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一太郎 2004/13/12/11/10/9/8 文書

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立正安国論

[第一問] 旅客来りて嘆きて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘、遍く天下に満ち、広く地 上に迸(はびこ)る。牛馬巷に斃(たお)れ、骸骨路(みち)に充てり。死を招くの輩(ともがら)、既 に大半に超え、之を悲しまざる族(やから)、敢へて一人も無し。然る間、或いは「利剣即是」の文を専 らにして、西土教主の名を唱へ、或いは「衆病悉除」の願を恃みて(持ちて)、東方如来の経を誦し、或 いは「病即消滅、不老不死」の詞を仰ぎて、法華真実の妙文を崇め、或いは「七難即滅、七福即生」の句 を信じて、百座百講の儀を調へ、有るいは秘密真言の教に因りて、五瓶の水を灑ぎ、有るいは坐禅入定の 儀を全うして、空感の月を澄まし、若しくは七鬼神の号を書して、千門に押し、若しくは五大力の形を図 して万戸(ばんこ)に懸け、若しくは天神地祇を拝して、四角四堺の祭祀を企て、若しくは万民百姓を哀 れみて、国主国宰の徳政を行ふ。然りと雖も、唯肝膽を摧(くだ)くのみにして、弥(いよいよ)飢疫に 逼(せま)り、乞客目に溢れ、死人眼に満てり。屍(かばね)を臥せて観(ものみ)と為し、尸(しかば ね)を並べて橋と作す。観(おもんみ)れば夫れ、二離璧(たま)を合はせ、五緯珠(たま)を連ぬ。三 宝世に在し、百王未だ窮まらざるに、此の世早く衰へ、其の法何ぞ廃(すた)れたるや。是れ何なる禍(わ ざわい)に依り、是れ何なる誤りに由るや。 [第一答] 主人の曰く、独り此の事を愁へて、胸臆(くおく)に憤悱(ふんび)す。客来りて共に嘆く、屡(しば しば)談話を致さん。夫れ出家して道に入る者は、法に依りて仏を期する也。而るに今、神術も協(かな) わず、仏威も験(しるし)無し。具に当世の体を覿(み)るに、愚(おろか)にして後生の疑を発す。然 れば則ち、円覆を仰ぎて恨を呑み、方載に俯して慮(おもんばかり)を深くす。倩(つらつら)微管を傾 け、聊(いささ)か経文を披(ひら)きたるに、世皆(みな)正に背き、人悉く悪に帰す。故に、善神は 国を捨てて相ひ去り、聖人は所を辞して還らず。是を以て、魔来り鬼来り、災起り難起る。言はずんばあ るべからず、恐れずんばあるべからず。 利剣即是の文=中国浄土宗の祖・善導の著『般舟讃』中の語。なかで、三千仏名経の「罪の縄は心を縛っ て九百劫を経るとも解け難く脱し難し。唯仏名猛利の剣に在るのみ」の文をとって、煩悩・業・苦を断ち 切る利剣は西方安養浄土の弥陀の名号を称えることであると説いた文をさす。 西土教主=阿弥陀如来のこと。阿弥陀経など浄土三部経で、阿弥陀は西方十万億土の教主であると説くの で、西土教主とよんだ。その国土を極楽、安養、安楽世界ともいう。浄土宗の開祖たちは、この世すなわ ち娑婆世界は穢土であるから幸福は西方極楽浄土へ往生する以外にないといい、念仏を称えて死ねば阿弥 陀が観音、勢至の二菩薩を従えてその人を迎えに来て、極楽へ往生させてくれると説いた。これは、法華 経で「我常在此・娑婆世界・説法教化」(我常に此の娑婆世界に在って説法教化す)と説いた釈尊の教え に反する思想である。また、現実への諦めと無気力化の教えとならざるをえない。開祖の善導自身が深く 娑婆世界を厭い、柳の枝から自殺をはかったという。 衆病悉除の願=天台宗の祈祷。本願薬師経の第七願に「願わくは我来世に菩提を得ん時、もし、もろもろ の有情、衆病逼切にして救い無く帰する所無く、医無く薬無く、親無く家無く、貧窮多からんに、我が名 号ひとたび其の耳に経んに、衆病悉く除き、身心安楽ならん」とあるのをいう。すなわち、薬師如来が立 てた十二願の一つで、薬師如来の名号を聞けば衆病ことごとく除くというもの。 東方如来=薬師如来のこと。その国土が東方浄瑠璃世界であるので、こうよぶ。

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病即消滅、不老不死の詞=法華経薬王菩薩本事品第二十三の「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬な り。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病即ち消滅し不老不死ならん」との文によって、天台 法華宗の者は病魔の退散を祈った。この文の「此の経」とは、すぐ前に「我が滅度の後、後の五百歳(末 法)の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶して、悪魔、魔民、諸天、竜、夜叉、鳩槃荼等に、其の便を得 せしむること無かれ」とあるように、末法出現の大白法をさしている。 法華真実の妙文を崇め=天台宗でも法華経を真実とし、これを崇めるが、天台流の仏法では災難を対治し、 成仏得道できる法ではない。すでにこの立正安国論において、天台法華宗を真実の民衆救済の法にあらず と示されている。 七難即滅、七福即生の句=仁王般若経受持品に「般若波羅蜜を講讃すれば、七難即ち滅し七福即ち生じ、 万姓安楽にして帝王歓喜す」とあるのによった天台宗の祈祷。七難とは、経によって若干相違があるが、 仁王経では一、日月失度の難、二、星宿失度の難、三、諸火梵焼の難、四、時節返逆の難(水難)、五、 大風数起の難、六、天地亢陽の難、七、四方賊来の難をいう。七福とは、一説には七難が滅することを七 福とする。また、一、悪竜鬼を鎮める徳、二、人の所求を遂げる徳、三、輪王意殊の徳、四、竜甘雨を降 らす徳、五、光天地を照らす徳、六、能く一切諸々の仏法等を出生する徳、七、能く一切の国王無上の法 等を出生する徳を七福とする説もある。 百座百講の儀=仁王般若経護国品に国難鎮圧の法を説いて「大王、昔日王あり。釈提桓因という。頂生王 来たりて、天に上り、その国を滅さんと欲す。時に帝釈天王、即ち七仏の法用のごとく百の高座を敷き、 百の法師を請じて般若を講ぜしかば、頂生王即ち退きぬ」とある。これによって、天台大師が隋の文帝の 勅を奉じ、仁王講を開いたのが最初とされる。わが国では斉明天皇の六年(六六〇年)に、百の高座、百 の衲袈裟を造り、仁王会を修したのが最初。以後、この儀式は鎮護国家、天下泰平の祈願のため、宮中の 大極殿、紫宸殿、清涼殿などで行われた。一代一度の大仁王会、特別の場合に行う臨時の仁王会と、毎年 春秋二季の仁王会の三種がある。一代一度の大会が制度化されたのは清和天皇以後。春秋二季仁王会は、 大同元年(八〇六年)十五大寺および諸国国分寺で毎年恒例に行われることになり、のち平安時代中期か ら制度化したといわれる。臨時の仁王会は、桓武天皇が延暦十三年(七九四年)新宮に百法師を請じて修 したのが初めとみられる。その後、大同三年(八〇八年)には疾疫流行のため修された。ここにいうのは、 疾疫対治の臨時の仁王会のことである。なお、仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持してこの道を 行ずれば、万民安楽、国土安穏になると説いた経で、古来、法華経、金光明経等とともに、護国の経典と して尊崇された。 秘密真言の教=真言宗の教え。秘密とは、真言宗では顕密の二義を立て、法華経等を劣れる顕教とし、真 言三部経を優れたる秘密教としたのである。 五瓶の水=真言宗で災を払うために行う修法の一種。壇の上に白・青・赤・黄・黒の五瓶を置き、それぞ れに金・銀・瑠璃・真珠・水晶の五宝、米・麦・粟・黍・豆の五穀、人参・茯苓・赤箭・石菖蒲・天門冬 の五薬、沈香・白檀・丁子・鬱金・薫陸の五香を入れ、これに水をそそぎ、花をさして行う。 坐禅入定の儀=禅宗の修行。坐禅は、禅、禅那からきたもので、禅那とは梵語、訳して静慮という。端坐 して沈思黙念することにより、無心の境にはいり、心性を究明しようとする。禅そのものは、日本へも早 くから伝えられていたが、禅宗は、鎌倉時代に栄西、道元らによって弘められた。とくに、北条時頼は禅 に心を寄せ、宝治元年(一二四七年)、道元が鎌倉を訪れたときに受戒したほか、文応元年に中国から南 宋の兀菴普寧がきたのを厚く崇め、建長寺に住せしめている。入定とは禅定に入るの意で、心を一所に定 め、身口意の三業の働きを止めることをいう。 空感の月を澄し=座禅によってわが心性の月をすませば、無一物の空に達する、こと。禅宗では戒・定・

