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(1)

編 集 後 記  

今年は、観測史上初づくめの冬になりそうだとの こと。その原因としてはエルニーニョ現象がどうし たこうしたと色々いわれていますが、そういえば、

今年、雪で苦しめられたことは無いし、例年よりも 暖かい日が多く過ごしやすい感じがします。

冬物が売れないとか、そのための経済効果とか 何とか、ニュースで報道されていますけど、私に とっては毎年繰り返される大雪の被害のニュース が無い分「優しい冬」という感じで、また、我が 家の暖房費も例年比かなりダウンしており、願わ くばこのまま暖かい春になだれ込まないかなー と、一寸自分勝手な考えをしてしまう今日この頃 です。

病院機能評価の受審(2月に認可済)、病院第2新 館の竣工(PET-CT等の設置、外来の移転)、看護学 部の設置認可(現在学生募集中)など、昨年から本 年にかけて本学は大きな変革(発展)を遂げてきま した。これからも「患者さまにとっての一番」にな るよう頑張って行きたいと思います。

さて、北斗会の会報も本号で16号を数えるに 至り、内容もますます充実してきております。こ れからも色々な企画を考えていこうと思っており ますので、アイデアがありましたら是非ご教示ね がいます。

最後になりましたが、ご寄稿いただきました会 員の方々には心からお礼申しあげますとともに、

会員の皆様のご健康とご活躍をお祈りいたしてお ります。

(K.S 記)

※掲載順序は原稿をいただいた順としました。

題字「北斗」の文字は、前会長西 東利男先生の筆によるものです。題字 に重なっている7つの点は、北斗七星 を表しています。杓の先α〜βの長さ 5倍伸ばしたところに、北極星(又 は北辰)があります。

北  斗  第 16 号

発 行 金沢医科大学北斗会 会長  奥 名 洋 明

〒920-0293 石川県河北郡内灘町大学1-1 金沢医科大学 教育研究事業推進室

T E L (076)286−2211(代)

(内線2720〜2724)

FAX (076)286−8214

編 集 金沢医科大学北斗会会報編集委員会 北 川 伴 次  圓 田 兼 三 神 戸 晃 男  佐 野 泰 彦 前 沢 明 美  坂 尾 光 一 百 成 富 男  辻 口 徹 子 荒 木 きみ枝  中 山 正 喜 以上10名

発行日 平成19310

金沢医科大学北斗会会報

題字 西東利男初代会長

北斗 第16号 平成19年3月10日発行 

編集・発行 金沢医科大学北斗会 金沢医科大学教育研究事業推進室内(内線2720〜2724)

〒920-0293 石川県河北郡内灘町大学1-1 TEL(076)286-2211(代)FAX(076)286-8214 平成18年度懇親会 金沢都ホテルにて

(2)

目 次 

◇会長挨拶

一寸した心遣いを  奥名 洋明……… 3

◇大学のこの 1 年 ……… 4

◇寄稿 世界奇行(9)「花のこころ」 佐野 泰夫……… 6

生涯の友  小堀  勝……… 10

介護相談員ってなに  法島 睦子……… 10

山との出会い  黒田 さつき……… 11

〜娘がくれた贈り物〜  斉藤 久美子……… 12

サブスリーへの返り咲きを目指して   正輝……… 14

じいちゃんに感謝して 中居 文子……… 15

<歌でつづる日記帳>  中山 正喜……… 16

「感謝の気持ちが言いたくて」 竹中 愛美……… 17

な〜んちゃって山中節  岡 恵子……… 19

私の趣味  辻本 幹夫……… 21

デジカメを楽しむ  寺井 明夫……… 23

「ツキを呼ぶ魔法の言葉」 今村 由衣子……… 25

一冊の本との出会い  松井 道子……… 26

孫からの贈り物  濱本 千穂子……… 27

結婚 25周年を迎えて  吉田 真弓……… 28

心臓手術顛末記  山中 孝子……… 28

占い  河村 摂子……… 30

◇叙勲・表彰 叙勲の栄誉を得て  飛 田  明 ……… 31

◇会員からの写真展……… 32

◇第 8 会北斗会懇親・懇談会開催……… 34

◇決算・予算〈報告〉……… 35

◇事務局だより……… 37

◇編集後記 ……… 38

平成 19 年 1 月 31 日現在

平成 19 年 1 月 31 日現在

(任期:平成 16 年 8 月 21 日〜平成 19 年 8 月 20 日)

事務局だより 

■会費納入のお願い

本会は会員皆様の会費収入で、会報の発行、親睦会の開催及び大学支援事業を行っています。

退任・退職される会員には会費納入方法として、年会費納入方法と終身会費納入方法のどちらかを選 択のうえ納入下さいますようお願い致します。

◎終身会費 12,000 円

◎年 会 費 1,200 円

《振込先》郵便振込口座 金沢医科大学北斗会 00710-6-23197

■お便りなどお寄せください

会員の皆様の随筆、短歌、俳句、写真、その他近況に関するお便りを掲載し誌面の充実を図っていき たいと思っていますので、どしどしお寄せ下さい。(内容は自由です。)

■変更事項等ご連絡ください

会員の皆様で、転居、結婚等で情報に変更がありましたら、下記北斗会事務局までお知らせ下さい。

◎金沢医科大学 教育研究事業推進室 〒920-0293 石川県河北郡内灘町大学1-1 TEL(076)286-2211(内線2720〜2724)・FAX(076)286-8214

E-mail [email protected]

■金沢医科大学北斗会役員のご紹介

■会員数

役職名 顧 問 会 長 副会長

〃 幹事

区 分 現任・現職会員 退任・退職会員

合 計

人 数(人)

1,261 1,159 2,420 氏 名 西 東 利 男 奥 名 洋 明 水 株 正 紀 北 川 伴 次 新 谷 喜美子 岸 本 トキ子 高 山 静 子 杉 本 末 子 佐 藤 能里子 山 田 俊 昭 高 田   稔 河 崎 信 夫 飛 田   明 百 成 富 男

職指定

監事 会報編集委員長

看護職・退 看護職・退 看護職・退 看護職・退 技術職・退 技術職・退 技術職・退 技術職・退 技術職・現 技術職・現

役職名 幹事

〃 会計監事

氏 名 西 尾 浩 次 神 戸 晃 男 大 森 政 幸  中 川 明 彦 辻 口 徹 子 宮 本 孝 子 村 下 智 子 中 越 滋 子 中 農 理 博 荒 田   満 浅 野 進一郎 中 山 正 喜 大 田   修 松 井 道 子

職指定 技術職・現 技術職・現 技術職・現 技術職・現 看護職・現 看護職・現 看護職・現 看護職・現 一般職・現 一般職・現 一般職・現 一般職・現 職指定・現 看護職・退

(3)

一寸した心遣いを

金沢医科大学北斗会 会 長 奥 名 洋 明

「もう年だから、車の運転は控えたら。」といわれだした。80才だから、家内の考えも理解できない訳 でもないが、便利なのでついついハンドルを握ってしまう。

先日、西湖大橋を過ぎて大学の方へ右折して最初の交差点で信号は赤、片側二車線の右側で一台の車 が停車していた。ウインカーの合図がないので直進するものと思い、その車の後につめた。ところが、

信号が変わると件の車がはじめて右折の合図、左側のレーンはつぎつぎと車が続き、対向車線の車が無 くなるまで、イライラしながら待たざるをえなかった。交通法規では、確か、30米手前からウインカー をあげることになっている筈なのに、直前にしか出さない人、ひどいのになると、車の方向を変えた後 に出す人もいる。

交差点で停車する場合、ストップラインの手前でと定められている筈だが、これを無視してはみ出す 人、ひどいのになると、横断歩道まで頭を出して平気な人さえ見掛ける始末である。

