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中央学術研究所紀要 第8号 031森岡清美「新宗教運動の制度化過程」

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新宗教連動をその人的側面からみると一二一の部分が区践される↑﹄一つは、継続的に参加する人々が構成する中核 部分であり、もう一つは短期間参加してやめる人々からなる周辺部分である。固定的な中核部分と、流動的な周辺部 分との間に、中間部分を考えてもよい。新宗教運動が創唱者を中心とする小さい規模のものから発展して、運動の中 核部分が、あるいは中核部分と中間部分をあわせたものが、面接的集団の規模を越えるとき、萌芽的な組織化は必至 一序論

新宗教運動の制度化過程

五 四 三 二 一 序論 支部組織原理の転換 制度化・官僚制化の進展 疎外と固定化への対抗措置 結論

立雇侭蝋毒麹調待

清美

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となる。宗教運動の組織化とは、創唱者に追随する人々の間における役割の分化と統合をいう。 組織化された宗教運動、つまり宗教運動のための組織体は、運動が追求する価値と組織参加者の役割配分を明確に 規定することにより、早晩、制度化の道を歩み始める。したがって、新宗教運動がある程度の参加者を獲得し、そし ︵1︶ てある程度の存続を達成する限り、一言でいえば、ある程度の成功を収める限り、制度化過程を辿るのである。 かつてクヌテンは宗教の制度化過程として、つぎの四つの基本的な、そして重なりあいうる発展段階があること ︵2︶ に注目した。第一は、参加者が自衛と互助のために、インフォマルに構造化された集団をつくる萌芽的組織の段階 である。この集団がフォマルに組織されると、第二の効率の段階に入る。この段階では、集団の価値が明確に規定 され、また実現される。それと共に、長い存続のための順応が始まって、つぎの段階への道が開かれる。第三の段階 は形式主義の段階である。そこでは、組織の構造も、リダの役割も、儀式と信仰箇条も、また教団の目的も厳密 に規定され、かつ官僚制機構によって守られる。ところが、この段階が第四の解体の段階につながるかもしれないの である。この最後の段階では、目的のセンスが失われ、組織がなくなり、信者さえ失われていく。 制度化過程は、流動的な集群が固定成員をもつ集団となり、インフォーマルな集団がフォマルな組織になり、未 分化な役割構造が分化と統合を含む構造となり、リダシップが確立し、自らを特色づける信念体系と儀礼体系が 確立し、それを学習する研修の制度、それを未信者に説く布教師の資格検定制度が確立する累積的過程である。それ は歴史的時間を含む過程であるから、当然、新宗教運動が置かれた社会と時代によって強く規定されている。私は本 稿で、現代日本における新宗教運動の制度化過程を考察したい。 制度化過程は、参加者I信者の多い運動とそれの少ない運動とでは異なった様相を呈するといえる。その最も重要 な点は、信者の多い運動の方が制度化過程に伴う課題を露呈しやすいことであろう。課題というのは、まず運動の宗 ●「フ

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教的情熱を秩序ある組織枠のなかに囲いこむことであり、つぎに、フォーマルな組織枠のなかで、宗教的情熱を維持 させることである。具体的にいえば、第一にリーダーシップ確立の課題である。これは、運動の中心主題が一つでな い場合、主題間のせり合いを克服する課題、あるいは中心主題を一つにしぼる課題として現れよう。第二に、布教活 動によって自然発生的に成立した縦わり組織を、組織内コミュニケションの効率を高めるために、地域的な横わり 組織に改編する課題である。第三に、外部の宗教法の規制と組織内からの要請を吸収して、体系的な法規範を制定し ていく制度化の課題である。第四に、合理化・官僚制化による一般信者の疎外と制度化による固定化を克服して、 形式主義の段階に達した運動が解体の段階にむかって滑っていかないように、対抗措置を識ずろ課題である。 私は現代日本の巨大な新宗教運動のなかから、形式主義の段階に到達していると考えられる立正佼成会を選んで、 右に掲げた四つの課題との関連で、その制度化過程を考察しようとするものである。ただし、紙面の制約のため、 ﹁草創期の立正佼成会﹂﹁リーダーシップ確立過程﹂を論じた冒頭の二節を省略したことをおことわりしておく。 霊友会から分かれて独立した十ほどの教団がほとんど例外なくそうであるように立正佼成会も教義から修行形 態、シンボル、組織形態に至るまで、長い間霊友会のそれを踏襲するなり、あるいはなんらかの形でこれを母型とし てきた。組織形態についていえば、草創期の佼成会は、会員三○名ほどの小さい法座規模の教団だった。二年後の一 ︵3︶ 九四○年四月、東京府に宗教結社の届出をした時には、約五百名にふえた会員が、五つの支部に組織されていた。支 部の内部は少数の法座に分けられていたと推測される。ここにみられる本部支部法座という縦の組織は、霊友会 の様式を踏襲したものである。模式的には法座の成員は法座主の直接間接の導きの子であり、法座主の導きの親が支 二支部組織原理の転換 33

