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学園祭協賛行事記録●
わっていく一例です。
明治中頃にさしかかると、近藤堅三編纂で『西洋料理法獨案内』(明治19年)が書かれました。こ れには和英表記で食器や調理器具の説明がされています。巻末には肉の見立てや切り方が絵入りで記 されています。同年刊行の『洋食獨案内 附料理法、玉突指南』には、食事マナーや会食の席次、パーティー での立ち居振る舞い等が記されています。この二冊は内容がよく類似していますが、いずれも食器の 紹介頁でのフォークのスペルがfolkとなっており、当時はその様に広まっていたのでしょうか。また『日 本支那西洋料理獨案内 附禮式及食事法』(明治19年)では延えんりょうかん遼館(後の鹿鳴館)の献立が紹介され、人々 はその豪華な献立から上流階層の西洋料理の様子を知ることが出来ました。
これまで挙げてきた様に、明治期には食に関する様々な書物が刊行されました。刊行から150年前 後が経過している本に間近で触れる機会はあまりないことでしょう。この話から、明治の貴重書を通 して洋食の入ってきた時代に生きた人々の食事風景、さらには現在の皆さんの食卓まで、思いを馳せ て頂ければ嬉しく思います。
<講演 要旨>
「ハヤシライスから日本の食文化を考える」
文明は人を緊張させますが、文化は人を安らかにします。ですから食は文化です。食文化は、民族・
集団・地域・時代などにおいて共有され、一定の様式として習慣化され、伝承されるほどに定着した 食物摂取に関する生活様式、食料の生産、流通、加工して配膳し一定の作法で食するまでをその範囲 に含みます。新明解国語辞典によりますと「洋食」は、欧米風の料理・調理法による料理で「和食」は、
日本風の食事、日本料理と記載されていますが、この和食ということばは、「洋食」ということばの 普及を受けて明治以降に成立しました。
カレーライスは、インドから英国を経由して日本に入ったたくさんのスパイスを使い辛みのある洋 食です。ハヤシライスは、日本発祥の洋食でドミグラスソースと玉葱の甘みを生かした料理です。こ れが一時期、「大人のカレー」VS「子供のハヤシ」という区分になりました。ハヤシライスは、丸善 の創業者早矢仕有的が創作したという説がありますが、従来からハヤシライスとして一般に認識され ている料理と有的が幕末から明治初期に家に来た友人に振る舞った料理(ハヤシライス)とは違うの では?ということもあり『丸善百年史』では疑問を呈しています。『百年史』には、「ハッシュ・ビー フにライスを合わせて称したものが、ハヤシライスの語源に違いない」 と書かれております。また有 的が振る舞った料理については、「友人が訪問すると、有的は台所にあり合わせた肉類や野菜類をゴッ タ煮して飯を添えて饗応するのが常であった」 との記述があります。
では早矢仕有的が振る舞った料理とはどんな料理だったのでしょうか?当時有的は、横浜に居まし たので、肉は牛肉、そして野菜は、和野菜であったと推測します。まず明治の野菜と肉について検証 してみます。小菅桂子著の『カレーライスの誕生』によりますと、カレーライスの定番の具材であるじゃ がいも、人参、玉葱が揃うのは明治30年代です。西洋人参(当時は、長根種)ですが、幕末には普及 していたそうですので、明治のカレーは、人参臭かったはずということです。肉については、幕末の 横浜では外国人経営の食肉店が8軒ほどありました。従って、有的は牛肉を買えたはずです。1872(明 治五)年の天皇による肉食解禁宣言、軍隊での肉食の推進、料理本の発行、料理学校や女学校での教 育等の効果で肉食が徐々に浸透していきます。肉が流通するには屠場が必要ですが、明治政府は1869
(明治二)年に築地に官営の屠場を設立しました。民間の屠場は、日露戦争時には、全国で1,500所を 数えたそうです。明治の肉といえば、牛肉ですが、それまで牛は、食用としてではなく、荷物を運搬 するために飼育されていましたが、明治初年以来政府の勧農政策により牧場を開場し、牧牛馬会社を 設立するものが相次ぎました。肉食普及の陰の功労者は、缶詰です。冷蔵設備がない当時は、肉を保 存する一番いい方法のうえ、日露戦争時の軍隊の携行食品としてうってつけでした。原田信夫著『日 丸善株式会社 取締役 海老原 光彦 氏