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江戸庶民の服飾と美意識について

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(1)

江戸庶民の服飾と美意識について

著者 吉野 瑞恵

雑誌名 東京家政大学生活科学研究所研究報告

7

ページ 29‑43

発行年 1984‑03

出版者 東京家政大学生活科学研究所

URL http://id.nii.ac.jp/1653/00009753/

(2)

・講翻τ瓢嶽1編議蟹・V

選隅號鷲︑

?量

図1 洛中洛外図騨風

図2 花下遊楽図扉風

図3 染分四季花鳥模様縫箔小袖 図4 白繍r一地雪の輪に菊模様縫箔紋小袖

(3)

図5 五美人図 葛飾北斎筆

1 ,・

   資 レ   徽       ドち バリ      .︑熱彰熱ぎ数灘 ..嘱〜

図6 町人の妻

r

図7 螢狩り 鈴木春信筆

図8 紅つけ 喜多川歌麿筆

(4)

江戸庶民の服飾と美意識について

吉 野 瑞 恵

AStudy of the People in the Edo Era the Costume          and Aesthetic Sence

Mizue YosHINo

緒  言

 慶長8年(1603),家康が江戸に幕府を開いて から,慶応4年(1868),その閉幕をみるまでの 約260年間を江戸時代という。この時代は,大

きな戦乱もなく泰平の中で,幕藩体制下の社会 は,公家,武家,庶民の身分制度によって確立 されていた。

 江戸時代初期の慶長以後,3代将軍家光の慶 安頃までの約40年間は, 『四条河原図』や『洛 中洛外図屏風』に描かれている豪華な金の摺箔 や金銀糸の刺繍絞りを併用した小袖など,桃山 時代の服飾が受け継がれていた。しかし,我国 は,古来より地震や水害に見舞われることが頻 繁で,また,人口の密集する市中では火災が相 継いで起こり,中でも明暦3年(1657)の出火 は,2日3晩に渡るもので,江戸は,ほとんど 原形を残さないほどの被害を受けた。武家は,

それまでがきらびやかだっただけに立ち直りに は時間を要したが,庶民は,生産にたずさわっ て生活していた者が多く,需要供給による原理 に基づいて,家,調度,衣装などの失なわれて

* 東京家政大学生活科学硬究所研修生

いたものの生産に従事することによって利益を 得,経済力を拡張してゆき,社会の中で重要な 位置をしめるようになり,同時に江戸は,商品 経済が盛んに行なわれるようになり,諸国の人

々の集まるところとなった。

 徳川幕府も将軍が4代,5代となるにしたが って,世相は落ちつきを見せ,泰平の世を謳歌 する様相となり,庶民階級の生活は向上し,豊 かになると共に,日々の生活が遊楽にふける傾 向が増した。さらに,娯楽施設の拡充へと進展 してゆくことになり,ここに出入りすることに よって,衣装にも凝る風潮を生み出し,華美へ の傾向を示唆した為取り締まりがたびたび出 された。しかし,この取り締まりの網目をくぐ るようにして,金銀糸の刺繍や鹿の子絞りが盛 んに用いられた。これは,元禄時代の庶民たち が,俄か成金の潜上趣味から上流の武家風俗の 模倣に,その根拠を求めていたが,中期には,

札差を中心とする庶民の実力に伴ない,逆に武 家が,庶民の風俗を模倣するほど,その風俗上 における主導権は,庶民によって掌握されてい った。また,上方の文化に依存していた江戸の 庶民は,これからも脱して,江戸庶民(江戸ッ 子)独得の気構えのもとに,,江戸時代の風俗の

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基礎を築いてゆき,江戸時代の風俗の中心とな り,後期へと続いていった。

 江戸時代の風俗の中で,特に江戸庶民の服飾 に重点をおき,開幕より正徳までを江戸時代前 期,享保から天明までを江戸時代中期,寛政以 降,幕末までを江戸時代後期と,江戸時代を3 期に区分し,服飾の美的事象の移行より,庶民 の美に対する意識をさぐってゆきたい。

1 江戸の概要

 江戸は,江戸城を中心に内濠以内の内曲輪に は,譜代諸侯の邸宅,その外から外濠以内の外 曲輪には,外様,旗本の屋敷,外曲輪以外の日 本橋を中心とする四里四方の市中に,八百八町 の庶民の住む居宅があった。

 江戸時代を通じて社会の階級組織は,士農工 商と定められ,江戸の市中には,江戸における 各種の生産を支えてゆく人々の為の諸道具の生 産をする職人と,これらの材料及び商品の流通,

納入に従事する商人が暮していた。商人は,最 も低い身分に位置していたが,貨幣経済や都市 の発達により,経済的な実力を持っていたのは,

この商人を中心とする庶民階級であった。

 江戸は,多くの主要部分が武家屋敷で占めら れており,残りの半分を寺社地と町屋で分け合 い,武家人口約50万人と,庶民人口約50万人が 居住する一大消費都市であった。しかし,江戸 前期においては,江戸の生産力はまだ低く,江 戸の需要に応えられなかった為,調度品類,衣 装をはじめとする消費物資の多くは,上方から の供給に頼らざるを得なかった。享保期(1716

〜1736年)に大阪から江戸へ菱垣廻船などで送 られた上方の商品は,「下り物」と称され,江 戸の生活に重要なものであった。江戸に上方の 商品が,多量に流入するという江戸と上方との 市場関係を反映して,江戸は,上方商人の出店 が多く,彼らは,京都,大阪,伊勢,近江など の生産地,集散地に本店や仕入店を置き,江戸 に出店として江戸店を設けたのであった。

 江戸の開府以来,諸国から集まった江戸の庶

民階級は,幕府の興隆の勢いにのって,次第に 経済的地盤を築き,元禄頃には,請負用達によ って俄か成金になる者も少なくなかった。紀伊 国屋文左衛門は,紀伊の密柑を江戸に回送して 利益を収め,さらに,東叡山根本中堂の造営を 請負い富豪となり,同じく江戸の富豪,奈良屋 茂左衛門は,天和3年(1683)5月の日光大地 震により東照宮が倒壊した時,その修繕用材の 入札により御用材木問屋になった。彼らは贅沢 において常に対抗し,吉原は競技場に等しく,

奈良屋茂左衛門が,吉原の茶屋で雪見の宴を開 いていると聞けば,紀伊国屋文左衛門は,茶屋 の前に.小判や小粒金を撒き散らして人々にそ れを拾わせ,折角の雪景色を泥の海に変えたほ どで,彼らは,いかに相手方の鼻を明かし,世 間を驚うかせることができるかと,苦心してい たのであった。この傾向は,遊里における男性 の奢り競べにとどまらず,家族ぐるみの競争と なり,江戸の石川六兵衛の妻は,京都まで衣装 競べに出かけるほどであった。幕府の奢修取り 締まりは,江戸時代全期に渡り繰り返し出され たが,その効果は,ほとんどなかった。

