弘法大師の御遺告を疑うて順暁阿閤梨の
ことに及ぶ
佐
々
木
憲
徳
一
、
前
叙
弘法大師会集の編者は御遺骨の内容につきて、結封に信用するに足るも O となし 凡御遺品目者、真言之童書、事相之奥底也、古衆無レ有二人疑 ν之 者 − 突 、 室 ν如 三 所 レ 記 之 事 、 問 異 二 一 一 プ 較 指 陣 、 怯 璽集、御請来録等↓頼瑞、快金、賢費等先哲、各通レ難樫レ疑、披ニ税抄み相、撰氷自融耳、 ? と 記 し て ゐ る 。 査 し か L る所論は、御遺告たるもむを真言一宗 D 立場より敬樺観することから来たれるものであ らう。然るに教槽より自由に、,全く第三者。立場にありて虚心不筑に之に劃すれば、舎で古来↓人の疑ふも D L ‘なかったこの御遺骨が、疑はざらんと欲するも疑はねばならぬものとして、眼底に映現し℃くる D である。市し てその探雲はたとへ真言宗の大事臣たる頼職、快金、賢費等の指南を仰いでも、容易に錦ひ去る ζ とを得ざる程 度にまで達してゐる。しかのみならや撰雲むたなびく箇所は、 ζ れあるがために弘法大師の人格と識見とを胃潰 するの感さへ生じ、異になくもがなと思はる与もののみである。予輩と雌民言一宗に教樺鵡せられつ L ある御遺 1 弘法大師の仰遺骨を疑うて限時現阿銅製のとι
に及ぶ :It』日本偽教事協曾年報ハ第年十二一 v 大A !a 舎をぽ傘重すべきととを知って居るし、亦たかりそめにも軽卒に凝議を生やること白、齢、りに設常識なるべをこ とをも心得て居る ρ けれども御遺告そのものが、弘法大師の人格と識見とを胃潰するものであり、且つまた侍敬 穴師にも闘係ある黙を考ふるとき、兎も角之を研究む姐上にあげて、理非曲直を明白にし以て不合理の箇所を指 摘し、不純の混雑せる部介を扶剥して、乃ち弘法大師。異質の相貌を明瞭にせねぽすまないといふ理性の内命を 感余るわけである。そとで古来一人の疑うものなかりしといふ御遺告に劃して、勇気をふるって究理のメス左用 ひゃうと試みるものであるむその研討の意向はひとへに翼賛を頴彰しゃうと欲するほかに他意あることなく、随 て研究の結果たとへ御遺告が否定されることになっても、それは弘法大師の偉徳を昂揚すること L なるべく、決 して之を艶傷する所以となるものではない。だが何分にも未だ粗漏な研究たるととを免かれないので、その謬見 安断に堕れるととろは用捨なく御斧
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を賜はるやう、一大下の明眼宏智の賢哲にお願ひする次第である@=、御遺誠はついて
弘 法 大 師 は 承 和 二 年 一 一 一 月 二 十 一 日 、 西 暦 八 一 一 一 五 年 に 入 誠 せ ら れ た が 、 そ れ よ り 以 前 に 諸 弟 子 等 に 劃 し て 、 修 道 上の心得たどを訓誠し告示されたものが書きのこされてある。とれがいはゆる御遺誠といび、御遺告と稿してゐ るものである。これは伸陀世傘にすれば浬襲臨宋の説法に営るもので、いはゆる弘法大師の浬撰経として民言宗 徒に章一閥せられてゐるのはもとよりそのところであるむ然るにそれ等には民備総じて九種ほどありとされ、悉く みな弘法大師会集ρ
品位七及び巻十四の雨情に載せられてゐる o この九種について之を仰遺誠と御遺骨とに分つこ とは、その内容の相遣によるものであると息ふが、その黙は後ちに明かにしゃう。市して抑遺誠に配属すべをものは、まさしく左の五種である。 ︿ 一 ︶ 許諾弟子等、一巻
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弘仁四年仲夏月晦日︶ 弘仁遺誠、遺蝿敬誠、遺誠、弘法大師御遺誠、大師章一誠、出家修道本とも棉す。︵弘会巻七遺訓部﹀ ︵二︶許諾金剛弟子等、一巻、︵承和元年五月二十八日︶ 承和遺誠、章一遺誠、遺誠、高野駒大信正遺誠、剃頭染衣本とも棉す。︵弘会答七遺訓部︶ ︵ 一 ニ ︶ 凡 員 言 行 人 、 一 巻 、 ︵ 年 月 日 付 無 し ︶ 御 遺 誠 、 遺 誠 、 異 畳 一 日 行 人 本 と も 稿 す 。 ︵ 弘 全 容 十 四 、 第 二 編 雑 部 第 一 二 ︶ 入 唐 墜 法 沙 門 空 海 、 一 巻 、 ︵ 一 本 に 承 和 二 年 一 一 一 月 十 五 日 と あ り ︶ ︵ 四 ︶ ︿ 五 ︶ 再 遺 告 、 告 未 来 弟 子 本 と も 稽 す 。 ︵ 弘 会 巻 十 四 、 第 二 編 雑 部 第 一 二 ︶ 諸 弟 子 等 、 一 巻 、 ︵ 年 月 日 付 無 し ︶ 御遺誠、固守戒律本とも樽す o ︵ 弘 全 容 十 四 、 第 一 二 一 踊 雑 部 第 ニ ︶ 此等の内容を一瞥するに、︵一︶には出家白目的は成備に存す、そのためにはことに戒律そ厳守して定慧の修行主 放すべきことを誠められてゐる。︵二︶には一味和合して詩論なく、長幼敬愛して修遣すべきことを誠められてゐ る。︵一二︶には心行を調へ戒律を守り、如法に修法すべきことを誠められてゐる@︵四︶には投法の大事なること、 女人をぽ粗野に禁断すること、阿関梨を軽んぜざること、入定ρ
乙と、明師を離れざることについて訓誠をあた へ、かさねて女犯を厳禁してゐる。︵五︶にはやはり戒律を巌守すべきことをのベ、治病むためと雌酒を飲ま歩、 検死すとも肉を食はざること等を誠めてゐる。之を要するに大師が入被に先ちて遺弟の行肢を案じ給ひし結果、 宮 弘法大師の御遺告を疑う℃眠時間阿開制慌のと主に及ぶ 九日 本 品 開 敬 務 協 晶 昨 年 報 ハ 第 十 二 年 ︶ 九 四 4 主として戒律の一貼にカを注ぎて訓誠し給へることは、さもありぬベき道理であらう。それは悌陀世傘の浬襲。 舎座の説法をはじめたてまつり、・古来の賢聖遠の臨末の敬誠が一致してゐるととるであって、之をまた同時の先 輩ともいふべき倖教大師の遺誠として仁忠の叡山大師停に 我 命 不 − − 久 存 ↓ 若 我 誠 後 、 皆 勿 ν著 レ 服 、 亦 山 中 同 法 、 依 コ 伸 制 戒 ↓ 不 レ 得 レ 飲 ν酒 、 若 建 レ 此 、 不 ニ 我 同 法 ↓ 亦 不 ユ 梯 弟 子 ↓ 早 速 揖 出 、 不 レ 件 ν令 ν践 コ 山 家 界 地 ↓ 若 潟 コ ム ロ 雄 市 ﹁ 莫 ν入 コ 山 院 寸 叉 女 人 輩 、 不 ν得 ν近 コ 寺 側 ↓ 何 況 院 内 清 津 之 地 哉 、 . ’とあるに照臆しても、弘法大師の御遺誠として戒律股守の賄より異議なく受取らるべきであらう。ところが弘法 大 師 会 集 の 編 者 は 、 此 等 の 五 種 の 中 、 ︵ 一 ︶ ︵ 二 ︶ 白 二 本 は 大 師 の 真 撰 と せ る も ︵ 三 ︶ ︵ 四 ︶ ︵ 五 ︶ の コ 一 本 に 至 り て は 、 文 辞拙劣の故にといふ理由で後人の備作となし、その他の皐匠達にありても亦た同様に考へてゐるものが多い@こ れについて考慮をめぐらすに、もちろん詩諸金剛弟子等の一容は、性誕集品位九の高雄山揮コ任三綱−書の後 A Tと 同 ヒであるから、買慌の論は且らく措くも、語諸弟子等の一巻には 民言家末葉弟子等、宿業故、甚以愚迷也、須二就 ν文 用 意 ↓ 何 以 ニ 此 文 ↓ 常 置 コ 座 右 寸 矯 コ 心 情 之 縁 − 耳 といふ前叙の文がついてゐる@ところが此文に封して金集の編者は、文鮮野部の故に後人の添加であるとしてゐ ろ。さうするとこれは員撰といっても、その御遺誠 D 全文が民携ではなく、後人の加筆の部分があるといふこと になる。だが百尺竿頭一歩を進めていは史、前叙の筆者がその御遺誠の全文を書いたも D と見るのが、事貫に近 いことではあるまいかむその貫一言家の末葉弟子を態迷と叱ってゐる筆致が、そのま L 本文に槙いてゐるのではな いであらうか。文酔野部といふ理由は、前叙だけでない本文までも及ぶ O であらう o かの宥快法印などは、御遺 訓の文章は入誠より温か以前に大師自身に書いて置かれて、入誠間近かになって之を取り出し、年月日を書き入