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新支部は会員が多い既設支部の分割によって設立された。そして新支部を産んだ既設支部は親支部、それに対し て新支部は子支部とよばれた。しかし、これはインフォマルな関係であって、フォマルには支部という以上は会 長に直属する。霊友会では子支部が親支部に服属したのに対し、これは佼成会独自の新しい方式であった。 一支部の平均的規模は、一九四八年千五百世帯、四九年千百世帯、五○年千九百世帯、五一年千八百世帯である。 霊友会では数字支部は強大であって、最大の第七支部などその独立直前の時点で会員一五万とも二五万ともいわれた のに比べると、佼成会は小支部制をとったといえよう。小支部制は、庭野会長が副支部長を勤めた新井支部が小規模 区残しやすか一一たからである嘩 一九四三年の一第一の階段﹂で大きな打撃を受けた佼成会は、その後ほどなく再建さ九敗戦後発展期に入る。そ して、法人格を獲得した一九四八年八月には、会員は一万五千世帯、支部の数は一二にふえていた。東京の有力支部 を数字で示し、弱小支部を支部長の姓で呼ぶこと、および数字支部と有力な地方支部に支部旗を授与することも、霊 友会の例を踏襲したものといえる。その後、一九四九年に一八、一九五○年に三、一九五一年に一八と連年支部の新 設がつづいて、会員九万世帯四五万人に達した一九五一年末には、五○の支部を算するに至る。支部がふえたばかり か、一九五○’五一年の間に、二○存在した人名支部のうち東京のもの︵一八︶は数字支部に、地方のもの︵二︶は ︵4︶ 地名支部に改められた。そして五一年以降人名支部の新設が絶えたことは、霊友会でみたような数字支部と人名支部 の格差の消滅を示唆している。この改革を促したのは、支部の増加により繁雑を加えた事務処理上の便宜であった。 すなわち、支部長の姓よりは、東京の支部には数字を、地方の支部には地名を用いるほうが、事務処理の上で支部を 原理でもあった。 部長であり、支却 支部長は直接間接に本部の会長の導きの子であるという、導き関係が縦の組織の生成原理であり、維持鯉

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だったところから、すでに霊友会時代の庭野の経験のなかになじんでいた湾そのうえ霊友会自身海一九四九く五一 ︵5︶ 年に相ついで起きた有力支部長の分離独立にこりて大支部制を廃止したことが、佼成会に小支部制の自信をつけたと 考えられる。小支部制では、布教活動に熱心な信者は、導きの子がふえるにつれて法座主、さらに副支部長と比較的 短期間に地位の上昇をみ、やがて自らの支部を率いる日がくる。またこうして、大支部は子支部を産み出すことがで きる。したがって、布教意欲を鼓舞するために、小支部制のほうが適合的だった。さらに、比較的頻繁な支部の分割 は、支部に対する支部長の権限が強大なものになることを防ぎ、したがって支部単位の分離独立の契機を未然につみ とる効果をもった。そこで佼成会は、多数の小支部をつくって会長に直属させ、支部長を直接統率するばかりか、会 員名簿も本部が掌握する中央集権体制を採用したのである。 会員の増加、したがって支部の増加は、府県別にいって佼成会発祥の東京から地方へ、とくに初期には東京への転 出者の多い地方の府県へという形をとった。これは、東京の会員増加にかかわらず、在京会員数の全国会員総数に対 する比率の低下として現れる。例えば、一九五一年九万世帯、五三年二○万七千世帯、五八年三八万六千世帯と会員 総数が激増するなかで、在京会員の構成比はそれぞれ六○%、四八%、二八%と低下したのである。それはまた、支 部総数に対する在京支部数の比率の低下として現れたことはいうまでもない。一九四八年一二支部中一○︵八三%︶、 一九五一年五○支部中三六︵七二%︶、一九五六年一三五支部中八四︵六二%︶、一九五九年一四八支部中八四︵五七 %︶という推移にこれが示されている。 この当時の支部所属は導きの系統によってきまった。だから、一つの支部の会員が同じ地方にかたまっているとは 限らず、むしろ各地に分散するのが通例だった。とくに、在京支部のうち歴史が比較的古く布教活動の旺盛な支部に ついて、この傾向が著しかった。例えば第三九支部︵一九五二年結成︶は、一九五七年に東京の七つの区と、静岡. 35

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︵6︶ 三重・京都などの府県にそれぞれ百世帯以上のまとまった会員をもっていた。それゆえ、右にみたような地方支部の 急速な増加は、在京支部からの分離か、在京支部から分かれた地方支部からの分離によって出現したのである。ある いは、新潟支部︵のちの越後川口支部︶のように、さまざまな系統の会員を地区でよせ集めた場合もある。それゆ え、地方支部の相つぐ成立は、支部の会員の分布を地方的にまとめていくという隠れた効果をもった。 本部では群参する会員を収容するため、既設の二五坪の本部会堂のほかに、一九四九年には一四八坪の道場を建設 したが、すぐ手ぜまとなったので、翌々年には三五七坪二階建の第二道場を建設した。他方、地方での会員増加に伴 い、発展した地方支部のための道場を建てていく。一九五○年に茨城県北の大津町に一○○坪ほどの道場を建設した のを皮切りとして、五二年一、五三年四、五四年六、五五年五、五六年五、五七年九、五八年四、五九年九と、相つ いで地方道場を建設した。そして、これを修行の拠点とする支部を道場ごとに定めた。地方道場の建設は、さきに述 べた新しい地方支部の結成と結びついて、支部会員分布の局地化を促した。小規模道場というべき連絡所も、最寄り の会員の拠点となって同様の効果を挙げた。 導きの系統による支部組織は、支部分割と所属道場指定により、最寄り原則に少しずつ譲歩を余儀なくされていた といえる。やがて、既存の組織原理がきびしく鼎の軽重を問われるときがきた。それは、一九五六年の﹁読売事件﹂ とこれにつづく一九五八年の﹁真実顕現﹂の具体化であった。 まず、﹁読売事件﹂にさいして、﹁読売新聞﹂の攻撃に対する本部の姿勢を会員一般に伝えて、会員の動揺を抑止す る必要が痛感された。しかし、月刊の機関誌﹁交成﹂はこうした速報的チャンネルとしては不十分である。そこで、 事件が起きた年の六月十五日に、旬刊の﹁交成新聞﹄が創刊された。ところがその配付が問題であった。﹁交成﹂は 月刊であるから、支部法座の縦わり組織で末端まで配付するだけの時間的余裕があった。しかし、会員が各地に散

