• 検索結果がありません。

私の来し方 ――児童文学研究において、キャリアを築くということ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "私の来し方 ――児童文学研究において、キャリアを築くということ"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

私の来し方

――児童文学研究において、キャリアを築くということ

講演者 キンバリー・レノルズ博士

灰島 かり 訳

(2013年

10

26

日、於・白百合女子大学)

私はこれまでずっと児童文学を専門として業績を積み、自分のキャリアとしてき ました。そのために本日は、自分のキャリアを

1

つのケーススタディとして話すよ う求められています。何をしてきたか、ということだけでなく、児童文学研究が今 後どうなるか、という未来についてもお伝えできたら、と思っております。

私はこの講演をお引き受けし、自分のこれまでをふり返ったことがきっかけと なって、児童文学研究が今後どうなるか、専門家としてスタートする皆さんがどう いう問題に直面するか、考える機会を得ました。私自身は、児童文学を専門とした ことで、ハッピーエンドにたどり着くことができました。しかしこれからこの道を 行く皆さんには、行く手に大きな変動が迫っています。児童文学の専門家になりつ つある人のためには、これまで仕事をしてきた私たちに比べると、しっかりとした インフラ(基礎となる構造)と基本的なツールがすでにそろっています。どういう ことかというと、きちんとした専門誌があり、アカデミックな叢書、学会、ネット ワーク、ホームページ、サポートしてくれる組織などがあるということです。イギ リスの場合は、仕事をする女性に対するサポートが格段に進歩したということもあ ります。保育が充実し、仕事の場での法的な権利や文化の変化が見られます。

さて、私は

1980

年代にサセックス大学で博士号を取得したのですが、そのとき には既に、2人の子どもの母親でした。私は子どもの本について論文を書いていま したが、将来、児童文学の教授になれるのかどうかは不明でした。そのころイギリ スでは、児童文学を正規の科目としてとりあげている大学はほとんどなかったから です。

児童文学の講座がある大学でも、それは国語の教師や図書館員育成のための科目 でした。70年代には、児童文学の歴史や発達や特長に興味を持った学者は、それ ぞれの組織のなかでまったく孤立していました。また自分が研究していることを、

大学で教えることもできませんでした。児童文学の研究は、アカデミズムのなかで

(2)

は興味を持たれることも、敬意を払われることもなかったので、ただ研究するしか 方法はなかったのです。とはいえ、徐々にアカデミズムの外に仲間が見つかるよう になりました。児童書のコレクターや、特定の作家のファンや、児童書の出版人、

そして児童書と子どもたちを結ぶ仕事をしている人たちです。

児童文学の過去や現在に興味を持つもの同士の出会いやつきあいから、おたがい の経験や知識を交換できるような組織が作られるようになりました。イギリスにお けるこういう組織の良い例は、チルドレンズ・ブックス・ヒストリー・ソサエティ

(児童書が誕生した時代とその歴史に焦点を合わせた組織)や、チルドレンズ・

ブック・サークル(編集者や刊行者が始めました)、英国の

IBBY(国際児童図書

評議会。子どもの本と読書運動を世界中に広めるための国際的な組織)などがあり ます。こういう組織は研究者のために作られたものではありませんが、とはいえ児 童書や関連した出版物を真剣に学びたいと思いながら、どこかの大学に所属したり 教えたりしていない人たちにとって、今日まで研究学会のような役割を果たしてき ました。特に文献学的な分野や、学問の資料となるコレクションの充実、特定の作 家やジャンルの研究において、こういう組織が児童文学に対して寄与するものは少 なくありませんでした。

一般の文学研究では、こういう包括的な共同作業はめったに見られるものではあ りません。おかげで児童文学の研究者は、本の全体性をとらえられるようになりま した。身びいきからでなく、児童文学の研究から、書籍の歴史や、文学の受容論と いった分野で、パイオニアが生まれたと思います。これも児童文学関連の集まりに は常に、いくつかの拮抗する流れがあったからでしょう。

私は

1

人の女性の研究者として、児童文学に関するさまざまな組織に歓迎されサ ポートされてきました。さまざまな組織やそのメンバーが、私の研究や私自身を温 かく受けとめてくれ、私の成功を願ってくれたのです。こういうことも、アカデミ ズムのなかではめずらしいことです。

こういう組織はだいたいにおいて、大学での研究を応援してくれ、プラスに働き ますが、マイナスの面がないわけではありません。たとえば学問の世界ではその成 り立ち上、ファンとか実践家(作家や画家、編集者、図書館員、書店や教育関係者 のことです)は学者よりも疑わしいものと見ることになっています。学者以外の人 たちが大勢、児童文学の学会やシンポジウムに参加していたり、専門誌に寄稿した り、一般書を書いていたりすることは、児童文学研究は緻密な分野ではない、と侮 られる風潮を生むかもしれません。(専門誌が、「アカデミックではないとされてい る」教師や司書の仕事にしばしば言及することもこの風潮を助けます。)この問題 は、児童文学研究が初めて大学のカリキュラムに導入されたときから続いていま

(3)

す。多くの大学や学者たちは、私たちの研究対象である児童書を、真剣に研究する には価しないと考える傾向があります。子どものためのものであって、高度な批評 技術や方法論などの綿密な吟味に耐えるものではないと、思われるわけです。アカ デミックな世界できちんと評価されるためには、私が女性であり、研究分野が「子 ども」という言葉を含んだものであるという2つが、長いこと障壁となっていまし た。これが、私がスタートしたときの状況でした。では