れられたと言ってゐるが、それは承引しがたいやうに思はれる e 元来御遺誠や御遺告といふ類のものは、ふ?フ に営人が自記したものではないぞうである o まれには営人が書く場合もないではないが、少くとも大師のうへで は但に文章からいつでも大師でないことは明白な D で、御直筆とする設には賛成しかねる。それで御遺告などと いふものは、大師の入誠の悲みにあった門弟遣が、との世の訣別に物語られた事 k を 、 後 日 書 き 綴 っ て 一 帰 省 の 本 に仕立てたのであらう。またあるひは平生の時師教として脂に銘ぜしものを、大師の誠後に取り出して御遺誠と して奉持したのもあらう。かの諸諸金剛弟子等の一帰省 D 如き、まさしく後の場合の誰蟻になるものであって、.恐 らく大師む害闘の後宇の文を以て誰人か Y 誠後に諸遺誠として仕立てたものに相違ない。果して然りとすれば、 それ等は大師自ら準をとりで書を給はやノとも、御遺誠としての僚値を減歩るものではないであらう。たとへ文酔 は拙劣でも、その作文は後人の筆になってゐても、その意義が弘法大師の御遺誠としてもし何等の不都合がなけ れぽ、之を大師の御遺誠として傘重すべきであらう。かの雲照律師が従前大師の御良筆であると体へられてゐた 御遺告の方をも否定して、之を門弟。筆になったものであると暗示し、.市かも内容の所設について 雄 三 是 非 = 大 師 異 蹟 寸 其 議 皆 、 則 無 ν 非 ユ 大 師 之 雅 意 サ 宣 可 レ 不 二 仰 信 − 哉 と言ってゐられるのは、今と L に予輩が抑遺誠について主張してゐるととろを助成すべく、至極遁切な言ひ分で あると思ふ。だが御遺誠の五種の内容ことごとくを、大師の雅意として承認するのではない、たピ戒律的遺誠 D 黙のみに約するつもりである。市して御遺告の如きに至れぽ、その内容の浮備にして飽雑なることが愈甚しい@ で、雲照律師のいはゆる無 ν 非=犬師之雅意−といふ文言壮容易に使用しがたい次第である@ 5 弘法大師自御遺告を疑うて順境阿閑梨のとも﹄に及ぶ 九 五
関 本 傍 敬 面 軍 協 合 宵 年 報 ハ 第 十 二 年 ︾ 九 六 6
、御遺骨につい℃
御遺誠のことは簡略にして、共にまさしく御遺告の問題に移るであらう。さてふつうに御遺告と呼ぽる L も む には、左 D 四種が存してゐる。 遺骨佐山弟子等、一巻.︵承和元年十一月十五日︶ 御遺昔、遺昔、官符本とも稀す。︵弘会巻七遺訓部︶ 合一︶遺骨員然大徳等、一巻λ
承 和 二 年 一 二 月 十 五 日 ︶ 御遺昔、高野佐山料遺記、民然大徳本とも掃す。︵弘会巻七遺訓部︶ ︵ 一 一 一 ︶ 遺 告 諸 弟 子 等 、 一 巻λ
承和二年三月十五日︶ 御遺昔、諸弟子本とも稽す。︵弘全巻七遺訓部︶ ︵ 四 ︶ 御 遺 昔 、 一 巻 、 ︵ 承 和 二 年 一 一 一 月 十 五 日 ︶ 二十五個僚御遺昔、二十五僚本とも稿す。︵弘全巻七遺訓部︶ とれ等四本の内容には通じてともに大師。自叙停式のものそ記し、︵一︶及び︵四︶には別して修法に闘する事相よ ハ 一 ︶ のことをも載せてゐる。中について︵一﹀官符本に於ける内容記載の要目をぼ、試に個僚として列示して見ると次 の 如 く で あ る 。 ︵ 一 一 ﹀ ハ − 一 ︶ 夢に諸悌と遊べる乙と。 我子拡俳弟子なるべしと@乙と。.
,
︵ 一 一 ︶ ︵ 四 ︶ ︵ 五 ︶ ︵ 六 ︶ ︵ 七 ︶ ︵ 八 ︶ ︵ 九 ︶ ︵ 十 ︶ ︵ 十 一 ︶ ︵ 十 二 ︶ ︵ 十 一 一 一 ︶ ︵ 十 四 ︶ ︵ 十 五 ︶ ︵ 十 六 ︶ ︵ 十 七 ︶ ハ 十 八 ︶ ︵ 十 九 ︶ 樫ちに大壌に遊べること c 石淵俗正に逢へることe
播磨行のこと。 伊 豆 行 の こ と 。 東大寺受兵むこと。 大日経披覚。乙と。 入唐求法のこと。 師 朝 の こ と 。 紳泉苑修法のこと@ 濯頂は我れより始まれること@ 師資相博むとと。 葱 果 の 一 言 の 乙 と 。 入定地として高野山を詰へること@ 明紳示現のこと。 ふかく穀味を厭へること e 永く山に蹄らんとのこと。 入 誠 白 日 を 暗 闇 言 ぜ る こ と 。 弘法大師。御遺告を疑うて阪鴫阿陶製 C ζ &に及ぶ 合a 七8 三 一 十 J V ︵ 二 十 一 ︶ ︵ 二 十 二 ︶ ︿ 二 十 一 一 一 ︶ ︵ 二 十 四 ︶ ︵ 二 十 五 ︶ ︵ 二 十 六 ︶ ︵ 二 十 七 ︶ ︵ ニ 十 八 ︶ 関本傍敬準協曾年報ハ第十二年 V 九 J
、
即 世 に 擬 す る と と 。 東 寺 の と と @ 龍 華 一 エ 舎 の 謀 な る と とe
兜停牲企及び下向のとと。 横 雲 管 の こ と 。 金 剛 峰 ・ 寺 @ 乙 と 。 如意賓珠 O 乙 と 。 避 地 法 の と と 。 民然に高野を委付のこと。 と れ を 他 の 一 ニ 本 の 内 容 に 比 較 す れ ば 、 ︵ 二 十 八 ︶ 毘 然 に 高 野 を 委 付 。 乙 と の 一 僚 は 、 全 然 他 。 一 一 一 本 に な い 記 事 で あ る 。 ま た ︵ 二 十 六 ︶ 如 意 費 珠 の 乙 と 及 び ︵ 二 十 七 ︶ 躍 的 法 は 事 相 に 闘 す る も の で 、 ︵ 一 一 ︶ ︵ = 己 に は 見 え 歩 、 只 ︵ 四 ︶ に @ み記せられてゐるところである。 つ一︶民然大徳本の内容をのぷる便法として︵一︶と比較して示すならぽ、︵一︶夢に諸悌と趨べることの下に、貴 物 と 名 く る こ と が あ り 、 公 一 ︶ 我 子 は 僻 弟 子 な る べ し と の 下 に 、 泥 土 を 以 て 梯 像 を 作 れ る こ と が あ り 、 ︵ 一 一 一 ︶ 樫 ち に 大串に遊べることの初に、大足大夫の教官があり、,此等 D 記事は︵ニ︶民然大徳本に於ける増債と見らる LG し か し ︵ 一 ︶ 官 符 本 に あ り て つ 一 ︶ 員 然 大 徳 本 に 閥 略 せ る も の は 、 ︵ 五 ︶ 播 照 行 の こ と 、 ︵ 七 ︶ 東 大 寺 受 具 の こ と 、 ︵ 十 四 ︶ 恵 果の言むこと及び︵二十二︶龍華三舎の謀なることより以下の全部である。三一︶諸弟子本白内容について同じく比較するに貴物と名くること及び泥土を以て悌像を遺ることは、︵二︶民然 大 徳 本 と 同 様 に 増 蹟 せ ら れ て ゐ る レ ︵ 一 一 一 ︶ と ︵ 四 ︶ と が 順 序 が 置 き 換 へ ら れ て 、 ︵ 一 二 ︶ 十 五 蔵 入 京 し て 石 淵 信 正 に 逢 へ る こ と E ︵四︶後ちに大壌を経遊すること L なってゐる。而かもその入京以前に阿刀の大足。敬一言。乙と、並に彼 れに俗典を事べることが出してある。但しこの俗典神地一ゐ乙とは、︵二︶民然大徳本には見えてゐない。︵五︶播磨 行のまへに三敬指蹄を作り、近士となりて無益と抗し、阿波の大満山や土佐の室生戸崎に修行せる乙とがのべて ある。︵七︶東大寺受兵の前に和泉模尾山に剃髪のことが加へられ、︵八︶大日経披見の ζ とが、その経感得の場所 を明白に大日本閤高市郡久米道場東塔下と示して、委しくなってゐる@︵九︶入唐求法の下に、大師代りて州長に 親書を曇せることが載せてある。︵十︶臨朝 O ことの下に、天皇崩御のこと註記してある。︵十一︶紳泉苑修法のこ との下に、警如龍玉の乙とをのベ、且っとの龍王の現身を見しものは、質譲、民雅、民捕、民照、堅恵、民然。 六人の弟子であると示されてゐる。︵十四︶葱果の言のことの下に、段纂云として大師を三地の菩薩と偉稽してあ る が 、 .