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では、支部長以下支部の役員や一般会員にとって、導き原則による支部組織は、申し分のない組織形態であったの だろうか。確かに、導きの親子関係を辿る結合は、感情的満足を与えてくれる。他方、導きの親は導いたあとのアフ タ・ケアのために、とくに子の側に生じた問題解決のために、導きの子を頻繁に訪問しなければならない。その旅 費等は一切導きの親の負担とされる。それ故、遠方に導きの子をもつことは、導きの親にとってしばしば経済的に過 大な負担となっていた。また、これは教団全体にとっては大聖堂建設資金の蓄積を妨げることにもなった。 このような状況のなかで、支部組織を導き系統から地区単位のものに切り換える方針が、一九五八年の重言﹂ろ策定 ︵7︶ された。そして、一年近くの資料の収集と分析、企画立案の末、一九六○年の年頭を期して、地区単位の支部組織の 則で新聞を配付する体制をつくっていった。 在する支部組織では、旬刊の一u交成新聞﹄を配付しきることができない。そこで取扱所を各地に設置して、最寄り原 一九五六年、﹁読売事件﹂の打撃により、佼成会の会員数が戦後初めて減少をみた︵七%の減︶。そこで一九五七 年、揺いだ体制を再建するために、地区会員の集い、あるいは地区布教大会と銘うった大集会が、関東地方を中心に 全国二一ヵ所で開かれた。集会への動員は、所属支部のいかんを問わず、関係地域に居住する全会員に対してなさ れ、最寄り原則で会員を集める大規模なテストケースとなった。 ﹁読売事件﹂のさい、真相を世間に訴えるための調査活動を展開したのは、佼成会青年部であった。また、﹁真実顕 現﹂の宣言の年に、教学研修を最初に受けたのも﹁方便﹂にあきたらなかった青年部であった。教学研修は青年部の 新たな組織化を促す。すなわち、昼間働いている青年を夜間研修のために組織するうえで、導き系統による支部組 織、すなわち最寄り原則によらない支部組織が障害となった。そこで、青年部が地区鋼フロックによる法座の先鞭をつ けることになったのである。 Q 7 曹 .

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発足をみたのである。この改革により︾八四の在京数字支部は地方会員を切り捨てられたうえで解体されて区名等 を冠した二五の支部に再組織された。六四あった地方支部は三八支部に再編成され、さらに在京支部の地方会員を中 心として、地方に六四の支部が新設された。こうして人的組織にすぎなかった一四八の旧支部は、地理的な境界をも ちそれを地名で表象する二一七の新支部となったのである。 地理的な境界をもつといっても、東京区部等の二五の支部以外は、その境界と市町村の区域とは必ずしも一致して いなかった。その後、会員の数が一九六○年四○万世帯一六二万人、六五年五一万二千世帯二五○万人と増加するに 伴い、新支部の設立が相つぎ、六八年には一七六支部となった。その結果、東京以外でも支部の境界を地方公共団体 の境界に合致させることが得策と考えられるに至り、一九六九年の年頭を期して、これが実現されたのである。地区 単位の支部組織は、その発足から十年近い歳月をかけて、ここに完成を告げたということができよう。 前節で述べた支部組織原理の転換は、会員数の増加による教団規模の膨張と地域的拡大がなければ、生起する必然 性がない。その意味で、この転換の基本的動因は会員数の顕著な増加であるといえる。しかし、会員数の瞳目的な増 加が必ずしも組織原理の転換をもたらさないだろう。そこにもう一つの要因が不可欠のように思われる。それは教団 管理の合理化への要請である。広域にわたる大教団を効率的に管理運営する要請が、転換の必要性を痛感させる事件 を契機として、組織原理の転換を産み出すのである。 存続を求める組織は、存続の理念的保証を、規則の制定によって、すなわち組織に内在する秩序を客観化すること によって得ようとする。したがって規則は、合理化志向の所産というよりは安定化志向の所産である。制定された規 三制度化・官僚制化の進展

