初
期
経
典
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態
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タ ﹄ ア ッ タ カ ヴ ァ ッ ガ を 中 心 に | |南
清
隆
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題
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所
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近年内外を問わず、多くの気鋭の研究者たちによって、初期仏教文献の主に傷領を中心とした章句と、他のイン ド思想、特にジャイナ教聖典類との類似平行匂の対照作業が数々の成果を挙げてきている。そして、それらによっ て従来から幾人かの先学が主張されていたように、仏教の形成期に用いられた教説の内容や術語の多くは、決して つまり仏教固有のものではなく、当時のインド思想界一般のものと共通、或いは類似 仏陀釈尊や仏教教団の独創、 していることが一層明白となった。それ故、 そのような研究者たちの作業努力は、文献閣の借用関係に対する時代 的考証に若干の未解決な問題を含むとはいいながら、学界に多大な貢献を寄与していることは疑いない。しかしな がら、仏教独自の章句、術語ではないとしても、初期仏教聖典は少なくとも仏教教団の中では仏陀金口の教説とし て伝承されていた訳であり、何らかの編集方針のもとに断片的な教説が幾つかの集編に段階的に、 そして組織的に 纏められていったのである。 現存パi
リニカ l ヤや漢訳阿合経は、その集成作業の最終的段階と呼べる四部、或いは五部という纏め方である。 初 期 経 典 の 一 様 態 }\悌教大皐大事院研究紀要第十二挽 }\ 四 て い る 。 そ し て 、 その前段階には九分、或いは十二分という、主に形式的な分類による纏め方が存在していたことが伝えられ そのような大規模な組織的分類が行なわれる以前にも、断片的な素材が一つの作品に、或いは一 ま た 、 編に編集されるという作業が徐々に作されていったと考えられる。 称や量的差異はどうであれ、経典伝承の最初期に纏められたことは想像に難くない。そして、 ﹃法匂経﹄や﹃長老傷﹄等の原素材は、その名 との小論の研究資料 である﹃スッタニパ l タ﹄第四章﹁アッタ力、ヴァッガ﹂もそのような作品の一っと考えられる。 ﹃ ス ッ タ ニ パ l タ﹄という南伝特有の集編に収められる以前は、明らかに単行の 一編として伝持されていたことは後述する多くの証拠が物語っている。それでは、このような集編に纏められたこ この﹁アッタカヴァッガ﹂は、 とには、何らかの意図が介在していたのであろうか。或いはまた、 そこに含まれる各経には内容や説示形式に共通 点が存在するのであろうか。そして、その反対にもしそのようなものがないとしたなら、 在していた章句を単に雑然と収集しただけのものなのか。 このような集成は当時散 この小論は、以上のような疑問から端を発し、初期仏教経典の一集成単位としての﹁アッタカヴァッガ﹂が、ど のような特徴を有する経典であり、初期教団の諸文献の中でどのような役割を果たすために編纂されたものなのか、 というような点について若干の考察を意図したものである。 ︹ 以 下 の 論 述 に 用 い る パ 1 リ テ キ ス ト は 、 特 記 の な い 限 り 、 司 、 吋 印 版 を 用 い 、 略 号 等 は 、 与 の ミ ミ S N N u b
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︸ 内 山 ・ ぐ o m m m H H ﹀ J1 ﹀ は 、 現在のパ l リニカ l ヤ で は 、 ﹃ ス ッ タ ニ パ l タ ﹄ ︵ 同Z
。 ・ 印∞ 戸 芹 0 ・ D 山 田 ︶ 削 件 向 日 ∞ ロ ︶ の第四章に収められ、全一六経、 総 数 一 二
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傷から成る集編であることは今更言う迄もない。 ∞ロというより大規模な集成単位に収められる前段階には、単行の経典として伝持されていた時期が存在 していたことは、以下に箇条書きによって示す理由から定説となっていんい ② ③ 一、内容的にも︵偏領に関しては︶ほほ対応する漢訳﹃義足経﹄や、サンスクリット断簡が存在し、それらを伝 えていた部派では﹀︿が単経で伝持されていたことを示す。 そ し て 、 一 一 、 パ l リニカ l ヤ 中 に も 、 ﹀ぐを独立した集編として扱いそれに註解を加えた﹃マハ l ニ ッ デi
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﹀ が 存 在 し 、 そこでは∞ロの存在を予想させない。 三、﹀︿︵乃至はそれに対応する経名︶は、 パi
リ 一 一 力i
ヤ だ け で な く 、 ④ という名称はパ l リ伝の文献にしか見い出せない。 漢訳諸文献にその名を引かれるが、 ∞ ロ これらを考慮すると、﹀︿はパ l リ聖典史上でも、他の経典に引用される程古くから存在し、Z
正 門 同 同 と い う ア ⑤ ③ ビダンマ論書の先駆となったような文献の成立頃迄は単経として伝えられ、それ以降の或る時期に∞ロというより ① 大規模な集編に収められたと見て大過ないであろう。 一方、北伝での﹀︿︵乃至はそれに対応する経典︶は、部派の律論典にとどまらず、 ③ にまで引用されているのであるから、後世迄単経として伝持されていたと考えられる。そして、﹀︿は特に諸律を ﹃ 大 智 度 論 ﹄ や ﹃ 議 伽 論 ﹄ 主とした出典に関連して 従来よりグ読論経典 H と呼称される一群の経典類の中心的存在と見倣されてきた。 の内容的な考察に入る前に、まずこの読諭経典としての用いられ方について検討を加えておきたい。 諸律、そしてニカ l ヤ︵阿含︶に引かれる K ぎについて、最初に詳細な検討を加えたのは∞ヱg
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向氏であ ⑮ @ ⑫ り 、 次 い で 司 ・ ︿ ・ 回8Fz
・ ﹀ ・ ﹄ 唱 。 乏 の F H m g ω の両氏が、また我が国では平川彰博士や石上善応教授らの論考が 〉 〈 初期経典の一様態 }\ 玉悌教大事大皐院研究紀要第十二競 L
﹂ 、
zJ 一 ノ ある。このうち、回3
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共 同
9 5 ω 両氏のものは、単経として古くより存在していたことの例証として、 の出典箇所のみを列挙されたものであり、他の三氏のものは、広く網羅的に初期経典︵平川博士のものは律典の み﹀を中心にして、それらに登場する文献名が収集されている。このうち、最後の石上教授の論考は、それに先立 @ つ教授の旧稿の内容を敷街し、更に戸合同氏の見解をも踏まえた後、教授独自の新しい着眼点を示しておられる。 〉 〈 そこではまず、諸仏典に存在する仏弟子たちによる経典読請の記述を抽出し、読諦という行為の意義を検討され、 更にそれらの箇所に見られる具体的経名を挙げ考察を加えておられる。 山 山 円 。 。ω
億耳﹀説話を典拠とし、小論の資料である﹀︿が、﹁比丘たる資格のある時期にテスト的要素をもって用 ⑬ いられたのではあるまいか﹂との推論を下された。∞。宮説話とは、5
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によれば、﹀S
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の 長 そ の 地 に 伝 道 に 来 た 冨 岳 製 。 の の 削E
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大迦旗延︶によって教化され優 そ の 中 で 、 諸 律 に 見 ら れ るω
。 宮 ︵ω
