修士論文
「 マイクロ波フェッシュバッハ共鳴 の実現に向けた分子準位の分光」
指導教員 小芦雅斗 教授
平成 28 年 2 月提出
東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻
37-146531 岡田彪利
i
目次
第1章 序論 1
1.1
研究の背景
. . . . 11.1.1
極低温原子気体
. . . . 11.1.2 Feshbach
共鳴
. . . . 21.1.3
分子分光・冷却分子
. . . . 21.2
本研究の概要
. . . . 41.3
本論文の構成
. . . . 4第2章 理論 6 2.1
分子の物理の基礎
. . . . 62.1.1
分子のシュレディンガー方程式と分子の構造
. . . . 62.1.2
分子ポテンシャルの一般論
. . . . 82.1.3 (adiabatic) Born-Oppenheimer potential
とその表記法
. . . . . 92.1.4 Born-Oppenheimer potential
の長距離部分の表現
. . . . 102.1.5 spin-orbit interaction . . . . 10
2.1.6
分子回転と
Hund’s case . . . . 122.1.7 hyperfine interaction (
基底状態
) . . . . 132.1.8
核間距離によるポテンシャルの分類
. . . . 142.1.9 Hund’s case (c)
ポテンシャル
. . . . 142.1.10
選択則
. . . . 162.2 Feshbach
共鳴
. . . . 172.2.1 magnetic Feshbach
共鳴
. . . . 172.2.2
マイクロ波
Feshbach共鳴
. . . . 18第3章 実験手法 21 3.1
実験の背景・研究方針
. . . . 213.1.1
原子の選定
. . . . 213.1.2
実験的要請
. . . . 213.1.3
本研究の方針
. . . . 233.2 Autler-Townes
分光
. . . . 24ii
目次
3.2.1
原理
. . . . 243.2.2
分子準位の分光への応用
. . . . 263.2.3
先行研究の紹介
. . . . 293.2.4
まとめ
. . . . 313.3
中間準位の選定
. . . . 323.3.1
大雑把な議論
. . . . 323.3.2 purely long-range potential . . . . 32
3.3.3
中間準位の決定
: 0−gポテンシャル
. . . . 333.3.4 0−g
ポテンシャルの振動準位の理論計算
. . . . 333.4 MOT
を用いた
AT分光@
E2 . . . . 363.4.1 E2
での実験概要
. . . . 363.4.2
実験装置
. . . . 383.4.3
実験シークエンス
. . . . 403.5 BEC
を用いた
AT分光@
E1 . . . . 413.5.1 E1
での実験概要
. . . . 413.5.2
装置の調整
. . . . 44第4章 実験結果と考察 46 4.1 41K2 0−g (3/2)
ポテンシャルの分光
. . . . 464.1.1
イオン化パルスのスイープ結果
. . . . 464.1.2 PA
光
L1のスイープ結果
. . . . 474.1.3 0−g (3/2)
の回転構造
. . . . 494.1.4 0−g (3/2)
への
PA遷移の性質
. . . . 514.1.5 pulse sweep
結果の考察
. . . . 514.2 AT
分光@
E2 . . . . 554.2.1 87Rb2
を用いた
AT分光
. . . . 554.2.2 41K2
を用いた
AT分光
. . . . 614.2.3
考察
. . . . 624.3 E1
装置の復旧作業
. . . . 624.3.1 Rb, K
同時
MOTの回復
. . . . 634.3.2
磁気トラップ中での蒸発冷却
. . . . 644.3.3 LabVIEW
の不調
. . . . 664.3.4 ODT
の調整
. . . . 684.3.5 Rb, K ARP . . . . 68
4.3.6 evaporation in ODT . . . . 70
4.4 AT
分光@
E1 . . . . 714.4.1 PA
光アライメント
. . . . 714.4.2 PA
によるロス
. . . . 72iii 4.4.3 AT
分光
. . . . 744.4.4
考察
. . . . 76第5章 まとめと今後の展望 80
5.1
まとめ
. . . . 80 5.2今後の展望
. . . . 81謝辞 83
参考文献 86
1
第 1 章
序論
1.1 研究の背景
1.1.1
極低温原子気体
1995
年にアルカリ原子気体のボース・アインシュタイン凝縮体