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彫は、組織の内部を規制するものであるから、組織が追求する中心主題とか組織原理といった内的秩序を表現する。 同時に、規則の主要なものは、国家の宗教法の制約を受けて制定されるので、国家の法秩序と教団の法構造を架橋さ せる性格をもつ。その意味で、教団規則と宗教法とのかかわりは、制度化を考察する手一がかりとなる。 さて、佼成会はその萌芽段階においてすでに会則を制定しているが、霊友会などもそうであったように、当時はま だ正式の宗教団体とは見なされず、一つの擬似宗教団体︵宗教結社︶として警察の監視下に置かれていた。佼成会が 正式の宗教団体としての地位をえたのは、信教の自由を最大限に保証した敗戦直後の宗教法人令によってであった。 しかし佼成会が宗教法人としての特権を手にしたのは、この法律によって﹁定款﹂を制定し、法人登記を完了した一 九四八年八月のことだった。宗教法人立正佼成会は、東京都知事所轄の単立教会となった。 さきに述べたように、一九五○年七月茨城支部の道場が建設された。この道場およびその用地に免税の特権を獲得 するためには、これらを宗教法人の財産としなければならない。しかし、東京都知事所轄の佼成会が、他県に宗教活 動の拠点としての財産をもつことに困難があると考えられた。この困難を打開するために、第一に、佼成会の中に含 まれていた茨城支部を茨城県知事所轄の宗教法人として、財産所有の主体とした。第二に、在京支部とその子支部を 束ねたもの︵ただし茨城支部を除く︶を東京都知事所轄の﹁本部教会﹂として、既存の宗教法人立正佼成会の後継者 にした。第三に、本部教会と支部教会を含んでなりたつ上位宗教法人として、新たに文部大臣所轄の立正佼成会を組 織した。この組織がえに必要な法手続きは一九五○年一○月になされた。﹁教会﹂、﹁教団﹂の用語も宗教法人令の用 語に従って、このとき初めて採用された。佼成会は、茨城道場の建設を契機として、複合的組織の教団として法制化 語に従って、こ︵ されたのである。 しかし法人規廊によって不動産をも︵一のは本部教会と支部教会であり誉佼成会自体の財産は会費と寄附金に限ら銅

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れていた。しかも雪佼成会の役員はそのまま本部教会の役員でもあ︵︾た倭本部教会は一他に法人格をもつ支部教会が 成立するまで、茨城支部とその子支部以外の全支部を従属させるものと理解された。したがって、上位宗教法人であ る佼成会の影は薄く、下位宗教法人の本部教会が佼成会そのものであるかの観を呈した。これは導き系統による本部 支部︵親支部子支部︶の教団構造を反映するものであった。 一九五一年四月、届出制の宗教法人令に代わって認証制の宗教法人法が施行された。宗教法人法に対応して、佼成 会、本部教会、支部教会の規則を改正施行したのは、一九五二年から五三年にかけてのことであった。このさいに実 現した大きな改正はつぎの三点である。第一に、従来、佼成会および本部教会を代表し、その事務を総理するのは会 長と規定されていたが、それが理事長に改められた。当時、かなりの教団が採用した聖俗分離にならって、佼成会の 宗教的最高権威である会長に世俗的な事務の責任を負わせることをやめたのである。しかしそういう名分のもとに、 事務総理の権限を会長から理事長に移したとすれば、この改正はその頃の佼成会の実質上の中心が妙佼副会長であっ たことを反映するものとみることができるのである。第二に、本部教会と佼成会および支部教会の関係を規定した。 すなわち、本部教会は佼成会発祥の根本道場である。かつ、本部教会は佼成会に包括される支部教会およびすべての 信者により永世護持される。したがって、法制上本部教会と並立する茨城支部教会も、実質的には本部教会に服属す るというのである。これは、導き系統による教団構造をより正確に反映するものであって、﹃佼成年鑑﹂では、本部 教会と支部教会は本末関係で結ばれているとさえ説明された。第三に、佼成会自身が土地建物等の不動産を所有でき るように改められた。これで、一九五○年段階では名目的な包括法人にすぎないともいいえた佼成会が、実質的な団 るように改められた 体の形をとり始めた 法人規則では会長に関する規定がないので、一九五二年一月、法人規虹をも基礎づける佼成会の根本法として これで 山である。 教 40

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規﹂を制定し、そのなかで会長・副会長・理事長などを規定すると共に、教義等信仰にかんする箇条を掲げた。教規 から受ける印象は、会員統合の象徴である会長と、教化に精進する副会長と、布教の方策をたてる理事長とのトロイ カ体制を佼成会がとったということである。 一九五六年の﹁連判状事件﹂のさい、一部の幹部から提案された﹁妙佼先生を教祖とする﹂という思想によって、 教規および法人規則の改正案がひそかに作製されたと推測される。しかし、提案自体が会長によって拒否され、その うえ、つづいて副会長が遷化したため、改正案は日の目を見ることなく葬り去られたのであった。 ﹁連判状事件﹂に鋭角的に示された主題間の葛藤は、副会長の逝去によってほとんど解消した。そして、会長が代 表した主題が佼成会の中心主題として揺ぎない地位を確立したことを示す一九五八年一月の﹁真実顕現﹂の宣言とな った。その主旨に沿って教学の研修が精力的に進められるかたわら、支部の組織原理を導き系統から地区単位へ切り 換える改革が進められた。この二つの改革を受けて、一九六○年九月から十月にかけて教規と本部教会規則が大きく 改正される“ 教規は大改正のため﹁会規﹂と名称を改めた。会規によって、会長が布教と人事面の最高権限をもつことが初めて 規定された。のみならず、会長の任期は終身であり、会長の職位は世襲であることも、初めて規定されたのである。 他方、理事長の権限が法人代表権・事務総理権以外は会長補佐に限定されたことも注意せねばなるまい。 本部教会規則の大改正は、会規に本部教会の規定がなくなり、地方に教会を置くという規定に改まったことに対応 する。すなわち、改正により、本部教会を東京教会と改称し、内容も佼成会を構成する一地方教会としての東京教会 となった。そこに含まれる支部も、ブロック制によって東京に成立した二七支部および海外の二支部に限られた。し たがって、東京教会の役員組織は佼成会のそれとは全く別のものになった。こうして、東京教会は茨城支部教会と同 41