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一 ︶ 官 符 本 で は そ れ が 直 ち に 恵 国 間 空 官 一 同 と な っ て ゐ る 。 さ ら に そ の 下 に 大 阿 閤 梨 恵 巣 の 御 相 弟 子 順 暁 阿 闇 梨 の弟子珍賀なるものが、大師の接密について妨擬した乙とが曲されてある。とれは︵一︶官符本、︵二︶異然大徳本 にはみ一くない話柄である。︵十五︶入定地として高野山を請へることの下に、高尾の蕎居より移れることが記し℃ あ る Q その下にまた少僧都 D 任命のことが出してある。︵二十二︶龍華三舎の謀なることより以下全部を閥略せる は 、 ︵ ニ ︶ 民 然 大 徳 本 と 同 じ で あ る 。 以 上 白 諸 鈷 を 綜 合 し て 考 へ て 見 る と 、 ︵ 一 一 ︶ 毘 然 大 徳 本 、 ︵ コ 一 ︶ 諸 弟 子 本 は と も に大師の自叙停式の記事で格ってゐるが、その記事に於てする限りは、︵一コ買然犬徳木よりも︵一二︶諸弟子本が謹 9 かに増賢整頓されてゐる。市して︵一︶官符本もその部分を︵ニ︶虞然大徳本に比較するに、有無互に出入がある。 弘法大師。御遺骨を臨問うて頗瞬阿閑梨@ ζ とに及ぶ 先 決a日 本 偶 数 皐 協 晶 胃 年 報 ハ 第 十 一 一 年 ︾
−
00 lC) と こ ろ で ︵ 一 二 ︶ 諸 弟 子 本 に な る と ︵ 一 ︶ 官 符 本 も ︵ 二 ︶ 民 然 大 徳 本 も 、 そ の 箇 所 内 容 む す べ て を 包 含 し て も ら す と 乙 る がないといふほど整備した記事を作ってゐる。 ︵ 四 ︶ 二 十 五 個 依 本 の 内 容 を 検 す る に 、 ︵ 一 ︶ 官 符 本 、 ︵ 二 ︶ 異 然 大 徳 本 、 ︵ 一 一 一 ︶ 諸 弟 子 本 の 自 叙 偉 式 た 部 分 は 之 佐 一 括して以て二十五個僚の第一一僚に牧めてゐる。しかのみなら歩その記事にもさらに整主補足した乙とが認められ 例せぽ︵コ一︶諸弟子本に只剃髪の寺を示せるのみなるに、︵四︶二十五個僚本にはそのうへに剃度の師を石淵贈健五 と示してあり、また善如龍王 D 現 身 を 見 た る 弟 子 が 、 ︵ 一 二 ︶ 諸 弟 子 本 で は 六 人 と な っ て ゐ る の に 、 ︵ 四 ︶ 二 十 恒 個 候 本になると堅恵の共に買瞬を加へて七人としてゐるもの L 如 き 是 れ で あ る 。 又 こ の ︵ 四 ︶ 二 十 五 個 保 本 を ︵ 一 ︶ 官 符 本に比較するに、長一初より︵二十一︶までの自叙停式のととろは、前越の如くニ十五個傑本の第一僚に牧まり、只 ︵ 二 十 八 ︶ 民 然 に 高 野 を 委 付 白 乙 と の み は 、 ︵ 四 ︶ ニ 十 五 個 傑 本 に も 闘 除 し て ゐ る が 、 残 り の ︵ 二 十 一 一 ︶ 龍 華 一 二 舎 の 謀 た る と と 、 ︵ 二 十 一 一 一 ︶ 兜 率 牲 生 及 び 下 向 の こ と 、 ︵ 二 十 四 ︶ 微 雲 管 の こ と は 、 . 二 十 五 個 僚 本 の 第 十 七 僚 に 牧 ま り 、 ︵ 二 十五︶金剛峰寺のことはその第二十二僚に見え、︵二十六︶如意費珠のことはその第二十四僚にあらはれ、︵二十 七︶避馳法のことはその第二十三僚に示されてゐるのである。二十五個傑本に於けるその他。個僚は、前 D コ 一 種 の御遺台にたいととろであって、二十五個僚本が御遺告として最も盛り津山な内容を所有してゐるものである。 と L にさらに二十五個僚本の傑AK
官符本の内容とを封営せしめ、その存否出入 D 有様を一目瞭然たらしむる乙 と に す る 。 円 = 十 王 幌 本 ︼ 一 代 の 御 事 蹟 の こ と @ ︵ 一 ︶ 門 官 符 本 M ハ 第 一 乃 至 第 二 十 一 一 v︵ 一 一 ︶ ︵ 一 二 V ︵ 四 ︶ ︵ 五 ︶ ︵ 六 ︶ ︵ 七 ︶ ︵ 八 ︶ ︵ 九 ︶ ︵ 十 ︶ ︵ 十 一 ︶ ︵ 十 二 ﹀ ︵ 十 一 一 一 ︶ ︵ 十 四 ︶ ︵ 十 五 ︶ ︵ 十 六 ︶ ︵ 十 七 ︶ 11 ︵ 十 八 ︶ 賓慧を以て依師長者とすべさこと由 弘繭寺 b q ﹂ 真 雑 に 崩 す べ き こ と n v 珍皇寺のこと U 東 中 一 寸 D4 寸 披 む こ と 。 東 ・ 4 寸 漉 頂 院 の こ と 。 東寺の定額併童子教育の乙と。 大 安 寺 の こ と 。 門徒の操行のこと。 東寺の長者のこと。 東寺長者を敬ふべき乙と。 一 二 一 論 法 相 を 粂 撃 す べ を こ と b 東寺供借の乙と。 宮中御修法 D こ と 。 御修法施物のこと。 年分度者のこと。 祖師の恩を報十べきこと ω : ・
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− − − − ハ 第 二 十 二 ・ 第 一 一 十 一 一 了 第 二 十 四 V 東寺の倹房に女人を入れざる乙と。 弘法大師の御遁告を疑うて順境阿闘梨の ζ &に及ぶ ︼o
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自 本 傍 数 挙 協 晶 胃 年 報 ︵ 第 十 二 年 ︾
.
