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駒澤大学佛教学部論集 39 016清水谷 善曉「『ダンマパダ』における信について」

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駒澤大學佛 學部論集 第39號 成20年10月

『ダンマパダ』における信について

清水谷 善曉

1.はじめに 信についてはすでに種々なる研究がなされている。資料を原始仏典に限ると 次のような諸研究が挙げられる。まず藤田宏達博士によって、パーリ4部経典 をはじめとして律蔵・小部経典を含めた、網羅的な研究がなされた 1 。その後、 4部経典に限定した望月海淑博士の論考や、Sn., Dhp., Therag., Ther gを対 象とした田中教照博士の研究が発表されている 2 。これら原始仏教における信 の研究は、文献において信の意味で使われている語義を考察することで、仏教 における信仰の意義づけを行い、思想をつかもうとするものが大半である。 筆者は目下、資料を原始仏典における経(sutta)に限定し、先行研究によ って明らかにされた信の有様を再検討するかたちで、まず信に相当する語句と その類語の用例を精査している。その作業を通じて、信とその結果得られる果 報との関係に留意しつつ、出家修行者・非出家修行者双方にとっての信の意義 やその重要性の高揚の過程を検証している。さらに当時のインドにおいて、出 家修行者・出家教団が信を世俗の人々にどのように説いたか、またそれによっ て世俗社会とどのように関わろうとしたのかという観点からも考察を加えてい る。これまで一般的に原始仏典の中でも成立が古いとされるSn., Therag., Ther g.については上述の観点からの考察をすでに終えている 3 本稿は、その一環として、これまでに検討した文献と同様に成立が古層に位 置づけられるDhp.を対象とし、信が当時の人々にとってどのような意義を持 ち、位置づけられていくのか、さらに信が重要視されていく過程について検討 していくものである。その際、異なる部派が伝持したDhp.の諸本も参照する。 それにより、部派における信に相当する語の受容についても概観していきたい。 尚、本来信が各部派で如何に解釈されたかは、各部派の論書を検討しなければ ならないが、あくまで本稿ではDhp.を中心に据えて考察するので、それに関 しては別の機会に譲ることにする。

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2.Dhp. に関して Dhp.はKhuddakanika-yaの第2番目に位置し、その構成は26品423偈である。 使用言語はパーリ語であり、スリランカ上座部が伝持しているものである。主 として仏教の倫理的教義を教え、また仏道入門の指針とされることから、三蔵 中特に尊ばれる経典である 4 とされる。 Dhp.はV. Fausböllなどによりテキストの校訂出版が行われているが、本稿で はPTSから出版されている最新のものを底本とする。 また、本経は多くの諸本があることでも知られており、本稿において中心的 に取り扱うDhp.の他に、今日その現存が確認されているものに以下のものが ある 5 ① 漢訳『法句経』2巻 ②『法句譬喩経』4巻 ③ Ga-ndha-r Dharmapada(以下GDhp.とする) ④ Maha-vastu (以下Mv. とする) 所引のDharmapada ⑤ Patna Dharmapada(以下PDhp.とする) ⑥ 梵文 Uda-navarga(以下Uv. とする) ⑦ チベット訳 Uda-navarga(Ched-du-brjod-pah. i tshoms)

⑧ Uda-navargavivaran.a(Ched-du-brjod-pah.i tshoms-kyi rnam-par

h. grel-pa) ⑨ 漢訳『出曜経』30巻 ⑩『法集要頌経』4巻 ⑪ トカラ語Uda-navarga しかし、これら多くの諸本すべてを検討することは困難である。そこで本稿で はDhp.を中心に、GDhp., Mv., PDhp., Uv.,漢訳『法句経』を適宜参照しながら、 信に相当する語を精査することにする。 検討に入る前に、まず本稿で扱う諸本について若干の補足を加えておくこと にする。 ③ GDhp.は樺皮の上にA. D. 2c 頃の書体のKharos.t.h 文字で書かれており、 その言語は、西北インド方言の特徴あるプラークリットであるため、ガンダー ラ語 (Ga-ndha-r ) と命名されている。その構成は本来26品540偈前後であっ たと考えられているが、現存するのは350偈ほどである 6 。所伝部派は法蔵部と されている。また、GDhp.に関しては本稿で底本として用いるJohn Brough博