80

年代にもどって、私が どうやって児童文学の専門家になったのか、その最初の、大変おずおずとしたス テップをふり返ってみましょう。

最初にお伝えしたいこと、それは私が児童文学を選んだのではなく、児童文学が 私を選んだのだということです。子どものころから、私のまわりには子どもの本が ありました。私にはたくさんの兄弟姉妹がいますが、私たちは本を共有していまし た。私は、イギリスで育ったイギリス人だろうと思われがちですが、実はアメリカ 合衆国のニューイングランドで育ちました。そういうと驚かれる方がいるのではな いでしょうか。幸運なことに、私の家族は全員がいつも本を手にしていました。大 人が子どもの本を読むことを、おかしなことだと考えるものもおりませんでした。

(当時は当たり前だと思っていましたが)うちには大変魅力的な子どもの本棚が あったことが、今になるとわかります。50年代

60

年代、私たちが育つあいだに、

父も母も熱心に、新しい子どもの本を探してくれました。私の父はヨーロッパの中 世を研究している学者だったので、家族といっしょにイギリスにいることも多く、

ティーンエイジャーだった私はイギリスの学校に通いました。

両親は児童書への興味を掻き立ててくれただけではありません。家庭の状況は、

私と兄弟たちが熱心に勉強して、独立して何かの専門家として成功するように励ま してくれるものでした。私の両親は、第二次大戦中に、若くして結婚し、あっとい うまに6人の子持ちになりました。ただ2人の結婚は長続きしませんでした。母は 大学を出ていませんでしたが、36歳のときに離婚して、シングルマザーとなりま した。当時はまだ離婚がめずらしく、子どもは全面的に母親が育てたほうが良いと 思われていました。そのために私たちが父親に会うのは、クリスマス休暇の1日 と、夏休みの2週間だけでした。6人のうち5人が女の子で、私は四女です。弟は 末っ子で、離婚したときにはまだ

1

歳半でした。つまり私はほぼ全員が女性という 家で育ったのです。父はすぐに再婚して、そちらにも子どもが生まれました。おか げで父は、1人ぶんの学者の給料で、9人の子どもを養うことになりました。おか げでいつでもお金の問題がありました。

(4)

わが家では、子どもたちが小さかったときには、母は収入を得るために、いろい ろな職につきましたが、どれも低収入でした。おかげで私は子ども心に、大学を卒 業していないことの不利益を感じていました。子どもたちは全員が少なくとも1つ の大学を卒業しています(私は、4つの学位をとりました!)。母は平気で家庭で の男性の役割をこなしていたので、私たちは全員が縫ったり編んだり料理したり掃 除したりするだけでなく、大工仕事も修理も学びました(正確には、弟は縫った り編んだりはしませんでしたが、5人姉妹は両方こなしました)。私たちにとって は、両方やるのは当たり前のことで、女性は子どもを持ち、家事をし、そして働く ものなのだと思いこんでいました。子どもたちが成長すると、母は大学に通って卒 業し、ハイスクールの英語の教師となりました。母は、努力してやりたい道を切り 開くという先例となりました。

子どものころ経済的に不安定な家庭に育ったことは、姉妹がパートナーに頼って 生きるのでなく、自分自身の将来のために努力することになった原因の1つでしょ う。姉妹のうちの3人は会社を経営していて、もう1人も学者です。もう1つ、母 が子どもたちに大変期待していたという事実もありました。私たちは、母が失望す るのではないか、と恐れていました。この恐れは、私に自分の道を進ませる推進力 となりました。こんなふうに母の顔色を伺うことは、母が実践した「能動的に生き る」という先例からは外れるものだとわかっています。しかし私は、母の愛を得る ためには、努力しなくてはならないと思いこんでいました。こういう感じ方は強い モチベーションを形成しますが、これを土台にした人間関係は、あまり勧められま せん。とはいえ個人的な事情はこのくらいにしておきましょう。私は

1955

年に生 まれて、女性運動のピークの時代に働き始めました。女性運動のおかげをこうむ り、また勝ち得た女性の平等をいっそう発展させるよう努力してきました。高等教 育の場においては、私が経験してきた別の仕事とは異なり、私は基本的には権利を 認められていました。それでもときには、主張しないといけないこともありました が。

キャリアを形成する上で大きな出来事が、サセックス大学で

2

つ目の学位をとろ うと決めたときに起こりました(イギリスに移住する前に、アメリカのロングアイ ランド大学で、英文学を専攻して最初の学位をとっていました)。

80

年代には、サセックス大学は先進的な大学でした。人文学系の授業計画(プ ログラム)は、すべて学際的でした。また批評理論を研究したり教えたりする分野 では、先陣を切っている大学でした。私は思想やジェンダーの歴史を知るために、

子どもの本をプライマリー・テキストとして研究することを提案しますが、これに

(5)

はサセックス大学という背景が重要な役割を果たしています。

サセックス大学は学際的な教育を特長としていましたが、児童文学史の研究上、

非常に意義のある成果をもたらしました。学際教育の1つの例が、児童心理学と児 童文学の両方を専門とするニコラス・タッカーと、精神分析、心理学、フェミニズ ム、文学に精通していたジャクリーン・ローズという組み合わせでした。2人は先 進的で、かつ非常に充実した専攻コースを作りあげました。ここから、ローズの革 新的な著書『ピーターパンの場合 児童文学などありえない?』(1984、新曜社、

2009)が後に生まれることになります。私はたまたま、このコースを受講しません でしたが、後に博士課程の学生となったときに、このコースで教えることになりま す。このタッカーとローズの共同作業のおかげで、サセックス大学の児童文学研究 が学者たちの注目を集め、児童書が基礎資料として力があることを人びとに気づか せたということが、後に私が仕事をしていく上で、大変重要になります。

ジャクリーン・ローズの本を読んでもらうとわかりますが、サセックス大学で は、児童書への興味はこの大学の理論的な研究の一部を成すものでした。私は修士 課程と博士課程にいたおりには、英国アカデミーから奨学金を得ていました。満額 の奨学金を受けることができたのは、研究対象を児童文学そのものとしなかったこ と、後期ヴィクトリア時代とエドワード時代の児童文学が、特にジェンダーを形成 する上で、どのような思想的な役割を果たしたか、としたからだと確信していま す。