(以下
BECと略記
)が
生成
[4, 8, 12]されて以来、原子気体の
BECを用いた様々な研究が世界中で行われてき
た。
BECは通常の熱的原子気体と比較して粒子密度が非常に大きいため、量子統計性と 粒子間相互作用が本質的に重要な役割を演ずることになる。
BECの生成以前は原子一つ と光の相互作用の理解を進めることが原子分子物理学の中心的な課題であった。しかし
BECの生成以後、上記のような
BECの性質を利用して量子多体系の物性探求を行うと いう新たな潮流が生まれた
[5]。その一例が
BECを三次元光格子中にローディングして 行われた超流動
-モット絶縁体転移の観測である
[20]。原子気体というと密度が非常に希 薄で相互作用が弱いように思われるが、現在ではモット絶縁体のような強相関粒子系のシ ミュレーションまで可能になっている。
従来、量子多体系の研究というと固体の電子がその主役であった。それと比較して、極
低温原子気体を用いる利点として以下の二つを挙げることができる。まず一つ目は系の操
作性が非常に良いことである。例えば原子数や温度などのパラメーターを自由に変化させ
ることができるだけではなく、本論文中で後述する
Feshbach共鳴という手法を用いるこ
とで原子間の相互作用の大きさを引力か斥力かまで含めて
−∞から
∞まで変化させるこ
とができる。二つ目の利点としては光格子を構成するレーザー光の本数を変えることで周
期ポテンシャルの次元を一次元から三次元まで変化させることができる点である。さらに
レーザー光の強度を変えることで光格子ポテンシャルのトラップ深さも自由に変化させる
ことができる。このように、ほぼ全てのパラメーターを人間が自由に変化させることがで
きるという意味において、原子気体の系は固体よりも純粋な系ということができ、原理実
証型の実験には非常に向いている。
BECの生成に続き、数年後にはアルカリ原子気体の
フェルミ縮退気体
(DFG)の生成も実現されている
[14]。フェルミオンの系において行わ
れた有名な実験としては
BCS-BECクロスオーバーの観測
[37]などが挙げられる。
2
第
1章 序論
1.1.2 Feshbach
共鳴
冷却原子系を魅力的な物理系たらしめているのが、粒子間の相互作用を制御する技術 である
Feshbach共鳴
[27, 10]の存在である。通常の固体を用いた実験においては、この ような粒子間相互作用の調整機構は存在しないため、
Feshbach共鳴の実験上の重要性は 言うまでもないであろう。通常よく用いられる
Feshbach共鳴は比較的大きな静磁場を原 子集団に対して印加し、その磁場の大きさを変化させることで散乱長
(≃原子間相互作 用
)を制御する
[22]。この方法を
magnetic Feshbach共鳴と呼ぶことにする。
magneticFeshbach
共鳴は多くの原子種に対して適用され、現在も世界で標準的に用いられている。
しかし、大きな静磁場を用いるという点が実験に制限をもたらしている。例えば、
1.散 乱長を素早いタイムスケールで振ろうとしてもコイルのインダクタンスのため磁場の大き さを素早く振ることはできない。
2.ゼロ磁場に近い環境下で相互作用を変化させたいと いう種類の実験
(スピノール
BECの基底状態相図の測定など
)はそもそも行うことがで きない。
3.原子種によってはこの方法を適用できない。例えば使いやすいアルカリ原子 の代表格である
87Rbはこの方法で
Feshbach共鳴を起こすことは非常に難しい、などで ある。
magnetic Feshbach
共鳴を補完する技術として、マイクロ波を用いて
Feshbach共鳴を 起こす方法が理論の方面から提案されている
[34]。このタイプの
Feshbach共鳴をマイク
ロ波
Feshbach共鳴と呼ぶことにする。この方法ではマイクロ波の周波数によって散乱長
を制御するため散乱長を速く振ることも可能であり、理論的にはゼロ磁場環境下で散乱長 の制御をすることができる。また、マイクロ波の本数を増やすことで他原子種間の散乱長 を独立に制御することも可能であると考えられる
(図
1.1.1参照
)。
magnetic Feshbach共 鳴とマイクロ波
Feshbach共鳴について図
1.1.1にまとめた。
冷却原子の実験はアイディアと工夫次第で様々な物理系のシミュレーションに用いるこ とができる。固体のシミュレーションを超えて、固体では決して到達できないような空間 配置、パラメータ領域の実験も将来的には行われるだろう。そのためには今現在確立され ている技術を用いるだけではなく、新たな実験技術を送り出すことも重要な仕事である。
マイクロ波
Feshbach共鳴についても、この技術が実現すれば冷却原子を用いた実験の幅 をさらに広げることができると考えている。
1.1.3
分子分光・冷却分子
Feshbach
共鳴では二つの原子の散乱状態
(|0 >と書くことにする
)と分子準位
(|η >と書く
