計的事象の確認
著者 山本 義彦
雑誌名 静岡大学経済研究
巻 26
号 2
ページ 11‑35
発行年 2021‑10‑31
出版者 静岡大学人文社会科学部
URL http://doi.org/10.14945/00028426
はじめに
1.武田晴人氏『異端の試み』を読む 2.国内諸条件
3.国際環境
4.国際金本位制の崩壊(以上,第22巻3・4号,2018年2月)
5.高橋経済財政政策の構造と社会経済の変容(以下,本号)
6.むすび―高橋財政期の意味
5.高橋経済財政政策の構造と社会経済の変容
ここでは,既述の概要を超えて,高橋財政の諸政策について,いくつかの事項を立てて,さら に深めておきたい。
0 1000000 2000000 3000000 4000000 5000000 6000000 7000000
0 500000 1000000 1500000 2000000 2500000 3000000
1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 図―19 一般会計歳出推移 1000円 合計は右
行政費 軍事費
国債費 年金および恩給
論 説
高橋財政の歴史的教訓と現代 ⑵
―高橋財政の統計的事象の確認―
山 本 義 彦
行政費, 688871,
44.2%
軍事費, 442859,
28.4%
国債費, 272517,
17.5%
年金およ び恩給, 149116,
9.6%
皇室 費, 4500,
0.3%
図―20 一般会計歳出構成1930年
1000円、%
① 財政の構造変化―歳出と特別会計
高橋財政期の一般会計歳出と特 別会計についてみておこう。日本 銀行長期統計1に依拠する図-19 に見ると一般会計歳出では,この 間,軍事費が全ての費目で常に第 一の位置にあることは鮮明である。
しかし1938年以降では,1930~33 年に次いで,軍事費に対して行政 費が上回るようになったのが注目 される。要するに高橋財政が開始 された初期は軍事費よりも行政費 が優越していたことに示されるよ うに,高橋は軍事よりも行政に傾 注していたことがわかるだろう。
あるいは満州事変の初期にはそれ ほどの軍事費を要しなかったとい えよう。しかし高橋財政の後期の 時期も同様であったといえるだろ う。ここからは高橋財政が軍事優 先であったと断じることは必ずし も至当ではないだろう。ここで,
その構成比率を捉えておこう(図
-20,21)2。
別の言い方が可能であれば,た しかに井上財政末期には満州事変 が起こったので,当然,事件費と して財政措置がとられていったた め,当時の財界不況の下での経済 効果があったことは疑い得ないと しても,その位置はなお限定的に 止まっていた。財政面で見る限り,
第二次大戦直後の1948年の古典的 名著である戦時末期から取り組ま れ,戦後初期の日本銀行特別調査 室『満州事変以後の財政金融史』3 を嚆矢として展開されてきた満州事変以降太平洋戦争期に至るまでの一本調子の戦争体制による 経済成長論の認識で充分であるわけではない4。本書で,戦時体制の経済が実態面でいかに難し
行政費, 685265, 32%
軍事費, 941881, 43%
国債費, 361285, 17%
年金および恩 給, 170070,
8%
皇室 費, 4500,
0%
図―21一般会計歳出額構成1934年 1000円、%
1 日本銀行『明治以降本邦主要経済統計』1965年
2 むろん高橋財政の方法が短期国債発行型による財政膨張策であったために,その後の軍事的権力による財政膨 張策を容易にしたということは指摘可能であるが,少なくとも高橋がその道を志向したとは言えない。
3 宇佐美誠次郎氏執筆,1948年11月刊,国会図書館デジタルアーカイブ
(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454682)
4 橋本寿朗『昭和恐慌期の日本資本主義』東京大学出版会,1984年。同氏は経済の内部循環の形成を指摘して高
い局面に置かれていたかを,一方 で国内の資源配分,資金配分の問 題で,他方で国際貿易関係の厳し さ,特に対決しなければならない 欧米諸国,つまり「第三国」貿易 で,外貨消耗的であり,日本の支 配地域との関係では戦争遂行のた めの資源,物品の供給体制が現地 調達型にならざるを得なかった,
という矛盾を衝いていた5。それ ばかりか生産力の基本である労働 力の面でも明らかに学徒動員等に 依拠せざるを得なくなった最終局 面では(太平洋戦争開始期),熟練 労働力不足によりダイリューショ ンが起きていたことも指摘してい た。ダイリューション(希釈化)
問題では,学徒勤労動員だけでは なく急場しのぎで働かされた他の 分野から供給された労働者の習熟 度の低下による製品の品質維持の 困難を当時の大阪市内の下請け制 を詳細に調査した大阪商科大学・
豊崎稔編6が知られる。
さらに詳しく見ると,図-20は1930年の一般会計歳出構成比であり,また図-21は1934年の同 構成比であるが,前者が28.4%の軍事費,行政費が44.2%であったのが,後者で34年では軍事費 43.5%と増大が目立つのは,満州事変継続にかかわってのことである。他方,行政費が31.7%に 圧縮されていることは明らかである。それだけに高橋財政当初は軍事よりも一般行政というあり 方を維持したものの,事変勃発が決定的に軍事費に傾斜していくことは疑えない。では特別会計 ではどうであるかを図-22で点検しておきたい。
これによって特別会計の推移を通じて,諸経費項目の姿を捉えておく。合計の推移では,明ら かに1931,32年から34年までの漸増,その後は変動を示しつつも,1936,37年を経過して急増を 遂げてゆく。これに対して事業会計では31,32年の急減を経て35,36年まで漸増,36年を転機に 急増を遂げる。これに対して事業会計もほぼ同様の推移を示している。軍事費関係では,36年ま でほぼ同水準を維持し,日中戦争が開始された37年以降は急増を遂げた。しかし一般事業費の関 係と比較すると,意外にも軍事費は全般的に低水準であったことは疑いえないだろう。これに対 して事業会計は上昇傾向を示していることが明らかであり,それは救農土木事業等への生産的投 資に意が用いられているといってよいのではなかろうか?7また図-23によって1930年度の特別会
成長への展望を語っている。
5 原朗『日本戦時経済研究』東京大学出版会,2013年,同『満洲経済統制研究』東京大学出版会,2013年は基本 的に1960年代後半から70年代にかけてのこの分野の緻密な原資料取材に基づく研究の嚆矢と評価される。
6 大阪商科大学・豊崎稔編『日本機械工業の基礎構造』日本評論社,1943年