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慧の三学のうち、とくに定の面のみを強調して、仏教の真髄は煩雑な教理の追究ではなく、坐禅修道で直 接に自証体得できるとする。すなわち、経典は月をさす指であり、その月とは心であるとする。そして、 坐禅観法を修して仏の教えを身に修し、心に観じたならば、一切法はことどとく空であって、心の外に一 法もないとする。このように、禅宗は、経文を軽んじ、「教外別伝・不立文字、直指人心・見性成仏等」 と説く。日蓮大聖人は、これを仏法を破壊する天魔の所為(法門可被申様之事・昭定・四五五頁)と云わ れた。仏は涅槃経に「願って心の師とは作るとも、心を師とせざれ」と説き、また「仏の所説に順わざる 者あらば、当に知るべし、是れ魔の眷属なり」と戒めている。 七鬼神=却温神呪経にある、無多難鬼、阿迦尼鬼、尼迦尸鬼、阿迦那鬼、波羅尼鬼、阿毘羅鬼、婆提利鬼 の七善鬼。この名を書いて、各門に貼っておけば、悪鬼が近寄らず、災いに侵されないと信じられた。 五大力=五大力菩薩の略。仁王護国般若波羅蜜多経受持品に説く。国王が仏法を信仰して祈れば、仏は五 大力菩薩を遣わして国王および国民を守るという。五大力の名は、旧訳と新訳で異なるが、旧訳によると 次のとおりである。金剛吼(千宝相輪)、竜王吼(金輪灯)、無畏十力吼(金剛杵)、雷電吼(千宝羅網)、 無量力吼(五千剣輪)( )内はその持ち物。この像は仁王経法の本尊として祀られ、住吉神社の本地仏 としても信仰されたといわれている(普賢院蔵の粉本による)。このことから、俗間で迷信化されて、家 の四隅に五大力菩薩を書いた札を貼って、盗難などの災厄よけにする風習があった。 天神地祇=天上にいる神と大地に住む神。天つ神と地神。中国陰陽道では、天神について昊天上帝を主と し、ほかに日月星辰、司中、司命、風師、雨師等があるとする。地祇は后土を主とするが、ほかに社稷、 五祀、五嶽などがある。日本では、天神は高天原の神、すなわち天照大神など。地祇は国土の神、すなわ ち大物主神、大国魂神などをいう。 四角四堺の祭祀=四角四境の祭ともいう。源流はアミニズムにあり、陰陽道の攘災儀式の一つ。都の東北、 東南、西南、西北の四隅に疫神や薬神を祭り、鬼・悪霊などの侵入を防ぐのを四角祭という。それに対し て、国の四堺で祭るのが四堺祭である。その歴史は古く、天暦六年(九五二年)の記録に、この祭を行う ために使者を派遣したとみえる。平安時代以後は、天皇に病気が起こったときなど盛んに行われた。鎌倉 時代においては、幕府の四隅で祭るのを四角祭、鎌倉の町の四堺にあたる小袋坂、小壷、六浦、片瀬で祭 るのを四堺祭といった。 万民百姓=万民も百姓も、ともに諸民あるいは国民大衆、民衆等の意である。 国主国宰=国主は天下の主で、国宰は国の守、地方長官である。 徳政=天皇や執権、宰相、国守等が、自らの財を貧民に施したり、あるいは富豪にすすめて慈善を行わせ ること。たとえば正元元年の大飢饉にさいして、二月十日、幕府は山野河海の領有法を定め、陸奥国の地 頭に命じて、窮民を救済させた等の記録がある。その他、徳政の顕著な例としては、元寇の諸国御家人の 窮乏を救うために発せられた永仁五年(一二九七年)の徳政令がある。これは没落していく御家人を救う ためのもので、一般民衆にまでは及ばなかった。 肝膽・肝胆を摧く=心を摧くこと。誠情を尽くすことをあらわす。肝胆とは、肝とは肝臓、胆とは胆腑で ある。すなわち五臓六腑の初めを、それぞれとったのである。ゆえに五臓六腑を、もみ摧く義であり、転 じて、心をくだき、心配し、誠心を尽くすことを意味する。 乞客=乞食のこと。 観=物見台、楼台、高殿の意。一説には昔、戦闘において倒れた兵士の死体を山と積み上げて物見台とし たということが、左伝十一にある。ここは、路傍に捨てられた餓死者、病死者の多いさまを述べたもの。 二離・璧を合はせ=二離とは太陽と月。離は「明らか」「並ぶ」「連ぬ」の意があり、易の卦で火、明と される。ここから日月にあてられるようになった。ふつう「二離・璧を合せ、五緯・珠を連ぬ」と、連句

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にして使われる。すなわち、日月が光明らかに、平常どおり運行し、照らしでいるということである。 五緯・珠を連ぬ=五緯とは木火土金水の五つの惑星。この五星が珠をつらぬいたように美しく耀いている こと。緯とは、天体のなかにあって、動くことをいい、他の恒星は、相互の位置が固定しているので経と いう。なお、珠と璧の違いは、珠とは蚌の陰精と注し、石類でなく真珠等をあらわす。璧とは瑞玉と注し、 丸いタマ。古来、男子がそれをもって信を示した。これに対し、圭というのがあり、これはタテ長の形で、 王公が信を示すのに用いた。また、玉は、これらの総称で「石之美者」と注される。五緯は五行、五大星 ともいう。 三宝世に在し=三宝とは三つの宝の意で、仏と、その教えの法、及びその法を修行し伝持する僧伽、この 三つがそろってはじめて仏教が成り立つので、これを世の宝に喩えていったもの。 百王未だ窮まらざるに=第五十一代平城天皇の世に八幡大菩薩の託宣があって、百王を守護するとの誓い があったといわれている。日蓮大聖人ご在世のこの当時は、第九十代亀山天皇で、まだ八幡大菩薩の守護 があるはずではないかという意味。この点について、日蓮大聖人は「諌暁八幡抄」に、百王というのは正 直の王すなわち正しい仏法を護持する王であると、次のように述べられている。「平城天皇御宇八幡の御 託宣云我是日本鎮守八幡大菩薩也。守護於百王有誓願等云云。今云人王八十一二代隠岐法皇、三四五の諸 皇已破畢。残二十余代今捨畢。已此願破がごとし。日蓮料簡云百王を守護せんと云は正直の王百人を守護 せんと誓給。八幡御誓願云以正直之人頂為栖以諂曲之人心不亭等云云」(昭定・一八四七頁)。「平城天 皇の御宇に八幡の御託宣に云く『我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり。百王を守護せん誓願あり』等云云。 今云く、人王八十一・二代隠岐の法皇、三・四・五の諸王已に破られ畢んぬ。残の二十余代今捨て畢んぬ。 已に此の願破るるがどとし。日蓮料簡して云く、百王を守護せんというは正直の王百人を守護せんと誓い 給う。八幡の誓願に云く『正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭ず』等云云」と。八幡は、 古代において、豊の国(大分県)宇佐方面を中心に海上で活動していた部族の祖先神であったらしい。こ の部族が応神天皇の治世に朝廷を助けた功績があり、それから朝廷の尊崇をうけるようになったと思われ る。一説には宇佐の銅産出の神で、東大寺の大仏鋳造にこの銅が使われたことから、東大寺の鎮守となっ たともいう。さらに、神功皇后が三韓征伐を行い、九州で生んだ皇子が応神天皇であるとの記紀の説を拠 にして、それから八幡は応神天皇が本体であるといわれるようになった。大菩薩号がつけられるようにな ったのは平安朝以後で、神像も僧形のものが造られるようになった。とくに八幡を厚く信仰したのは源氏 で、源義家は八幡神社の前で元服し、八幡太郎義家と名乗った。さらに、源頼朝は鎌倉に鶴岡八幡宮を営 み、幕府の守護神としたので、武神としてひろく各地で崇められるようになった。日蓮大聖人は大隅の正 八幡宮に「昔し霊鷲山に在って妙法華経を説き、今正宮の中に在て大菩薩と示現す」との銘石があるのを 引かれて、八幡は本地釈尊で、八葉は八幡、中台は教主釈尊なりと説かれている。 其の法何ぞ廃れたる=世の中が乱れ、国法が行われず、まさに廃れんとしているありさまを述べられたの であろう。 憤悱=憤はいきどおること、思いの心に満ちることで、悱は口にいいたいが出ないありさま。思いが一杯 つもってもだえること。 神術も協わず=天神地祇を拝し四角四堺の祭りを行ってもいっこうに効き目がない。地震は相次いで起こ り、暴風雨は家を倒し、流し、国土を荒廃させる。国中が飢餓に瀕し、加えて疫病の流行は、多数の人命 を奪っている。 仏威も験無し=阿弥陀仏の号を称え(浄土宗)、薬師如来に祈り(天台宗)、仁王講を修しても(天台宗)、 あるいは真言宗の修法を行って災難対治の加持祈祷をし、あるいは坐禅して現実から逃避しようとしても、 天災地変もなくならないし、苦をまぬかれることもできない。すなわち、仏法の威力が現実の結果となっ