)の間の相互作用をうまく利用することで散乱長を変化させている
(詳しくは第
2章を参照
)。これが本研究の研究名にあるように
Feshbach共鳴と分子準位の分光が結び
つく所以である。本研究では理論提案
[34]に基づき、マイクロ波
Feshbach共鳴に用いら
れる分子準位
|η >の分光を試みた。
|η >状態は核間距離が非常に大きい分子準位である
1.1
研究の背景
3Magnetic Feshbach
・DC磁場の大きさで散乱長を制御
・一つの原子種の相互作用しか制御できない
・磁場を振るスピードに限界がある
マイクロ波Feshbach
・AC磁場の周波数で散乱長を制御
・多原子種間の相互作用を制御可能
・散乱長を素早く振ることができる
𝑎Rb
Rb Rb
𝜔Rb K
𝑎Rb
Rb
Rb K
𝑎K 𝜔K 𝜔RbK
𝑎RbK 𝐵0
図1.1.1 magnetic Feshbach共鳴とマイクロ波Feshbach共鳴の比較
ので、常温でセル中の分子を分光するような従来の分子分光ではこのような分子準位へは アクセスできない。また、
|η >状態の束縛エネルギーは
100 MHz程度であるので、常 温での分光ではドップラー広がりによってこのような分子準位を分解して見ることはでき ない。
本研究では冷却原子系を用いることで高分解能の分光を可能にしている。例えば
MOTの温度は
100µK程度であるので、これは周波数に換算すると
kBT /h≃2 MHz程度に相 当する。また、
photo association (PAと略すこともある
)を利用することで二つの離れ た原子を核間距離の大きい励起状態の分子に変換することができる
[24]。本研究では核間 距離の大きい励起状態の分子準位をうまく利用することで、同じく核間距離の大きい基底 状態の分子準位である
|η >にアクセスしている。
極低温まで冷却された二つの原子の
PAによって作られた分子は
(1光子の吸収に伴う 小さな
recoil kickを除いて
)同じく極低温まで冷えている。
PA分子の一部は自然放出に よって基底状態の分子準位に落ちてくるので、
PAは基底状態の極低温分子生成の手段と してもよく用いられる。また、
PAレートは励起状態分子準位の波動関数と基底状態の散 乱波動関数の重なりに大きく依存しているので、
PAのスペクトルから散乱波動関数の
nodal patternを推定し、散乱長を求めることも可能である
[9]。また、
PAによってアク セスすることが可能な励起状態の長距離ポテンシャルは、ポテンシャル短距離部分の化学 結合に関する情報を一切用いずに原子のパラメータだけで記述することが可能である
(第
2章
)。
PAによって長距離ポテンシャルの振動準位を分光し、ポテンシャルの形を正確に 決定することで
C3, C6などの原子のパラメータを正確に求めることができる
[42]。
C3と励起状態原子の寿命
τはある関係式によって結ばれているので
[24]、分子の分光から原
子の寿命も知ることができる。
4
第
1章 序論
1.2 本研究の概要
本研究では理論提案
[34]に基づいて
41Kのマイクロ波フェッシュバッハ共鳴実現を目 指した研究を行った。第
3章の冒頭で説明するが、ある制限から、本研究の範囲内で実 際にマイクロ波を用いた散乱長の制御にまでいたるのは難しい。そこで本研究ではレー ザー光を用いて分子準位
|η >の分光を行い、
Feshbach共鳴周波数を実験的に決定する ことを目標においた。実際これが達成されると、マイクロ波
Feshbach共鳴の実現も現実 味を帯びてくると考えられる。そこで本研究の中心課題は分子分光になる。本研究では
Autler-Townes分光
(AT分光と略す
)という手法を用いて分子準位
|η >の分光を行った
(第
3章
)。これは二つの基底状態原子を
PAによって励起状態分子に変換するためのレー ザー光
L1と、励起状態分子と基底状態分子準位
|η >をカップルさせるレーザー
L2の二 本を用いる分光法である。本研究ではこの
AT分光を
MOT, BECという密度の大きく異 なる二種類の原子集団に対して適用した。
MOTと
BECどちらを用いるかによって使用 する装置も異なるので、実験の方法も異なる。本研究では
AT分光によって分子準位
|η >を分光することはできなかったが、その過程で
41Kの
purely long-range potentialとい う極めて核間距離の大きいポテンシャルを分光によって発見することができた。
1.1.3小 節で説明した通り、このような励起状態の長距離ポテンシャルへの
PAは様々な実験に応 用できる可能性があるので、本研究のデータが今後の実験に使われることも期待できる。
1.3 本論文の構成
本論文の構成は以下の通りである。
第
1章 序論
本研究の背景となっている冷却原子系の実験と二種類の
Feshbach共鳴について述べた。
第2章 理論