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士の著書の他に、近年新たな資料も出版されている 7

④ Mv.ではDharmapadaの名を挙げて、そのSahasra-varga(千品)を引用し ている。その使用言語は古典梵語(Classical Sanskrit)ではなく、仏教混淆梵 語(Buddhist Hybrid Sanskrit)である

8 。そしてMv.では、所伝していた部派が 大衆部であることが記されている。 ⑤ PDhp.はProto-Bengali文字で書かれ、A. D. 11c 頃のものと推定されてい る。写本の奥書には502偈があると記されているが、現存しているのは第414 偈までであり、約90偈ほど欠落がしたということになる 9 。また、その使用言 語は仏教混淆梵語である 10 。そして、所属部派に関しては説出世部 11 や正量部 12 との関係が指摘されているが、未だに確定されていないようである。しかし、 思想的には古い伝承を保持しているとされ、PDhp.は枝末分裂以前で、上座部 系では有部の古型、もしくは大衆部系での古型を示すとの見解がある 13 PDhp.に関しては、先行研究において様々な呼称が用いられているが、本稿 では近年の研究動向に従いPDhp.を用いることにする。 ⑥ Uv.は、説一切有部がDhp.に相当する経典として保持していたものとされ ている。Uv.には完全な形のものはなく、ヨーロッパの探検隊が収集した断片 的な写本を整理したものが現在用いられている。その構成は33品978偈である とされるが、写本間で同一偈に異読があるので、正確な数は不明である 14 。ま た使用言語は、純粋な古典梵語ではなく、仏教混淆梵語であると指摘される 15 。さらに、Uv.には中央アジアで発見されたスバシ写本と呼ばれるものもあり、 この写本はA. D. 3c 末から4c 初めに制作されたと推定されている 16 最後に① 漢訳『法句経』は39品約750偈から成っている。その成立は「法句 経序」に記されており、それによると本経は、まずインド僧が将来した五百偈 本(パーリDhp.と同系統のものと考えられる)を基礎として、九百偈本(Uv. 系統のもの)と五百偈本以前に訳出されていた七百偈本から追加されたという。 尚、七百偈本がどのようなものであったかは不明である 17 では、これら諸本における成立の先後関係はどのようになっているのであろ うか。この問題については、先学により言語的・思想的など多角的に検証され ている。それらによると、Dhp.が最も古いと考えられ、次いでPDhp., GDhp., Mv.と続き、最後にUv.が成立したであろうとされている 18 最後に漢訳『法句経』の位置づけであるが、「法句経序」によれば、翻訳に 携わった竺将焔 19 と維祇難 20 が黄武三年(A. D. 224)にインドから武昌にやって

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来たことに始まるので 21 、その成立は少なくともA. D. 224以降となることが確 認できる。 3.信に相当する語 信に相当する語として以下の6つが挙げられる 22 ① s´raddha- (Pa-li: saddha-)

② prasa-da (Pa-li: pasa-da ③ adhimukti (Pa-li: adhimutti ④ saran.agamana

⑤ bhakti ⑥ sampratyaya

これらの内、saddha-, pasa-da, adhimuttiの3語が信に相当する語として一般的 と言われるので

23

、本稿でもこれら3語について精査していくことにする。

a) saddha

-s´raddha- (Pa-li: saddha-) というこの単語はs´rad-√dha-という語根から造られ

たもので、「置く」という意味の動詞√dha- にsatya「真実」と解せられている

s´rad(s´rat) をつけて、古来から信を表す語として使用されている 24

以下用例を挙げて、saddha- の用法ついて検討していく。

asubha-nupassim. viharantam. indriyesu susam. vutam. bhojanamhi ca mattaññum. saddham. a- raddhav riyam. tam. ve nappasahat Ma-ro va-to selam. va pabbatam. . (Dhp.8)

不浄と観じながら住し、諸感官をよく制御し、食物の適量を知り、信あり、勤め励 む者を、悪魔は全く征服できない。風が岩山を[征服できない]ように。

saddha-ya s lena ca viriyena ca sama-dhina- dhammavinicchayena ca sampannavijja-caran.a-

patissata-pahassatha dukkham idam. anappakam. . (Dhp.144)

信により、戒により、精進により、精神統一により、法を決定することにより、明 行具足し、憶念して、この少なからざる苦を乗り越えよ。

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れている。これは、Sn.やTherag.において、様々な修行徳目の1つとして、ま た理想的な人物が具える資質の1つとして挙げられているのと同様の用法であ 25 。そこでその修行徳目に注目するならば、両偈ともに信と併記されるその 他の修行徳目は雑然と並べられているようにも見える。事実Dhp.8に関しては、 並べられる徳目に法則性を筆者は見出し得ない。しかしDhp.144においては、