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じレベルに並ぶことになhくまに法人教会がカバーする地域以外の地方には非法人の教会が存在するはずであるこ とが明瞭となった。ここにおいて、かつて本部教会がもっていた包括団体的性格は佼成会自体に吸収され、教団とし ての佼成会が規則の上にその姿を完全な形で現したのである。 この改正ののち、かつての本部教会および支部教会の財産が大部分、逐次佼成会自体の財産に移された。そこに改 正の狙いが表白されているといえよう。また、翌年七月、茨城支部教会規則が改正され、茨城支部教会を単に茨城教 会と称することになったのは、本部教会の解体・東京教会の成立の論理的帰結といえよう。また、東京教会がおおう 地域以外の地方が九つの非法人教会に分けられ、それぞれ相当数の地域的に編成された支部を含むものとされた。こ うして、地区単位の支部組織を反映する規則が完成したのである。 この過程で教団事務組織が整備されていく。佼成会の発展に伴い、必要に応じて事務係が専門別に分化していっ た。一九五三年には、並立する係を七つの課にまとめ、七課を総務・教務・経理の三部にまとめて事務局の体制が整 った。その後、一層の分化と合理化が進められ、事務分掌に関する規程が整備される。つまり、官僚制化が進行した のである。また、一九五八年には、企画と調査統計を担当する部局が強化された。この過程で事務局職員の数もふえ ︵8︶ ていった︵一九五八年で二八一人︶。 佼成会の収入は会費︵月額戦時中二○j三○銭、戦後一九五○年代で一○円︶だけであり、任意の喜捨である布施 は、がんらい会長・副会長個人に捧げられたものだった。そこで、用地の買収費・会堂の建築費は会長・副会長の文 字通りポケット・マネで支弁されていた。本部事務局員も自発的な奉仕であったから定額の給与はなく、ときどき 会長・副会長から心附けが与えられるに止まった。しかし会員の増加に伴い、一九五二年頃から布施は佼成会自身の 収入として処理されることとなり、建設関係の経費も佼成会として支弁されるとともに、事務局職員へも少額ながら

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定額の給与が支払われるようになる。しかし、常用勤労者なみの給与体系が事務局職員について確立されるの峰組 織原理転換の機が熟した一九五九年のことであった。この年、﹁給与規則﹂に加えて、﹁退職金規程﹂も制定施行され 佼成会と佼成会を構成する支部との関係は、会長と支部長との統属関係であり、その間に本部事務局を代表する理 事長︵旧称は執事︶が介在する。この体制においては支部長、とくに在京の有力支部長が教団幹部であった。のみな らず、彼らあるいは彼女らの夫が事務局の部長・課長でもあった。この事態は、教団幹部が本部の事務を手伝うとこ ろに事務局が発祥したことの当然の成行きといえよう。 一九六○年の地区的支部制の実施は、在京支部長が本部事務局の幹部でもあるという体制に大綱において終止符を うたせる。というのは、一四八あった支部が地区制実施によって一二七と一二も減少したばかりでなく、このさい在 京支部八四が二五に激減したため、在京支部長の地方支部への配置替え、ならびに退職による減員が必至となった。 このとき、本部事務局の役職についている本人、およびその配偶者は、原則として支部長を退任することになり、該 当二四人のうち一六人について退職が実現したのである。これは、支部長を減員しなければならない状況のなかで、 生活の保証のある支部長についてのみ、退任を求めるという生活への配慮から出た措置であった。しかし、こうして支 部長が事務局幹部を兼ねる体制を大局において終わらせたことは、本部事務局の確立と専門分化を促すことになる。 事務局のこの新体制が、前年に施行された給与規則・退職金規程と結合していたことはいうまでもないだろう。この ようにみるとき、地区単位の支部組織が発足した一九六○年は、佼成会の制度化・官僚制化における大きな画期でも 手﹄テ]﹄い︾ ようにみるとき、地区単位︵ あったことが判るのである。 その頃佼成会は、最高里 最高の聖域であり かつ教化活動のセンターとなるべき大聖堂の建設に総力を傾けていた一︾大聖妃

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以上の考察から、佼成会は一九六○年代の中頃には効率の段階の熟成期に入ったことが判明する。佼成会が、少な くとも前掲三つの主要課題を解決して熟成した効率の段階に入るために、一九四二年から二○年余りの年月を要した のである。他方、﹁家﹂制度が社会構造の骨格をなした封建時代に成立した教団では、支部分出が本家分家あるいは 本家末家の家的文脈においてなされ、制度化.︵封建的︶官僚制化も﹁家﹂制度に即して急速に完成した。しかし、ま さにそのゆえに、支部組織原理の転換はきわめて困難となった。そして、合理化よりも、制度化・官僚制化による安 定化が先行し、効率の段階の熟成を経ることなしに、形式主義の段階に入ったのであった。形式主義段階の既成仏教 諸教団のなかでは、真宗教団だけが明治維新期の国家構造の変革期に、組織原理の転換を曲がりなりにも達成した。 定によって一応の完成をみたといってよいだろう。 て、教勢の拡張を図ったのである。このような事務機構の運用システムは、一九六八年四月の﹁規程管理規程﹂の制 資金を調達した。新会員獲得については、創立三○周年の一九六八年に会員百万世帯を達成するという目標を掲げ 設をめざして実施した雌金の経験から、会員の負担能力に適合した醗金目標を各支部に示して、相つぐ建設に必要な た本部官僚機構とコミュニケション効率の高い支部組織を手足として実現されたのである。企画部では、大聖堂建 た。このような本部施設の相つぐ拡充整備は、一九六五年に設置された強力な企画部を頭脳とし、合理的に編成され で、教団事務局を容れる事務庁舎と、会員の研修施設としての普門館を、一九七○年に大聖堂の至近距離に落成させ る。さらに、大聖堂参拝のため団体で出京する地方会員の宿泊施設として、一九六九年に団参会館を建設する。つい 堂か一九六四年五月に落成すると、つぎに青年の練成道場の建設に移り、一九六六年東京郊外の青梅にこれを完成す 四疎外と固定化への対抗措置