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者の子であった∞ O H V ω が 、 婆塞からやがて比丘となり、仏陀に見えるために祇園精舎に赴き、仏陀の面前で﹀︿を読請するという物語である。 ⑫ ⑬ 乙れと同様の物語が口監g
︿ 10 や りr
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﹀等にも見られ、漢訳でも多くの律典に登場する。 ﹀ J1 のみとするものの他に、諸律中には他の経典名を ⑧ の名は登場する。それでは、この一連の パ l リ 文 献 で は 、 そ れ ら に よ る と 、 ∞ 。 恒 ω が読請した経典はパ l リ伝のように 並記する場合も見られるが、﹃十調律﹄の当該部分以外は少なくとも﹀︿ω
。 恒 ω 説話以外では﹀︿がどのような用いられ方をしているのであろうか。以下に、 ﹀︿が登場する他の箇所を示 し、それらをも加えて筆者なりに考察してみたい。 ニ カ l ヤ中に既に﹀ J1 の名が引かれ、それらの経典成立の時点で﹀︿が権威を持って伝えられていたこ ⑫ ⑧ とを示すものに、∞凶凶口 1 ω ー ω 及 び ω l N G が あ る 。 そ こ で は 、 冨 各 県 内 お の 削E
が ﹀g
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刊 に 在 っ た 時 、 出 削 ロ 注 目 ︸ 内 削 巳 ま ず という在家居士︵m
岳山富江︶が世尊の略説した備の意味を彼に問う。その偏とは、 ﹁アッタカヴァッガのマ l ガン25
・ の 第 九 億 ﹀ が 引 用 さ れ る 。 デ ィ ヤ の 問 い 中 の も の ﹂ ︵ ﹀ 件 寄 与 ミ 諸 問 日r
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︶として、∞ロ∞怠︵つまり﹀︿Z
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l ⑧ 乙れに対応する漢訳﹃雑阿含経﹄にも、ほぽ同一の物語が存在する。これと、先 の∞。宮説話とに共通して登場する人物は室内岳削−S
の の 削g
である。そして、∞。吉一は比丘になったとはいっても、 彼のもとで出家して日の浅い新参の頃に世尊に見え、面前で経を読請したのであるから、仏教経典に精通した多聞 の弟子であったとは言い難い。 印。宮説話ではω
。宮が宮各県RSS
に教化されて、彼の知った最 であったというシチュエーションを背景に想定しても良いのではないか。一方、出包正岳・ そ う す る と 、 初の経典の一つが﹀ぐ ︸内問巳は在俗者であり、彼もまた出家者のようには経典に精通していたとは思われない。ましてや、﹀g
ロ ロ は 当 時 ⑧ は辺境の地であり宮各県営忠E
の布教前迄は仏教がどれだけ知られていたかすら疑問である。つまり、ω
。宮と 民 間 ︼ 正 門 回 目EE
の二人は、共に仏教を学んでまだ年浅い初学者と見て良いのではないか、という共通点が存在する。 また、在俗者が﹀ぐを読請するという物語は、系統の異った伝承ではあるがg
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智 包 削E
等にも見られる。それ ⑧ によると、商人たちが航海の途中で、毎朝夕に次のような仏典を読請したという。それらは、口仏側ロ P 可 制 片 山 吉E
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で あ り 、 こ れ ら の う ち 、 思 山 吋 削 ヨ ロω
と ∞ 巳 苫 円 四 叫 郎 防 @ を除く諸経を列挙する同一の物語が、﹃有部律薬事﹄にも存在する。そうすると、とれらは単に比正のみが伝持し ていたものではなく、広く在俗者たちにも知られていた経典であり、﹀ぐは正にそれらを代表するものと言える。 ⑧ 一方、﹀︿等が初学者に教示される例としては、﹃摩詞僧祇律﹄巻一三に、比丘が共行する未受具戒人︵具足戒 を受けていない弟子︶に対して、﹁八群経、波羅耶那経、論難経、阿蒋達池経、縁覚経﹂を授ける乙とが説かれて ⑧ いる。乙のうち﹁八群経﹂とは、先のω
。宮説話の﹃摩詞僧祇律﹄での訳語例と照合して﹀︿を指すと考えられる。 そして、同じ﹃摩詞僧祇律﹄巻二七には、次のような一文も存在している。 初期経典の一様態 八 七梯教大事大事院研究紀要第十二挽 }\ }\ 若比丘布薩説波羅提木叉時。賊入者即底更語絵経。若波羅延若八政者経若牟尼偶若法処。 これによると、布薩時に比丘たちが集まって波羅提木叉を諭している最中に、もし賊が侵入したならば、他の経 典、すなわち、波羅延︵忠一品
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︶や八抜書︵﹀る以下の経典に代えよ、というのである。俗人の前での読請を ⑨ 禁じる波羅提木叉が中止されるのは当然としても、その後にわざわざ﹀ぐ等を読請することは、とれらの経典と在 俗者との関連を想起させるのではないだろうか。 ⑧ 最後に、﹃雑阿含経﹄巻四九に阿那律陀︵K
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︶が畢陵伽鬼子母︵夜叉女︶ の住処にて、夜分に ﹁ 憂 陀 那 、 波羅延那、見真諦、諸上座所説傷、比丘尼所説傷、戸路傷、義品、牟尼傷、修多羅﹂を読請したという記述が知ら れている。乙の読葡経典類は、ω
。宮説話の諸律での列挙経典に類似している。また、夜叉女に対して読請し、鬼 神道よりの解脱の道を示したと備にあることは、在俗者への教示の範鴎に入るべきものとして考慮すべきかも知れ ⑧ ⑧ ない。しかし、乙れに対するω
凶 IG には具体的経典名を挙げずに唯ι
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とのみあり、﹃別訳 ⑧ @ 雑阿含経﹄も相違するので多くは触れない乙とにしたい。 さて、以上の用例の多くは、既に前述の諸先学の論考に指摘されていたものではあるが、 このように総合してみ そこには或る共通点が見い出せるのではないだろうか。それは、﹀ぐを中心とする所謂 H 読 一 諭 経 典 d という ものは、仏教の専門家、つまり古参の比丘たちと関連して説かれた箇所は存在せず、それらのいずれにも新参の比 や在俗者たちとの関わりの場面に登場するという る と 、 丘︵﹃摩前僧祇律﹄巻一三の場合は具足戒も受けていない弟子︶ 特徴的な点である。そうすると、読諦経典とは仏教のエヰスパートではない初学者向けの経典ではなかったかと推 論 で き 、 し か も 、 ∞ 。 恒ω
説話のパ!リ伝承では彼の読請したものは﹀ 4 唯一つであったように、 それら読謂経典を 代表するものが﹀︿であると考えられる訳である。そして、 そのような経典であったから ζ そ 、 宮 各 削 ︸ 内 向 お の 削g
の@ ような辺境布教に功績があった仏弟子と関連して登場することも首肯できるのではないだろうか。 仏弟子たち、特に伝道布教に活躍した人々が各々固有の経典を奉持していたことは、アショ l カ王治政下の伝道 ⑧ 師たちが特定の経典によって人々を教化したことを列挙する伝承によっても推察される。但し、それらの中に 〉 〈 は含まれてはいないが、布教活動の祖のような富岳製