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て現れてこないこと。 後生=後生とは、後輩、後進の意。先生、発輩、先進に対する語てある。 円覆・方載=円覆とは天(そら)をいい、方載とは地をいう。古代中国人は、大地を四角の平面、天をそ れを覆う球面と考えた。 微管=細い管のこと。見識の狭いこと。細い管でのぞくと、広い所の全体観が見えない。このことから、 愚かな凡夫の狭い見方を譬える言葉として用いられる。 世皆正に背き・人悉く悪に帰す=正とは正法、正しい仏法。悪とは、悪法で、邪悪、低級な諸宗、諸思想 である。一切の不幸、災難の起こる原因を、この一言によって喝破されたのである。 善神=梵天、帝釈、天照大神、八幡大菩薩等で、民族と国土を守護し、福をもたらす神。仏教のうえでは 正法の行者を守護する。正法の行者を守ることが、真実に民族、国土を守護することになるからである。 ただし、この善神の威力は、正法の法味を食することによって支えられるので、所詮は、民衆が正法をた もち、その功徳を回向することによって善神が力を増し、かえって民衆も国土も守られることになる。諸 天善神が法華経の行者を守護する約束は、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を 衛護し」、また「天の諸の童子、以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わじ」等とある。 日蓮大聖人がその生涯において数多くの大難にあわれ、諸天善神の功力がすぐに現れなかった理由につい ては、「富木殿御返事」に、「但于今不蒙天加護者 一者諸天善神去此悪国故歟。二者善神不味法味故 無 威光勢力歟。三者大悪鬼入三類之心中 梵天帝釈不及力歟等。」「今に天の加護を蒙らざるは、一には諸 天善神此の悪国を去る放か。二には善神法味を味わざる故に威光勢力無きか。三には大悪鬼三類の心中に 入り梵天・帝釈も力及ばざるか」(昭定・六一九頁)と。 聖人=聖とは本来、耳の穴がよく通って声の聞こえることを意味し、聖人とは普通人の聞き得ない天の声 をよく聞きうる人の意。儒教では、知徳もっとも秀れて万事に通達し、万人の仰いで師表とすべき理想の 人物をいった。堯・舜・礼子等がそれで、唐代以後天子の尊称にも用いられた。楚辞・屈原の漁父辞には 「聖人は物に凝滞せず」ー聖人は時勢とともに推移して物事を処置するから、執着、拘泥して苦しむこと がないーとある。日蓮大聖人は「撰時抄」に外典云、未萠(まさに起らんとする事)をしるを聖人という。 内典云、三世を知を聖人という。「外典に日く、未萠をしるを聖人という。内典に云く、三世を知るを聖 人という」(昭定・一〇五三頁)と述べられている。仏法においては、法門を究尽し、智慧が広大無辺で 慈悲心の、深大な人、すなわち仏をいう。 魔=魔とは、訳して奪命、奪功徳、障礙、攪乱、破壊等という。正法を持つ者の信心を妨害したり、人び との幸福な生活を破壊し、生命を奪い、病気を起こさせる等の働きをなす。いずれも仏身や菩薩身や天界 の姿を現じながら、仏と反対の働きをする。魔は天界に住むとも、仏と魔とは同所に住むともいわれる。 所詮は澄みきった信心の鏡に映して、魔を魔と見破っていくことが肝要である。「最蓮房御返事」には「予 日本の体を見るに、第六天魔王入智者身正師を邪師となし善師を悪師となす。経に『悪鬼入其身』とは是 也。日蓮雖非智者第六天の魔王我身に入んとするに、兼ての用心深ければ身によせつけず。故に天魔力及 ばずして、王臣を始として良観等の愚癡の法師原に取付て日蓮をあだむなり。」(昭定・六二一頁)と述 べられている。生命論に約してこれをみると、富木入道殿御返事「治病大小権実違目」に「法華宗の心は 一念三千、性悪性善妙覚の位に猶備れり。元品法性は梵天・帝釈等と顕れ、元品の無明は第六天の魔王と 顕たり。」(昭定・一五二〇頁)とあるように、貪・瞋・痴等の生命本然の力が自己の生命を破壊し、不 幸ヘ陥しいれる働きをするのを魔というのである。 鬼=六道の一つである餓鬼道に住し、人に対しては病気を起こしたり、思考の乱れを引き起こしたりする。 国土や国家に対しては、天災地変や思想の混乱等を起こす働きをなす。この鬼とともに天竜等の八部を神

