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(1)

鉄道忌避伝承の検証 ―山陽鉄道和気通過についての考察―

小西伸彦

はじめに

明治二十三(一八九〇)年には、神戸―三石間が開通して、いよいよ岡山県にも鉄道がはいってきました。会 社は、はじめ、瀬戸内海の海岸にそった土地に、鉄道を建設する考えでした。たくさんの材料や道具を、まとめ てはこびいれるのにべんりだからです。ところが、鉄道建設をこころよく思っていなかった、西大寺や玉島など の港町の人びとから、この計画に対して強いはんたい運動がおきたのです。 「大阪や神戸に行く蒸気船のお客を、 鉄道にとられてしまうかもしれん。 」「塩田の塩も、 けむりで黒くなるじゃろう。 」 などと言って、 会社のたびか さなる説とくにも、はんたいのたいどをかえようとはしません。会社は、しかたなく、これらの港町をさけて、 もっと北よりのところに、建設工事を進めていくことにしたのです。このように、山陽鉄道の建設は、すべての 人びとからかんげいされていたわけではなかったのです

(2)

これは1981(昭和

「鉄道熱」 と呼ばれる敷設ブームを経て大きく延びた。 さらに1922 (大正 時の中心地から離れた水田の中に造られたと伝えられていると聞いた。日本の鉄道距離は、明治時代にあった三回の されたのは反対運動があったからだと教えられた。高梁市でも、市街地の人々が強く反対したから、備中高梁駅は当 筆者も小学校と中学校で郷土史家から、中国鉄道総社駅(東総社駅)と伯備線西総社駅(総社駅)が町外れに建設 の中にはまだまだかたく信じられている、と述べている 。

あいだでは全国各地に伝えられてきた鉄道忌避がすでに虚像であるにもかかわらず、ジャーナリストや地方史研究家 で東京芸術大学名誉教授・青木栄一は著書『鉄道忌避伝説の謎―汽車がきた町、こなかった町』で、鉄道史研究家の いろうというとき、西大寺や玉島で強い反対運動がおこり、ルート変更を余儀なくされたというのである。地理学者 をさけて」の一部である。神戸から馬関(現在の下関)に向かって進む山陽鉄道の敷設工事がいよいよ岡山県にもは 56 )年、岡山県小学校教育研究会社会科部会が編集した『岡山の歴史ものがたり』の「港町

したという伝承を検証する。 更を強いられる鉄道計画が数多くあったことになる。小稿では歴史書や新聞記事、地形図などから、山陽鉄道を忌避 公布されたことで、全国津々浦々に狭軌鉄道が延伸された。半面、各地では「鉄道来るな」の運動がおき、ルート変 11 ) 年に改正された 「鉄道敷設法」 が

山陽鉄道会社

政府は明治維新から、製鉄や造船、鉱業などの官営工場、製糸や紡績などの模範工場を建設し、殖産興業政策を推

(3)

進した。 深津県は1872 (明治5) 年 、 士 族の就職奨励方を論達し、 岡 山県でも士族授事業が興った。 1875 (明治8) 年 に融通貸付業の篤行社が生まれ、 1876 (明治9) 年岡山片瀬町陶器製造所、 1878 (明治

には市街塵芥取扱業とマッチ製造業、製紙業を兼業する有恒社が興り、1880(明治 11 )年 する微力社、1881(明治 13 )年児島湾開墾事業を企画 14 )年岡山紡績所、1882(明治

どした 。第二十二国立銀行は1877(明治

15 )年には微力社を継承した有終社が設立されるな 10 )年、第八十六国立銀行は1879(明治

1874(明治7)年、政府は勧業寮をおき、2000錘ミュール精紡機 12 )年に開行した。

い下げた。 「 十基紡 」 である。 勧 業寮は後年の農商務省である。 1880 (明治

じゅっきぼう

10 基をイギリスから取り寄せ、民間に払 13 )年 三池炭鉱、 札 幌麦酒製造所、 深川セメントなどが民間経営に移っていった。 一 方、 岡山県では1882 (明治 場払下ケ概則」を発布し、官営事業の中から、軍事・造幣・通信業を除く事業を順次民間に払い下げた。生野鉱山や 11 月5日には太政官布告 「

十基紡の下村紡績所と玉島紡績所が操業を始め、1889(明治 15 )年 鉄道事業では1872 (明治5) 年 22 )年になると倉敷紡績所も操業を開始した。

10 月

14 日、 新橋・横浜間

18 哩(

29 ㎞) 、 1874 (明治7) 年5月

神戸間 11 日大阪・

20 哩 27 鎖(

32 ・7㎞) 、 1876 (明治9) 年7月

26 日大阪・向日町間

22 哩 57 鎖(

業した。同じ1876(明治9)年、兵庫県 36 ・6㎞) に官設鉄道が開 して山陽鉄道計画の嚆矢とする。岡山県では1885(明治 13 等出仕・村野山人が神戸・姫路間の鉄道計画を発表した。この構想を

(明治 18 )年、神戸・岡山間の敷設運動がおこった。1886 19 )年

12 月 田らは、 鉄 道敷設は 急 務であると、 みず からが発 起 人となり 郎、 東京 の 荘 田 平五 郎、 九鬼隆義 、神 奈 川の 原 六郎に、神戸・姫路間の鉄道計画を 持ち か け た。 呼び か け に 応 じた石 兵衛、辰馬 吉右 衛門、 米澤長 衛、 鷲尾久 太郎、 伊 藤 長 次郎、 小西 新 右 衛門、 高 瀬藤次郎、三 宅純 一、大阪の藤田 傳 21 日、 兵庫県知事内海忠勝は兵庫県の石田貫之助、 近藤常三郎、 山邑太左衛門、 岡崎眞鶴、 光村彌

12 月

27 日、 「 先以テ 神戸姫路間 ニ鐵 道 ヲ 敷設 シ追 テ 岡山

(4)

地方ヘモ延長致度候」とうたった創立願書を提出した。書類を受け取った鉄道長官・井上勝は、幹線鉄道の整備には 神戸・姫路間だけでは不十分と回答し、 発起人は1887 (明治

20 )年 2 月

(明治 14 日、 下関までの延伸を決め1888 いう旗が立てられた 。山陽鉄道の線路は1889年(明治

金1300万円が設立され、神戸・岡山県を3年以内、岡山・広島県は6年以内、広島・下関間は9年以内の竣工と リ岡山縣岡山広島縣広島ヲ經テ山口縣赤間關ニ達スル鐵道ヲ敷設シ運輸ノ業ヲ營ムコト」を掲げた山陽鉄道会社資本 21 ) 年1月4日、 「私設鉄道条例」 第1号となる免許状を下付された。 こうして同年1月9日、 「兵庫縣神戸ヨ