 江戸時代中期になると,武家が封禄として受 け取る禄米を彼らに代わって領収し,余剰米を 販売し,その手数料で生活をする江戸浅草蔵前 に住む「札差」が現われた。彼らの生活は豪奢 を極め,その風俗が社会に与えた影響は顕著で あった。札差の名は,幕府より蔵米受け取り手 形で渡された時,その人名を書いて割竹にはさ み,蔵役所の藁苞に刺したことから起こった。

札差は,架空の他人名義のお金を融通する形を とって公定の利率以上の利息を取ったり,礼金 を受けとったり,あるいは,証文の書き替え月 をだぶらせ,2ケ月分の利息を取るなどして,

富を築いてゆき,宝暦〜明和(1751〜1772年)

頃には,栄華をきわめた札差を中心とする江戸 に何代も住んでいる庶民が,京都,大阪,伊勢,

近江などの他国者に対抗し,優越感を味わうほ どの経済力を持つようになった。彼らは,「江 戸ッ子」と自称し,①江戸城下に生まれ,神田

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吉野:江戸庶民の服飾と美意識について 上水の水で育ち,②お金に執着せず,③乳母日

傘で育った高級な人間であり,④生粋の江戸生 えぬきだという根生いの土着意識を持ち,⑤

「いき」と「はり」のきっぷの良さの対抗精神に 燃えており,①から⑤までを満たしていること を誇りとしていたQしかし,寛政元年(1789)

には,封建秩序の再編成をはかる為,それ以後 の借金は,年利6分に下げるという「棄損令」

が出され,それまで富を得てきた札差は,痛烈 な打撃を受け,「通」ぶりを発揮することが不 可能になった。

 後期になると,全国的な商品生産,特に,江 戸地廻り経済は,寛政期(1789〜1801年)の幕 府の流通統制もあって,逆に発展し,文化〜文 政(1804〜1830年)頃になると,上方からの商品 輪送量が減り,旧来の富商や札差による上層庶 民から,中・下層庶民へと「江戸ッ子」は拡大 し,彼ら新興庶民が,その文化活動の場として,

歌舞伎,岡場所の影響を受け,渋い色味,縞柄 を好むようになった。また,式亭三馬の滑稽本

『浮世風呂』や『浮世床』に描かれている庶民 は,歌舞伎役者の舞台衣装から,色や模様を敏 感に受け入れ,衣装の自慢や批評をしあってお り,風呂屋,床屋を社交の場として,衣装の情 報交換などをしていた。

 江戸の年中行事は,日々の生活の中から生ま れたもので,花見や祭りなどがあり,特にその ための衣装に凝るのであった。花見は,我国で は古い時代から各地で行なわれており,江戸の 花の名所は数多くあるが,古くから庶民に親し まれていたのは,上野寛永寺境内の桜であった。

上野は,黒門から仁王門にかけて桜の並木があ り,江戸時代前期には,清水堂付近から後方に 花見客の幕が多く張られた。幕は,定紋を染出

した立派なものもあれぽ,女性の小袖や男性の 羽織を綱に掛けた俄か作りの幕もあり,小袖な

どを掛けた幕を「小袖幕」といい,上野の花見 風俗の一つになっていた。庶民の女性は,正月 の小袖を作るよりも「花見小袖」といって,花 見の為に新調し,それを誇りに出かけ,雨が降

っても傘はささず,小袖の濡れるのも遊山の見 栄としていた。江戸の祭礼のうち,山王と神田 明神の両祭礼は,将軍(天下様)の上覧があっ たので,天下祭と称していた。庶民は,祭礼を 本来の宗教的な意味よりも,娯楽として考える 向きがあり,祭礼の日を心待ちにしていたので あった。祭礼に参加しないと,家の面目,その 身の外聞にもかかわることであるとして,準備 は,1ケ月位前から各町内で集会して,山車や 踊屋台などについての相談を重ね,出し物が決 まると,その準備にかかる者,花笠を作る者,

軒提灯を吊るす者,神酒所を設ける者,揃いの衣 装を誹える者などと手分けをして,何ごとも他 の町内には,ひけをとりたくないという見栄と 競争心から血眼で走りまわり,仕事が手につか ないほどであった。裕福な家庭では,子どもを 八幡太郎,頼光,頼朝,義経などの大将に仕立 て,唐織,金欄,縮緬,鍛子,紗綾などを幾重に も着せ,お供には,羅紗,狸狸緋,天1絨など の美服を誹えて着せた。その後から,衣装を着 飾った両親が付き添い,芸者や踊子,及び,難 子方を雇い,揃いの美服でくり出すのであった。

皿 江戸時代前期の服飾

 1. 江戸時代初期の小袖  (1) 桃山時代の小袖

 服飾史の中で現代の着物に連なる近世の小袖 は,色と模様に趣向が求められた衣装で,桃山 時代を中心とする初期小袖の模様構成の表現技 巧としては,縫箔と辻が花があり,前者は技巧 的にみても多彩色で重厚な感じで,後者は 絞 りを主とした優雅なものであった。「肩裾」の 名で呼ぼれている『白地草花模様縫箔肩裾小袖』

は,胴の部分だけを広く無地に残し,肩と胸に かけての上半身と裾を雲形に区切り,その中に 草花を多彩色の刺繍で表わし,また,地の部分 に金の摺箔が施こされていた。一方の「辻が花」

は,模様の輪郭を糸で縫い絞り,縫い絞ったと ころを防染し,あるいは,染めることによって 模様を表わしたもので,自由な絵画的な模様を

(7)

染め出すことを主体とした技巧であった。 『染 分桐矢襖模様辻が花胴服』は,肩に雲形,裾に 直線で,それぞれ紫,浅葱,薄萌黄,鵬色で染,

肩には五七の桐紋,裾には矢襖が現わされてお り,..『黄地丁字模様辻が花胴服』は,慶長8年

(1603),8月5日に伏見城で石見銀山の役人安 原備中が家康から拝領したもので,肩,腰,裾 を大きく鋸歯形に黄と紅で染分け,丁字の実,

亀甲,丸紋を絞り出した胴服で,デザイン,配 色の斬新なものであった。これらは,武家のも のとは思えないほどのあでやかさと数奇を凝ら

したものであった。

 『洛中洛外図屏風』 (図1)には,商家の立 ち並ぶ町の雑踏,舐園会の行列,女歌舞伎を楽 しむ人々など,市中にみなぎる活気が現わされ ており,踊っている庶民の女性たちの,身幅が 広く,袖幅の狭い,対丈の小袖は,模様の斬i新 さと色彩の美しさ,染色技巧の精巧さが調和し た魅力的なものであった。また,『花下遊楽図』

