「松 蔭 」 に お け る所 有 耕 地 は5 町6反2畝12歩 (10筆) で あ り, 1筆 あ た りの 平 均 耕 地 面 積 は5反6畝7歩 に も及 ん で い る 。 ま た, 三 之 丞 の 所 有 す る 「松 蔭 」 に は, 1筆1 43) 町以 上 の水 田2筆 が 含 まれ て い た 。 聞 き取 り調 査 に よ る と, 明 治 期 に お い て も,「 松 蔭 」 に残 る野 地 で, 畦 畔 を設 けず 直 接 籾 を播 く栽培 法 が 行 なわ れ て い た 。 検 地 帳 にみ られ る1筆1町 以 上 の 水 田 は, 低 湿 地 で 排 水 不 良 の場 所 に特 有 の もの で あ った と考 え られ る。 三 之丞 が所 有 す る 「松 蔭 」 の水 田 は,「 松 蔭 」 の な か で も比 較 的遅 い 時 期 に水 田化 され た もの で あ ろ う。 また, 長 次 郎 ・三 之 丞 が松 蔭 区域 以 外 に所 有 す る水 田 の分 布 をみ る と, 長次 郎 は, 小 色 部 区 域 以外 はあ ま り偏 りな く分布 す る の に対 して, 第8図 水 田石 盛 の順 位 (1671年) (河内家文書 「明治4年 牧 目村惣本田畑検地帳写」 に より作成) (注) 他村居住者お よび1石 未満 の名請 人は省略 した。 1. 長 次 郎 2. 三 之 丞 3. 太 郎 兵 衛 4. 郷 左 衛 門 5. 善 左衛 門 6. 平 右衛 門 7. 勘 十 郎 8. 忠 助 9. 伊 右 衛 門 10. 十 右 衛 門 11. 新 六 郎 12. 伝 吉 13. 七 兵 衛 14. 与 次 右 衛 門 15. 十 三郎 16. 孫 助 17. 清右 衛 門 18. 弥 次右 衛 門 19. 茂 助 20. 市 郎 右 衛 門 21. 兵 右 衛 門 22. 三 太 夫 23. 長 三 郎 24. 喜 右 衛 門 25. 福 厳 寺 26. 助 惣 27. 佐 右 衛 門 28. 神 子 29. 新 左 衛 門 30. 与 七 郎 31. 喜 平 次 32. 長 助 33. 六 兵 衛 34. 十 佐衛 門 35. 彦 惣 42) 石 高 第3位 の太 郎 兵 衛 の 水 田 の 持 高 に対 す る 「松 蔭 」 の比 率 は9パ ー セ ン ト (5反8畝28歩), 第4位 の 郷左 衛 門 に い た って は僅 か0.7パ ー セ ン ト (3畝29歩) で あ る。 43) 残 りの1筆 は勘 十 郎 が 「松 蔭」 に 所 有 して い る 。

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戦 国 期 越 後 に お け る集 落 形 成 (田 中) 121 第5表 有 力 百姓 の名 請 地 (1671年) (河 内 家 文 書 「牧 目村 惣 本 田 畑 検 地 帳 写 」 に よ り作 成) (注) ・(1)∼(5)は第5図 に お け る牧 目 村 の 水 田 の 地域 区 分 に対 応 す る。 ・屋 敷 に は 地 名 が記 載 さ れ て い な い 。

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-15-122 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996) 三 之丞 は桶 田 区域 の一 部 に集 中 して お り, 小 色 部 区域 や桶 田 区域 に お け る 「桶 田」 地 名 に は耕 地 を もた な い こ とが わか る。 水 田 の石 高 が 村 内 第3位 の 太 郎 兵 衛 家 は, 河 内 マ キ の総 本 家 で あ る。 太 郎 兵 衛 家 は 「おや か た」 と称 され, 牧 目村 の庄 屋 を務 め る家 柄 で あ った 。屋 敷 地 も, 牧 目集 落 の ほ ぼ 中央 に位 置 し て い た 。 