22 )年9月1日姫路駅、1891(明治

24 )年3月

山駅、1894(明治 18 日岡 27 )年6月

10 日広島駅へと延び、1901(明治

43 )年5月

(明治 27 日に開業した馬関駅は1902 44 )年6月1日、下関駅に改称された 。

兵庫県西部の鉄道忌避伝承

山陽鉄道会社が那波 (相生) 以西のルートを検討し始めたのは1888 (明治

十一年度下半季 山陽鐵道會 21 ) 年 であると思われる。 『明治二 鉄道会社は、政府の手厚い保護や援助を受け1883(明治 意味である。つまりその当時、鉄道会社は用地を買収する必要がなかったのである。士族授産授業で設立された日本 ている 。「払い下げ許可」 とは、 地方官が線路や停車場用地を買い上げ、 鉄道会社に払い下ることを許可するという

と、播磨から備前に越境する船坂隧道とその前後およそ1哩(1・6㎞)の線路用地払い下げ許可があったと報告し 第參回報告』は兵庫・姫路間の開業を伝え 、播磨国揖西郡船代村から揖保中村村まで

16 )年7月

28 日、上野・熊谷間

38 哩(

させたが、 用地の問題が迅速に解決したのは、 「公用土地買上規則」 に則り、 地方官がなかば強制的に買収したから 61 ・2㎞)を開業

(5)

である。 ところが政府は1889 (明治

22 )年 7 月

31 日、 法律第

季 山 陽鐵道會 地収用法」施行までは「公用土地買上規則」の恩恵を受けていたことになる。山陽鉄道会社は『明治二十二年度上半 則」 を廃止した。 鉄道会社はみずから用地を確保しなければならなくなったのである。 つまり山陽鉄道会社も、 「土 19 号で 「土地収用法」 を公布し、 「公用土地買上規 第四回報告』に、1889(明治

22 )年6月

有年から隧道入口までを る。山陽鉄道会社は播磨から備前への越境を船坂峠に求め、隧道と隧道前後の用地を払い下げられていた。しかし、 から船阪 村大字梨ケ原までの中心線移動認可が下りたと記している 。これはルート変更が認められたということであ

ママ8

28 日、内閣総理大臣から播磨国赤穂郡有年村大字横尾 次に『赤穂市史』から、有年でおこったという鉄道反対運動を引用する。 である。 10 ‰以内に抑えるため、地方官が買収した土地とは異なるルートに変更する必要があったの

山陽鉄道会社は、設立以前の八七年一〇月に政府に提出した申請書のなかで、すでに姫路以西の測量は完了し たと述べている。しかしそれは単なる書類上のものであったか、たとえ完了していても極めてずさんなものであ り、実際に線路工事を始めるためには再測量が必要であったようである。 山陽鉄道会社が敷設ルートも決めないうちに、いわば「見切り発車」の形で工事を開始したこともあり、地元 では敷設ルートをめぐって数々のうわさが生じ、このうち伝説化したものもある。その代表的なものは次のとお りである。 (1) 鉄道は山陽道に沿って敷設されることになっていた。ところが、明治になっても伊勢詣りなどの旅人で賑っ ていた東有年村が激しく反対したため、 鉄道は東有年村の手前で北の方に迂回して敷設されることになった。

(6)

(2) 有年の川東地区(原・牟礼東・横尾村)では鉄道が通ると、汽車の振動で稲の朝露が早く落ち、収穫が悪く なるといって反対が起こった。そのため鉄道は横尾村の山裾に沿って敷設することになった。 (3) 山陽鉄道会社は、横尾村から南下して赤穂郡南部を経て岡山県片上村へ抜けるルートを計画していた。とこ ろが汽車が通ると煤煙で赤穂塩が黒くなると町をあげての反対があり、この計画は中止となった

。 これは中上川

なかみがわ

彦次郎

ひこじろう

が山陽鉄道会社の社長を務めていたころのことである。中上川は山陽鉄道が将来、交通の大動 脈になると考え、機関車や客車、貨車に十分な剛性を求めた。また複線分の線路用地や、過剰だと非難されるほどの 停車場面積を確保させた。さらに、急勾配に弱い蒸気機関車の欠点を補うため、

官が買収を済ませた有年・船坂間の勾配は 『赤穂市史』 にある 「見切り発車」 とは、 既述した中心線変更のことであると考えられる。 当初技師が測量し、 地方 10 ‰を越える勾配を許さなかった。

恒太郎とのあいだで交わした書類が残されており、そこには龍野・有年間の実質測量が始まったのは1889(明治 して搾取されることに危機感を抱いていたと考えられる。 『赤穂市史』 はまた、 原村には山陽鉄道会社の技師・吉田 10 ‰を越えていたのであろう。地権者らも、自分たちの田畑が鉄道用地と 22 )年3月

29 日で、ルート決定は4月

29 日、工事着工は6月

は三つの忌避伝承をつぎのように説明している。 も、船坂経由の決定が、 「公用土地買上規則」を盾に、半強制的土地買収がなされていたことがわかる。 『赤穂市史』 20 日以降の予定であると記されているという。ここから

いずれも信ぴょう性があるようで、現在でも語り継がれているが、後に作られたうわさとみる べき であろう。 なかでも赤穂南部 住民 が反対したといううわさは、大 正 年間に地 元紙 である 播州 赤穂 新報 が「山陽鉄道敷設さる

(7)

と聞けば荒馬のごとく鼻息あらく猛烈に反対運動を試みた資産家層」 と 論じたために、 定説化してしまっている。 いずれの場合にも反対運動を示す記録は見当たらないし、これによって計画が変更されたという記録もない。 もちろん、地元住民のなかには個人的に鉄道敷設に反対であった者はいたであろう。しかし町村をあげての反 対運動が起こったとは考えられない。山陽鉄道会社は民間資本で設立されたものであったが、その設立背景には 日清戦争を想定した軍部の存在があり、なかば国策会社であった。当時の政治情勢からみて、地方町村が政府の 方針に異議を唱えることなど考えられない。 また当時の鉄道敷設の技術水準からみても、 これらうわさの根拠となったルートは実現不可能なものであった