五根(信・勤・念・定・慧)の内、信・勤(viriya)・定(sama-dhi)の3つが

示されている。さらに偈の下線部「法を決定すること」(dhammavinicchaya) は「正しい決断」、「真実の識別」と解されることから

26

、この語を智慧と関係 して考えることができよう。そこで「法を決定すること」を五根の「慧」

(pañña- ) と解釈するならば、本偈は「念」(sati)が「戒」(s la)と入れ替わ

っているだけで、5つの修行徳目の内、4つが揃うことになり、よって五根の かたちに非常に近くなる。このことから、本偈は修行体系としての五根が形成 されるまでの一過程を示す偈であるとも考えられるのである。 この偈の限りでは、未だ五根の体系が整備されていないかの如くであるが、 本経が編纂された時にはすでにその体系が完成していたと推測できる箇所があ る。

pañca chinde pañca jahe pañca vuttaribha-vaye

pañcasan.ga-tigo bhikkhu oghatin.n.o ti vuccati. (Dhp.370)

5つ[の束縛]を断ち、5つ[の束縛]を捨てるべきである。さらに5つを修習す べきである。5つの執着を越えた比丘は、暴流を渡ったもの、と言われる。 本偈では4つのpañcaが示されるが、下線部のpañcaは、註釈において「pañca vuttaribha-vayeとは、(五)上分結の捨断のために信等の五根を修習すべき 27 と説明され、修行体系としての五根を意味すると解釈されている。また漢訳 『法句経』の相当偈 28 においても「思惟五根」と訳されているように、この語が 明確に五根と規定されているのである。 但し、これらの解釈をもって、本偈の作成時に五根の概念が確立していたと 見るのは早計であろう。そこでこの問題を検証するために、Dhp.と同様に成 立が古層に位置づけられる経を参照してみたい。Therag.には次のような偈が ある。

bha-vento satipat.t.ha- ne indriya-ni bala-ni ca

bojjhan.ga-ni ca bha-vento viharissa-mi ka-nane. (Therag.352)

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支を修習しながら、私は森林に住むだろう。

この偈において注目すべきはDhp.370と同様に、下線部の「修習する」(bha-veti

という動詞が用いられている点である。ここでは念処(satipat.t.ha-na)・根

(indriya)・力(bala)・覚支(bojjhan.ga)が列挙されていること、またこれらに

かかる動詞が「修習する」(bha-veti)であることから、修行体系が示されてい ると考えるのが自然であろう。よってTherag.352は「五」(pañca)は明示し ていないものの、「根」(indriya)を五根に比定することができる。他方、 Dhp.370は「五」(pañca)というのみで、「根」(indriya)に相当する語がない。 しかし支配する動詞はTherag.352と同様に「修習する」(bha-veti) なので、 その目的語である「五」(pañca)は何かしらの実践項目であることは想像に 難くない。したがって、この偈の作成時に五根という修行体系がすでに存在し たと考え得るのである。また、出家修行者たちがこれだけ簡略に説かれた Therag.352, Dhp.370をもって修行徳目を示すものとして理解するならば、当 時すでに五根は共通の認識であり、さらにはその修行体系の一要素としての信 も明確に意識されていたと見ることができよう。 その他、信 (saddha- ) が修行の際に必要な徳目として挙げられていること から、信を含めた諸徳目を修めることや修めた人に対する賞賛の偈が存在して いる 29 。しかしながらDhp.において、信が単独で強調される偈を見出すことは できない。この点はSn., Therag., Ther g.と同様である。このように信が必ず 諸徳目と共に表現された背景には、その重要性が認められつつも、さとりの到 達には信だけでなく、他の実践が必ず伴わなければならないという認識があっ たと考えられよう 30 これまでにDhp.中のsaddha- について検討してきたが、Dhp.が主として出家 修行者を対象に説かれているとの指摘があるとおり 31 、その用例の多くは、修 行に必要な徳目、または理想的な修行者の一要素として挙げられていた。さら に五根と推測される表現が見られることからも、Dhp.においては、すでに修 行体系における信の位置づけが確立し、その意義が認められていたことが見て 取れる。 尚、Uv.ではs´raddha--vargaという章を立てるかたちで、また漢訳『法句経』 でも「篤信品」を設けて、saddha- に関する記述が集められるに至っている。 しかし、これらに先行して成立したとされるDhp., PDhp., GDhp.ではこのよう な傾向は見られない。この事実から、後の時代においてもsaddha- の意義が認