こ の こ とか ら も, 河 内 太 郎 兵 衛 家 は, 牧 目村 の創 始 か ら村 の 中心 的 な 家 と して 存在 し て い た もの と推 察 され る。 太 郎 兵 衛 が 名 請 す る 水 田 の 分 布 をみ る と,「 宮 浦 」 以 外 で は, と く に桶 田 区域 に多 くの 水 田 を所 有 して い る。 そ の 一 方 で, 小 色 部 区 域 に は水 田 を名 請 して い な い のが 特 徴 で あ る。 水 田石 高 が 村 内 第4位 の郷 左 衛 門 は, 田 中 マ キ の総 本 家 で あ り, 小 色 部 に屋 敷 を有 して い た 。 郷 左 衛 門が 所 有 す る水 田 は, 屋 敷 周 辺 に あ た る 小 色 部 区域 を中心 と した小 色 部 川 の水 が か りに 集 中 して い た 。 以 上 の 分析 よ り, 当 時 の有 力 百 姓 で あ る岸 ・ 新 保 ・河 内 ・田 中家 の 間 に は, 屋 敷 の位 置 や所 有 耕 地 の 分布 に 明確 な相 違 点 が あ っ た こ とが わ か る。 また, 所 有 耕 地 の分 布 に み られ る相 違 は, 牧 目村 の水 田 の水 が か りに対 応 して い た こ とが 明 らか に な った。 IV 集 落 の形 成 とその 要 因 (1)マ キの 展 開 と耕 地 開 発 第7図 をみ る と, 牧 目村 で最 大 の構 成 員 を有 す るマ キ は 田 中マ キ で あ っ た こ とが わか る。 田 中 マ キ の 分 布 は, 総 本 家 の屋 敷 が あ る小 色 部 集 落 を中 心 に, 牧 目集 落 に も及 んで い る。 前 章 にお い て は, 総 本家 郷 左 衛 門 の所 有 耕 地 につ い て の み検 討 した が, 牧 目集 落 の形 成 や 小色 部 と牧 目 との 関係 を考 察 す る うえ で, 田 中 マ キ の展 開 につ い て の検 討 は不 可 欠 で あ る。 そ こで, 本節 で は, 田 中マ キ を事 例 に, 寛文11年 検 地 帳 を用 い て, マ キ の展 開 と そ の要 因 につ い て検 討 す る。 寛 文11年 検 地 帳 に お け る 田 中 マ キ の構成 員 の 比 定 は, 以 下 の手 順 で行 な った 。 まず, 第7図 に お け る 田 中 マ キ構成 員 の屋 敷 地 を寛 文11年 検 地 時 に名 請 す る者 を あ げ る と, 総 本 家 郷左 衛 門 をは じめ清 右 衛 門 ・新 左 衛 門 ・長 三 郎 ・与 八郎 ・喜 平 次 ・茂 助 ・与 次 右 衛 門 とな る。 また, 田 中 マ キ の 檀 那 寺 で あ る光 浄 寺 に は, 延 宝 年 間 (1673∼1680) 以 降 の 過 去 帳 が残 って お り, 延 宝 か ら元 禄 の 間 に記 載 が み られ る 田 中マ キ構 成 員 は, 郷 左 衛 門 ・文 蔵 ・権 三 郎 ・佐 次 兵衛 ・甚 之 丞 ・長 吉 で あ る。 彼 らの う ち, 元 禄14年 名 寄 帳 に記 載 が あ るの は郷左 衛 門 ・文 蔵 ・権 三郎 ・佐 次 兵 衛 で あ る。彼 らの 寛 文11年 と元禄14年 との 間の 系 譜 関 係 を示 す と, 郷左 衛 門 →郷 左 衛 門, 清 右 衛 門 →文 蔵 ・権 三 郎, 与 次右 衛 門→佐 次 兵 衛 と な る。 よ って, 郷左 衛 門 ・清 右 衛 門 ・与 次 右 衛 門 は田 中 マ キ の構 成 員 で あ った と比 定 され 44) る。 また, 甚 之丞 ・長 吉 の存 在 よ り, 寛 文11年 にお け る田 中 マ キ の構 成 員 と して, 少 な くと も 2人 は増 え る と予 想 され る。 そ こで,「 松 蔭 橋 元」 の所 有 者 に注 目 して み る。 