ウェーキ・インダ関係
波 平 勇 夫 仲 地 哲 夫
調 査 報 告 1
与論島でも豪農、あるいは富農はウェーキと呼ばれるが、隷属農業労働者はインダ(または ンダ)である。両者の形成過程、関係をみようとするのがわれわれのねらいである。調査月日、
調査地域とも年齢集団の場合と同じである。調査方法は、まずウェーキといわれる家をおさえ て、その家を訪ね、家系、資産形成過程、資産規模、農業経営、労働力などについて聴取した。
調査対象は、高井嘉久(茶花)、東啓洋(および母マチ=城)、裾分正直(および長男正義=茶 花)、大田村甫(朝戸)、山下平志(茶花)の各氏であった。ここでは、各ウェーキごとではな
く、全体としてまとめた形で報告することにする。
(イ).ウェーキとインダ(またはンダ)は、沖縄本島におけるウェーキとイリチリ(インジャ ックヮ)と同系列のものであるが、前者の場合、インダの隷属性は後者の場合のイリチリ以上 である。この相違が制度的なものか、時代的なものかは今後明らかにされなければならない。
(ロ).上記の調査対象のうち、高井、東、裾分の各家は与論島でウェーキであり、同時に古い 家柄である。たとえば、本人も含めて、高井家の場合10代、東家は何代か不明だが与人の家筋 で与論で唯一の士族、裾分家は5代までは明らかだがそれ以上は不明、大田家22代、山下家は
6代までは記録されているが、それ以上は不明、等である。
レウ.調査されたウェーキのうち、高井および裾分の両家は城から茶花へ移住したようであり、
山下家も4代前に城から茶花へ移住してきたようである。東家も城にあることから考えると、
与論島のウェーキは城を中心とした旧家筋が多いといえるかも知れない。
(二).各ウェーキの所有地に関する正確なデータは、今回、得られなかったが、今でもかなり もっているといわれている。土地集積過程についても十分聴き取れなかった。ただ、高井家が シヌグの座元でノロの家筋であり、東家が地方(与論)役人の家筋であることなどからみると、
沖縄本島のウェーキの形成と共通する面があるかも知れない。
㈱・先述のとおり、与論島でも豪農あるいは富農はウェーキであるが、その基準は明確では ない。しかし、土地所有面積、地租(戦前)、高倉の数、倉の大きさ(4,6,7,9本柱等
し み や
と呼ばれた)、インダ・小作人の数、墓の形態(家族墓か死庭か)によってウェーキの規模が 判明しよう。
㈹、今から2,3代前まで、家族ぐるみで隷属したインダが各ウェーキに4,5世帯いたよ
うである。インダの子どもはやはりインダで、子どもが3名できると、それを身代りにして親 は主人の家から分離独立できた。また主人の娘が結婚する場合、インダを(財産の1部として)
つけて嫁がせることもあった。インダは主人の家族同然であったが、物置き小屋で寝起きした。
インダと呼ばれる人びとは比較的近年(昭和初期)までいたようで、高井家には3名、裾分家 には4,5名、東家には2名(ただし、3代前)いた。
(ト).明治32年、三井三池炭坑によって多数のインダカ雇用されるに至って、従来のインダ形 態に変化が生じた。まず、すでにみてきたようなインダは近代工場の労働者として新しい生産 関係に入ったこと、与論島のウェーキが近代の企業と労働力をめぐって競争関係に入っていった こと力特筆される。後者についていえば、インダがウェーキから 解放 されるにつれて、ウ ェーキの労働力はインダと同じような固定関係を有しない使用人(これもインダと呼ばれた)、
手間取り、場合によっては小作人などによってまかなわれた。小作人の場合、小作料は生産物 を折半したようであるが、地主と小作人はいろいろな面で協力し合ったようである。たとえば、
緊急または臨時の労働力調達に関して、小作人の役割が大きかった。そのかわり、地主は小作 人に対して物的援助で応えた。
(升.ウェーキの一部に相互婚姻関係がみられる。これはもっと調査する必要があるが、もし 偶然以上だとすれば、これは一種の階層的内婚制だといえる。同時に彼らは身分意識にも似た ようなものをもっているようにも思える。それ力f地域レベルになると、城に強く、次に茶花に 強いようである。この両地域は過去において、島の東部および東北部地域との婚姻関係を好ま
なかった。今でも「親の感情」として、そのような意識は残っているようである。
(リ).ウェーキとインダ(またはイリチリ)を通して、国頭と与論島の関係をみると、与論島 は木材(国頭産)の購入、大工の雇い入れ(東家の場合)、墓造りのための石工の雇い入れ(高 井家の場合)があった。他方、国頭からすると、与論島との貿易(佐手部落の前屋)、与論島 出身のイリチリがみられる。