うす暗い時間帯や、雪や雨で視界が悪い状況の時には、ライト(スモールでもよいが)を点灯するこ とに留意したいものである。このことは法規上の規定では無いのだろうが、自分の安全を守ることにな るのだろうし、他車にも事故を起こさせないことになると思うのだが、この様な配慮をするドライバー は、少ない。

以上は、車の運転に関してのマナーの一面であるが、他の分野でも同様のことが、余りにも多い。

例えば、タバコのポイ捨てなどしなければ、街はずいぶんきれいになることかと思われる。むづかしい 哲学的な問題ではないのである。一寸した心遣いで、世の中は、ずいぶん明るくなる筈である。

私は、前述の様な心配りのない人はおそらく、仕事の分野でも余り、気配りのない人だろうと思える。

北斗会の会員諸兄姉は果たして大丈夫だろうか。願わくはこの「一寸とした心遣い」を大切にして欲 しいものである。

その事が、大学並びに病院の評価を高めることにつながるものだろうと思う。

(4)

大学のこの1年 

1年間を振り返って大学の活動を紹介します。(平成17年9月〜平成18年8月) 

平成17年 9月10日 10月1日 10月1日 10月15日 10月22日 10月23日 10月26日 10月29日 10月29日 10月30日 11月2日 11月9日 11月13日 11月15日 11月19日 11月20日 11月21日 11月26日 11月27日 11月27日 11月30日 12月10日 12月26日

平成18年 1月25日 2月1日 2月18日 3月2日 3月3日 3月23日 3月28日

金沢医科大学国際交流 20周年記念式典・記念講演会 第34回内灘祭〜2日(テーマ:医心伝心)

第30回附属看護専門学校看学祭〜2日(テーマ:笑顔)

第33回解剖体合同追悼法要

金沢医科大学総合医学研究所 市民公開セミナー(金沢市文化ホール)

平成18年度医学部AO入試2次選考、28日合格発表(13名合格)

平成17年度実験動物慰霊祭

21世紀集学的医療センター 開設記念式典・記念講演会(講師:森 喜朗先生)

平成17年度石川県民大学校健康管理講座 閉校 平成17年度互助会秋のバス旅行(黒部79名参加)

第7回金沢医科大学北斗会懇親・懇談会(130名参加)

互助会文化祭〜15日まで

平成18年度医学部推薦入学試験、89名受験、25日合格発表(22名合格)

平成17年度防災講習会・災害訓練

第11回地域医療懇談会開催(44医療機関、45名出席)

平成18年度医学部編入学試験、86名受験、25日合格発表(5名合格)

平成17年度永年勤続表彰(45名表彰)

平成17年度解剖学実習御遺骨返還式、文部科学大臣感謝状伝達

平成18年度附属看護専門学校推薦入学試験(36名出願)、12月5日合格発表 社会人特別推薦入学試験(36名出願)、12月5日合格発表

平成17年度石川県私立学校教職員教育功労者知事表彰(18名表彰)

腎移植者のつどい(87名参加)

病院第2新館建設起工式

平成18年度一般入学試験の実施(2,331名出願)、1月28日合格発表 平成18年度一般入学2次試験の実施(391名受験)、2月7日合格発表名 平成17年度総合医学研究所研究セミナー(病院新館12階大会議室)

第29回卒業証書・学位記授与式(93名卒業)

附属看護専門学校第18回卒業式(62名卒業)

第21回博士学位記授与式 第95回看護師国家試験合格発表

(5)

3月29日 4月3日 4月3日 4月5日 4月10日 4月11日 4月18日 4月22日 5月12日 5月22日 6月1日 6月1日 6月1日 6月11日 6月12日 6月14日 6月15日 6月16日 6月20日 6月22日 6月30日 7月1日 7月8日 7月13日 7月15日 7月17日 7月19日

7月30日 8月30日

第100回医師国家試験結果

平成18年度新入職員辞令交付式(新入職員106名)

病院新入職員オリエンテーション〜5日 附属看護専門学校第19回入学式(57名入学)

第3回白衣・聴診器授与式(第3学年105名に授与)

第35回入学宣誓式(107名入学)

金沢医科大学後援協力会、幹事会・総会・懇親会開催(金沢都ホテル)

第28回納骨式(37柱)

2006ふれあい看護体験

第1学年早期臨床体験実習〜26日(県内14施設)

バーモント大学医学部と交換協定締結

第16回互助会ゴルフ大会・医科大オープン(互助会員31名 学生39名参加)

平成18年度互助会夏のバス旅行(宝塚歌劇45名参加)

金沢医大後援会橘会総会開催 名誉教授の称号授与

平成18年度新任教員オリエンテーション

臨床教授(学外)委嘱状授与式並びに学外臨床実習に係る懇談会 戴帽式(39名)

第1回KMU研究推進室セミナー(105名参加)

附属看護専門学校平成18年度学生寮防火訓練・消化器取扱訓練 第34回解剖学実習解剖体納棺式

石川県民大学校「健康管理講座」開講(52名申込み)〜10月7日まで 金沢医科大学北辰同窓会、評議員会、全国支部長会開催

金沢医科大学看護学部棟起工式

金沢医科大学医学会第32回総会・第42回学術集会開催(70名参加)

平成18年度互助会夏のバス旅行(京都祇園祭70名参加)

平成19年度医学部入学試験説明会開催〜7月22日まで

(金沢、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、福岡)

平成18年度金沢医科大学オープンキャンパス開催(8月19日、20日にも開催)

平成18年度医療監視

(6)

寄 稿  世界奇行 (9) 「花のこころ」

佐野 泰夫

(元副理事長)

1.信仰と花ことば

肌寒い春3月、庭の紅梅と「別棟」の春らん

(140鉢)・セントポーリア(300鉢)が、美を競 って開花し、芳香を放つ。

「ウソ」が来て地鳴きし、「ウグイス」がさえず る。「サンルーム」で庭を眺めると、静寂が訪れ て私だけの時間が流れていく。

梅は「高潔・忠実」、春らんは「素朴」、セント ポーリアは「小さな愛」、クロッカスは「あなた を待っています」、スズランは「幸福が訪れる」、

椿は「慎しみ深い」、水仙は「もう一度愛して」

が花ことばだという。心にしみるフラワーランゲ ージだ。順次、庭で咲いている。

「花を見る時 私は 花の心になる」は昭和初 期の詩人、伊藤静雄の名言。私も花をみる時、花 の心になる。「花ことば」のようにと願いをかけ て…。

2.ロゴスとパトスの目

人は誰でも「理性と感情」をもっている。

思考が「論理的・理性的・科学的」であれば

「ロゴス」といい、「感覚的・情念的」であれば

「パトス」という。若いときに教えられた哲学の 言葉だ。異国で、古代からの「信仰」と「民話や 伝承」を見聞すると、私の心はロゴスとパトスの はざまで動揺する。……でも第三の目と耳で、素 直に受けとめると楽しいものになる。