(図2)の中にも,色とりどりの衣装に身を飾 った庶民の姿が描かれており,男性も女性のよ うな華やかな模様の小袖を着ていたことがうか がわれる。

 江戸時代初期に,出雲の巫女である阿国は,

美貌であり,舞も巧みであったが,人心をとら えたのは,腰に名護屋帯を結び,小さな刀を差 し,黄金のひょうたん,金欄の袋などを長く垂 らして,首からキリシタンのクルスを下げ,髪 は,男髭で頭の上を剃り,未青年の印である前 髪をおろしている姿によるものであった。寛永 6年(1629)に女歌舞伎が幕府の風俗取り締ま りに触れ禁止されると,これに代わって,男性 だけの若衆歌舞伎が現われ,元服前の前髪を剃 っていない美しい少年たちが,世の中の好奇心 をそそった。これらの風俗が,服飾美に無関係 ではなく,美服へのあこがれをよく現わしてお り,階級的な差別も男女の制限もなく,ただ華 やかなものに子どものような気持ちで酔ってい たのであった。

* 図1〜図8;カラーページ参照

 (2) 桃山時代の残照

 江戸時代初期の服飾には,摺箔,刺繍,絞り を効果的に用いて,細かく多彩な模様で,独自 の様式と美しさを示す染小袖が現われ,その代 表的なものに「慶長小袖」があった。これは,

『染分四季花鳥模様縫箔小袖』 (図3)で,紗 綾形地の論子を紅,白,黒の3色で染分け,紅 と白の部分には,刺繍と鹿の子絞りを主として 各種の草花,松,鶴あるいは,裾に見られる

ような家宅のある風景も表わし,黒の部分には 金の摺箔が施され,晴の日の豪華な衣装であっ た。この衣装は,四季の区別なく草花の模様を 表わし,各季節の植物の生命力をすべて衣装に 託しており,興隆期にある江戸の庶民の迫力あ る生活力の一端を表わしている。さらに,吉祥 模様の鶴などを配し,喜びにあふれた生活との 関わりのある自然の風物に美を求め,これらを 細やかな感覚で取り上げた小袖であった。これ らの江戸時代初期の小袖は,明暦3年(1657)

正月18日に本郷丸山本妙寺から出火した「振袖 火事」とも呼ばれている大火で,ほとんど失な われてしまった。この火事は,1枚の美しい振 袖をめぐって,その持ち主となった3人の娘た ちが,次々に不幸な死に方をした為,住職が,

不吉なその振袖を焼き捨てようとした時,折り からの北風に振袖は,火の塊となって空高く舞 い上がり,江戸の大半を灰としてしまったとい うエピソードがある。大火の原因となった振袖 は,紫縮面に,荒磯と菊の模様を染,桔梗の縫 紋を施こしたもので,大きな商家とはいえ,庶 民の娘が愛用していたことに驚かされる。

 江戸城大奥では,天正年間(1573〜1591年)

に来朝した明国の職人によって伝えられた統,

論子,縮緬,嬬子,錦,金欄,天鳶絨などの高・

級織物を用いて,小袖や帯を仕立てて着用して いた。この頃の江戸は,火災に見舞われること が頻繁で,飢鯉に苦しみ,庶民の娘たちは,武 家へ奉公に出ることが次第に多くなり,宿下が りの際に,.武家の奥方の小袖を拝領し,出かけ る時は,常に,この衣装を着て,自慢としてい

一34一

(8)

吉野:江戸庶民の服飾と美意識について

た。慶安4年(1651)4月,3代将軍家光から 4代将軍家綱への代替わりによって,大奥の女 中は,総入れ替えとなった。この女中たちは,

旗本の娘や庶民の娘であったが,大奥での贅沢 な生活に慣れていた為,当時,奢多禁止令が出 されていた一般社会における生活になじむこと が容易でなかった。一・方,庶民の経済力は,富 に向上し,生活面では豊かになってゆき,豪華 な衣装を着飾るようになった。この様子は『近 世風俗志』に,

 「縫箔小袖は昔の婦女の衣服とす箔は今云印  金の類すりはく也寛文の末年廃して金糸縫  の製始まる。箔小袖を或は地なし小袖とも云  平絹に彩孫を以て所々に繍し其間に摺箔をし  た物にて今の地白地赤と云其制の本なれども  甚だ鹿也 其箔衣も正徳慶安頃迄は自ら制せ  ず市民の子女等大名以下武家に仕へて其主人  より一二領賜ひしを婚儀及び他出に服し衆目  を驚かす 富家の妻女等これを観て自費を以  て製するに至りし也箔其衣も廃して金糸繍を  用ふるに至る 京の傾城も六条馬場にありし  時は遊女も地なし縫箔へり箔の小袖を服す島  原に移る後縫箔及びひった鹿子の服を禁止

 す」

とあり.慶長小袖の系統をひいた地無小袖が,

寛文期(1661〜1672年)頃まで,かなり流行し ていたことがうかがわれる。

 2. 背面美の演出

 明暦の大火は,家綱の時代であり,その10年 後の寛文8年(1668)に,江戸は再び大火に見 舞われ,幕府は,大火災の善後策としての倹約 令「倹約之儀町触」を発した。庶民の衣装は,

その身分に従って倹約し,召仕の者やその他の 身分の軽い職人たちは,できるだけ粗末な衣装 を着用するようにというもので,この倹約令に より,前代まで盛んに用いられた摺箔は姿を消 し,刺繍も金銀糸の使用が著しく少なくなり,

色糸を使用する方向へと移行していった。その 為に,衣装の外観美も重厚さから軽い感じのも

のへ推移すると共に,色糸縫と鹿の子絞りを用 いるようになった。世相の変容に伴い,次期の 模様構成である寛文模様の出現となっていった。

これは,江戸時代初期の小模様から大模様とな り,無地の余白を大きく斜に残し,着装時に前 面より背面を重視して,女性の後姿の美を誇張 するかのように右肩に主点を置き,左肩から右 裾及び前面に,非対称的な構図で,動的な感じ を表わしていた。例えば, 『白論子地雪の輪,

菊模様縫箔小袖』 (図4)は,大輪の菊と,1 本おきの縦縞に匹田(鹿の子)絞りが施され,

縞の黒地の部分には,菊,桜,七宝などが刺繍 で表わされており,また,縦縞の線には,細く 金の摺箔が,わずかに施されていた。明暦の大 火を契機として現われた寛文小袖は,意匠構成 が画期的であり,刺繍と鹿の子絞りを用いて,