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といい、鬼神、竜神、天神、夜叉神等の類がある。 災起り難起る=この文脈について、石山日寛は立正安国論文段に「災難の来由に具に三意を含むと。一に は背正帰邪の故に、二には神聖去辞の故に、三には魔鬼来り乱る故に云云」と挙げている。災とは、もと もと火難水難の義を合した字で、天災を意味する。難とは、それによって人間が悩み、苦しみ、憂えるこ とを意味する。 言はずんばあるべからず、恐れずんばあるべからず=このように、民衆が塗炭の苦しみに追いやられてい る災難の根本的原因が、一国謗法にあるということは、実に大切なことであるから、いわないで黙ってい るわけにいかない。また、邪宗邪義の正体を人びとは知らないから平気でいるが、これこそ不幸、災厄の 根源なりと、もっとも恐れなければならないとの意。この一句では、あらゆる艱難を覚悟のうえで、諸宗 を破折し、為政者に対する諌暁を断行される元意が示されている。 [第二問] 客の曰く、天下の災(わざわい)・国中(こくちゅう)の難、余(われ)、独り嘆くのみに非ず、衆皆 悲めり。今、蘭室に入りて、初めて芳詞を承(うけたまわ)るに、神聖去り辞し、災難並び起るとは、何 れの経に出でたる哉。其の証拠を聞かん。 [第二答] 主人の曰く、其の文(もん)繁多にして、其の証(しょう)弘博なり。 金光明経に云く、「其の国土に於て、此の経有りと雖も、未だ嘗て流布せず。捨離の心を生じて聴聞す ることを楽(ねが)はず。亦供養し尊重し讃歎せず。四部の衆、持経の人を見て、亦復尊重し、 乃至、供養すること能はず。遂に我等及び余の眷属、無量の諸天をして、此の甚深の妙法を聞くことを得 ず。甘露の味に背き、正法の流を失ひ、威光及以勢力有ること無からしむ。悪趣を増長し、人天を損減し、 生死の河に墜ちて、涅槃の路に乖(そむ)かん。世尊、我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等、斯の如き事 を見て、其の国土を捨てて擁護の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず。必ず無量の国土を守護 する諸大善神有らんも、皆悉く捨去せん。既に捨離し已れば、其の国当に種種の災禍有りて、国位を喪失 すべし。一切の人衆皆善心無く、唯繋縛(けいばく)、殺害(せつがい)、瞋諍(しんじょう)のみ有り。 互に相ひ讒諂(ざんてん)し、枉(ま)げて辜(つみ)無きに及ばん。疫病流行し、彗星数(しばしば) 出で、両日並び現じ、薄蝕恒(つね)無く、黒白の二虹(にこう)不祥の相を表はし、星流れ地動き、井 の内に声を発し、暴雨・悪風時節に依らず。常に飢饉に遭ひて、苗実(みょうじつ)も成らず、多く他方 の怨族(おんぞく)有りて、国内を侵掠(しんりゃく)し、人民諸(もろもろ)の苦悩を受け、土地とし て所楽の処有ること無けん」と。 大集経(だいじゅうきょう)に云く、「仏法実に隠没せば、鬚、髪、爪皆長く、諸法も亦忘失せん。当 時、虚空中に大なる声ありて地に震ひ、一切皆遍く動ぜんこと、猶(なお)水上輪の如くならん。城壁破 れ落ち下り、屋宇悉く圮(やぶ)れ拆(さ)け、樹林の根・枝・葉・華葉(しべ)・菓(このみ)、薬尽 きん。唯(ただ)浄居天を除きて、欲界の一切処の七味・三精気、損減して余り有ること無く、解脱の諸 の善論、当時(そのとき)一切尽きん。生ずる所の華菓の味(あじわい)、希少にして亦美(うま)から ず。諸有の井泉池(せいせんち)、一切尽く枯涸し(こかく)、土地悉く鹹鹵(かんろ)し、敵裂して丘 澗(くけん)と成らん。諸山皆(みな)燋燃(しょうねん)して、天龍も雨を降らさず。苗稼皆枯死し、 生ふる者皆死(か)れ尽きて、余草更に生ぜず。土を雨らし、皆昏闇(こんあん)にして、日月明を現ぜ ず。四方皆亢旱(こうかん)し、数(しばしば)諸の悪瑞を現ぜん。十不善業道、貪・瞋・痴倍増し、衆

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生の父母に於ける、之を観ること獐鹿(しょうろく)の如くならん。衆生及び寿命、色力・威楽滅し(減 じ)、人天の楽を遠離し、皆悉く悪道に堕せん。是の如き不善業の悪王と悪比丘と、我が正法を毀壊(き え)し、天人の道を損減せん。諸天善神王の衆生を悲愍する者、此の濁悪の国を棄てて、皆悉く余方に向 はん」と。 仁王経に云く、「国土乱れん時は、先づ鬼神乱る。鬼神乱るるが故に、万民乱る。賊来りて国を劫(お びや)かし、百姓(ひゃくせい)亡喪し、臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん。天地怪異し、二 十八宿、星道、日月、時を失ひ度を失ひ、多く賊の起ること有らん」と。 亦云く、「我(れ)今(ま)五眼をもて明らかに三世を見るに、一切の国王は、皆過去の世に、五百の 仏に侍へしに由りて、帝王主と為ることを得たり。是れを為て一切の聖人・羅漢、而も為に彼の国土の中 に来生して、大利益を作さん。若し王の福尽きん時は、一切の聖人、皆為に捨去せん。若し一切の聖人去 る時は、七難必ず起らん」と。 薬師経に云く、「若し刹帝利・灌頂王等の災難起らん時、所謂、人衆疾疫(しつえき)の難・他国侵逼 (しんぴつ)の難・自界叛逆(ほんぎゃく)の難・星宿変怪の難・日月薄蝕の難・非時風雨の難・過時不 雨の難あらん」と。 仁王経に云く、「大王、吾が今化する所は、百億の須弥、百億の日月あり。一一の須弥に四天下有り。 其の南閻浮提に十六の大国・五百の中国・十千の小国有り。其の国土の中に七の畏るべき難有り。一切の 国王、是れを難と為すが故に。云何なるを難と為す。日月度を失ひ、時節返逆(ほんぎゃく)し、或いは 赤日出で、黒日出で、二、三、四、五の日出で、或いは日蝕して光無く、或いは日輪一重二、三、四、五 重輪に現ずるを、一の難と為す也。二十八宿度を失ひ、金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・刁 星(ちょうせい)・南斗(じゅ)・北斗(と)・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・百官星、是の如き 諸星、各各(おのおの)変現するを、二の難と為す也。大火国を焼き、万姓焼け尽き、或いは鬼火・龍火・ 天火・山神火・人火・樹木火・賊火あらん。是の如く変怪(恠)するを、三の難と為す也。大水百姓を笠 没(ひょうもつ)し、時節返逆して、冬雨ふり夏雪ふり、冬の時に雷電霹礰(へきれき)し、六月に氷霜 雹(ばく)を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、沙・礫・石を雨らし、江河逆に 流れ、山を浮べ石を流す。是の如く変ずる時を、四の難と為す也。大風万姓を吹き殺し、国土・山河・樹 木、一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・水風あらん。是の如く変ずるを、 五の難と為す也。天地国土亢陽(こうよう)し、炎火洞然して、百草亢旱(こうかん)し、五穀登(みの) らず、土地赫燃(かくねん)して万姓滅尽せん。是の如く変ずる時を、六の難と為す也。四方の賊来りて 国を侵し、内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて、百姓荒乱し、刀兵劫起らん。是の如く怪(恠) する時を、七の難と為す也」と。 大集経に云く、「若し国王有りて、無量世に於て、施・戒・慧を修すとも、我が法の滅せんを見て、捨 てて擁護せざれば、是の如く種うる所の無量の善根、悉く皆滅失して、其の国当に三の不祥の事有るべし。 一には穀貴(こくき)(実)、二には兵革、三には疫病なり。一切の善神悉く之を捨離せば、其の王、教 令すとも人随従せず。常に隣国の為に侵嬈(しんにょう)せられん。暴火横(ほしいまま)に起り、悪風 雨多く、暴(雨)水増長して、人民を吹漂(すいひょう)(笠)し、内外の親戚其れ共に謀叛せん。其の 王久しからずして、当に重病に遇ひ、寿終るの後、大地獄の中に生ずべし。乃至、王の如く、夫人・太子・ 大臣・城主・柱師・郡守・宰官も、亦復是の如くならん」と。 夫れ四経の文朗らかなり。万人誰か疑はん。而るに盲瞽(もうこ)の輩(ともがら)、迷惑の人、妄り に邪説を信じて、正教を弁へず。故に天下世上、諸仏・衆経に於て、捨離の心を生じて、擁護の志無し。 仍りて、善神・聖人、国を捨てて所を去る。是れを以て悪鬼・外道、災を成し難を致す。