7 大蔵省主計局『昭和八年度帝国予算綱要』は次のように述べている。「昭和八年度ニ於テハ前年度ニ引続キ満洲 事件費及所謂時局匡救済ニ関スル経費ノ計上ヲ要シ又兵備改善ノ必要並為替相場ノ変動ニ基キ経費ヲ増加スルノ
計中の費目構成比を捉えると,事業会計は37.1%,整理会計40.7%に対して軍事会計2.4%,外地 会計13.2%であった。後者2項目を軍事関連と見ても16%未満である。これはむろん井上財政の あり方を示していよう。しかし図-24によっ て1934年度の構成を見ると,事業会計26.0%,
整理会計53.6%,外地会計8.8%,軍事会計 3.0%であって,少なくとも高橋財政期には,
財政面で軍事圧力が強かったとは到底いえな いだろう。
ちなみに図-25によって戦時体制の下にあっ たと考えてよい1941年度を見ると,事業会計 が急速に圧縮して1.6%,整理会計63.9%,外 地会計6.3%,軍事会計6.3%と後者2項目の 軍事関連が一気に12.6%にまで急進している。
井手英策の著書8にみる,表序-5軍事費の 推移によれば,陸海軍両省の経常部予算に対 して臨時部予算が軍事費として急伸している ことを理解できるだろう。しかも双方の臨時 部予算が極めて相似形のように,ほぼ同等の 金額を占めていることにも興味がひかれると ころである。そもそも戦闘の現場が陸戦のは ずだから,当然陸軍経費が大いに気を吐くと みるのが適当だろうが,それぞれの物資調達 の性格によるとはいえ,どうも陸海軍で財政 の相互理解をしあっての分け前を受け取って いるか財政当局のバランス感覚に根差したと いうほかないかもしれない。ところが,井手 の取りまとめた同じ著書から満州事件費およ び兵備改善費を見ると,事件費では当然のこ とながら陸軍省が圧倒的に多く,兵備改善費 では,海軍省が気を吐いているように読むこ とができよう。結局,先の統計とこれを合わ せてみると,やはり陸海軍で,獅子の分け前 のごとく財政手当てを受けていたというほか ないのである9。
なおより詳細に兵備改善費の推移を表-5 に後掲しておく。では事項別歳入額の構成を,
表-1 国債発行額と日銀引受高
年 次
発行額 発行総額中日銀
引受高
新規 借換 総額 日 銀
引受高
発行総額 に対する 割合
1932 200 0 200 200 100%
1933 1,162 53 1,215 1,115 92 1934 660 256 916 701 77 1935 780 268 1,048 751 72 計 2,802 577 3,379 2,707 82 備考 額面,単位100万円,交付国債を除く
日銀調査局編,財政金融資料要録による。1932年は11月 以降。
0 500,000 1,000,000 1,500,000 2,000,000 2,500,000 3,000,000 3,500,000 4,000,000
図-26 事項別一般会計歳入額 1000円
『昭和23年財政経済統計年報』
租税 印紙収入
官業、官有財産 その他普通収入 公債、借入金 前年度剰余金受入
已ムヲ得ザリ事情ニアリ而シテ他方財界ノ現状ハ租税其ノ他計上歳入ニ関シ増収計画ヲ樹立スルニ適セザルモノ アルヲ以テ歳入ノ不足ハ公債財源ヲ以テ補填スルコトニシ大体左記ニヨリ昭和八年度予算ヲ編成セリ」と。そし て①兵備改善の緊急必要の経費②満洲事件費所要経費③農村振興その他時局匡救の必要経費④為替相場変動に基 づく国債元利払いの増加等必要経費の計上⑤為替相場変動に対する外貨支払いの貨幣交換差金は一般会計及び各 特別会計にて負担⑥増税増収計画樹立困難で不足は公債財源にて補填と説明している。
8 井手英策『高橋財政の研究』有斐閣,2005年
9 この点で興味深いのは種村佐孝・元大本営参謀・戦争指導班長『大本営機密日誌』ダイヤモンド社,1952年の 日誌だろう。第二次大戦期に至るも陸軍,海軍の調整と統一性は結局図られずばらばらの大本営だったという。
年度の推移によって捉える図-26を作成してみ ると,以下のことが判明する。第1に太平洋戦 時まで,ほぼ租税収入がトップを占め,次いで 1927~31年まで,官業官有財産収入が第2位を,
32年以降は公債借入金がこれを上回り,33年以 降,租税収入と公債借入金が常に高い位置を占 め,もはや公債依存なしには,会計が成り立っ ていないことが判明する。まさに高橋財政の出 発以降,戦時下まで,公債発行が,重要な収入 源となっていたのであるから,これゆえ高橋財 政は準戦時期から戦時期の帰趨を決定付けてい たと認識される所以であろう。しかも当の高橋 は,短期の赤字国債発行を無制限に行うという 考えであったのではなく,景気が回復基調に乗 れば,その方針は転換して行こうとしたわけで ある。それは時局匡救土木事業も,発足から1932
~34年の三ヵ年で終えたところにもうかがえる。
その三ヵ年といっても最初の年度は半年分だっ たわけである。実質は2年半と言うことになろ う。
そこで軍事費の増大の意味を図-27で点検し ておくと,1935年を転機に軍事費の増大が明確 になり,国家財政に占める比率は1935年の47.6%
から36年一気に69.5%に上昇しその後は70~75%
をキープする。
また実質国民総所得比を点検すると,31年満 州事変勃発時で5.0%,35年までは6.6%未満に 推移し,さきの筆者の指摘は当る。ところが2.26 事件を境に36年一気に19.1%,37年28.2%,39 年36.0%,40年60.2%と異常な上昇を示し,41 年89.3%,42年139.4%,43年343.5%と超絶的 な財政支出の破綻状況に陥っていることが明ら かであろう。もっともこれを支える愛国国債を はじめ軍事国債で賄ったわけである。
これは高橋財政の時局匡救事業が前年度で終 了した直後の時期となる。『帝国予算綱要,昭和 10年度』10を取り上げておこう。「昭和十一年度予 算ノ編成ニ当リ国際時局ノ情勢ハ陸海軍費ノ充 実並満洲事件ニ関スル経費ニ巨額ノ増加ヲ必要トシ加フルニ昭和九年各地ニ起リタル災害等ノ対
表-2 日銀の国債売却高 年 次 日銀国債引受高(A) 同売却高(B)
(B/A)
1932 200 16 (82%)
1933 1,115 789 (71)
1934 701 900 (128)
1935 751 655 (87)
計 2,707 2,363 (85)
備考 額面,単位100万円
日銀調査局編,財政金融資料要録による
まして日中戦争期だからなおさら調整不能だったろうし,当然,財政要求もその表明であったとみることができ よう。このように,日本の戦争体制は政軍の一体性はもとより陸海両軍の一体性なき無責任体制だとしてよい。
種村は戦争指導にかかわった人物としてさえも,北部仏印進駐など多くの無理な戦争指導に懐疑を表明している 点で注目しておきたい。
10 『帝国予算綱要,昭和10年度』国立国会図書館デジタルコレクション(ndl.go.jp)より抜粋した。