(7)

められ、部派の時代にはその重要性がさらに高まっていたことが推察できるの である。換言すれば、Dhp.編纂時には、saddha- の地位は確立されつつあった が、まだ整理されるほど重要視されていなかったということであろう。 b) pasa-da 次にpasa-daは、サンスクリット語のprasa-daと同義語とされ、漢訳では「浄」 「清浄」「浄信」と訳される。そのprasa-daはpra-√sadから造られた名詞であっ て、√sadは「坐る」「沈める」などの意味を持ち、これに接頭辞praがついて、 「しずめる」「浄化する」「満足する」などの意味に解せられる 32 。pas a-daはこ のように本来信(saddha- )の意味をもつものではなかったが、後代の南方上座 部、説一切有部及び瑜伽行派の3系統の伝統的解釈では、pasa-daを信の属性を 表すのにふさわしい語と見ている。したがって、信の内容は静かで浄らかな心 の状態、作用、性質を持つものであることが示されている 33 では以下に用例を見ていくことにする。

yatha-pi rahado gambh ro vippasanno ana-vilo

evam. dhamma- ni sutva-na vippas danti pan.d. ita- . (Dhp.82)

深い湖が明浄であり、濁りがないのと同様に、賢者は法を聞いた後、[心] 浄らか になる。

vippasanno, vippas dantiは共にpasa-daの派生語であるが、本偈ではpasa-daと同 様に「浄らかさ」を意味している。この偈文で説かれるような、「聞法の後、 心が浄らかになる」という表現はSn.やTherag.中に散見される 34 では、なぜ心浄らかであることが、このように強調されて説かれるのであろ うか。次の偈からその理由を見出すことができよう。

manopubban.gama- dhamma- manoset.t.ha- manomaya-manasa- ce pasannena bha-sat karoti

va-tato nam. sukham anveti cha- ya- va anapa-yin . (Dhp.2)

諸法は、心によって導かれ、心が最上であり、心によって作られる。もし浄心によ って語ったり、或いは行ったりするならば、安楽はその人に従う。影が[本体を] 離れないように。 上掲の偈からも分かるように、浄らかな心にもとづく行為というものには、安 楽という果報がもたらされる。本偈の表現では、出家修行者・非出家修行者の 双方に当てはまりそうであるが、この教えが出家修行者のみに適用されると次

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のような説示になるのであろう。

pa-mojjabahulo bhikkhu pasanno Buddhasa-sane adhigacche padam. santam.

sam. kha- ru-pasamam. sukham. . (Dhp.381)

喜悦に満ち、ブッダの教えに対して心浄らかな比丘は、寂静であり、形成力の止息 した安楽なる境地へ到達するであろう。 ここでは、ブッダの教えに対して心浄らか(pasanna)であるならば、寂静な る境地、すなわち、さとり・涅槃の境地に到ることができる、と説く 35 。逆に 言えば、この偈をもって、浄心でなければ到達できないという意味に解釈する こともできる。このことをより端的に示しているのが次の偈であろう。

anavat.t.hitacittassa saddhammam. avija- nato

pariplavapasa-dassa pañña- na paripu- rati. (Dhp.38)

心が確立しておらず、正法を知らず、浄心が揺らぐならば、智慧は完成しない。 上掲の偈より心浄らかであることが、涅槃やさとりへの智慧を得るための1つ の要因として当時から考えられていたことが知られるのである。 pasa-da、つまり浄心の状態であることを推奨する偈は、かつて検討した Therag.中にもその用例を幾つか見出すことができたが 36 、管見の限り、浄心 がさとりの境地へ導く条件の1つとして明確に示されている例は珍しい。この 事例をもって、pasa-daにおける意義の強調を看取することができる。 しかしながら、pasa-daが五根の一要素としての地位が確立されていくsaddha -の如くに、体系的な実践道の1つとして纏められていく傾向を、少なくとも Dhp.中において確認することはできない。 さて、saddha- が時代を経るに従って、その重要性を意識されての故か、単 独の章が設けられたことはすでに触れた。では、pasa-daの場合もsaddha- と同様 に、重要視されていく事例を見出すことができないだろうか。 まず、Dhp.の諸本において、pasa-daを主題とする章を有するテキストは見 られない。しかし、注目すべきものとして、Dhp.70と諸本の該当偈がある。

ma-se ma-se kusaggena ba-lo bhuñjetha bhojanam.