倹約令に触れないように,金の摺箔,金銀糸の 刺繍などは用いられなくなったが,この小袖に は,模様の輪郭に,わずかではあるが,摺箔が 用いられている。これは,倹約令の履行が完全 に行なわれる次の模様小袖への移行期の小袖と みられる。

 このような大胆な構図法に準じた小袖は,現 在のファッションブックのような雛形本によっ て庶民の間に着用されていった。小袖の模様に は,植物や動物をはじめ,調度,器具,文字,

風景など,生活に密着したあらゆるものが扱わ れていたことをうかがうことができ,模様,及 び,染方,色,刺繍を施す所などが細かく表わ されていた。雛形本の出版は,寛文6年(16 66)刊行の『新選御ひいなかた』が最も古く,

その後,毎年のように刊行され,時代に応じて その模様も変化し,庶民の小袖模様選択への一 助となっていたQ

 3.元禄の華世  (1) 歌舞伎風俗の影響

 この時期は,江戸時代を通じて庶民の生活様 式が経済力の向上に伴なって華美になり,財政 上の豊かさが元禄文化を作り上げてゆき,文学,

(9)

芸能,服飾においての進歩にめざましいものが みられ,小袖形態の変化は,桁が長くなり,身 丈も長くなる傾向を示しつつあった。

 今日の基礎となる歌舞伎の完成は,風俗取り 締まりによって禁止された若衆歌舞伎に代わり 前髪を剃り落した野郎が主役となる野郎歌舞i伎 の進展によるもので,次第に芸能本意のものと なり,元禄以後,多数の名優を輩出し,歌舞伎 を華やかなものにしたのであった。なかでも,

京阪の舞台を代表する坂田藤十郎と江戸を代表 する市川団十郎,そして,女形芸を代表する上 村吉弥をあげることができる。歌舞伎役者には,

紋所以外に伝統的な模様があり,新しい芝居を 始めるとき,役者は,自分の着る衣装,髪型か ら持ち物にいたるまで工夫を凝らしていた。延 宝年間(1673〜1680年)において,歌舞伎女形 役者の元祖と唄われた上村吉弥の好みからでた 帯結びは, 「吉弥結び」と呼ばれており, 『近 世女風俗考』に

 「幅広く 丈長なる帯を唐丈の耳たれたる如  く結び かつ その角に鉛のしず入れしを結  び始めしより 其風姿よしとて 都ひともに  専ら流行せり」

とあり,結び目に装飾性をもたせることを好み はじめたことがうかがわれる。元禄(1688〜17 04年)には,京都の女形,伊藤小丈夫が江戸の 芝居に出た時,今までの紅の総鹿の子から,紫 の絞型染にした衣装を着て評判となった「小太 夫鹿の子」と呼ばれているものがある。

 (2) 衣装競べと著修禁止令

 5代将軍綱吉の母,桂昌院は,衣装に深く傾 倒しており,桂昌院所用と伝えられている『黒 地梅樹模様振袖』は,地が黒で,匹田絞りの所 は赤に染分けられ,その境に梅の模様が刺繍や 匹田で表わされ,寛文期(1661〜1673年)の様 式を受けながら,全体模様へと移行する傾向を 示しており,こうした多彩な模様小袖が,次第 に庶民へと普及していった。また,同じ頃,尾 形光琳の画風を学んだ宮崎友禅斎による友禅染

が現われ,色糊を用いて思いのままの模様染が,

小袖に豊富な色彩で描かれるようになり,漸時 奢修への傾向をたどった。例えば,石川六兵衛 の妻が,数々の美服を整えて京都に上り,その 地の灘波屋十右衛門の妻と催した衣装競べは,

灘波屋十右衛門の妻が,緋論子の小袖に洛中の 風景を金銀糸で刺繍したものを着たのに対し,

石川六兵衛の妻は,黒羽二重に立木の南天の染 小袖の清楚な感じの小袖であったので,京都方 の勝ちと見えたが,南天の実には,珊瑚を縫い 付けた贅沢なものを用いていたことがわかり,

結局,江戸方の勝ちとなった。これは,前代に つながる重厚な模様表現が時代遅れの現われで あるのに対し,簡素な中に奢りの一端を示した 衣装への美意識を示す世の風潮への発端をうか がわせるものであった。この石川六兵衛の妻は,

将軍綱吉が上野御成の道筋に桟敷を構え,御簾 を下げ,幕を張りめぐらし,香を焚き,緋縮緬 の大振袖を着た切禿2人を両脇に侍らせ,行列 を迎えるといった大名にも見間違えるほどの態 度をとった為,夫妻共々,閾所,遠島の刑を受 けることになった。没収となった小袖は,『近 世風俗志』に

 「妻甚奢たり 此女常に紗綾 縮緬 論子の  類を着し 晴がましき所へは椴子 論子 金  入等を着す」

と記されている品々であった。

 庶民に対する奢修禁止令は,正保5年(1648)

 「町人召仕着服之事

 一,町人召仕絹布着し申事 此以前より 被   仰付候 髄承申候間 絹紬計着し可申候   町中之者ハ不及申 棚から借家之者昔ニモ   此旨急度可申付候」

が最初であった。この禁止令では,絹と紬の着 用が許されているが,翌年の禁止令から天和3 年(1683)までの約30年間に公布された禁止令 からみると,絹布は禁制の品であった。また,

逆に,これらの禁止令から,江戸の庶民の間で,

御法度の対象になるほど流行していたのである。

一36一

(10)

吉野:江戸庶民の服飾と美意識について 石川六兵衛夫妻の処分後の天和3年(1683)に

公布された庶民対象の禁止令には,

 「覚  一,金紗  一,縫  一,惣鹿子

  右之品 向後女之衣類二制禁之 惣而珍敷  織物染物 新規に仕出候事 無用たるへし  小袖之表萱端二付而武百目より価高に売買付  ましき者也」

と定められており,庶民の衣装を徹底的に取り 締まるようになった。その為,匹田絞りを表わ す型匹田の技巧が考案され,匹田絞りの代わり に用いられるようになった。天和4年(1684)

正月刊行の『新版当風ひいなかた』には,

 「世上に惣鹿子金子(糸)縫入の衣服すたり  近き頃よりものずきかはり 成ほど軽きを本  とす 是によって当風の物すきの雛形改る」

とあり,流行の変化が記されているが,その反面,

 「御法度は表向は守り 内証は鹿子類さまさ  ま調へ」

井原西鶴が『本朝二十不幸』に記しているように,

表面的には禁令を守っているかのように見える が,金糸の刺繍や鹿の子絞りを平然と用い,華 美を求めていた。奢りの様相は,天和3年(16 83)に出された奢修禁止令が,実際には効を奏