策ニ要スル経費亦多額ニ上リ歳出増加ノ傾向著シ キモノアルモ他方歳入ニ在リテハ租税等ノ自然増 収ノ趨勢前年度ノ如クナル能ハズ又一部産業ニ於 テ時局ノ影響ニ基キ増益顕著ナルモノアルヲ以テ 臨時利得税ヲ賦課スルコトトナセルモ尚歳入ノ不 足ハ著シキ情勢ニ在リ依テ一般諸経費ハ勿論上述 ノ諸費ニ在リテハ成ル可ク節約ヲ旨トシ努メテ公 債ノ新規発行額ノ減少ヲ図リ」と述べて,国債依 存を拡大することは予定しなかった。したがって 兵備改善経費も緊急やむを得ないものに限定し,
満州事件費も航空隊の整備を除けば節約を基調に し,治水事業等で土木工事中時局匡救費の未完成 部分の手当て,その他為替相場変動対応の必要経 費の手当てに限ることとしていた。
こうして同年度歳入経常部は13億3,600万円,臨 時部8億5,800万円,うち公債金が7億5,000万円 だった。経常部で対前年度比8,700万円増,臨時部 で1億700万円減,公債金1億3,100万円減で対処 した。新たに満州国国防費分担金受入れで987万円が設定され,陸軍省経常部で1億8,000万円,
臨時部で3億1,300万円,海軍省経常部2億1,600万円,経常部3億1,400万円となった。時局匡救 や農業土木を含む内務省と農林省はそれぞれ1億6,100万円,9,151万円で対処しているので,陸 海軍経費と比べるまでもないほどの少額だったことが判明する。歳入総計21億9,341万円中,公債 金は7億4,965万円だから34.2%であった。問題の兵備改善経費は既定額2億2,800万円,新規増 額1億3,800万円で,これがそれぞれ大蔵省,陸軍,海軍両省で充てられている(陸軍3,630万円,
海軍1億156万円。陸軍は航空防空兵力緊急充備が2,300万円,海軍は艦船4,200万円,兵器充実で 1,238万円,工作庁整備1,220万円,軍需品整備で820万円)。既定額,新規増加額合わせて36億 6,400万円である。災害対策費合計は2億6,100万円(10年度計上額6,600万円,11年度以降計上額 で7億9,300万円)と設定されている。この年では農村経済更生施設経費として210万円が充てら れていたにすぎない11。また高橋亡きあとの財政状況を『帝国予算綱要,昭和13年度』12で見てお こう。「第一 支那政府及其ノ軍隊ニ対シ膺懲ノ目的ヲ達成スル為ニハ事変長期ニ亙ルノ建前ヲ以 テ之ガ対策ノ遺憾ナキヲ期シ物資及資金ハ之ヲ軍ノ需要充足ニ集中シ軍需ニ関係アル資材及資金 ノ一般消費ハ成ルベク之ヲ減少スルニ努ムルノ要緊切ナリ依テ昭和十三年度歳出予算ニ於テハ右 ノ情勢ニ対応シ事変関係施設ハ出来得ル限リ之ガ充実ヲ期スルコトトシ其ノ他ノ諸経費ニ至リテ ハ真ニ緊急差シ措キ難キモノノ外殆ンド之ガ計上ヲ見合ハスコトトセリ又歳入予算ニ於テハ租税 其ノ他ニ於テ経済界ノ好況ニ伴フ相当額ノ自然増収ヲ計上シ歳入不足ハ公債財源ヲ以テ補填スル コトトシ」と誇らしげに好況をとらえていた。同時に見捨てることができない「膺懲ノ目的ヲ達 成スル為ニハ事変長期ニ亙ルノ建前」の表現のように,そもそも財政当局はこの「事変」が簡単 に終わらないとみていたことである。しかし表面的には短期で終結と述べていたから驚かされる。
こうして歳入経常部20億2,300万円,臨時部8億4,500万円,うち公債金6億9,400万円となった。
これを対前年比でみると,公債金で1億3,300万円減,予算合計では4,100万円減という好成績ぶ りであった。歳出でみても経常部はゼロだが臨時部でも2億1,400万円減の12億2,700万円であっ
11 『帝国予算綱要,昭和11年度』同上。
12 『帝国予算綱要,昭和13年度』同上。
た。確かに収入面で租税は1億7,300万円増であり,過半は所得税1億700万円増の5億3,700万 円,次いで営業収益税9,247万円,相続税3,600万円,資本利子税3,300万円,法人資本税2,007万 円と続く。歳出予算額で陸軍省経常部1億6,600万円,臨時部3億9,900万円,海軍省経常部2億 9,300万円,臨時部6億7,700万円となった。当時の大蔵省は経常部,臨時部併せて6億9,000万円 だから,それに次いだのが海軍,陸軍ということになる。当時の合計額は28億6,800万円だったか らそれらの規模の大きさは推し量ることができよう。これらに拓務省の経常部240万円,臨時部 230万円が加わって軍事費とみることができよう。他方で「第八 陸海軍両省所管ノ経費ニ付テハ 既定ノ軍備充実計画ハ出来得ル限リ之ヲ遂行スルト共ニ緊急已ヲ得ザル新規企画ニ要スル経費ハ 之ヲ計上スルノ方針ヲ採リタルガ他面財政ノ現状ニ鑑ミ国防上支障ナキ範囲ニ於テ既定経費ノ節 減繰延ヲ行ヘリ」と述べて,むやみな軍事費膨張には節約に努めたとしている。
次に,軍事財政を支え る一つの要素である日本 銀行券増発への足取りを 点検してみよう。周知の ように,高橋は,当面の 経済恐慌に対抗して,財 政出動と日銀券の増発に よって脱出を図ろうとし た。その手法としては,
短期赤字国債増発によっ てその市中引受を期待し て,先ずは市中の余剰資 金を日銀券増発の一基盤 とした。短期国債依存方 式は高橋の創造した独自 性のあるものだった13(表
-1)。つまり恐慌による 景気不振で,当然市中金 融機関は,産業活動への 投資先を見失っていたこ とが根底にある。とはいっ ても,日銀引き受けは,
32年の100%からダウンす るものの,それらの実態 は72%がボトムである。
つまり市中引き受けは3 割ということだ。金融機関のこの状況は恐慌前の景気不安定の長期化の下で,とくに昭和金融恐 慌によって新たに制度化された1928年銀行法の整備で,周知のように,大金融機関(5大銀行)
への預金集中が展開していたことがあり,その上,1923年関東大震災の際に登場した日銀の特別
0.0 20.0 40.0 60.0 80.0 100.0
1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940
図-27 軍事費と国家
大蔵省「決算書」、経済企画庁『国民所得白書』(昭和40年版)より作成
軍事費総額10億円 国家財政に占める軍事費比率 実質国民総所得10億円 軍事費の実質国民総所得対比
0 1,000,000 2,000,000 3,000,000 4,000,000 5,000,000 6,000,000
1929.1 1930.03 1930.08 1931.01 1931.06 1931.11 1932.04 1932.09 1933.02 1933.07 1933.12 1934.05 1934.1 1935.03 1935.08 1936.01 1936.06 1936.11 1937.04 1937.09 1938.02 1938.07 1938.12 1939.05 1939.1 1940.03 1940.08 1941.01