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と本経との関連が少しく見い出されるのであるから、 そのような目的に用いられたのではないかという推測も可能である。そして、﹀︿を知る乙と、 そして読請するこ とが仏教者への第一ステップであり、当時の仏教者たちが、まず最初に修学すべき経典の代表であったからこそ、 布教伝道と共に在俗者にもその内容が知れ亘っていたものと考えられないだろうか。このように推論してゆくと、 先述の石上教授の見解は更に拡大され、﹀︿は仏教者として修学の第一段階の経典であり、そのような性格のもの であったからこそ、在俗者にも浸透していたのではなかったかという問題が提起される。 ﹀︿は、今日学界の定説となっているように、最古の経典資料の代表であることは疑いないであろう。しかし、 最古のものとは言っても、当時の教団の伝持する経典がこれのみであったとは考えられない。現存資料では増広、 改変が繰り返され、原形を探ることが困難になっているものもあるとしても、ニカ l ヤ中の多くの経典の原伝承は かなり早くから教団の人々の記憶の中に伝えられていた筈である。﹀ J1 が最古のものという評価の中には、 乙 れ が 全編傷領であったことから改変を蒙り難く、従って原伝承に近いものがそのまま伝えられて今日に至ったという意 味も含まれていると解せる。そうすると、幸いにも﹀ぐには、後代の部派的色彩や発達した教理が挿入され難かっ たと考えられる。では、このような集編が何故、先に推論したような用途に用いられたのであろうか。﹀ぐが古形 を保っているとするならば、必らずやその内容にもこの経典が仏教修学の入門書たることを示唆する証拠が検出さ れなくてはならない。そ ζ で、次には﹀︿の教説内容を吟味し、考察を加えてゆくととになる。 初期経典の一様態 ;¥ 九悌教大事大事院研究紀要第十二強 九 0 その成立当初から現在見られるような一六経一二
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備という構成であったかについては異論も存在する。 @ @ @ 同 ︶ ・ ︿ ・ 回 名 9 F 0・ 。 ・ 司g
円 目 。 両 氏 や 、 我 が 国 で は 中 村 元 博 士 が 主 張 さ れ る よ う に 、 ﹀ 件 付r
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∞ 宮 ・ ﹀ 吻 伴 内 枠 内 凶 ︵ 八 つ よ りなるもの︶と解して、元来は八傷構成の経︵現在の一六経中では、第二1
五経がそれに相当﹀のみで構成されて ﹀ ︿ は 、Z
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。というように、−A
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呉 川 凶 の 語 が 経 名 に 付 さ れ て い る か ら 、 いたからその名が付いたという説である。確かにそれらの経には、 そ れ ぞ れ 、 このような説も考慮しなければならない。しかし、現存する文献資料からそれを支持するものは、僅かに﹃摩前僧 @ @ 祇律﹄に﹁八段祇経﹂等という訳語例が存在するのみである。しかし、﹀ぐを﹁義品﹂等と訳す場合に想定される ∞ 宮 ・ 形 ﹀2
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︺も、先の﹀ ωず︹l g
︺も、共に俗語形として﹀g m
︵ 乃 至 はE
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︶を有してい匂から、 漠訳語のこの用例のみでは元来これらの八備経だけの構成であったことを証明する決め手とはならない。更に、γ
百
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氏によれば、八偶構成の経典に付されたl
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という名称は、本来的に常任問の意味で用いら ⑧ れており、それらが八億経であるということは偶然的な事象であるとまで主張されている。乙れに対して、以下の 諸点はかなり早くより﹀ぐが八偶経だけでなく、現存の一六経の形態によって伝えられていたことを示している。 @ 一、漢訳﹃義足経﹄は、﹀ J1 と同様一六経で、各備も殆ど対応するものを見い出せる。 @ ⑧ 二 、 二 種 の ∞ 宮 ・ 断 簡 は 、 共 に ﹀ 吋 件 ︸H o g
吋m M
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︵或いは﹀ 3 F 件当民間々とという経名を伝え、先の八億経に相当 する部分以外の傷を合ω
。 三、前節で指摘したω
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W I N G で引用されるω
ロ∞怠も八億経以外の部分である。@ 四、北伝の律典中に﹁十六匂義﹂﹁十六義品﹂等の語が見い出され、今日の﹀︿と同数の経数を有していたこと が 解 る 。 い て 、 これらの諸点を考慮すると、年代は明確にできないが、かなり早い時代に﹀ぐは現存形に近い形態で伝持されて その段階では、﹀江
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︺ H 義の意味に解されていたことは首肯されよう。また、一 ム ハ
経という経数も﹀ぐと共に初期には単経として伝えられていたと考えられる∞ロ第五章司削片山3
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も本来は ⑧ ⑧ 一六経であったことや、ジャイナ教聖典にもいくつかの一六章構成の経典が存在することからも、かなり古い時代 ⑧ ︵それは、釈尊在世時代に迄遡ると考える説がある程︶から固定されていたのではないだろうか D また例えば、パl
リ聖典の偏領の随所に、﹁一六分の一にも値いしない︵S
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富 山
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どという定型表現が見られ勾よ ⑧ 一六という数が一つの区切り、或いは満数を示していることも考慮すべきであろう。 , つ に 、 いずれにしても、﹀ぐは経典伝承の最初期に存在し、経数も現存形に近い形態であったと推察されるが、 そ れ で は、そのように編纂されるべき有機的な連関が見い出されるかと言えば、必らずしもそれを端的に示す証拠は容易 に検出できない。各経の偶数にも一貫性はないし、形態的な面からはそれらは総て侮領だけの経典という乙とが唯 一つの共通点である。しかし、唯それだけの理由で無作為に収集されて一編が構成されたのであろうか。二ハ経の ⑧ 説示内容に何らかの類似性は存在しないのだろうか。既に和訳だけでも何種類か存在し、内容梗概も発表されてい るのであるから、徒らに紙数を費して説示内容の総てを紹介することは避けたい。また、最古層の経典として仏教 ⑧ ⑧ 思想の重要概念の萌芽を求める研究や、類似平行匂を見い出す作業も数多く発表されている。しかし、それら個々 の成果は別として、﹀ J1 をあくまでも一つの集成単位として眺める時、この一六経には物語としての連続性はなく とも、そのいずれに於ても常に仏教以外の思想への批判、排斥が強調されているという特徴に気付く。 初 期 経 典 の 一 様 態 九梯教大事大事院研究紀要第十二掠 九 @ 当時仏教と勢力を競ったであろう自由思想家やブラフマニズムへの批判、 @ 色濃いことは、既に古くは英訳者︿・
3
己ω g
口氏も指摘されている。しかし、そのω
ロの中でもこのような性格は と こ ろ で 、ω
ロ 全 体 に 亘 っ て 、 論駁が ﹀﹂可に最も顕著に表われるのである。それを示す端的な一例を挙げてみよう。パ l リ語で思想家の見解を表わすの @ に、門店守山という単語が最も一般的に用いられる。そして、この語はω
ロでは重複を含めて合計四六回用いられる ⑧ のであるが、実にそのうちの三八回が﹀ぐ中で使用されている。数量の上から一概に断定できないとしても、 ∞ ロ 全一一四九億︵と散文﹀中の五分の一に満たない﹀ぐの一二O
備に、実に用例の八割以上が集中している。乙のこ とは、少なくとも﹀ぐの内容がそのようなテ l マに対して如何に多く言及しているかを証明していることにはなる だろう。そして、具体的な内容の点でも、各経毎に常に何らかの邪見を例として挙げ、 それに対する正しい見解 ︵つまりは仏教の考え方︶を明らかにするという形式をとっている。 ﹀︿がいかに他思想との対抗を想起させ、それらに対する論難が多いかを二三の例によって指摘しておこう。 まず u d ∞ E ・3 3 m v は、極端論を排し、乙の世や彼の世︵F