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蘭室=蘭の香のするような室、家室をほめたことば。『孔子家語』に、「善人と居るは芝蘭の室に入るが 如く、久うして自から芳し」と。 神聖=善神と聖人をいう。 金光明経=金光明経は、釈尊一代説法のうち方等時の経で、正法が流布するところは、四天王はじめ諸天 善神がその国を守護し、利益し、国に災厄がなく、人民が幸福になることや、国王はじめ人民の懺悔の法 などを説いている。訳には次の五種がある。 一、金光明経 四巻十八品 北涼の曇無讖訳 北涼の元始年中 二、金光明更広大弁才陀羅尼経 五巻二十品 北周の耶舎崛多訳 後周の武帝代 三、金光明帝王経 七巻十八品 梁の真諦訳 梁の大清元年 四、合部金光明経 八巻二十四品 隋の闍那崛多訳 大隋の開皇十七年 五、金光明最勝王経 十巻三十一品 唐の義浄訳 周の長安三年 このうち、一の金光明経には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈 しているため、広く用いられている。また、わが国では、聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮 華経と金光明最勝王経を安置した。御遺文中各所に引用されているのは、一と五とである。ここに引用さ れた文は、金光明最勝王経第六巻四天王護国品の一節である。 其の国土に於て=経文には、この文の前に「爾の時に四天王倶に合掌して仏に白して言く、世尊若し人王 有り」とある。すなわち、この文は四天王の言葉で、国王について説かれているところである。 此の経=文のうえから読むと金光明経のようであるが、金光明経は四十余年未顕真実の方便権経であり、 本意は法華経である。 四部の衆=四衆ともいう。比丘、比丘尼、優婆塞〈在俗の男性信者〉、優婆夷〈在俗の女性信者〉の四種 の集まりをいう。 眷属=侍者・随行の者。 我等及び余の眷属=我等とは、帝釈天王を中心として、世界の東西南北を守る天界の王、すなわち四天王 である。東を守るのが持国天王、南を守るのは増長天王、西は広目天王、北は毘沙門天王である。帝釈は、 釈提桓因ともいい、欲界六天第二の漁利天の主で須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。 四天王は、帝釈の外将で、天処のはじめである六欲天第一の四天王に住す。天台大師の法華文句巻三には 「四大天王とは帝釈の外将で、四つの宝山に住す。高さは須弥の半分、広さは二十四万里。東の黄金山に は持国天王、南の瑠璃山には増長天王、西の白銀山には広目天王、北の水精山には毘沙門天王がいる」と ある。余の眷属とは、それ以外の四天王のもろもろの眷属をいう。 此の甚深の妙法=一往は金光明経をさすが、再往は法華経のこと。諸天善神はこの妙法の法味をなめて勢 力を得る。金光明経をなぜ妙法と名づけたのか? 甘露=一、梵語の阿密哩多で不死・天酒の意。漁利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死 者を復活させるという。二、中国古来の伝税で、王者が仁政を行えば、天がその祥瑞として降らすという 甘味の液。三、甘露、すなわち「不死の薬」とは法華経であり、法華経を受持して覚知する不老不死の生 命をたとえる。 悪趣=趣とは境界の意で、十悪、五逆、謗法の悪業を犯した衆生が落ちる苦悩の境界をいう。地獄・餓鬼・ 畜生・修羅の四悪道を四悪趣という。 人天を損減し=人界および天界の楽しみを損ない減ずること。人界、天界の因縁については「十法界明因 果抄」に「第五に人道とは、報恩経に云く『三帰五戒は人に生る』文。第六に天道とは、二有り。欲天に

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は十善を持ちて生れ、色無色天には下地は麁苦障、上地は静妙離の六行観を以て生ずるなり」(昭定・一 七五頁)とある。このように善根あって得る人天の果報であるが、謗法の罪によってその果報を損減し、 四悪趣の苦を味わわなければならなくなる。 生死の河=煩悩に支配された迷いの生活、地獄から天界までの六道を輪廻する生活である。生死とは生老 病死の人生の根本的な苦しみをいう。煩悩を火に譬えるのに対し、生死を大海、河等、水に譬える。 涅槃の路=涅槃とは、滅、滅度、寂滅、解脱、円寂等と訳す。一切の煩悩・災患の永尽した境地をいう。 法華経寿量品に「衆生を度せんが為の故に方便して涅槃を現ず。而も実には滅度せず。常に此に住して法 を説く」とは釈尊の涅槃は薪尽きて火の滅するが如きではなく、法性常住の境地に入るもので、肉体は逝 くとも法身は常住するとなし、法身をもって如来の大般涅槃の体とすべきことを説いた。 薬叉(夜叉)=鬼神の一種で、凶悪で人を害するとされているが、仏教では天龍八部衆(天、竜、乾闥婆、 阿修羅、迦楼羅、緊那羅、摩疫羅伽)の中に入れられ、仏法守護の鬼神とされている。 斯の如き事を見て=いまだかつて正法を流布させなかったことをさす。 擁護の心無けん=諸天善神にその国土を守る心がなくなること。ただし、正法を護持する者に対しては、 二つの意があり、「開目抄」の意によれば、謗法の世は守護の神が捨て去るゆえに正法の行者に験無しと あり(昭定・六〇一頁)、「諌暁八幡抄」の意では、諸天善神がその国を捨去するといえども、もし正法 の行者がいれば即その頂に宿る(昭定・一八四九頁)、となる。 当に種種の災禍有りて、国位を喪失すべし=かならず種々の災禍が起きて国王の位を失うとの意。 繋縛、瞋諍=繋縛とは、人をつなぎ縛ること、煩悩のこと。瞋諍とは喧嘩、争い。 讒諂=讒は讒言で、事実を曲げ、いつわっで他人を悪くいうこと。諂は諂諛で、へつらうこと。すなわち、 他人を讒言して罪に陥れ、自分は権力者、あるいは上役にへつらって、よく思われようとすることを讒諂 という。 枉げて辜無きに及ばん=法を曲げて、罪のない者まで陥れるようになるであろうとの意。 彗星=ほうき星のこと。二十世紀にはいってからの大きい彗星は、ダニエル彗星、ハレー彗星、スケレル プ彗星などが有名である。なお、中国、日本では昔、彗星を妖星とよんだ。その出現は、大火や兵乱など の凶事の起こる悪い前兆とされている。 両日並び現じ=太陽が二つ、三つと同時に並んで出ること。もちろん、一つだけが実物で、他は幻の太陽 である。これは、大気中の氷の結晶などの浮游物によって生ずる暈が正体で、その交差するところがとく に輝いて、太陽が並び出たかのように見えるのである。陰陽道では、両の日が並び現ずることを、国に二 王が並び立ち、世の中が乱れる凶兆であるとした。「報恩抄」に「仏経のごときんば、減劫にこそ二日三 日乃至七日は出べしとは見たれども、かれは昼のことぞかし、……」(昭定・一二三三頁)とある。 薄蝕恒無く=薄とは、太陽や月が出ていながら、その光を失うこと。蝕は、日蝕や月蝕で日月の欠けるこ と。太陽や月が光を失う例については、もやがかかったり、塵埃が光をさえぎったりする等が考えられる。 正嘉元年(一二五七年)から文応元年(一二六〇年)までの間に日蝕があったと記録されているのは、正 嘉元年五月一日と文応元年の三月一日と二度である。月蝕の記録は多く、正嘉元年は四月十六日、十月十 六日、翌正嘉二年は十月十六日、正元元年四月十五日の四回となっている。古来、日月の薄蝕の乱れは、 帝王の権威が衰えたり、他国から侵されたりする凶兆とされた。 黒白の二虹=ふつうに見られる七色の虹でなく、黒ないし白い虹。黒虹は急激な気候の異変によって生ず る悪気流のようなものではないかと考えられる。白虹は、霧雨のように細かい雨滴に光があたってできる。 あるいは幻日環のときに現れる光弧とも考えられる。昔の中国では、白虹は革命や戦乱の前兆として恐れ られていた。日蓮大聖人ご在世当時の記録としては、弘長三年十二月二日、京都に白虹が現れたと「五壇