アニミズムのように、人も動植物も無生物も、

山、川、谷、海、空や空気にも霊魂や精霊がある として、恐れ、崇め、お祈りをして「幸福の訪れ を待つ」人々を、軽べつしない。時には「素朴」

に、時には畏敬の念で会うことにしている。作家 で、天台宗権僧正の瀬戸内寂聴も「昔の日本人は、

路傍のささやかな雑草にも、草の露にも神仏が宿 ると考えていた」という。私も子供のころ親から、

そのように教えられていた。日本の「神道」には、

八百万(やおよろず)の神がいる。仏教には「神」

の概念はなく、13宗56派に分かれて経目の唱え 方に差異はあっても、「法(ダルマ)」の体現者で ある仏や菩薩を「人格神」として崇拝している。

平均的な日本人の家には、仏壇と神棚がある。正 月には、神社仏閣の初詣、赤ちゃんのお宮参り、

七五三、家の新築で地鎮祭、彼岸やお盆のお墓参 り、お祭りには、ミコシをかついで、ワッショイ、

ワッショイ。暮にはクリスマスケーキを食べ、除 夜の鐘を聞き、門松を立て、元旦には「慎み深く」

年賀を待っているという変てこな民族ではある。

世界の怪奇伝説をとがめることはできない。

3.乙女(おとめ)の祈り

「サンルーム」に「乙女の祈り」という名のオ ブジェ(30×25×100)がある。アビスの葉陰で、

35年間も、頭をたれ、目を閉じ、両手を組んでお 祈りしている。寒い日は、あついコーヒーを飲み、

紫煙を一服して、乙女の清純な顔を眺めると、私 はスチュリアルな空間に誘われていく。

私の表層心理が、「小さな愛」に昇華して彼女 にいう。「いつも祈ってくれて、ありがとう」と 礼をいう。すると、彼女の深層心理が「ヤ(ハイ)」 とポーランド語で答え、はにかみながら「いつも 私を愛してくれて、ジエンク・イエン(アリガト ウ)という。ポーランドの女流ピアニストのバダ ジェフスカ作曲のピアノ変奏曲「乙女の祈り」の 甘い旋律が聞こえてくる。……私と妻は、クラシ カルな音楽の都、16世紀風ロマンが漂うポーラン ドの首都ワルシャワで、青いガス灯・古い石畳や

(7)

煉瓦塀、建物を見ながら歩いている。ローマ教皇

「ヨハネ・パウロ2世」(在位26年)出身の国ポー ランドは、ナチス、ドイツに国土の大半を破壊さ れたが、市民の努力で、復旧しつつある街を歩い ている。

4.薄幸のバダジェフスカとショパン

テクラ・バダジェスカは、1843年生まれで、

27歳で夭折。「乙女の祈り」のほかに「乙女の嘆 き」「乙女の恥じらい」「叶えられた祈り」などを 作曲。どれも、私の家のオブジェにに合う題名だ が、「乙女の祈り」の曲は、19世紀欧米での人気 曲だった。私も愛聴しているレコードの一つ。オ クターブの下降音型による印象的な序奏がすばら しい。

楽聖ショパン(1810〜49)は当時不治の病と いわれた肺結核で、晩年喀血をくりかえしながら、

愛人とも結ばれないで、37歳で他界した薄幸の人。

「別れの曲」「雨だれ前奏曲」「子犬のワルツ」「葬 送行進曲」などは、音楽フアンなら誰でも聴いて いる名曲だ。ワルシャワ郊外のショパンの生家、

ワイジェンキ公園のオブジェ、ショパンの心臓を 納めてある聖十字架教会などに入り、故人を偲ぶ。

心臓の摘出は、当時のヨーロッパの怪奇伝説に原 因がある。死体は、地下へ深く埋葬するが、「時 には木棺の中で、よみがえり、崇りをする」とい う。ポーランドの教会墓地へ埋葬したら「食人鬼」

になって、近親者を墓へ呼び食べる」とか「洗礼

を受けない赤ん坊を墓地へ埋葬」したら、棺の中 で誰かの赤い血を吸って、「産衣が朱にそまって いた」とかいう伝説があったので、ショパンは、

死後に、よみがえらないために、遺言で自分の心 臓を摘出させたという。父のマルコスも自分の死 後を恐れて、心臓を摘出している。……でも、カ ソリックのショパンは、今、天国にいる。天国は

「美しい花と清らかなる水、たえなる音楽が聞こ える世界」だ。「野ばら」で有名な貧困と病気の シューベルト(1797〜1828)は、31歳。オペラ、

フィガロの結婚などのモーツアルト(1756〜91) も36歳で昇天している。「父なる神」「子なる神」

「聖霊」と共に天国で名曲を奏でているに違いな いと思う。クリスチャンではない私は、「インマ ヌエリ、アーメン」(神は私たちといっしょにい ます。本当に真実に)と唱え、忙てて「ナモアミ ダブツ」といって、教会を出ると、野外コンサー トがあった。7日後にポーランドを離れ、ネパー ル王国の女神「フマリ」に会いに行く。生きてい る女神は、童女であった。

ショパンの生家

ショパンのオブジェ

シニアルドビ・レイク(湖)

(8)

5.ネパールの生き神

ヒマラヤ連山のエベ レスト・ローツエ・マ カールの雄姿を見なが ら南下すると、ネパー ル王国の首都カトマン ズに着く。国教は、ヒ ン ド ウ 教 で8 6% 、 仏 教は7%。町は喧騒と 牧歌調が混在。ホテル は、王宮の近くだが、毎朝ホテル入口付近に、親 のない子供と野良犬が同じ姿勢で寝ている。街へ 出ると牛が悠然と散歩、野菜市場で野菜を失敬し ても、誰もとがめない。白い牛は聖なる動物だか ら路に座りこむと、車はストップ。牛さまが動く まで停車。白い牛でなくても車はストップのまま だ。世界遺産指定のクマリ寺院の中庭で「クマリ」

にあう。王もひざまづくというクマリは童女。4

〜5歳の仏教徒の家系の中から選ばれ、宿女に養 育されて、三つの目を持つ生き神となる。窓から

「チラリ」と顔を見せるだけだけで笑顔はない。

信者は「慎み深く」神仏の加護に感謝し祈る。生 き神に初潮が来ると、昔の日本では赤飯を炊いて 祝福したが、ネパールでは、神の座から普通の人 間に戻り、生家へ帰される。人間のにおいがない 彼女は、しばらくは、神と人との中間をさまよう。

擬神化された小女は生活環境が変化し、人生の価

ネパールの生神(クマリ)

値観も混乱してとまどうのであろう。成人したら、

普通の人と結婚をして、子供を生んで、平和で

「幸福」が訪れることを祈って、カトマンズを離 れた。ネパールのパタンやバドガナオの寺院には、

ビックリする「男女交合(ミトウナ)の木像や装 飾、「女性性器(ヨーニ)」の台座に直立して立つ 男根(リンガ)があり、安産や子孫繁栄の神とし て崇拝し祈っている群衆を見る。日本でも「金精 道祖神」として「男根」を型どった神社がある。

妊娠、出産、育児、生殖の神として、東北地方や 栃木県にある。北欧のノルウエの首都オスロ郊外 の「フログネル公園」には、ノルウエーが生んだ 偉大な彫刻家グスタフ・ビーゲランが、オスロ市 のために残した150の彫刻群が、約3キロの迷路 の傍らに、121人の老若男女の姿態で、激しく表 現されている。

6.釈迦生誕の地

仏教の開祖ゴータマ・シッダルターは、紀元前5 世紀ごろ、ガンジス川の中流域で生まれ(現在のネ パール領のルンビニ)、クシナガル(現在インド領)

で、入滅。80歳。経典の伝えによると、「生まれて、

すぐに、東西南北へ七歩づつ歩いて、右手で天を、

左手で地を指し、天上天下唯下独尊」と言ったら、

天は感動して「甘露の雨を降らした」という。救い 主イエス・キリストは、十字架で死後三日目に復活 してガリラヤの山で弟子たちのもとへ現れ、イエス の教えを広めるよう告げた伝承と同じように、釈尊

ヒマラヤ連山

カトマンズ市内

(9)

伝説もイロジカル(非論理的)であっても、素直に 受けとめておきたい。仏蹟めぐりやイスラエルのキ リスト伝説の地への旅は、すごく感動的で、今でも 脳裏に深くきざまれている。

