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記 紀 歌 謡 と 定 型

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(1)はじめに. ‑. 宮廷歌謡の成立をめぐって. 記紀歌謡と定型. 1. 西. 候. 五音七音のリズムによって成‑立つ和歌形式が'記紀の歌謡に母体をもつことについては今さら云々するまでもな. (記紀の歌謡丁引用者注). 淵源を有してゐる」と記されてい. い。近代的な和歌史研究の晴夫となった佐佐木信綱の ﹃和歌史の研究﹄ (一九一五年'大4) にも'すでに「実に後. とを基本としているといってよい。. たとえば'五十嵐力が「対待偶数式」から「対待添句奇数式」. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. (. ‑. ). (歌われる/歌われない). (. 2. ). という観点から区別したものである。この一見そぼ‑な観察. は謡いものである歌謡が文字に書き取られるときに成立した'とするのが武田祐吉の定型成立論であった。このよ. (3). は'歌謡=音楽とは異なる詩としての和歌の本質を正し‑捉えていた。これを文字化の問題につなげて'音数律定型. いうテーゼも'歌謡と和歌を. ら記紀歌謡の歌体分析を通してであった。久松潜一の有名な「歌はれな‑なってから五七音の定型が成立した」と. への展開の中に定型の成立を想定したのは'もっぱ. る。この後につ、づ‑いわゆる和歌起源論は音数律定型の成立を'すべて記紀歌謡から万葉歌への流れの中で捉えるこ. 世進歩発展し来った凡ての韻文は'いづれもここに. 記紀歌謡と定型 13.

(2) 14. 第74号 専修国文. うに'記紀歌謡の形態を分析することで和歌成立の問題が盛んに論じられた大正末から昭和初期は'一方で、福士幸. 次郎や土居光知・相良守良らによって'日本語韻律論のもっとも重要な論文が書かれた時期でもあった。. (4). のカテゴリーから和歌の起源に迫ったこと. そういった前代の遺産は、戦後になると土橋寛の一連の仕事によって新たに捉え直されるようになる。和歌起源論 における土橋説の意義は'記紀歌謡の枠を超えて共時的な(歌謡‑民謡). であった。しかし'それが必ずしも前代の遺産を有効に継承していなかったことに関しては'別の拙論で述べた通り. である。土橋説に基本的に欠如し、また'五十嵐や久松・武田らの各説に予定されていたのが韻律論であった。そこ. 記紀歌謡の実態. で本稿では'韻律論的な角度から記紀歌謡の歌体を分析するための予備作業をしてみたいと思う。. 二. いったい'記紀歌謡の歌体を分析することで何がみえて‑るのか'あるいは何をみようとするのか。むろんそこに. 定型の誕生するプロセスを見ようとするのであるが'そういった目論みをもって接近するには'記紀の歌謡はかなり. 面倒な問題を抱え込んでいる。記紀に記載されている歌謡はけっして歌われたままの姿ではないからだ。この厄介な 問題をはじめてまともに見据えたのは武田祐書であった。. ﹃琴歌語﹄を見ると'歌曲名詞の下に書いてある歌詞と'琴の譜中にある歌詞とは違う。譜中にあるのが実際歌. ﹃日本書紀﹄巻三にある「神風の伊勢の海の」の歌のご. われた詞とすれば'曲名の下のは'それを整理したものである。﹃古事記﹄ ﹃日本書紀﹄ における歌謡も'大体こ. (5). の整理された結果が載っていると認められるが'中には とき'整理されない形に近いものと見えるのもある。.

(3) つまり'テクストの中できれいに五句体に整えられている短歌形式の歌謡も、それが実際に歌われるときには引音. だとか繰り返し・聯し詞・感動詞など、旋律的もし‑は音楽的な要素が様々に加えられているのであって、そのよう. な律動性のある表現こそが歌謡ほんらいの姿であった。記紀に記載されている歌謡は'そういった音楽的な側面を削. ヽ. ヽ. ぎ落とし'意味の脈絡が単線的に記述されているだけである。記紀のテクストに記載されているのは歌謡そのもので. はな‑'厳密にいうなら歌詞にすぎない。武田祐吉はこのような認識をいっそう押し進めて'歌うことから文字に書 ‑ことの中に定型が成立することを、論理的かつ実態的に明らかにしようとした。. 久米常民も ﹃琴歌譜﹄ を活用した考察を行って'五句体の短歌形式が歌謡の文字化によって生じたものであること. (6). を確認しっつ、「現に記紀に見るその歌謡の記述詞形のみのよって'上代歌謡l般を論じ'歌謡から定型和歌への推. 移・発展などを論じようとするのは危険である」と述べている。記紀に記載されている歌謡と「上代歌謡一般」す. 「記. なわち声によって歌われる生きた歌謡との混同が批判されてお‑'武田説が直に引かれているわけではないが'それ. をいっそう発展させた論である。この指摘は尊重しなければならないであろう。よって'本稿の以下の論述では. 紀歌謡」といったばあいは'文字通‑記紀のテクストに記載されている歌に限定して用い'それを不用意に「上代歌. の名. 載されている歌詞形態から句数や音数の統計的な数値を算出し、それによって定型の成立を明らかにしようとする研. のテクスーに記載されたからには、それらはじっさいに歌われた歌謡そのものではないのだ。したがって'記紀に記. で呼ばれているのは'たとえ宮廷の大歌として歌われたことが確実視されている曲名付きのケースであっても、記紀. しているのではないというとは'定型成立論のもっとも基本的な前提とすべきであろう。いわゆる「記紀歌謡」. 武田=久米説が説得力をもつのは、何といっても ﹃琴歌譜﹄ との照合が大きい。記紀の歌謡が歌われたままを筆録. 謡」だとか「古代歌謡」と混同しないように注意したい。 記紀歌謡と定型 15.

(4) 究には. 疋の留保が必要となろう。定型の成立を論ずるばあい'記紀の歌謡はもっとも貴重で'なおかつもっとも豊. を確認してお‑必要がある。. 富な資料になるわけであるが'その資料的な価値をわきまえておかないと誤った結論を導きかねない。まずはこの点. 記載された歌謡がほとんど五音七音の定型になっているのならともか‑'文字化されても'まだ定型以前の姿をとど. 0/7、四句体の2/0'六句体の3/2. をはるかに凌いでおり'七句を超える長. 9で、記紀とも半数近‑が短歌体になっている。この数値は' (うち2/Zが旋頭歌). である。このうち五句形式が46/6. 三句体の1. 3/3. 2にとどまる。したがって岡部がいうように、記紀歌謡の中で「短歌という歌体‑名前はともかくとし. 歌形式も3. (記/紀'以下同). 化している日本古典文学大系﹃古代歌謡﹄ (土橋寛校注) に基づ‑岡部の数値で示すと'記紀の歌の総数は112/1‑8. (7). 首の句数が見方によって区々であ‑、そのため'句を構成する音数の捉え方もかなり流動的であるが'もっとも一般. の対象は主として句数と音数に絞られている。記紀歌謡は歌数の認定からして不確定要素を含むだけでなく'一首一. う。これらの研究は'記紀歌謡の歌詞形態の分析から和歌成立以前の韻律形式を明らかにしようとしたもので'分析. そこで、武田=久米説によって否定されたかにみえる藤田徳太郎・次田真幸・岡部政裕らの仕事を振‑返ってみよ. これを非定型の歌に焦点を合わせると別の側面が見えて‑るであろう。. のである。この説はあ‑までも'記紀歌謡のなかの定型化された歌に焦点を合わせたときに成り立つ見方であって'. ようにはなっていないので'武田‑久米説はけっして万能ではな‑'ある限定された範囲においてのみ有効性をもつ. 米説をしかつめらし‑適用すれば'記紀に載る歌はすべて定型になっていなければならないはずである。むろんその. めている歌が数多‑記載されているからである。声の歌が文字に書き取られたとき定型が成立する、という武田=久. けれども'だからといって記紀歌謡が定型以前の歌謡の姿を捉える上で役に立たないというわけではない。記紀に. 第74号. 16. 割引司文.