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それに比べるなら、佼成会は三○年足らずという短い年月に、支部組織原理の転換を含めた制度化・官僚化を実現し たといえる。これを可能にしたのは、第一に、佼成会の母型をなした霊友会が﹁家﹂制度と関連の乏しい下層民衆に 地盤をもち、また佼成会自身の発展期に﹁家﹂制度はすでに社会構造の鋳型の地位を滑り落ちていたことである。第 二に、﹁家﹂制度に代わって企業が多かれ少なかれ、また意識的にせよ無意識的にせよ、大組織のモデルとされる時 代がきていたことである。事実佼成会でも、一九六三年頃には幹部研修の課目に経営学を加えることが考虐され、一 九六五年設置の企画部が教団全体および各支部の年次目標を策定し、また、目標管理が云云されたのであった。企業 モデルの導入は、組織の合理化を推進し、効率の段階の熟成を早める。クヌーテンによれば、ここに否応なく形式主 義の段階が幕明けすることになるのである。 形式主義の段階に入っている徴候は、会員数の停滞と法座の沈滞傾向に見られた。法座とは、佼成会が霊友会から 継承したうえで発展させた、座談会形式での問題提起解決指導の場である。教学の訓練もない婦人が信仰体験だけ で布教活動に参加できたのは、法座ゆえであり、また、さまざまな問題を抱えた人々の問題解決欲求が満たきれえた のも、法座ゆえであった。法座は佼成会発展の原動力であった。その法座に沈滞傾向が見られるようになったのであ 一九五○年代の中頃までは、入会の動機として病気が圧倒的に多かった。しかし、経済復興が進み医療保障と所 得保障が整うにつれて、一九六○年代には病気よりは人間関係的な悩み、精神的な悩みがふえてきた。病気の悩みは 外から見え、他人にも知られているから提起しやすい。しかし人間関係的な悩み、精神的な悩みは、他人に知られず にすむことなので、あえて大勢の他人の前でうちあけるのは祷踏される。このように、世情の変化に伴う問題の重心 の一般的推移が、法座から初期の魅力、つまり切れば血の出るような問題提起と解決指導の魅力を失わせた。また、 ブCO 45

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ないのであるc まり、時代の変化以外の教団内の諸変革も、法座の沈滞に拍車をかけたのである。こうして、対話教化の場として法 く、そのため、個人的な悩みや家庭の悩みをうちあけるのをためらい、通り一遍の問題提起に終わりがちになる。つ 法座での指導を中途半端なものにした。他方、地区単位の支部組織では法座に出る人に日常生活で顔見知りの人が多 的解釈が増加した反面、信仰実践による生きた報告が少なくなった。また、教学の未消化による幹部のとまどいは、 い。こうなると法座に提起すべき問題もなく、勢い法座は低調となる。それに加えて真実顕現以後、教学による理論 この頃から増加した二代目信者には、特定の入会動機がなく、ただ親が佼成会の信者なので何となく入会した者が多 ︵9︶ 座を回復することが佼成会の課題となってきた。一九七二年に﹁法座﹂が共同研究のテマに取り上げられ、一九七 三年に﹁法座その実践と論理﹂というガイドブックが編まれているのは、この課題への対応例といえよう。 つぎに、地区単位の支部組織は、会員のアフター・ケアのためには効果的であるが、支部の区域の外へ布教を展開 するのを自ら抑制させ、活発な布教活動にブレキをかける傾向もある。そのためか一九六八年以降会員数が停滞し ており、これまた形式主義の段階の徴候といえるのである。組織原理の転換の時点では、きたるべき交通手段の飛躍 的な発達、とりわけ高速の新幹線が東京大阪間に開通︵一九六四年︶し、ついで、大阪岡山間︵一九七二年︶、 さらに岡山博多間︵一九七五年︶に伸びること、またほぼ二世帯に一世帯が乗用車をもつに至ることは、一般市民 の予想を越えることであった。しかし、今日では支部のレクリエションのために遠方に出かけることが珍しくなく なっている。したがって、支部の区域外に出て布教することが、過大の負担を伴うことなく可能になっている状況に かんがみ、最近では支部の区域にとらわれない布教が奨励されている。布教意欲を地域外にも展開させることは、導 き系統のつながりから地区単位のつながりへの系統発生的切り換えを、個体発生的にくりかえさせることにほかなら