実験を行う上で必要な理論的知識をまとめた。この章の内容は二つに大別することができ る。章の前半では分子の物理についてまとめた。本研究は分子の分光が中心的な研究課題 であるため、分子の物理に関する知識が不可欠である。章の後半は
Feshbach共鳴につい て定性的に述べた。マイクロ波
Feshbach共鳴の理論式も載せた。
第3章 実験手法
まずは章の始めで本研究の実験方針について述べた。その後、本研究で主に用いる分光法
である
Autler-Townes分光についての説明を行った。
AT分光の中間準位として適した
準位の選定方法も述べた。本研究では中間準位として
0−gと呼ばれるポテンシャルの振動
準位を用いることにしたが、その
0−gの解析的表現やエネルギー準位の計算方法について
1.3
本論文の構成
5もこの章に書いた。この章の後半では実験系の説明を行う。
第4章 実験結果と考察
実験結果と考察を述べる。本研究では
E2という装置、及び
E1と呼ばれる装置の二種類 を用いて実験を行った。
E2装置では
AT分光に必要な分子準位の分光を主に行った。そ の分光スペクトルとアサインメントについて述べる。
E1装置は筆者が大幅に調整を加え てから実験を開始した。よって、
E1装置を用いた実験結果に関しては装置の調整方法に ついての記述が大部分である。
第5章 まとめと今後の展望
本研究で得られた結果のまとめと、今後行うべき実験の方針を述べる。
6
第 2 章
理論
この章では本研究で必要になる理論について説明する。
2.1 分子の物理の基礎
本研究で扱う原子は同一のアルカリ原子二つから成る等核二原子分子
(homonuclearmolecule)
のみである。以下では議論をアルカリ原子の等核二原子分子に限定する。ア
ルカリ原子の異核二原子分子
(heteronuclear molecule)に関しては
[2]などを参照。等核 二原子分子と異核二原子分子では励起状態ポテンシャルの長距離部分の形が異なるため、
Hund’s case (a)
と
(c)のどちらの表記を主に使用するか異なる場合がある。本研究では 主に
Hund’s case (c)で表現される分子が主役である。
2.1.1
分子のシュレディンガー方程式と分子の構造
まずは電子の相対論的な効果があらわれない分子を考える。つまり、
spin-orbit inter- actionと
hyperfine interactionはしばらくの間無視する。さらに、分子の回転による角 運動量が他の角運動量と結合することはないと仮定する。本章ではそのような分子を非相 対論的な分子と呼ぶことにする。等核二原子分子のエネルギー固有値を求めるためには以 下のシュレディンガー方程式を解けば良い。
− ∑
a=1,2
~2
2M∇2a− ∑
i=1,2
~2
2m∇2i +U(R,r)
Ψ(R,r) =EΨ(R,r) (2.1)
ここで
Mは原子核の質量、
mは電子の質量、
R= (R1,R2)は原子核
1,2の位置をまと めて書いたもの、
r= (r1,r2)は電子
1,2の位置をまとめて書いたものである。
(2.1)
式を直接解くのは不可能なので、ここで近似を入れる。原子核は電子に比べると
圧倒的に重いので、電子が動くスピードに比べると原子核は非常にゆっくりと運動してい
るようにみえるであろう。そこでまずは二つの原子核がベクトル
Rだけ離れて置かれて
2.1
分子の物理の基礎
7いると仮定した時に二つの電子が従うシュレディンガー方程式
− ∑
i=1,2
~2
2m∇2i +U(R,r)
up(R,r) =Vp(R)up(R,r) (2.2)
を解く。
Rをある値に固定した時、ここで求まった固有値
Vp(R)は
pでラベルされる離 散的なエネルギー準位を持つ。これが原子の離散的なエネルギー準位に対応するものであ る。ここで
Rを
0から
∞まで動かすと図
2.1.1のような曲線群を得ることができる。こ の曲線群は分子ポテンシャルと呼ばれている。ここで注目すべきは
(2.2)式は原子核の質 量を含まないことである。よって、この近似の範囲内では同位体のように原子核の質量は 異なるが同じ電子配置をもつ分子
(例えば
39K2と
41K2など
)は同様の分子ポテンシャル によって記述されることになる。
図2.1.1 (2.2)式を解いて得られる分子ポテンシャル
次に原子核のシュレディンガー方程式を解くことになるが、この近似では
(2.2)式を解 いて求まった
Vp(R)を二つの核運動に対するポテンシャルエネルギーだと見做してシュ レディンガー方程式を立てる。核に対するシュレディンガー方程式は
[
− ∑
a=1,2
~2
2M∇2a+Vp(R) ]
vp(R) =Epvp(R,r) (2.3)
となる。外場が無ければ
Vp(R)は
|R|のみに依存するので、
(2.3)式は初等的な量子力学 で学習する、中心力場中の粒子が従うシュレディンガー方程式と同じ形を持つ。あとは
(2.3)
式を動径方向と角度方向に変数分離して解けば良い。角度方向の固有関数は良く知
られた球面調和関数である。動径方向の方程式は換算質量
µ=M/2と
|R|=Rを用いて