(5) て'その実態が一意識されつつあった」ことは確かであろう。総数に対する五句体の占める割合をみてみると'記= 42%'紀=54%となり、紀歌謡の方が短歌体の割合が高‑なっている。. さらに'岡部の調査を借用して一句の音数をみると、絶句数l〇三八句の古事記は五音句淵'七音句3'六音句. 1‑5'四音句117の順となり'五音七音の句が七割近‑を占め'それに近傍する四・六音の句を加えると総句数の九割強. にのぼる計算になる。総句数九二二句の書紀では七音句誠、五音句轡六音句116'四音句62の順となって'五音七音. 句への集中が一層はなはだしい。このことは'五句体の割合が記よ‑も紀の方が高かったのと連動するとみてよいだ. こと. ろう。記と紀のこうした違いについて藤田は'記の方がはなはだヴァラエティーに富んでいて'それだけ原始的であ. (8). るのに対して、紀は整備され'より和歌的な性格に近づいてお‑'「記1紀1万葉の順に歌が発展して行った」 の裏付けとしている。. 表面的にみればそんなところであろうが、記と紀の違いはさほど対立的なものではない。大筋として五音・七音へ. の集中が著しいことでは'両者とも共通するといってよい。次田真幸も短詩形に関してこれと同様の数値を示してお. へ進展したために起こった現象であ. り'定型確立以前に用いられた四書・六音句は'後に五音・七音句の奇数句に整頓され'偶数句は淘汰されたことを そういった整頓や淘汰は'歌われる歌謡から「文字的詩歌」. と'和歌. (即ち文学的詩歌). との分化の起こらない時代の歌で. 従って'上代の歌謡及び万葉の和歌を通じて'音数律の変化発展の. (即ち音楽的謡ひ物). あ‑'日本の和歌の母胎でもある。(中略). 所謂上代歌謡は'未だ歌謡. るがへ次田がこの結論を導き出すのは'記紀歌謡に対する独自の見方があったからである。. 両面を形作ってゐる」と述べている。詩形の整頓・淘汰が文字化によって促進されたというのは武田=久米説に重な. り'「謡はれる歌から眼で読まれる歌への発展と、音楽及び句数上の未定形から定形の成立固定化とは'同一変遷の. 指摘した。そしてへ 記紀歌謡と定型 17.

(6) 第74号18 専修国文. (9). 経路を究明することは'やがて五七調の発生・成立・固定に至る過程を解明する'唯一の実証的方法ともなる。. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ここに「上代歌謡」という用語が使われているのは'記紀の歌謡がそのまま上代の生きた歌謡とみられているから. である。これは藤田徳太郎や岡部政裕のばあいもほぼ同様であった。そういった認識がなんとな‑通用していた時代. があったわけである。次田の独自さはそれを歌謡と和歌の未分化状態において捉え'その未定形な句数と音数が定型. に向かう「音数律の変化発展の経路」を究明することによって'定型成立の過程を解明しようとしたところにある。. 文字化の問題は、そういった変化発展を促すひとつの契機として捉えられている。ただし'作業の中心はあくまでも. 記紀の歌謡にみられる句数と音数の調査であ‑、その多様さが収赦していく方向に考察の焦点が定められている。統. 計的な数値に関しては'当然'藤田や岡部のそれと近似したものになっており'また、記の歌謡を原始的とみる藤田. の考えとも重なるところがある。次田はそれを'なんとか定型成立のプロセスとして把握しようとした。. けれども'その構想はうま‑成功したとはいえないようだ。記紀歌謡の句数と音数の調査から割り出されたのは'. ﹃日本詩歌のリズム﹄. によって実証された心理学的説明が援用されている。これは、四・六・八音. ( 1 0 ). 右に紹介したように一句の音数が五音七音に淘汰される傾向と、それを促した要因としての文字化であるが'その他 にも'相良守次の. の偶数リズムよ‑も'三・五・七音の奇数リズムの方がよ‑快適なリズム意識を覚えるという心理学的な実験を多角. 的にレポートしたもので'現在においてもその意義を失わない重要な仕事である。しかし'次田の論のなかではこの. 心理学的な説明と文字化の問題が'音数律定型を生み出す内的な要因として有機的につなげられておらず'そのた め'定型生成のプロセスが具体的に描き出せていない。. LかLt. ともにどこかに欠陥を含むようである。ふたつの説はどのように評価. 武田・久米のいう(記紀歌謡≠古代歌謡) の説と'次田の (記紀歌謡=未分化)説はそれぞれ仮説としての有効性 を一定程度もっているわけであるがt.

(7) ヽ. ヽ. を確定しようとしていることである。武田=久米説では'記紀歌謡がはっき‑と文字言語のレヴエルに. すればよいのであろうか。まずいえるのは'両説がともに記紀歌謡の位相(連続して展開する事象のあるレヴエルに おける様相). 位置づけられている。このことは妥当な措置であろう。ところが'文字言語の水準にありながら音数律定型に固まら. ない'いわば前・文字言語的な様相をみせているのが'記紀歌謡のあ‑のままの姿である。一方、次田説では記紀歌. 謡を未分化で始源的なものとみるので'それは前・文字言語の水準で捉えられているわけだが、五音七音への淘汰は. 文字の介入によって生じた現象であるとされている。次田の調査が示すように、記紀の歌謡は五七調への淘汰が目立. って進行している段階にあるので'それは前・文字言語の位相と相容れないものであるといわねばならない。いった い、記紀の歌謡をどのようなレヴエルに位置づけたらよいのか。. これまでの研究では、こうした根本的な問題が十分に議論されていなかった。その理由の一端は'戦後の古代歌謡. (記紀歌謡)をトータルに捉える視点が見失われてしまったからである。代わりに盛ん. 研究を牽引した土橋寛の仕事にあったと思われる。そこでは記紀の歌謡が「独立歌謡」「物語歌」「芸謡」などの実体 に分解されたため'いわゆる. になったのは'歌謡を物語とのつなが‑で読み解‑ことであるが'こういった研究は和歌起源の問題を周辺に遠ざけ ることになったといえよう。. むろん、土橋学説にも和歌起源論が含まれている。それを要約していえば'集団的な掛け合いで歌われる歌謡が独. う。これは 「独詠的・個人的な創作歌」を「定型和歌」 に置き換えれば'藤田徳太郎や次田真幸らの分析結果とさは. っている。土橋説の趣旨からすれば、記紀歌謡は独詠的・個人的な創作歌の水準に向かっているということになろ. る。しかし'記紀では土橋が歌謡の阻型に想定するような四句体歌謡はご‑稀であり、もっぱら五句体が優勢にな. (‖). 詠的・個人的な創作歌になるに伴って'村立的な四句体の様式が統一的な五句体に変化してい‑'という図式にな. 記紀歌謡と定型 19.

(8) 第7453・ ZO 酎I参国文. ( 1 2 ). どかわらない。ところが'土橋説には音数律定型の生成を捉える視点が設定されておらず'あたかも'民間歌謡の段. 階からすでに五音七音の音数律定型が成立しているかのように立論されている。韻律の面で民謡と和歌を連続的に. の本質を明らかにするところに置かれていた。そ. 捉えるのが土橋説の特徴なのである。けれども、これは実証的な裏付けを欠‑ので'学説全体を揺るがしかねないア キレス臆ともなっている。. そもそも'土橋説のねらいは'共時的な概念として「古代歌謡」. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. のため、「記紀歌謡」という概念はむしろ積極的に解体されねばならなかったのである。これはこれで問題となるが'. 「記紀歌謡」. の枠組みから解き放され'テクストとは別次元の. 「古代歌謡」という範型に還元されてい‑わけ. より根本的にいえば'土橋説の一番の弱点は還元主義的な方法が採用されていることである。テクストに記載される 歌々は. である。こういった措置を通して'記紀歌謡はその固有の位相を失うことになる。記紀の歌謡に関しては'そういっ. 記紀歌謡の位相. た状態がいまも継続していると考えられるので'あらためて記紀歌謡の位相を見定めてみる必要があろう。. 三. 記紀に載る歌謡の素性を一つ一つ洗い出してい‑と'たしかに土橋がいうように'歌垣の歌だとか酒宴の歌'ある. いは物語のために創作されたと思われる歌など'い‑つかの実体に還元することができる。とはいっても、実体の認. ヽ. ヽ. ヽ. の位相を全体として捉えるためには'それらを均一的に取り扱. ヽ. 定は簡単なことではない。実体への還元といっても'それはあ‑までも一つの仮説に留まるわけであるが'ともか. (記紀歌謡). ‑、記紀の歌謡が多方面の歌を寄せ集めて成り立っていることは事実である。 そういったいわば雑多な集合体である.