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︶を求めるという輪廻思想を批判す る。また、執著、食りは終始批判されるが、吋g n
の 食欲を食らず、離欲も求めない。︵S
同削官同削mMgi
円 削m
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︶ という立場は、先の極端論批判と共に、快楽主義や禁欲主義への論駁であろう。 次 に 、 u d ∞ 1 u d u 可には、自己の考え方に固執して他と優劣を競う有様が説かれている。これと同様の表現は、 @1
∞ ∞ ∞ . ∞ 寸 ∞l
∞ 芯 唱 ∞ ∞ ω にも見られる。当時の思想家たちは、自らの思想を主張し合い優位性を競ったのであろう。 そ れ 故 、g N
等では、多くの紛争や争論があることを嘆いている。∞
MAF ま た 、 ∞5t
∞ NO では、修行者迄もが姪欲に耽り堕落している姿が表現されている。そして、バラモンの学術知識への批判は∞
81
∞おを初めとして諸所に見い出せる。 そ し て 、 これらを代表例として、作すべきではない事、またそれを行なっている人々に対する非難は枚挙にいとまがない。 正しくはどうあるべきかを説示するのである。﹀ 4 一六経の総てが、そのよう それらを問題提起として、 な説示方法であると言っても過言ではない。 その中には在俗者の迷妄に対する批判が主となっている経典︵Z
0
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し ﹃ 問 削25
・ ︶ も 存 在 す る 。 し か し 、 それとても他経が仏教と他思想との対比であるのに対して、 そこでは仏教者と在 俗者との対比に過ぎない。つまり、他を批判して自らの優越性を強調するという点では共通している。しかしなが ら、勿論このことが仏教経典として特殊なものであると言うのではない。他思想を邪見として排することは、初期 経典以来、所謂破邪顕正の立場としていつの時代の文献であっても、仏教︵或いは自派︶の正当性を主張する重要 な論法の一つである。しかし、﹀︿のように終始一貫して他の批判に重点が置かれている経典というのは、 それだ け仏教に対抗する存在が強く意識されていることを物語っているのではないだろうか。 仏教教団は最初期から、決して強大な勢力を有していた一訳ではない。種々の思想家︵或いは思想家集団︶が乱立 し、共存する中で、彼らと対抗し合いながら教線を拡大して行ったと考えられる。すると、 その発展のためにまず 何よりも必要であった乙とは、自派の思想の優位性を強調することであろう。そして、 そのための最も有効な手段 は、他との対比によって自らの正当性を訴えることである。乙れは、在俗者を仏教者にするためにも、他派の出家 者を転宗させるためにも共通する方法である。﹀ぐは屡々触れたように、聖典類の最初期の所産である。そうする と、その最初期は仏教教団の発展期でもあった筈である。そして、発展期に自派の立場を他との対比によって宣揚 するような経典が必要であったとするならば、正に﹀ぐがその端的な例を示すものではないだろうか。このことは、 前節でこの経典が仏教修学の入門書たる用いられ方をしていたのではないかと推論したことと決して矛盾するもの 初 期 経 典 の 一 様 態 九悌教大事大事院研究紀要第十二挽 九 四 ではない。例えば、宮与野宮島
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のような伝道師たちが、 他の思想家や在俗者たちに対して教化活動を行なう時、 最初から教理を詳しく解説したような綱要書的な経典を説示するであろうか。むしろ、他の思想、或いは迷妄の在 俗者の考え方を批判した上で、簡便に仏教の優位性を主張するようなものによって彼らを導いた、と考える方が妥 当ではないだろうか。そうすると、これ迄見たように、﹀﹂可 の内容はそのような用途に最も適したものと推察され る 訳 で あ る 。結
論
に
か
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小論はこれ迄、読請経典と呼ばれる幾つかの初期経典を代表するものである﹀ぐを資料として、それがどのよう な状況で用いられたものかということと、その集編が全体としていかなる内容的特徴を有しているのかというこ点 から若干の考察を進めてきた。その結果、前者では、ニカ l ヤ・阿合、そして諸律典等比較的初期の文献に﹀︿が 登場する場合、必らず在俗者か新参比丘が絡んだ状況があり、決して古参の比丘間でこれが読請されたりしたよう な記述が存在しない点から、仏教修学のための入門書的な用途で用いられていたのではないかと推察した。そして、 後者の内容的な問題に於ても、﹀︿は煩漬な教理を解説したり、思想書という類のものではなく、主に仏教と対峠 する他思想︵乃至は思想家集団︶を意識して、彼らを批判し仏教の優位性を宣揚することを目的とした経典が集ま @ っているという特徴を見い出した。乙の二点は、筆者が初期仏教の発展期に教団が教線を拡大せんとする状況下で、 ﹀︿が布教伝道の経典の一つとして用いられたのではないかという仮説を展開する上での外的、 そして内的な根拠 で あ る 。 そ こ で 、 このような立場にたった時、今後解決しなければならない問題も幾っか残っているので、紙数が 許される限りこれからの研究課題として提示しておきたい。まず第一の問題として、﹀ぐが破邪顕正の立場を強調していながら、 そこに用いられている語句に批判の対象で あった外教、特にジャイナ教の聖典類に見られる傷領との平行匂が存在するととに或いは疑問を感じるかも知れな いという点がある。もし、仏教とジャイナ教等との思想の核心に触れるところで、両者の文献に平行匂が存在する なら、それを自派宣揚の経典と呼ぶことは臨時蕗しなければならないからである。そこで、﹀︿中のジャイナ聖典と ⑧ の平行句を巧・回色合氏等の指摘によって比較すると、次の七侮一二匂に及んでいる。
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独処の比丘として遠離した坐処に親しむ。彼が︵俗︶世に自己をあらわさないなら、彼にはふさわしいととが あると言われる。∞
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位 。 初 期 経 典 の 一 様 態 九 五梯教大事大事院研究紀要第十二挽 九 六 H ∞ ロ 可 H ・ M ・M ・ U 1 F ω m J 可 ︿ 何 回 仲 − Z M O ω ロ ω 州凶門問削
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・ ロ 佐 一 ω 山件。 牟尼︵∞ロ可欠︶はどこにも依るものがない。 m v M M n H−
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H K F M ﹃ 削 吋 H ・ N ・G ・ N 我がものという想いがない。 こ れ ら の う ち 、ω
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胆 V は、各々執着の対象を列挙したものであり、 お宅の比聡は渇愛によって動揺した様子 を喰えたものである。そして、∞忌は∞口”に続くことで明らかなように、独処して執着を滅するととを奨めたもの と解しうる。そうすると、これらの平行句は総て内容的には無執着の立場を説き明かしていることに気付く。無執 着、つまり、欲望を抑え、貧欲の対象を滅するという理念は、何も仏教やジャイナ教のみに限ったものではなく、 ⑩ 古代インドの一般の出家者たちにとっては、共通の立場であったと言えるのではないだろうか。従って、個々の宗 教独自の思想ではないのだから、汎宗教的な定型表現として用い、他派がそれを実践しない乙と自体を批判するこ とは差支えないと考えられる。更 に 、 ﹀ ︿ の個々の偏領の成立史的問題を論ずる場合、より厳密な比較研究が必要であろうが、小論では集一編と しての﹀ぐの教団伝承の中での立場を探ることを念頭に置いている。それ故、 このような問題は、現在の筆者の力 量外のところでもあり、今はしばらく措くことにする。 上記は、﹀︿が集編として伝持される前史上の問題であるが、次に考えるべきは、 これら読諭経典と九分・一二 への推移の問題であり、それは文献史的には後の時代との連関について の考察と言える。﹀︿だけでなく、忠門司
