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号 ~jj!_ 斗 是 主 + 徳 ~J 官 ~JII 家 康 天 ム1 1 刀 ~ 三 1とζ 土 禁 中 sl~ 公 家 諸 法 度

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(1)

はじめに

近世仏教の成立と檀家制度

はじめに 1.寺院法度 2.本末制度 3.檀家制度 目 次 4.幕府宗教行政の鶴換と寺側の封応

圭室文雄

今回は近世仏敬の成立というテーマでお話をしたいと思います。大き

く分けて四つの内容を考えています。

1

は寺院法度です。

これは徳

家康が寺院を統制する目的で定めたも

のです。

2

は本末制度です。これは幕府が寺院法度の中で各宗の本寺をきめ、

その本寺の下にそれぞれの宗振の寺を末寺として編成

たもので

。内

容は教団の統制を意味しており、寺院内部の階級関係を作り出したもの

です

第3

は檀家制度です。キ

シタン弾犀を目的として作られた制度で

院に

る檀家の支配関係です

第4

は幕府宗教行政の轄換と寺側の封応です。幕府はこれ

でキ

シタ

ン弾座のため寺院保護政策をとってきましたが、檀家に劃する寺の力が

きわめて強くなったためこの段階で、檀家を保護する政策に轄換し

た。一方寺院側は葬式法要を軸として民衆の統制をはかるようになりま

した。

*日本明治大学名誉樹受

(2)

2 号~jj!_斗是主+

1.寺院法度

第1

表 寺 院 法 度

西暦 月 日 宛先宗

I

J

R

寺院名 国名 県名 宗仮名 条数 法度布達者

1

1

6

0

1

5 2

1

品野山 紀伊 和歌山 真百宗

5

徳川家康

2

1

6

0

2

6 2

大樹寺 ニ可? 静岡 浄土宗

5

V

I

I

家康

3

1

6

0

8

8 8

比叡山 近江 滋賀 天台宗

7

徳~J

1

1

家康

4

1

6

0

8

1

0

4

成菩提院

"

'l イ〉

7

1

1

家康

5

1

6

0

9

5

1

園城寺 シイ 'l シイ 徳川秀忠

6

1

6

0

9

5 l

聖護院 山城 京都 'l 徳川秀忠

7

1

6

0

9

8 2

8

東寺 シイ イ〉 真言宗

3

1

1

家康

8

1

6

0

9

8 2

8

醍醐寺

"

"

'l

3

官~JII家康

9

1

6

0

9

8 2

8

1笥野山衆徒 紀伊 和歌山 'l

3

V

I

I

家康

1

0

1

6

0

9

8 2

8

関東古義真言宗 'l

9

1

1

家康

1

1

1

6

0

9

8 2

9

大山寺 相模 神奈川 'l

3

V

I

I

家康

1

2

1

6

0

9

1

1

2

1

東寺 山城 尽都 'l 徳川秀忠

1

3

1

6

0

9

1

1

2

1

1冒J野山衆徒 紀伊 和歌山

"

徳川秀忠

1

4

1

6

1

0

2 2

1

石山寺 近江 滋賀 "

5

板倉勝重光寺元倍

1

5

1

6

1

0

4 2

0

金問│勝寺 紀伊 和歌山 イシ

5

f

:

1

y

1

1

家康

1

6

1

6

1

0

5

l

戸隠山 信濃 長野 天ムtコ 『アJ、

5

b

1

1

家康

1

7

1

6

1

0

9 2

7

興幅寺 大和l 奈良

3

徳川家康

1

8

1

6

1

0

1

0

5

長谷寺 " 'l 真百宗

3

徳川家康

1

9

1

6

1

3

2 2

8

関東天台宗(多院)

U

該 埼玉 天台宗

8

徳川家康

2

0

1

6

1

3

2 2

8

'l 'l "

"

7

f

ω

1

1

秀忠

2

1

1

6

1

3

2 2

8

慈恩寺

"

シイ

3

fR却1

1

家康

2

2

1

6

1

3

2 2

8

中道院

" 'l

3

徳川家康

2

3

1

6

1

3

2 2

8

千妙寺 常陸 茨城 'l

3

徳川家康

2

4

1

6

1

3

2

2

8

薬王院 シイ

"

"

3

徳川家康

2

5

1

6

1

3

3

1

3

浅草寺 武蔵 東京 'l

3

1

1

家康

2

6

1

6

1

3

4

1

0

智積

i

炭 山城 京都 真百宗

5

徳川家康

2

7

1

6

1

3

5 2

1

ヨ巴護院 シイ , ノ 天台宗 徳川家康

2

8

1

6

1

3

5 2

1

ニ宝院 'l 'l 真言宗 徳川家康

2

9

1

6

1

3

6 6

聖護院 'l 'l 天台宗 御

1

1

家康

3

0

1

6

1

3

6

6

三宝院 F 〆 , 〆 真面宗

1

1

家康

3

1

1

6

1

3

6 6

関東新義真吉宗 〉イ

5

家康

3

2

1

6

1

3

6

6

'l 'l

5

徳川秀忠

3

3

1

6

1

3

6

1

6

七大寺入院法度 徳

V

I

I

家康

3

4

1

6

1

3

6

1

6

公家衆法度

5

1

1

家康

3

5

1

6

1

3

8 2

6

関東殆寝喜捌 武蔵 埼玉 天ム11刀~三土1とζ之

7

徳川家康

3

6

1

6

1

4

3 1

3

大山寺西楽院 {白番 鳥取, 'l

5

f

:

s

"