していなかったことを示している。正徳4年

(1714)には,京都両替町に住む中村内蔵助の 妻と他3人が,派手な衣装競べを演じ,世間を 騒がせた為流罪に処せられる事件が起きてい

る。衣装競べの時の衣装は,白無垢の下着に黒 羽二重の小袖を着て,古渡の金欄の帯を結んだ 姿で,その気高い扮装は,尾形光琳が,日頃親 交のあった中村氏の妻の為に考え出した趣好で あった。尾形光琳は,狩野派山本素軒に師事し,

のちに本阿弥光悦や俵屋宗達の風を学んだ絵師 であり,また,工芸家であり,元禄期の第1人 者であった。その尾形光琳の肉筆による『白綾 地秋草描絵小袖』は,深川木場の冬木三左衛門の 妻の為に,白の続地に淡い彩色で萩,桔梗,す

すきなどの秋草を描いたもので,簡素ではある が,華やかな衣装の中に,画家の手による小袖 としての趣きがあり,味わい深いものであった。1

皿 江戸時代中期の服飾

 1. 宮崎友禅斎と尾形光琳による革新  (1) 友禅染の発展

 宮崎友禅斎は,京都に住む扇絵師で,狩野派 の英一蝶と親交があり,また,尾形光琳の画風 を学び,貞享(1684〜1688年)頃には,色糊を 用いて多彩色で大胆な模様を小袖に染出すこと を工夫し,友禅染の創始者として世に名声を拍 し,もてはやされるようになった。友禅染は,

『源氏ひいなかた』の上巻目録品定に,

 「扇のみか小袖にもはやる友禅染」

と見え,広く用いられていたことがうかがわれ る。貞享5年(1688)には,『友禅ひいなかた』

と称する雛形本が刊行され,その序文に,

 「髪に宮崎氏友禅といふ人有て絵にたくみな  る事いふに斗なく 古風の賎しからぬをふく  みて 今様の香車なる物数奇にかなひ 上は  日のめもしらぬおく方 下はとろふむ女のわ  らはにいたるまで此風流になれり」

と友禅模様の流行が記されている。模様構成は

「古風の賎しからぬ」とあることから,王朝以 来の草花を取り上げたものであり,自然物を意 匠化し,季節感を表わした点は,従来と変わり がないが,その表現方法は,今までにない新鮮 さを感じさせるものであった。江戸時代中期の 初めに,友禅染が完成すると,さらに模様の幅 を広げ,絵を描くように歌枕や名所の風景を現 わしたもの,物語,和歌を題材にしたものなど,1 新しい趣好を加味したのであった。風景の題材

としては, 『近江八景模様小袖』のように,山 々の名所を上方に,水に由縁の各景色は下部に 八景すべてを丁寧に表わしたものがある。

(2) 尾形光琳の意匠

享保17年(1732)刊行の『雛形染色の山』に

(11)

は,「光琳梅」 「光琳杜若」 「光琳竹」 「光琳 菊」と題する模様をはじめ,光琳風の模様が数 多く収載されており,これらは一般に「光琳模 様」と呼ぼれ,享保頃の小袖の流行意匠であっ た。友禅模様に次いで現われたこの模様は,尾 形光琳独自の絵画表現が,染色に応用されたも ので,描線は,肥痩にかかわらず弾力があり,

また,一種の温かさを持ち,曲線は,膨らみを 持って緩やかであり,葉先のように尖ったもの も,すっきりとシャープな印象を与えながら,

手の切れるような鋭さは感じられないものであ った。こうした光琳模様が流行し始めるのは,

正徳期(1711〜1716年)からで,正徳2年(17 12)の『新板風流雛形大成』にも「かうりん梅」

と題する模様がすでに見られた。序文に  「珍らかなるもやうを光琳の筆にそめ」

とあり,同5年(1715)刊行の『当風美女ひな かた』以降享保(1716〜1736年)を中心に元 文(1736〜1741年)にかけて,光琳模様を集め た雛形本が続々と刊行されており,当時,この 模様が庶民の間に広く愛好されていた。また,

光琳模様の流行は,元禄(1688〜1704年)以来 の華麗を極めた小袖意匠が,社会状況を背景と して,転換を求めた結果と考えられる。それま での小袖意匠では,主に模様素材の種類や取り 合わせ,あるいは,小袖の模様構成に関心があ ったのに対し,光琳模様では,模様の主題より も,表現そのものに,新しさを見ることが,で きるのであった。

 2. 移りゆく江戸の好み

 江戸時代中期は,前期に蓄積された庶民文化 のエネルギーが,徐々に解放され,消費される 過程にあり,さらに,後期に花を開く純粋な江 戸庶民の文化への基礎を確立する時期であり,

服飾への影響が大きかった。衣装は,袖丈が著 しく伸び,地面をひきずるほどになると共に,

小袖全体の仕立が大きくなり,身丈も長く,屋 内では,裾をひくようになり,外出にあっては,

それをからげる着方が行なわれ,これは,現代

のおはしよりにつながるものであった。この時 代には,蔵米取の武家の為に,その封禄米を幕 府の米蔵より受け取り,その委託販売を営んで いた札差がいた。札差の中心的存在である「十 八大通」の1人,大口屋暁雨は,銀煙管に,3 枚重ねの黒羽二重小袖,下着には,あざやかな 緋縮緬の儒衿をを用いた姿が「いき」な姿であ ると,「通人」の理想とされていた。彼の廓通 いの風姿を模したとされる市川団十郎の「助六」

は,遊女揚巻と共に,そのきっぷの良さに江戸 の気風をそのままに人気を拍し,もてはやされ たo

 歌舞伎における衣装の色,模様など,役者の 好みによる影響は,特に著しく,寛保元年(17 41)の春に,京都から中村座にきた歌舞伎役者 の若衆形,佐野川市松は, 『高野山心中』の狂 言で,小姓粂之助に扮した時,袴の模様に,白 と紫の石畳に染めた石畳模様を用いて舞i台に出 て,評判となった。人気のある歌舞伎役者が用 いたことにより,それまで呼びならわされてい た「石畳模様」の名称は,「市松模様」と呼び 変えられて流行したのであった。時代が下った 葛飾北斎筆の『五美人図』(写真5)には,庶民 の女性が晴着の反物を品定めしている様子が描 かれており,その中の1人は,佐野川市松の舞 台衣装の模様である市松模様の帯を結んでおり,

庶民に流行していたことがうかがわれる。延享 年間(1744〜1748年),亀蔵と称していた九世市 村羽左衛門は,その巧妙な所作事の肌脱きに,

渦巻模様を着て,これが評判になり,以来,こ の渦巻模様は, 「亀蔵小紋」の名で流行した。

また,文政13年(1830)には,市村座の顔見世 狂言に,四世岩井半四郎が「近江屋おまさ」の 役に着用したものが,「半四郎小紋」の名で流 行している。美人画にも,寛政(1789〜1801年)