[−~2 2µ
d2
dR2 +Vp(R) + ~2 2µ
ℓ(ℓ+ 1) R2
]
ψp;v,ℓ(R) =Ep;v,ℓψp;v,ℓ(R) (2.4)
と書くことができる。ここで
v、
ℓをそれぞれ振動量子数、回転量子数と呼ぶ。
(2.4)式を
解いて求まった
Ep;v,ℓは
(2.1)を解いて求めた分子の固有エネルギーの良い近似になって
8
第
2章 理論 いることが分かっている
(詳細は
[49]など
)。ここで見てきた近似を
Born-Oppenheimer近似と呼ぶ。途中で述べた通り、この近似の範囲内では同位体は同じ分子ポテンシャルに よって記述される。本研究ではこの事実を指して
Born-Oppenheimer近似という言葉を 使うこともある。
分子のエネルギー固有値は
p, v, ℓという
3つの量子数によってラベルされる。
pはど の分子ポテンシャルに属するかを意味し、
vはそのポテンシャルの束縛状態のうち何番目 の準位に属するのかを意味している。分子の物理の文脈では
Vp(R)の束縛準位を振動回 転準位
(もしくは簡単に振動準位
)と呼ぶ。そのイメージを図
2.1.2に描いた。
図2.1.2 (2.3)式を解いて得られる分子のエネルギー準位の概念図
2.1.2
分子ポテンシャルの一般論
分子のエネルギー準位を求める際には
(2.3)式がその出発点となる。そこで一番大きな
関心は分子ポテンシャル
V(R) (以後添え字
pは落として書く
)をどのように得るかとい
う点である。
V(R)は距離
Rだけ離れて置かれた原子間のポテンシャルエネルギーだと
見做せるので、分子ポテンシャルの性質は分子を構成する
2つの原子の性質に大きく依
存する。核間距離
Rが大きくなるにつれて分子の化学的な性質は薄れていき、分子を構
成する原子としての性質が強く現れてくるのは直感に反しないだろう。化学結合の寄与を
無視できるほど
Rの大きい領域では原子間の主要な相互作用は
van der Waals相互作用
(基底状態
)、または
dipole-dipole相互作用
(2S+2P状態
)である。これら長距離部分の
分子ポテンシャルは良く知られた原子のパラメーターのみで解析的な形に書くことができ
2.1
分子の物理の基礎
9る。よって核間距離の大きい部分では非常に正確な分子ポテンシャルを手に入れることが
可能である。
一方、二つの原子間の距離をだんだん近づけていくと原子の波動関数は大きく変形し、
分子の波動関数は単純な二つの原子の波動関数の積の形では書けなくなる。この核間距離 になると化学結合の効果が明確に現れてくる。分子の波動関数を正確に計算するために は、いくつもの原子軌道からの寄与を考慮する必要があるため、ポテンシャルの短距離部 分については近似的な理論モデルしか手に入らないことになる。
本研究において扱う分子はほぼ全て核間距離の非常に大きい分子たちである。よって、
以下の節では分子ポテンシャルの長距離部分の記述について中心的に述べる。ポテンシャ ルの短距離部分についてはその詳細に一切立ち入らず、近似的に長距離部分のポテンシャ ルに取り入れるだけである。にも関わらず、ポテンシャルの長距離部分の情報のみから計 算された分子のエネルギー準位は実験と非常によく一致していることが分かるであろう。
2.1.3 (adiabatic) Born-Oppenheimer potential
とその表記法
非相対論的な範囲内では分子ポテンシャルの短距離部分、長距離部分をそれぞれ上に 述べた方法で核間距離の関数として計算することができる。このようにして計算された 分子ポテンシャル
V(R)を
(adiabatic) Born-Oppenheimerポテンシャルと呼ぶ
(呼び方 は
[24]に倣う
)。基底状態の
2つの
Born-Oppenheimer potentialと励起状態の
8つの
Born-Oppenheimer potentialの例を
[24]から引用して図
2.1.3に示す。
共 兲
共 兲
共 兲
共 兲
␥ 兲 共
共 ␥ 兲 共
兲 共
兲
共 兲
共 兲
共
兲 共 兲
⬇
⬇
共 兲
ⲏ ⌺ ⌸
共 兲
図2.1.3 Born-Oppenheimer potentialの例。[24]より引用。
10
第
2章 理論 非相対論的、かつ分子の回転を考えない場合、全電子スピン
S =s1+s2は保存する。
ここで
1,2は個々の原子を表すラベルである。二つのアルカリ原子から成る二原子分子 の場合、
S = 0 (singlet)もしくは
S = 1 (triplet)である。一方、電子の全軌道角運動 量
L =l1+l2は保存しない。分子軸が存在することによって空間の球対称性が破れて いるからである。保存するのは
Lの分子軸への射影成分
Λ = λ1+λ2である。ここで
λ1,2は原子
1,2の電子の軌道角運動量
l1,2を分子軸へ射影した成分である。基底状態は
l1=l2= 0なので
Λ = 0である。また、
2S+2P状態は
l1= 0、
l2= 0または