調 査 報 告 2
ウェーキとインダ(またはンダ)の関係については、与論島においても本格的に調査された ことはないようだ。われわれの調査も殆んど予備調査なしに進められたが、古老の方々の協力 を得て、どうやらそのアウトラインをつかむことができた。与論島におけるウェーキ・インダ の関係の基本的な特徴は上述の通りであるが、さらにいくつかの点について補足的な説明を加
えておくことにしたい。
なお、われわれは、古文書や文献の蒐集につとめたが、残念ながら根本的な史料を発掘する には至らなかった。われわれが入手した史料は、殆んど断片的・2次的なものばかりである。
ウェーキ・インダの関係について掘り下げて論ずるには、これだけでは不十分であるが、今後
の研究のために少しでも役立てばと思って、その中から重要だと思われるものを取り上げて紹
介することにした。
(イ).明治6年に大蔵省の役人らが奄美大島の各島を9ケ月に亘って調査したことがあるが、
(1)
その報告書によれば、当時の与論島の一般農民の住居はわずかに6,7坪の広さであった。そ れにひきかえ「富民」は、そのほかに来客用の5,6坪の部屋を設け、さらに庭には高倉力建 っていた。報告書には、「この高倉は富民のものにして貧民のこの設あることなし」と記され ており、与論島には当時49棟の高倉があったことがわかる。たとえば東家の場合は、屋敷内の 高倉とは別に、水田の近くにもう一つの外倉があったということだから、「富民」の数は40戸前 後と考えてよさそうだ。ちなみに、明治6年当時の与論島の戸数は947軒である。
(ロ).茶花の郷土館に1890年(明治23)5月の「奄美大島多識内税者一覧」がある。それによ って、当時の奄美大島で直接国税を15円以上納めていたのが52名いたにもかかわらず、与論島 出身者は1人もいなかったことがわかる。与論島でウェーキといっても、いわゆる大地主では なく、せいぜい6,7町程度の土地を所有する中小地主であったといえよう。なお、高井嘉久 氏の話によれば、後年(おそらく明治末〜大正初期頃)、与論島で直接国税を10円以上納める 者は12名であったが、わざわざ名瀬まで投票にでかけたものの、ちやんと字の書ける人はその 中で1人だけであったという。
レウ.東家が島役人(与人)の家筋で唯一の士族であったことについては前述したが、次の史 料はそのことを証明するものであり、今も東家に大事に保存されている。
諸島掛生産奉行江 嫡々迄代々生産方付士格
与 論 島 与 人 喜 久 里
右者初役より弐拾八ヶ年正道致精勤、砂糖作発起より無'解怠御用向懸心頭、百姓中 二も一統心服いたし、殊二就御慶事献上物取仕立方並此節御慶事二付而も致上国、沖 永良部島江御用二付九度致渡海、其外先年御仕向替之節も致渡海長々滞在繁雑之御用 致弁別いたし、琉球江封王使渡来二付御見次物才領として渡海首尾能相勤候儀も有之、
(ママ)
当時專御用立者二而先祖代与人七代引続相勤候段、在番諸島掛生産奉行申出趣有之、
右通多年正道致精勤殊二先祖代より与人七代引続相勤候付秀別段之御取訳ヲ以右之通 被仰付、一字名字相用候儀被成御免、二男よりハ此内之通被召置候
右申渡島在番江も可申越候
十 月 知 政 所
これは1869年(明治2)の文書であるが、それによれば東家は、先祖代々7代に亘って与人 を勤めたことになっている。島役人として農民を指揮・監督するだけでなく、島津家に 御慶
(1)久野謙次郎筆記・柏常秋校訂『南島誌・各島村法』119ページ、同137ページ。
事 があれば献上物を持って 上国 し、琉球に冊封使が渡来すれば、見次物を持って渡海す るなど、島津氏の大島支配にとって重要な役割を果たしていた。その功績が認められて、与論 島で唯一の士族として取り立てられたのである。
(二).高井家の場合、嘉久氏の父が名瀬の糖業試験場で1年間研修して帰り、 モハンバ と 呼ばれる製糖場を設立した。昭和初期には2,3ヶ所の モハンバ があったが、それを借り て黒糖を製造する農家が少なくなかった。そのさい農民たちは借料として黒糖を1挺につき10 斤ずつ持ってきたという。また、農民たちは焼酎を造るために高井家から甑を借りていくこと
があったが、お礼として1回につき5合ずつ持ってきたので、高井家では焼酎を切らしたこと はなかったという。
㈱.また高井家には数人の小作人がいたが、いわゆる チクイワーキ で製糖期になると収 穫の半分を高井家に納めていた。小作人の中には、種子島に出稼ぎに行ったもののうまくいか ずにUターンしてきた者が多かった。なお、終戦後になって裾分家にも13人の小作人がいたカミ 彼等も収穫した甘藷の半分ずつ裾分家に納めていたし、裾分家の新築のさいには、みんなで手 伝いにきてくれたものだという。