図-28 日銀券発行高推移 単位:1000円、「日本銀行歴史統計」より作成
正貨準備発行高 保証準備発行高 制限外発行高
13 短期国債発行方式が安易に長期債務に依存せず,多少は利率が高くなるにせよ,財政の赤字体質から脱却する うえで節度を持つことができるメリットが大きいといえよう。もっとも『日本銀行百年史』第4巻,1984年で述 べるように,その手法は,日銀の「機能を奪い去るプロセスの第一歩となったという意味において,まことに遺 憾なことであった。これは本行百年の歴史における最大の失敗であり,後年のわれわれが学ぶべき深刻な教訓を 残したものといえよう。」と評価されてはいる。
融資,震災手形などが累 積していた。これまた周 知のように日銀特融が必 ずしも震災にかかわって もいない債務にまで振舞 われたことも,金融界を 不安定化させていた。銀 行法の整備がこの対策と して登場したことは事実 であるが,この法律によ る銀行界の整理は1933年 までを時限としていたの であるから,まさに恐慌 のさなかに整理も行なわれるという事態が重 なった。実際,日銀に引き受けられた国債の うち7割以上は売却された事実が示すように,
要するに不況下の貸し出すべき対象を失った 銀行の預金が,この引き受けを行った一端を 示しているだろう(表-2)。日銀券発行高を 見ると明らかだが(図-28),1932年7月以降 になると制限外発行はほぼ解消していて,他 方で32年後半以降34年まで正貨準備高はほぼ 同水準を維持し続けている。加えて図-29ド ルと円為替相場に見るように,大幅な円安が 形成され,旧平価基準49㌦7/8㌣から大きく離 れて32年以降の20ドル水準,33年以降持ち直 したとはいえほぼ30ドル台であることによる 輸出貿易刺激効果と,金正貨価値減少を通じ て国内日銀券発行負担の一層の低下をもたら した。
これには高橋の,一つに 保証準備発行限度を1932年 1億2000万円から10億円に 一挙に引き上げ,ほぼそれ によって金正貨準備と1.2億 円の保証準備の合計による 通貨発行という限度が実質 上意味を失う,保証準備額 10億円と正貨の合計に当る 現実に所要の量である通貨 発行がまかなわれて通貨発 行当局に限度を意識するこ とを喪失させ,これを通じ て日銀は制限外発行税負担
0 500 1,000 1,500 2,000
1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935
図―30 日本銀行券発行高(1) 日銀「明治以降本邦主要経済統計」 1,000円
年末 最高 最低 平均
15 25 35 45 55
1928.01 1928.06 1928.11 1929.04 1929.09 1930.02 1930.07 1930.12 1931.05 1931.1 1932.03 1932.08 1933.01 1933.06 1933.11 1934.04 1934.09 1935.02 1935.07 1935.12 1936.05 1936.1 1937.03 1937.08 1938.01 1938.06 1938.11 1939.04 1939.09
図-29 ドルと円為替相場 100円につきドル 日銀歴史統計により作成
ドル高 ドル低 ドル平均
から逃れられた。逆に言えば,
金正貨準備量による限界を意識 する必要がなくなった。まさに 兌換性から文字通りの不換制へ,
管理通貨制度に転換する,日銀 券の不換紙幣化を用意させたこ とであろう。さらに1941年には この制度も廃止し,最高発行額 屈伸制限制度を導入し,翌年の 日本銀行法改正で実効性ある本 格的な管理通貨制度に切り替え られる。こうして図-30のよう に平均発行高で見る限り1928,
29年までのインフレマインドの 日銀券膨張の時期から31年には恐慌に よる落ち込みを経て,じりじり増勢に 向かうが,実は1935年でほぼ29年レベ ルに達した程度であったので,高橋財 政のインフレ政策といってもまだまだ 低水準だったという風に評価できるだ ろう。
それを裏付けるように見えるのが図
-31であろう。36年から37年への急速 な発行増が起点に本格的な準戦時体制 的日銀券増発がさらに進んだ。まさに 周知のように2.26事件が大いなる契機 だったといえるだろうし,日中戦争へ の突入がこれを規定していたと評価で きよう。他方で金正貨の水準は幾度か の評価見直しを含みつつも37年の高い 水準を記録して以降は35年以前と同等 水準にとどまる一方で,保証準備発行 高がほぼ9割方を埋め尽くす状況に なったわけである。
ただ深刻なのは,当時の不換紙幣化 といっても欧米との貿易関係では依然 として正貨決済の必要性があるので,
いわゆる「第三国」貿易問題(基本的 に正貨決済を要する)が依然として日本の通貨危機の要因だったのである。この時期の貿易関係 でもっとも指摘しておくべきことがあるだろう。こうして明らかに日本の経済活動が上向局面に あったところが,アメリカをはじめ恐慌の深刻な打撃を受け続けていたという紛れもない事実で ある。図-32はその一端を示して余りあろう。世界大恐慌はアメリカに甚大なマイナスを与えた こと,他方で,日本は優位に立ったことである。むろん総量規模では到底かなわないにせよ,経 済の活況にとってこれは大きな意義を持ったであろうことは疑う余地はないだろう。この結果と
0 1000 2000 3000 4000 5000
1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 図―31 日本銀行券発行流通高 100万円
日本銀行『明治以降本邦主要経済統計』
正貨準備発行高 保証準備発行高 発行高(A)
表-3 時局匡救事業費の概要(予算) (単位:百万円)
1932 33 34 合計
国 家 負担分
一般会計① 163.2 2213.8 145.4 522.4 特別会計 13.2 16.1 4.6 33.9 計 176.4 229.9 150 556.3 地方分担分 87.5 136 85.1 308.6 総計 263.9 365.9 235.1 864.9 一般会計歳出総計② 3091.4 2320.5 2223.8 6635.7
①/② % 7.8 9.2 6.5 7.9
資料:大蔵省昭和財政史室『昭和財政史』第5巻(東洋経済新 報社,1957)p.264より作成。一般会計歳出総計は大蔵省財政 史室編『昭和財政史―終戦から講和まで』第19巻(統計)(東 洋経済新報社,1978)p.164より作成。
(注)時局匡救事業については原則として1934年度で終わるが,
1935年度以降にも支出がなされている。宮本憲一「昭和 恐慌と財政政策」(川合一郎ほか編,『講座 日本資本主義 発達史論Ⅲ』,日本評論社,1968)p.197によれば,1935 年度支出は,国家負担合計で,40.5百万円