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−阿倍﹁削等、主に有部系の伝承に登場する他の読諭 ③ ⑫ 経典に対して個々に考察を加える必要性もさることながら、これらの経典類が九分・一二分教を経て五部中の小部 雑蔵を構成するものであることは注意しておかなければならないであろう。これら明らかに古層の経典類が、やや ⑫ 遅れて成立し的小部雑蔵に配されることになった経緯については、未だ決定的な定説は存在しない。しかし、この ③ 点に関しても、筆者は明快な論陣を張る用意はない。 分教、更には四部・五部阿合会一カ l ヤ ︶ 以上のように、課題ばかりが山積みされた考察に終始したが、小論が今後、他の初期経典類の検討をも加え、 そ れらの伝承の様態というものを探る端緒となりえることを願う次第である。 註 ①∞ロに関説する研究書、論文は極めて多いが、そのう ち 、 k F 4 が 単 行 の 経 典 で あ っ た こ と に 言 及 す る 主 な も の を 列 挙 す る と 次 の 通 り 。 国 ・ の ・ H A m−
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・ 出 l 品 目 M M Y N N 旬 、 t N ω 。 ・ 司 ・ ︿ ・ 回 2 E Y 吋 F O K 戸 2 v m 句 史 ぜ I ω E B∞
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に 単 行 本 と し て 刊 行 ﹀ 初 期 経 典 の 一 様 態 九 七悌教大事大事院研究紀要第十二競 の ・ 。 − M V E L P h H R L な 旬 な 怖 か − A W O 之 内 hsh 。 \ 匂 柏 hh 尚 弘 、 v む き u ﹀ −
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・ 前田恵学﹃原始仏教聖典の成立史的研究﹄山喜一民仏書林 ・ 東 京 、 昭 三 九 、3
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・ 尚、上記 M m u 詰 d i o r g B m w 氏の論文は、同誌に二ニ固に 亘って掲載され、∞ロ研究の集大成的成果として著名な ものでありながら、同時に入手困難なものとしても知ら れている。幸いにも筆者は愛知学院大学教授前田恵学博 士の御好意により、一三田中の殆どを複写させていただ く乙とができた。乙乙に記して深く感謝の意を表したい。 ②﹁義足経﹄︵二巻︶支謙訳大正蔵第四巻︵ Z 0 ・ 忌 ∞ ︶ 句 切 − H J 可 A F ︾ ︿ ] 戸 ∞ 山 田 ・ 尚、回毛主註①書は本経を英訳し、﹀ 4 と 対 照 し た も の 。 また、水野弘元﹁k r
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含 ・ 回 日g
︵ 義 足 経 ︶ に つ い て﹂︵印仏研一巻iH
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参照。そ乙で、博 士は本経は無長山寺派所伝のものではないかと推論され ているが、それについては機会があれば別に論じてみた、
。
③ ﹀ ・ 司 − H F 出 。 2 己 o u 叶 r o ∞ 三 宮 ロ 即 日 品 g z m w ∞ m H z r 立 件 4 2 回 目 。 口 同 町 。 B 何 m m Z H H H 吋 口 同 w g z p ι 可 知 bh −w F o ロ 仏 O ロ H 也 H∞ u H V 同y J 可 。 。 ︸ , 、 J 1 ω N W H U H J F M M − H ω h H ・ また、近年、別の断簡が新たに発表された。 FoSFE25 品 開 自 己 毛 色 合 。 r s E f h E ま 除 、 ま や 九 八 .ミ
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ロ 即 日 戸 当 日 o m − t 釦 門 目 。 ロ u H m w ∞ 。 ・ 同 v −Y N A H O I N A F H ・ ④前田恵学博士は、印ロの名が初めて登場するのはプッ ダ ゴ ! サ ︵ 回 ロ 門 E r m m r 。 g ︶ の 書 で あ る と さ れ る 。 ︿ 註 ① 書 匂 ・ 誌 N ︶ 但 し 、 宮 戸 匂 ・ 品 H H w 出品にも本偶の引用と 共に∞ロの名が登場する。いずれにしても、窓口の乙 の 部 分 は パ l リ伝のみの増広部分と見倣されているから、 他系統の文献では∞ロの名は確認されない。 ⑤木村泰賢﹃阿毘達磨論の研究﹄︵全集第四巻︶大法輪 閣 ・ 東 京 、 昭 四 三 、E
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臼JE
・ @水野弘元﹁巴利聖典成立史上における無碍解道及び義 釈の地位﹂ハ門口同︵﹃仏教研究﹄四巻三・五・六号︶特 に同ヲ勾以下。 ⑦水野弘元博士は、宮己の後半部分の成立を諸説を考慮 された上で、西暦起原前後と推定された。︵﹁ミリンダ 閉経類について﹂﹃駒沢大学研究紀要﹄第一七号匂・8
︶ ま た 、ZE
内 回 目 は 、 註 ⑤ 論 文 に よ る と 、 西 暦 前 二 世 紀 前 後とされる。︵国 M M ・2
︶ す る と 、ω
ロの成立はその聞 と推測されるのであるが、今はこの年代の是非を考察す る 用 意 は な い 。 ③水野弘元博士の和訳︵南伝大蔵経二四巻E
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J N U ∞ ﹀ 、 及 び 同 註 ② 論 文 句 ・8
参 照 。 ① ∞ − F A − − u F m w 同 宮 町 仲 己 目 。 ロ ︼ M H F S X 2 0 円 凶 作 田 叶 O M E g 回 。 .ロ 内
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ロ g w −F P H H。 弘 氏 。 斗 O B o m u M M a u − 忌 H m − ⑮司・︿・出品丘町註①論文︵書︶吉伸8
含
o 巴 O ロ ・ @z
・ k p ・ M m u 詔 dq 山 岳 H m g m 註 ① 論 文 。 ⑫平川彰﹃律蔵の研究﹄山喜一民仏書林・東京、昭三五、 同 M M M・ 斗 印 。 ︸ t J 1 m w H ・ ⑬石上善応﹁初期仏教における読請の意味と読諦経典に つ い て ﹂ ︵ ﹁ 三 康 文 化 研 究 所 年 報 ﹄ 第 二 号 ︶3
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・ ⑬石上善応﹁仏教初期の読諦経典について﹂︵﹃大正大学 宗 教 文 化 ﹄ 第 一 一 号 、 昭 一 三 ︶3
・ 怠J
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・ ⑮石上註⑬論文句−g
尚、乙れは同所にあるように、 ﹁ 共 通 的 に 億 耳 伝 説 で は あ る が 、 : : : 修 行 段 階 に お け る 一 形 式 を 教 示 し て い る よ う に 思 わ れ : ・ ま た す べ て の 律 蔵 の 典 拠 と な っ て い る 点 よ り 考 え て : ・ ﹂ と い う 推 定 よ り 導 き 出 さ れ た 見 解 で あ る 。 ⑬ ︿ Z 4 0 日 ・ 目 黒 y H g t H @ J 1 ・@