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制度化の進展は教団の運営と活動を安定させる反面、これを固定させる傾きがある。固定化が教団を形骸化した例 は、既成仏教にいくらでも求めることができる。そこで佼成会の場合、青梅の練成道場を中心とする後継信者の育成 こそ、固定化への対抗措置として地味ながら最も注目すべき努力である。また、会長が先頭に立って推進している宗 教協力による世界平和への運動も、教団の固定化を防ぐ効果をもつフロンティアとみなしえよう。この運動の出発は 支部組織原理の転換は、組織の合理化であり、導き系統がもつ温い情緒面の清算を意味した。しかし、情緒的つな がりに価値をおく会員は、組織原理の転換にかかわらず、旧来のつながりを保持し、新しい支部に加わろうとしなか った。教団本部ではこうした一部の逸脱を強いて是正することなく、少なくとも経過的措置として在来のまま認めて いる。そのような人々は、他支部の地区のなかに島のように取り残されているので、﹁島﹂とよばれる。﹁島﹂の存在 は、組織の合理化が人間感情の抵抗を排除してまで強行されなかったことの証左である。 霊能と修行の重視から、法華経の教学重視への推移は、教義の合理化である。教義の合理化は情緒面の軽視につな がりかねないが、表向き廃した姓名鑑定や六曜・九星をインフォーマルにはあい変わらず方便として用いていること は、極端な教義の合理化への歯止めとなっている。 教義面および組織面で、合理化の不徹底さが残ることによって、非合理な情緒や体験が温存され、合理化による人 間疎外の回避に役立っているといえよう。それと共に、参拝と研修のための本部施設が、本部と地方末端会員との直 接接触を可能にしている積極面に注目したい。とりわけ、東京杉並の一角に鋭然として萱える七階建の豪華な大聖 堂、五千人収容の大ホールをもつ洗練された普門館が、これを仰ぎ見、これを利用する会員に帰属の喜びと満足を与 える。幹部でさえ会長の指導を直接うけがたくなっている現在、施設が果たす一定の代替機能は看過できないのであ ブ O C 47

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佼成会のもう一つのフロンティアは、一九六九年に始まった﹁明るい社会づくり運動﹂である。世界宗教者平和会 議の運動は、一九七八年の国連総会に会長が求められて平和について提言するという華々しい成果を挙げた。しか し、それは、会長と、国際会議について彼を補佐する専門部局の活動であって、一般会員は見物席から会長の華やか な国際活動に拍手を送るにとどまっている。それに引きかえ、﹁明るい社会づくり連動﹂は大会を国内各地で開催す るのが眼目となる。これは、非会員を巻き込んで社会との交流を図ろ運動であるから、当然、関係地区の会員は残ら 際宗教者会議のさい、第一回世界宗教者平和会議の京都開催が決定し、主催国の委員長として庭野が指名された一九 パウロ六世に謁見を許されて平和提唱を手渡したことである。運動が本格化したのは、イスタンブルで開かれた国 一九六三年に遡る。すなわち壱この年、核兵器禁止宗教者平和使節団副団長として会長が渡欧したさ随ロマ教皇 後継者育成、世界平和、明社という三つのフロンティアの開発は、効率の段階が熟成し、教団組織の合理化・安定 化がようやくその逆機能面︵疎外・固定化︶の徴候を示し始めた頃に本格化した。今日では第四のフロンティアとし て、国会議員の選挙応援活動が加わっている。選挙は結果が明白なだけに、教団の固定化を防ぐ活性剤として、今後 いよいよ大きなウエイトを占めるかもしれないが、宗教と政治に関するデリケトな問題をまぬがれえないだろう。 佼成会は世間に対してもまた他宗教に対してもがんらい協調的であったから、第二と第三のフロンティアは非妥協か ら協調への転換を示すものではない。第四のフロンティアにしても、かつて創価学会が標傍したように、国立戒壇の 建立を目ざすものでも、また自民党が推進している靖国神社国営法案の阻止のためでもないことは、付言してよいで ず動員されるのである。 るのが眼目となるこ準 六九年であ︷︾たこ あるアワc

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たいc ㈹江戸期のように、人々の宗教帰属が所属する家によってきまっており、布教を通して新しい信者を獲得すること が政治権力によって抑圧されていたところでは、宗教制度が卓越し、宗教連動はミニマムとなる。 ⑧宗教運動は単に信者およびその子供たちを訓練するだけではなく、未信者に働きかけてこれを信者とする活動 にその特色がある。こうした性格はとくに新宗教運動において著しい。 ⑧新宗教運動は、政教分離の戦後社会で大きな成功を収めた。 側成功した新宗教運動は、信者の増加によって組織化が必至となり、さらなる信者の増加は組織の合理化、管理機 構の官僚制化、運動の制度化を促す。こうした展開は、膨脹した新宗教運動の効率浄高め、また安定させる。 ⑤他面、合理化は感情の疎外を、官僚制化は運動末端の疎外を、そして制度化は固定化をもたらす。つまり、新宗 教運動の発展のための努力は、一定の効果を生むとともに、やがて逆機能をあらわす。逆機能によって運動のさら なる膨脹が抑止され、連動は形式主義の段階に入る。 ⑥逆機能が累積すると、運動はやがて解体の危機をはらむようになるので、逆機能への対抗措置が講じられる。対 抗措置は、運動の余力として、無意識的に展開されることが多い。 m逆機能への対抗措置は、一定の効果をもつと同時に、再びそれ自体の逆機能を示す。したがって、形式主義の段 佼成会の草創期から最近段階に至る制度化過程を、とくに効率の段階と形式主義の段階における四つの課題を中心 として考察した。この作業から得られた一般的仮説ならびに佼成会についての特殊的仮説を、以下に掲げて結びとし 五結論 49