「松 蔭橋 元 」 を所 有 して い る の は, 郷 左 衛 門 ・新 左 衛 門 ・清 右 衛 門 ・茂 助 ・与 次 右 衛 門 ・ 45) 喜 平 次 ・長 三 郎 で あ る。 与 次 右 衛 門の よ う に, 小 色 部 に屋 敷 が な い者 が 所 有 す る一 方 で, 助 惣 の よ うに小 色 部 に屋 敷 が あ っ て も田中 マ キ とみ な され な い者 は所 有 しな い こ とか ら,「 松 蔭 橋 元 」 は 田 中マ キ の構 成 員 に よ って 所 有 され て い た と考 え られ る。 これ よ り, 郷 左 衛 門 ・清 右 衛 門 ・与 次 右 衛 門 に加 えて, 新 左 衛 門 ・茂助 ・喜 44) 長 吉 は 天和2年 (1682), 甚 之 丞 は 貞享3年 (1686) 没 で あ る。 甚 之 丞 は過 去 帳 に 「小 色 部 村 」 と記 載 され て お り, 小 色 部 に屋 敷 を もって い た こ とが わ か る。 長 吉 につ い て は, 屋 敷 の場 所 は 明 らか で な い 。 45) 松 蔭橋 元 の 所 有 者 と面 積 をあ げ る と, 郷 左 衛 門 (1畝3歩), 清 右 衛 門 (3畝10歩), 新 左 衛 門 (1畝15歩), 喜 平 次 (1畝11歩), 長 三 郎 (16歩), 茂 助 (1畝22歩), 与 次 右衛 門 (2畝21歩) で あ る 。

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戦 国 期越 後 に お け る集 落 形 成 (田 中) 123 平 次 ・長 三 郎 も田 中 マ キ の構 成 員 で あ った可 能 性 が あ る。 この うち, 第7図 に お け る 田 中 マ キ 構 成 員 の 屋 敷 地 を寛文11年 当 時 に名 請 して い た 新 左 衛 門 ・茂助 の2人 は, 田 中 マ キ で あ った可 能 性 が さ ら に高 い 。 以 上 を踏 まえ て, 田 中 マ キ の分 家 の所 有 耕 地 をみ る と, 郷左 衛 門 の所 有 耕 地 よ り広 い範 囲 に 及 んで お り, マ キ 内部 の本 分 家 の 間 で, 所 有 す る水 田 の 分 布 に 差 異 が み ら れ る こ とが わ か る (第6表)。 と くに, 牧 目集 落 に 屋 敷 を 有 す る茂 助 や 与 次右 衛 門 は, 小 色 部 区域 以 外 の水 田 の比 率 が 高 くな る 。例 え ば, 小 色 部 ・牧 目の両 方 に 屋 敷 を有 す る茂 助 の 主 力 耕 地 は, 桶 田 区域 の 「扇 田」「下 桶 田」「関 野」 で あ っ た。 さ ら に, 郷 左 衛 門の 屋 敷 か ら最 も離 れ て い る与次 右 衛 門 の主 力 耕 地 は松 蔭 区域 で あ っ た。 これ らの事 例 よ り, 田 中マ キ の牧 目集 落 へ の分 家創 出 は, 小 色 部 区域 以 外 の 区域 に耕 地 を獲 得 す る こ とに よ る もの で あ った と考 え られ る。 また, 小 色 部 に 屋 敷 を もつ 清 右 衛 門が, 小 色 部 区 域 以外 に も水 田 を有 して い た こ とは, 元 来 小 色 部川 とい う独 自の 用 水 原 を もつ 小 色 部 が, 新 た な水 田 の 開発 に と もない, 牧 目村 と して 包 摂 され た こ とを示 す もの と考 え られ る。 次 に, 以 上 の 考 察 を補 強 す るた め に, 村 鎮 守 の氏 子 総 代 の 構成 とそ の 性 格 を検討 す る。 牧 目 村 鎮 守 若 宮 八 幡 の 北 側 に位 置 す る 「宮 浦 」 は, 寛 文 検 地 帳 に お い て 総 面 積2町1反5畝10歩 第6表 田 中 マ キ の分 家 の名 請 地 (1671年) (河 内 家 文 書 「牧 目村 惣 本 田畑 検 地 帳写 」 に よ り作 成) (注) ・(1)∼(5)は第5図 にお け る牧 目村 の 水 田 の地 域 区 分 に対 応 す る 。 ・屋 敷 に は地 名 が 記 載 され て い な い 。 ・各 地 域 ご と の水 田持 高 総 計 に は総 本 家 の郷 左 衛 門 も含 め た 。