『赤穂市史』が有年に伝えられる鉄道忌避を信憑性の高くないものとしているように、説得力があるかと問われて も、あるとは答えられない。しかし、明治

えであるとも考えられる。 あろうし、鉄道敷設に反対した集落が出てきても不思議ではない。全国に鉄道忌避伝承があるのは、こうした背景ゆ 律であったであろうが、一方的な土地供出を求められる農家の側に立てば、鉄道を忌避するに十分な動機になったで を差し出すことには強い抵抗があってしかるべきである。 「公用土地買上規則」 は鉄道会社にとっては都合のいい法 鉄道会社が敷設ルートとして選んだ場所は、第一次産業の盛んなところであったと考えられるので、鉄道用地に農地 20 年代の人々にとって、農地は生活の糧であったと思われる。とくに山陽

(8)

『和気の歴史』と「西大寺町誌」

中学校社会科歴史副読本 『 和気の歴史』 は1968 (昭和

「郷土資料」 第4集である。 同誌は1980 (昭和 43 ) 年 、 和気中学校の校舎落成を記念して刊行された その中から、鉄道忌避に関するところを引用する。 65 ) 年 、 和気氏研究会から一般向け図書として再版されている。

山陽線は初め日生町から備前町片上、西大寺市を通って、岡山へ向かうはずであったが、付近の農家の大反対に あって、和気を通るように変更されたのである。和気付近の人も決してよい顔はせず、汽車の煙で火事がおこる とか、牛があばれて耕作できぬとか、鶏が卵を産まなくなるとか、ブツブツ言ったものだった。なかには、三石 のように、住民がそろって反対し、 「三石に駅は絶対つくらせぬ。 」と意気まく光景も現われた。また熊山町北部 の村々のように、自分たちの反対運動で線路がはるか南方を通るようにきまると、大喜びし、みんなそろって祝 杯をあげたあと、万歳を三唱したところもあった

冒頭で紹介した『岡山の歴史ものがたり』に似た内容であるが、三石から熊山にかけての人々の様子が具体的に描 かれている。中学校で教員からこんな話を聞かされた生徒はどう思うであろう。 「汽車の煙で火事がおこる」 「牛があ ばれて耕作できぬ」 「鶏が卵を産まなくなる」 は、 全国で聞かれる常套語である。 煙で火事がおこることはないと思 うが、蒸気機関車が吐き出した火の粉で火事がおこったのは事実である。当時の蒸気機関車の走行音と地響きは近距

(9)

離からでないと実感するのはむずかしいし、鉄道黎明期に輸入された機関車が、牛を驚かせるほどの迫力であったか どうかも疑わしい。かつて姫新線で蒸気機関車を運転した機関士は、牛が集まってきて急停車したことがあると話し ていた。いずれの常套語も人を笑わせるには十分かもしれないが、それらによってルートが変更され、人々が大喜び したとは信じがたい。同著は、和気駅開業日の様子をつぎのように紹介している。

当時の和気駅は実に粗末で、まだ一つの建物も建っていないありさまだった。また、プラットホームも、金剛川 の河原から土砂を運んできて、線路のわきに盛りあげた急場しのぎのものであった。当時和気駅は、全く青空の はだかステーションといってよかった。それに駅の付近も現在とちがい、金剛川の河原は駅のすぐ北まで広がっ ており、竹やぶもつづいていて、あたりには家は1軒もなかった

ところが『明治二十三年度上半季 山陽鐵道會社 第六回報告』には、和気駅には停車場1棟、停車場付属家4棟、 荷物積み下ろし1棟、駅長役宅1棟が竣工もしくは造営中と記されている

。「山陽新報」は3月

で三石駅、吉永駅、和気駅、瀬戸駅、長岡駅は同一構造である 13 日付「瀬戸停車塲」

、4月9日付「山陽鉄道會

客上家2号には「明治 は停車場1棟、停車場付属家4棟、荷物積み下ろし1棟、駅長役宅1棟があると報じている。和気駅2番ホームの旅 の諸建物」では和気駅に るのは2005(平成 の1ヶ月前に財産登録を終えていたことがわかる。 『明治二十三年度上半季 山陽鐵道會社 第 六回報告』 が載ってい 24 年2月」と書かれた建物資産標が貼られているので、岡山県内最古の木造鉄道建造物は開業 17 )年に発行された『明治期私鉄営業報告書集成』であるが、1891(明治

報を調べていれば、こうした記述にはならなかったはずである。いずれにしても『和気の歴史』の信憑性は疑わざる 24 )年の山陽新

(10)

をえない。 つぎは、 『岡山の歴史ものがたり』に出てくる西大寺の鉄道忌避についてである。西大寺に住む知人も学校で、 「山 陽鉄道が西大寺を通過しなかったのは住民の反対があったからだ」 と教えられたと話す。 ところが、 『西大寺町誌』 はつぎのように述べている。

工業の発達と共に、 交通機関の発達の波も当地に押し寄せて来た。 山陽鉄道( 株) による山陽鉄道の敷設がこれ である。ついで東の神戸・姫路から来た鉄道が岡山まで延びることになったが、もしも西大寺村を通してもらう ならば、勧商会社という県が指導してく

ママ

った会社を通じて五万円の株を持たねばならなかった。かといって紡績 会社を建設することになると、少く

ママ

とも五万円の見込みであった。しかし村では同時に両方をするだけの資金は なかったので、いずれか一方に決めねばならなかった。 当時の日本の新しい歩みは着々と進み、東洋における日本の地位は次第に固まり、景気は上昇の一途を辿って いた。特に交通事情よりも紡績工業において明らかであった。山陽鉄道敷設か、紡績会社の設立かで、村中の輿 論は盛んであったが、利益が多い紡績会社が絶対多数であった。しかし、紡績は派手で、儲かれば二つでも建つ が、鉄道は儲かっても二つはつくれぬから地味だが安全だという見方もあった。さらに最も重大な岐路をなした のは、当村に港があったことで、当時近村を合わせて帆掛船が四十艘もあって、鉄道が架かると港が衰えるとい う理由で、舟主や港湾業者と、用地買収にかかる農家とが反対をした。しかし町中をあげて絶対反対をしたので はない。それが証拠、村の有力者の中には山陽鉄道の株をもっていて、同株を銀行へ担保に入れ、その担保物権 差入証が今に残っている。滝野の会議で、どこを通するか

ママ

決定するとき、開通論者の一人であった満藤恒は、自

(11)

分一人でも出席するといったが、後援者がなかったといわれている。 ところで村民としてはうまく鉄道を排斥して一安心したので、紡績業に踏み切ることもしないでいた。そうし て明治二十四年山陽鉄道が岡山迄開通してみると、村民の大多数は先見の明か