na so sam. khatadhamma- nam. kalam. na- gghati sol.asim. . (Dhp.70)

愚者は月々に茅草の葉先で食事を摂っても、法を究めた人々の16分の1にも値しな い。

(9)

本偈は、愚かな者について纏められたBa-la-vaggaの中の1つである。ここで説 かれるのは、「茅草の葉先で食事を摂る」という極度の食事制限を行う当時の 苦行者に対する仏教側からの批判であろう。 そもそもこの偈にはpasa-daに関連する語はないが、PDhp. , Mv. , Uv.の対応 偈では同種のある変化が見られる。紙幅の関係上、本稿ではUv.の原文とその 訳文のみを挙げ、PDhp., Mv. 37 の対応偈は註で示すに留める。

ma-se ma-se kus´ a-gren. a yo hi bhuñj ta bhojanam

na tad buddhe prasa-dasya kala-m arghati s.od.as´ m. (Uv. 24, 17

38

月々に茅草の葉先で食事を摂る人は、仏に対して浄心することの16分の1にも値し ない。

ma-se ma-se kus´ a-gren.a yo hi bhuñj ta bhojanam

na tad dharme prasa-dasya kala-m arghati s.od.as´ m. (Uv. 24, 18

39

月々に茅草の葉先で食事を摂る人は、法に対して浄心することの16分の1にも値し ない。

ma-se ma-se kus´ a-gren.a yo hi bhuñj ta bhojanam

na tat sam. ghe prasa- dasya kala-m arghati s. od.as´ m. (Uv. 24, 19

40 月々に茅草の葉先で食事を摂る人は、僧に対して浄心することの16分の1にも値し ない。 以上のように、Dhp.70の「法を究めた人々の」が、PDhp. , Mv. , Uv.では「仏 に対する浄心(prasa-da)の」に書き換えられ 41 、それ以降、仏にかわり法・僧 などに言い換えられた偈が増広されている 42 ここでは、極く少量しか食べないという苦行よりも仏・法・僧などへの浄心 の方が優れ、具体的には、浄心による果報が苦行による果報の16倍もあること が示されているのである。 類似の改変及び増広は、Dhp.106とそれに対応するUv. 43 , PDhp. 44 , Mv. 45 の偈 に加え、さらにはGDhp.においても見出し得る 46 。Dhp.106では、祭祀を数多 く行うより、一瞬でも自ら修習する人を供養する方が功徳が大きいことを説く が、それが上述の諸本では、供養することからDhp.70の場合と同様に仏・ 法・僧などへの浄心の果報が優れていることを強調する文脈に変化しているの である。

(10)

では、このような改変はいつ行われたのであろうか。 その問題を検討するために、諸本の所伝部派について外観しておきたい。 最も成立が新しいとされるUv.を伝持していた説一切有部は仏滅後3cに分出 したとされ、B. C. 1cには大衆部と共にマトゥラーで有力な部派であったとさ れている 47 。次いで成立が新しいMv.については説出世部所伝のものと文献自 体に明示されている 48 。説出世部といえば、仏滅後2cに大衆部から分出したと も伝えられる部派である 49 。そしてGDhp.の所伝部派とされる法蔵部は、伝承 によって化地部、説一切有部、分別説部のそれぞれから分派したとされ 50 、不 明な点が多い。しかしながら、碑文からA. D. 2c中葉にマトゥラーにおいて勢 力を保持していたことが確認されている 51 。そして最後にPDhp.の所伝部派に ついては説出世部 52 や正量部 53 との関係を指摘するものがあるが、未だにその部 派は確定されていない。ところが、PDhp.のテキストは思想的に古い伝承を保 持しているとされ、その成立を枝末分裂以前とする指摘がある 54 。仮にそうで あるならば、上述のような改変増広が仏滅後1~ 2cという古い時代に行われた 可能性が考えられるのである。 以上、テキストの改変時期に関して、1つの可能性を提示した。しかし、こ の改変時期に関してはあくまで仮定の話である。但し、これまで検討してきた 通り、大衆部系(説出世部)と上座部系(説一切有部・法蔵部)双方のテキス トから、prasa-daへの同様の改変増広部分が見出せた。この事実から、幾つか の部派において、この改変増広が受け入れられていたことは確実である。さら に言えば、浄心(=信じること)自体による功徳、そしてその功徳の大きさと いうものが、部派の垣根を越えて受容されていたのであり、そこから出家修行 者・出家教団のpasa-da重視の意図が見て取れるのである。 c) adhimutti 最後にadhimuktiはadhi-√mucから造られた語である。パーリ語のadhimutti はサンスクリット語のadhimuktiに比定される。adhimuktiは南方上座部におけ る信の内容として説明されるもので、「その上に心を傾ける」というのを本来 の意味としており、対象に対して明確に決定する心作用であるとされる 55 。し たがってこの言葉は、真理をよく理解すること、真理に対する確信などを示す と考えられ、「勝解」「信解」と訳される。