C 仏 印 o o m F R a g i s m m O B ・ 勾t
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− ・ 司 匂 W H O M 他 に KF1 日 冨 − S F 削 文 献 中 で は 、 ﹀k r
︵ 言 句 ︶ 40 日 ・ 円 匂 −N
合 唱 叶 F K F ︵ MM 仏 ︶g
− ・ 同E
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J H m 切 に も 見 ら れ る 。 ⑬﹃四分律﹄巻三九︵大正蔵第二二巻匂・∞品。︶、﹃五分 律 ﹄ 巻 一 一 一 ︵ 二 二 巻 。 ・ 民 会 ︶ 、 ﹃ 摩 詞 僧 祇 律 ﹄ 巻 二 三 ︵ ニ 二 巻 匂 ・ 邑E
︶ 、 ﹁ 十 謂 律 ﹄ 巻 二 五 ︵ 二 三 巻 匂 ・55
︶ 但 し 、 ﹃ 十 調 律 ﹄ に は 、 kF4 に 相 当 す る 経 名 を 欠 く 。 初期経典の一様態 ⑫﹃根本有部律﹄およびロZ
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に はω
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︵H 印 。g
︶の前生謹を含むかなり増広された物語が伝えられ ている。そのうち、彼が仏陀の面前に見える箇所は次の 通 り 。z
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町 、 会 2 4 0 日 ・ 岡 宮 丘 四 ﹃ ” の 己 ・ 0HH2 以 w H 也 印 。 w 匂 − H ∞ ∞ ・ 開 ・ 回 ・ 。 。4
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ロ h w 同 ・ k p ・2 0 F 叫 4bhwb 叫 句 、 b e h H h N K 州 W H h H W の m F S − r 同 − t o w H ∞ ∞ め ︵ 同 名 ・ ﹀ 自 己2
含 S H 句 。 ︶ w 問 者 ・ ω 品J8
・ @石上註⑬論文句・8
に、これらの資料による一覧表 が 掲 載 さ れ て い る 。 ⑫∞さゲ圃ヲ。・ @ 同 右 ヲ ロ ・ @﹃雑阿合経﹄巻二O
、 大 正 蔵 第 二 巻 匂 − H 怠 r J 0 ・ @ P P M M 似 V n m 悼 の の 智 一 何 回 のk r
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ロロ布教については、水野弘 元博士によって指摘され、次いで前田恵学博士が詳細に 論 じ ら れ た 。 水野﹁初期仏教の印度に於ける流通分布に就いて﹂︵﹃仏 教 研 究 ﹄ 第 七 巻 四 号 ︶ ︼ 者 ・ S J N 。 ・ 前田﹁原始仏教教団発展史上における大迦購延の位置﹂ ︵ ﹃ 印 仏 研 ﹄ 三 巻 l 口 ︶3
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・及び註①書E
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註⑫書3
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・ @﹃根本有部律﹄巻三、大正蔵第二四巻ヲロ﹃・ 九 九悌教大事大事院研究紀要第十二挽 @大正蔵第二二巻
3
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− @﹃摩詞僧祇律﹄註⑬の箇所、及び後述巻二七では、﹁八 践祇経﹂﹁八践者経﹂と記し、訳語に相違が見られるが、 こ こ で は ∞ − F b i 氏の解釈︵ k r m g l g H m m m ロ 件 目 ︶ に 従 ぃ、﹀︿を指すものと解した。︵ F b i 註①論文ヲお ω 参 照 ︶ 。 尚 、 ﹁ 八 践 祇 経 ﹂ 等 が 、 ﹀ ︿ を 指 す 乙 と は 次 章 参 照 。 ⑩大正蔵第二二巻ヲ怠♂・ @ 平 川 註 ⑬ 書 E Y 勾 J ω ∞ ・ @大正蔵第二巻 M M ・8 N
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@ω
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− − H 司 − N。 。 ・ @乙れについては、水野弘元﹁ウダlナと法句﹂︵﹃駒沢 大 学 学 報 ﹄ 復 刊 第 二 号 ︶3
・ H N J H ω ・ ︵ 後 、 ﹃ 法 句 経 の 研 究 ﹄ 春 秋 社 ・ 東 京 、 昭 五 六 ︶ @大正蔵第二巻3
・ 色 。 。 J おE
・ @石上教授は﹃雑阿合経﹄等での経典名の列挙は、それ らの部派の読謂経典が揺入されたものと推定されている。 ︵ 註 ⑬ 論 文3
・ 吋 品 J 誌 ︶ @註@論文参照。 ⑧仏弟子一人一人が、総ての経典類を完全に伝持してい たとは考え難い。むしろ、彼らはその任に応じた、或い はその読請を得意としたような固有の経典というような ものを有していたのではないだろうか。例えば伝道師一
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たちについても、ロ︿尽 l 訟 で 宮 内 酬 とE
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が 凶 包 ・1
回8
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品 目 冨 B B m 酬を説諭して人々を教化したというよ うな記述が見られる。乙れらは、各々の比正たちが専ら 奉持していた経典というものを象徴しているのではない だろうか。尚、他の伝道師たちが読請した経典名につい ては、前田註①害3
・ E N J H 品 。 に 詳 し い 。 ま た 、 経 典 類の伝持に分担があったことについては、塚本啓祥博士 が種々に論じておられるが、代表的なものとして、﹃初 期仏教教団史の研究﹄︵山喜房仏書林・東京、昭四一、 増 補 改 訂 昭 五 五 ︶ E Y ω g t h s m w が あ る 。 ⑧回毛主註①論文3
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吋 、t
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∞ ・ ⑩ H M g p 註 ① 書 同 yghrg ・ @中村元﹃ブッダのことば||スッタニパlタ|﹄︵岩 波 文 庫 ・ 昭 一 二 三 ︶ 註 記 同Y
N
8
・ @ ﹁ 八 抜 祇 経 ﹂ 、 ﹁ 八 群 経 ﹂ 、 ﹁ 八 践 者 国 経 ﹂ そ れ ぞ れ 註 ⑬ 、 @ 、 ⑮ を 参 照 。 ⑬経名の漢訳例については、水野弘元博士による和訳 ︵ 南 伝 二 四 巻 ︶ 訳 註 ︵3
・ N S J お ∞ ︶ 及 び 註 ② 論 文 句 ・8
に 指 摘 さ れ て い る 。 ま た 、 そ れ ら 以 外 に 、 ﹁ 義 品 ﹂ ︵ 大 正 蔵 第 二 巻 ヲ ω 足 。 、 二 七 巻 匂 ・8
。 と 、 ﹁ 衆 義 経 ﹂ ︵ 二 四 巻 ゆ −H
F
、 二 五 巻 。 ・8
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︶ 等 が 存 在 す る 。 ⑭同− F ・ 吋 c g R u k陣 。 。 事 h v h H S H 皆 、 匂 片 足 。 ミ h q h y 。 ﹂J
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偽 ﹄ ﹁ ミ h向 。 l k 曲 、 ハ 可b s h h H 司 H a m p h h H h a 噌 F o ロ 円 四 O ロ ︵ O u n 向 。 同 島 ︶ ・ 5 m w p−
v ・29 (No. 638), p. 41 (No. 941).