(9) うことができるという前提が敷かれていなければならない。むろん'わたしたちが目にする記紀歌謡の均一的な在‑. 方としてもっとも確実なことは'それらがすべて書かれたものとして存在していること'そしてまた'ひとつの例外. もな‑物語(地の文)と結合していることである。しかし'そのことは所与の事実そのものであって、あえて位相と. するには当たらないであろう。問題とすべきは'そういった事実の意味するところでなければならない。. 具体的にいえば'記紀のテクストに物語の構成要素として組み込まれている歌々を、個別的にではなくあくまでも. トータルな集合として'定型和歌が生み出されるプロセスのなかにきちんと位置づけて捉えなければならないわけで. ある。そこで'まずはじめに'土橋説にいう独立歌謡と物語歌が'記紀のテクストのなかではたして均一に扱うこと. ができるのかどうか'この点を確認してお‑ことにしよう。この二種類の歌謡は、根本的に性格を異にしているから である。. 独立歌謡と物語歌は'じつさいに類別するときにはあいまいさが付きまとうが'概念的には'物語歌は作中人物の. ( 1 3 ). 自己表現として作られた歌'独立歌謡は地方の民謡(歌垣歌・労働歌・宴席歌など)と宮廷の歌謡(寿歌・儀礼歌・. で、残りは独立歌謡であるが'実体不明の歌がい‑らかある。詩形をみると'物語歌のばあい、五十首中の半分'二. 古事記(総歌数二二首)を例にとっていえば'土橋が﹃古代歌謡仝注釈古事記編﹄ で検出した物語歌は五十首. れることもあったろうと述べている。そういわざるをえないのは'問題がさほど簡単ではないからである。. はずであるが、土橋は、物語が口頭伝承のなかで成立していることもあり'そのときは物語歌であっても口頭で歌わ. でも物語のために作られた歌をさしている。この規定によれば'物語歌は基本的には文字化によって始めて出現する. 歌謡が在地や宮廷でじっさいに謡われていたものであるのに対して'物語歌はそういった来歴を一切もたず'あくま. 芸謡など)をさすと規定されている。両者は互いに相容れない性質をもたされているわけである。すなわち'独立. 記紀歌謡と定型 21.

(10) 22. 十五首が五句体で、このうちの二十首が五七五七七の短歌形式になっている。音数の整わない五句体はわずかに五首. しかないので、定型化の度合いはかな‑進んでいると判断できる。このことは'物語歌には文字による創作が多いで. あろうから'ご‑当たり前のように思われるかもしれない。ところが'土橋の挙げた物語歌の中には定型以前の長歌. ①大和の. 床の辺に. 高佐士野を. 我が置きし. 七行‑. 把握を難し‑するのである。. ②嬢子の. ま. (記33). (記15). その太刀はや. 誰をし枕かむ. つるきの太刀. 嬢子ども. 4 5 5 6 6. 4 6 4 5 7. れやすい面をもっている。けれども'非定型の五句体もかなりみられ'と‑に物語歌の中にそれがあるので、事態の. 賑々しい歌詞であったろう。これなどを例にとれば、文字化によって五句体短歌形式が成立するという見方は受け容. け合い泳法の典型とみてよい。実際に民謡として歌われるばあいは'繰り返しや嚇し詞・感動詞などが入ってもっと. 構成も素朴で'一・二句で主題を提示し、三・四旬でそれを説明して終句で繰り返す形式になっている。集団的な掛. 等の諸注書はみな、出雲地方の新婚祝賀歌であった歌謡がスサノヲの神話に取り入れられたのであろうとみている。. ヲの歌う八雲神詠歌は音数に過不足のない短歌形式になっているが'土橋﹃仝注釈﹄・山路平四郎﹃記紀歌謡評釈﹄. ‑に文字化される投階で音数が整えられたとする見方は納得しやすいであろう。分かりやすい例をあげれば'スサノ. 記紀に記載される短歌形式の歌については'物語歌'独立歌謡の別を問わず'武田=久米説にいうように'テクス. が'事実はかえって逆で'五句体二十一首中の十三首が五七五七七のきれいな定型になっている。. 万㌧独立歌謡の方に目を向けてみると'こちらは歌われる歌謡であるから'非定型であることが期待されるのである. ているのなら'文字による机上の創作として説明が付‑のであるが'どうもそのように単純な話ではないらしい。1. 謡が十二首'短歌謡でも唱詠体とされる三句体 (片歌) が十一首ふ‑まれている。物語歌がすべて音数律定型になっ. 第74号 専修国文.

(11) り. か. け. 天に朔る. ば. ③雲雀は. い隠る岡を. ひ. ④嬢子の. 高行‑や か. 金鋤も. 速総別 す. い. ち. (記6 f. 鋤き静ぬるもの. ほ. きざき捕らさね き. 五百箇もがも. な. 8). (記9. 9). 4 6 5 6 7. 4 7 5 6 7. これらは五句体であるが音数が不揃いで'定型にはなっていない。とはいえ'みな物語と密着しているので、民間. Lかしへ. はじめから書‑ことで成立したのなら、なぜきれいな定型にしなかったのであろうか。この. 歌謡としての来歴を想定することもほとんど不可能である。それで'土橋にならって文字による机上の制作と考えた いのであるがt. 3). 「読歌」. (記89・90)'あるいはタケウチノスクネの歌う「本. などは物語歌とされているが'これらはみな曲名が付いている。一般に曲名付きの歌は'宮廷. や、軽太子・軽大郎女の悲恋物語の. (記7. 別の角度から考えるためにへ. (記6. 6‑68'紀5・60)、阿岐豆野命名の歌. (記空、. 片歌のケースを取‑上げてみたい。土橋は三句体の片歌をすべて物語歌としている. 歌として作られた可能性が強いのである。. 歌垣の歌 (記1‑5‑110、紀87‑9 3) などは、聴衆の前で詣詠された形跡が濃厚であろう。物語歌も'詣詠され謡われる. になる。さらに'曲名が付されていな‑ても'女鳥王物語の歌. の歌舞司で管理され演奏されていたと考えられているので'右に挙げた物語歌の類いは詣詠されたものということ. ウタマヒノツカサ. 岐歌の片歌」. (記6'紀2・3). ては'おそら‑後者の方で応えてお‑べきであろう。土橋説によれば'アデスキタカヒコネの神話にある「夷振」. うのはただテクストに書かれるだけなのか、それとも人々の前で踊詠されることがあったのであろうか。これに対し. 物語歌の事例を挙げたついでに、もうひとつ素朴な疑問を出してみよう。そもそも'土橋説にいう「物語歌」とい. その前に取‑上げなければならない問題がい‑つかありそうだ。. な長歌謡を示せば分かるように'文字化が定型の成立を促したという見解は'事態を単純に考えすぎていると思う。. 疑問は'むしろ武田=久米説に向けられるべきなのかもしれない。先にも述べているように'右の例や音数の不揃い. 記紀歌謡と定型 23.

(12) 24 第74号 専修国文. (仝注釈)。その理由は'日本の歌謡はすべて前後句の村立を構造的原理としているので、そういった構造をもたない. 三句体は独立した詩形としては存在しえないからであると述べている。これはまことに合理的な説明であり、片歌形. 7・1. (記2. 5・26・3. 2・3. 5・2. 3)へ. 1・2. (記7. 6、紀2. (紀44)'タケウチスクネの雁卵講. 8)'ヤマトタケル東征諾. 7)'仁徳と桑田のクガヒメ諾. 6・1. ヲケ・シどの歌垣. 6)'メトリ・ハヤ. 式が独立歌謡とはみなしがたい理由としては'その通‑だと思う。記紀で三句体が用いられているのは'オホクメ・ (記1. (記6. イスケヨリヒメの婚姻講. ブサワケの反乱讃. 誇(記1‑5・1‑6'紀88)、皇極紀童謡 (紀1‑9)'建王挽歌 (紀1‑1) といったところである。これらはおおむね物語歌とみ. てよい部分で、ヲケとシどの歌垣での闘いの歌なども'じつさいに歌垣の場で謡われたものとは思われない。. ヽ. ヽ. 2. (片歌)・記73. (本岐歌の片歌). は「片. こういった物語歌の類いは、ただ単に、物語に登場する作中人物の感情を表出するために机上で作られ、文字テク. ヽ. 「大御葬歌」. 四首連作中. の曲名をもってお‑、いずれも三首連作中のしんがりに置かれている。「片歌」は音楽的な名称にかかわるとき. ヽ. ストに書き記されるだけのものではなかったらしい。右に挙げた中で記3. 歌」 (14). れてお‑'宮廷の楽曲として謡われたことはまず間違いないであろう。記36も'いわゆる. の四首目に置かれてお‑'紀1‑1の斉明挽歌は、先行する二首の短歌 (119・1‑0) を歌い収める格好になっている。斉明. は秦の造万里に「斯の歌を伝へて、世にな忘れしめそ」と告げるが'これの事実性はさておき、こうした記述がある. のは'片歌で歌い収めるセッーが'ひとつの歌唱様式ないし楽曲形式として定着していたからであろう。「本岐歌の. たまきはる. あ. そ. 内の朝臣. 世の長人 雁卵産と聞‑早. 片歌」を含む三首セットを引いてみる。 71. 汝こそは. 大和の国に. な. そらみつ.