池上彰英「昭和恐慌期における農業問題の激化と経済更 生運動」『農業経済研究報告』20巻1985-03,108頁,第 4表による。
いってもよいのが,貿易活 動の国際比較で,日本が優 位にあったことは図-33に 明らかであろう。貿易面で は恐慌期の落ち込みが小さ かっただけに,原料輸入国 として順調に輸入が伸び,
輸出もこれに沿うかのよう に順調な伸びを示した。と はいってもおおむね米,英,
独に比べてはるかに低位で はあるが,当時の日本経済 の規模からすれば,効果的 な貿易推移であった。
② 救農土木事業,時局匡救事業の推移と効果―補助金政策,農会技術員
農山漁村経済更生運動が展開され,救農土木事業,時局匡救事業に関連してその際,農林省は 当初,更生運動のため,まずは ‘農村中心人物’(中堅人物)発掘に注力した。それが当時の静岡 県立農学校を経て東京帝国大学農学部別科を終了した農林省農務局技師竹山祐太郎(戦後,静岡 県知事)の回想にかかわっている。竹山は後藤文夫農政の指揮の下で,高橋の認識に従って農村 の自力更生に期待しようと全国行脚して中堅人物発掘に努めた。その経費は竹山によれば高橋が 大盤振る舞いで「ポンと出してくれた」という。農村リーダーの発掘がこれである。そして町村 に,経済更生五ヵ年計画を策定させ,農家には家計簿を付けさせることで経済観念を植え付け,
経営の観点から,農産物の5ヵ年のような計画的生産を図らせた。竹山と同様に静岡県立農学校 を経て宇都宮高等農林専門学校を終えて農林省でこの政策の実行に当たった戸倉莞爾(戦後,初
0 100 200 300
1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 図-32日米の鉱工業生産指数
1929~38年まではLeague of Nations, “Statistical Yearbook of the League of Nations”1938/39年報、1948年報
日本 米国
0 1000 2000 3000 4000 5000 6000 7000 8000 9000
1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 図-33貿易額推移
100万ドル1929~33年まではLeague of Nations, “Review of World Trade”1934年版1934~47年まではUnited Nations, “Statistial Yearbook”1948年報
日本輸出 日本輸入 アメリカ輸出 アメリカ輸入 イギリス輸出
イギリス輸入 ドイツ輸出 ドイツ輸入 フランス輸出 フランス輸入
代袋井市長)も筆者のヒアリング(1979年5月)に対して同様の証言をし,しかも農林省では農 村不況克服のために尊徳仕法の勉強会を行っていたという。確かに当時,農林省は全国に檄を飛 ばして,尊徳仕法の学習で,静岡県掛川町の大日本報徳社や報徳道場への修練を要請していた14。
-500 0 500 1000 1500 2000 2500
1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 図-34 農家経済調査(全府県1戸当り)
農林省『農家経済調査報告』
農家支出 農業経営費 飲食費
被服費 租税公課諸負担(賦課額) 農家経済余剰
14 筆者がヒアリングした際に,農林省での勉強会コピーを戴いた(袋井市教育委員会『袋井市史』通史編,1983年)。
0 500 1000 1500 2000 2500 3000 3500 4000
1928 1929 1930 1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944 図-35 農家家計調査 円
農林省「農家家計調査」
農業粗収益 農外収入 作物収入 稲作収入
全国的調査から見ると,農家家計簿を作成した農家戸数は全戸数の三分の一であったので,筆 者はこの運動が実態的には土地所有農家が関わったと捉え,確かにその限りで農家経営の合理性 への関心を高める効果があったであろうと評価した15。そのために前述のように,大日本報徳会 の支援を受けて報徳思想の普及にも努めた。さらに農会技術員を町村役場の職員として活用すべ くその人件費を補助した。対米輸出生糸価格の半値に近い大暴落には,養蚕業のための桑畑に果 樹,蔬菜などの栽培を奨め,養豚,養鶏など多角化していったのもその農村救済の措置であった し,そのためにも農村の技術改良等の支援が必要でもあった。小規模在村地主を基調とし,多角 的な商品作物が近世後期以降展開され,比較的安定的であった静岡県西部地域にあっても,大恐 慌期,養豚,養兎,養鶏などが多彩に展開することは筆者も検証したところである16。養蚕業地 帯の典型である長野県,山梨県ではブドウ,ナシ,リンゴ栽培等の取り組みがよく知られる。こ の経済更生運動の展開が大きくなったのは,一つには各府県農会が先行的に行なっていた取り組 みがあり,特に兵庫県農会長の山脇延吉(1875~1941,「自力更生」を打ち出したことで有名,1939 年帝国農会副会長)らは先駆的であったと,筆者に生前(1980年5月)の竹山祐太郎は証言して いる17。その上,農林大臣が内務官僚出身の後藤文夫(1884~1980,新官僚の代表,農村匡救運 動を指導,後に大政翼賛会副総裁)であったこと,さらには報徳思想に多くを学んだ石黒忠篤
(1884~1960,小作争議調停法,自作農創設維持政策を推進,石黒農政と呼ばれる)という農政の ベテラン,それに小平権一経済更生部長(1884~1976,農政課小作分室長として石黒忠篤農政課 長とともに小作立法に取り組む。後に経済更生部長,農林次官,「協同組合主義農政」を推進)と いうトリオであったと回想は続く。要するに従来の農林行政を中核とした展開から内務省を包含 した展開であったことへと全国を巻き込む力になったというわけである。運動としては,指導の 責任は農会,経済実行の責任は産業組合という役割分担方式であった。