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0 ︵ 二 十 一 ︶ 僧房内に飲酒を禁 4 1 る こ と 。 高雄紳護寺むこと。 博法を巌重にすること@ 金剛峰寺の乙とoji
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− − : : ・ ハ 第 二 十 五 ︶ 避 地 法 の こ と 。 : : :ji
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第 ご 十 七 ︶ 如意賓珠むことiji
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− − − A 第 二 十 六 ︶ 12 ︵ 十 九 ︶ ︵ 二 十 ︶ ︵ 二 十 二 ︶ ︵ 二 十 三 ︶ ︵ 二 十 四 ︶ ︵ 二 十 五 ︶ 抑 制 華 閣 の 乙 と 。 乙 L で御遺誠と御遺告との異動如何について一言しゃう。乙れは恐らく戒律的禁戒の意趣になれるものを御遺誠 と掃し、大師の自叙停式の記事を有し、高野山や東寺の一種の譲り般的のもので、乗ねて事相の秘密をも記して ある様式のものを御遺告と名けしもの与やうに思へる。而して︵一︶官符本には避地法ぞ如意賓珠のことの如き事 相関係の記事が存して居h v
、四︶二十五個僚本にはさらにそのうへに特濯停授のことや、奥砂子千法呂むことなE
が増賢せられてゐる。乙れ等の内には修法として封朝廷の舶に於ても大事なものであるから、極秘に之を記し て置くといふ用意さへ見られる。すなはち第二十一僚の下には 是章句在 2 党 本 ↓ 綻 コ 経 文 井 儀 軌 之 外 寸 取 離 出 所 ユ 柑 制 約 − 也 、 吾 一 一 一 衣 箱 底 納 置 、 亦 在 二 一 精 進 峰 入 室 弟 子 沙 門 土 心 水 師 所 叶 と あ り 、 第 二 十 一 二 僚 の 傑 目 に は 一時一山土心水肺建立道場毎レ朔可 ν 修 コ 越 地 法 一 一 一 筒 日 夜 − 縁 起と あ り 、 . 第 ニ 十 四 僚 の 下 に は
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H J 能 作 性 如 意 費 珠 載 頂 渡 二 大 日 本 国 ↓ 拶 エ 龍 名 山 勝 地 み 凶 暴 、 . 根 勝 地 者 、 . 所 調 精 準 峰 土 心 水 師 修 行 之 帥 東 嶺 而 巴 、 . とあり、第二十五僚の中には 根法呂者、,在エ入室弟子向一山精進嶺土心水師之竹木目底↓ とあるが如きを以て知るべきである。然るに内一山土心水師といふ隠語は、.大師。弟子なる室生山の墜恵法師を 意味してゐるが、御遺告に記せられるやうた事相む大事の悉くが、堅恵一人をのみ特に名指して云々されてゐる のは、ちょっと理解しがたいところであらう。勿論一設に堅惑は大師入唐 D とを同伴せられた人物であるからと 去ふものもあるが、堅葱の入唐同伴はみ一然根操 D ない謬説であり一顧 D 値もない。思ふにかく竪恵一人が重蹄さ れるのは、あるひはこの御遺品白を書いた記者が、堅慈の門人であったためではないかとも想像されるのである が、如何なものであらうか。ことに箱といふのを竹木目と呼ぶが如きは隠語も寧ろこっけいである。叉御遺誠と 御遺骨とに於て、後世になると御遺音が偏に重視せられ、御遺誠の方はいよいよ軽脱されたゃうである。か L る 悪質は自然に戒律的訓誠を月並的のものとして挨了し、密教的特異。記事ある方に移り行ったことの結果であら うが、しかしこれと相伴うて異言一家にありて戒律方面白寛容になって行った現象。生ヒてゐる乙とを見遁がし て は な ら な い 。四
、
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題
13 警来乙れ等四種の御遺告は、,いづれも高見山御影堂。費庫に大師む異蹟本として巌存することが停へられ、明 相弘法大問白御遺品開を回問うて傾瞬阿関梨のとι
に及ぶ一
02日 本 係 数 血 中 協 合 年 報 ︵ 第 十 二 年 ︶
一
O 闘 14 治時代以前にありては、結封に異備の問題は生ぜなかったも D である。然るに目白僧闘の雲照律師は之を疑はれ た最初の一人で、弘法大師会集ニ十五個僚御遺告の棒りに、全集。編者が律師の説を紹介してゐる。云く、 近頃開ニ目白僧園轄雲照大和尚説−目、抑遺台、一巻、文鮮帯ユ和習﹁太異 z齢撰拙↓恐是我大師之口説、門人之筆 記 耳 、 或 一 デ 有 ニ 大 師 真 蹟 之 本 ﹁ 余 不 ν信 実 、 然るに雲照律師は御遺告を以て大師の員筆ではないが、御口読を門人の筆録したものであるから、大師。自設と して信用すべきものであると断じてゐられる。市して全集の編者は且らく和備の高説に従うの意を表示し、さら に御遺台の内容について古来一人の之を畏ひしものなく、一二教指陣、性璽集、御請来録等と艶して内容記事の兵 れる貼は E 古来一家の皐匠の遇轄し絶ったところであると排解してゐる。果して左様であらうか。御遺告の内容 に劃する一往の疑問は兎に角、根本的探圏に至りでは、編者の指示せるが如き諸島十匠白著作を披びても、 一 向 に 氷解し得ないやうに思へるのである。そこで予輩は御遺告そのものを疑はざるを得なくなるわけで、御遺告の文 章が大師の作でないのは勿論、随てまた御異蹟本などのあらう讃理がないのであると思ってゐる。右引 m w 文のみ よりすれば雲照律師も、いはゆる御遺告の仰虞蹟本を見られしか否やは不明であるが、只門人の作と断定せしう へより余不レ信実と一宮はれたゃうである。だがそれでよろしからう、何となれぽ御真蹟本の員備は第二の問題と なるからである。而して雲照律師は御遺告白内容をぽ大師の口説として信用されたけれども、予輩は之を信用す る乙とが出来ないことそ新たに主張しゃうとするものである。何となれば御遺台。内容を大師の口説とするとき は、たとへぽ順鴎阿閤梨は不宰ゴ一臓の弟子となり、停敬大師 D 不宰相承であること左弘法大師が直接詮明される と と L ある、而かもその不宰相承は博敬自身さへ言明してゐないととなのでとんでもない話になってくるからである。乙れは極端な一例であるが、要するに雲照律師のいはゆる門人 D 筆記と断定された御遺骨に、.かやうな大 師にか L はりのない多くの記事を載せてゐるのを見ると、それは門人なる筆者の舞筆の結果と考ふるほか仕方は ないであらう
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すると左様な不純分子があるま L 之を大師の口説とするわけには行かない、乃ちその不純分子の ありだけを決剖し去って、はじめて大帥の口説の良相が明白になって燕ゃう。予輩の抑遺品ロを疑う所以全くとれ が た め で あ る 。 そとで御遺脅といふ問題白書を中心に置いて、いろいろな角度から之をながめて見ると、およそ凝議にわたる 献が九個係ほ H C おるやうに息ふ Q とれより以下一一その凝射を列題して、予輩の所見堂開陳したい P ︵一︶御遺骨は誠後の大師崇拝を盛んにしゃうとの意闘より記せられてゐるものである。 御遺品口では大師は全く一一一地の大菩躍の衆生済度に来現せられしもので、生年五六哉のとき早くも八葉蓮華のうへ に諸悌と遊べる人物といふ乙とになってゐる。勿論それは夢とはあれども、斯くいふことによりて大師をぽ超人 的存在と初より取徴すわけになる@ことに︵一︶官符本に 後 生 弟 子 、 , 難 ν 不 レ 見 コ 吾 顔 サ 有 レ 心 之 者 、 必 知 ユ 思 徳 之 由 ﹁ といふが如きに至りでは、大師があまりにも恩させがましいととを仰せらる L や う に 聞 へ る 。 ま た ︵ 四 ︶ 一 一 十 五 個 傑本の第十七僚にも 必 聞 − 一 吾 名 披 ↓ 知 コ 恩 徳 之 由 ↓ 15 といふ同意。文がある。然るに一二敬指闘をはじめ一代民撰の著作並に上奏文や害関等に瓦りて披見するも、 も擢人としての聖者らしいところはなく、只民創に不二の大誼を求め E 血あり涙ある人間生活に即して修遣の一 監 弘法大師の御遺告を疑うで順瞬阿関梨のとι
に及ぶ−
O 一 弘四 本 踊 抑 敬 皐 協 曾 年 報 ハ 第 十 二 年 ︶
一