('、).前掲の『南島誌・各島村法』には「年季抱の事」に関する報告があるが、それによれば 喜界島では大島とほぼ同じで、5ヶ年を1期とし、「その強壮の男は身代糖2千斤より2千4,
5百斤、女子は5,6百斤(?)を通例とす。又無年季にして身を売るものは、2千5,6百 斤より3千斤許。その老幼と微弱に従ひて差あり。これ皆各島と同じく利子の代りに使役する
(2)
ものなり」と記されている。また徳之島の場合は、「男女とも身代糖3千斤より4,5千斤に 至る。その年限を5ヶ年若くは10ヶ年として利子の代りに使役するの例なり。故に満期に至る
(3)
もその元糖を償還するにあらざれば出づること能はず」と記されている。また沖永良部につい ては、「男女とも大略米9石又は10石を貸し、10年を1期と定め、1ヶ年利息3割にして、こ の利子の代りに使役するものとす。然して満期に至りて元米を還付するにあらざれば出づるを 許さず。(中略)又膝生といふものあり。これ家蝉私生の子にして、主家に養育せられるもの
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なり。その独立するや米3斗入り32俵を弁償するを常法とす」とある。このことについて金子 好は、「奄美大島に於けるく家人〉の研究」の中で、「此の慣習は奄美大島の殆んど全般に亘
(5)
って行はれて居たのである」と述べている。
(卜).増尾国恵は与論島のンダ(=膝素立)について、次のように述べている。
身売の期間は負債の多寡にもよるが大体与論では男女61歳までとし身代は米32俵 としてゐる。借り受けた借財を償還し得れば何時でも自由の身となることが出来たが、
(2)〜(4前掲『南島誌・各島村法』159.169.179ページ。
(5)『名瀬市史資料第2集』所収
下女は主家において子を3人産んで主人に上ぐれぱ身請を許されて其の後は自由の身 となるのである。此の子が膝素立と称せられて61歳まで家人として奉公せねばならな い。膝素立と謂ふのは与論で言ふンダの事で下女力灌んだ子供を主人の膝下で養はれ たといふ意味で膝素立とも言った。これこそ生れながらのンダ(下人)であり、奴隷 の身分に近い存在であった。このンダは普通の家人とは身分が多少違ふ。与論でンダ の多かったのは、一つはンダが皆生れながらの家人として財産視されたがためである。
主家の2男3男が分家をしたり又は娘が嫁入りしたりするときに1人か2人位のンダ
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が追従して、そのまま分家先嫁入先の家でもンダとして使役せられる場合もあった。
なお、山下兵志氏によれば、インダを雇う時は年齢や体格を見て決めたが、米で35俵が最高 であった。しかし、借用証書に記されている通りに米をちやんと受け取っていたとは限らない ようだ。また、インダはインダ同志で結婚するのがつれであったが、インダが嫁ぐ時に子牛を
1頭つけてやることもあったという。
(チ).前述したように、与論島のインダが急減したのは、1899年(明治32)から1901年(明治 34)にかけて、殆んどのインダが長崎県口之津へ移住したためであった。当時戸長をつとめて いた上野応介は「茶花のミダーラに5,6町歩の広大な不動産を所持し、立長の長崎にも4,
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5町歩の不動産を所持し下男下女5,6人を使役して」いたが、率先して移住を呼びかけ、ま ず1899年(明治32)2月に女婿の東元良(前記の東氏の祖父で当時役場の書記)に引率を命じ て400名を移住させた。そして翌年にも100名を送り出し、1901年(明治34)には、自ら戸長 を勇退して400名を率いて口之津へ渡ったという。沖縄あるいは奄美大島の他の島々で、南洋 移民や出稼ぎのために離村していく農民が多くなったのは、1920年前後あるいはそれ以降のこ とと思われる。与論島ではそれより20年も前に行政当局の主導によって大がかりな移住が行わ れていたのである。その大半はインダたちであったようだ。このことについて増尾国恵は「募 集があったので全島のンダは全部1人も残らず之に応じて、主人には身代の幾分を償却して出発
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