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-17-124 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996) (総名請 人数13人) の 水 田 が記 載 さ れ て い る。 こ の うち, 1町4反3畝5歩 は, 与 次 右 衛 門 ・太 郎 兵衛 ・平右 衛 門 の3人 に よ っ て 占 め られ て い た 。 この うち, 与 次 右 衛 門 ・太 郎 兵 衛 の家 は代 々 若宮 八 幡 の氏 子 総 代 で あ っ た。 平 右 衛 門 の場 合 に は系 譜 関係 は確 認 で き ない が, そ の後 平 右 衛 門 の屋 敷 地 に居 を構 え る者 が 氏 子 総 代 と な っ て い た 。 こ れ よ り,「宮 浦」 は若 宮 八 幡 と関係 が深 い水 田で あ り, こ こ を多 く所 有 す る3家 が 若 宮 八 幡 の氏 子 惣 代 に な る関係 にあ った と考 え られ る。 与 次 右 衛 門が 若宮 八 幡 の氏 子 総代 で あ った こ とは, 小 色 部 と牧 目集 落 との 関係 を考 察 す る う えで 重 要 で あ る。小 色 部 田 中氏 の分 家 が村 社 の 氏 子 惣 代 で あ った こ とは, 小 色 部 田 中氏 が牧 目 集 落 の 形 成 以前 に既 に存 在 し, 牧 目集 落 の形 成 に分 家創 出 とい う形 で 関与 した こ とを示 唆 して い る と考 え られ る 。 ま た, 与 次 右 衛 門 ・太 郎 兵 衛 と と も に 「宮 浦」 に水 田 を多 く所 有 す る平 右 衛 門 は, 水 田石 高 で は村 内 で6番 目で あ っ た。 平 右 衛 門 は太 郎 兵衛 と似 た所 有 耕 地 の分 布 傾 向 を示 してお り, 「宮 浦 」 以 外 に は桶 田 区 域 に多 く水 田 を所 有 し て お り, 小 色 部 区 域 は極 端 に少 な い (第5表 参 照)。 太 郎 兵 衛 ・平 右 衛 門 は, 小 色 部 区 域 以 外 の水 田 を基 盤 と して い た の で あ る。 彼 らが 村鎮 守 の氏 子 惣 代 で あ った こ と は, 桶 田 区域 の 開発 が 牧 目集 落 の 成 立 の 大 きな要 因 で あ り, 牧 目集 落 の形 成 に関 して, 桶 田 区域 の水 田 を基 盤 とす る百 姓 が 中心 的役 割 を担 った こ と を示 す もの と 考 え られ る。 (2)土 着伝 承 と集 落 の形 成 前 章 に お い て, 長次 郎 と三之 丞 の所 有 耕 地分 布 の特 徴 につ い て 述 べ, 両者 の所 有 す る 「松 蔭」 の耕 地 形 態 の 差 異 が 開発 時期 の違 い に 由 来 す る もの で あ る可 能 性 に言 及 した 。本 節 で は まず, 両 家 の成 立 ・開 発 時期 の差 異 を示 す もの と して, 両 家 に残 る土 着 の伝 承 を と りあ げ る 。 岸 マ キ は 現在 の神 林 村 内 で 唯 一 の 諸 上 寺 (村 上市 岩船 町) 檀 家 で あ る。 諸 上 寺 の 寺 伝 に よる と, 岸 家 は永 禄7年 (1564) に 諸 上 寺 を再 興 し 46) た岩 室 文 松 和 尚 の付 人 の家 柄 で あ った 。 