(13) 7 2 高光る. 間ひ給へ 4 5. 5 5. 5 4. 諾しこそ. 間ひ給へ 5 6. 日の御子. 真こそに. 世の長人 4 7. うべ. 吾こそは 大和の国に. 5 7 7. そらみつ. あ. 5 6 こ. 雁は卵産らし. いまだ聞かず 遂に知らむと. 雁卵産と 73 汝が御子や. これを見てすぐに気づくのは'71・72の長歌が音数が整わないのに村して'73の片歌だけはきれいな音数律になっ. ていることである。この二首の長歌が謡い物であることは間違いない。定型化した73も地の文に「御琴を給は‑て歌. (ホキ歌十片. のセットは民間歌謡としての来歴はもっていないが'宮廷の歌舞司で作詞作曲された楽曲である。つま‑'それ. ひし‑」とあるところをみると'歌われるものとして記載されているとみてよい。ようするに'この. 敬). らは'謡うために作られたとみなければならないのである。これを記紀の物語歌すべてにあてはめられるかどうかは. ヽ. ヽ. ヽ. ら'「独立歌謡」という用語じたいが還元主義的な発想から生み出されており'朝廷に集められる以前のもっとも原. の楽人らによって演奏されるときは'もはやいかなる意味においても土橋のいう独立歌謡ではありえない。なぜな. も、独立歌謡がその名称にふさわしい在り方をとるのは民間で歌われていた段階であって'宮廷に徴集されて歌舞司. とすれば'それらは歌われるという点においては'なんら'独立歌謡の在‑方と変わらないことになろう。そもそ. ヽ. 捉えるべき歌なのである。. 断言できないが'少な‑とも'物語歌がテクストの中だけの存在でないことは確かであろう。それらも歌謡の範噂で 記紀歌謡と定型 25.

(14) 26 第74号 専修国文. ところづら. 像的な位相でイメージされていたからである。 いながら. 田の稲幹に は も と ほ. 這ひ廻ろふ. なづさの. 稲幹に 腰泥む. 浅小竹原. あ さ じ な は ら な づ. 5. 34. 3. 腰泥む. 足よ行‑な. 海が行けば. 空は行かず 36. 4 7 5 7 5. 6 5 6 6 6 5. 6 4. 6 7 5. 植ゑ草. 磯伝ふ. 4 4. 浜よは行かず. いさよふ. 浜つ千鳥. 海がは. 大河原の. 37. 土橋はヤマータケルの葬送説話が土師氏によって形成されたとみる立場から'これらの四首は'土師氏の本貫であ. 5など'物語の場面と密着しているのが独. る河内国の野中・古市の歌垣で歌われていた歌謡の転用とみている (全注釈)。この大御葬歌は古事記の中で定型化 の度合いがもっとも低い歌群であ‑、句の切れ目も安定していない。34・3. 立歌謡としては不審を感じさせないわけではないが'3・36が偶数句である点、全体に1句の音数も偶数音が優勢で. ある点など'いかにも謡い物らしい。また'37の音数675はかなりユニークで'短長長に向かう片歌形式とは趣が. ヽ. (紀). 違っている。記に十一首'紀に七首ある三句体の中で'長長短のケースはこれだけある。一見'「飛びて'その磯に ヽ. 居たまへる時の歌」とある地の文にぴった‑合っているようだが、「浜つ千鳥」がタケルの化身である「白鳥」. 6の地文「海塵に入‑て云々」も歌に合わせた記述で、タケルの逝去した能煩野は海から遠‑、37の地文. う し ほ. とずれている。記の地文にある「八尋自智鳥」は'原形の 「白鳥」が3 7歌の 「浜つ千鳥」 に干渉して生じた変形であ. ろう。3.

(15) 記紀歌謡と定型 27. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 「大御葬歌」はどうみても物語歌とは考えられないであろう。したがって'歌垣歌か否かに問. 「磯」も歌のことばに依ったものである。. つまるところ'この. 誤解してならないのは'右に挙げた34‑3. 7の四首に関していえば'それらはけっして独立歌謡ではあ‑えないと. 題が残ることはあっても'土橋説にいう独立歌謡の転用であるとする見方に従わざるをえないわけである。けれど もへ. いうことである。この歌群が独立歌謡であるのは'それらがもともとの場所'土橋によれば河内国の野中・古市あた. のばあいとなんら変. つま‑宮廷の諸行事に用いられる楽. の名で呼ばれるべきなのである。. (ホキ歌+片歌). りの歌垣の場で謡われていたときに限られるのであって'天皇の葬儀に「大御葬歌」として謡われるときは'もはや. (宮廷歌謡). 独立歌謡ではありえない。そうした宮廷の祭儀において謡われる点では'先の わ‑はないであろう。すなわち'それらはどちらも. むろん、土橋説にも「宮廷歌謡」はある。しかし'それは「宮廷の独立歌謡」. 曲の中で'民間の独立歌謡を転用するのではな‑'宮廷でオリジナルに制作したものとされている。ただし'土橋は. (). を付けた意味合いと同じであ. の意に限定したのは'これを「独立歌謡」と対峠させたためであった。つま. 「宮廷歌謡」は'右に. 「宮廷歌謡を宮廷で歌われる歌の総称とすれば'独立歌謡と物語歌との両方が含まれるわけで'両者はまた交流しあ ( 1 5 ). 「宮廷歌謡」. うこともあった」とも述べており'ここにいわれる広義の. る。土橋がいわば狭義の. ‑'民間の歌謡が「独立歌謡」と規定されたので'これと対応して宮廷で独自に制作された歌謡が「宮廷歌謡」と称. されのである。いっけん厳密な規定のようにみえるが'土橋の関心が歌謡の原形を追い求めることに向けられている ため'民間の歌謡が最優先されたまでのことである。. (この他に時人歌・童謡なども挙げ. 周知のように'土橋説において'記紀の歌は主として独立歌謡・宮廷歌謡・物語歌の三つの実体から成り立ってお り'記紀歌謡はいずれかの実体に還元することができるということになっている.

(16) 28 第74弓一 専修国文. られている)。これをさらに簡略にいえば'記紀歌謡は独立歌謡・宮廷歌謡・物語歌から成り立つということになる。. しかし'これは真実であろうか。記紀の歌謡を'記紀のテクストに記載されている歌のことであるとすれば、そこに. 独立歌謡すなわち民間歌謡の類いは'はたして存在するのだろうか。存在しないであろう。存在するのは'民間歌謡. に出自をもつ歌である。それらは'河内の野中・古市の歌垣歌がそうであったように、宮廷に徴集され、そして本来. の性格とは別の意味、づけがなされる。当然'宮廷風の楽曲にアレンジされるであろうし'それに伴ってもともとの歌. の名で呼んだ歌は'宮廷に徴集された時点で根本的な変質を被るのであって、. 詞にも手が加えられたであろう。こういった転用と編曲は'おそら‑すべての民間歌謡に施されていたにちがいな い。したがって'土橋が「独立歌謡」. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. に供せられる歌舞・楽曲であれば'それら. その変質によって民間歌謡=独立歌謡は'ひとつの例外もな‑宮廷歌謡に生まれ変わるのである。 宮廷歌謡に広義と狭義の区別は不要である。宮廷の節会(祭儀の饗宴). ヽ. は出自と由来のいかんを問わず'すべて一様に宮廷歌謡の名で呼ばれるべきであろう。原則的にいえば、宮廷歌謡の. 位相において「物語歌」と「独立謡」を質的に区別する理由はな‑、したがって'それらは均一的に取‑扱われるべ. 宮廷歌謡の生成. きなのである。. 四. 記紀の歌謡を捉える上で重要なのは'あ‑までも'右に述べたような意味における宮廷歌謡である。むろん'これ. それなりの意味づけもなされてきた。しかし'たいてい. の観点から捉えられたため'関心の方向は、歌謡と儀礼の関係だとか歌謡の芸能性などに向けられてい. まで土橋説の他にも「宮廷歌謡」という言い方はあったLt. は「大歌」. ヽ.