この研究は、『女の子だけ? 英国の

1880

年から

1910

年に出版されたポピュラー な子どもの本とジェンダー』(1990)という本になりました。この本は、当時の学 会における関心事を強く反映しています。少女性、男性性、イデオロギーを前面に 置き、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらの構造主義 の理論を、児童文学との関わりにおいて多く使っています。

「文学」という言葉を強調しましたが、私は常に児童文学のテキストを研究して いたのであって、実践の場で子どもたちを相手にしていたわけではありません。児 童文学を研究したり教えたりしているというと、おそらく識字教育や読書運動、学 校教育のなかで読書をとりあげることについて知識を持っているだろうと思われが ちです。こういうことはどれも非常に重要なことであり、子どもが本をどう読むか という研究は、私の仕事にさまざまな面で役に立ちました。しかしそれは私の仕事 ではありません。大学で児童文学を研究して業績を積んでいくのであれば、より伝 統的なアカデミックな研究法と、子どもを相手とした応用研究や教育とは、明確に 区別されるべきだと、経験上思っています。私の場合は、学際的な興味を持ち続け ていましたが、それは歴史と芸術であって、教育学や児童発達、識字教育や司書養

(6)

成とは異なるものでした。

80

年代の終わりには、私は専門分野を持ち、あちこちに散らばっていましたが 仲間もできました。でもその専門分野はどんな様相を示していたでしょうか? ル ネッサンス期やロマン派といったメジャーな文学研究のようではもちろんありませ んでした。アカデミックな土台がほとんど整備されていません。つまり定期的な学 会がなく、教科書がありません。参考図書といえば、カーペンターの貴重な労作で ある『オックスフォード世界児童文学百科』(1984、原書房、

1999)があるだけで、

そのうえイギリスの大学には児童文学の専門家のための地位がありませんでした。

また研究の主なリソース(供給源)は、70年代にヴィクトリア&アルバート美術 館に寄贈されたレニエ・コレクションの8万冊の本と関連雑誌だけでした。レニ エ・コレクションは長いこと無視されていて、80年代には、ほんの一握りの研究 者しか知りませんでした。なぜなら子ども博物館の地下に収納され、たった1人の 学芸員の手にゆだねられていたので、手にとるのは容易なことではなかったからで す。しかし変化は、もうそこまで来ていました。

幸運なことに私が博士課程にいて、最初の職を得た時代は、本を聖カノン典とすること も、また偉大な伝統の強調も崩壊しつつあって、カルチュラル・スタディの衝撃 が、女性の書いたものや探偵小説、そして児童文学などの、かつては周マ ー ジ ナ ル辺領域だと 思われていた分野を研究することが受け入れられるようになっていたのです。この おかげで、私はローハンプトン大学のいくつかの分野を発展させることが可能にな りました。私は博士号を得た

1

年後にローハンプトン大学に職を得ていました。児 童文学の専門家として、ではなく、児童文学に興味を持っている英文学の講師とし て、でしたが。別のところでも教えましたが、どうしても児童書研究を活かすこと ができなかったので、そこは

1

年間だけで止めました。とはいえアカデミズムの状 況がスピーディに変化していた時代だったということは、私がすぐに児童文学の専 門家として地位を得て、その大学での児童文学の地位をも変化させることができる という意味を持っていました。

ローハンプトンには大きな教育学部があり、児童文学への興味も存在していまし た。しかし私は、児童文学の教育的な面に焦点を合わせるのでなく、文学研究の一 分野とするよう変更しました。イギリスの多くの大学では、児童文学は「軟ソフト弱」な 科目で、教職につきたい者や、外国語を教えようとする者以外には価値を持たな い、と見られていました。緻密なテキスト分析や、歴史の研究や、さまざまなレベ ルの貴重な情報源であるという考え方もありませんでした。私は常にこういう見方 と戦ってきましたが、否定的な見方が変わるのを見るのは、胸がすく思いがしまし た。

(7)

ローハンプトンは、英文学のなかで児童文学を専攻することができる、イギリス で唯一の大学でした。ローハンプトンにいることで、私はプロフェッショナルとし ての基礎を身につけることができました。私の場合を1つのケーススタディとする なら、サセックス大学で学ぶことを選び、博士課程のときに、児童書に焦点を合わ せたことが私の最初のマイルストーンです。その次のステップは、ローハンプトン で意識して「英文学科で児童文学を研究する」というアウトラインを敷いたことで しょう。そのことについてお話しする前に、指摘しておきたいことがあります。こ の分野は私とともに、私のまわりでも発展していったということです。同じころに レディング大学でもウォリック大学でも、児童文学専攻の修士課程が新しく登場し ています(ウォリック大学では教育学部のなかにありましたが、非常に理論的であ り、とらえ方は文学的でした)。またピーター・ハントはカーディフ大学の大勢の 学部生に教えていて、他の研究仲間たちも教育学部やカルチュラル・スタディのな かで、学部生が児童書を学ぶ講座を導入するようになっていたのです。ただし私自 身が所属していた大学は、寛大ではありませんでした。なまぬるい分野だと思われ ている児童文学でキャリアを築こうとするなら、私は常に同僚の少なくとも2倍 は働かなくてはなりませんでした。私は同僚よりも教える時間が長かったのです

(児童文学を教えることは他の科目を教えるよりも簡単なことだと思われていたた め)、資金も組織のサポートもなく、最後にはローハンプトンに私が創設した研究 所で働く人びとの給料を、私自身が稼がなくてはなりませんでした。私は英文学科 に雇われていたのですが、そのころ私とスタッフは別の建物に移動しました。英文 学の同僚には、私のような困難は無かったと思います。状況は、私が子育ての最中 であったために、いっそう難しいものになりました。子どもたちも夫も私を必要と していたので、多大なエネルギーをとられ、さらに自宅から大学までの通勤時間も 長かったのです。