岸家 の 側 で も, 岸 家 が 諸 上 寺 の寺 侍 で あ った と伝 え て 47) い る。 岸 家 が 諸 上 寺 に とっ て特 別 な家 で あ っ た こ とは, 岸 家 が 諸 上 寺 の 主 檀 家 で あ った こ とに も表 れ てい る。 牧 目にお け る岸 家 の起 源 は, 岩 室 文 松 が 諸 上 寺 を再 興 した永 禄 期 に まで遡 る可 能 性 が 高 い 。 岸 マ キ は, 牧 目村 に 隣 接 す る新 保 村 (神林村 北新保) や 長 松 村 (神林村 長松) に も及 んで お り, 長 次 郎 家 が 総 本 家 で あ った 。 寛 文検 地 帳 にお け る長次 郎 の所 有 耕 地 の な か で 多 くを 占 め る 「松 蔭」 も, 牧 目村 ば か りで な く, 新 保 ・長 松 村 に まで広 が る地 名 で あ る 。新 保 ・長 松 両 村 にお け る岸 マ キ の本 家 で あ る長 松 村 の与 惣 右 衛 門 家 は, 牧 目村 の岸 家 か ら 「松 蔭 」 を譲 られ分 家 した と 48) 伝 え られ て い る。 岸 マ キ は, 牧 目へ の 土 着 以 降, 「松 蔭 」 を 主 力 耕 地 と して, 村 の 範 囲 を越 え て 発 展 して い っ た ので あ る。 次 に, 新 保 家 を み る と, 新 保 内膳 が 新 保 村 (荒川 町南新 保) か ら移 転 した と伝 え ら れ て い る。 新 保 内 膳 は, 天 正18年 (1590) の 史料 に よ り存 49) 在 が 確 認 され る。 また, 新 保 内 膳 は,「 館 の 内」 50) (第2図 参照) の城 主 で あ っ た須 貝 伊 賀 守 の家 臣 46) 諸 上 寺 の 記録 に よる 。 47) 神 林 村 牧 目 ・岸 久夫 氏 の ご教 示 に よ る。 48) 神 林村 牧 目 ・岸 久 夫 氏 の ご教 示 に よ る。 49) 前掲11), 532頁,「 菅 秀 磐 年 貢 納状 写」, 天 正18年 (1590)。 50)「 館 の 内 」 と 須 貝 伊 賀 守 の 関 係 に つ い て は, 前 掲16), 164-168頁,「 越 後 国 岩 船 郡 牧 目 村 指 出 明 細 帳」, 文 政13年 (1830) に,「 一 古 城 跡 只 今 ハ 畑 ニ 罷 成 候 是 ハ 先 年 須 貝 伊賀 守居 城 之 由 申伝 候 」 とい う記 載 が あ る 。須 貝 伊 賀 守 の 存 在 自体 に つ い て は, 前掲12), 85頁,「 上 杉 景 勝 朱 印状 」, 天 正11年 (1583) に よ り確 認 さ れ る が, そ の 出 自や 動 向 に つ い て は不 明 な点 が 多 い 。

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戦 国期 越 後 に おけ る集 落 形 成 (田 中) 125 で あ った と伝 え られ て い る 。 これ よ り, 新 保 内 膳 の牧 目村 土着 は 天正 期 頃 で あ った と考 え られ 51) る。 三 之 丞 は, 寛 文 検 地 帳 に お い て, 村 内 で最 高 の4筆 の屋 敷 地 を名 請 して お り, 分 家 を 出 した 形 跡 もみ られ な い 。 こ の こ と も, 牧 目村 の な か で も土 着 時期 の遅 か っ た新 保 家 が, 近 世 初 期 に お け る開発 の最 も積 極 的 な担 い手 で あ り, 当時 の 「松 蔭」 開発 の主 導 者 と して, 開発 労 働 力 を 抱 え こん だ農 業 経 営 を展 開 して い た こ とを反 映 した もの で あ っ た と考 え られ る。 岸 ・新 保 家 以 外 に も, 牧 目村 に存 在 す るマ キ の 本家 の多 くに, 村 へ の土 着 の伝 承 が 残 っ てい る。 