O 六 16 路を精進してゐられる大師それ自身の姿が示されるのみである。か L る大師の態度に徴するも、穴師自ら樺人的 本地をひらめかすといふが如き自葺自讃の言説は、如何なる場合にも大師その人にはなかった乙とを断言せざる を得ない。ところで御遺品白の如く大師を大菩薩の再誕と仰ぐ所以のもむは、入減せられし大師左思慕する遺弟。 至情として営然の稜露であり、随てか L る記事は大師に託して遺弟が顧問問の想念を表現した結果になワたものに 相違ない。市かも之を以て御遺台といふ形をとらしめたのは、よって以て誠後永く大師に劃する敬慕崇拝左篤か ちしめゃうとする意闘より来てゐるのであらう。総じて御遺台に自叙停式の記事をのせてゐるのが、そもそもか かる意闘を有してゐるための所作と云はなくてはならぬ。 二一御遺告には文僻拙劣といふのみでなく、大師の性格と相反する表現の文字を用ひてゐることが認められ る 。 性霊集、高野雑筆等にあらはれし大師の文章には、大師は宰梅と自名を記せらる L ほかは、ほとんど一定して貧 道といふ代名詞を用ひてゐられる e それが御遺告にくると全く少伶といふ代名詞に費じてゐる。乙の少借といふ 代名詞はもし大師が貫際に用ひられたとしたならば、食道と同意義白文字で別に意味はないとされやう。しかし 大師が自身には用ひられなかったと忠はれ、多分御遺告の筆者がことさら採用した代名詞のゃうである。そうす ると少借といふ代名詞は但の代名詞ではなくて、御遺骨の筆者が大師の・少僧都であった乙とから思ひっきて、大 師を偉ひものにするつもりで左様な代名詞を用ひたのではあるまいかと想測される o これは勿論僻解がましいこ とではあるが、少俗といふ代名詞がことに御遺告に出てゐる@で、そのもとは何から来てゐるかと考へると、少 品 問 都 補 任 の こ と が 御 遺 告 @ ︵ 一 ニ ︶ 諸 弟 子 本 に は一 犬 畏 皇 帝 即 位 、 任 コ 少 僧 都 ↓ 再 コ 一 奏 博 、 不 レ 菟 在 ν公 とあり、︵四二十五個傑本にも同文が問てゐる。とれは一抑泉苑祈雨の恩賞として授けられたものとも倖へられ、 常時律師の位階を超へて直ちに少僧都に補任されたのは破格の撲春であったに相遣ない。このことありて数年後 には穴僧都に進んでゐられるが、大僧都の楠任は御遺告には全然警かれてない。しかのみならす大師でも少借都 補任は問題だったと見へて上表た H とがあるので、御遺骨の筆者そしてか︿はゆ借といふ代名詞 h k 製悲し以て大師 に用ひしめたものではあるまいか。そは兎に角大師自身の心持よりは、,少借都でも、大抽出都でも、そんな僧官な どを誇示せらる L やうなことの全然なかったことは鮮やるまでもないであらう。すなはち酔少僧都表に於て ︷ 情 海 従 コ 弱 冠 ↓ 及 コ 知 命 寸 山 薮 濡 ν宅 、 . 開 献 活 ν心 、 不 ν経 ニ 人 事 ↓ 不 レ 耐 コ 煩 砕 寸 然 今 以 ユ 斗 答 之 才 寸 謬 蕗 三 法 網 ↓ 以 − 一 鉛 刀 之 質 ↓ 切 居 ニ 借 統 ↓ 必 致 三 傷 ν乎 之 誘 ↓ 途 無 ユ 一 一 利 之 盆 寸 と諜返して拝鮮とれ努めてゐられるのを見ても推知されやう c 況んや御遺誠に於て 凡 田 家 修 道 、 本 期 ユ 悌 果 ↓ 不 三 一 史 要 − 一 輪 王 哲 韓 家 寸 宣 況 人 間 少 少 果 報 乎 、 とのたまふに於てをやである。そこでこのことに騎闘して想起するのは、︵四︶二十五個依本の第十僚に 欲 ν奏 = 間 座 主 蹴 寸 j i − − : : 併 令 法 久 住 謀 市 巴 、 我 後 之 資 、 勿 ν難 ν之 乎 、 L ﹂記してあるが如きものである。とれ亦た大師の本来の態度よりしても理解にくるしむところであらう。これ白 みでなく入定のところにも令法久住の謀といふ意を示してあるが E 恐らくこれ等は大師自身の謀と見るよりも、 事賓は寧ろ遺弟遣の考案し出した謀とすべきではあるまいか自問してさらに可笑しいことは、御遺告では大師を してその門弟に劃して、大徳といふ隼橋を用ひしめてゐることである。すなはちん一︶遺告佐山弟子等む本では質 17 弘法大師の御遺告を疑うて阪瞬阿関梨のととに及ぶ
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O 七日本傍動準協曾年報︵第十二年︶
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O 入 18 恵大徳、真雅大徳、民昭大徳、異然大徳といふのが見へ︵四︶二十五個傑本ではその他の場合に貫恵大徳といふ D が数々見えてゐる@然るに大師 D 門弟に的せらる L 場合を性霊祭等によって探るに、一として大徳等の傘稽を周 ひられてゐるものはない。大師ほどの大教育家がいはゆる師の教の巌ならざるは師の過であるといふ ζ とを御存 知たい筈がなく、過分の曾栴を興へて師弟秩序の破壊をされると’とは決してたいと信 d y る@果せるかた性霊集巻 固 に は 議 遺 ユ 弟 子 僧 賓 一 息 寸 正 あ h y 、 高 野 雑 筆 品 位 上 に は 且 差 ニ 弟 子 借 泰 範 、 貴 惑 等 ↓ε
ありて、師弟愛に燃へてゐられし大師なればこそ E いよいよ師弟の秩序の素るべからざる巌粛さをもってゐら れたのである。だが御遺告といふのは門弟衆のみに劃して行はれた乙とであるから、勝れた弟子ゃ、兄分の弟子 に向ヲて大徳と呼ばれたかとも思はれないでもないが、それにしても大師自身は少借と稽し、弟子をば大徳と呼 べるととは、その大少封比があまりにも非常識であるまいか e もしかりに大師から大徳などと呼ばれたならぽ、 名貫不和躍を感じ得るほどの門弟ならんには、全くくすぐられたやうに感するほかはあるまい。市かも大徳白弟 子に封L
て大師の少俗たるものはあるひは卑下慢となるではないか。かの停教大師が弟子衆に向って同法と言は れたのは、却ってよくその敬育的無分心持のふかいところがあらはされるけれども、今のいはゆる大徳に至りて は可なる所以を見出すことが出来ない。あるひは徒らに大徳などの緯捕を用ゆることは、妄語、締語の戒律にも 転鯛すること与もなるであらう。如何にして大師がか L 杢 一 ︶ 戸 口 葉 を 用 ひ ら れ た と 考 ふ る 乙 と が 出 来 ぞ う 。 思 ふ に 大徳の傘構の如き、定めし御遺告の筆者が勝手に記したものであり、随でまた御遺骨の筆者なるものは、賃恵や民 然等に劃して大徳と記せざるを得ざりしほ
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後進白人物であったかとも断ぜられやう。もし果して然りとせ ば、御遺骨の筆者そ白人は、少くとも貫一息や民然等の弟子格にあたるほどの人物となるのである。 ︵三戒律に闘する事柄について、御遺誠の説に矛盾する乙とを説てゐる射を見受けるが、それ乙そ佳智にたへ ないところである。 上舗の如く御遺誠ではいづれも戒律の巌守を遺弟に命じてゐられるのであるが、御遺告になると戒律白うへの事 柄にはぎはめて寛大なる取扱がなされてゐる。まづ之を不格戒について見るに御遺誠の第四の再遺骨には 告 ユ 末 札 異 言 行 者 寸 龍 猛 菩 薩 − 耳 、 女 ん 地 獄 崎 山 町 出 断 − 一 悌 種 子 サ 外 商 似 コ 並 口 薩 ﹁ 内 心 如 a 日 夜 叉 − 突 、 然 則 於 コ 九 門 徒 − 者 、 眼 ザ ハ 不 ν 見 エ 女 人 ↓ 身 不 ν鍋 = 女 人 ↓ 況 於 コ 和 一 言 眼 望 − 乎 、 何 況 於 v 犯 = 女 身 − 乎 、 若 逢 コ 悪 縁 ↓ 犯 ユ 女 根 ↓ 於 コ 秘 密 民 言 、 控 室 ・ 疏 . ラ モ ユ モ 鈴杵輪掲鴎具等﹁不 ν 可 ν 見 エ 其 形 寸 叉 不 レ 可 レ 取 レ 手 、 と一古びて、眼に女人を見ないといふほどの巌格さである。かむ倖敬大師の寺側に女人を近くることなかれとのた まへると同意である。叡山では博教の後に慈党大師もまた山門白内に、女人を入る L 乙とを得?と云ってゐられ る。然るに二十五個傑本の御遺告では、その第十八僚に試の如く示してある c 一 宮 く E 一 、 . 不 ν可 ν 入 2東寺借房女人−縁起第十八 夫以、女人是寓姓本、弘 ν 氏稽レ門者也、然於コ悌弟子−親厚、諸悪根源、噸噺本也、是以六波瀧蜜経日、不 ν 可 − − 女 ん 親 近 ↓ 若 猶 親 近 、 華 同 法 菅 平 亜 等 、 一 宮 一 宮 、 然 則 不 ν 可 レ 入 ニ 居 健 一 島 内 ﹁ 若 有 = 要 言 ↓ 諸 家 佼 害 者 、 立 ユ 外 戸 ↓ 謹 一 也 報 却 ν 之、不 ν得 レ 姐 = 時 魁 ﹁ 兵 唯 = 背 龍 寺 例 士 宮 一 宮 、 19 別世絵大師の御遺告を疑うて順瞬阿関梨 C ζ ι に及ぶ−
0 ・ ぬ日 本 傍 敬 拳 曲 脚 曾 年 報 ︵ 第 十 二 年 ︶ 一 一 O 20 とれでは僧房の戸外までは女人を許すのであるから、よほど寛容な禁制になってゐる@諸家の使者といふのは乙 の場合勿論女人のことであらうが、これを借昆の戸外まで近づかしむるといふのである。すでに女人が戸外に立 ってゐるので、借房の連中が自然無用の閑談に時聞をすごすこともあるべく、それを性的危険として禁制した意 趣なのであらう。市して女人とは何ぞやといふに、備に弘 ν 氏櫨レ門むためのもの、簡単にいふと子を生やるもの、 として定義してゐる。ゆゑに出家者が女人に親近すれぽ諸悪の根源となるものであるとされる。だがか L る女人 白定義は出家者に禁欲的内省を生やる必要上は止む左得ないやうでもあるが、之を大師。御自説としては如何か と思はれる。多分御遺告の筆者の舞筆の結果とすぺをであらう