7.インドのガンジス川で散骨する

ガンジスは、聖なる川。ヒマラヤに、ヒンドゥ の神が棲み、氷壁が融けて聖なる水となり、全長

2,510キロの大河となる。源流近くの村人は、空

腹時に「大麻」を吸い、煙を吐いて神に祈る。ホ コリと空気のヨゴレは、気にしない。南米のマヤ 文明(紀元4〜15世紀)が栄えたメキシコ、グア テマラ、ホンジュラスなどを旅すると、遺跡の石 柱に「葉タバコを吸う神」が刻まれている。煙は、

神に捧げる香料でもあった。

南下して、ベナレスへ向かうと、途中の川辺で、

人も豚も用を足している。石鹸で身体を洗う人、

ボトルにその水を持ち帰る人、投網で魚を取る人、

手を出して物乞いをする人、沐浴をする人、その

横で洗たくをする人、死後3日目に死体を河辺で 焼いてる人、死体の灰をバケツで流す人、水で口 をすすぐ人にあう。ヒンドウの神は、他の宗教に も寛容だが、ガンジス川も、おおらかである。年 間1,200万人が聖なる川で、お祈りしている。私 は、舟でガンジスを渡る。東京の叔父の分骨の一 部を釈迦入滅の地クシナガルへ埋め、残りを花と ともに川へ流した。あの世の叔父はビックリ仰天。

後日、叔母にいきさつを説明したら「仏と神だか ら、良いことをしてくれた」といわれた。帰国す ると大阪税関で異変。同行者の中に、赤痢患者が いて、全員が検便。私も下痢気味。「インドの街 は汚いから抗菌グッズ着用の佐野さんは、要注意 だね」と私の寺の住職サマが笑う。後年、インド のムンバイからシグナル「あなたを待っています」

があり、気乗りしない妻と3回もインドに行く。

ガンジスは清と濁・聖と俗を抱いて、私の心の 中で今も悠然と流れている。

ベナレスの沐浴

(10)

生涯の友 

小堀  勝

(薬剤部 薬物療法課)

早いもので、今年で薬剤部勤務してから30年 目を迎える。

健康でこれまでやれたことに感謝したい。

この原稿依頼を受けて、何について書いたらい いか迷ってしまった。

そこで仕事人間であった自分の趣味はなんなの か考えてみた。お酒を楽しむことと、金魚・亀の 飼育しか今の所、見当たらない。

3年前、自分の住んでいる町会の「観友会」と いうお酒をこよなく愛する仲間の会に入会した。

会のメンバー構成は年齢70歳から52歳、様々な 職業に就いていて、退職した人もいる。

メンバー内には、三味線をひく人、尺八を習う 人、民謡を習い披露する人など生涯の趣味を持ち、

生き生きしている方が多い。30代の頃、スキーに 熱中していた時には、歳をとっても、年齢なりの すべり方でスキーを楽しめればと思っていたが、

その考えも今は挫折している。

これから、次々とメンバーも退職を迎える。お 酒を楽しむことで知りあった友と一生の友として の趣味を見つけて、明るく張りのある日々を過ご していきたいと思う。

最後に教訓として「酒は楽しむべし、酒に飲ま れるなかれ」を肝に銘じたい。

介護相談員ってなに 

法島 睦子

(元看護部)

平成16年から月に2回、春日町ケアセンターを 活動場所として、介護相談員をしています。平成 12年度に介護保険制度が導入され、これまで行政 の「措置」によって提供されていた介護サービス が利用者の選択と責任に基づいた「契約」による 利用へと変わりました。介護相談員は、利用者で ある市民の方々と、同じ視線・目線を大切にして、

利用者の思いを受けとめ、また代弁します。第三 者として、利用者と事業者の間に立ち、その橋渡 しとなることでサービスの質の向上を目的に活動 をしています。

現在健康で活動出来るのも、医科大学病院開院

の時から、看護補助員として指導していただきま したドクターの皆さん、看護師の皆さんの温かい ご指導があったからと、いつも感謝しています。

介護保険制度は40歳以上の方が加入して、高 齢者の介護を、みんなで支える制度です。65歳以 上から必要となったら利用できる保険ですが、私 は、できるだけ利用しなくてもいいように毎日頑 張っています。

今では、ガンより怖い認知症にならないよう多 くの人と対話して、ストレスを溜めない暮らしを 心がけています。

(11)

山との出会い 

黒田 さつき

(栄養部)

思えば27年前、金沢医科大学病院栄養部にお 世話になって、2年目に金沢市主催の「20歳の白 山登山」という行事に、栄養士の高見さんの誘い で参加したのが始まりでした。登山経験のない私 は、どんなものかなという興味だけで行って見ま した。それは、8月2〜3日に行われ、夏山登山の 最高の時期であり、天候にも恵まれ、高山植物も 色とりどりに満開で、金沢大学の木村久吉先生の 説明を聞きながら楽しく登った為、最高の思い出 になりました。その後10年間というものは、育 児に追われ、山へ行く機会もなく過ごしました。

そんな中、職場で白山に登ろうという計画を立て、

8人位で2年間続けて白山に登れる機会を得まし た。この白山登山で、私の中に、小さな山でもい い、気軽に緑の中を歩きたいという思いが芽生え ました。それから医王山にも登りましたが、家族 は山の魅力が分からなかったようで、私一人で登 ることになりました。しかし、登山経験の乏しい 私は、一人では行けず登山仲間を探していたとこ ろ医科大のワンダーホーゲル同好会と出会いまし た。長く勤めていても、栄養部調理課という地下 の職場の為、栄養部以外の部署の人との接点がな い私でしたが、同好会のメンバーは山が好きと云 う事でとても気さくに仲間に入れて頂きました。

それから年3〜4回あるワンダーホーゲル同好会 の行事にはできるだけ、参加させてもらっていま す。深田久也の日本百名山のいくつかの山にも連 れて行ってもらったり、山へ行く時は、丁寧な案

内書も頂いたりしています。案内書は、私にとっ て宝物となり、想い出と共に一枚づつ増えていく のが楽しみです。調理師という仕事柄、公休日は 平日が多いので同好会で一度連れて行ってもらっ た山は自分で行きたいと考えました。自分の休み に合わせ行ける事が理想なのです。無我夢中で生 きてきた私も50歳という年齢を迎え、下り坂を 意識するようになりました、働いてきた年月より も働ける年月が短くなり身体的にもピークを迎 え、今までを振り返り、これから先を考える起点 だと思うようになりました。何事に対してもあせ っても仕方がないと開き直り、また、小さな一歩 からと思っています。そんな時「中高年の日帰り 登山」、「県内の百名山」など私にも出来そうな登 山の本があることを知り、方向音痴で勘の鈍い私 ですが、ゆっくり調べれば出来そうな気がして来 ているのです。これからの平日の休みには、これ を趣味にしようとまず始めに、自分の行けそうな 山を調べました。昼のお弁当を持って夕食までに 帰ってくる、そして帰りに温泉に入ってくるなん て最高と思いながら本を物色中です。自分で色々 と考えたスケジュールで山に登る日はまさに理想 通りで、とても充実しています。それが出来るよ うになったのは、金沢医科大に勤めてワンダーホ ーゲル同好会と出合った事が私の人生に潤いをも たらしてくれたからです、休日は山に登り、今日 も元気で仕事が出来る事に感謝しています。

(12)

〜娘がくれた贈り物〜 

斉藤 久美子

(診療支援課(薬剤部))

『塾帰り 見上げた空は 宝石箱』これは我が 家の高校2年の長女が、昨年6月『宇宙について の作品展』の俳句部門で優秀賞を頂いた時の作品 である。受賞の報を聞いた時、「えーっ これで 優秀賞ぉ〜?」調はもるように、娘と同時に言ってし まって2人で大笑いになった。現文の先生に突然、