岸 ・新 保 家 以 外 で 明 らか に な っ た事 例 をあ げ る と, 福 厳 寺 檀 家 の増 田家 は, 元 来 の居 住 地 は伝 え られ て い ない もの の, 永 正 年 間 (1504∼ 21) に 増 田 伊右 衛 門 が この 地 に土 着 した の が 始 52) ま りで あ る と伝 えて い る。 海 蔵 寺 檀 家 の 東 家 は, 中世 に八 日市 (村上市 岩船町八 日市) 地 内 の 砂 丘 上 に あ る 「長 者 屋 敷」 に居住 して い た 東 彦 五 郎 の 子 孫 で あ り, そ の 後 松 山 村 (村上市 松 山) に 53) 移 転 した と伝 え られ る東 家 の 分 家 で あ った 。 臼 井 家 は, 金 屋 村 (荒川町金屋) に 居 住 す る 臼 井 家 の分 家 とされ て い る。 また, 加 藤 家 は, 近 世 初 期 に村 上 城 主 で あ った堀 丹 後 守 の 家 臣加 藤 三 太 夫 が 除 地 を与 え られ て 牧 目村 に土 着 した もの で あ る とい う。 牧 目村 は12種 類 もの 名 字 (マキ) に よ って 構 成 され て お り, ほ ぼ 各 家 ご と に異 な る寺 の檀 家 で あ っ た (第4表 参 照)。 これ は, 牧 目村 の 集 落 54) 構城 上 の 大 きな特 徴 で あ る。 牧 目村 が他 地 域 か らの 移 転伝 承 を有 す る家 々 に よ って構 成 され て い た こ とは, 牧 目村 の 形 成 過 程 に関 わ る特 徴 で あ る と と もに, 牧 目村 の 集 落構成 上 の特 徴 を も た ら した要 因 を語 る もの で あ る と考 え られ る。 以 上 に関連 して, 第II章 で検 討 した, 牧 目村 が周 辺 村 落 に比 して遅 れ て形 成 され た要 因 を考 えて み る と, 牧 目村 の水 利 状 況 が浮 か び上 が る。 荒川 用 水 東 幹 線 は, 神 納 郷 平 野 の東 部 に位 置 す る丘 陵 の裾 を数 ヶ村 を通 過 して掘 り進 め る もの で あ り, そ の 開削 に は精 巧 な測 量 ・土 木 技 術 が 必 要 で あ る と と もに, 多 大 な労 働 力 が 必 要 で あ った 。 こ う した大 規 模 な労 働 力 の投 入 は, 牧 目 村 単 独 で は成 し得 な い もの で あ り, 一 村 の 枠 を 越 え た広 域 的 な労 働 力 の編 成 に よ り初 め て 可 能 とな る もの で あ っ た。 六 本 木 健 志 は, 大 永 年 間 (1521∼27) の貢 納 帳 を用 い て, 諸 上 寺 に よる岩 船 潟 沿 岸 の 耕 地 開 発 に土 木 技 術 者 と して番 匠大 工 が 関与 した こ と 55) を指 摘 した。 諸 上 寺 に よ る 開発 に従 事 した番 匠 大 工 が, 色 部 氏 の 厚 遇 を受 け て い た こ とは, 56) 『色 部 年 中 行 事 』 に よ り見 て取 れ る。 加 え て, 57) 番 匠大 工 は, 色 部 氏 領 に も給 地 を有 して お り, 当時 の色 部 氏 領 にお いて も, 番 匠 大 工 を用 い た 51) 新 保 家 の 屋 敷 地 内 には 虚 空 蔵 堂 が 存 在 した 。 これ は新 保 内膳 に よ り寛 永4年 (1627) に建 立 さ れ た もので あ った (神 林 村 牧 目 ・岸 イ ネ氏 所 蔵, 虚 空 蔵様 の 像 の 裏 書 きに よる)。 52) 神 林 村 牧 目 ・増 田 専 一 家 の 記 録 に よ る。 53) 東 彦 五 郎 に関 して は 前 掲12), 489頁,「 色 部 資 長 譲 状 」, 応 安3年 (1370) に八 日市 一 分 地 頭 東 彦 五 郎 の 記 載 が あ る 。 