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もし大師が女人の定義をくださる L ならば、も っと人格的傘巌性を明かされてゐたのに相違ないと信やる。この御遺告では左様に女人を定義しつ L も、おのづ から女人禁制を寛容にする意味が、交章のうへにあらはれてゐるのはにがにがしいことである。ことに最後に唐 の長安の育龍寺の例といふものを出して、戸外まで女人を近づける乙とは波地でも行はれてゐたこと L して、黙 謹的の例誰まで用意してゐるのである G どうもこれでは大師の抑直設としτ
受け取れない e 共に不飲酒の戒について見るに、御遺誠には絶封不飲酒の厳誠を立℃られて 難 レ 療 z 治 病 ﹁ 不 ν飲 ν酒 、 と記せられてゐるのに、御遺告には全く反針。説をなして、ある場合には飲酒を許すこと L せられてゐる。御遺 合二十五個鶴本の第十九僚の文がすなはちそれである。一宮︿、 夫 以 、 酒 是 治 病 珍 、 風 除 之 費 突 、 然 而 於 ニ 悌 家 寸 魚 崎 一 大 過 − 者 也 、 是 以 長 阿 令 経 目 、 飲 酒 有 − − 六 種 油 − 等 、 一 式 一 宮 、 智 ラ 度論目、有 z 四 十 五 種 温 − 等 、 一 宮 一 宮 、 亦 党 網 所 設 甚 深 也 、 何 祝 一 艇 蜜 門 徒 、 可 ユ 酒 愛 用 − 哉 、 依 レ 之 所 ν制也、但青龍t F 7 也 寺 大 師 、 奥 コ 井 御 相 妙 子 内 供 奉 十 欄 師 順 一 臨 阿 閤 梨 サ 共 語 擬 メ 目 、 依 ニ 大 衆 開 文 之 法 ↓ 治 病 之 人 、 許 ニ 聾 一 泊 ↓ 依 ν 之 れ 跡 内
政
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宅
呼
ν宗レ得コ此用﹁綻 v外 入 ニ 不 レ 瓶 之 器 − 来 、 副 レ 茶 一 仇 中 小 ョ 一 宮 一 宮 、 上越の如く女人の定義が不可なると同じく、乙の酒の定義も亦た甚だよろしからざるも D であるらもし世間の諺 として酒は百襲の長といふ意味ならば守夫れ以れば﹂と替を出して如何にも大師の自説の如く装うてあるのは理 解しがたいところである。兎に角乙の酒の定義も大師の関知されないもので、御遺皆の筆者が勝手に記したもの と見て置きたい。而かもその酒を以て珍とし賓とするに於ては、御遺骨の筆者その人が非常なる上戸黛であった かとも想像される Q 大師が左様なことを仰せられる筈のないことは、御遺誠の禁断の趣きを見ても知れるのであ る。市して記者が最初に酒の治病に殻龍いちじるしをことを述べるのは、やがて治病の理由によりて絶酎不飲酒 の捷の一角を破壊しゃうとの意闘があるためとも想像される ο まづ一往経論に酒の過失を説ける文を引用しては あるが、可ニ酒愛用−哉と結んで、愛用といふ捷な文字を用ひてゐるのも、愛用でない但なる必用の場合を認めし むるといふ伏綿を張ったものにほかならない。但青龍寺大師以下の文は、酒を治病のために用ゆることは、唐闘 にすでに先例あることを主張する意向である ω 文中の青龍寺大師とは弘法大師の師匠なる恵田町阿間梨のことであ り、御相弟子内供奉十閥師順路阿関梨とは侍敬大師の師匠たる越州龍興寺の順鴎和上のことである@共語擬日と ほとの恵泉と順鴎とのこ人が合議して、治病のために飲酒を開許したといふのである ο 擬白字は h とうも理解され ない文字であるが、恐らく議の字のあやまりではないか。市してまた時間間となるのは、臼はくの下云云までを恵 果順鴎のことに属すべきか、或は許ユ瞳酒− D と乙ろまで L 打ち切り、それ以下を大師 D 設とするつもりなのかと いふ乙とである。弘法大師会集白木 D 訓黙なり般名では最後の一宮云までとするぞうである。予輩は文章。具合が 21 弘法大脳白御遺骨を疑うて順臨時阿関梨のととに及ぶ日 本 品 川 教 事 協 曾 年 報 ︵ 第 す ご 年 ︶ fill ぎうも瞳潤を許すまで打ち切・られてゐるやうに思ふ。何故なれぽその実に依 ν之亦といふ書き出しで、以上D 事官 に根醸して生じた新現象を云云してゐる形になってゐるからである U 園 山 中 一 之 共 と は 国 坐 に マ ト ヰ と ふ り 般 名 を し てあるのに依ると、衆抽出が固形に列坐してゐる意味であって、そのとき踏を飲まうかといふ議を生じてくるので ある。勿論乙の園坐の衆倫がいづれも悉く皆病気にか L ってゐるのではあるまい U か L る場合の心得として、呼 ν 乎 不 レ 得 コ 数 用 4と示してある ω 卒は瓶と音が通じ、子会の義にして酒の容器であり、今日の徳利にあたるものであ る G 数用とはか L るとぎ徳利をもってといと一一白って、重杯をして多量に飲む ζ とはよくないといふのである。数 とは時々といふ意味ではない、たぶん幾杯も飲むととを意味すると思ふ、而してこのときの酒は開問でもないぞ うであるが、つまり唐闘の先例に准して且つ一歩を進めたわけで、兎に角醸密に飲酒を聴許するといふことにな ってくるのである。その隠密の仕方として不 ν瓶之器すなはち今日でいふならば酒樽をぽ運び込んではならぬと いふことである。副茶一船用とは意味がよく理解されない、一往白文字は茶た喫しつ L 酒をそヘマ飲めといふやう に見へるが、質は左様に解すべきではなく、茶を喫する時間に於て秘かに飲むべきものとする意であらうむつま h y そ D ときいはゆる土瓶沼にして之を飲むといふことになるであらう。これを要するに飲酒を寛容すること斯 D 如くなるもむは、絶針不飲酒の御遺誠に反するのみでなく、他方の叡山の貫情に照らすも、体敬大師亦た絶封不 飲酒主義であって、合棄のためにも酒を山院に入れてはならぬと厳命してゐられるのにも衝突するわけである。 慈党大師もまた帥命のま L に順ひ、院内の一衆童子に至るまで飲酒を得?との股格主義なのであった U そこで御 遺告の筆者は飲酒を寛容にするについて、警戒線を張って置く必要を感じたのである。その警戒紘として現は仰い 出たものが、乙の慈問就航臨む合議といふ話柄なのではあるまいか、果して然らぽ乙れ全く弘法大師の御存知むな
い記事であって、御遺骨の筆者が勝手に筆をふるったものと断じて、差支ないのであらう。乙の乙とに閲する順 鴎阿闇梨の問題は、共項にゆづりで此蕗には恵泉附践の令議など L いふ乙とは、全然大師に無関係の記事である といふ結論だけを示して置くに止める ν ︷四民営秘密の事相に闘することも、大師。説とし℃は不可解の貼ある乙とを指摘し得るのである。 その一例を出さぽ御遺告の第二十四僚に於て、如意費珠をぽ祖師の口決にまかせて生成する玉とし、すなはちい はゆる能作性の玉を以て異質の如意賛珠であると定め、その製越法を明かして九積物左調合し之を作ることを云 云せるが如き、全く非常識の所談として而かも如何に事相とはいへあまりにも僻敬的でないと思はれる。元来如 意費珠は
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をと稀し、印度の紳話から来たものであって、衆生の願求するところの一明の費考討在に雨ら すものとされてゐる。経論白所説に依れぽ或は帯中より採るといび、或は龍王の脳中より出づるといひ、或は摩 喝大魚より出づるといひ、或は金麹烏の心より成るといひ、或は天上の賓といひ、或は帝轄天が阿修羅との戦争 に破砕したといひ、種々に説明されてあるが、組じて僻典に於てはそ白賓珠の貫物の有無を問題としてゐない G 只その紳話的意味ある如意費珠を響喰として、法門を詮頴するに用ゆるのみである U 例 せ ぽ 大 眺 襲 沙 論 品 位 百 ニ に 復 次 以 三 不 動 心 解 股 、 , 能 鶴 ニ 益 諸 衆 生 − 故 、 名 ニ 末 尼 賓 ↓ 如 ? 如 意 珠 、 置 ニ 高 艦 上 ↓ 随 ユ 意 所 v紫 、 雨 − 一 諸 費 物 ↓ 充 申 桝 百 千 食 匿 衆 有 情 幻 と 一 宮 ひ 、 犬 相 官 度 論 品 位 五 十 九 に も 23 如 τ如意賀珠、能興エ在家人、今世幅柴↓随由意所+欲、般若波羅蜜、能典コ出家求誼人、 一 乗 解 股 柴 ﹁ 随 − − 意 防 v 弘 法 大 聞 の 御 遺 告 を 盟 問 う て 阪 暁 阿 閑 梨 の 乙 と に 及 ぶ一