(17) ( 1 6 ). という文学史的な問題である。. これは宮廷歌謡の実態に即して捉えなければ. た。ここで考えたいのはそういった実態的なことではな‑'(宮廷歌謡の定型化) とはいえ、定型の生成はすぐれて現実的な出来事であるから'当然へ. ならない。そこで、宮廷歌謡が成立するおおよその経緯を振り返ることにしよう。先に規定したように'宮廷歌謡と. は宮廷の諸祭儀の節会(饗宴) などで奏上される楽曲である。宮廷の諸節会に歌舞・楽曲を奏上するのは'宮廷儀礼. ﹃琴歌. の中でもとりわけ重要なイヴエン‑であった。律令制下では雅楽寮の楽人がこれを担当し'後には雅楽寮から分立し. た大歌所が、和楽系の歌舞を演奏することになったようである。記紀歌謡を論ずるさいにしばしば参照される. ヽ. ヽ. ヽ. 語﹄は'十一月新嘗会・正月元旦・七日・十六日の節会に演奏される琴歌が十九曲載せられ'うち五曲が古事記の歌. 謡と共通する。この本は「大歌師前丹波操多安樹」という人物の原本から写したと記されている。「大歌師」は大歌. 所の教官を指すのであろう。このばあいの「大歌」がいわゆる宮廷歌謡であることは﹃琴歌譜﹄ の歌によって容易に. 知ることができる。多氏がこの職掌に就いているのはへ古事記の編纂者'大安万呂と同族であるだけに注目すべきで あろう。. 大歌はもともとは雅楽寮の歌師と桶師に率いられた歌人・歌女・傍生などによって演奏されたのであろう。記紀の. ヽ. によって演奏されていたことをいう。こ. の実態は'この語の和訓であるりタマヒノツカサがよ‑示しているはずである。りタマヒノツカサ. が「楽府」と呼ばれているのは'土着の伝統的なりタマヒノツカサが'中国の観念で捉えられているからに他ならな. は'諸民族が服属を誓約する儀礼の中で奏上され'そして朝廷によって管轄されていたからである。そのような部署. は歌舞司のことで'こういった歌舞を管轄する部署は古‑から設けられていたであろう。もともと士風歌舞の類い. こにいう「楽府」. 日歌に「今'楽府に此の歌を奏ふ時は云々」とあるのは、来日歌が「楽府」. ヽ. 歌謡'とりわけ古事記の歌謡はほぼ確実に律令的な雅楽寮が制度化される以前に成立していたとみてよい。書紀の来 記紀歌謡と定型 29.

(18) 30 第74号 専修国文. ヽ 一. し. 〇. 漠の時代'武帝によって設立されたといわれる楽府は'詩経時代の. 「宋詩」. (漢書礼楽志). の思想に則って民間の歌謡を採集し、. とあるように、礼と楽は為政の中枢に. 礼は以て外を修めて尊卑を異にす。同ずれば則ち和親. それによって民衆を平穏に治めることが目指された。このような施策は'儒教の礼楽思想に基づ‑きわめて高度な政 治システムであって'「楽は以て内を治めて和楽を同じ‑Lt. ( 1 7 ). Lt異すれば則ち畏敬す.二者は並行し'合して一体と為す」. 据えられていたのである。したがって'こういった礼楽思想は、儒教および儒教的な政治システムの伝来にともな って、我が国にもすみやかに伝えられていたであろう。. 日本書紀をみると'欽明紀十五年二月条に、百済が易博士・暦博士・医博士などと共に「楽人」を四人派遣したこ. (中国のこと). に同じ」. (三国史記雑志). とされ'固有色が薄‑'かなり中. とが記されている。これらが「皆講すに依りて代ふるなり」とあるところをみると'それ以前から行われていたらし たぐ. い。百済の楽は「楽器の属ひ'多‑内地. 国化していたようである。倭国の土着の歌謡は'こうした百済の楽人に指導されて'儒教的な礼楽思想の洗練を受け. ながら'宮廷歌謡としての体裁を整えていったのであろう。むろん'そこに中国や百済・高句麗・新羅の外来楽の摂. ウ タ マ ヒ ノ ツ カ サ. 取があったことは想像にかた‑ない。そのようにして'七世紀以降'中国的な律令国家の形成が急がれる中で'宮廷. 歌謡はますますその重要性を強めていき'やがて楽府=歌舞司の成立をみることになったのであろう。天武朝になる. (持続元年正月条). と. (天武十四年九月条)。地方の士風歌舞を集めて宮廷歌謡にアレ. と'諸国に「所部の百姓の能‑歌ふ男女'及び保儒・伎人を選びて貢上れ」 (天武四年二月条) という詔が発せられ'. また'かれらの芸能を伝習させる詔も出されている. ンジすることは'まさに楽府詩の制作そのものであった。天武残宮の時に「楽官'楽を奏す」. あるのは'大宝令以前に「楽官」と呼ばれるりタマヒノツカサが存在し'朝廷の祭儀に欠かせない役割を果たしてい.

(19) 31記紀歌謡と定型. たことの証拠であろう。. 天武の勅命が発せられたのは'畿内とその周辺地域の国々に村してである。挙げられている国名は大倭・河内・摂. 6. 「朝津の橋」. (越前)・20. 津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狭・伊勢・美濃・尾張の十三国であった。これらは、催馬楽の歌詞に 含まれる国名とほぼ一致するともいわれる。たしかに催馬楽に歌われる国名をみると、1. 「武生の国府」 (越前)へ 3 2・50「吉備の中山」 (吉備)'4 1「久米の佐良山」 (美作) などを除けば'大方は十三国と1. 致するので'その可能性は捨てきれない。しかし、記紀歌謡との繋がりも考えられないことはないだろう。記紀歌謡. の供給源が歌舞司の楽曲であることは'曲名付きの歌があることからみて間違いな‑、そして'その楽曲は「宋詩」. の思想を尊ぶ楽府詩をモデルにして制作されていたからである。. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. このように'宮廷歌謡とはいってもその多‑は素性をたどれば民間歌謡であ‑'いわゆる独立歌謡である。土橋. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. は'記紀歌謡を解体して宮廷歌謡から独立歌謡への還元を問題にしたが'ここでは逆に独立歌謡から宮廷歌謡へ'そ. 3 4 6. その宮廷歌謡が記紀のテクストに記載されるプロセスを問題にしたいわけである。とりあえず次のケースで. して宮廷歌謡から記紀歌謡への変質を問題にしなければならない。いいかえれば'独立歌謡が変質して宮廷歌謡を生 み出しへ. 鴫民張る. た か き し き わ な. 高城に. 考えてみよう。. 宇陀の. 5 7. さや. 5. 5 6 6. 4. 鴫は障らず. こ. 実の無け‑を. 肴乞はさば. な. 我が待つや. み. 5 6. な. 鯨障る. こきしひゑね. いす‑はし こ. 前妻が. たちそばの.