「宇宙がテーマの俳句を時間内に作るように」と 言われたらしいが、どうしても思い浮かばず、そ の日の最後の授業の数学の時間(?)に閃ひらめいて慌 てて先生に提出したというから、何ともはや運の いいヤツである。

表彰式当日、娘は受賞した喜びより、会場であ る21世紀美術館に、娘の憧れである宇宙飛行士、

向井千秋さんが来られると聞いて、朝はずむよう に玄関を飛び出して行った。普段、娘の追っかけ など、あまりしたことのない私だが、その日は丁 度午後から、友人の結婚式が控えていたので、そ のついでに少し早めに出て見学でもするかと思い つき、娘の後を追った。会場につくと来賓席に千 秋さんが座っておられた。テレビでお見かけする より、小柄な方であったが黄色いパンツスーツに 身を包んだ千秋さんは、ひときわ輝いて見えた。

授賞式が終わると娘は、すかさず千秋さんに駆け 寄ってゆき、握手をして貰ったり談笑したりして いた。その僅かな時間をデジカメに納めようと私 は必死でシャッターをきっていた。

その時、私は一人のおばあさんに声を掛けられ た。「あの高校生のお嬢様のお母様ですか?」「は い、そうです」「素敵な俳句でしたね。私も今日 千秋さんにどうしてもお会いしたくて、やっと会 場にきたのですよ」レース地のスーツに身を包ん だ、上品なそのおばあさんは86歳で畑仕事をし ながら、趣味で短歌を詠んでいるのだという。

あの有名になった千秋さんが、下の句を募集した 短歌『宙返り 何でも出来る無重力 水の鞠まりつき できたらいいな』の時も、ご主人の介護に追われ ていて、無重力空間で介護出来たらどんなに楽か と思い、それを短歌にして応募したのだという。

千秋さんにおばあさんはそれを伝えると、千秋さ んは優しく両手でおばあさんの手をとり「ありが とう。これからも、ずっと短歌に親しんで下さい ね」と声を掛けられた。千秋さんに会える日が来 るなど夢にも思わなかったそうだが、千秋さんが 金沢に来られることを知って、当日娘さんに頼み こんで、連れて来て貰ったそうである。私は、当 日カメラを持ち合わせていなかったおばあさん に、写真を送らせて頂くことを約束して住所と電 話番号を交換し、その日は別れた。

それから何週間かして、そのおばあさんから電 話を頂いた。「お元気でいらしゃいますか?」と。

その声は耳に心地よく、亡き祖母を思い出させて くれた。「斉藤さんも、短歌を詠んでみません か?俳句のように季語はいらないし、何でも思っ たことをそのまま5.7.5.7.7にすればいいの。

字余りになろうが、読み方を変えようが、それも 自由。楽しいわよ〜。私は畑にまで、紙と鉛筆を

娘 真悠子と向井 千秋さん

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持って歩くの。見たままの風景、感じたこと、一 言ずつ書いて、後で繋つなげればいいの」おばあさん は私に語りかけるように、短歌を詠む楽しさを教 えてくれた。その時は楽しいと言われても、自分 には無縁のものみたいに、未だ思っていた。その 後、私は約束通り、千秋さんとおばあさんが一緒 に写った写真に手紙を添えて送った。数日たって、

おばあさんからお礼の手紙が届いた。そこには

「この写真を、お盆に集まった娘や息子や孫達に 自慢できる日を、今から楽しみにしています。私 に新しく孫ができたようで、嬉しく思います。こ れも何かのご縁ですね。いつでも、お嬢様達を連 れて、私の作った野菜をとりにいらして下さい」

と書かれてあった。そして、ご自分の作った短歌 も何首か添えられていて、その中には、あの出会 った日の娘の事や千秋さんの事も温かい詠で綴ら れていた。メール世代の私が、便箋で手紙を書き、

おばあさんからは、和紙の便箋で返事を頂き、久 しぶりに手紙の温かさに触れた。その日から、お ばあさんの言うとおり私は、カバンの中にペンと 小さなノートを持ち歩くこととなる。

私の記念すべき第一作目は、同じ職場の友人に贈 った結婚式当日の詠である。その日は、初夏の風が 肌に心地よく、とても爽やかな一日だった。打ち掛 け姿で、東茶屋街を蛇の目傘を差し幸せそうに、旦 那様と歩く友の姿がとても眩しく、10年前に亡くな った彼女のお母さんも、今私が娘の追っかけをして きたように、空の上からどんなに喜んで見てくれて いるのだろうと思うと、熱いものが込み上げきた。

この日が私が短歌を作るきっかけとなった日なの で、当日のことを思い出し詠んでみた。

『風薫る 東茶屋街 初め歩あるき 

花嫁姿の 友きみに幸さちあれ』

一首出来上がると不思議なもので、嬉しくなって 自分の気持ちが溢れるように、次々と詠になった。

私の詠んだ短歌など、そっと自分だけの日記と してノートに納めていく、そんなつもりでずっと

詠んでいた。そんな中、11月も半ばを過ぎた頃、

風邪もあまりひいたことのない実家の母が、父の 看病疲れからか緊急に入院、手術する事となる。

もちろん母の介護を自宅で受ける事の出来なくな った父もショートスティとして、他の病院へ預け る事となった。2つの病院を毎日仕事を終えてか ら、行き来する中、私はふと文化祭の作品募集の 事を思い出した。涙に暮れているばかりではいけ ない。二人の回復に願いをこめて、私の詠んだ詠 を文化祭に出してみようと。題名は「短歌 2006」 に決めた。自分で早速、ワープロ入力し印刷会社 の方に頼んで、和紙に拡大コピーをして貰うこと にした。その作品が届いたのが、なんと文化祭の 飾付けの前日だった。作品が出来上がってきたも のの、やっぱり恥ずかしくなって、提出しに行く 本部までの廊下を、何度引き返そうと思った事か。

えいっ!と勢いで人事厚生課へ入り「なるべく目 立たない所にお願いします」と何時

になく、しお らしく(笑)小さな声で囁いて、作品を託し人事 厚生課をあとにした。

『「私手術してくるね」 寝ている父に  告げた母 「運

うー

がいいから大丈夫

だーじょーぶ

回らぬ舌で 言った父』

『母さんの 作った梅干し 見れなくて  そろそろ漬け方 覚えないとね』

『覚えてる? 帰り遅いと 平手打ち  そんなに細い手してないで 

も一度思いきり なぐってみてよ』

『父さんと 母さんから 受けた愛 

子供を産んで 初めて知ったよ』

いよいよ文化祭が始まると以外にも、たくさん の反響を呼んだ。一番嬉しかった事は、顔馴染

み の患者さんや職員の人達に「よかったよー」とい う言葉をたくさん頂いた事だ。中には、わざわざ、

お薬窓口まで「斉藤さんは何処にいらっしゃる方 ですか?」と訪ねて来られて「あの短歌、本当に 感動しましたよ〜。どうもありがとう」と爽やか

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に深々と頭を下げていかれた方もいて、私の方が 感激して胸が一杯になった。文化祭の開かれてい る一週間、私生活では本当に大変な時にいたのだ けれど、たくさんの人達から、素敵な言葉の贈り 物を頂き、それに励まされて、なんとか無事乗り 越える事が出来た。その後、私の願いが届いたか のように、母の手術も無事成功し父も預けられた 病院でリフレッシュして帰って来た。

こうして私の2006年は、泣いたり、笑ったり、

色んな事に思いを巡らせ、目まぐるしく幕を閉じ

た。あの日、娘の追っかけをしなかったら、友の 結婚式がなかったら、あのおばあさんとの出会い がなかったら、私が短歌を詠む日など、おそらく こなかっただろう。色んな偶然があり、この短歌 達は生まれた。今回、短歌歴一年生の私が、文化 祭で光栄にも「理事長賞」をいただいた。まだま だ拙つたない詠ではあるが、これからも短歌を、私の心 の友として、ずっと詠み続けていけたらいいなと 思っている。