ママ

なかったことも後悔した

山陽鉄道会社は株式会社であった。敷設費や車両購入費を捻出するには株式が売れなければならない。県の指導で つくられたという勧商会社の存在はまだ検証できていないが、西大寺村に5万円分の株券購入が持ちかけられたこと は想像にむずかしくない。 吉井川河口の西大寺では、 満潮時に海水が逆流し、 吉井川が氾濫することがあったという。 塩分を含んだ耕地で栽培されたのは綿花であったようで、 1896 (明治

治 つまり西大寺村は鉄道株ではなく紡績株を選んだのであろう。しかし山陽鉄道姫路・岡山間が開業した1891(明 29 ) 年 には西大寺紡績が操業を始めている。

中心地として賑わっていた西大寺から繁栄が遠のいたのである。1911(明治 24 )年、西大寺・和気間の高瀬舟や阪神・九蟠港間の瀬戸内海航路が鉄道に荷物を奪われ、それまで岡山県の経済

あるが、西大寺にふたたびかつての賑わいが戻ることはなかった。 が開業し、1915(大正4)年には軌道から地方鉄道に切り替えた西大寺鉄道西大寺町・後楽園間が全通するので 44 )年には西大寺軌道観音・長岡間

船坂経由の検証

2005 (平成

張って進むものでした。鉄道予定地の沿線の住民は、 「汽車の煙で火事になる」 「鶏が卵を産まなくなる」などと反対 17 ) 年に出版された 『岡山の交通・今昔物語』 には、 「当時の汽車はイギリス製の蒸気機関車が引っ

(12)

し、何度か予定地が変更されました

トである。 『明治二十一年度上半季 山陽鐵道會社 第貳回報告』にはこう書かれている。 根拠となったルートは実現不可能なものであった」 と記す 「 現実不可能なルート」 は、 相生・赤穂・片上・西大寺ルー がたり』 や 『和気の歴史』 と同じである。 『赤穂市史』 が 「 当時の鉄道敷設の技術水準からみても、 これらうわさの 」と書かれている。 「反対運動により予定地が変更された」は、 『岡山の歴史もの

神戸岡山間ノ中途播備ノ國界ハ群嶺並峙シ第一區神戸岡山間ノ線路中施工ノ難所ナリトス當初豫測濟ノ線路ハ有 年及ビ船坂ノ嶮アルガ故ニ他ニ好線路ヲ得テ此嶮ヲ避ケントスレトモ南方赤穂ノ線路ニハ高取峠ノ横ハルアリ北 方上郡ノ線路ニハ南谷越アリテ彼此ノ採擇容易ナラズ故ニ當期ノ初ヨリ彼ノ地方ニ數々技士ヲ派遣シ精細ニ探測 シツヽアレトモ事未ダ結了ニ至ラス

『日本国有鉄道百年史』第2巻にはつぎの件がある。

姫路・岡山間は姫路を起点とし龍野町の南方を経て兵庫・岡山両県境の船坂峠を越え岡山市に至るもので、大き な河川としては揖保川・千種川(別名・有年川) ・吉井川および岡山市内の朝日川

ママ

があった。当初、路線選定に は船坂山経由の山間盆地線と赤穂を経由する海岸線の2線が考えられたが、後者は前者に比し平坦で人口の多い 区間であったが、途中多くの長大隧道の掘削を要すため前者が採 用 された

1 990 (平 成 2)年に 出版 された『日本鉄道 請負業 史』 昭 和(後期) 篇 に 載せ られている山陽線と赤穂線の比 較

(13)

表を [表1] に示す。 赤穂線の全線開業は1962 ( 昭和

がある 赤穂線には西相生・坂越間の高取隧道1530mや備前福河・寒河間の福川隧道1602mをはじめとする隧道9つ 敷設距離は赤穂線よりも山陽線が3㎞長いが、 隧道と橋梁は赤穂線のほうが長い。 山陽線には船坂隧道だけであるが、 37 ) 年 であるが、 船 坂経由と赤穂経由の違いがよくわかる。

かつ隧道前後の勾配を 。 山陽鉄道会社は船坂隧道を最短距離で掘削し、

での約 2・4㎞三石駅方から、吉永駅の2・4m三石駅方ま 10 ‰以内とするため、上郡駅の 種川橋梁403・6m 15 ・1㎞を迂回区間とした。山陽線の橋梁は千

の吉井川橋梁401mなど4橋梁がある 河・日生間の第2寒河橋梁478mや大富・西大寺間 赤穂線には西相生・坂越間の千種川橋梁322m、寒 閒川橋梁256m、 旭川橋梁256mなどであったが 、吉井川橋梁460・2m、百

いたと著している るルートと上郡から才ヶ峠を越えるルートも検討して 長船友則は『山陽鉄道物語』で、有年から鯰峠を越え 当然、 海岸ルートと船坂ルートを比較したであろうし、 間の敷設ルートを検討した山陽鉄道会社の技師たちは 。那波・岡山

道は登れるところまで登って最短距離で掘る。橋梁は 。明治時代の鉄道敷設の定石は、隧

山陽線 赤穂線

延長 60. 4㎞ 57. 4㎞

最小曲線半径 402m 700m

最急勾配 10‰ 10‰

勾配延長 下り 7, 900m 3, 420m 上り 10, 810m 5, 690m

橋梁 1, 650m 2, 308m

隧道 1, 170m 8, 961m

最高点( 標高) 115. 4m 26. 6m

牽引定数( D52) 120 130

勢力範囲内人口 85, 000人 174, 000人

表1 赤穂線と山陽線の比較(表2-2赤穂線と山陽線の比較」(『日本鉄

道請負業史』昭和(後期)篇、日本鉄道建設業協会、1990年)、596頁)

(14)

直角に架け、できるだけ短くするであった

は、大多羅反射炉の耐火煉瓦が焼成された1865(慶応元)年をして嚆矢とするが また、船坂経由に決めた要因のひとつには、開業後の貨物輸送への期待があったと考えられる。岡山県の煉瓦製造 。

したのは稲垣兵衛である。稲垣は1886(明治 、商業用耐火煉瓦の製造に成功

19 )年、岡山市紺屋町に稲垣耐火煉瓦製造所を開設している

が耐火煉瓦の生産地になったのは、加藤忍九郎が三石煉瓦製造所を設立した1890(明治 。三石

23 )年以降である

加藤は耐火煉瓦を輸送するため、山陽鉄道の三石誘致を説いたという 成に成功したのである。三石に耐火煉瓦工場が造られたのは、三石蝋石があり備前焼の登り窯があったからである。 で掘り出される蝋石 から石筆を作ることに成功した加藤は、石筆の端材から耐火煉瓦を製造することを思いつき、焼