(20) 32 第74号 専修国文. うはなり. こきだひゑね. 肴乞はさば 実の多け‑を. 此はいのごふぞ. 後妻が. しやこしや. 此は噸笑ふぞ. いちさかき. ええ音引. しやこしや. あぎわら. ああ音引. 5 5 5 7 6. (記9). を引い. の方は曝し詞はな‑て、その代わ‑、地の文に「今、楽府に此の歌を奏ふ時は'なほ手量の大き小. 来日歌の第一首目で'記と紀は歌詞に小異があるだけだが'右は嚇し詞の付いている古事記の歌 た。紀(紀7). 0歌の後に「今'来日部が歌ひて後. 4歌の後にも'「凡て諸の御謡をば来日歌と謂ふ。此は歌へる者を的. き'また音声の巨き細き有り。此は古の通式なり」という叙述がある。一方、紀1 に大いに晒ふは、これその縁なり」とあり、紀1. 取して名づ‑るなり」と'曲名の由来が語られている。. 0・1. 4. これらの歌謡詞章と地文の記事によって、宮廷歌謡としての来日歌の実体と、それの位相を考えてみたい。まず、. 紀の地文に認められる食い違いについてであるが'紀7では来日歌の歌い手を「楽府」とするのに対して'紀1. (都民か). が歌うものとされている。これについては一般に'もともと戟闘. では「来日部・来日」とされている。楽府で奏されるのは'特定の氏族員ではな‑'然るべ‑選定された楽人である と思われるが'別の歌では来日氏の氏人. や狩猟の宴などで来日氏によって歌われていた軍楽もし‑は狩猟歌が'後に「楽府」が設置されてから、歌舞司の楽. 人によって奏上されるようになったと理解されている。すると'テクストの記述には数次にわたる成立の経緯が隠さ. れていることになり'複雑な様相をかいま見せているわけである。来日歌は記紀歌謡中、もっとも典型的な宮廷歌謡 といわれるが'その成立は'どのような経緯を辿ったのであろうか。. 記紀のテクストに定着するまでには'民間歌謡1宮廷歌謡1記紀歌謡という三つのレヴエルが考えられるであろ.

(21) (土橋仝注釈)'この嚇し詞が. う。背景への憶測は控えて'表側に出ていることがらを頼‑に進めてみると'まず気になるのは、古事記の方に記さ れている噂し詞である。「しやこしや」は罵‑'「いのごふ」は威嚇する意とされるが. 歌詞とうま‑かみ合うのは'どのような条件下なのであろうか。考えられるのは'①地の文と連続させたとき'②古. (氏). が歌う軍楽=狩猟歌として捉えたとき'この三通りの見方が可能であろうと思う。. まず①について。この見方はいわゆる物語歌の立場であ‑'地の文で押機. の. ﹃厚顔抄﹄. にいうよう. にかかる獲物であるから'これを説話のヒーローに当てるのは不自然であろう。さらに'「前妻. 「鯨」は神武の軍勢を指すとみる他な‑'おおかたの注釈も従っている。ところが'誓喰表現とは. に'「鯨障る」 「民」. のセッーが'神武東征説話に合わせて作られた物語歌である可能性はほとんどないとみてよい。. 「我」が掛ける. 「民」. (歌詞+聯し. の. 「我」も. に散るのは'戦うべき敵すなわちエ. とみれば'歌詞との繋がりも緊密であると判断できる。③は宮廷歌謡になる前の段階であるから'まだ神武説話とは. 象に基づ‑のであろう。後半部は勝ち戦の宴会で気勢を上げる雰囲気であ‑'嚇し詞の罵‑を強敵エウカシへの憎悪. ウカシである。記紀ともに'これを勝利の後の宴会で神武が歌ったとするのも、宮廷歌謡として演ぜられる舞台の印. その劇の主役である神武に当てるのが理解しやすい。その. の歌は'楽人らによって演ぜられる神武建国の歌舞劇における台本の類いであろうから'「我が待つや」. ②はどうであろうか。これが宮廷楽人によって演奏されるときには'すでに神武説話と結合していたであろう。こ. 詞). 鯨に向けられるはずなので'神武の軍勢が罵られてしまうことにな‑'どうもすっき‑しない。この. が」以下の後半部は豊かな獲物を仕留めて得意になっている様子を歌っており、曝し詞の罵声と威嚇は'その獲物=. いえ「鯨」は. ので'これを歌詞に連続させると'「鴫民」を張る「我」とはエウカシのことになる。すると. を作るのはエウカシになっている. 事記に組み込まれる前の'楽府の楽人が奏上する宮廷歌謡の段階で捉えたとき'そして、③宮廷歌謡以前の来日集団. 記紀歌謡と定型 33.

(22) 34 第7413‑ 専修国文. 結合せず、来日の軍団が行う様々な戦いや狩猟で歌われる歌謡としてイメージしなければならない。民謡レヴエルの. 歌としては'戦いであっても狩猟であっても'どちらを想定してもよいであろう。前半で予想外の戟利‑獲物を得た. ことを歌い'後半ではその獲得物を誇って勝利の美酒を満喫する雰囲気である。曝し詞の罵りや噸笑は、そのような. 祝宴には似つかわし‑ないといえる。紀のようにこれを欠‑方が'かえって民謡レヴエルには相応しいであろう。か. (歌詞+嚇し詞). を記紀歌謡'宮廷歌謡'民間歌謡のいずれのレヴエルにあるのかを検討し. りに酒宴の座興として受け取るとしても'②ほどぴったり歌詞と結びつかない。 このように'記9歌の. てみると'宮廷歌謡のレヴエルで捉えるのがもっとも妥当であるらしいことが分かってきた。すると'この歌の職し. 詞は民間歌謡の段階はもとよ‑'記紀歌謡の段階でも付‑べき理由はないはずなのである。ところが記の歌謡にはそ. れがついていて'しかも'その職し詞は地の文とは繋がらない。むろん'歌謡と地の文が繋がらないケースは独立歌. 謡が転用されるばあいしばしばみられ'決して珍しいことではない。記9歌では'歌詞そのものも地の文との間に敵. 髄があるので'この歌は転用されている疑いが濃厚なのであるが'それもさることながら'ここで注目したいのは職. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. し詞である。なぜなら'この聯し詞は地の文の成立時'すなわち古事記の本文の成立時に付けられたのではなく'そ. れ以前から存在していたと考えざるをえないからだ。どうやら'歌謡は記紀以前の段階ですでに文字化されていたら. しい。記9の嚇し詞は'記紀以前に文字化されていた歌謡テクスーの痕跡なのである。記紀以前というのは具体的に. いえば、職し詞と歌詞の関係がもっとも整合性をもつ段階'すなわち宮廷歌謡の段階ということになろう。.

(23) 五. 宮廷歌謡集の成立. (宮廷歌謡集). の片鱗であろう。そのテクストを制作したのは'宮廷の. こうして'わずか一片の曝し詞ではあるが'そこからわたしたちは宮廷歌謡のテクストが存在した確かな徴証を掴. ウ タ マ ヒ ノ ツ カ サ. むことができた。それは'文字通‑. 「字岐歌」記1‑3. 「天語歌」記1‑0・1‑1・1‑2. * 「阿岐豆野の歌」記97. * 「国巣歌」記48. * 「角鹿の蟹の歌」記42. 「酒楽之歌」記39・40. * 「大御葬歌」記34・35・36・37. 「思国歌」記30・31'紀21・22・23. 「来日歌」紀7・8・9・10・11・12・13・14. 「神語」記2・3・4・5. ①儀礼にかかわる名称(場・歌唱者・内容等). のとみて間違いないであろう。念のため'記紀の曲名歌をざっと一覧しておこう。. 楽府=歌舞司に配属される楽人であったはずである。記紀に曲名の付いている歌は'この宮廷歌謡集から採られたも. 記紀歌謡と定型 35.

(24) 36 第74号 専修国文. 「来日歌」紀7・8・9・10・1. ②唱泳法や曲節による名称 「挙歌」紀5・6. 「片歌」記33 「読歌」記89・90. 1・12・13・14. 「志都歌」記9 2・93・94・9 5・1‑4. 「志都歌之歌返」記57・58・59・60・61・62・63・74. 「志良宜歌」記78. ③歌詞による名称 「夷振」記6'紀2 (夷曲). 「宮人振」記82 「天田振」記83・84・85. ④複合的な名称 「本岐歌之片歌」記73. 「夷振之上歌」記80 「夷振之片下」記86. (*印). も挙げておいたが、このような類いは挙げようと思えばまだいくつも挙げられるであろう。とりあ. 記紀に見える曲名は十九種、歌数は五十九首(うち'紀は二十一首)ある。右には'はっき‑曲名として記されて いない歌.