文化祭出品作品

サブスリーへの返り咲きを目指して 

正輝

(教学課)

サブスリー(フルマラソンで3時間を切って完 走すること)はマラソン愛好者の憧れですが、私 はフルマラソン17回完走し7回のサブスリーを記 録しました。サブスリーはいずれも40歳までに 記録したもので、初マラソンは1987年2月11日 の勝田マラソン(茨城県)でヨレヨレになって完 走したときの記録が3時間30分29秒、最高記録 は2時間51分30秒(1995年11月23日福知山マラ ソン(京都府))です。また、2時間50分を切る

とサブ2.50と呼ばれ女子の一流アスリートに近づ き一般ランナーからは更に羨望の眼差しでみられ ます。

私は10年ほど前に金沢医科大学事務局ニュー ス第130号(1998年1月31日発行)「特技のある 人・趣味の人」の中で、当時熱中していたマラソ ンについてのインタビュー記事が掲載されたこと がありましたが、その年の12月11日に宮崎県で 開催された青島太平洋マラソンを3時間1分30秒

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うちの義父(じいちゃん(呼称))は、今年十 月で、満88歳になります。今でも車の運転をし ていてとても元気です。毎朝新聞を欠かさず読み、

畑と田んぼへ行くことが日課です。普段は何人か で行う作業を我が家では大半はじいちゃんが世話 をしていると言っても過言ではありません。一年 を通して田畑に関わって毎日身体を動かし「土と 親しむ」ことが元気で長生きの秘訣の一つになっ ていると思います。

じいちゃんに感謝して

中居 文子

(医事課)

これといって家族の厄介にも、又、大病にも罹 らず健康でいます。家族も「いま」をじいちゃん と共に過ごせる事の喜びに感謝しないといけない と痛感します。

「これからも、家族と共によき日々が過ごせる ように!」

先ずは、米寿のお祝いをしようと考えています。

で完走したのを最後にフルマラソンから遠ざかっ ていました。そのときは練習不足で残り5kmで足 が前に出なくなりサブスリーができませんでし た。競技場で待っている妻には「遅かったじぃ」

と言われる始末でした。(どこかで1分30秒とい う壁が・・・)

ところが2005年夏頃にかほく市陸上協会の人 達と飲んでいるうちに、久しぶりにフルマラソン を走ろうということになって、一念発起して過去 に4回完走したことのある河口湖マラソン(山梨 県)に参加し3時間19分8秒(ネット:3時間18 分50秒)で完走、2006年も引き続き同じ大会で3 時間10分43秒(ネット:3時間10分37秒)で完 走ができました。50歳の大台に乗って前回より8 分強短縮で3時間1ケタ台の記録も狙えるように

なったと勝手な思い込みで、それならばもう一度 サブスリーを目指したいと思いました。しかし、

サブスリー当時の体重は今より3〜4kgも軽かっ たわけですから、今のままではそれだけ重いおも りを持って走ることになり、まずは体作りから始 めないといけないことになります。年をとると共 に脂肪がつきやすく落ちにくくなってきましたの で、これからは日常の生活(アルコールのとりす ぎ)に気をつけ練習に励みたいと思います。

もし、フルマラソンに限らずマラソン大会の新 聞記事がありましたら、一応私の名前がないか調 べてください。応援メールをお願いします。

メールアドレス

(会社)[email protected]

(携帯)[email protected]

(16)

<歌でつづる日記帳>

中山 正喜

(教育研究事業推進室)

去年の大歳、永年親しく付き合いのあった役員 室秘書の「あっちゃん」が長い病魔との戦いの末 にその短い命に幕を下ろした。そして、時を待た ずして夫婦とも親しく、大学の後輩でもある井上 君(職員課長)がこの世を去った。

そのことは私自身、人生のはかなさをまざまざ と見せつけられたような感覚に陥り、むなしさと 寂しさ、そして言い知れぬ悲しさで、頭の中が真 っ白になったような日々を重ねることになった。

そんなあるとき、脳裏を一つのリズムがよぎっ た。5,7,5・7・7・・

今心にあることを、一番短いことばで表現して みたい。そんな気持ちで書き始めたのが、この日 記帳である。いつまで続くか分からないが、気の 向いたときに書きつづってみようと思う。

あっちゃんが逝った日(12月27日)

出勤し年末の仕事納めの準備に入っていたとき、

突然電話の音が部屋中に響いた。いつもどおり穏や かに電話口に出た木下さんが「えっ!ほんと?」と いって涙を流し始めた。

「やっぱり、だめだったか!」すぐに理解できた。

先週の木曜日だったと思う。夕方役員室へ電話 したところ、久しぶりにあっちゃんの声が聞こえ た。元気がないので「どうかしたのか?大丈夫?」

と聞いた。「大丈夫じゃないよ…」との返事。し ばらくして役員室を覗いた。看護師さんに車椅子 を押してもらい、あたかも最後の別れを告げるか のように理事長先生に挨拶をしている「あっちゃ ん」を見た。そして、病院へ帰ろうとしていた車 椅子の「あっちゃん」にスポーツ選手がするよう なハイタッチをした。力なく手を上げながら、

「あ・り・が・と・う…」と小さな声で笑顔をみ せた。それが最後だった。

12月27日(水)早朝6時に逝去…

『師走空 季節外れの大風に 

身を任せつつ 去りし君かも』

『朝明けを 待たずに君は黄泉

の国

後に残るは ため息ばかり』

『秘書室の 華と慕われ消えてゆく 

椅子の上には 悲しき思い』

『あっちゃんと 皆から慕われ頼られて  輝く君は 今は遠くに』

その次の日(12月28日)

職場全体にただよう重苦しい雰囲気、だれもが 口をつむぎ、目元が寂しそう。特に女性軍は、口 を開けば涙が先立ち、お互いに嗚咽してしまう。

仕事納めの前日、なにかとせわしない時期でも あり、みんな黙々と作業に励む。

あっちゃんのお通夜は休みに入った12月29日、

葬儀は30日とのこと。自分はどうしても出席で きず、木下さんにお願いした…。

そういえば、井上君はどうなったのか。病院幹 部に聞いたところ、様態が思わしくなく面会謝絶 とのこと、奥さんの真奈美ちゃんも午後から休暇 をとったとか…何かしら気にかかる。

人の世の はかなきことは聞き知れど  かくもむなしい 吹雪の夜かな 今聞けば あいつも具合がおかしいと 

なにゆえこんなに 心に残る 井上君も逝ってしまった……(1月1日)

1月1日元旦の昼ごろ、木下さんから和泉市に いる私に携帯電話が入った。

「午前2時ごろ井上さんが亡くなられました…。」 とのこと。

『初春を 待っていたのか 突然に  愛娘

ま な こ

を残して 君は去りなん』

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『人前で 笑顔を見せつつ 陰で泣く 

君の愛妻 ただいじらしい』

『遠方で 電話とる手に 驚きが 

吾より若い 君が逝くとは』

『今日からは 二人娘と3人で  愛夫

あ い ふ

の面影 胸に抱きつつ』

仕事始めの1月4日、年始の挨拶とともに口にで るのは二人の話。共に49歳という若さでした…。

丹波哲郎が言っていた言葉を思い出す。「この世 は、前世における罪に対する刑罰を受けるところ である。罪の軽い人は早く刑を終え、あの世に戻 れる…」

いずれにしても、身体を大事にしましょう。

『みんなして 自分の身体を守ろうよ 

彼らの教えを 忘れないでよ』

「感謝の気持ちが言いたくて」

竹中 愛美

(理事長室)

毎日生活していく中で、どれくらい人に「あり がとう」と感謝の気持ちを伝えることが出来てい るだろう?