このころには、私はプロとして認められつつありましたが、それには多大の犠牲 をともないました。何年ものあいだ、評価や、公平な仕事量や、昇進を求めて戦っ ていたために、私は深刻な病気になってしまいました。私がどう扱われていたかと いうことを思うと、所属していた大学に対して苦々しい気持ちを持たざるを得ませ んでした。このパターンは、野心を持った女性によってくり返されているので、こ ういうことが起こらないように、私たちは共闘しなくてはなりません。私は、女性 も精力的に働くことができて、男性と同じように成功することができる、というこ とを示したかったのです。しかしそうすることで、次の世代のハードルをあげてし まったのではないかと思うことがあります。とはいうものの、ではどうすればよ かったのかというと、私には別の方法はありませんでした。

(8)

児童文学を学びたいという学生を集めるという点では、何の問題もありませんで した。ローハンプトンで仕事を始めたとたんに、博士課程で児童文学を学びたいと いう人たちが相談を持ちかけてくるようになりました。大学院のニーズがあること に気づいたので、ローハンプトンの理事会とかけあって、児童文学を専攻する修士 課程を作りました。多くの人たちは、そんなことをするのはバカげていると感じて いました。理事会も同僚たちも、そんなに学生が集まることなどあるはずがない、

と考えていました。しかし実際には、児童文学の修士課程は、この大学で最も成功 した修士課程となり、イギリスからも世界中からもすばらしい学生たちが集まって きました。私が、日本人の学生や仲間と出会うことができたのは、この修士課程の おかげです。

日本との別のつながりは、私のキャリアの初期、つまり修士課程を作ったころに できました。白百合女子大学の猪熊葉子教授から、児童文学を専攻するサマース クールを行いたいという申し出があったのです(猪熊葉子教授は、女性の学者とし て、私のロールモデルになった方のお1人です)。このことは、私がそのころ、後 に国立児童文学研究センター(NCRCL)となる研究所を作りあげたことと関わっ ています。

英文学の講師から、児童文学の専門家になるための3つ目のマイルストーンがこ の研究所です。白百合女子大学のサマースクールは2回行われましたが、おかげで イギリスとアメリカ以外での児童文学研究の歴史や現状を学ぶこととなり、私に とって大変重要なものになりました。この経験は、私に、予想もしていなかった仕 事をもたらしてくれました。国際児童文学学会

(IRSECL)

の会長職です。この組織 を通じて、他国の研究仲間といっしょに仕事ができたことは、もう1つの非常に心 満ち足りる豊かな経験でした。

私が創設した国立児童文学研究センター(NCRCL)は、センターという場所が あるわけではなく、さまざまな活動やイベントの集合体です。当時は、児童文学に 関する組織的な研究や企画をするところはありませんでした。識字教育や図書館や 教育機関など、他の組織に所属している仲間が、本業の合間を縫って、さまざまな 活動をしていました。私は児童文学研究をとりまく色々な活動をうまくコーディ ネートしていきたかったので、NCRCLを創設しました。白百合女子大学のサマー スクールが開校されたときには、NCRCLは既にスタートしていました。しかし正 直に申しあげると、この組織を発展させることができたのは、日本人の学生や日本 の研究仲間から、多くを学んできたおかげです。日本では、児童文学の周辺にさま ざまな活動が繰り広げられていて、児童文学に対する高い抱負があり、さまざまな

(9)

設備があることを、私はそれまで知りませんでした。皆さんは、さまざまな展覧会 や学会、大学でのプログラム、関連する美術館、そしてもちろん世界的規模の大阪 国際児童文学館をお持ちです。国際児童文学館のコレクションは膨大ですし、さま ざまな企画や賞、特別研究員のシステムがあります。綿密に積み上げられた知識 と、児童文学を文学として扱うという日本の伝統に、私は深く動かされるものがあ りました。また私の「学生」たちは、翻訳という論点から、私がよく知っていると 思いこんでいた作品を新鮮な見方で読むということを教えてくれました。

研究所ができたおかげで、客員研究員が来てくれるようになりました。初期に来 てくれた研究者のなかに、三宅興子教授がおいででした。三宅先生は1年間ほど滞 在し、ご自身の研究や洞察力を惜しみなく私たちにシェアしてくれました。三宅先 生が到着なさったその日は、たまたまオフィスの引っ越しの日だったのですが、三 宅先生は引っ越しの手伝いをしてくださり、荷物をほどくことまでしてくれまし た。この研究所を前進させるために、研究員としてさまざまな仕事をこなしてくれ ました。皆さんがすでにご存じのように、三宅先生は疲れを知らない、パワフルな 学者であって、この分野のリーダーです。日本の絵本展をイギリスの各地で開催す るために、三宅教授、そして正置友子博士と共に仕事をすることができたことを、

大変幸運に思っています。

NCRCL

は、政府や大学教育委員会から資金の提供を受けた、イギリスで初めて

のアカデミックなセンターとなりました。今では、ローハンプトン大学の研究の1 つの顔として、大変重要な働きをしています。ただちょっと申しあげましたよう に、このことは英文科の同僚とのあいだに大きな問題や緊張をもたらしました。こ れも児童文学研究者が常々経験することだと、わかっています。

NCRCL

は、院生のよりどころとして、研究活動の場所として、収入を得る場所

として、そしてメディアに露出するためにも重要であると思われていました。しか し同僚のなかには学生を集めることができなかったり、同じようなプロジェクトを 立ちあげながらうまくいかなかったりする人もいて、そういう人たちからは「巣の なかのカッコー」(訳註:カッコーは他の鳥の巣に卵を産むことから、侵入者的な 存在)のように思われていました。私たちが学生を集めることができて、プロジェ クトがうまくいっているのは、児童文学が軟弱な科目である証拠だと受けとる人も 多くいたのです。もちろんそんなはずはありません。新入生にいつもいい、あちこ ちに書くことですが、児童文学は最も要求されるものが多い学科です。なぜなら出 版の歴史全般を含み、昔話やナースリーライムや子守歌のような口承文芸を含み、