l2= 1な ので
Λ = 0または
|Λ|= 1である。
図
2.1.3中の各ポテンシャルを示す
notationは
2S+1|Λ|を意味している。慣習では
Λ = 0,1,2,· · ·を
Σ,Π,∆,· · ·で表す。右上の
±というラベルは分子軸を含む平面に 対する波動関数の鏡映対称性を示している。この対称性を有するのは
Σ状態のみである。
また、右下の
g/uというラベルは
gerade/ungeradeを意味し、分子の中心に対する波動 関数の反転対称性を示している。
2.1.4 Born-Oppenheimer potential
の長距離部分の表現
2.1.2
小節で述べたように
Born-Oppenheimer potentialの長距離部分の表現は二つの 離れた原子の描像で導くことができる。原子間の主な相互作用はクーロン相互作用であ る。古典電磁気学の多極子展開によると、ポテンシャルは
1/Rに関する級数で表現さ れる。基底状態の二つの原子の間に働く主要な相互作用は
van der Waals相互作用であ り、級数展開の
leading termは
C6/R6である。基底状態の二つの
Born-Oppenheimer potentialである
a3Σ+uと
X1Σ+gは同じ係数
C6を持つため、これら二つのポテンシャ ルは核間距離の大きいところで縮退している。
一方、片方の原子が
2P状態に励起された場合
(2S+2P状態
)には原子間の主要な相 互作用は
dipole-dipole相互作用となり、
leading termは
1/R3である。図
2.1.3に描か れた励起状態の
8つの
Born-Oppenheimer potentialはその長距離ポテンシャルの形に よって
4つのグループに分けることができる。
4つのグループはそれぞれ
2つのポテン シャルから成り、
±C3/R3、
±2C3/R3の形の長距離ポテンシャルを持つ。
Π状態は前者 のポテンシャルに漸近し、
Σ状態は後者のポテンシャルに漸近する。また、
+は
repulsive potentialを、
−は
attractive potentialであることを表す。後に出てくる図
2.1.6を参照。
励起状態の相互作用が
1/R3の形で書けるのは等核二原子分子に特有の性質である。異核 二原子分子の長距離ポテンシャルは基底状態、励起状態ともに
1/R6の振舞いを持つ。
2.1.5 spin-orbit interaction
今までは議論を非相対論的な分子に限ってきたが、この説以降では相対論的なスピン軌
道相互作用の効果を取り入れる。なお、分子の回転については引き続き無視する。スピン
軌道相互作用の効果を
(2.4)式中のハミルトニアンに組み込む必要があるが、どのような
2.1
分子の物理の基礎
11形で組み込むべきだろうか。スピン軌道相互作用のエネルギースケールは原子の
D1線と
D2
線の分裂の幅程度、つまり数十
cm−1程度である。図
2.1.3より、これは短距離部分 の交換相互作用のエネルギースケール
(a3Σ+uポテンシャルと
X1Σ+gポテンシャルの分 裂幅程度
)と比較すると圧倒的に小さいことが分かる。スピン軌道相互作用の影響が強く 現れてくるのは核間距離が大きくなり、個々の原子の個性が強く見え始めるようになって からであろう。よって、個々の原子におけるスピン軌道相互作用の効果を足し集めた
A(l1·s1+l2·s2) (2.5)
という項を分子のハミルトニアンに加えれば良いと考えるのが自然であろう。ここで
Aは原子の
spin-orbit constantをそのまま用いれば良い。
スピン軌道相互作用を考慮した場合、全角運動量
j =j1+j2 =L+Sの分子軸への 射影成分
Ωが保存する。スピン軌道相互作用まで考慮して計算された分子ポテンシャル を図
2.1.4に
[42]から引用して載せる。図
2.1.4は本研究で用いる
K2分子のポテンシャ ルである。スピン軌道相互作用によるポテンシャル間のエネルギー分裂は核間距離の大き いところで顕著にあらわれるので、図
2.1.4は
Rの大きいところを拡大して描いている。
図2.1.4 スピン軌道相互作用まで考慮して計算されたK2分子のポテンシャル。[42]より引用。
図
2.1.4の各ポテンシャルを表す
notationは
|Ω|±g/uを意味している。これら
16のポテ
ンシャルは図
2.1.3に描かれた
8個の
Born-Oppenheimer potentialに連続的につながっ
ている。そのつながりの様子を図
2.1.6に示す。例えば
2u、
1u(1/2)、
0+u(3/2)、
0−u(1/2)の
4つのポテンシャルが短距離部分では
3Πuポテンシャルに漸近することが分かる。こ
こでポテンシャルの後ろにつく
(1/2)、
(3/2)という数字は、そのポテンシャルが
R→ ∞でそれぞれ
2S+2P1/2、
2S+2P3/2に漸近することを表している。また、ある核間距離で