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百 本 偽 数 民 平 協 品 開 年 報 ︵ 第 十 一 一 年 V 一 一 四 2生 願 と一宮ひて、或は不動心解脆を晩頴し、或は般若波羅蜜 h r 一味期制するが如きものである。然るに民言宗に於では如何 に事相を重んや Jれぽとて、九種の品々を何雨何匁といふ調合を以て、如意費珠を製治するとなすのは、恰も支那 の 道 家 D 煉丹法を行うにも似て、有も伸教の正意よりすれぽ理解しがたいところである μ 何となれば願求すると とろの一切の費を雨らするでふ有形的な珠玉位、紳話の岡よりほかにないからである。これが貫に諸経論にもと より存在の有無が問題にされなかった所以であらうむもっとも悌舎利そのものを如意賓珠と観十るといふたらば 意味はうけとれるが、併合利を中心に煉り込んだ珠玉を製遣するといふのでは、明か芝届じみてゐるぞうに思は れる。それで御遺告にも窓泉阿閤梨より相停の能作性の如意賢珠は、精準峰の土心水仰の修行。帥の東の嶺に埋 めて置いたとしてあるじ乙れは能作性の珠の質物そもそも何魔にありやといふ疑問に封する鼎解が、早くも御遺 骨のうへに考へられてゐるものと一式はねばならぬ。手取り早くいは宮、能作性の珠はあるはあったが、今は見ら れぬといふ乙とにならう。併しながらもし左様に事相上大切なものならば、営時すでに精進峰の東の嶺に埋蔵せ られたとしても、御請来目録に於て道具九種一十八事故に阿闇梨付蝿物を列示せる中には出すべきであらう。だ がそれには全くなく、只伸舎利八十粒、就中金色合利一粒とあるのみにすをない。勿論この能作性の珠 D 製法 は、もと不宰詩の如意費珠時輪秘密現身成悌金輪呪五経に 以 ニ 十 一 種 珍 賢 ﹁ 合 成 エ 如 意 費 珠 ↓ と し て 一 Z K せる一段に基いた記事ではあらうけれ H とも、あまりに怪奇的お制捜遣法であるから、.果して大仰が示さ れたととろであるのか疑なきを特ない。そんたととは即事而民の貴義よりしても、首肯しがたいととろであって、
予翠はかくの如き類を以て御遺舎の筆者。私。記事となしたいと思ふ U ︵五﹀叡山天台に劃して偲想敵とするが如辛口封抗意識が、乙の御遺告白うへにあらはれてゐることである Q これはニ十五筒係本の第一僚と及び諸弟子本とのこ警に、御相弟子順暁阿閤梨の弟子なる玉堂寺珍賀といふ借 が、弘法穴師への密敬の博授について、惑果阿開梨に故障そ巾し出でたと記してあるものでも推知される ρ あ る ひは恵果阿閑梨があまりに大師を殊過せられるので、数多き門弟の中には帥意を付度しかねて、心よからや思っ てゐたものもあったのは革質であらうむその中。一人が珍賀と稀する併であったかも知れないが、それをわざわ ぎ大阿闇梨御相弟子内供奉十料師順腕阿闇梨と麗々しく肩書まで付けて、停敬大師の綾地受法の大阿閤梨たる順 跨和上。弟子としたのは、如何に千気に見ゃうとしても、 ζ れが偏に叡山天台に封抗する意識より出てゐること と想像するよりほか仕方はないと忠ふ。何となれば大師は博敬大師の棟地の密教相承をぽ、根本的に認めないと いふ高飛車の態度に出てゐられるのみならや、,貫際また順暁のことの如き一言半句も、 一代に於ける御良筆のも の L うへに書きしるされてないのである。停散大師に遣はされし消息にも、あなたは額敬一乗を、私は秘密僻識 を、各々別途に弘布しぞうではないかと、強べられてゐるほどであるから、弘法大師には倖教大師そ恒想敵とし てあくまでも撃退されるといふが如き偏狭な仕方は、決して存在し件ないこと L 碍断せざるを併ない L 然るに右 牒の御遺告の記事は之と矛盾するのであるから、勿論大師の直設ではなく、弟子輩の勝手に記入したるも C な る ととを主張するものである。 25 叉二十五簡保本の第十五僚には恵果が天台山下に於て、新開寺といふ少伽藍を建て L 経営したといふことを記 してゐる ο 果して天台山下にそんな寺院が存在してゐたか否阜、は且らく拾を、とれも掛た青龍寺の恵呆阿閤梨 D 弘法大闘の御遺告を疑うて阪暁阿関梨の乙
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に及ぶ 一 一 五日 本 偽 敬 闇 申 協 曾 年 報 ハ 第 十 二 年 ﹀ 一 − 六 j6 勢力が、北方長安の都より南方天台山に至るまで、すなはち支那天台宗 D 大本山にまで及んでゐたといふ事大主 義的記事と思はる L のである、それで亦た大師の御自説とは受け取れないのであるから、御遺告の筆者の筆にな った記事と見ねばならぬ。もし強て之を弘法大師に結びつくるならば、天台山とは五台山などむことであったか も知れないが、それが御遺皆の筆者。意国むために、わざと天台山と費ぜられたものかとも想像される。なほ御 遺誠の随一たる再遺台にはこんな文章が出てゐる。 一 二 稜 菩 提 心 人 、 闘 師 故 、 闘 用 故 、 問 責 故 、 防 ニ 園 賦 − 故 、 建 出 エ 生 死 ↓ 到 = 宜 口 提 彼 岸 ↓ とれは多分博敬大師白山家曲学生式の所記に暗示乞件、牟子の理感論の文等に准じて書かれたものに相違なからう 勿論 ζ 白文章白作者が大師であるべき筈はなく、必歩弟子輩が叡山方珂のものぞ顧慮した結果になってゐるもむ と息はれる。弘法大師の文章のうへには、博敬大師の文章に聯想されるぞうな近似的のものは一つもないのであ る じ ﹁六﹀高野山を請うて最後。入定。場廃とするといふことは、上表文の趣意に反してゐる D で あ る G 御遺告の四種ともに高野山を表請して、以て入定。場魔とするといふ乙とに一致してゐる。然るに乙 L に入定と いふのは、最後の入定の意味であって、但に開定三昧を修行する場合をいふ O でなく、人聞の肉身のま L に定力 によりて存生し、勿論呼吸飲食等はしないが、眠ったやうな朕態でゐて、ある橡定の期限がみつるとその肉身が 回定して、恰もいはゆる無想定、減量定。場合の如く、依然もとの入定前の存生を槽績するといふ紳秘的観生蹴 態を意味してゐる。それで入定といふときは普通の死ではない筈だから、生存者と同様に取扱ふわけであるο 市
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て御遺品白には入誠の時刻までそ@前年に於て時間言せられて、官符本には害 擬 ニ 入 誠 司 者 、 明 年 一 一 一 月 二 十 一 日 寅 刻 、 諸 弟 子 莫 ν免 コ 悲 泣 べ 師 三 住 附 部 三 賀 寸 自 然 代 レ 吾 被 一 一 特 顧 寸 吾 生 年 六 十 二 、 也 キ マ テ イ ゾ キ テ 一 支 臓 四 十 一 、 吾 初 思 、 及 二 子 一 一 白 歳 寸 住 レ 世 奉 レ 守 ユ 敬 法 ↓ 然 市 持 ユ 諸 弟 子 等 ↓ 念 永 擬 ユ 即 世 ↓ とあり、他の三本には明年が今年になってゐるのみで、同意の文になってゐる。即世とは死亡するといふ意味で あろが、即世に擬すると云ってゐるので、擬む一字を以て普通の死ではなく、入定のことであるとあらはすつも りであらう。要するに仰遺告の四本ともに大師は普通の死でなく、入定留身されたのであり、その最後の入定の ためにあらかじめ高野を表請して置かれたといふのである@然るに蹄じて性霊集巻九に於コ紀伊岡伊都郡高野峰司 被 ν請ニ乞入定蕗”表と屈する上表文が載せてある ω その文には 伏惟我朝歴代皇帝、留ユ心悌法サ金利銀台、櫛比コ朝野寸談レ義龍象、毎 ν寺成レ林、法之興隆、於 ν是足突、但恨、 高山深嶺、乏 z四 問 客 寸 肉 薮 窮 巌 、 希 ニ 入 定 資 寸 質 是 調 教 米 レ 侍 、 佐 慮 不 ニ 相 臨 − 之 所 レ 致 也 、 今 准 コ 制 経 設 ↓ 深 山 子 地 、 元 宜 エ 修 開 ↓ 空 海 少 年 日 、 好 渉 コ 賢 山 水 斗 総 コ 古 口 帆 ア 南 行 一 日 、 更 向 レ 西 去 同 日 程 、 有 − 一 一 や 原 幽 地 ↓ 名 日 コ 高 野 寸 計 年 二 紀 伊 関 伊 都 郡 南 べ 四 国 高 嶺 、 人 臨 絶 レ 践 、 今 思 上 恭 二 魚 同 家 寸 下 魚 ニ 諸 修 行 者 寸 莞 ニ 夷 荒 薮 ↓ 明 建 二 立 修 耕 一 院 ペ た
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と記してある。弘仁七年七月八日付の大政官符にも、ほとんE
同意味の文章が出てゐる ω 市して上表文中に ある入定といふ文字は、これ全く開定三昧いはゆる役柄概念を修行するρ
意であり、死ぬる場合の最後の入定。 ととではない心すたはち我闘の伸教として従来未だ問教が侍来しないので、大師自ら修蹄の道場そ建てたいとρ