(11)

なく、管見の限り次の2偈のみである。

sada- ja-garama-na-nam. ahoratta- nusikkhinam.

nibba-nam. adhimutta- nam. attham. gacchanti a- sava-.(Dhp. 226)

常に目覚めていて、昼夜に学び、涅槃を志向する者たちのもろもろの煩悩は消え失 せる。 ここでのadhimuttaは、動詞adhimuccatiの過去受動分詞である。本偈において は、語源的意味としての「その上に心を傾ける」即ち「志向する」「目指す」 といった、本来の意味で使われていると見てよいだろう。 そしてもう一つの用例は以下のものである。 yo nibbanatho vana-dhimutto vanamutto vanam eva dha-vati tam. puggalam eva passatha

mutto bandhanam eva dha-vati (Dhp. 344)

欲望から離れながら森を志向し、森を脱しながら他ならぬその森に向かって走る。 他ならぬ、この者を見なさい。[束縛から]脱しているにもかかわらず、束縛に向 かって走る。 上掲の偈はバラモンの「林棲期」(va-na-prastha) に対する仏教側の批判とさ れ、また、言葉遊び (word-play) のために、「森へ行くこと」が「欲望へむ かう」と解釈し得ると指摘されている 56 adhimuttiに関する語に着目するならば、本偈でもadhimuttaは森という対象 に「心を傾ける」、つまり本来の意味で使用されたものと認められる 57 。ところ が、Dhp.226においてはadhimuttaの対象が「涅槃」(nibba-na) という、仏教 では目指すべきものであるのに対し、Dhp.344では「森」(vana) 、上述の解 釈に従うならば「欲望」という、仏教では避けるべきものがその対象となって いる。したがって、adhimuttaはその対象を特別制限されることなく用いられ ていたのである。 少ないながらも、以上2偈に関してadhimuttiの用例を検証してきた。しか し、Dhp.におけるその用法において、adhimuttiは本来的な意味から離れるこ とは無く、仏教特有のものを見出すことができなかった。 また、saddha-, pasa-daのようにDhp.の諸本間の比較を試みたが、両語のよう に重要視されていく事例を見出すことができなかった。

(12)

4.まとめ まずsaddha- については、それ自体が修行徳目及び理想的な出家修行者が具 える要件の1つとして示され、またさとりへの修行体系である五根の一要素と して最終的に組み込まれるに至った経緯を確認した。この点においては意義の 高揚を見てとることができるが、Sn., Therag., Ther g.における用法と同様に、 Dhp.においても、saddha- は諸々の修行徳目とともに挙げられるものの、単独 で強調されることはない。それゆえDhp.編纂時にsaddha- の重要性は認識され ていたが、それはあくまで実践道の一要素としてであり、その意義に制限があ ったと推察できる。ところが、さらなる重要性の高揚のためか、それ以後成立 した本においてsaddha- に関する教説が集められ、単独の章が設けられるに至 っている。 次にpas a-daに関して言えば、Dhp.においてさとりへの智慧獲得に至るため の一要因として挙げられる点はSn., Therag., Ther g.と比較して異なる用法で あり注目される。しかしDhp.中でのpasa-daは、少なくとも体系的に纏められ るに至っていない。但し、このことが直ちにpasa-daの軽視を意味する訳ではな い。むしろsaddha- の重要性の高揚と比例するかのように、Dhp.以降の諸本で は、文言を改めてまでpasa-daの功徳を強調している。したがって、pasa-da重視 の気運は、早ければ枝末分裂が起こる前に高まっていた可能性を指摘し得るの である。また、大衆部系・上座部系双方のテキストからpasa-daへの改変増広が 見られるという事実は、pasa-daによる功徳、そしてその功徳の大きさが部派の 垣根を越えて認められていたことを示していると言えよう。 最後にadhimuttiは用例が少なく、その用法も本来的な意味から離れるもの ではなかった。そして、諸本間の比較からも特筆すべき意義高揚の事例を見出 すことができなかった。