@) Jayawickrama組@程-1><vol.1V-4 pp. 236∼239,
時J平二日吋t-0ベJ' 総
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製guhatthaka-s0 Q guha,同む主要録 Dutthatthaka-s0 Q Duttha, Suddhatthaka-s0
Q suddha, Patamatthaka-s0 Q Parama ~,護ドペJ
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4時蛍体ig:: {ミド奇心二,小 U ベJ-R•il atthaka ベj 皆d季初ヰミ~
Q\U~t-0 ベJij皇初 -k ドニト。。
⑧ Bapat 制@程-l><G 惇~~~宍迫~;ミ樹!日刊誌ドニ向。
守lil~ '最盛旬 Q 耗勘話1g位十-lG {実直芸術 ~..4)組壊判ぶミドニ向。
⑨ Waldschmidt制@抑 p.240~'・" arthavarg 〔gi)
//(C82 A15)為禅問刊誌時。 ⑨ Hoernle・;li!a§程-1><p. 711 ~. artthakavargiyaril su・ traril (Frag. I-4)為健穏.!y(J平;.t-00
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挺日 p.715 ⑨ Skt.\[!芸部下J 営’ AbhidharmaKoおbha~ya 日..4 )Ar-thavargiya .-IJ ...)いく喋縄民・:ftQ~ ;ミ店臣判長時。 (A -bhidharmakosabha~ya ed. P. Pradhan, Patna, 1967, p.9) ⑧「1
~(尽i幅J~ 『E台帳』’ 「 14q臨時」~『同令粧J ¥UQ 脳同E。哨(~制⑧4私自主。 ⑮ 窓吋’包P NiddI
Q parayanavagga上,l{宍-Imト0組長 ~「首長 Hく特皿 Q Piiigiyasuttanta (P五rayanavaggo 尽報端部Qi
総領 nitthito Pil)giya-suttantal'Jl so¥asi)」ベJ,_)\J 紫~ゃ いニ t-0。
(p. 56) ⑧ Wiliem B. Bollee, The Piidas of the Suttanipiita,(Studien zur Indologie und Iranistik Monographie
7) Reinbek, 1980. Intro.VI∼ 羽 ⑮ 耗齢制@程令< p.88. ③ Dhp 70d, Th 1171d, S vol. I p. 211, A vol.]Ip. 70. 制~話料モト \U~ ' It p. 20, A vol. I p. 166, 168 昨検察説。 ⑮ 札J,k1d{宍J い'*保 H(器tl\U~ や~ UベJl::」慰霊申立!:b 岳会的母眠薬ベJ...)いP S01:,1a 椙棺 Q て~::::--1話 cw⑧~⑧)
吾P Vin \U~ Sabb互n’e.vaatthakavaggikani ペJ~t-0
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’ Ud,DhpA ミ \U~'
solasa atthakavaggikani sa-bbani ベj謀議為 1¥F,同拘尋ドニトOυ.-IJ 設特:b•il足時。 ,J-k
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程争< pp. 236∼
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梯教大事大串院研究紀要第十二競 東京︶所収、後﹃渡辺照宏著作集﹄第五巻・仏教聖典一 ︵ 筑 摩 書 房 ・ 東 京 、 昭 五 七 ︶ @三枝充息﹁スッタニパ l タ 第 四 ・ 五 章 の 梗 概 ﹂ ︵ ﹃ 曹 洞 宗 研 究 員 研 究 生 研 究 紀 要 ﹄ 第 4 号 ︶ 志 ・ 旬 、
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、 k F 4 に つ い て はE
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斗 J 口 ・ @縁起説の原初形態を﹀ 4 中の婦に求めた中村元博士の 見 解 ︵ ﹃ 原 始 仏 教 の 思 想 ﹄ 選 集 第 一 四 巻 3 ・ h J m N︶ を 初めとして、部分的な論及は枚挙にいとまがない。 @ 同 ・ 。 仲 件 。 司 H m ロ r o u 口 問 。 ω E Z E Z一 宮 ー の 出 ﹃ 川 町 田 宮 = 子 同 835HFZPNUミ
c w 出 向 E G ω ︵SOS − 。 品 ︵ HS3 ・ 82SN ︶ ・ ︵ 尚 、 忌 尽 に F 巴 官 目 的 に て 合 本 さ れ 単 行 本 と し て 公 刊 ︶ 水野弘元﹁経集対照表﹂︵南伝二四巻巻末E
Y
H
J
巴 ︶ 同﹁経集の備と他文献との対照表﹂付 J 伺 ︵ ﹃ ピ タ カ ﹄ 旬 、 t 的 所 収 ︶ @当時の自由思想家たちの様態を集成したものとしては、 雲井昭善﹃仏教興起時代の思想研究﹄︵平楽寺書店・京 都 、 昭 四 二 年 ︶ が 、 最 も 著 名 。 @︿・司 m w H Z r 。 F ω ロ 2 m g q 削 冨 ︵ 開 口 ぬ ・ 可 ω ロ 回 − wh 回 同 4 。 ︼ ・ 凶 ︶ 山 口 一 件 同 0 ・ 丘 町 ・ @註@書で町内 H C m ま口氏は佳江主 H E 尽 g m と 定 義 し 、 類 語 も 指 摘 し て い る 。 ま た 、 荒 牧 典 俊 氏 は 、 K 戸 ﹂ 刊 を テ ー マ と し た 研 究 論 文 に 於 て 、E
I
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に﹁宗教的ドグマ﹂と。
いう訳語を与えておられる。﹁ ω E S E−
u側 一 S K F 1 r 色 白 ・4 a
習に見られる論争批判について﹂︵﹃中川善教先生 煩 徳 記 念 論 集 ・ 仏 教 と 文 化 ﹄ 昭 五 八 ︶ @ 門 店 岳 山 の 出 典 は 次 の 通 り 。 斗 ∞ H J J 可 ∞ 印刷 w w 吋 ∞ ∞ F W J 可 ∞ 斗 f 叫 ∞ ∞ v w 吋 ∞ 山 w a w J ﹃ ∞ 山 w f 吋 山 V A V − S T ・ 80fgN0 . g N 9・ 8 ω v ︵ 二 回 ︶ ゆ ∞ ω吋 ♂ ∞ ω∞ f ∞ 品 。 r f ∞ A F H M w w ∞ 品 。 側 J ∞ A H 吋 0. ∞ 印 ] F f ∞ 吋 ∞ “ J ∞ ∞ 。 f ∞ ∞ H f ∞ ∞ N J ∞ ∞ A W J ∞ ∞ u f ∞ 山 田 印 J 。 。 ∞ − J U H 。 グ ∞ ω品 v w ∞ ω A w n − m w H ω n w HE 江 E m m E 召 w ∞ ω 守 ︵ ∞ 80 ︶ H m 門 出 写 r q p ∞ ∞ τ H m m ロ 去 ・ 1 z u L W ∞ ∞ 宅 H m z g 召 佳 作 笹 山 U 可 制 ” 山 田 H H V H e−
E m 削 江 口 ・ 以 上 、k Z
中 の 箇 所 。 そ れ 以 外 は 次 の 八 箇 所 。 間 印 刷 J H H α n w N h F ω f h F 吋 H F W A H 吋 A 肝 v u 。 A H O J H 。 吋 ∞ “ J H H H 吋 。 尚 、 乙 乙 で は 、 同 Y M M ・ 形 向 日 笠 宮 は 除 外 し て あ る が 、 ﹀ 4 に 屡 々 登 場 す る E 1 r m Z Z 自己冨の並記については 荒 牧 註 @ 論 文 参 照 。 ま た 、 h H F は 同 M m g B削 志 向 田 町 三 岡 山 可 制 で、仏陀の知見を示しており、他の思想批判のために用 いられたものではないが、用語例として列記しておいた。 @雲井昭善博士は、乙の∞誌 J ∞芯を指摘され、﹁当時 の思想界の混乱、諸異説の対立を語って余りあろう﹂と 評 し て お ら れ る 、 ︵ ﹁ ブ ッ タ に お け る 対 話 の 在 り 方 ﹂ ﹃ 仏 教研究﹄第二号電・ N∞ JN @ ︶ @荒牧典俊氏は註@論文で、他教の文献をも駆使して、 ﹀︿に他学派閥の宗教論争の批判が極めて多く存在することを論証された。氏は、そこで﹁論争批判によって仏 教 の 根 本 的 立 場 が ひ ら か れ て き た ・ : ﹂ と も 述 べ ら れ て い る 。 ︵ 匂 −
E ω
︶もとより小論は氏とは異った立場から考 察を加えている訳であるが、氏の畑眼による見解とも決 し て 矛 盾 す る も の で は な い と 考 え る 。 @回。ロ宮註@書。また、これとは別に谷川泰教氏も部 分 的 に 指 摘 さ れ て い る 。 ﹁ ﹃ ス ッ タ ニ パ l タ ﹄ 第 八 一O
備 を め ぐ っ て ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 学 会 報 ﹄ 高 野 山 大 学 第 八 号3
・ 日t
H N ︶ @出。ロ宮氏は F r r r m 口氏を挙げるが、構文上異本に存 在 す る 語 形 を 採 用 し た 。 @ 旬 、 吋ω
は 己 1 2 2 ロ 釧g
g
召。谷川氏がz w
と 比 較 し て こ れ を 訂 正 ︵ 註 @ 論 文 句 ・3
、 筆 者 も 別 に 指 摘 し た 。 ︵ ﹁ パ i リ文献史研究の一視点l
ス ッ タ ニ パ I タ 第 四 ・ 五 章を資料として﹂﹃仏教史学研究﹄第二四巻一号ヲ昆︶ @ 回 oロな氏の読みす召を異本により訂正。︵谷川註@ 論 文 志 − G J 斗 参 照 ︶ @我執の排除は、インド思想界に共通的な理念であるこ とは屡々論証されているが代表的なものとして、 中 村 元 ﹁ イ ン ド 思 想 一 般 か ら 見 た 無 我 思 想 ﹂ ︵ ﹃ 自 我 と 無 我 ﹄ 平 楽 寺 書 店 ・ 京 都 、 昭 五 一 ︶E
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∞ J M 叶 ・ @既に、石上氏が当時としては最も妥当な見解を述べて おられる。︵註⑬論文3
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︶ 但 し 、 ロE
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自宅や 初期経典の一様態 含の比定に関しては、回同 o c m r o 仏 ・ 未 刊 当 時 で あ っ た ため、今日ではやや修正を要すると考えられる。 @ k F 4 は伝統的な分教の解釈では、南伝ではω
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に ︵ ロ ﹀g H
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匂 − N ω ︶、それに対して﹃婆沙論﹄巻一二六 ︵ 大 正 蔵 二 七 巻 U ・8
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︶ で は 因 縁 ︵ 口 広 削g
︶に配され る。小論では触れなかったが、﹀ 4 は部派によっては散 文が付加されて伝承された乙とは漢訳等から知られるか ら、そのような形態のものが分教中の因縁と理解された の で あ ろ う 。 し か し 、 後 代 の 解 釈 と は 言 え 、 分 教 の ・ 内 容 比定に同一経典が異った支分の代表として挙げられてい る こ と は 注 意 す べ き で あ ろ う 。 @宇井伯寿﹁原始仏教資料論﹂︵﹃印度哲学研究﹄第二巻 甲子社書房・東京、大一四、後岩波書店︶ MYEN − 目 印 ・ 前 田 註 ① 書 句 。 .g h