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階を組織の面から、逆機能と対抗措置との動的な過程として特色づけうるであろう。 ⑧佼成会の場合、組織の合理化・制度化を促した外的要因として﹁読売事件﹂と宗教法があるが、合理化・制度化 のために霊友会や創価学会の様式にならった形跡はない。もっぱら、連年にわたる信者の激増、信者を収容すべき 会堂その他施設建立の必要性、副会長の遷化、といった教団内的諸条件への積極的な対応のなかから、合理化・制 度化が推進された。対抗措置の策定も同様であった。 ⑨佼成会の場合、膨大な数の信者を獲得しえたのは、①悩み苦しみの状況にある人々の問題を解決した︵欲求不満 補償仮説︶、②価値の混乱している人々に納得のいく助言を与えた︵世界観構成仮説︶、③伝統的な生活共同体の 紐帯の急速な崩壊に直面している人々に新しい強力な連帯関係を提供した︵社会統合仮説︶、④①l③を達成する うえで、導きの親子関係と法座という第一次集団関係による指導が有効であった︵相互作用仮説︶ためと推測され る。つまり、ベッコードが挙げた宗教集団加入の四仮説がともに妥当し、かつ同人が強調するように、④の意義は ︵、︶ 大きいpしたがって、佼成会が制度化によって既成宗教に近づきつつも、なお新しい加入者をつぎつぎと獲得し て、新宗教運動の特色を保持しうるかどうかは、導き活動のいかんによるところが大であろう。 ⑩佼成会の場合、がんらいの組織原理は本部・支部の本末関係であり、親支部・子支部の擬制的親子関係であっ た。本末関係・擬制的親子関係は、わが国の伝統的集団の組織原理として世俗集団のみならず宗教集団にも貫徹し ていた。佼成会がそれから脱却して合理化を果たすことができたのは、始め宗教法のインパクトのもとに合理化の 契機をつかみ、のち企業モデルの採用によってこれを推進したためと考えられる。 ⑪佼成会の場合、会員が他の宗教団体にも所属する二重帰属あるいは多重帰属が容認される。このため、宗教協力 にも明社運動にもなじみやすく、隔離的共同体をなすという感覚は乏しい。したがって、制度化に伴いセクトがデ

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ノミネションになるという理論健佼成会には妥当しない。 注 ︵1︶乏旨の○口.国。国 に二三頁参照︶ ︵2︶尻目丘蔚厚閃旨 ︹付記︺本稿はCISR東京会議提出論文に若干の改訂を加えたものである ︵叩︶ ︵9︶ ︵8︶ ︵句I︶ ︵ハリ︶ ︵貝︺︶ ︵4︶ ︵3︶ 〆口匡身①ロ︾閃一o冨己ロ.︵①eや自皇篇め。亀具。内竜ミ罰亀崎さ忌叱隆琶崖葛菩具。蛸¥z①急KO幹監シ壱三①8国6①巨目qbHg扇︾ 己雪︾弓b謡l鵠②なお、これに先行する宗教団体のライフサイクル論としては、巨。冨侭︾ロ画ぐごP弓意⑦言﹃S畠 邑普旦員冒吻ミミミ倉同旨怪①弓OaQ崖、︾z号刃⑦貝ざ①国角厚ら周︾層]屍1局﹄がとくに注目すべきものである。 一九四○年四月五日届﹁宗教結社大日本立正交成会規則﹂︵教団史資料一○四二号︶ 佼成三十年史資料﹁支部結成の沿革﹂︵教団史資料一六五号︶ 戦後の大分裂ののち、関西で唯一つ残った大形作太郎と、関東残存の岩楯岩吉の二人が中心となり、残存勢力を整理して全 国的な支部の組みかえを行い、分裂に導く大支部制をこのさい廃止した。ただ大形の第十三支部と岩楯の第十二支部は温存 された。滝泰三﹃神々多忙﹄︵新夕刊新聞社、一九五六年︶七八頁参照。 ﹁昭和三二年版立正交成会地方現勢﹂︵教剛史資料九二○号︶ 一九五八年四月の改正で新たに設置された調査統計課が、支部別総計の会員数と都道府県別総計の会員数を合致させるため に開始した約四○万枚にのぼる会員カド作製とその集計が、ブロック制企画のための基礎資料となった。 その成果は、中央学術研究所︵編︶﹃共同研究・立正佼成会の法座﹄一九七五年。 国①o屋Ca︺言冒①mシ・︾展z①言芝旨①冒口①喜一︺○己①切叩鉾号冒門日拭①陣○日の一︺員gm①。︹og5g言国冒異さ目﹄ご陣︶ミミ OS§邑麗﹀鴎︵盲目.岳認︶︶弓目、I認︵邦訳は﹃宗教研究﹄二三七号、一九七八年九月、一○三、く一二六頁︶ ﹁佼成年鑑﹂による。 国冨冒︺|ご自言日后の旦切⑦gご息ミミ菖員さ苫ミ記昌唱S畠乏冨房・届虐.い︵言々,こぶ︶︾弓や⋮、鴎︵邦訳とく 51

参照

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