(25) えずこれらによって'宮廷歌謡集を具体的にイメージする材料にはなるはずである。むろん、記紀歌謡のすべてが宮. Lばら‑宮廷歌謡集. 廷歌謡集から採られているわけではな‑'記紀の本文のために制作された歌もあったに違いないが、それらを選び出. す客観的な根拠はない。それで、宮廷歌謡であることがほぼ確実視できる歌にだけに注目してt. の形態を思い描‑よすがとするはかない。. ( 1 8 ). もっとも'これまで'記紀歌謡の以前に文字資料として宮廷歌謡集の存在をはっきと想定する研究がなかったわけ. これを. (古事記本文三層説). と同じような体裁で'天皇代毎に歌謡. にリンクさせて、その原本の筆録時期を静明朝頃に求めた。. ではない。その筆頭は神田秀夫の説で'記と紀の歌詞の重な‑具合や異同の分析から'記と紀に先行する歌謡集の 「共通の原本」を想定Lt ( 1 9 ). この冒険的なアイディアは伊藤博に継承され'原万葉集(巻一、一‑五三). ( 2 0 ). の存在を想定Lt. さらに'記紀の編纂者はその歌謡集. 物語を収める「古代歌謡集」の存在が主張された。また'益田勝美は記紀の歌謡物語の背後に、じつさいに演ぜられ ている歌謡劇と「文字化されて曲別に類纂されている歌謡集」. から歌を採ってストーリーを叙述していったのではないかと述べている。神田・伊藤説は'記紀において歌謡と物. 語が結合し'顕著に歌謡物語の形態をとっていることを考慮しての提言であったが'益田はそういった歌謡物語が劇. (歌舞司). の成立にともなって'歌謡の管理・教習のための文字テクストとして. ﹃琴歌語﹄. 「楽府歌謡. 的に演ぜられていたことを推測したのである。いずれもユニークな提言であり'記紀以前に文字テクス‑としての歌. 土橋寛も楽府 l」㌧. につれて歌詞の制作を担当する人材も要請されて'それが人麻呂のような万葉歌人の登場を促したであろうことも示. を元にして発想されてお‑、歌詞・歌曲名・縁起などが記されていたであろうとされている。さらに'歌舞の洗練化. 集」が作成されたとみる。これは本稿の見方と重なるので詳し‑触れてお‑と'楽府歌謡集は具体的には. 一万㌧. 謡資料を想定した点がすぐれている。. 記紀歌謡と定型 37.

(26) 唆されている。土橋のイメージする楽府歌謡集はきわめて穏当で'﹃琴歌譜﹄. ヽ. ヽ. ヽ. との対照も適切なものであろう。この. ヽ. のごと‑受け止められたからであろうか。たしかに土橋説は'楽府歌謡集の実態を素描するにとどまっているが'歌. 説が'右に挙げた神田説をはじめとする三説ほどインパクトをもたなかったのは、それがあまり穏当すぎて当たり前. ける歌謡の文字化を考えるには有益であろう。. ( 2 2 ). うな歌謡表記がすでに天武朝には可能であったことが証明されたのである。. これらの間で仮名の使用に目立った違いがあることを発見し. 徴証であろう。古事記の歌謡表記は'そういった宮廷歌謡集のテクス‑からそのまま転写されている可能性が強いの. いたかには言及しなかったが'それが本文とは別に成立していたこと自体が、宮廷歌謡集の存在を具体的に裏付ける. 「別々のあるいは段階的の成立」を示すとみて誤らない。高木自身は'歌謡の部分がどのような形態で文字化されて. た.こうした事実は'高木のいうように'古事記が1元的に成立したとする見方からは説明しに‑‑'歌謡と本文の. 名の使用状況を歌謡・本文・訓注に区別して精査Lt. そこで想起しなければならないのが、高木市之助の唱えた古事記の 「多元成立説」 であろう。高木は古事記の仮. ( 2 3 ). 天武朝の字音木簡が出土したことによって'歌の字音表記が早‑から行われていたことが明らかにな‑'古事記のよ. て'歌謡の字音表記は古事記や日本書紀の編纂時点でのこととする見方が長く続いた。ところが'近年'あいついで. 歌の文字化は人麻呂歌集にみる訓字主体の略体的な表記から始められたとする見方があったため'そのあおりを受け. 化がはらむ問題に対する認識が薄かったからであろう。すでに武田祐書や久米常民の説が出ていたにもかかわらず'. かし'そのわりには宮廷歌謡集の存在を立証しようとした論は少なかったのであるが'それは、おそら‑歌謡の文字. 記紀に記載される以前に'歌謡が宮廷で演奏されていたであろうことは多‑の人々の推測するところであった。し. 謡物語や歌謡劇の仮説よりは確度が高‑'楽府 (歌舞司) という具体的な土台に乗っかっているので'記紀以前にお. 第74号. 38 専修国文.

(27) 記紀歌謡と定型 39. である。土橋のいう「楽府歌謡集」が字音表記の形態をとっていたことはほぼ確実であろう。そして'歌謡の字音表. 記は音数律定型の起源とも不可分であることが分かってきたので'高木市之助の先駆的な研究を吸収することによっ て'ようや‑、武田=久米説を具体的に検証できる下地が整ってきたわけである。. 先に触れたように'武田=久米説の弱点は'歌謡の文字化を記紀テクストのレヴエルで捉え'したがって定型の生. 成も記紀テクストの成立から推測せざるをえないところにあった。しかし、右に確かめたように、記紀以前に宮廷歌. 謡が文字化されていたことが明らかになれば、武田=久米説の視点は'そのままそっ‑り宮廷歌謡集のレヴエルに移. し代えて考えることができる。定型が成立する状況やプロセスも'そのようにみることによってずっと具体的に捉え. ることができるであろう。というのも、宮廷の歌舞司で歌の管理や教習に携わった楽人こそが'歌の文字化を実行し. た最初の人々であったと考えられるからである。宮廷歌謡集を制作したのはかれらに他ならなかった。いったい'か. れらはどのような環境の中に置かれていたのであろうか。そしてまた'かれらの行った作業の本質は何だったのであ ろうか。. 宮廷歌謡とは'具体的には先に一覧したように記紀に曲名の付けられている歌などをイメージすればよいのだが'. その他「思国歌」「志都歌」などもローカルな歌垣歌であるらしい。天. すでに述べているように'その素性を探れば民間歌謡に辿‑つ‑ものが少な‑ない。「夷振」「宮人振」「天田振」等' フリが付‑のは民謡出自とみられているLt. 「宋詩」的な作業は、朝廷内に楽府に類する部署が設置されると同時に開始されたであろう。「‑フリ」. 武四年条の機内とその周辺国への詔は'地方の民謡をその担い手ごと中央に採集する目的をもっていたわけで'そう いったいわば. をもつ曲目なども'おそらくその成果とみて誤らない。土橋説で独立歌謡と呼ばれるそれらの歌は'本稿にいう宮廷. 歌謡の観点からは'そういった栄誉ある称号は与えられないであろう。いうまでもな‑、地方の独立歌謡が宮廷の諸.

(28) 40 第74号 専修国文. (実際にはあ‑えない話であるが)'歌われる場の違いは如何ともしがた‑'そのことですでに根本的な変質を被. 節会で演奏されるときは'その本来の姿はすかり失われているからだ。かりにまった‑同じかたちで歌われたとして も っていよう。. もっと致命的なのは'在地の独立歌謡はその本来の出自によって歌われたのではな‑'まった‑別の由来が付けら. れたことである。それらの由来は'おおむね宮廷に伝えられる王家の伝承に付託して造作されたものであった。それ. (り夕=歌謡). は'もともと'それ自身の歌詞の中に'歌い手を限定して'それ自身を. は'地方の士風歌舞を村落共同体の場から分離させ'宮廷社会の文脈に移し換えることを意味したのである。歌い手 の主観的な感情表現である歌. 起源づける要素をもたない。そのため'歌は構造的に起源や由来を求めたがる性癖をもってお‑'とりわけ'共同体. の文脈から引き離された歌謡は新しい由緒に結合されやすい。それによって、歌の由来=文脈を保証する最初の歌い. 手が設定されるわけである。しかし起源的な歌い手が変われば'歌の性格もまるっきり変わってしまうのが歌謡の生. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. 態である。こうした歌の改編は、歌舞司の楽人らによって為されたはずである。その意味するところは、文学史的に. ヽ. みるときわめて重大な問題をはらむものであった。. かれらの営為をひと言で要約すれば'歌謡的なものの解体・再編である。この解体・再編は外形的にみれば'民間の. 士風歌舞から宮廷歌謡への変質'あるいは、もともとそれが歌われていた共同体から宮廷社会への場の転換として捉. えられるであろう。これを'歌じたいに内在する現象としてみるならば'歌われ方の変化として現れるはずである。. たとえば天平六年正月'朱雀門で行われた歌垣で歌われたのは「難波曲」「倭部曲」「浅茅原曲」等の地方民謡に出自. すると思われる曲目で'男女二四〇人ほどが本末を唱和して歌い、都中の評判を得たという(続日本紀天平六年正月. 条)。これは'本末を唱和する歌い方に掛け合い形式は認められるものの'男女が即興的に歌を交わし合う本来の歌.