以上、Dhp.における信を検討するため、saddha-, pasa-da, adhimuttiの3語に

ついて検討してきた。特にsaddha- とpasa-daについて、いずれも主に出家修行

者に向け、さとりへの境地・智慧の獲得のための条件として描かれていた点は、

Dhp.における信のあり方の基調をなすものと言えよう。そして、両語共にそ

の意義は絶対的なものではなく、あくまで実践道の一要素としての範囲をでる ことはない。この点もDhp.において指摘し得る信の一側面である。

(13)

【略号表及び参考文献】 ・一次資料

Sn. : Suttanipa-ta. Therag. : Theraga-tha-. Ther g. : Ther ga-tha-. Dhp. : Dhammapada. Dhp-a. : Dhammapada-atthakatha-.

以上の底本は、PTS版を用いた。

GDhp. : Ga-ndha-r Dharmapada.

The Ga-ndha-r Dharmapada. Edited by John Brough. London: Oxford University

Press, 1962.

PDhp. : Patna Dharmapada

“Patna Dharmapada I.” Edited by M. Cone, Journal of the Pali Text Society 13,

pp.101-217, 1989.

Uv. : Uda-navarga.

Uda-navarga. Herausgegeben von Franz Bernhard. 2Bände. Sanskrittexte aus den

Turfan-funden X. Abhandlungen der Akademie der Wissenschaften in Göttingen, Philologisch-Historische Klasse, Dritte Folge, Nr. 54, Göttingen: Vandenhoeck und Ruprecht, 1965.

Mv. : Maha-vastu.

Le Maha-vastu: Texte Sanscrit publié pour la première fois et accompagné d’ introductions et d’ un commentarie, 3vols. par ´E Senart (Collection d’

ouvrages orientaux, Société Asiatique, seconde serie), Paris: 1882, 1890, 1897.

『法句経』:『法句経』2巻,『大正新脩大蔵経』( T.)第4巻, No. 210. ・二次資料 藤村隆淳 2002 『マハーヴァスツの菩薩思想』山喜房佛書林. 藤田宏達 1957 「原始仏教における信の形態」 『北海道大学文学部紀要』6, 67-110. 引田弘道 2000 『新国訳大蔵経本縁部4 法句経』大蔵出版. 岩松浅夫 1985 「仏教梵語法句経考−説出世部との関係を中心に−」 『平川彰博士古稀記念論 集 仏教思想の諸問題』春秋社, pp. 455-485.

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Lenz, Timothy

2003 A New Version of the Ga-ndha-nr Dharmapada and a Collection of Previous-Birth Stories: British Library Kharos.t.h Fragments 16+25, Seattle: University

of Washington Press. 前田惠學 1964 『原始佛教聖典の成立史研究』山喜房佛書林. 望月海淑 1980 『法華経における信の研究序説』山喜房佛書林. 水野弘元 1981 『法句経の研究』春秋社. 1982 「梵語法句経(SDhp)の研究」『佛教研究』11, 1-48. 2004 『経典はいかに伝わったか 成立と流伝の歴史』佼成出版社. 中村元 1978 『ブッダの真理のことば 感興のことば』岩波書店. 中村英明 1988 『スバシ写本の研究 亀茲国致隷藍の『ウダーナ・ヴァルガ』』人文書院. 並川孝儀 (Namikawa, Takayoshi) 1987 「新資料ダルマパダの伝承 −パーラ王朝期の碑文との関連よりみて−」『印度 學佛教學研究』70(35-2),67-71(L).

1993 “The Transmission of the New Material Dharmapada and the Sect to which

it Belonged,”Buddhist Studies(『佛教研究』)22, 151-166. 西村実則

1995 「サンスクリットと部派仏教教団(中)」『三康文化研究所年報』26 / 27, 33-79.

Norman, K. R.