以降盛んに描かれるようになった。

 小紋は,型染の一種で,中形や柄に較べて,

非常に細かい模様で,桃山時代の『職人尽絵』

に,これを染めているところがあり,また,当 時の武家の用いた胴服にも,小紋染のものがあ

一38一

(12)

吉野:江戸庶民の服飾と美意識について った。この模様は,慶長(1596〜1615年)頃,

吉岡憲房が,京都で染出したと言われ,「憲法 染」と呼ばれ,現代の江戸小紋につながるもの であった。武家の公服であった麻袴には,もづ ばら小紋染が用いられており,型紙は,紀州徳 川家の特別な保護の下に,伊勢の白子,寺家で 生産され,全国に売り出されていった。型の種 類は多様で,将軍家は,松葉小紋と定められ,

各武家にも留形があったが,庶民の間では,自 由であった。江戸での流行は遅く, 『近世風俗 志』に,

 「此形工伊勢の白子村に多し 諸国に携出て  売v之 近世は諸国城邑の地に製レ之 三都  にては京坂早く江戸遅し 然て江戸名工出て  京坂に勝るあり」

と記されており,多彩な友禅染,画家による精 彩な模様染から型染へ,しかも型彫,染に技巧 を要す小紋へと,表だった奢りから,隠れた奢 りへと,派手から地味な持ち味へと,江戸の好 みの移りゆく様相を示唆している。

]V 江戸時代後期の服飾  1.江戸の好み

 江戸時代後期の文化〜文政時代(1804〜1830 年)は,江戸庶民が開花させた生粋の江戸ッ子 文化が誕生し,江戸の庶民文化の面において,

多くのものを現代に残している。この時代は,

財政窮迫の甚しくなった幕府,武家が,晴落へ と向かう傾向にあり,彼らは反面,庶民に経済 企画をゆだねるようになった。庶民は,武家風 の生活を模し,茶,花,その他の遊芸などの教 養を身につけてゆくと共に,根生いの自信をも って威力を増大させていった。ここに,江戸の 庶民は,正月や祭り,物見遊山などの年中行事 を楽しみ,また,歌舞伎や浄瑠璃などの芝居や 吉原の影響を受け,凝った衣装を装うようにな ったのであった。

 宝暦〜天明期(1751〜1789年)では,江戸庶 民を象徴する人々が,札差を中心とする「十八 大通」であったが,文化〜文政期(1804〜1830

年)には,前代の意識を受け継ぎ,歌舞伎役者 の7代目市川団十郎の闊達な大技と気品の良さ が「江戸ッ子」の代表であると共に,木場の鳶 の者が,木遣で葬式を出してくれと冗談をいい あう部分が『浮世床』に記されているように,

その「きおい」と勇み肌から,「江戸ッ子」と して,職人や小商人たち庶民の中心となり,

「江戸ッ子」のイメージを拡大していった。江 戸の中・下層庶民は,市川団十郎や旧来の富商 や札差による上層庶民と,日常,あまり接する ことがなかったが,各町,各組に属している町 火消である鳶の者とは,同じ町に住み,自分た ちと同じその日暮しの生活を送っていたので,

接触は大きかった。彼らは,火災という非常の 際,生命をかけて消火にあたり,江戸の守りに 尽していたので,そのきっぷの良さに,庶民た ちは,声援を惜まなかった。江戸の火消制度が 成立したのは,享保年間(1716〜1736年)であ るが,鳶人足が主体を占めるようになったのは,

天明期(1781〜1789年)からであり,消し口を めぐって,町火消同士の抗争があった。これは,

江戸成立以来,各町内には,それぞれの町の雰 囲気が作られ,対抗意識が存在した為であった。

彼らの衣装は,組により異なり,半纒の裾に釘 貫,敷瓦,松皮菱を染め,い,ろ,は,などの 組の大紋を丸,角,雪輪,将棋駒で囲み,所属 を明らかにするように,藍木綿に白く染抜かれ,

裏には,錦絵や龍などが描かれており,目に見 えないところに凝った意匠を施すことを好んで いたのであった。この時代の服飾は,見た目は 華やかでなくても,精緻,繊細な技巧が施され ているものや,表はさりげなく見えて,内に贅 を凝らしてあるものなどが好まれる傾向にあり,

表は地味な木綿を使いながら,裏に上質な羽二 重を用いていた。これは,庶民の奢修を禁じた 幕府の弾圧に対する庶民の精一杯の抵抗であっ た。抵抗を裏の美に隠し,たくみに装った彼ら の精神が,「いぎ」のセンスを確立し,拡大し ていった。また,この時代は,江戸の文化の終 着点で,風俗は,欄熟というより,むしろ頽廃

(13)

といった方がふさわしく,封建社会末期の享楽 主義が,武家,庶民の別を問わず,社会にあふ れ,水茶屋や町芸者から流行していった。町芸 者の魅力は,吉原の格式や伝統に縛られたよう な固苦しさのない,解放的な点にあり,これが,

遊晴に流された庶民の心を把えていた。女性の 衣装には,伊予染,路考茶が好まれ,また,黒 衿を掛ける習慣が流行し,庶民は,礼装以外の 小袖にも,みな掛け衿をすることが常識となっ たほどであった。初めは,倹約が目的であり,

衿の汚れや,すり切れるのを防ぐために用いら れていたが,これが服飾の美的要素となり,縮 緬や唐桟などの贅沢な小袖にも黒衿を掛けて,

普段着にみせかけるようになっていた。 『町人 の妻』 (図6)の姿に,縞の小袖に黒の掛け衿 をかけ,黒編子の帯を前で結んでいたことがう かがわれる。

 江戸時代初期以来,繰り返えし倹約令に脅か され,甚だ臆病に,また,萎縮しながらも,庶 民は,美を求め,身を飾ることを望んでおり,

紫羅紗の帯,鳶色ごろふくれん黒編子鯨帯,黒 天鳶絨浅葱鯨帯などの高級なものを用いながら,

外見は,お金のかからないもののように見える ものを選ぶようになっていったのであった。

 2. いき好み  (1)色彩

 服飾における,いき好みは,2つの大きな特 色があり,その1つは,色彩に関するもので,

他方は,縞ものの好みであった。色彩に関して,

その基調となったものは,ほとんど茶と鼠の系 統で,数多くの色調に区別され,色名が付けら れていた。鼠の系統では,銀鼠,紅かけ鼠藍 鼠など,茶系統では,白茶,黄柄茶,媚茶,焦 茶,煤竹茶,鵬茶,鶯茶,鳶色などが,比較的 多く,いずれも地味な色であり,それに,わず かに華やかな色味を加えることによって,深い 味わいのある色を作り出していた。この趣きの ある色は,藍染を基調とした紺,藍色,浅葱や,