ろうせき

。三石

のために海岸線ルートへの敷設を断念したと判断するのは早計であると考える。 このあたりに「表1」 。以上のことから、山陽鉄道会社が、反対運動

和気における鉄道忌避伝承

『熊山町史』には、吉崎一弘による和気圏域の鉄道忌避伝承聞き取り調査が載っている。

当山陽鉄道の企画は明治二十二年、政府認可は同二十三年、開通は明治二十四年であった。線路は最初、吉井 川右岸 ( 西岸) を 通る予定であったが住民の反対運動により左岸に変更されたと古老は言い伝えている。 「鉄道 で田がつぶされる。釜焚きの火で火事が起こる。ごう音で牛があばれて田は耕せず、鶏は卵を産まなくなる。若 者が無駄金を使うようになる」 。いろいろの理由が並んだ。熊山町域で聞かれる伝承は四つある。

(15)

①[豊田地区伝承]陸蒸気

おかじょうき

が和気から鉄橋を渡って石生

いわぶ

へきて豊田村の真ん中を突っ切り、徳富のトンネルを万 富へ抜けて瀬戸・岡山へ向かうようになったら、農業はつぶれ村は壊滅するといって全村が反対に立ち上がっ た。その結果線路は左岸に移された(土井易雄・金谷茂久次談) 。 ②[小野田地区伝承]陸蒸気は古代官道[山陽道]跡を通すことに決まり、和気

↓ 石生

↓ 豊田

↓ 沢原 トンネル ↓ 沢原西山

③[可真地区伝承]陸蒸気は豊田 いうから、計画どおりできていたら沢原は繁盛し今は街になっていただろう(小竹堅談) 。 害で暮らしが立ちいかなくなると反対し、有力者に頼み込んで廃案にさせた。だが駅の予定地は沢原だったと ↓ 可真 、そして日古木 峠をこえ旭川を渡って岡山へ入るように発表された。しかし農民たちは農業妨

かまひこぎ

↓ 小野田(沢原)

↓ 可真下

↓ 可真上

↓ 日古木峠(一説東軽部)から馬屋

まや

渡河 ↓ 旭川

など幼時から聞いた覚えは全くない。とにかく当村では陸蒸気はすなおに迎えられた(村田繁喜談 だか、そんなことは聞いていない。豊田・小野田などでは反対があったと最近聞いたが、そんなことがあった ④[熊山地区伝承]陸蒸気がわが村を通るようになったとき、それに反対した者はいなかった。喜んだか悲しん 紙撤回させた。 だが現在、 先 見の明の点からみて果たして良かったことかどうか (棚田勇、 山本孝、 蒲 本明談) の打撃が大きいと言うて村長大石廉、校長らが県会議員に働きかけ、一般農民とともに猛運動して、これを白 ↓ 岡山のルートが古代山陽道順路跡というので浮上した。そして早速杭打ちも行われた。ところが農業へ

)。

①と②が『和気の歴史』の「熊山町北部の村々のように、自分たちの反対運動で線路がはるか南方を通るようにき まると、大喜びし、みんなそろって祝杯をあげたあと、万歳を三唱したところもあった」と一部共通する。しかし、 ④とはずいぶん開きがある。あいだに吉井川が流れているとはいえ、 「全村が反対に立ち上がった」ほどの大騒動が、

(16)

対岸の熊山地区に聞こえてこなかったとは考えられない。③の馬屋迂回ルートは山陽鉄道会社が掲げた、牟佐を経由 する架空ルートである。詳細はつぎの「山陽鉄道和気通過についての考察」で触れる。

山陽鉄道和気通過について

山陽鉄道会社のイギリス人技師・ベルチャーと日本人技師・大島仙蔵、社員・高島義太郎が

西大寺町の三好野に投泊し 24 日、岡山に到着し、

26 日早朝、線路巡視のため福山に向けて出発したと報じた1888(明治

21 )年5月

付から 26 日

、「山陽新報」 に 山陽鉄道に関する記事が増えていく。 その中から和気ルートにかかわる1889 (明治

年の記事をいくつか抜粋し、その概要を書き出す。 22 )

3月

15 日付「山陽鉄道豫測の線路

7月 線路は和気で吉井川を越えて磐梨郡にはいり、西南に走って同郡下村から上道郡沼村にいたる。 」

18 日付「山陽鉄道線路測量

7月 磐梨郡から赤阪郡にはいり、牟佐で旭川を越えて岡山へのルートを測量中である。 」

30 日付「鐵道線路測量續報

9月 かし、赤阪郡西高月村馬場の藤八郎氏らは山陽鉄道会社に牟佐経由を熱心に訴えている。 牟佐経由はあくまで参考線で、すでに南線には煉瓦製造所まで建設しているので牟佐経由になる可能性は低い。し 」

17 日付「鐵道線路確定

(17)

山陽鉄道ルートには、和気で吉井川を越えて磐梨から赤坂に抜けるものと、熊山村大字勢力

せいりき

で吉井川を渡り磐梨上 道郡にいたるものがある。山陽鉄道会社は熊山経由の測量にも着手した。

10 月9日付「山陽鉄道線路

る算盤高い輩がいるという。 を買い上げるという噂があることから、いまのうちに地主から土地を安く買い上げておいて、利ざやを稼ごうとす 山陽鉄道会社が測量を続けるルートの地代は相対的に3~4割高騰している。今年中か遅くても来年早々には土地 」

10 月

19 日付「鉄道線路細測

山陽鉄道会社は1888(明治 」

トのほうが適切であることがわかったので、測量し直すことにした。 20 )年に測量を終えているが、参考までに牟佐経由を測量した。しかし、当初ルー 11 月

27 日付「山陽鐵道敷地

も内々に検討している。 取得にあたり、地代の高騰に頭をかかえている。もしもこのまま高値が続くようなら、別のルートに変更すること 「土地収用法」が発布されてから、各私設鉄道は用地の買収に当惑し続けている。山陽鉄道会社も三石以西の用地 」

12 月5日付「和氣に停車塲設置を望む

もりだが、いまとなっては作州の人々の要望が聞き入れられる可能性は低い。 なるべく便宜を図りたいが、技術的問題で困難だと伝えたという。矢吹氏らは近々、中上川社長に建言書を出すつ 噂が流れている。 そこで津山の矢吹氏ら2~3人は山陽鉄道会社に本和気への駅設置を懇願した。 しかし会社側は、 吉井川の高瀬問屋にとって、本和気に駅ができたら、船からの積み込みに好都合だが、本和気にはおかないという 」

(18)