1997 The Word of the Doctrine (Dhammapada). Translated with an introduction and

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1980 “Particular Features of the Language of the A-rya-Maha-sa-m. ghika-Lokottarava- dins and their Importance for Early Buddhist Tradition,”Die Sprache der ältesten

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清水谷暁 2006a「『スッタニパータ』における信について」『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』 39,73-88(L). 2006b 「『テーラガーター』『テーリーガーター』における信について」『印度學佛教學 研究』110(55-1),147-150(L). 静谷正雄 1978 『小乗仏教史の研究』百華苑. 田中教照 1990 「インド仏教における信」『淳心学報』8, 3-42. 塚本啓祥 1980 『改訂増補 初期佛教教團史の研究』山喜房佛書林. 2001 『インド仏教における虚像と実像』山喜房佛書林. 山田龍城 1981 『梵語佛典の諸文献−大乗佛教成立論序説 資料編−』平楽寺書店. 1 藤田[1957] 2 望月[1980: pp. 10-77],田中[1990] 3 清水谷[2006a],清水谷[2006b] 4 前田[1964: p. 699] 5 前田[1964: pp. 699-700],山田[1981: pp. 48-54]を参照。 6 前田[1964: pp. 704-705],引田[2000: pp. 26-27] 7 Lenz[2003] 8 前田[1964; pp. 706-707],岩松[1985: p. 456] 9 引田[2000: p. 27] 10岩松[1985: p. 455],水野[1982: p. 42] 11 Roth[1980]において、Roth博士はPDhp.の所属部派については明言していない。 しかしRoth博士が説出世部との関わりを示唆しているとみる研究者がいる(岩松 [1985: p. 456],西村[1995: p. 73])。 12並川[1987],並川[1993],水野[1982: pp. 44-48] 13西村[1995: p. 76] 14引田[2000: p. 25] 15水野[1981: p. 53] 16中谷[1988: p. 177] 17水野[1981: pp. 265-270],引田[2000: pp. 19-21],前田[1964: pp. 700-704]参照。

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18水野[2004: pp. 101-103].水野[1981]を始めとして、水野博士によりDhp. 及びそ の諸本について多角的に検討がなされている。 19諸経録は「竺律炎」とも示す。(T.55, p. 227c; 352a; 487b; 784c) 20「耆難」と表記する経録もある。(T.55, p. 401c) 21 T.4, p. 566c. 22田中[1990: p. 3] 23田中[1990: p. 3] 24望月[1980: p. 12],藤田[1957: p. 67] 25 Sn.77; 371; Therag. 693-695; 1019; 1090 etc.

26 Rhys Davids and William Stede ed., Pali-English Dictionary, s. v. “dhammavinicchaya.”

27 pañca vuttari bha-vaye ti uddham. bha- giyasam. yojana- nam. paha- natthaya saddha-d ni pañcindriya-ni uttarim. bha- veyya.(Dhp-a. IV, p. 109)

28『法句経』巻下、沙門品第34、第10偈 (T. 4, p. 572a) 29 Dhp.303; 333. 30藤田[1957: p. 75]では、信を含む実践徳目を精査しその修行体系が「信に始まり慧 に終わる」型であることを指摘した上で、信等はあくまで慧に至る過程としての意義 を担っているに過ぎないことを指摘する。 31中村[1978: p. 377] 32望月[1980: p. 13] 33藤田[1957: p. 83] 34 Sn. 356; 1147; Therag. 673. 35 cf: Dhp.368. 36 Therag. 204;508;509;591. 37以下では、Mv.に引用されている「千品」(Mv. III, pp. 434-436) に、便宜的に番号を 付して示している。 38本偈に対応するのはPDhp.386, Mv.9. 39本偈に対応するのはPDhp.387, Mv.10. 40本偈に対応するのはPDhp.388, Mv.11. 41中村[1978: p. 344]

42 Uv.ではさらに続けて、戒・慈などに言い換えられている(Uv.24, 20-20E)

43 Uv.24, 21-23. 44 PDhp.382-384. 45 Mv.4-6. 46 GDhp.310-312.しかしGDhp.311は、一部が欠落しており、法に関する語が見出せな い。 47塚本[2001: p. 81],塚本[1980: p. 488] 48藤村[2002: p. 3]

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49塚本[2001: pp. 57-58 ; 60-61]中の表参照。 50塚本[2001: p. 85] 51静谷[1978: p. 191] 52註11参照。 53註12参照。 54西村[1995: p. 76] 55藤田[1957: p. 94],望月[1980: p. 12] 56 Norman[1997: pp. 145-146, n. 344],引田[2000: p. 345]

参照

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