さまざまなジャンルや様式(映画やテレビやネットなどのビジュアル・メディアを 含みます)を包合し、さらにあらゆる人間のなかで身体も感情も認識能力も最も発

(10)

達する年代の人たちを読者としているからです。

さらにあらゆる文学理論や方法論も使わねばならず、1人の作家の研究から時代 全般の研究まで引き受け、子どもや書物の歴史にも目配りしなくてはなりません。

皆さんがよくご存じのように、児童文学の研究が安易であるはずはありません。

NCRCL

が成した最も重要な仕事は、研究分野としての児童文学の状況を全国規

模でつかめるようにしたことです。こうすることで学問のインフラ(基礎となる構 造)のどこにギャップがあるか指摘することができました。例えば利用しやすいコ レクションや参考文献やハードデータが足りないこと、調査がうまくコーディネー トされていないことなどを指摘して、学者や実践家に注目してもらいました。私は 主要な美術機関、研究機関とかけあって、さまざまな企画に必要な資金を引きだす よう努めました。また子どもたちの読書の習慣を研究して、新しいデータをまとめ ました。ヴィクトリア&アルバート美術館と協力して、レニエ・コレクションのカ タログを作るための資金をプールしました。チルドレンズ・ロリエ(訳注:子ども のための桂冠詩人)は大変わかりやすい児童文学の擁護者ですが、この制度の立ち あげにも参加しました。そして背景がさまざまな何人かのグループと共に、今では セブン・ストーリーズ(訳注:ニューカッスルにある)と呼ばれている組織を作り あげました。これはイギリスの子どもの本のセンターです。このセブン・ストー リーズで行った仕事が、私の4番目のマイルストーンだと思います。これを立ちあ げたことは、私がニューカッスル大学に移動するきっかけになりました。セブン・

ストーリーズのおかげで、私の学生たちは、アーカイブにあるもの、手書き原稿 や、オリジナルイラストや、書簡、そして参考文献のコレクションを使えるように なりました。ニューカッスル大学の誉れ高き英文学科が、児童文学の専門家である 私を招いたという事実からも、私が

80

年代に研究を始めたことから比べると、状 況が大きく変化したことがわかります。

では今日のイギリスで、児童文学研究がどんな状況なのか、変化の様相をお知ら せしましょう。今年の初めに、イギリスで児童文学を教えたり、研究したりしてい る研究仲間にアンケートを出しました。多くの答えを得たので、不足部分を個人的 に知っていることや検索サイトのグーグルなどをチェックして埋めました。これは 英国における児童文学研究の内容の、ほぼ全体の的確な情報だと思いますが、博士 課程や修士課程の学生の研究は除外しています。

情報はイギリスの

12

箇所にある

17

の大学で研究している私を含む研究者

35

名 から得ています。研究内容のリストをまとめて、スライドでお見せすると、児童文 学研究がどんなに幅広いものかが一目瞭然となります。35人の研究者は、以下の

(11)

ような内容や視点で仕事をしています。

(以下がパワーポイントで表示されたさまざまな研究テーマです。)

作家研究、伝記(ロアルド・ダール、ルドヤード・キプリング、ジェフリー・

  トリーズ、J. R. R.トールキン)

英国の男性のユーモアと帝国主義

文学における子ども /

子ども像(2名)

作家の子ども時代と子どものころの作品

子どもと大人の両方に向かって書かれたものの子どもの言語

児童文学と、初期近代ならびにルネッサンス時代の子ども像

児童文学とパフォーマンス

階級と子ども像

児童文学に描かれた伝統的な歴史

教育におけるコミックス

児童文学における現代の潮流

フィクションの異分野進出

18

世紀の児童文学と文化

ファン・フィクション(訳注:ファンが作る二次的創作物)

ファンタジー

ディストピアと未来小説

ファンタジーの作家たち

ヤングアダルト向けファンタジー

フランス語圏の子どもの本

児童向けファンタジーにおける空間の配置

読者としての子どもの歴史(18

世紀全般)

児童書出版の歴史(2名)

英語圏におけるファンタジーの歴史

読書の歴史

児童書は外国文化をどう描写してきたか、ロンドン大博覧会についての記述と

  その歴史

健康の描写の歴史

英国らしさという考え

児童向けと大人向け文学における子どものイメージ

カタバシス物語(訳注:紀元前 4

世紀のギリシャ軍の英雄的撤退の物語)

(12)

ラテンアメリカの児童文学

20

世紀における児童文学の言語の変遷

近代主義の児童文学

19

世紀の宗教的な作家たち

ナンセンス

北米の児童文学

哲学と子どもの本

ランドスケープ論(2名)

ポストコロニアルの児童文学

児童書の挿し絵と挿し絵同士の緊張、その理論と実際

20

世紀における読書のコミュニティ

児童文学における読書の描写

修正社会主義者の歴史におけるギャップを埋める(3名)

戦争時代の子ども像+イギリスの戦後

児童文学と文学における子ども像

20

世紀初期の児童文学(2名)

クリエイティブ・ライティング(子ども向けを含む)と批評(児童文学批評を

  含む)の分裂

スコットランドの児童文学

スペインの児童文学

児童文学への文学論的アプローチ(一般)(3名)

認知的批評

エコ・クリティシズム(2

名)

フェミニズム批評

精神分析的批評

受容論

翻訳論(2

名)

ビジュアル作品(絵本、マンガ、グラフィック・ノベル、ハイブリッド・ノベ

  ル、映画、デジタルテキスト)(2名)

ヤングアダルト・フィクション(ヤングアダルト向けファンタジーを含む)