12 月6日付「山陽鉄道に關する彙報

岡山以東の測量は 」

12 月中旬で終わる予定で、順次、用地界標を立てている。線路の幅はおおむね7間(

ると、岡山までの用地買収はさほどの苦労ではないだろう。 のような鉄道敷設に、地主がいつまでも地代を釣り上げ続けることはないと思われる。岡山県東部での話がまとま 山陽鉄道会社の用地買上予算は、地価の1割半増しである。和気周辺では話が込み入っているようだが、公共事業 12 ・7m) 。 12 月8日付「山陽鉄道に關する彙報

年1月末になるだろう。地価も数割高騰し、地主も強気になっている。容易に土地を手放すとは思えない。 合をもつことになった。しかし一朝一夕にはまとまりそうにない。おそらく年内の決着はむずかしく、早くても来 山陽鉄道会社の用地買収はなかなか進んでいない。会社ももてあまし気味で、今度、沿線の郡長を県庁に集めた会 」

12 月

22 日付「鉄道敷地買上

か応じようとしない。豪商と地主の駆け引きが続いている。 岡山市内には、上道郡の地主から線路用地を買い込もうと熱心に掛け合っている豪商が多い。しかし地主もなかな 」

7月

になったかは、 山 陽新報の記事からもうかがい知ることができる。 「山陽新報」 は 社はみずから地権者と交渉して用地を買上げなければならなくなった。用地買収が山陽鉄道会社にいかに大きな障害 西に大きく迂回するルートである。 「公用土地買上規則」 に代わる 「土地収用法」 が施行されたことで、 山陽鉄道会 30 日付の 「 南線」 とは現在の山陽線ルートで、 「牟佐経由」 は 「馬屋迂回ルート」 と 同じ、 吉 井川右岸から北

前市吉永町)の村長らが、沿路予定地の買収額は地価の2割増が妥当だと述べたと報じている 12 月3日付で、 和気郡英保村 ( 備

。村や町をあげて鉄道

(19)

敷設に反対したはずの住民らは、 じつは地代を釣り上げていたのである。 山 陽鉄道会社は 『明治二十二年度下半季 山陽鐵道會社 第五回報告』で、 「土地収用法」の発布で、従来地方官が民有地を買収して鉄道会社に払い下げていた 制度が廃止されたため、苦情百出して困難をきわめ、工事の進捗も大きく後退したと報告している

道用地収用ノ儀ニ付稟請」 を提出したが、 訴えは却下された が買収して払い下げるよう求めた。日本鉄道会社をはじめとする私設鉄道会社の社長らも連名で、黒田に宛てた「鉄 日、内閣総理大臣・黒田清隆に、私設鉄道会社にとって土地の買収がいかに困難であるかを訴え、従来どおり、国家 。中上川も8月

。「山陽新報」 は

10 月 10 日付や

11 月 地所有者が法外な地代を付けることに警鐘を鳴らしている 27 日付で、 沿線の土

山陽鉄道和気通過についての考察

和気における鉄道忌避伝承を整理すると、およそつぎのようになると思われる。山陽鉄道会社は当初、本和気に駅 をおき、 そこから直角橋梁で吉井川を越えて磐梨郡にはいり、 吉井川右岸から上道郡、 岡山市にはいる計画であった。 そうすれば、金剛川橋梁を架設する必要はない。本和気の東には敷設に適した土地もある。吉井川右岸には平野が広 がり、 敷設工事に問題はなさそうである。 集落と人家も多いので、 開業後の利用が見込める。 [図1] に、 当初予定 コースを 計画線 として示す。 しかし、計画線 沿線で地代の釣り上げが始まった、そこで山陽鉄道会社は、計画線 のほかに、赤阪郡西高月村大 字牟佐(岡山市北区牟佐)を迂回する 北線 の測量を始めたと発表した。ところが山陽鉄道会社は、上道郡梶岡(岡 山市東区上道北方) に鉄道専用の煉瓦製造所を開設していた。 当時は珍しかった煉瓦製造所である。 「山陽新報」

(20)

3月 31 日付「山陽鉄道用の煉瓦製造所

岡にも独自の煉瓦製造所を建設した 瓦から煉瓦の供給を受けるとともに、三石、和気、梶 多く、 山陽鉄道会社は大阪南部の堺煉瓦と岸和田煉 ある。敷設現場近くに煉瓦製造所を設けた鉄道会社は 瓦を焼く工場で、優れた品質の煉瓦を生産したようで あったと思われる。梶岡付近から岡山駅までに使う煉 上道駅の西およそ600mにあった小高い山の名前で 岡煉瓦製造所の記事を頻度高く掲載している。梶岡は 」を最初に、梶

また、岡山の実業家・稲垣兵衛が1888(明治 瓦製造所は本領を発揮できなくなる。山陽鉄道会社は 北線 を採用すると線路は梶岡付近を通過しない。 煉 んに製造したのが梶岡煉瓦製造所であった。しかし、 。その中で最も盛

とを察知して煉瓦製造所を建設したとのではないかと た。稲垣は、山陽鉄道会社が 計画線 に線路を敷くこ 2㎞ばかり北西にあり、 計 画線 の通過予定地であっ 入している。松木は山陽線熊山駅から吉井川を隔てた 年5月、松木に建てた稲垣煉瓦製造所からも煉瓦を購 21 )

図1 山陽線の線路位置と山陽鉄道の当初予定ルートの仮説図(5万分の1地形図

「片上」(部分)、大日本帝國陸地測量部、1901年に加筆)

(21)

考える

1889(明治 。

22 )年7月

し、 吉井川左岸の土地買収にあたらせた 解できる。あるいは 北線 でも地代の釣り上げがおこっていたのかもしれない。山陽鉄道会社は、日笠恒太郎を採用 必らず北路を取りて貰ひたしとの素望を抱き斯くと會社の係員に申込みしにぞ」は忌避ではなく鉄道歓迎であると理 30 日付「鐵道線路測量續報」の「赤阪郡西高月村馬塲藤八郎氏など云へる人々が熱心に

和気郡第5戸長役場戸長から和気郡書紀を経て、1882(明治 。 日 笠は1854 (嘉永7) 年和気郡奥吉原 (赤磐市奥吉原) に生まれ、

陽鉄道会社に書記として採用されたのは1889 (明治 15 )年からは岡山県会議員に3期連続当選した。山 22 )年

12 月であった

年8月 広くなった勢力に 「曲がった鉄橋」 を架けなければならなかった。 事実、 千 躰 に駅が造られたのは1930 (昭和

せんだ

橋梁の架設が必要であった。つぎに、吉井川右岸よりも地形が複雑で集落数も少ない。そして、本和気よりも川幅の 山陽線 である。山陽鉄道会社にとって 山陽線 は、計画線 に比べてハンディの多いルートであった。まず、金剛川 。 日笠が買収したルートが [ 図1]