(29) 垣からはほど遠く'歌われた曲目も宮廷歌謡として様式化され'固定化されたものであったろう。観衆が集う中で. 行われているのも芸能化されていることを示すものである。この時の歌垣はもはや民謡レヴエルのそれとは異なり'. まれるものへと変化する兆しを見せているからである。それは'書紀で久米歌を奏するこ ウ タ ヨ , ・ J. (ヨム). (. (歌・謡・唱). ). ことにヨム. ことを意味する。これを考慮してヨムこと. 班. は対立しており'ウタウにヨムの要素が加えられる. ことの要素が加えられつつある状況を示す表現である。これは歌にとってはきわめて大きな変化であ (ヤクウ)と. つまり「切れ目を入れる」. ではな‑なってしまうからである。. ったろう。というのも'発声様式としての. ヨ. (節・ム). (歌謡). ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. としての要素を払拭することでもあったろう。「読歌」という曲名や「謡=りタヨミ」という発声様式は'記. 紀歌謡の非歌謡的な姿を示すものなのである。. (民謡). 本的な性格であるとするならば、ヨムことは'歌謡を根本から解体することであった。それはまた'在地の士風歌舞. しをやめて'音を延ばして非音楽的に発声することであった。歌謡としてのり夕が'歌われることをそのもっとも基. ヽ. の実態を捉えてみると、音声のつなが‑を三三音の区切‑を意識して発声することである。これは'旋律的な節回. ヨムという語は'原義的にいえば. と'その歌はうたわれな‑なる'つま‑り夕. (詠・謂・読). 時の印象に基づいた言い方とみるべきであろう。ヨミウタもりタヨミも'ともに'りタウ. にみえるヤクヨミの語は'書紀本文の制作者が机上で考案したにしては特殊すぎるので、久米歌が実際に唱詠される. 記されているところに窺われる。「読歌」という曲名は、いうまでもな‑宮廷歌謡の段階における名称である。訓注. とを示す「謡」 の字に「宇埠預溺」 の訓注が付けられていたり'古事記の軽太子歌に「読歌」 (記89・90) の曲名が. ての歌謡が'詠(謂・読). こうした宮廷歌謡への転換が歌謡的なものの解体であ‑'なおかつそれの再編であるゆえんは'歌われるものとし. 宮廷歌謡化したイヴェントに他ならなかった。. 41記紀歌謡と定型.

(30) 42 第74号 専修国文. や「謡‑りタヨミ」は、文字に書‑ことだけにかかわるのではな. そうした民謡の非歌謡化は、宮廷歌謡集の制作にともなって生じた現象であった。したがって'それが文字化と不 可分であることはいうまでもない。しかし「読歌」. かった。地方の歌謡が宮廷雅楽用に音楽的な面でアレンジされるのと並行して'その歌は本来の場から引き離され、. あらたに宮廷伝承の文脈に移しかえられるわけであるが'そのさい当の歌謡は'歌詞の意味を細か‑点検されるであ. ろう。民間の歌謡は'音楽性よ‑も歌詞の内容によって宮廷伝承と結合するからである。このように歌詞の意味を吟. 味することも'また'ヨムことに他ならなかった。宮廷の楽人たちは、まず歌詞を歌謡のメロディーからはずし、そ. (区切れ)‑ム). こと'つま‑音声連続に区切れを入れることである。歌舞司の楽人が行う地方民謡の調査点検. して'歌詞のことばを一昔一昔たど‑つつ、その意味内容を把握するであろう。繰り返していえば、ヨムの原義は ヨ. (節. は'基本的には声によるヨミの行為であったといってよい。それは、あ‑までも歌詞の意味を明確にすることであっ. た。そうした声によるヨミの行為のなかで'歌謡はその本来の音楽性を解除されることになるのである。それは歌謡 的なものの解体に他ならなかった。. 先に触れたように'歌の文字化は字音表記から始まったのであるが'それは'声によるヨミの行為に導かれること. で可能になったはずである。少な‑ともその道はありえなかったであろう。声でヨムことによって'歌のことばは一. 音節ごとに切れ目をつけて分解されるのであって'それこそが字音表記を可能にするもっとも肝心な要件となったは. ずだからである。字音表記は音節ごとの表記であるから'当然'その前提には音声連続としてのことばが音節単位に. (宮廷歌謡集). は'声によるヨミと文字によるヨミが表裏一体になって生. 区切られていなければならない。その点において'歌を書‑ことは'ヨムことの地平において成立したのである。 このように'宮廷の歌舞司で作成された. み出されたものといえる。そして'こうした二重のヨミは'歌謡的なものの解体を促す原動力になったのである。.

(31) 六. おわりに. 本稿の作業によって'いったい'記紀歌謡を材料にして. (定型の生成)を考える準備がどれほど整ったのか'定か. ではない。そもそも'記紀歌謡によって定型の生成を論ずることは許されるのか'否か。. たしかに'武田‑久米説を考慮に入れないで記紀歌謡と定型の問題を論ずることは許されないが、書‑ことによる. 定型化は'記紀というテクス‑のレヴエルで始めて起こったわけではない。本稿では'少な‑ともその辺の経緯だけ. ‑. と‑あえ. が、民謡的なレヴエルと非連続の関係にあるこ. の問題を'宮廷歌謡および宮廷歌謡集の段階で捉えること. (土橋のいうそれではな‑). (香‑こと). ははっきりさせることができたと思う。いわゆる記紀歌謡のレヴエルと宮廷歌謡のレヴエルをきちんと区別し'武田 =久米説によって主題化された. ず、この見通しがえられたわけである。. 土橋説については'右にいう宮廷歌謡. とを明確にしたことで'本稿の立場は示しえたかと思う。したがって'定型としての和歌もまた民謡的なものとの断. (4). 西候勉「和歌起源の可能性‑諸説の検討を通して‑」二〇〇三年三月'冨岡同市万葉歴史館紀要﹄第十三号.. (3) 武田祐書﹃国文学研究歌道篇﹄一九三七年十二月。. (2) 久松潜1 ﹃万葉集考説﹄一九三五年二月。. 注 (‑) 五十嵐力﹃国歌の胎生及び発達﹄一九二四年八月。. 絶を経由して誕生したのである。その辺りの問題に関しては次の稿で述べることにする。 記紀歌謡と定型 43.

(32) (5) 武田祐吉前掲注3書. (7) 岡部政裕﹃万葉長歌考説﹄ l九七〇年十1月。. (6) 久米常民﹃万葉歌謡論﹄一九七九年五月。. (9)次田真幸「上代歌謡の音数律‑五七調の成立に関する基礎的考察‑」一九三四年六月'﹃文学﹄。. 7). 西保勉「和歌と楽府‑定型拝情詩の成立について‑」二〇〇二年十一月、﹃古代中世文学論考﹄第八集。. (22) 西候勉﹃古事記の文字法﹄一九九八年六月。. (2 1) 土橋寛前掲注1 1書。. (20)益田勝実﹃記紀歌謡﹄一九七二年五月。. (1 9) 伊藤博﹃高菜集の表現と方法上﹄ (1九七五年十一月)第二章第二節。. (1 8) 神田秀夫﹃古事記の構造﹄一九五九年五月。. (1. (1 6) 折口信夫﹃日本文学の発生 序説﹄一九四七年十月'角川文庫。. (15) 土橋寛前掲注11書。. (1 4) 藤田前掲書 (片敬考)0. (13) 土橋寛前掲注11書。. (1 2) 西催勉前掲注4論文。. (1 1) 土橋寛﹃古代歌謡の世界﹄一九六八年七月o. (1 0) 相良守良﹃日本詩歌のリズム﹄ 1九三1年五月。. (8) 藤田徳太郎﹃古代歌謡乃研究﹄ (記紀歌謡の韻律) 1九三四年九月。. 第74号. 44 専修国文.

(33) 記紀歌謡と定型 45. (g3)高木市之助「古事記歌謡における仮名の通用についての一試論」 l九三五年十l月'冒同木市之助全集﹄第 一巻。. (a) 西催勉「(ナ)と (ナを・ヨム) こと・上戸と文字の干渉I」二〇〇一年三月'﹃古代の読み方﹄所収。.

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参照

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