研究テーマをランダムに並べたように見えますが、このデータから少し離れて広 い視野でながめると、研究テーマは思いの外、たがいに緊密につながっていること

(13)

がわかります。分類しようとすると、4つのキーとなる分野が見えてきます。なか にはオーバーラップしているものもありますが、ほとんどの場合は、独立していま す。4つとは、ファンタジー、文学理論、子ども研究、そして一番大きな分野は、

児童文学の歴史の研究です。

とくに子ども研究と、歴史の研究の分野では、資料は子どものための本に限定す る必要はないことを覚えておきましょう。その一方で、例えばルネッサンス、ロマ ン主義、ヴィクトリア時代、そして近代を研究する人たちは、特定の時代や動向、

思想、習慣を知るために、児童文学が重要な資料になると気づくようになりまし た。そういうわけで、児童文学のためだけでないプロジェクトに組み入れて、子ど もの本を検討することもあります。歴史研究の重要なトレンドとしては、知識の ギャップを埋めたり、結論を見直したりするために、多くのエネルギーが使われて います。そして私自身の現在の研究の場合もそうですが、ギャップを埋めること が、結論を見直すことにつながります。

このアンケートから、今日のイギリスで最も顕著なトレンドは、調査活動の量が 増えたこと。それから隣接する分野や主題との交流が増えていることであることが わかります。児童文学の研究をしている人たちのタイプも、何を土台にしているか も変わって来ています。児童文学研究の認知度もあがり、助成金も増えました。か つて児童文学の専門家の献身によって作りあげられたインフラやリソースは、格段 に調いました。結局、児童文学研究は、非常に健全に発達しているということで しょう。しかし研究者の間での競争は厳しくなりました。

調査に関連したことの重要な点は、児童文学がさまざまなレベルの文化に、時代 を超えて影響することが、全国的に認識されているということです。1つだけ例を あげると、私の大学の児童文学ユニットは最近、「 未ケア・フォア・ザ・フューチャー

来 へ の 配 慮 」という名前 の国立の研究計画に向けての競合に勝って、資金の提供を受けることになりまし た。今、指針となるプランを作りつつあるのですが、非常に意味のある事業になる と期待しています。こういう児童文学の企画は、10年前ではとうてい思いつかな かったことでしょう。児童文学研究者や作家と、ナショナル・トラストやヒスト リック・ロイヤル・パレス、イングリッシュ・ヘリテイジなどの(訳註:3つとも 文化遺産の保護団体)組織から文化遺産や文書保持の専門家が、おたがいに協力し あって、さまざまな形の児童文学(絵本、小説、ストーリーテリング、コミック、

インタラクティブ・ナラティブ

方 向 の 語 り )を、新しいテクノロジー(スマートフォン、コンピュータ・ア プリケーション、GPS)と結びつけて、子どもたちが歴史的な場所や建造物と関 わりを持つよう奨励する、その方法を考えようというものです。これが英国の歴史

(14)

的な建物や土地の未来について子どもたちが思いをめぐらす、最初のステップにな るものと考えられています。

私が仕事をし始めたころは、児童文学研究はイギリスの大学では科目として認め られてもいませんでしたが、そこからイギリスの児童文学研究はずいぶん変わって きたと思います。

・今では国内のあちこちで、教育学の長い伝統を持つ大学ばかりでなく、研究の 先端を行く大学においても、関連するさまざまな活動がなされている。

・学校や学部のワクを越えて、スタッフや修士や博士課程の学生の所属するさま ざまな組織が、児童文学の種々異なる局面で活動している。

・この活動のおかげで、研究のための文献資料が公開され、活用されている。セ ブン・ストーリーズは、最近イギリス全体の児童書センターとなったが、ここ だけではない。オックスフォードでは、この町ゆかりの児童書や、その作家や 画家を記録保存するための企画が進行している。またクエンティン・ブレイク はロンドンに絵本美術館を設立しようとしている。

・児童文学の調査プロジェクトは、大小さまざまな資金援助を得られるように なった。

・児童文学の研究者は、大学などの組織で優遇されるようになった。例えば教員 として雇われたり、資料や活動がサポートされたりしている。

・1つの組織、個人、リソース、アカデミックな出版社などが、この分野で極端 に優位に立ってはいない。

・大学間で、企画や主導権をシェアしつつ、高度な共同作業が生まれている。

・児童文学は、それのみで研究されることは少なくなり、子ども学や動物学を含 む新しい分野を形成しつつある。

「未来への配慮」の企画で見られるように、こういう発展の顕著な側面として、

研究や企画、出版の性格を変化させるということがあります。たとえばこの分野の 出版物ですが、かつて支配的だったのは「児童文学の紹介」とか「児童文学への招 待」のようなものでした。それがこのところ、ここから外れる動きが表れていま す。かつての出版物は、古典的な作家を何人かとりあげたり、あるいは「学校物 語」などのジャンルを俯瞰したりして研究したものが主流でした。それに対抗した 新しい企画とは、どういうものでしょうか? イギリスや英語圏の児童文学がどの ように発展し、どのような問題があるか、長いあいだ受け入れられていた考えがあ るわけですが、それを細部にわたって検討したり、微妙な差異を読みとったりする

(15)

ことを含んでいます。典型的な例が、私の研究仲間のマシュー・グレンビーの仕事 です。子どもが本に出会う過程や、子ども、本、読書の関係の傾向を、18世紀全 般にわたって検討したものです。マシュー・グレンビーは、絵画から墓石まで幅広 い資料を使って、英国における児童書出版の歴史に関して、オリジナリティーあふ れる構想を語っています。