gerade (ungerade)の対称性を持った分子は他の核間距離においても
gerade (ungerade)12
第
2章 理論 の対称性を持つという事実も利用している。
しかし、短距離部分で
3Πuポテンシャルに漸近するといっても
4つのポテンシャルは スピン軌道相互作用の分だけ分裂している。ただ、図
2.1.3の核間距離においては主要な 相互作用ではないため、その分裂が見えないということである。分子ポテンシャルを正し く理解するためには核間距離に合わせて主要な相互作用が何であるかに注目することが重 要である。このことについては図
2.1.6を用いて
1.1.8小節で再度詳しく論じる。
2.1.6
分子回転と
Hund’s case次に分子の回転も考慮することにする。分子の回転は角運動量
ℓで表され、ハミルトニ アン中に
~2ℓ2/2µR2の項を付け加えることでその効果を取り入れられる。もし
ℓ以外に 他の角運動量が存在しないのであれば
ℓは良い量子数になり、
~2ℓ2/2µR2の項を式
(2.4)のような形に書くことができる。しかし、スピン軌道相互作用が存在すると
Lと
Sが
ℓとカップルするため、
ℓは良い量子数ではなくなってしまう。よって、式
(2.4)のような 単純な形には書けない。
Hund’s case
はクーロン相互作用、スピン軌道相互作用、回転のエネルギーなどの各
相互作用の相対的な大きさによって角運動量の結合の仕方を分類したものである。分子 回転のエネルギー準位は角運動量の量子数
Xを用いて
E = BvX(X+ 1)で与えられ
る。各
Hund’s caseによって角運動量の結合様式が異なるので、
Xとして用いる量子数
も各
Hund’s caseによって異なる。実験を行う上で、自分が分光を行っているのはどの
Hund’s case
に分類される分子であるかを意識しつつ行うことで適切なアサインメントが
可能になる。以下では本研究において重要となる
3つの
Hund’s caseについて簡単に触 れる。
Hund’s case (a)
Hund’s case (a)
に該当するのはエネルギーの相対的な大きさとして、クーロン相互作
用
≫スピン軌道相互作用
≫回転エネルギー、という順序を持つ分子である。これは主に
図
2.1.3に描かれている短距離ポテンシャルの束縛準位として現れる分子に適用される。
このような原子については
Λ、
Σだけではなく
Ωも良い量子数となる。
Xとしては全角 運動量
J =ℓ+L+S =ℓ+jの量子数
Jを用いれば良い。よって、
Hund’ case (a)の 分子に対しては回転準位は
E =BvJ(J+ 1)で与えられる。
Hund’s case (c)
Hund’s case (c)
に該当するのはエネルギーの相対的な大きさとして、クーロン相互作
用
≃スピン軌道相互作用
≫回転エネルギー、という順序を持つ分子である。このよう な分子は図
2.1.4に描かれたポテンシャルのように、スピン軌道相互作用の効果があから さまに見え始める長距離ポテンシャルの束縛準位として現れる。良い量子数は
Ωである。
Hund’ case (c)
の分子に対しても
X =Jを用いればよい。
2.1
分子の物理の基礎
13Hund’s case (e)
基底状態の二つのポテンシャル
X1Σ+gと
a3Σ+uの束縛準位として現れる分子はスピン 軌道相互作用を持たないため、
X = ℓである。しかし、これら基底状態ポテンシャルの 分子準位の束縛エネルギーが原子の
hyperfine splitting程度になると、今度は
hyperfine interactionによる補正を考慮する必要が出てくる。
2.1.7 hyperfine interaction (
基底状態
)スピン軌道相互作用の時と同様に、
hyperfineの効果を取り入れるためには分子のハミ ルトニアンに
ahf(i1·s1+i2·s2) (2.6)
という項を付け加えれば良い。
iは原子の核スピン、
ahfは原子の
hyperfine constantで ある。
hyperfine interactionは異なる
g/uの対称性を持つ分子ポテンシャルや、異なる
Sを持つ分子ポテンシャルを混ぜてしまう。よって、
hyperfine interactionを考慮する必要 があるほど核間距離
Rが大きい場所では基底状態の二つのポテンシャル
X1Σ+gと
a3Σ+uは混ざってしまっており、
Λ、
Σの二つの量子数ではラベルできなくなる。この核間距離 において良い量子数となるのは
f1,2である。ここで
f =s+iである。本研究で用いる
41K
の場合、
f = 1もしくは
f = 2であるので、基底状態の二つの
Born-Oppenheimer potentialは核間距離の大きい部分では
(f1, f2) = (1,1),(1,2),(2,2)に応じて三通りの ポテンシャルに分かれることになる。その様子を図
2.1.5に
[9]から引用して示した。