櫟,榛,はぜなどの樹皮や実で染めた茶や黒,

苅安,黄粟の黄色,及び,楊梅などに藍を重ね た緑など,入手しやすい色が用いられ,微妙な 色味や濃度の差によるものであった。式亭三馬 の『古今百馬鹿』には,

 「なんだ路考茶か」「イエ媚茶さ」 「ムムい  いはい,媚茶に黒裏という所を ひねって裏  模様もおつだ」「黒裏はあんまりたんとある  から裏模様にしました」

とみえ,黒裏や裏模様の好みが記されており,

容易に人には見られもせず,見せもしない裏に まで,衣装の配色に心を配るおしゃれへの気構 に,「いき」へ通ずる趣向がうかがわれる。ま た, 『浮世風呂』にも

 「路考茶縮緬に一粒鹿子の黒裏で 下へ同じ  一粒鹿子の 黒の引返しをニツ着て 緋縮緬  の儒衿に白儒子の半衿で 鼠の厚板の帯のこ  りこりする九寸幅」

と好みがよく表わされている描写がみられる。

式亭三馬は,文中で,

 「今の女は皆青い着物だナ 惜い女に馬糞の  衣をかけたぜ」

と男性に批判させており,流行ぶりがうかがわ れる。こうした好みは,若い娘たちにも及び,

同書に,

 「ヲヤヲヤ髭結ひの裁だ」「一粒鹿子かエ」

 「アア」「麻の葉もよいねへ」「あれは半四  郎鹿子と申すよ」 「わたくしはね おッかさ  んにねだってね あのウ 路考茶をね 不断  着にそめてもらひました」「よいねへ わた  くしはネ 今着て居る伊予茶を不断着にいた  すよ」

と記され,路考茶,伊予染のような渋い色の衣 装が老若を問わず,女性の人気を拍していたの であった。路考茶とは,江戸の生んだ最初の名 女形で,宝暦〜明和(1751〜1772年)の頃に活 躍した二代目瀬川菊之丞(俳号路考)が用いた 色であり,鶯の羽根のような緑と黒のかかった 茶色で,渋くて,さえない色であったが,皮膚 の色とも作用して,調和美を打ち出し,繰り返 えし流行色となった。鼠色も,若い娘の衣装の

一40一

(14)

吉野:江戸庶民の服飾と美意識について 色として用いられており,川柳に

 「隅田の花 筑波鼠の裾模様」

と詠まれている。こうした渋い色彩は,鈴木春 信筆の『鶯狩り』(図7)に,夜を暗示する黒塗 りの背景,地面の緑,水の藍と共に,紫地の振 袖に早蕨の白ぬき模様を施し,木目を白ぬきで みせている藍色の帯を結んだ女性と,渋好みの くすんだ衣装の下に緋縮緬の儒神を着た男性の 鶯狩りを楽しむ姿が描かれている。また,喜多 川歌麿筆の『紅つけ』 (図8)に,顔や手の描 線と衣装の描線との太さの強弱が,印象的な効 果を出して描かれている女性の衣装は,薄紫色 の地に細かく,やや濃紫の格子縞の小袖に緑地 の帯を結んでいる。色数が少ない配色ではある が,色彩美のある衣装であり,このような色彩 である為に,黒の掛け衿,手鏡黒髪などの黒 が効果的な美しさをただよわせるのであった。

決して華やかなものではないが,色の調和によ って,独特の効果をあげたのが,江戸時代後期 の衣装の美しさであり,相継いで出された衣装 規制に対する庶民の知恵でもあった。

 (2)縞

 縞は,小袖の意匠に友禅染が多く用いられ,

多彩な模様小袖の華麗さとは違い,一見単純な 意匠ではあるが,新しい気分で求められていた。

多種多様な縞柄は,縞幅により表情が変わり,

棒縞,子持縞,よろけ縞など形状から付けられ た名称や,上田縞,備後縞,八丈縞,サントメ 縞など地名から名付けられたものなどがあった。

歌舞伎役者の舞台姿から数々の流行が生まれた が,縞も,安永〜天明(1772〜1789年)にかけ ての名優,中村仲蔵による「仲蔵縞」があった。

これは,天明5年(1785),海賊玄海灘右衛門に 扮した時に着たドテラ縞で,太い筋の間に人の 字を三つ源氏香のように列べた模様つなぎを配 した縞模様であった。享保7年(1722)の『む かしむかし物語』では,縞を次のように記して いるo

 「近年は十四・五の振袖も十七・八も三十・四十

 も老女もみな郡内島かあるいは八丈島かまた  丹後島紋所物 さては無地 似たか似ぬくら  いの小袖 帯は幅広くみな胸高に尻長尻長と  出し あゆみようはどたどたと身品もなくあ  わむゆえ遠く隔たりて群れゆくを見れば な  にが若きやらなにが老女やら なかなか見わ  けがたし これは女ながら器量なきゆえ み  な人の真似ゆえなり 小袖 紋所 無地 島  (縞)るい はやるは遊女の真似なり むか  しは 常の女縫薄く光る小袖着るゆえ 遊  女無地もの島のるいを着て常の女の風替  わるべきためなり また帯も常の女 帯幅狭  きゆえ遊女 はぽ広くしてこれもわかるべき  ためなりしに いまは常の女遊女の真似し  て 無地物 島の小袖 幅広の帯になりし  みなこれ人真似 器量なきゆえなり」

この記載は,流行を「器量なきゆえ」としてお り,縞が好まれていたことをうかがうことがで きる。 『近世風俗志』には,江戸と上方の縞の 好みについて

 「晴服男子は縞物を専とす 女子は小紋を専  とし 縞 之に次ぐ 女子は小紋 縞ともに  縮緬を専とし 略服 褻服に至りては三都男  女ともに縞物を用う 男用は縞等細密の物を  専用(略)縞物には 上田縞 糸織縞 紬縞  唐淺を専とす めいせん 青梅を略とす(略)

 武家は上田島光ある物を用い唐淺等稀とす  富民は上田縞等光ある物を渾るに似て唐淺等  を専とす 外見木綿に似て其価貴く其甚しき  は上田島の五六倍なり 中民も倣v之て今は  専ら唐淺を用ふ(略)三都とも奴僕丁児等  は京城大阪は河内木綿島を専とし 江戸は松  坂島を専とす(略)木綿単衣には弁慶 大名  碁ぽん等密ならざる男女ともに之用 浴衣に  は弁慶以下の白地を専とす」