児童文学に関わってきた

30

年間というものをふり返りますと、英国でのこの分 野の研究は、今そうあるべき十字路にあるといって良いでしょう。私が今掲げられ るべき問いだと思うのは、児童文学を基本的にはこの分野の専門家によって担われ る独立した研究分野とする伝統を受け継いだほうが良いのか、それとも大学のカリ キュラムを横断する方向へと、歴史研究や、英文学、英語学、文学理論などの専門 的な知識を持った人たちが、彼らの知識を結集して、年少の人たち向けの出版物を 分析したり情況を説明することに応えるようにしたほうが良いのか、どちらだろう かということです。私がこの専門分野に入ったときには、選びようがありませんで した。なぜなら何よりも先に、児童文学を研究の対象として受け入れてもらわなく てはなりませんでしたから。この戦いはどこの国でも終わったわけではありません が、少なくとも英国と日本では、充分な学術研究が積まれ、今後の

30

年間にどう なってほしいのか、考えることができるようになりました。

個人的には、児童文学の専門領域とこれに関連した仕事は、いつでも必ず需要が あると思っています。児童書出版の発展や、児童書に特有な領域、たとえば子ども 読者に向けて書くとはどういうことか、文章テキストのなかで絵画的要素がどう働 くのか、などの知識は常に必要です。とはいえこの分野はあまりにも広大で、1人 の人間が、学術研究のために必要とされる全ての側面について深い知識を持つこと は難しいのです。そのために児童文学を1つの分野として専攻できるという考え方 を止めて、もっと焦点を絞った専門性を、相当する学科や領域や学部のなかで発達 させてはどうでしょうか。こうすることで生まれる利益は、児童文学の研究に制限 されるものではありません。例えば、ある時代を研究する専門家たちは、学問的に 研究している専門領域に児童文学を編みこむことのメリットに気づいています。彼 らは、子どもや子どものために書くことをいっそう深く理解しようとすることの先 に、重要な識見がもたらされると考えているのです。

私が今行っている研究も、この流れに沿っています。私は児童文学への一般的な 興味から離れて、1910年から

1949

年までの時代の高度な専門的見解を高めていま す。今書いている本は、イギリスでこの期間に子どものために出版されたものを研

(16)

究したものです。しかし私の目的は、児童文学の研究者に新しい情報を提供するた めではありません。私の発見したものが、この時代のイギリスの美術や文芸一般の なかで、この時代の理解を深めるために役立つことを願っているのです。例えば、

近代主義の高名な作家の作品と、その時代の子どもたち自身が出版したものとのあ いだには相互作用があるだろうかと考えました。そして児童文学は、同時代の大人 の文学とどう重なっていて、どう違うのかを示したいと思っています。2つの大戦 の間という時代は、不安と不安定の時代だったという一般常識さえ疑わなければい けないことを論議するつもりです。

1つの例として、私の現在の研究を簡単にご紹介します。児童文学から出発して いますが、他の学術分野との接点を開いていきます。この例は、私たちが「子ども の」文学というときに、私たちは何を意味しているのか、というまた別の疑問をも たらします。なぜなら私が研究の対象としたものは、若い人が作りあげたもので あって、若い人のために作られたものではないからです。

今日では、それほどめずらしいことではありません。オンデマンド出版や、ファ ン・フィクション、デジタル出版によって、若い人たちが、自分たちの創作物を、

それを読みたい人に読ませることができるようになったからです。しかし

1930

年 代には、非常にめずらしいことでした。私が例としたのは、1934年から

35

年にか けて、イギリスのエリート寄宿学校にいた2人の経済的に恵まれた少年が考え出し て、世に送り出した雑誌です。2人の少年はウィンストン・チャーチルの甥で、

ジャイルス・ロミリー(1916~

1967)とエズモンド・ロミリー(1918

1947)と

いう兄弟です。2人は、「アウト・オブ・バウンズ(束縛を越えて)―寄宿学校で のリアクションに対するアクション」という雑誌を創刊し、4号まで刊行して、大 きなセンセーションを巻き起こしました。

非常に良くできた雑誌で、彼らは

3000

部を刷って、配布したのですが、それだ けではありません。2人の少年の活動が、右翼的な新聞であるデイリー・メイル誌 のトップ記事となったことからも、この雑誌の影響がどれほど大きかったかがわか ります。デイリー・メイル誌は2人を、イギリスのパブリック・スクールへの「赤 い脅威」と呼びました。

「アウト・オブ・バウンズ」の目的は、生徒たちに左翼思想を紹介し、3つのこ とに反対することで、学校のなかで生徒たちに活発に政治的な活動をするよう勧め るものでした。ロミリー兄弟と雑誌への寄稿者たちが考えていた、反対すべき3つ とは、①士官による軍事訓練、②上級生による下級生の使役(その手の学校ではど こでも見られた習慣で、下級生は上級生にお仕えさせられるというものです)、③

(17)

体罰、でした。どれもミリタリズムと寄宿学校での不当な圧政が原因となっていま す。

この雑誌は、若い人たちが当時読んでいたものからどんな影響を受けていたか興 味がある人にとって、価値があります。なぜなら雑誌は実際の生徒たちの声を残し ているからです。声は、学校へ行く年代のさまざまな生徒のものではなくて、少数 のエリートの声ではあるのですが。特に役に立つのは、彼らが掲載した本の紹介で す。このグループの若者たち(ほぼ少年です)が、何を選んで読んでいたか、それ はなぜか、そしてどう思ったか、などを知ることができます。本の紹介が見せてく れるのは、彼らの読書が多方面にわたっていること。しかし現代と違って、フィク ションよりも教養書を選ぶ傾向があったことです。また左翼系の出版社が売ってい たパンフレットにとりあげられた本を選んでいました。とりあげられていた本は、

『失業者の手記』(1934)、『進歩的学校の研究』(1934)、『ファシズムの脅威』(1933)、

共産主義青年同盟のパンフレットで『ファシズムに反対する

10

の理由』、それから ジェフリー・トリーズが

1934

年に書いたロビン・フッド物語の『貴族に向けられ た弓』です。これは子どものための左翼小説です。もう1つ注目すべきことは、こ の雑誌で紹介されている本は、大人の本と子どもの本が区別されていません。どの 本についても、自分たち自身のこと、特権的な生活にどう関係するのか、またなぜ 社会を変化させる必要があるのか、などが真剣に考察されています。