私がこの大学に就職して半年が経とうとしてい ます。何十年も勤めている人にしてみたら、たっ た半年かもしれませんが、私にとってはこの半年 は今までの人生を考えさせられる内容の濃い月日 だったと思います。

役員秘書として長く勤めていた野村敦子さん。

50歳の誕生日を1週間後に控えた昨年末に、闘病 の末逝去されました。

お通夜、葬儀とお手伝いさせていただいたので すが、いつも顔を合わせている人々が参列してい たので、仕事の延長にさえ感じ、本当に野村さん の葬儀なのか途中でわからなくなりました。あわ ただしい日々に流され、ゆっくりと振り返ること の出来ないまま過ごし、彼女が旅立ったことを信 じられない自分がいました。

そんな折、野村さんと永年親しくお付き合いの あった中山部長が、今心にあることを表現してみ たいと思い書かれた手記を持ってきてくださいま した。五・七・五・七・七のリズムですんなりと

心に入ってくる言葉の一つ一つ。その言葉の重み をすごく感じることができ、改めて野村さんにつ いて振り返り、考えることができました。

私が理事長室に配属された去年の八月、野村さ んは体調を崩し入院していたので、初めて会った のはそれから2週間ほどたった頃でした。会う前 からどんな人なのかいろんな人から噂は聞いてい ました。「とても厳しい人だった」と過去形の表 現でした。事実、私の知っている彼女はとても優 しく、子供のような無邪気さを持つかわいらしい 人でした。

いつも笑顔で楽しい会話ばかり。不安な私の全 てを受けとめてくれ、親切にいろんな事を指導し 理解してくれました。そのおかげで私はすぐに役 員室になじむ事ができ、普通に過ごせていたのだ と思います。

周りが言うように本当に病気なんだろうか?

順調に回復しているのではないだろうか? そん な風にばかり考えていました。それがある日から、

急に今まで見せたことのない表情でうつむいた り、吐き気をもよおし始めました。

そこからの彼女の変化は早いものでした。しか

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し自分からは何一つ弱気なことは口にせず、むし ろ私たちに「迷惑かけてごめんね」「(汚物を見て)

こんなん見たくないよね、ごめん」や、「ありが とう、ありがとう」と優しい言葉ばかり出てきま した。私たちには他に何も出来ることはないんだ と痛感しました。

だから、野村さんのまわりで笑いが絶えないよ う、どんな些細なことでも明るく話しかけ、みん なで笑えるようにしてきたつもりです。そんなこ としかできなくてはがゆい日々が続きましたが、

仕事場に命をかけて来てくれる彼女に応えたかっ たのです。

今、私たちは野村さんが人生の全てで取り組ん でくれた仕事をしています。充分な引き継ぎもな く、わからないままの業務もたくさんあります。

けれども、どんな細かいことも記録していた彼女 のおかげで、私たちはそれを頼りに進むことがで きています。その記録の量を見るだけで彼女のす ごさを目の当たりにしています。

そして私たちも同じように業務を引き継いでい くことで、野村さんが存在していた「証」になる のではないかと思っています。

本当にたくさんの人が野村さんに関わっていて、

そして多くのことを得たのではないでしょうか?

私も他の人に比べれば一番付き合いが短く、思 い出と呼べるものが少ないかもしれませんが、こ の半年で「心の強さ」「心の広さ」そして「命の 大切さ」を学びました。感謝の気持ちは最後まで 野村さんには伝えることが出来ませんでしたが、

その気持ちを私が絶やさない事で恩返しになるの ではないかと信じています。

また、就職して間もない私に一から指導してく れた方々、心優しく受け入れてくれた方々にも感 謝を込めたお返しが出来れば、と思います。

人はきっと誰かに助けられ生きているのだと思 えます。たくさんの方に生かされていることを感 じ、私もまた多くの人に手を差しのべられるよう に頑張らないといけません。

誰かにこんなに頼りにされ、必要とされる、か けがえのない人物になりたい。それがこれからの 私の目標です。

「ありがとう」たった5文字がこんなに心に響 くものだと、今更きづくなんて…

P.S.

野村さんが亡くなった次の日、偶然にも彼女の 夢を見ました。私にだけ姿が見えていて、彼女は いつもどおりに明るい表情で、自分の遺体の横で 泣き続ける旦那様に「そんなことせんでもいいの に……」と言い、少し困ったように私に笑いかけ てくれました。

きっと私がこんな内容の文章を掲載したなんて 知ると「やめて〜」と恥ずかしそうに照れ笑いを して嫌がるんだろうな〜と思います。

葬儀の日、野村さんを見送った後、今まで雪が ちらついていたのが嘘のように、雲ひとつない澄 んだ青空が広がっていました。まるで野村さんか らのメッセージのように。

きっと彼女はこの空のように晴れ晴れとした気 持ちで旅立ったのだと思います。私はこの日見た 空の美しさを忘れません。

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な〜んちゃって山中節

岡 恵子

(病理病態学)

私は趣味で舞踊を習っていますが、心に残る大 失敗の経験があります。

それは、ある意味大成功だったのかも知れませ ん!私にとっても、そして観客にとっても…

踊りを始めて、今年10年目に入ります。知れ ば知るほど無知に気づく今日この頃です。今まで に成功した踊りは、おそらくきっと偶然であり、

大した努力もせずに得たものだったのでしょう。

この失敗は、私にいろんなことを教えてくれま した。

どんな小さなことでも、ひとつのことを成すに は覚悟と計画、そして謙虚さが必要になってくる ことを。今、こうやって振り返ってみると、自分 の人生に起こることすべては自分への教訓であ り、そしてそれで人を楽しませること、それも、

「丸」だと思いました。

それは、草月流パーティーのことでした。

私は、いけばな草月流も習っており、私のお花 の先生(本一子先生)が草月石川県支部の役員をさ れている期間、総会などの余興で、岡崎さん踊っ て!とお声をかけてくださり、すでに日航、全日 空ホテルで300人の方々の前で3、4回踊った経験 がありました。大きな失敗もなく終え、着替えて パーティー会場へ戻ると、たくさんの方々に良か ったよ〜と声をかけられ、自分のテーブル席に着 くまでの、なんとも言えない満足感を味あわせて いただきました。(今思えば、ここで自信を持っ たのが失敗のはじまりだったのです。)

草月流は1927年に創流され、昨年、石川でも 創流80周年記念の花展が開かれました。

3代家元勅使河原宏先生は映画監督でもあり、

ご存知の方も多いと思います。大失敗したパーテ ィーとは2004年(H16)12月4日(土)のことで

した。草月流は毎年10〜11月ごろに、加賀市山 中町で「山中花回廊」と題し、山中町そのものを ギャラリーとし、町のあちこちに草月流オブジェ を展示する大イベントを行っております。山中町 の観光スポット「あやとり橋」は3代家元デザイ ンであり、草月流と山中町とは縁があるのです。

そんなイベントが終わったころ、平成16年12月5 日(日)に草月流本部主催の講習会があり、講師 に現4代家元勅使河原茜先生がいらっしゃること が決まり、その前日、茜先生を囲んでパーティー がホテルイン金沢で行われたのです。本先生は再 び私に「踊って!」とチャンスをくださったので す。私は曲名を当然「山中節」に決めました。山 中節は石川の民謡ですが、年に1回のコンクール には全国各地から参加者が集まるそうです。私は 踊りの先生(まり佳先生)のところへ個人レッスン にいそいそ出かけ、その日を待ちました。練習日 最後にまり佳先生から合格をもらい「練習どおり に踊れれば完璧ね!」と言われました。(今思え ば練習どおりに何でも出来れば、プロ野球選手を 目指して頑張ってる子供達は、みんな松井選手の ようになれるわけで、本番でいかに自分の力を出 せるか、そんな人はたった一握り、きっと心構え が違う。私には到底無理だったのです。)着物も 本格的に山中芸妓のイメージで!といつも着付け をお願いしている三由先生と打ち合わせをし、舞 台衣装を決め、当日を迎えました。その日は、長 男の野球のお茶当番で、午後まであわただしく落 ち着きませんでした。野球にとても熱心なお母さ ん方に、私の趣味は当然、話していませんから