54) 例 え ば, 山 麓 末 端 部 に 位 置 し, 谷 地 に 展 開 す る 水 田 を 主力 耕 地 とす る岩 野 沢 村 は, 耕 雲 寺 寺 領 帳 に は 「岩 之 沢 名」 と し て 記 載 され て い る (前 掲11), 694頁)。 近 世 の 岩 野 沢 村 は1つ の マ キ に よっ て構 成 され, 全 て 同 一 の寺 の檀 家 で あ った 。 55) 六 本 木 健 志 「北 越 後 岩船 潟 の 開発 と岩船 町-戦 国期 諸 上 寺 の 開発 と その 担 い 手-」, か み くひ む し93, 1994, 14-15頁 。 56)『 色 部 年 中行 事 』 に よ る と, 番 匠 衆 は正 月8日 に色 部 館 に 出 仕 し, 棟 梁 の大 工 左 衛 門五 郎 に御 祝 儀 と して200文 が下 さ れ るの を始 め,「 せ ち ろ俵 一 ツ, 鯖 一 さ し, 昆 布 一 は, に しん壱 目」 の 引 出物 が 下 され て い る。 こ の よ う な厚 遇 は, 他 の職 人 衆 に はみ られ ない 。 と くに, 大 年 に桃 川 (神 林 村 桃 川)・ 宿 田 (神 林 村 宿 田) の 百 姓 か ら色 部 氏 に上 納 さ れ る 「せ ち ろ 俵」 が 引 出物 と して下 さ れ る の は, 色 部 氏 の祈 願 寺 青 龍 寺 と大 工 左 衛 門 五 郎 の み で あ る (前 掲12), 745頁)。 57) 前掲12), 547頁,「 色 部 氏 段 銭 日記 写」, 永 禄6・7年 (1563・64)。

(20)

-19-126 人 文 地 理 第48巻 第2号 (1996) 用 水 開削 と耕 地 開発 が行 な わ れ た こ とは 十分 考 58) え られ る。 そ の結 果 現 出 した の が, 瀬 波 郡 絵 図 に描 か れ た 水 田景 観 で あ った と考 え られ る 。 牧 目村 にお け る名 字 の多 様 性 と, 各 家 に残 る 土 着 の 伝 承 も, 用 水 の整 備 が 色 部 氏 を主 導 と し て 行 なわ れ, そ れ に と もな い様 々 な場 所 か ら移 転 して きた者 た ち に よっ て新 た な集 落 が 形 成 さ れ, 開発 の進 行 と と もに集 落 が 拡 大 して い っ た こ と に起 因す る もので あ っ た と考 え られ る。 マ キ の総 本 家 で あ る有 力 百 姓 間や 本 家 ・分 家 間で の, 水 が か りに対 応 した所 有 耕 地 分 布 の差 異 を もた ら した要 因 もそ こ に求 め られ る もの と考 え る。 VI お わ り に 本 研 究 で は, 越 後 国 岩 船 郡 に位 置 す る牧 目村 を事 例 に, マ キ の構 成 や そ の展 開 に 注 目 して, 戦 国 期 にお け る集 落 の形 成 過 程 を検 討 し, そ の 特 徴 につ い て 考 察 を加 え た 。 牧 目村 内 の独 立 した 一集 落 で あ った小 色 部 は, 中世 にお い て色 部 惣 領 家 の在 所 で あ っ た 。 しか し, 中 世 の色 部 氏 の在 所 で あ る 「色 部 」 と, 色 部 氏 の 平 林 移 転 以 降, 戦 国 期 に 成 立 した 「牧 目」 とは不 連 続 で あ り,「牧 目」 は 旧 来 の 屋 敷 地 の 水 田化 や新 た な集 落 の形 成 に と もな っ て成 立 した と推 定 さ れ た。 寛 文11年 検 地 帳 にお け る牧 目村 の名 請 人 とそ の所 有 耕 地 の分 布 につ い て 検 討 した結 果, 小 色 部 集 落 に屋 敷 を有 す る 田 中郷左 衛 門 は小 色 部 区 域, 牧 目集 落 中央 部 に屋 敷 を有 す る河 内 太郎 兵 衛 は桶 田 区域, 牧 目集 落 南 西端 に屋 敷 を有 す る 岸 長 次 郎 と新 保 三 之丞 は松 蔭 区域 に所 有耕 地 が 集 中 して い た 。 