図2.1.5 hyperfine interactionを考慮して計算されたK2の基底状態のポテンシャル (図の下方)。あわせて散乱波動関数も描かれている。図の上方に描かれているのは励起 状態のポテンシャル。図は[9]より引用。
14
第
2章 理論
2.1.8
核間距離によるポテンシャルの分類
今まで述べてきた内容のまとめも兼ねて、分子ポテンシャルを核間距離という観点から 整理する。ポテンシャルが核間距離と共に分裂していく様子を図
2.1.6に
[39]から引用し た。図
2.1.6は核間距離
Rによって
4つの領域に分けられている。
Born-Oppenheimerpotential
という言葉は領域
Iと領域
IIのポテンシャルに対して使われる。この領域で
の主要な相互作用は原子間のクーロン相互作用である。領域
Iは
Born-Oppenheimerpotential
の短距離部分であり、ポテンシャルを計算するためには化学結合の効果を考
慮しなければいけない。よって近似的なポテンシャルしか得られない。また、
singlet・
triplet
ポテンシャル間のエネルギー差はいわゆる交換相互作用
∆VEの二倍にあたる。
一方領域
IIは
Born-Oppenheimer potentialの長距離部分にあたる。この領域では化 学結合の効果を無視することができるため、ポテンシャルは原子のパラメータのみで解析 的な形で求めることができる。原子間のポテンシャルは核間距離に対して
1/R6 (基底状 態
)、
1/R3 (励起状態
)で振る舞う。励起状態の
8つの
Born-Oppenheimer potentialは
1/R3の係数によって
4つのグループに分けることができる。領域
Iと
IIの境界である
RLRは
modified LeRoy length (通常は
RLR−mと書かれることが多いので、本論文では こちらを用いる
)と呼ばれており
[23]、クーロン相互作用のエネルギー
∆VCと
∆VEの比 が
∆VE/∆VC ≃0.1となる核間距離として定義される。領域
Iと
IIでは
Σと
Λが良い 量子数になる。この領域の分子は主に
Hund’s case (a)で記述される。
R > RFS
となる領域が領域
IIIである。
RFSは
fine structure splittingの大きさ
∆EFSとクーロン相互作用の大きさが等しくなる距離として定義され、
RFS = (C3/∆EFS)1/3である。領域
IIIではスピン軌道相互作用が主要な相互作用となり、分子は主に
Hund’s case (c)で記述できる。スピン軌道相互作用を考慮した
Hund’s case (c)のポテンシャル は簡単なモデルによって領域
I、
IIの
Born-Oppenheimer potentialから作ることができ る。これについては
2.1.9小節で説明する。なお、基底状態はスピン軌道相互作用が存 在しないため
RFSは定義できない。代わりに、
hyperfine splittingの大きさ
∆EHFSを 用いて
RHFS = (C6/∆EHFS)1/6を定義することができる。
R > RHFSでは
hyperfine interactionの効果を考慮する必要がある。
K2
のこれら特徴的な長さスケールを表
2.1にまとめた。
RLR−mについては
39Kにお ける値を
[42]から引用した。
Born-Oppenheimer近似の範囲内では
41Kにおいても同様 の値であると考えることができる。
RFS, RHFSについては
[42]で報告されている
39Kの 値から
41Kでの値に換算した。
2.1.9 Hund’s case (c)
ポテンシャル
領域
IIIで有効な
Hund’s case (c)のポテンシャル得るためには、スピン軌道相互作用
を表す項
Al·sを加えたハミルトニアンを
Hund’s case (a)の基底で行列表示し、それを
2.1
分子の物理の基礎
15図2.1.6 核間距離Rによってポテンシャルが分裂していく様子。ポテンシャルは上に
書いてあるものほどエネルギーが大きい。特徴的な長さを表すRLR等の定義について は本文を参照。[39]より引用。
表2.1 K2のポテンシャルを特徴づける長さスケールのまとめ。aと書かれた数値は
39Kの値をそのまま用いた
Atomic asymptote RLR−m (˚A) RFS (˚A) RHFS (˚A) 4sσ+ 4sσ 11.29a · · · 35.7 4sσ+ 4pσ 16.24a 16.8 493.4a 4sσ+ 4pπ 11.76a 16.8 493.4a
対角化すれば良い。スピン軌道相互作用は異なる
Hund’s case (a)のポテンシャルを混ぜ るため、非対角項に
∆ = ∆EFSに比例する項が現れる。本研究に関係があるのは
Ω = 0の分子ポテンシャルである。
Ω = 0の分子ポテンシャル
(0±u、
0±g)を得るためには次の行 列を対角化すればよい
[42]。
V1−∆ 3
√2 3 ∆
√2
3 ∆ V2
(2.7)