11 日であった。1917(大正6)年7月

先生から教わった話では、日本中どこにもない、吉井川の鉄橋だけだと云う事であった」と紹介している 内田百閒は 『春光山陽特別阿房列車』 で、 「曲がった鉄橋と云うのは、 外に例があるか知ら。 子供の時、 高等小学で 10 日に開設された熊山信号場を駅に昇格させた。初代吉井川橋梁を

このあたりに「図1」 「曲がった鉄橋」に 挑戦 したとは考えられない。架け ざ るをえない特別な事 情 があったはずである。 術を修得したであろうが、先見性に 富 み、かつ 合 理 的 に 物 事を考える中上川が社長を 務め ていた時代である。あえて が定石であった明治時代中期、斜角橋梁でもない「曲がった鉄橋」を架けたのである。山陽鉄道会社は高度な架設技 。直角橋梁

(22)

おわりに

青木栄一も指摘すように、鉄道忌避の伝承は全国にある。山陽鉄道玉島駅(新倉敷駅)の位置をめぐっても、玉島 港で「鉄道来るな」の運動があったという。玉島はまだ港で栄えていたので、港のかかわりで生計を立てている人が 多かった。鉄道が通ったら港がさびれると、港近くに駅を造ることに猛烈に反対したため、駅は隣の長尾村に建てら れ、 名前だけが玉島になった

はまったく登場しない。半面、1889(明治 、 と いうのである。 和気の場合もそうであるが、 「山陽新報」 に 「 鉄道来るな」 の 記事

22 )年6月

道敷設を計画し、すでに数回の会合を持ったと報じている 22 日付では、浅口郡の板谷九郎らが玉島港・米子港間の鉄 思われる。玉島駅から玉島港に向かっては1911(明治 連絡鉄道計画であり、伯備線ルートの提唱であった。板谷らの鉄道計画と「鉄道来るな」には明らかな矛盾があると 。板谷らの計画は、岡山県内からだされた最初の山陰山陽

44 )年8月

爪崎 ・玉島間の免許状が下付されたが1912(明治

つまさき

29 日、大阪の才賀藤吉ほか8名に玉島軽便鉄道 45 )年5月

27 日、失効している

画はその後も続き、玉島市(倉敷市)は1955(昭和 。玉島駅と玉島港を結ぶ鉄道計

30 )年の 鉄道を敷設することを議決し、1961(昭和 12 月議会で、玉島駅・玉島乙島字大平間に玉島臨海 おこったため1976(昭和 36 )年、敷設工事に着手した。ところが地盤沈下という不測の事態が 51 )年、計画を白紙撤回した

そ7・5㎞まっすぐ走っているのである。まさに理想的なルート選定である。仮に玉島港に駅をおくとすると、倉敷 つの高梁川の前後で微妙なカーブを描き、東西高梁川を直角に渡っている。そして西高梁川を越えたあたりからおよ 明治時代の地形図を開くと、玉島駅前後の線路はまっすぐである。まだ東高梁川があったころである。線路はふた 。

(23)

駅からの線路は南西に向かうことになる。東西高梁川に直角橋梁を架けることや、下流に行くほど幅を広げる川のど こに架設するかが問題になる。現在のルートに比べ、より広い湿地帯を通過することにもなる。玉島は江戸時代から の干拓によって造られた町で、家屋も密集している。線路や停車場用地の確保にも困難が予想される。玉島港の西に は山が迫っている。これら諸条件からも、山陽鉄道会社が選んだルートがいかに理にかなったものであるが理解でき る。あるいは明治時代の鉄道技師は、玉島臨海鉄道のような地盤沈下を読んでいたのかもしれない。 全国にあり、いまもいい伝えられている鉄道忌避の話が検証されてきたとはいいがたい。筆者のごく浅い調査から でさえ、いくつかの疑問点がみえてきた。正しく歴史を検証するには先入観を捨てて資料を見直す必要がある。いま まで趣味的にしか捉えてもらえなかった鉄道であるが、鉄道は文字通り日本の近代化を牽引してきた。忌避を名誉と 捉えるか不名誉と考えるかは別として、ただしい認識に軌道修正する必要があると考える。

注 1「港町をさけて」 (岡山県小学校教育研究会社会科部会編『岡山の歴史ものがたり』 、日本標準、1981年3版) 、154~15 5頁。 2青木栄一 「鉄道忌避伝説否定の実証」 (『鉄道忌避伝説の謎 鉄道が来た町、 来なかった町』 、 吉 川弘文館、 2 006年) 、

3「初期の授産政策」 (岡山県史編纂委員会編『岡山県史』第 22 ~ 5「山陽本線(山陽線の部)神戸~姫路~岡山~広島~柳井~下関」 (石野哲編『停車場 変遷 大事典 』国鉄 ・ 5年) 、Ⅴ~Ⅵ。 4老川慶喜 「 山陽鉄道会社の概要」 (老川慶喜編 『明治期私鉄営業報告書集成4 山陽鉄道会社』 第 1巻、 日 本経済評論社、 2 10 巻 近代Ⅰ、岡山県、1986年) 、235~242頁。

98年) 、219、222、228、235頁。 JR 編 Ⅱ 、 JTB 、19

(24)

6 「営業開始」 (『明治二十一年度下半季 山陽鐵道會社 第參回報告』 、山陽鐵道會社、1889年) 、

19 ~ 営業報告書集成4 山陽鉄道会社』第1巻、 20 頁。 前掲 『明治期私鉄 73 ~ 7「鉄道用地」 、前掲『明治二十一年度下半季 山陽鐵道會社 第參回報告』 、 74 頁に掲載。

社』第1巻、 22 頁。前掲『明治期私鉄営業報告書集成4 山陽鉄道会 8 「中心線移動」 (『明治二十二年度上半季 山 陽鐵道會社 第 四回報告』 、山陽鐵道會社、1889年) 、 76 頁に掲載。

9「敷設ルートをめぐるうわさ」 (赤穂市史編さん専門委員編『赤穂市史』第3巻、兵庫県赤穂市、1985年) 、212頁。 業報告書集成4 山陽鉄道会社』第1巻、131頁に掲載。 33 頁。 前掲 『明治期私鉄営 10 同212~213頁。

250頁。 11 仙田実 「 山陽線の開通 本和気に代わって和気駅前栄える」 (和気中学校編 『 和気の歴史』 、岡山県和気郡和気町、1968年) 、 12 「山陽線の開通 本和気に代わって和気駅前栄える」 、同251頁。