20

世紀の前半に若者たちが読んでいたものをもっと広い範囲で捉えることに よって、イギリスの児童文学の発展に対する伝統的な理解は変化します。そのこ とを「アウト・オブ・バウンズ」は、教えてくれます。この時代の若者のための 本は、一般的な歴史からすると、退避主義的だったり現実逃避的だったりすると 言われてきましたが、そんなところは微塵もありません。「アウト・オブ・バウン ズ」は、熱心に政治的な活動をしています。この雑誌の若い書き手と読み手は、行 政や文化に責任を持つ準備をしています。彼らはある出来事で捕まってしまうので すが、それはそう先のことではありませんでした。エズモンド・ロミリーは「アウ ト・オブ・バウンズ」に関わったために、学校から放校処分を受けます。その後彼 はロンドンのラディカルな本屋の裏で、数ヶ月間ホームレスとして過ごします。

まるでその前年に刊行された、ジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドン放浪記』

(1933、岩波文庫、1989)のようです。そこでエズモンドは、その時代のもっとも 影響力のあるラディカルな作家たちと出会います。ある作家は「アウト・オブ・バ ウンズ」についてアドバイスしてくれるほどでした。その後すぐに、彼はスペイン のファシズムと戦うために、国際旅団に参加。ほぼ直後に負傷してしまいますが、

(18)

後にジャーナリストとして戦線に復帰。スペインで結婚した有力なミットフォード 家の娘がいっしょでした。ジャイルズ・ロミリーもまたジャーナリストとしてスペ インに行き、戦争特派員として地位を築きました。彼らが政治家や(チャーチルは 伯父さんでした)、共産党員やラディカルな作家とつながりがあったということか ら、「アウト・オブ・バウンズ」から始まるロミリー兄弟の話は、若者の読書や書 くこと、そしてこの時代の政治的な生活へのユニークな見識ばかりでなく、こうい うことがイギリスの大戦の間の文化にどんな影響を与えたかを教えてくれます。

私は研究者のキャリアの最後のステージに向かいつつありますが、このプロジェ クトは価値があったと深く思っています。1つには、ある時代の歴史的な文献のな かに児童文学を持ちこむことの価値を非常によく表していると思うからです。

本、特に子ども時代に読んだ子どもの本は、とりわけ特別な種類の「物(オブ ジェクト)」なのです。個人のレベルでは、本はまるで場所のようです。私たち は、本のなかに入り、本を探検します。しかし同時に私たち自身のなかにも、本を 持ちこみます。本のストーリーや言語だけが私たちのなかに入って住みつくわけで はなくて、それぞれの本と関連したイメージ、言葉、さわった感触、匂いの全てが 記憶のきっかけとなります。記憶を研究している人が発見したように、ときがた てば、個人の間で、集団の間で、記憶を保ったり伝えたりするときに、「物(オブ ジェクト)」は中心的な役割を果たします。記憶は変わりやすいものですが、それ と違って、本を含む具体的な物はうつろうことがありません。個人のレベルでは、

本は私たちを、その本を読んだ過去へと、さかのぼらせてくれます。文化のレベル では、ある時代に作られた本は、その時代の物語、言葉、イメージ、象徴、抱負や 不安をつかまえています。だから私たちは、そういうものに出会うことができるの です。私は、児童書のなかに閉じこめられ保存されている文化的な記憶を、再生さ せようとしています。ですからこのプロジェクトの一環として、私がこの冬また教 壇に立つときには、インターネット上に小さな展覧会を立ちあげて、それに学生た ちに参加してもらい、展示する材料を探したり解読したりしてもらおうと思ってい ます。その材料のうちのいくつかは、セブン・ストーリーズでいつか開催される、

イギリスの児童書出版の歴史を

21

世紀のために再読するための展覧会に展示され ることになるでしょう。そのときにいたって、児童文学の専門家としての私のキャ リアの全ての側面が、1つにまとまるのではないでしょうか。教えること、研究す ること、本を出すこと、そして社会的な活動が、1つのプロジェクトのなかに象徴 的に表れるのです。

私が仕事を始めたときには、私は学部生に教えるよう求められただけです。研究

(19)

者への期待は今ではもっと大きなものになっていることを、仕事を始めたばかりの 方や、これから仕事をしようという皆さんは、とっくにご存じでしょう。

私がいえることは、児童文学は、独自な研究をするためには、第一次資料のまっ たく無尽蔵の宝庫だということです。それだけでも価値ある研究ができることで しょう。しかし児童文学のフォーラムのその先を見れば、児童文学を学問的文化的 な別の分野に持ちこむことができます。そうすると得るものが大きいと、私は思っ ています。

皆さんの興味がどこにあるにしても、皆さんがご自分の仕事を楽しんでいけます よう、願っています。私も楽しんできましたし、とりわけ本日ここで皆さんとお話 する機会が持てたことを喜んでいます。

ご静聴、ありがとうございました。

参照

関連したドキュメント

とりひとりと同じように。 いま とお むかし みなみ うみ おお りくち いこうずい き ふか うみ そこ

黒い、太く示しているところが敷地の区域という形になります。区域としては、中央のほう に A、B 街区、そして北側のほうに C、D、E

学側からより、たくさんの情報 提供してほしいなあと感じて います。講議 まま に関して、うるさ すぎる学生、講議 まま

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので

古澄ゼミは私たち三回生が 1 期生で、自主的に何をしてい くかを先生と話し合いながら進めています。何より個性的な

したがいまして、私の主たる仕事させていただいているときのお客様というのは、ここの足

北区らしさという文言は、私も少し気になったところで、特に住民の方にとっての北