これ よ り, 当 時 の牧 目村 の有 力 百 姓 で あ った 田 中 ・河 内 ・岸 ・新 保 の4家 の 間 に は, 屋 敷 の 位 置 や 所 有 耕 地 の 分 布 に 明確 な相 違 点 が あ り, この 差 異 が, 牧 目村 の水 田 の水 が か りに対 応 して い た こ とが 明 らか に な っ た。 次 に, 有 力 百 姓 の 所 有 耕 地 分 布 と牧 目村 の 開 発 過 程 との 関係 を考 察 す るた め に, 田 中マ キ を 事 例 に, マ キ の 本 ・分 家 の所 有耕 地分 布 を検 討 した 。 そ の結 果, 田 中 マ キ の 牧 目集 落 へ の分 家 輩 出 は, 小 色 部 区域 以外 の水 田 の 開発 を契 機 と した もの で あ った と推 定 され た 。 さ らに, 村社 の氏 子 総 代 を検 討 す る と, 荒川 用 水 の水 が か り 区域 の 開発 が, 牧 目集 落形 成 の契 機 とな った と 考 え られ た 。 加 え て, 牧 目村 の集 落 構 成 上 の特 徴 と して, マ キ の多 様 性 が あ げ られ, 多 くのマ キの 本 家 に は他 所 か らの移 転 伝 承 が あ っ た。 これ は, 様 々 な場 所 か ら移 転 して きた者 た ち に よ って 集 落 が 形 成 さ れ, 開発 の進 行 と と もに集 落 が拡 大 して い っ た こ と に起 因す る もの と考 え られ た 。 牧 目集 落 の 形 成 要 因 と な っ た と推 定 され る新 用 水 の 開 削 は, 牧 目村 単 独 で は不 可 能 で あ り, 色 部 氏 に よ る広 域 的 な労 働 力 編 成 が想 定 され た。 牧 目集 落 の 形 成 は, 牧 目村 単独 の 問題 で は な く, 戦 国 期 にお け る色 部 氏 領 の 景観 変化 の な か の一 事 象 で あ った と考 え られ る。 そ れ ゆ え, 色 部 氏 領 にお け る景観 変化 の全 貌 を把 握 す る こ とに よ り, 牧 目集 落 の形 成 過 程 や, 集 落構 成 上 の特徴 で あ るマ キ の多 様 性 が もた ら され た要 因 もさ ら に明確 に し得 る と と もに, 集 落 形 成 の地 域 的 な 特 徴 に迫 る こ とが で きる と思 わ れ る。 この 問題 につ い て は, 今 後 の課 題 と した い。 〔付記〕 本稿 の作成 にあた り, 元筑波大学 の田 中圭一先生, 筑波大学歴史 ・人類学系の石井英也 先生 に御指導いただ きま した。 また, 筑波大学地 球科学系の中川 正先生 には英文要旨を校 閲 して 58) 文 禄3年 (1584) の 「知 行 定 納 覚 」 に お け る宿 田村 の 条 に 「弐 石 五 斗 関 免 菟 里 辺 村 共 」 とい う記 載 が あ る (前 掲 19), 田 嶋 文献, 188頁)。 宿 田 村 と鳥 辺 村 (神 林 村 川 部) の位 置 関係 か らみ て, この 関 は荒 川 用 水 の取 水堰 を指 す もの で あ る可 能 性 が 高 い 。 これ よ り, 荒 川 用 水 自体 は, 文禄3年 以 前 に 開削 され た と思 われ る。 瀬 波 郡 絵 図 に描 か れ た 色部 氏 領 の 景 観 ・牧 目集 落 の 形 成過 程 ・色 部 氏 と番 匠大 工 との 関係 か らみ て も, 荒 川 用 水 東 幹 線 の 開削 が, 牧 目集 落 の 形 成 と連 動 した もの で あ った 可 能性 が高 い と思 わ れ る 。

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