「夕方にちょっと用事が…」などと言って井戸端 会議もそこそこに退散し、一目散に家に帰りまし た。会場までの着物なら自分で着れるはずなのに

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動揺のせいかまとまらず、はだけたまま三由先生 宅へ「着せて〜」と駆け込みました。そして会場 入り。まずはホテルの方と打ち合わせをし、1度 リハーサルをしました。シ〜ンとした会場のステ ージで問題なく踊れました。なぜかホテルマンが 拍手してくださいました。(いつもならリハで失 敗し、これが本番だったら…と青ざめるのに今回、

不幸にもうまく踊れたのです。)パーティーが始 まりプログラムは進み、食事、歓談のとき、私は 中座しました。踊り用の衣装に着替えるため控え 室へ、控え室では三由先生がすぐに着替えられる よう準備してくれていました。濃い目の化粧をし、

着付けをしてもらい、髪にかんざしを挿し準備完 了!ほんの数分で仕上がりました。冷静沈着。さ すがプロ! 廊下で1コーラスだけ踊ってみまし た。不安だった1コーラスめを再確認してみたの です。2、3コーラスも、いつもなら用心深い私は 踊って確認したかったのですが、進行が予定より 早くなり、本先生があわてて呼びに来られました。

私は《まっ、いいかぁ〜》と会場に向かったので す。(がぁ〜ん!)

「山中節」は舞台中央後ろ向きポーズで始まる のですが、パーティー会場には幕はありませんか ら、私はホテルマンに「私がステージに上りポー ズをとるまで少し照明を落としてください」とお 願いしてありました。とてもまじめなその方はな んと私の希望以上に照明を暗くしてくださいまし た。山中節の三味線の音色が聞こえると舞台中央 だけがパッと照明が明るくなり、そこには「な〜

んちゃって芸妓」が後ろ姿で立ってるわけですか ら、会場はどよめきました。ちょっと演出し過ぎ。

後ろ向きの私には瞬間なぜそんなにどよめいてい るのか?前を見れない分不安でした。三味線の音 を聞き逃すと踊り始めがわからなくなるので集中 しなければなりません。リハではしっかり聞き取 れたのに…(教訓その1:本番では観客のざわめ きのためリハより音響を大きくすること)何とか

そこは切り抜けました。1コーラスめは音をつか むのがむずかしくよく失敗していたので逆に本番 は集中ができ、何とか踊れたのです。きっとここ で少し安心してしまったのでしょう。踊りながら、

さっきからやけに気になる鋭い視線がますます気 になりはじめたのです。本来の舞台なら最前列の 観客とは随分離れていますが、ホテルのパーティ ー会場はステージと前のテーブル席はとても近い のです。今回やたらと前に出ておりその位置から 無理なく握手できる程です。もちろん踊ってる私 は視線を合わせませんが、私の視界の中にまばた きもせず凝視している草月家元茜先生が見えるの です。「何でそんなに見るの〜!」私は見せるた めに今日まで練習をし、完璧な衣装で、今この場 にいるのに、矛盾した気持ちでした。(教訓その 2:覚悟が甘い、集中力が足りない) 2コーラス の途中、頭の中が真っ白になってしまいました。

山中節は超スローな踊りなので経験があれば1、2 秒突っ立っていてもわからないと腹をくくれるの でしょうが、そこは器の小さい私のことですから、

どうしてよいかわからず両手を頭にのせて「わか んな〜い」というポーズをとってしまったので す!がぁ〜ん! 時間にすれば、実は1、2秒で、

前のテーブル席の方々が気づく程度のことだった の で す が 。 何 と

か 踊 り は 終 え ま し た 。 そ の ま ま 澄 ま し て 帰 り ゃ い い の に … 家 元 に 気 づ か れ て し ま っ た と い う 動 揺で照れがあり、

ニ ン マ リ 笑 っ て ペ コ リ と 挨 拶 ! か ん ざ し が ボ ロ っ と 。 慌 て て か

ん ざ し 拾 う 。 そ ホテルイン金沢にて

(21)

こでこそ、会場は爆笑の渦。(教訓その3:挨拶 は芸妓らしく腰を落とし目線を下げあごをわずか に引き色っぽく微笑む) 普通の着物に着変え、

再び会場に戻りました。ショックで気持ちが納ま りつかない私に反して、皆さん大喜び!パーティ ーを終え、会場を出るときも、エレベーターでも、

そして玄関でも、話したこともない方々が次々に

「素敵!笑顔が良かった。ホンっト、良かったわ よ〜」と絶賛の嵐でした。次の日の講習会で、パ ーティーに出席しなかったお友達に会い「昨日の 踊りどうだった?」と聞かれ、一部始終を話すと 大笑い。友達いわく、「私も見たかったぁ 山中 節なら見たくない!岡崎さんのな〜んちゃって山 中節が見た〜い」と…

私の趣味 

辻本 幹夫

(出版課)

私の住んでいる津幡町の公民館では、公民館活 動の一環として三味線教室があります。その教室 に私が通って、はや足掛け10年という年月が流 れました。

少しでも「上達したい」という気持ちは常に私 の頭にはあるのですが、なかなか楽器は難しいも のです。特に私の場合はそうでした。

私の最大の欠点はまず譜面が読めないことであ りました。第二にリズム感がないこと、第三に唄

(民謡)をあまり知らないことの、まさに音楽

(民謡)に対してナイナイ尽くしの三拍子であり ました。

こういった人の場合、たいていはそういうとこ ろには顔を出さないというのが普通だと思います が、私の場合はなぜかそこに足が踏み入れたまま 抜けきれず現在に至ってしまった、という感じで あります。

幼少のころから音楽そのものがあまり得意では なく、まして三味線の音色などはあまりにも和風 のイメージが強すぎてどうも好きになれなかった ものでした。それがたぶん二十歳をすぎたころ、

あるテレビ番組で津軽三味線の演奏を聴いて(奏 者はたぶん高橋竹山だったと思います)、なんと

カッコいいものだと素直に感動したものでした。

また時代劇では、たまに、流しの三味線弾きが、

弾く三味線の音色に艶っぽさ感じて、和風的な音 楽もなかなか悪くないものだと思い、私もあんな ふうに弾けたならどんなに良いことだろうと秘か に思ってはいましたが、何をするにも長続きのし ない、まして民謡に対してナイナイ尽くしの私で は絶対無理だと諦めていました。

話しは変わりますが、大阪からこの石川県にU ーターンし、金沢医科大学にお世話になって7年 が過ぎたころです。ようやく生活にも仕事にも少 し慣れ、我ながら気持ちに余裕が出てきたのか、

ふと暇つぶしに何かをしたいという気持ちにな り、いろいろと自分にできそうな趣味を探してい たときがありました。カラオケ教室にも3ヶ月ぐ らい通ったことがありましたが、仕事の都合上ど うしても休まざるをえないときがあり、そのうち だんだんと敷居が高くなって、それきりになって しまったということもありました。しかしカラオ ケそのものは面白く、飲み会でカラオケコーナが あれば必ず出席するタイプであります。

そんな時に町の広報誌で三味線教室が、生徒を 募集しているということを知り、以前テレビで観

参照

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