周知のように救農土木事業,時局匡救事業は,中央財政から,府県財政,市町村財政へと展開 する補助金システムと,事業実現のためには末端自治体が自らの計画化に当たっての財政措置を 必要とする一方,その不足分を地方債によって補填し,これらの合計を準備することで,中央か らの補助金を受け取ることを可能にするという方策であった。むろん自治体が必要とする公債金 額については内務・大蔵両省によって査定・監督を受ける(金額の減額等)というシステムが背 後に控えていた。このために自治体は折からの恐慌による税収減と相俟って,苦境に陥るという ケースはしばしば生じている。それは筆者の静岡県下の地域調査でも知ることができた18。地域 史料を通覧していて気づくのは,地域住民の無償の働きで,水路工事などが取り組まれた事例が あることである。例えば静岡県磐田郡豊浜村(現磐田市豊浜)町村道の道路橋梁改築工事1,062円 24銭の経費のうち県費補助金796円68銭,町負担金265円56銭とあり,この場合,後者の負担金は ちょうど25%に当たる。むろんこれには詳細な費目別経費,工事事業者の請書が付されているの でこの事業の仕組みがよくわかる。また従事する様々の職種に当たる人夫の単価は常に80銭ある いは90銭で固定されて人件費の計算がされている。これは町村道の道路橋梁改築工事費用一覧に よる。この県費補助金の一部は国庫補助金から充てられているはずである。しかも工事形式とし ては「部落請負」とされている。また福田地区の「農村振興土木事業労働者使役状況一覧表」に よれば,道路工事に481.4人の使役が行われ,一人あたり賃金として90銭が充てられた。つまり他 の資料の使役(出役とも表現されているように)氏名一覧から見ると部落住民がほぼ一日ずつこ れに当たったということになる。1930年段階の日雇い賃金が通例1.6円と記録されているので,ま
15 山本義彦「経済更生運動と『満洲』移民」『近代日本資本主義史研究』第10章,ミネルヴァ書房,2002年を参照。
16 最初は袋井市教育委員会,前掲書。
17 その趣旨は竹山祐太郎氏『自立』1976年にも記載されている。
18 例えば,前掲『袋井市史』通史編,1983年。
さに「出役」としての地域住民の奉仕への報酬としての90銭ということであろう19。特に準戦時 の1930年代後半にはこうしたうごきが顕著になる。また旧周智郡天方村(静岡県周智郡森町)の ように,経済更生運動で補助金をあてにしつつも財政支援の不足をやむなく労賃の地元負担,つ まり村財政で充当困難なので本人負担(無償労働)で切り抜ける,あるいは周智郡三川村(袋井 市)のように村や小学校基本財産の積戻し年次のくりのべが行なわれて,住民負担の軽減を図っ た20。この面は意外にも指摘されることが少ないように思われる。
要するに救農土木事業は確かに政府の補助金が地域に配布されるが,その場合先ず地元が行な う事業を提示し,それへの補助金を政府が定めるとき,地元財政でどの程度負担できるかによっ て金額が定められる。その際に町村債を設定するが,それも地元の租税収入の今後を考慮して設 定せざるを得ないし,公債額の設定で政府の判断によって定まるので,どうしても国の補助金額 と負担割合の改善がない限り,地元負担の不足が生じることもありうる。その結果,労賃支払い が低額あるいは,皆無,ということは特に後半以降生じたことを,これらのことが示しているで あろう21。ここでも井手前掲書統計表序-4「時局匡救事業費」(既出)の取りまとめによる一般 会計で見ると1933年がピークであった。そのうえここでも陸海軍が重要な役割を果たしていて,
果たして国内の「時局匡救」とはいったい何であったのかと疑わせるほどではあったが,当時の 財政力では決して無視しえない金額であったことも重要だろう。またこのほぼ二年半を見ると農 林省より,内務省に手当てされた部分が大きいということもわかるだろう。それは土木事業に費 やされたことが大きく,先にも述べたようにこの時局匡救事業の本質が実質的に農村救済にまで 至らず,農村救済は,1936年以降の経済更生特別指定村の導入まで待つほかなく,高橋財政の当 初は土木事業優先であったことを示すものであろう。これをさらに池上彰英のとりまとめた表-
3「時局匡救事業費の概要」によると,この事業費の国家負担分と地方負担分が後者が前者のほ ぼ半分であった。また一般会計歳出総計に占める国家の事業費一般会計の占める割合は6.5%から 9.2%という実態であった。こうした地域の公共投資で,国庫補助金制度が大きく役割を果たし,
しかも自治体の財政能力の実態に即して,公共事業費の一定部分を地方公債で手当てさせる方法 がとられたが,同時にその金額設定には内務・大蔵両省の点検査定によって公債金額を定めてい た22。実際にこの間の農家経営等の概況を図-34農家経済調査と図-35農家経営調査で見ておく と,明らかに1931年に激減して後,漸増を遂げ,飲食費はさすがに強行の落ち込みは少なく,漸 増を遂げ,わずかとは言え農家余剰も形成している。それも37,38年以降には急増している。農 業粗収益の増勢と作物収入の増勢に対応して稲作収入が増加しているが,農外収入は伸び悩んで いる。これは一般産業の成長は見られるとしても,工業編成は重化学工業化が進むにつれて,熟 練度の高い労働を必要としたことや中小零細商店経営が増加したとしても短命に終わるケースも 置く,農業人口がそれらを当てに生きる環境がなくなったこととともに,農業それ自体の経営状 況の改善が農外収入を得ることの積極的意味を失いつつあったことの表れでもあろう。
後期は,高橋自ら,財政引き締めの方針を持っていたことが大きい。とはいえ確かにこれら事 業費が手当てされた高橋財政の当初の規模は,明らかに相対的に見て大規模といってよいが,以 上の連関の下で自治体は苦労を強いられた一面があったことも事実である。また救農土木事業に ついても,上述のように,確かに末端には農業用水路開発などの面で,一定の賃金支払いを伴っ
19 「昭和七年十一月十九日提出時局匡救耕地拡張改良事業申請書控 農林省関係小用排水事業小設備事業 指朱令書 書 福田区」『昭和七年度時局匡救土木/農村振興土木事業重要書類綴』静岡県磐田市公文書館所蔵。
20 いずれも筆者の編さん執筆になる静岡県周智郡森町史編さん委員会『森町史』通史編,下,1998年,静岡県袋 井市教育委員会『袋井市史』通史編,1983年,『袋井市史』史料編四近代現代,1983年の史料105ほか静岡県福田 町史編さん委員会『福田町史』資料編,近世・近現代続,2006年など。
21 静岡県磐田市教育委員会『福田町史』通史編。
22 前掲,『袋井市史』通史編,参照(筆者執筆)。
たので,その分,地域経 済に貢献したといってよ いが,当時も猪俣津南雄23 が見事に指摘していたよ うに,国からの補助金が 実はセメント業界などに
「中間搾取」されて,下り てくるから決して「多額」
ではなく,すずめの涙だ という評価があった。し かしこの評価は当時のも のであり,時評としては 一定の効果があるし,一 定の政治批判として有意義である反面,歴史的に捉えた場合,そうした施策が政治的に展開され たおよそ大規模なものとしての効果を論じることを妨げるものではないだろう。
これらの施策と共に展開された農林省の経済更生運動があるが,1937年までの前半では,地域 自治体に対して農家家計簿奨励運動と農会技術員の雇用給与を支える程度に止まり,農業それ自 体の救済よりも自立的経営取り組みを奨励する面が大きい。これについては後藤農政の下で,農 林省を代表して農林技官の立場で全国各地に農村中堅(中心人物)の発掘に走り回った先の竹山