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法記」にある。 井の内に声を発し=地震のときに、井戸水や温泉の涌水量が急に増減したり、濁ったり、水温が変化した り、または、遠雷や大砲のような音を発することがある。こうした音は、短周期の地震波が空気を振動さ せることによって生ずるものである。井の内に声を発するとは、そのような地殻の変動に関係するものと 思われる。 大集経=方等部に属する経典で、欲界と色界の中間・大宝坊等に広く十方の仏、菩薩を集めて、説かれた 大乗教である。大集経の漢訳については、次の六種がある。 大方等大集経三十巻 北涼の曇無讖訳 大乗大方等日蔵経十巻 高斉の那連損耶金訳 大方等大集月蔵経十巻 高斉の那連提耶舎訳 大乗大集経二巻 高斉の群連鍵耶舎訳 仏説明度五十校計経二巻 後漢の安世高訳、 無尽意菩薩経六巻 宋の智厳・宝雲共訳 引用の文は大集月蔵経法滅尽品の一節である。 鬚髪爪=鬚は「ひげ」、髪は「かみ」、爪は「つめ」で、仏教出家者は、外教や在家者との違いをあらわ すためや、また自己驕慢心を戒めるために、剃髪し鬚を剃り、爪を短くして、黒、青、泥色などをまぜた 濁色の衣を着るように規定されている。「鬚髪爪皆長く」とは、風俗が乱れ、礼儀が廃れることを意味す る。ここでは、三毒の増長を意味するのであり、髪は貪り、爪は瞋り、鬚は愚痴をあらわす。「皆長く」 とは、この貪・瞋・痴の三毒が強盛になることをいうのである。 諸法=ここでは、広く社会に行れれている国法、世間法をさす。根本の法である仏法が隠没したとき、一 切の法は、あってなきがごとく忘失され、社会のあらゆる分野に混乱と頽廃を招く。この原理は「諸経与 法華経難易事」に、次のように明示されている。「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり。仏法は 体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば影ななめなり」(昭定・一七五二頁)云云と。 大なる声ありて地に震ひ=流星による震動のことか。 水上輪=水車のこと。 根・枝・葉・華葉・菓、薬尽きん=この「薬」という字は、根、枝、葉、華葉、其のすべてを受けている。 根からとる薬としてはインドジャボク、リンドウ、枝・茎からとるのはキナ、キハダ、葉からとるのはハ シリドコロ、ジギタリス等がある。華葉は華中の葉すなわち花びらで、枝葉の葉ではない。花からとるの にシロムシヨケギクがある。菓からとるのはサンショウ、トウガヲシ等がある。化学薬品が出現する以前 は、薬草が唯一のたのみであったから、その存在はもっとも貴重であった。仏法が隠没すれば、こうした 薬味も尽きるのである。 浄居天=天上界のうち、欲界に属する六欲天と無色界に属する最上の四天とを除いた十七天が、いわゆる 色界の十七天(無想天を含めて十八天)である。この色界十七天のうち、最後の五天、すなわち無煩天、 無熱天、善現天、善見天、色究竟天を浄居天という。この五天は飲食と睡眠と男女の性欲との不浄を離れ たものの生まれる天界であるから浄居という、また、小乗の四果のなかでも阿那含、阿羅漢の住処とされ ているので、五那含天ともよばれる。 欲界の一切処=仏教では、十界の住処を六道の住する三界(凡聖同居土)、声聞、縁覚の住する方便土、 菩薩の住する実報土、仏の住する寂光土に分ける。三界は、悪思想のため煩悩に禍いされて、いわゆる六 道輪廻を繰り返している境涯でさらに欲界、色界、無色界に分かれる。欲界とは欲望の世界で、下は地獄 界から上は天上界の六欲天までを含む。色界とは、欲界の外の浄妙の色法、すなわち物質だけが存在する

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天上界の一部で、十七天(あるいは十八天)からなっている。無色界とは、物質のない精神のみの世界で、 天界の最上である四天よりなる。欲界は、さらに、それぞれの境涯によって住処を異にし、「地獄は地の 下一千由旬以下、餓鬼は地の下五百由旬、畜生は水陸空、修羅は海のほとり、海の底、人は四大洲、天は、 四天王は須弥山の中腹・由乾陀山の四つの峰」等々となる。この欲界のすべてを「欲界の一切処」という。 七味=甘い、辛い、酢い、苦い、鹹い、渋い、淡いの七種の味。 三精気=地精気、法精気、衆生精気の三。精気とは成長育成の力をいい、地精気とは大地の生命力、たと えば五穀、草木等を繁茂させる力がこれである。法精気とは世間法、国法、仏法のもっている力、総じて 道理に合致した力、民衆を幸福、繁栄、あるいは不幸、衰退に導く力をいう。衆生精気とは人間、社会の 生命力で、たとえば民族が興隆したり、逆に衰えたりする現象の奥にある、根源たる民族自体の力をいう。 解脱の諸の善論=解脱とは、煩悩の束縛から脱して、憂いのない、やすらかな境涯に到達するという意味。 「解脱の諸の善論」とは、ここでは総じて世間、出世間のいっさいの善論をいう。 希少にして亦美からず=華や果物が少なく、その味も美味ではないこと。 鹹鹵=鹹とは「塩辛い」「塩気」、鹵は「塩気を含んだ土」「塩」「不毛の地」等の意があり、鹹鹵とは 塩分が強くて作物ができないことをいう。 敵裂=裂けて割れ目ができること。経文には「剖」とあるが、御真筆では「敵」となっている。 丘澗=丘は小高い丘、澗は山と山とにはさまれた川、すなわち谷。丘澗とは大地に高下ができることを意 味する。 天龍も雨を降らさず=天も竜も、ともに天界の衆生で、天は天神等の諸神王衆、竜は竜神で竜王およびそ の眷属をいう。雨を司るとされた。日蓮大聖人が曽谷入道殿御書に「雨のしげきを見て竜の大なるを知る (昭定・九〇一頁)」等と述べられているのも、このような一般世人の考え方を用いられているのである。 「種種御振舞御書」には、真言師の阿弥陀堂法印が雨を祈ったのに対して「……一乗法華経をとける仏を ば、真言師のはきものとりにも及ばずとかける状は正覚房が舎利講の式にあり。かかる僻事を申す人の弟 子阿弥陀堂の法印が日蓮にかつならば、竜王は法華経のかたきなり、梵釈四王にせめられなん」(昭定・ 九八〇頁)と破折されている。 天龍=仏教では、人間以外の仏法を守護するものたちを、天龍八部とか龍神八部とかいって、八種類挙げ ている。それは、天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩疫羅伽の八種で、梵天帝釈天等の 「天」。また「龍」には、八龍王が示される。難陀龍王、難陀は歓喜の意。跋難陀龍王、跋難陀は善の意。 娑伽羅龍王、娑伽羅は海の意。和修吉龍王、徳叉迦龍王、阿那婆達多龍王、摩那斯龍王、優鉢羅龍王。「夜 叉」は、鬼神の一種で、凶悪で人を害するとされているが、仏教では天龍八部衆の中に入れられ、仏法守 護の鬼神とされている。「乾闥婆」は、帝釈に仕え香のみを食す空中の殿堂に住む楽師。人が死んで中有 の期間の乾闥婆とは別。「阿修羅」は、六道の存在の一つとされ、また仏法の守護神、ときに悪神ともな る。また羅疫阿修羅は、日食・月食をおこすという神話で名を知られている。「迦楼羅」は、半人半鳥、 金翅鳥と訳す、鳥類の王。「緊那羅」は、帝釈天に侍する半人半獣の美声の音楽師。「摩疫羅伽」は、大 蛇のことで、八部衆の一類。仏法守護の蛇神である。 苗稼=稲の苗のこと。総じては草木の苗いっさいを意味する。稼は植えること、または種をいう。 昏闇=昏も闇も暗いこと。昏とは太陽が姿を隠して暗くなること。闇は「やみ」。すなわち、ここでは乾 いた大地から舞い上がった土が空をおおい、地上が暗くなるありさま。 亢旱=大干魃。日照りで水分がなくなり、干からびてしまうこと。亢は高ぶる、窮まる等を意味し、旱は 日照りで雨が降らないことの意。大旱とも亢陽ともいう。 十不善業=十種類の悪の業因で、身の三悪、口の四悪、意の三悪である。身の三悪とは殺生・偸盗・邪淫、