念顕である ν それについては深山の千地たる高野山は、修時のための最誼地であるのだから、彼慮に修蹄の道場 そ建て L 諸の修行者建をして異質に騨定一コ昧の修行に努力せしめたいと思ふ、これが上岡家むおんためになし奉 るむほかはないといふ趣旨をのベてある。きすれば高野の表請は大師一入。最後の入定即ち入誠の場所を求めら ~ 弘法大師の御遺骨を疑うて順瞬阿閑梨白乙とにみぶ 七町 本 側 教 血 中 協 曾 年 報 ハ 第 十 二 年 ︶ 一一入 28 れたのではなく、下潟コ諸修行者唱と記してある D でも知られるとほり、ひろく修絹に志す人々のために朝廷に乞 ひ求められたものである。との黙より考へると、乙の上表文の意味するところは諸の行人の修騨にあり、市かも 抑遺告の意味すると乙ろは最後の入定にあれば、文字は同じ入定であっても明かに両者に矛盾があると云はねば ならぬ U 然るに民情記と博ふる空海僧都停を披くに 承 和 一 元 年 五 月 晦 目 、 召 コ 請 弟 子 等 − 語 、 生 期 今 不 v幾 、 汝 等 好 位 、 慎 守 ニ 僻 法 寸 吾 、 氷 師 ν 山 、 といって、いはゆる最後の入定の謙一一戸などは一向にたい。吾永蹄レ山とはそれまで東寺に居られた大師の訣別 D 言葉であって、これより高野山に蹄りて入蹴するので、再びまた東寺にも出てこられないと仰せられたのであ る。乙の吾永蹄 ν山の文字は御遺告の四本ともに出てゐるが、その中承和二年一一一月十五日付の確かに高野での御遺 舎 の う へ に 、 ζ の言葉が出てゐるのは不自然のぞうに思へる。乙れは恐らく御遺告が大師入減後に出来たものな ので、その筆者なるものが東寺高野の匝別もなく、之を記したものと解するほかはないであらう。故に高野で吾 永蹄 ν山といはれたDではなく.もと東寺で仰せられたものとすれば、乙の一言葉も最後D入定を意味するのではな いとせねばならぬ@市してまた空海僧都停には大師 D 入減までのことを叙するに 九 月 初 、 自 定 コ 葬 届 ↓ 二 年 五 月 以 来 、 却 三 絶 水 提 ﹁ j i − − : ・ ・ 室 二 予 コ 一 月 二 十 一 日 後 夜 ↓ 右 脇 唱 ド 誠 、 諸 弟 子 等 、 . 二 一 者 悟 コ 揺 病 寸 依 = 遺 教 ↓ 奉 ν欽 ニ 東 峰 プ 生 年 六 十 一 一 、 夏 臨 四 十 一 、 . と あ h y て、元年九月には大師が自身の埋葬地佐指定され、一一年五月より水撲を絶たれたとしてある。御遺告には 一大長九年十一月十二日より深く穀味を厭はれたといってゐるので、入誠白年の正月よりは全然飲食を絶たれた。 であらう。怜盤集稽九の天長八年五月庚辰日付。大借都空悔嬰レ疾上表僻 ν職奏肢の中に
然 今 去 月 童 日 、 悪 病 超 レ 盤 、 中 首 相 不 ν現 、 雨 極 在 レ 夢 、 一 一 一 泉 忽 至 、 とあるに依れば、夫長八年四月頃に艇といふ感性の腫物ができて、.そのために苑なうとされたのであるが、それ は快癒して共年の十一月頃から設味詮食せられないやうになった。さて大師のこのとぎの病気は何病であったか といふに、前引の停には一二者悟ニ搭病−と記してあるが、その意味がよくわからない。一設では揺は格闘の義で、. 大師の病鼠そ躍の如きものとなして居り、又一説では稜作的に激烈なる症痛のくる胎石病かと想像して居るが、
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うも根擦がないやうに思ふ F 予輩は揺は普通で臨むことを意味した文字と解して、つまり夫長八年四月の輔が 全快せやにゐたため、つひにそれが致命傷となったのであると断じたい。元来癌の如き悪性の病訴になると、古 昔未だ醤術の進歩せざる時代であるから、暫療の見込もなく、死を覚悟するのほかはなかったであらう。共に貞 観寺座主と署名のある駒大借E2
栴和上博記にも、入定留身のことなどは全然見え歩、次の如く大師の普通の死 を停へてゐる。云く 承和二年、嬰 ν病 隠 ニ 居 金 剛 峰 寺 コ 二 年 三 月 二 十 一 日 卒 去 、 ︵ 時 年 六 十 三 、 潟 凶 十 一 己 市して前の宰辞僧都停の本文の末尾には 亡名借越 とありて、共の行に承和二年十月二日との日付がある o 宥設には亡名借といへぽ民情とはされないと云ってゐる が、たとへ員簡でなくても、著作の年代が大師誠後六箇月飴にして出来たことになって居り、加之内容の記事も しっかりしてゐるので、大師停の史料としてはその慎値を認めざるを特たい 6 叉後の駒大僧正室海和上停記には 29 最後むととろに 弘法大附の御遺告を疑うて順瞬阿閑梨白ζ ι
に及ぶ 一 一 九日 本 側 敬 皐 協 命 胃 年 報 ハ 第 十 二 年 ︶ − 一 一 O 却 寛千七年=一月十目、貞凱寺座主 とあるが、乙の年は点観寺座主翼碓D寂後十蝕筒年になるので首会集。編者は之を聖賓の作であらうと推測し℃ ゐ る ν 但し前引の文に於て大師入披の年を三年として、ふつうに二年とするに具り、大師。年齢にも一品践を増し てゐる鈷より、有人はこの書に不信を表してゐるが、しかし一年の増減は事貫よくあり作ることで多くとがめら れないかも知れ歩、あるひは場合によりてはか L る相遣があるので、早期筆錦の史料となる資格ができるかも知 れない。兎に角乙の一事を以て、不信を全部 D 記事に表することは安蛍でないと忠ふ。今且らくる一集。編者。説 に朋うて之を聖賓の作とすれば、税れは民雅 D 弟子であり、民然に受法し、甑仁より受漉して貞観寺座主となワ 党人物であるから、随てその作が大師悼の有力なる史料たるに論はないであらう@市かも真言宗前来の接匠建が とれ等の侍記を有力崩せないのは、一に御遺告の入定説を無繭ぜるところの記事を有せるがためであらう。然れ ぽ乙れ等の援要史料に於て、大師の入定設に封して無関心でゐることより見るに、それは入定説を主張すると乙 ろの御遺告が、寧ろそれ等の著作より以後か、もしくは同時国かに回来た乙とを示唆してゐると考ふべきではあ るまいか。予輩の御遺告の筆者を貫一息、堅恵、異然等の直治子格白人 k より後輩であらうと想像してゐるものが と
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と合致してくるやうにも忠ふ。而して高野山奥 D 院の仰廟所の錯内へ D 入口をふさいで、出入のできないぞ うにした人が、貞幌寺座主なる聖賢位向であったことも、その入定無脱の態度を示して居る絞れなので興味ふか く思はれるところである。思ふに父母所生の肉身に直ちに大売の妙位を謹詩せしめてゆくべき金剛一乗の法門と しては、一一コ粥槽敬的。紳秘的入定岡田身の不思議事を要せない控目である。因縁生無自性白故に生まれてき、亦た苑 ん で 行 く 生 死 韓 . 誌 の 紫 紺 刊 の ま L に、入定留身にもいぞます不思議。事を見出してゆかねばならぬのが、いはゆる金剛一一飛即事而民の妙趣ではあるまいか。なほ大師。入定留身については、明治時代に喜田博士が東寺の降誕曾 の講演に、入定否定のお話があったといふが、未だその速記録を諌んでゐない。だが幸に森岡龍悟阿闇梨の﹁弘 法大師の入定観﹂なろ替に一部分引用されてあるので、そのだいたいの主張む有様は推知され特る、その引用文 の要所 b t 時載して置く、 ︵A 、前年から大師は病試に躍られまして、かねて入定鹿と定めて居られた高野山に隠居せられ、翌年いよいよ 末期た御血児悟になって、輸出め墓所左も鈷定せられ、諸弟子園鵠讃悌のなかに途に普通の最も安らかな犬往生 そ遼げられ、ました。市してその葬式の如をも、恐らく常時の習慣の火葬の例によって、仰遺骸を茶耽に附し 奉ったこと L 存 じ ま す 、 ︵ B ︶御入定説は全く入定といふ語の意味を取り遼へたことから起ったことで、大師は高野山で入定たされた D でありますが、それは子生の乙とで、末期の謹化のことを申すのではありませんむ ︵七︶御遺告の自叙停式の文に於て、その記事が大師の民撰その他の重要史料に相違せる賄ある乙とである@ 例へば二十五箇依本の第一一僚には 然 後 及 ニ 子 生 年 十 五 寸 入 京 、 初 逢 コ 石 淵 婚 僧 正 大 師 ↓ 受 ニ 虚 空 減 等 、 井 能 楠 虚 忠 一 減 法 呂 ﹁ 入 レ 心 念 持 、 後 経 ニ 選 大 島 十 寸 と一宮ひ、諸揚子本にも同様の記事がある。これでは大師は十五歳で入京あり、まづ勤操大徳に逢ひ、その後に大 事 に 入 朗 申 し た こ と に な る U 然 る に 一 一 一 敬 一 指 蹄 で は 十 五 歳 に 阿 刀 大 足 に 俗 曲 刊 を 皐 び 、 十 八 歳 で 大 製 に 入 り 、 そ の 後 勤 操に逢うたことになって、年齢順序が相違してゐる。而して真情記と停ふる宰海借都停、及び貞観寺座主の倫相大 俗正室栴和上侍記には、全く三教指蹄のま L となってゐるのである。叉二十五箇係本では入唐舶の着岸したとこ
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弘法大師の御遺骨を疑うて限暁同関梨のとムに及ぶ目本悌敬墜協曾年報ハ第十二年﹀