(1901~1982)の回想によると24,高橋是清蔵相が「ぽんと10万円を出してくれたので全国回りが できた」という。高橋是清は物に対する助成ならば断るが,人物探しには推奨したとのことであっ た。これは人物養成費助成金であった(この点,前掲竹山著書の直後,1981年,筆者がヒアリン グした当時「専門家は私のことをフアシズムの尖兵と評価されるらしいが,自分としてはそのよ うな認識は当時も今もない」と断言していたことが印象に残る。そればかりか推進者であった石 黒は,東條英機を忌避し,東條からはアカ呼ばわりされたとさえ述べていた)。筆者のヒアリング 内容は「農山漁村経済更生運動正史」25とも見事に重なっている。
少しこの関連経費のたどった道を見ておこう。
1932年度予算は満州事 件費2億9,000万円,時局 匡救費2億6,000万円と いうから当時の出発点と して大きい。しかも一般 会計歳出が19億5,000万 円(前者は約15%,後者 13%)であった。また一 方で一般会計に計上され た公債は4億5,000万円,
31年度の15倍であった。
こうして32年度公債発行 総額は10億円で,その半
23 猪俣津南雄『踏査報告窮乏の農村』1934年,のち岩波文庫
24 竹山前掲『自立』1976年。
25 資料集第1号,1976年4月の竹山祐太郎「資料1.農山漁村経済更生運動の経過」
(http://www.nouchi.or.jp/GOURIKA/pdfFiles/etc/A03/A03_04.pdf)
-500 0 500 1000
1931 1932 1933 1934 1935 1936 1937 1938 1939
図―36 日本銀行券還収要因(1) 100万円 日本銀行『明治以降本邦主要経済統計』
対政府収(-) 支 対民間収(-) 支
その他収(-) 支 日銀券入(-) 出超
-2000 0 2000 4000 6000 8000
1937 1938 1939 1940 1941 1942 1943 1944
図-37 日本銀行券還収要因(2)100万円 日銀『本邦主要経済統計』
対政府収(-) 支 対民間収(-) 支 その他収(-) 支 日銀券入(-) 出超
分が満州事変公債というわけであり,32年11月から日銀の公債引受が実施され,その後の公債依 存財政の道を容易に掃き清めることになったのは事実であろう。もっともこれまた周知のように,
高橋自身が,このシステムを一時的景気回復策として提起したことから,その後を見通してのも のとは言いがたい。実際,時局匡救経費は34年度の軍事費優先もあって減額に,35年度には消滅 に転じている。
その推移は1932年度から34年度までで約6億円であった。34,35年度の災害対策費を加えると約 8億円であった。34年度の減額に対して風水害対策費として2億3,000万円が計上されている。時 局匡救経費はそもそも3ヵ年度をめどとしているから当然といえば当然ではあった。日銀による 公債引受も32年11月の2億円から始まって35年末には総発行額の82%が日銀引受け(表-1),36 年度末までの満州事件費関係で10億7,000万円,一般会計の歳入補填23億7,000万円,その他を含 め発行総額75億3,000万円,これに対して時局匡救経費は,「救農土木事業を中心とする時局匡救 予算として総額約16億7千万円にのぼる費用(1932年度約2億6千万円,1933年度約3億7千万 円,1934年度約2億4千万円という事業予算と,各種低利融通資金の8億円である。事業予算は 各年度の一般会計の10~16%に相当する金額)が計上される」26。満州事件費と時局匡救事業費を 表-3と表-4と比べてみても1932年で前者が282百万円に対して,後者は国庫負担分で176百万 円であり,特に時局匡救経費の場合,国庫負担に加えて地方分担分があり,これを加えると263 百万円であった。端的に言って,満州事件費と匡救経費はそれほどの遜色のないほどの財政支出 だったことがわかる。現に1933年では満州事件費101百万円,時局費用は366百万円に急増してい るのである。34年も前者162百万円,後者が235百万円,しかも一般会計歳出中に占める後者の比 率が7.8%,9.2%,6.5%,7.9%で相当に大きな負担をしていることが明らかだろう。今日の財 政規模と関連させてみてもこの6%から9%がいかに大規模であるかがわかるだろう。具体的に 言うと2018年度の一般会計歳出構成で,公共事業費が6.1%,文教及び科学振興費が5.5%,防衛 費5.3%であることと対照すれば明らかであろう27。
ところでこのように急増した日銀引受公債が,万一,そのままに地銀に止まっていれば,当然,
日銀券の増発ということになるだろう。それによるインフレーションの激化は不可避である。し かしそれほどの物価上昇を招かなかった事情がある。それは次の図-36日本銀行券環収要因⑴を 見れば明らかであろう。対政府収支でも,日銀券入出超でも相対的に停滞していたのが1933年前 後であったからである。金1匁(3.75g)が貨幣法では5円であったものが,実に11円6銭(2 倍超)に引き上げられ,端的に言えば,日銀引受け国債の大半が売却されたことから,当然引受 け手があったわけである。それは即ち,大恐慌で,金融機関が集中していた貯蓄が,産業界への 貸付に回る環境がなかったことから,市中民間銀行がこれを買い受けたことがあったために,日 銀券の必要以上の発行増加を生まなかったと見ることができよう。その期間はほぼ1935年まで持 続したから,高橋財政前期にとってはまさに希貨としてよいだろう。その上,国際的に見ればそ れほどではないが,国内的に見ての低金利政策が,国債増発を可能としたことはいうまでもない だろう。発行主体である国家への負担感を低めにできるからである。しかも政策的な景気浮揚策 を採用し易くすることになる。同じ資料による図-37⑵を,その後の時期まで点検しておくと,
対政府収支では特に1938年から40,41年にかけて対政府支出が増勢を示し,その後,42年急転し て低下,43年以降は以前のやや低いとはいえ上昇した。これに対して日銀券は38年から42年はほ ぼ同水準の後,43年以降は急増を遂げた。日銀券の目立った増勢は当然,軍事公債の増強に依る であろう。しかもこの軍事債券は,愛国債券と称しての自治体ごとの割り当ての個人引き受けの
26 並松信久「農村経済更生と石黒忠篤―報徳思想との関連をめぐって―」『京都産業大学論集』社会科学系列第22 号,2005年3月,113頁。
27 他に池上彰英「昭和恐慌期における農業問題の激化と経済更生運動」『農業経済研究報告』東北大学,20巻1985
-03,108頁第4表