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口の四悪とは妄語(ウソ・みだりなそらごと)・綺語(巧みに飾り立てたことば)・悪口(わるくち)・ 両舌(二枚舌)、意の三悪とは貪欲(むさぼること)・瞋恚(おこること)・愚痴(おろかなこと)をい う。この十の悪業の果報は、短命、多病は殺生の報い、貧乏であったり、財産を失うのは偸みの報い、妻 または夫が不貞であったり、家族が不良であるのは邪淫の報い、人から誹謗されたり、だまされたりする のは妄語の報い、家族または仲間にそむかれたり、親族に捨てられるのは両舌の報い、悪声を聞き訴訟を 起こすのは悪口の報い、人に信用されず、言語が不明瞭なのは綺語の報い、満足することを知らず、限り なく欲張るのは貪欲の報い、他人に隙をねらわれ、また殺されるのは瞋恚の報い、邪見の家に生まれて頭 が悪く性質がひねくれているのは愚痴の報いである。 貪・瞋・痴=三悪と同じ、三毒ともいう。 獐鹿=「くじか」とも「のろ」とも称する鹿の一種で、性質きわめて臆病で、もし敵にあえば単身のがれ て他をかえりみず、親子仲間などを見捨てかまわない。自利に走って父母を顧みないことをいう。このこ とから、ここでは、不孝者の譬えに引かれている。 衆生及び寿命、色力・威楽滅し(減じ)=衆生が減ずるとは、人口が減少し、民族、国家、社会が衰亡の 道をたどることである。寿命減じとは短命になること。色力は体力をいう。威は威光、楽は快楽、たのし みをいう。威楽滅しとは、他人に尊敬されるような威厳と安楽をそなえた境涯が減退し無くなること。 人天の楽を遠離し=人間と天上界のものとしての快楽がなくなり、地獄、餓鬼、畜生、修羅の悪業の因を 重ね、悪道におちていくとの意。 王の衆生を悲愍する者=その国の民衆が苦しみあえぐのを見て、哀れに思い、その苦を除こうという善王。 濁悪=五濁悪世の略。五濁とは、法華経方便品にあるように、劫濁、煩悩濁、衆生濁、見濁、命濁である。 劫濁とは、飢饉、疫病、戦乱等が起こって、時代そのものが乱れること。天変地異などが多くなる時代そ のものの汚れ。煩悩濁とは、衆生の煩悩が盛んになること。貪・瞋・痴・慢・疑という、人間が生まれな がらにもっている煩悩の乱れである。衆生濁とは、不良や犯罪者の激増など人間そのものが濁乱してくる こと。衆生の心身が衰退し、苦が多く福が少なくなるという、衆生の資質そのものの低下。見濁とは思想、 見解の濁乱。邪見や偏見(一方に偏った見解)、有身見(我執)などの悪見が盛んになること。命濁とは 生命力が衰え、生活が乱れ、病気や早死にが多いことである。衆生の寿命が次第に短くなり、ついには十 年にまで減少する。末代悪世には、この五濁がとくに盛んになると説かれている。御義口伝に云く「日蓮 等之類此五濁離也。我此土安穏ナレバ非劫濁実相無作仏身ナレバ非衆生濁煩悩即菩提生死即涅槃妙旨ナレ バ非煩悩濁五百塵点劫ヨリ無始本有之身ナレバ非命濁也。正直捨方便但説無上道行者ナレバ非見濁也。所 詮南無妙法蓮華経境所起五濁ナレバ日本国一切衆生五濁正意也。サレバ文句四云相者四濁増劇聚在此時瞋 恚増劇刀兵起貪欲増劇飢餓起愚癡増劇疾疫起三災起故煩悩倍隆諸見転熾矣。経云如来現在猶多怨嫉況滅度 後是也。法華経不信者以五濁障重者。」(日蓮等の類は、此の五濁を離るるなり。我此土安穏なれば劫濁 に非ず。実相無作の仏身なれば衆生濁に非ず。煩悩即菩提・生死即涅槃の妙旨なれば煩悩濁に非ず。五百 塵点劫より無始本有の身なれば命濁に非ざるなり。『正直に方便を捨てて、但無上道を説く』の行者なれ ば見濁に非ざるなり。所詮南無妙法蓮華経を境として起る所の五濁なれば、日本国の一切衆生、五濁の正 意なり。されば文句四に云く『相とは四濁増劇にして此の時に聚在せり。瞋恚増劇にして刀兵起り、貪欲 増劇にして飢餓起り、愚痴増劇にして疾疫起り、三災起るが故に煩悩倍隆んに、諸見転た熾んなり』と。 経に『如来の現在すら、猶怨嫉多し。況や滅度の後をや』と云う是なり。法華経不信の者を以て五濁障重 の者とす」)(昭定・二六一七頁)と。 仁王経=釈尊一代五時のうち般若部の結経である。訳に、 姚秦の鳩摩羅什(三四四年∼四一三年)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、

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唐の不空三蔵(七〇五年∼七七四年)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」の二本がある。 羅什訳が広く用いられる。初めの文は護国品で、後の文は受持品である。この仁王経は、仁徳ある帝王 が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれてい る。このゆえに、法華経、金光明経と共に、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩 行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、末法においては法華経を信ずる、以信代慧によって仏智 を得ることにある。 鬼神乱る=鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。「日女御前御返事」 に「此十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す。疫病の大鬼神なり。鬼神に二あり。一には善鬼、二には 悪鬼なり。善鬼は法華経の怨を食す。悪鬼は法華経の行者を食す。」(昭定・一五一〇頁)とある。その ように、善鬼は法華経を持つものを守るが、悪鬼は、生命自体を破壊し、福運を奪う働きをいう。 万民乱る=一家のなかにあっては親子、兄弟、夫婦が憎み合い、いがみ合う。職場で仲間同士が争う、労 働者が使用者と対立する、一国のなかで指導者と民衆とが遊離し、憎しみ合う等々の姿は「万民乱る」の 現証といえよう。 百姓亡喪し=百姓とは一般人民。後世に転じて農民を指すようになった。「百姓亡喪し」とは、国内が乱 れ、また他国より攻められる等のために、多くの民衆が殺され、あるいは土地を荒らされ、家を焼かれ、 仕事を捨てて流浪の民となることをいう。 是非を生ぜん=是とは道理正しいこと。非とは道理の通らないことである。「是非を生ぜん」とは、意見 が合わず、争いが起こること。 天地怪異し=天地が平常と異なった、怪しく異常なこと。日蝕、月蝕、地震、暴風、豪雨、時季はずれの 雪、霜等々である。 二十八宿=古代中国においては、この二十八宿に関連して、天の部位を示すために、東西南北の四宮、四 陸に分かち、これに四獣を配し、さらに二十八宿を配した。この関連性を爾雅(釈天)、左伝、国語、史 記(律書および天官書)などによって示すと、次のようになる。 東宮∼東陸∼蒼竜∼角、亢、氐、房、心、尾、箕 北宮∼北陸∼玄武∼斗、牛、女、虚、危、室、壁 西宮∼西陸∼白虎∼奎、婁、胃、昂、畢、觜、参 南宮∼南陸∼朱雀∼井、鬼、柳、星、張、翼、軫 星道、日月、時を失ひ度を失ひ=日や月や星の運行が、不規則に速くなったり遅くなったり、または、そ の軌道が正規の位置からはずれることをいう。「時を失い」とは運行の速度が乱れること、「度を失い」 とは軌道がはずれることを意味する。 五眼=肉眼(凡夫の肉眼で、ただものの形態を見るのみである)。天眼(普通の人には見えない物まで見 る力がある)。慧眼(更に進んで一切の人の迷いをよく見て如何に迷いが起るかを明らかに知ることがで きる。即ち二乗の具えるところの眼力)。法眼(一切人が皆結局仏になれるというところまで見透す力が ある諸法を徹見する菩薩の眼力)。仏眼(以上の四眼を遺憾なくそなえた完全なる眼で、すべてのものを 間違いなく正しく見る力がある)をいう。聖人遺文中『四条金吾釈迦仏供養事』に「普賢経に云く此大乗 経典は諸仏の宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり等云々。又云く此方等経は是諸仏の眼なり諸仏是によっ て五眼を具することを得たまえり云云。此経の中に得具五眼とは一には肉眼、二には天眼、三には慧眼、 四には法眼、五には仏眼也。此五眼をば法華経を持つ者は自然に相具し候」(昭定・一一八二頁)と見ら れる。 三世=過去世、現在世、未来世。仏法は三世にわたる生命の因果の法則を明らかに説いている。心地観経