13 前掲 「建築工事ノ事」 、『明治二十三年度上半季 山 陽鐵道會社 第 六回報告』 、

道会社』第1巻、259頁に掲載。 31 頁。 前掲 『明治期私鉄営業報告書集成4 山 陽鉄 14 「瀬戸停車塲」 (1981年3月

13 日金曜日付「山陽新報」 )、3頁。

15 「商工業育成機関」 (西大寺町誌編集委員会編『西大寺町誌』 、西大寺町誌刊行会、1971年) 、121~122頁。

16 「山陽鉄道」 (劇画・郷土の歴史『岡山の交通・今昔物語』 、吉備人出版、2005年) 、114~115頁。

17 「建築工事ノ事」 (『明治二十一年度上半季 山陽鐵道會社 第貳回報告』 、山陽鐵道會社、1888年) 、

営業報告書集成4 山陽鉄道会社』第1巻、 32 頁。 前掲 『明治期私鉄

46 頁に掲載。

18 「姫路・岡山間の建設」 (『日本国有鉄道百年史』第2巻、日本国有鉄道、1970年) 、572頁。

19 「播州赤穂・日生間表2―3赤穂線新線建設土木関係主要工事」 、前掲『日本鉄道請負業史』昭和(後期)篇、597頁。

20 「建築工事ノ事」 (『明治二十二年度下半季 山陽鐵道會社 第五回報告』 、山陽鐵道會社、1890年) 、

28 頁。 前掲 『明治期私鉄

(25)

営業報告書集成4 山陽鉄道会社』第1巻、194頁に掲載。

21 「建築工事ノ事」 (『明治二十三年度上半季 山陽鐵道會社 第六回報告』 、 山 陽鐵道會社、 1 890年) 、

26 ~ 私鉄営業報告書集成4 山陽鉄道会社』第1巻、254~255頁に掲載。 27 頁。 前掲 『明治期 22 前掲「播州赤穂・日生間 表2―3 赤穂線新線建設土木関係主要工事」 、『日本鉄道請負業史』昭和(後期)篇、597頁。

23 「船坂峠越えルートの決定」 (長船友則『山陽鉄道物語』 、JTB、2008年) 、

53 ~ 54 頁。

24 「線路選定史概要」 (日本国有鉄道編『鉄道技術発達史』Ⅱ 第2篇施設1、日本国有鉄道、1959年) 、331頁。

25 「大多羅反射炉の結末」 (金子功『反射炉』Ⅱ、法政大学出版局、1995年) 、395頁。

26 「耐火煉瓦の創始者」 (久米龍川『稲垣兵衛翁』 、私家版、1940年) 、

13 頁。

27 「加藤忍九郎と耐火煉瓦」 (岡山県史編簒委員会篇『岡山県史』第

10 巻 近代Ⅰ、岡山県、1986年) 、568~569頁。

28 「旧國道布設冀望会」 (岡長平『加藤忍九郎伝』 、三石文化クラブ、1958年) 、

85 頁。

125~127頁。 29 吉崎一弘 「新しい交通システムのエース 「汽車」を追う」 (熊山町史編纂委員会編 『 熊山町史』 通史編下巻、 熊山町、 1994年)

30 「技師來岡」 (1888年5月

26 日土曜日付「山陽新報」 )、2頁。

31 「山陽鉄道豫測の線路」 (1889年3月

15 日金曜日付「山陽新報」 )、1頁。

32 「山陽鉄道線路測量」 (1889年7月

18 日木曜日付「山陽新報」 )、1頁。

33 「鐵道線路測量續報」 (1889年7月

30 日火曜日付「山陽新報」 )、5頁。

34 「鐵道線路確定」 (1889年9月

17 日火曜日付「山陽新報」 )、1頁。

35 「山陽鉄道線路」 (1889年

10 月9日水曜日付「山陽新報」 )、1頁。

36 「鉄道線路細測」 (1889年

10 月 19 日土曜日付「山陽新報」 )、2頁。

37 「山陽鐵道敷地」 (1889年

11 月 27 日水曜日付「山陽新報」 )、1頁 38 「和氣に停車塲設置を望む」 (1889年

12 月5日木曜日付「山陽新報」 )、2頁。

(26)

39 「山陽鉄道に關する彙報」 (1889年

12 月6日金曜日付「山陽新報」 )、1頁。

40 「山陽鉄道に關する彙報」 (1889年

12 月8日日曜日付「山陽新報」 )、2頁。

41 「鉄道敷地買上」 (1889年

12 月 22 日日曜日付「山陽新報」 )、2頁。

42 「山陽鐵道路地買上」 (1889年

10 月3日木曜日付「山陽新報」 )、1頁。

43 前掲「建築工事ノ事」 、『明治二十二年度下半季 山陽鐵道會社 第五回報告』 、

25 ~ 会社』第1巻、191~192頁に掲載。 26 頁。 『明治期私鉄営業報告書集成4 山陽鉄道 44 「土地収用法の施行に伴う用地買収の問題」 、前掲『日本国有鉄道百年史』第2巻、563~566頁。

45 「鐵道の敷地」 (1889年

10 月 10 日木曜日付 「 山陽新報」 )、 2頁。 「山陽鐵道敷地」 (1889年

11 月 1頁。 27 日水曜日付 「山陽新報」 )、

46 「山陽鉄道用の煉瓦製造所」 (1889年3月

31 日火曜日付「山陽新報」 )、1頁。

47 「鉄道用煉瓦製造所の續報」 (1889年3月

15 日金曜日付「山陽新報」 )、1頁。

48 「煉瓦製造所支社」 (1888年5月1日火曜日付「山陽新報」 )、1頁。

312~314頁。 49 吉崎一弘「三石から岡山への路線問題難航」 (和気郡史編簒委員会編『和気郡史』通史編下巻Ⅱ、和気郡史刊行会、2002年)

50 「日笠恒太郎」 (岡山県歴史人物事典編纂委員会編『岡山県歴史人物事典』 、山陽新聞社、1994年) 、831~832頁。

51 「曲がった鉄橋」 『春光山陽特別阿房列車』 (『第二阿房列車』 、新潮社、2003年) 、107頁。

52 「玉島駅」 (森脇正之『玉島風土記』 、『岡山文庫』169、日本文教出版、1994年) 、166頁。

53 「備中国淺口郡玉島通信」 (1889年6月

22 日土曜日付「山陽新報」 )、3頁。

54 「玉島軽便鉄道」 (倉敷市史研究会編『新修倉敷市史』第6集近代下、倉敷市、2004年) 、209頁。

55 「三つの鉄道計画」 (倉敷市史研究会編『新修倉敷市史』第7巻現代、倉敷市、2005年) 、527~528頁。

参照

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