強制を伴っていた。その割り当て方を具体的に当時の資料で捉えてみると,当該町村の税収の総 額比率に合わせてまず府県からの目標債券引受額が決められていた28。
③ 低金利政策
そこで低金利政策について以下,『日本銀行百年史』第4巻を参考に,点検しておく。1932年3 月12日,日銀の公定歩合は2厘引き下げ日歩1銭6厘としたものの,効果が見られず6月8日に 日歩1銭4厘とした。しかしこれでも効果は見られなかった。要するに低金利にしても借り手が 寄り付かなかった,いわば寄り付く必要がないほどに借金を要する新規投資の必要性がなかった だけのことである。その後,非常時財政を開始し32年6月,8月の臨時議会で追加予算,金利引 き下げに打って出た(図-38)。郵便貯金金利引き下げ,市中銀行の金利引き下げを経て33年7月 3日,日銀,市中銀の同時金利引き下げで日銀公定歩合は日歩1銭にまで落とした。公債利率も 32年11月には5分から4分5厘,33年9月から4分に引き下げて低金利と統制インフレ政策の緊 密な連携への道をとった。さらに34年1月から6月にかけて,政府資金の大量撒布,4分利国債 による公開市場操作,こうして国債は33年9月以降,日銀引受け分で利率4分,価格98円50銭,
期限25年から27年で,利回りの最低水準にいたった。34年7月以降には,公開市場操作の行き詰 まり観が醸成され,悪 性インフレの懸念が出 てきた。結局,ここで も低金利政策が有効に 機能したと思われたの が遊資にあったのであ る。遊資は国債を買い 取る背景だったことが わかる。要するに生産 的効果(製造業への新 規投資向けの資金借り 入れなど)をもたらし ているわけではなかっ た。
筆者の認識により,
昭和初期の普通銀行の 収益状況を日銀調査29 により捉えてみると,
まず図-39によって預 金コスト,貸出及び証 券利回り比較では何れ も傾向的に逓減を示し ていることがわかる。
特に1930年から32年前 半期までの何れも5%
を超える高水準であっ
28 静岡県焼津市『静岡県焼津市史』通史編,下巻,2006年,第一編第四章筆者担当部分。
29 日本銀行『明治以降本邦主要経済統計』。
3 4 5 6 7 8 9
図-38 日本銀行金利 % 日本銀行『本邦明治以降主要経済統計』
商業手形割引歩合
国債を抵当とする貸付利子及び国債を保証とする手形割引歩合(b)
国債以外のものを抵当とする貸付利子及び国債以外のものを保証とする手形割引歩合(b) 当座貸越及びコルレスポンデンス貸越利子
0.000 1.000 2.000 3.000 4.000 5.000 6.000
7.000 図-39 普通銀行損益状況-預金コスト・貸出及び証券利回り比較 日
銀調
預金債券コスト計(A) (%) 貸出・コールローン利鞘(c) (%)
証券利率(e) (%) 貸出・コールローン・証券(f) (B) (%)
利率(B-A) (%)
たのに対して,その後 は急低下を示し,1934 年前半期の預金コスト 4.5%程度から,下落を 早め36年後半期では 4.0%以下に落ち込み,
1943年前半期3.376%
へと低下してゆく。利 益率の点では,1930年 0.422%から36年後半 期まで,0.470%と推移 しており,43年前半期 0.786%,45年前半期0.801%へとやや上昇している。こうして銀行界は戦時下に,一定の利益保 証を受けつつ経営していたことが示される。これを図-40によって平均払込資本金に対する損益 率・配当率の推移で捉えると以下のようになろう。純益率では1931年後半期の恐慌による落ち込 み以降,1942年前半期までおおむね上昇傾向を記録している。準戦時,戦時を問わず,銀行界は 純益に見る限り,一定の上向的安定を示し,特に経常利益率の上昇は目覚しく,1936年以降の戦 時体制化の下で,急速に上昇を示し,これに対して,配当は著しく安定的に推移し,かつその率 は6.97%(30年前半期)から7.32%(44年後半期)であった。これらの推移は,この1930年代前 半は大恐慌の影響を受けて,銀行界が実業界に対して,貸出利益を獲得することが厳しく,その 代わりに国債の引受で利益保証されていたこと,準戦時体制から戦時体制の本格化で実業界の軍 事型投資の進捗を通じて,銀行家は,その貸付先を見出すとともに,戦争の進行で配当率の支え が急速に進んでいったことが鮮明であろう。
④ 保証準備発行限度の拡大―1億2000万円から10億円へ
この政策は実践的に,先行する実態が1億2000万円の保証準備発行限度を超えて10億円前後の 日銀券が発行されていて,それだけ多額の限外発行税を支払わせてきたあり方を代えて,先に述 べたように,日銀負担を縮小するために,
事実上先の10億円にまで保証限度額を引き 上げた。1932年7月1日以降に,これを実 施した。すでにその動向を日本銀行歴史統 計によって作成したが,明らかに,この保 証限度額の大幅引き上げで,日本銀行はた しかに,制限外発行税を納入することなく,
日銀券増発を容易にした姿が見て取られよ う。ある意味で,見事に,実態に即した金 本位制からの離脱の過程と指摘することが できよう。
そもそも金再禁止以降,円価値は,下落 しているので,限度10億円というのは,金 本位下の水準によっている数値であるので,
実質的に見て,海外での評価に照らせば,
100円=49㌦7/8㌣の平価標準から100円=40 ドル水準にいたったときには海外での評価
-20.00 0.00 20.00 40.00 60.00
F.H.1930 L.H.1930 F.H.1931 L.H.1931 F.H.1932 L.H.1932 F.H.1933 L.H.1933 F.H.1934 L.H.1934 F.H.1935 L.H.1935 F.H.1936 L.H.1936 F.H.1937 L.H.1937 F.H.1938 L.H.1938 F.H.1939 L.H.1939 F.H.1940 L.H.1940 F.H.1941 L.H.1941 F.H.1942 L.H.1942 F.H.1943 L.H.1943 F.H.1944 L.H.1944 図-40 普通銀行損益--平均払込資本金に対する損益率・経常収益率・配当率
(日銀調『明治以降本邦主要経済統計』)
純益率(%) 経常収益率(%) 配当率(%)
表-4 満州事件費 (単位100万円)
一般会計 内陸海軍費 特別会計 合 計
1931 75 70 1 76
32 278 265 4 282
33 196 190 5 101
34 158 153 4 162
35 183 179 4 187
36 204 200 4 208
37 267 264 2 269
38 129 128 ― 129
合計 1,489 1,449 24 1,513
備考 帝国決算統計による 同書 25頁