と記されている。唐淺は,国産の糸では厚手に なり,舶来品特有の絹のような風合を出すこと ができなかった。しかし,万延2年(1861)に川 越で,横浜からの外国産綿糸を購入し,舶来品 に匹敵する和製唐桟が織られ,高評を拍し,

(15)

「川越唐淺」 (川唐)の名で知られるようにな った。しかし,手機による賃機や家内工業的な 小工場で織り出されていた川越唐淺は,明治26 年(1893)の川越大火以降衰退し,大正時代ま でで終わったようであり,現在では,千葉県館 山市の斎藤家で生産されているだけである。唐 淺の色調は,紺,浅葱,茶などの地に,白,赤,

黄などの細縞を入れたものが多く,色や柄によ って,竪縞,午労縞,胡麻殻,御手本,三筋立,

乱立,算崩しなどの名称がある。縞は,何本か の縞によって生まれる簡素なリズムと色のハー モニーによりさっぱりとあかぬけした感じで,

庶民は,縞の中に「いき」の美しさを見い出し ていったのであづた。

結  語

 江戸時代の服飾は,江戸時代の江戸を代表す る庶民の生活を中心に営まれてきた為,庶民の 経済的な発展や衰退,それに伴う庶民の気風の 変遷美意識の推移までもが,服飾の流行のう ちに如実に現われていた。

 江戸時代前期は,開幕当初の小袖が,桃山時 代の模様構成から,飛躍的な模様構成へと推移 する意匠構成で,発展期にあった時代と相応し て発展していった。そうした動きの中に庶民の 経済的な実力も次第に向上し,元禄期を迎え,

庶民の文化,服飾が確立し,武家に対する意識 が強く底流していた結果として,上方と江戸の 庶民の衣装競べが,盛んに行なわれるようにな り,それが,一種の気負いとなり,また,自慢 となっていった。

 江戸時代中期は,前期から経済の実権を握っ てきた庶民が,はじめは蓄積していた富を雲散 霧消することによって,抑圧された武家へのう っぷんをはらしていたが,その後,ようやく自 分たち庶民は,江戸の代表者であることを自覚 し,服飾の上でも武家生活を目標にする必要を 全く感じなくなり,札差を中心とする庶民が,

上方依存からも脱し,彼らの「通」ぶりが「い き」な姿となったのであった。

 江戸時代後期は,巨満の富を築いて豪華な生 活をしていた札差を中心に,庶民全体も,その 風潮のもとにあり,「江戸ッ子」の気風が増大 してゆき,「いき」の語が生まれていった。九 鬼周造の『「いき」の構造』は

  O  く)      O  O  O  O      O  O

 「垢抜して(諦),張のある(意気地),色っ

 o  e

 ぼさ(媚態)」

と,「いき」を定義しているが,「いき」の意 識の完成の時期を特定していない。しかし,そ のような美意識が成立したのは,明和(1764〜

1772年)頃であったとしても,その完成は,文 化〜文政期(1804〜1830年)を待たなければな らなかった。細面で姿も細っそりと柳腰の女性 が「いき」とされ,衣装の色も鼠色,茶色が

「いき」で,模様も横縞より,縦縞の方が「い き」とされた。

 「運命によって『諦め』を得た『媚態』が,

         o  o  o

 『意気地』の自由に生きるのが『いき』である」

と結論される時,江戸という幕府権力の監視の 最も強い都市において,完成できた江戸庶民独 自の美意識であったといえよう。幕府権力のた びたびの干渉は,江戸庶民の活動にさまざまな 制約を加え,「諦め」が存在しなかったとはい えないが,屈折しているだけに,見た目には華 やかでなくても,そこには,精巧な技巧が施こ され,洗練された良さのある「渋さ」や, 「凝 る」ことの好みを懲懸するようになったのであ る。後期の文化〜文政時代(1804〜1830年)は,

頽廃の時期といってしまうには,あまりにも強 く,庶民の積極的な流行への参加が見られた。

禁止令の中で逆に,外来服飾品へも心をとどめ て美を求めていった江戸庶民の旺盛さは,やは

り,文化の担い手にほかならなかった。

 以上のことから,江戸に開幕以来,泰平の世 に慣れた庶民の自由と美へのあこがれは,政治 との葛藤の中で,前期,中期,後期と,それぞ れに特徴のある服飾美を築いていった。その底 流に「江戸ッ子」の気塊を伺うことができた。

その後,開国の激動にさらされ,外来服飾にも まれながら,幕末を通り越してゆく庶民の姿を

一42一

(16)

       吉野:江戸庶民の服飾と美意識について 今後の課題として,江戸庶民が求めた服飾美を     昭和34年4月10日

さらに検討してゆきたい。      14)今道友信編「美の位相と芸術(増補版)」東京        大学出版会 1980年2月25日

         謝辞    15)九鬼周造著「「いき」の構造」岩波書店19  本研究にあたり,ご懇切なご指導をください    77年4月20日

ました東京家政大学藤本やす助教授に深く感謝 申し上げます。

 参考文献

 1)喜田川季荘著「聚類 近世風俗志 原名守貞   慢稿 上下」日本図書セソター 昭和52年11    月10日

 2)日本庶民生活史料集成 第十五巻 都市風俗    「我衣」三一書房 1973年4月1日  3)喜多村筑庭著「嬉遊笑覧」六合館昭和2年   12月30日

 4)斎藤隆三著「江戸のすがた」雄山閣 昭和11   年12月1日

 5)山根有三著 日本の美術17巻「桃山の風俗画」

  平凡社 昭和2年10月10日

 6)山根有三 鈴木重三 小林 忠 池本忠治著   原色日本の美術24「風俗画と浮世絵師」小学   館

 7)日本の美術 至文堂

  染  7 山辺知行著  昭和41年11月1日   織物 12 西村兵部著  昭和42年4月1日   服飾 26 日野西資孝著 昭和43年6月15日   文様   溝口三郎著  昭和43年9月15日   刺繍 59守田公夫著  昭和46年4月15日   小袖 67 神谷栄子著  昭和46年12月15日   辻が花  今永清士著  昭和50年10月15日  8)西山松之助著「江戸町人の研究」第1〜3巻   吉川弘文館 昭和49年10月1日

 9)菊池貴一郎著 鈴木業三編「絵本江戸風俗往   来」東洋文庫50 平凡社 1981年3月1日

10)西山松之助 竹内認編「江戸三百年②江戸    ツ子の生態」講談社 昭和56年7月31日

11)日本古典文学大系47「西鶴集 上」岩波書店   昭和32年11月5日

12)日本古典文学大系48「西鶴集 下」岩波書店

  昭和35年8月5日

13)日本古典文学大系63「式亭三馬」岩波書店

       一43一

参照

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