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・ @小部雑蔵の成立史的研究についての成果は前田註①書 M M M V ・8
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∞ に 詳 し い 。 そ こ で の も の 以 外 と し て 、 干潟龍祥﹁ω
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の 研 究 総 括 ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 学 雑 誌 ﹄ 三 巻二号3
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︶ 渡辺文麿﹁クッダカニカlヤのオリジナル考﹂︵﹃印仏 研﹄二八巻lH
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︵ 忠 ﹀ J ︵ 問 。 ︶ @山田明爾氏は、昨支仏の起源問題に関連して、同の古 経は、正法の護持という教団の統一理念から外れていた も の で は な い か と の 問 題 を 提 起 し て お ら れ る 。 ︵ ﹁ 酔 支 仏一
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三傍教大事大事院研究紀要第十二披 ・ 独 覚 ・ 縁 覚 ﹂ ﹃ 龍 谷 大 学 論 集 ﹄ 四 一 五 号 匂 ・
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以 下 ﹀ また前田博士も、四部四阿合が発達すると、聖典の権威 の中心はそちらに移行し、重視されるようになったとの 見 解 を 述 べ て お ら れ る 。 ︵ 註 ① 書 匂 ・8
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一 方 K F 4 には、教理や修道法の詳説はなく、教理解釈を 一種の哲学的見解と見るなら、それを否定するような表 現 も 存 在 す る ︵ ∞ ω p g p ∞E
− 担 。 ・ 虫 色 。 更 に は 、 独 行一
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四 を 奨 め る 立 場 ︵ @ 勾JS
∞ ︶ は 、 僧 伽 の 集 団 生 活 と も 相 容 れない。そして専ら他教批判に重点を置いていることを 考慮するなら、安定期の教団に於ては重視されなくなっ たとも推測できる。しかしながら、乙のような問題は、 ﹀ 4 だけでなく小部の総ての経典を資料吟味した後に論 じ な け れ ば な ら な い 。 ︵一九八三!二ー一O
︶ ︵ 文 学 研 究 科 博 士 後 期 課 程 ・ 仏 教 学 専 攻 ﹀here we can point in the whole ofSn,and
used fortysix times
out thirtyeight examples inAv. say the least, suggests that all suttas ofAv regard the subject as important.
And in these suttas, it is a well-worn device to emphasize a true way by criticizing other religious schools, and these concrete examples are too many to enumerate.
This standpoint shows directly that the establishment ofAv was organized at a very early time, co-existing with many religious schools, while it compared the Buddhist way with other ones and extoled the former. This does not contradict the hypothesis put forward above.
Ifanything, it may be deduced thatAv which establishs the superio・ rity of Buddhism by the above way is adapted in order to enlighten peoples. to This instance, 初期経典の一様態
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五are also found in theDivyav.αdanαand the Mulαsαrvastivadαvinα
:
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In these versions, it is described that marchants reciteAv and other悌教大皐大事院研究紀要第十二強
Vinaya of On the other hand, in the
h在ahasanghikas,it is handed down that the pupil, who doesn
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t confer upasampada, is taughtAv by his teacher. In the same book, another literatures for a safe voyage.episode is also stated as follows. That is to say, if a thieve invades at the Uposatha-time, Bhikkhus should stop reciting the Patimokkha, and recite.Avinstead ofitfor the sake of him.
The whole statements above are explained in situations concerned non-pnest. It appearsthatAv and with a beginner priest or
others never been recited、amongsenior priests, moreover it must be noticed to connect with preachers like Maha-Kaccana. We can guess
Av is one of books that Buddhists learn at first in that time, that, However we must adduce evidences to show that this hypothesis also fits with regard to its contents. means of propagation. as It use preachers and T i y ’ A n r ’
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Av.It has been probably guessed that,Av which includes sixteen suttas in an existing collection was complete already at a very early time. In this Chp., the paper investigates the doctrine teached in the case, it is not always easy to discover a relevance
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that is一
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六 however, realized It must be, among the contents of sixteen suttas.throw the main emphasis upon a criticism brahmanic religions and that each suttas ofAv such as thoughts against other to offer heretics. mstance. the following us quote illustration, let of sake the For
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Minami
初期経典の一様態
SUMMARY
The Affhαhα
−
vagga (=Av) makes an entry as being one of thefive chapters ofSutta-n争atα (=Sn) in our present sets of Pali Sutta
-Whereas Av appears to have been independent collection pitaka.
long before the existence of a separate work calledSn. This paper explanation of some problems relating to Av as aims at giving the
independent one. Chp. I
Av is mentioned in many Buddhist works. Japanese and foreign scholars already have pointed out many passages in them. The most Koti -well-known one especially among them is the episode of
kal).I).a, which is described in various texts in the later times.InPali Sona
Vinof the earlist model, Bhikkhu Sol).a enlighted by Maha-Kaccana called on Buddha who dwelled in Jetavana and he recitedAv before the presence of Buddha. This incident is also quoted in Pali Nikayas
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to almost all Vinayas of other sects.
The Sarfl,yuttα
−
Nikayαand its chinese versions have a episode thatHaliddikani, who was not a monk, asked Maha-Kaccana about mean-ing of the verse of Av. And the other examples of recitation of Av
down handed lS ロ1oreover coロ1mentanes, their and