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にいわく「過去の因を知らんと欲せば現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば現在の因を見よ」と。 そして、この世に王となる者の因は「十法界明因果抄」にいわく「小乗戒持破者作六道民破大乗戒者成六 道王持者成仏是也。(小乗戒を持して破る者は六道の民と作り、大乗戒を破する者は六道の王と成り、持 する者は仏と成る是なり)」(昭定・一七七頁)と。また、この仁王経は過去に五百の仏に侍えた者が王 に生まれると説いている。 羅漢=阿羅漢の略。小乗の果位で、声聞の四種の聖果の最高位。無学、無生、殺賊、応供と訳す。この位 は三界における見惑思惑を断じ尽くして、涅槃真空の理を実証する。また、三界に生まれる素因を離れた とはいっても、なお前世の因に酬われた現在の一期の果報身を余すゆえに、有余涅槃という。声聞乗にお ける極果で、すでに学ぶべきことがないゆえに無学と名づけ、見思を断尽するゆえに殺賊といい、極果に 住して人天の供養に応ずる身なるがゆえに応供という。また、この生が尽きると無余涅槃に入り、再び三 界に生ずることがないゆえに無生と名づけられた。 七難=仁王経、薬師経、大集経と、経によって若干の相違がある。仁王経の七難は、のちに説かれるよう に、一・日月失度難、二・星宿失度(衆星返改)難、三・諸火焚焼難、四・時節反逆難(水難)、五・大 風数起難、六・天地亢陽難、七・四方賊来難である。薬師経の七難は、一には人衆疾疫難、二には他国侵 逼難、三には自界叛逆難、四には星宿変化(怪)難、五には日月薄蝕難、六には非時風雨難、七には過時 不雨難なり。 薬師経=方等時の説法の一つ。訳に四種あり、 一に東晋の帛尸梨蜜多羅三蔵訳の「仏説潅頂抜除過罪生死得度経」一巻、 二に隋の達摩笈多訳「仏説薬師如来本願経」一巻、 三に唐の玄奘訳「薬師瑠璃光如来本願功徳経」一巻、 四に唐の義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」二巻である。 通常、薬師経というのは、三をさす。仏が毘舎離国広厳城楽音樹下に住したとき、文殊師利が昔の諸仏 の名字、国土の清浄荘厳の事を請問した。この請いに応じて説かれたのが本経である。 刹帝利=古代インドの四姓の一つで、王族、武士階級を意味する。クシヤトリアのこと。四姓とはカース ト制度の原型で、祭祀を司るバラモン、王族たるクシャトリア、商人階級のバイシャ、奴隷階級のシュー ドラである。のちにますます細分化し、現代では二千種以上にも分かれ、しかもこのカーストの枠外に不 可触賤民、サンスクリットではアチュートとよばれる最下層民を生ずるにいたっている。カースト「種」 とは、本来はサンスクリットでバルナ「色」といった。この階級制度が、征服民族たる白人系のアーリア と、被征服民族たる黒人系のドラビダ、その他、黄褐色人種との差別から生まれたことを示している。西 紀前二千年ごろ、農業を土台として、当時としてはすでに高度の文明を築いていたインドに、遊牧民族の アーリア人がインダス川上流のパンジャブ地方から侵入してきた。アーリア人は馬によって原住民との戦 闘に勝利を収め、征服し、新しい社会を形成した。ここで生まれた階級制度は、かれらのバラモン教によ って正当化され、出生にともなう地位、職業、特権は宿命として世襲された。当時、バラモン教は支配階 級アーリア人にとっては絶対的国教的宗教であるとともに、当時の社会の基本たる憲法的存在でもあった。 釈尊の生命の尊厳、自由、平等を基調とする教えは、カースト制およびそれを裏づけるバラモン教への大 社会改革、思想革命であったともいえる。しかし、仏法隠没してバラモン教がヒンズー教として復活して のちは、インド民衆は、今日もカースト制度のために、いちじるしく発展を阻害されている。 灌頂王=大国の王をいう。古代インドでは、大国の王が位に登るとき、小国の王や群臣たちが四大海の水 (須弥山の四方の鹹水、いわゆる海水である)を汲んできて、その頂にそそいだことから、このようによ ぶ。

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人衆疾疫の難=伝染病が流行して、多くの人が死ぬ難をいう。赤痢、コレラ、腸チフス、パラチフス、猩 紅熱、ジフテリヤ、ペスト、小児麻痺、黄熱病、狂犬病、マラリヤ、流行性感冒、性病等々、近代医学が 発達する以前は、伝染病の発生に対して為す術もなく、多くの人命が失われた。 他国侵逼の難=他国から侵略される難。これには武力による侵略、経済的侵略、政治的侵略、精神的侵略 等々があると考えられる。他国侵逼難は、金光明経には「我等四王並びに諸の眷属及び薬叉等、斯くの如 き事を見て、其の国土を捨てて擁護の心無けん。但我等のみ是の王を捨棄するに非ず、必ず無量の国土を 守護する諸大善神有らんも、皆悉く捨去せん。既に捨離し已りなば、其の国当に種種の災禍あって、国位 を喪失すべし」「多く他方の怨賊有って国内を侵掠し、人民諸の苦悩を受け、土地に所楽の処有ること無 けん」、仁王経には「四方の賊来って国を侵し、内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊あって、百姓荒 乱し、刀兵劫起らん」、大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば、其の王教令すとも、人随従せずして、 常に隣国の侵嬈する所と為らん」と説かれている。 自界叛逆の難=仲間同士の争い、同士討ちをいう。金光明経に「一切の人衆、皆善心無く、唯繋縛殺害、 瞋諍のみ有って、互に相ひ讒諂し、枉げて辜無きに及ばん」、大集経に「十不善業の道、貪・瞋・痴倍増 して、衆生の父母に於ける、之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貪瞋痴 の三毒が盛んになるところから自界叛逆難は起こる。また、そのさらに根源は、仁王経に「国土乱れん時 は先ず鬼神乱る。鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神の乱れがある。 星宿変怪の難=彗星が現れたり、流星があったり、星の運行に異変を生じたりすることは、社会、国家の 凶事の起こる前兆とされた。古来、東洋とくに中国においては、列子天瑞篇の次の文のように、人間の精 神は天の「気」、肉体は地の「気」から構成されているとした。いわく「精神は天の分、骨骸は地の分な り。天に属するは清んで散じ、地に属するは濁って聚まる」と。このゆえに、人間社会の変異は天の星宿、 日月等の変怪となって現れるとされたのである。星宿変怪の難は仁王経の第二の難「二十八宿度を失い、 金星・彗星・輪星・鬼星・火星・水星・風星・杏星・南斗・北斗・五鎮の大星・一切の国主星・三公星・ 百官星、是くの如き諸星各各変現する」とあるのと同じである。 日月薄蝕の難=黒点、暈、日蝕、月蝕などのこと。日月に関する異変は、国主に凶事の起こる兆相と考え られた。のみならず太陽の黒点が磁気アラシを起こし、太陽の光が薄れることは冷害をもたらすこと等は 周知の事実である。仁王経に「日月度を失い、時節反逆し、或は赤日出で、黒日出で、二三四五の日出で、 或は日蝕して光無く、或は日輪一重・二三四五重輪現ずる」とあるのがこれである。 非時風雨の難=季節外れの暴風があったり、梅雨期でないのに長雨がつづいたりする等の気候異変。これ が農作物を吹き倒したり、腐らせたりして成熟を阻害し、飢饉の原因にもなる。仁王経に説かれている第 四、第五の難がこれに相当する。すなわち「大水百姓を笠没し、時節反逆して冬雨ふり、夏雪ふり、冬、 時に雷電霹礰(靂)し、六月に氷・霜・雹を雨らし、赤水・黒水・青水を雨らし、土山・石山を雨らし、 沙・礫・石を雨らす。江河逆に流れて山を浮べ石を流す。是くの如く変ずる時を四の難と為すなり。大風、 万姓を吹き殺し、国土・山河・樹木、一時に滅没し、非時の大風・黒風・赤風・青風・天風・地風・火風・ 水風あらん。是くの如く変ずるを五の難と為すなり」と。金光明経にも「暴雨・悪風時節に依らず、常に 飢饉に遭って苗実成らず」とある。 過時不雨の難=雨の少ない季節を過ぎて雨期にはいっても、なお雨が降らないこと。雨期と乾期に分かれ た東南アジア、インドではよくある。大集経の「諸有の井泉池、一切尽く枯涸し、土地悉く鹹鹵し、敵裂 して丘澗と成らん。諸山皆燋燃して、天竜雨を降らさず、苗稼皆枯れ死し、生いたる者皆死れ尽きて余草 更に生ぜず。土を雨らし、皆昏闇にして、日月明を現ぜず。四方皆亢旱して、数諸の悪瑞を現じ」とある のと同じである。また、仁王経においては「天地・国土亢陽し、炎火洞然として百草亢旱し、五穀登らず、

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