¥

i

1

1

秀忠

3

7

1

6

1

4

9 5

榛名山巌殿寺 上野 群馬 シイ

3

1

1

家康

3

8

1

6

1

5

7 1

7

禁中sl~公家諸法度

1

7

tn

ω

1

1

家康

3

9

1

6

1

5

7

1

1

1

ト刻諸法度 臨済宗

7

徳川家康

(3)

近世仏教の成立と檀家制度 3

4

0

1

6

1

5

7

ズ徳寺 山城 尽都 ぞ,

5

V

I

I

家康

4

1

1

6

1

5

7

妙,心寺 今 // イシ

5

徳川家康

4

2

1

6

1

5

7

真言宗 真百宗

1

0

徳川家康

4

3

1

6

1

5

7

高野山衆徒 紀伊 和歌山 '-'

5

徳川家康

4

4

1

6

1

5 7

永卒寺 越目Ij 幅井 曹洞宗

5

徳川家康

4

5

1

6

1

5 7

総持寺 能登 石川 イシ

5

徳川家康

4

6

1

6

1

5 7

浄土宗 浄土宗

3

5

徳川家康

4

7

1

6

1

5 7

浄土宗西山振 イシ

9

徳川家康 注.出典は中村孝也町却11家康文書の研究j

この表で明らかなように、幾つかのことが指摘できます。

①寺院法度が出されたのは、闘が原の役の翌年の

1

6

0

1

年から

1

6

1

5

年の

1

5

年間にわたって出きれています。

もう少し細かく見てみますと、

1

6

0

8

-

1

6

1

5

年の

8

年間に集中して

います

③ 買 は

この時期、闘が原の戦いに敗れた豊臣秀頼(大坂方)が徳川家

康に封抗するため畿内の有力寺院の再建

復興に積極的になり、大坂方

と し て は 有 力 寺 院 の 借 兵 の 軍 事 力 の 動 員 に 期 待 し て い た 向 き が あ り ま

これに射して、徳川方としてはこのような動きを封じる必要があり

ました

④もう少し詳しく寺院法度の表を見てみますと、寺院法度が出された

有力寺院が存在する地域は、畿内と幕府の膝

元の

関東にほぼ限定されま

⑤ 寺 院 法 度 の 宛 先 を み て み

ますと、最初は

大寺院を単位

としています

が、時代が下がるにつれてそれぞれの宗祇単位の統制へと変わっていき

ます

⑥ 寺 院 法 度 の

あて先を

宗祇単位でみ

ますと

天台宗

言宗

が最も多

く、とくに天台宗では比叡山延暦寺

関東本寺の喜多院

千妙寺、天台

修験(本山振

)

の中心の聖護院、員

言宗

では高野山金剛峰寺をはじめ東

寺 長 谷 寺

智積院

醍 醐寺

と員

修 験 (

山仮)の中心の

三 宝

院など

を統制していることがわかります

⑦ こ の 時 期 、 出 さ れ た

院法度の箇候数をみますと、

1

615

年浄土宗諸

法度

3

5

か僚が最も多く、次いで禁中並公家諸法度

1

7

か僚です

それ以外

の多くの寺院法度は

3-5

か燦程度のものが多いようです

⑧寺院法度を布達したのは徳川家康が最も多いことが法度布達者の項

目で指摘できます

1

6

1

5

7

月に寺院法度の布達が集中しているのは、この年豊臣秀頼

を滅ほ、し徳川氏が覇権を握り、このことから多くの宗祇に統制が及んだ

と考えられます。

(4)

4 号~.i!_.斗是主+

a

中世的特権の剥

寺院が中世にもっていた特権は幾つかありますが、

一つは膨

な寺領

です

。主

として外護者(スポ

ンサー)である領主

から与えられたもので

したが、

大寺

はさらに

多く

の寺領(田畑や山林)を集め、これを貸し付

けて牧入を得ていました

もう一つの

きな特権は、

守 護不入擢

J (Asy

l)です

これは寺院

が領主

の境内

の立ち入りを拒否

する権利であり、

公的権力が及は.

ない

ことを

意味します

。寺院

の境内は

本 来信侶の修行の場であることから、

世 俗 と の 関 係 を 絶 つ こ と が そ の 趣 旨 で あ る 、 と い う わ け で す

ところ

で、時代がきがるにしたがって

寺院側は境内のみではなく、

寺領へも

護不入構を横大

していきました

このため犯罪人

浮浪人がいつでもに

入り込むようになり、その罪を逃れることになりました

このことから

中世の領主

寺院がたびたび争論をおこしています

例えば、比叡山や

高野山には戦凱に敗れた落ち武者

がしばしば、入りこみ、追手から逃れ

たことは

有名です

また一

で大寺

院は僧兵を数

く抱えており、政治権力と封決するこ

ともたびたびのことでした

。多く

の戦 園大名も封抗できず、織田

信長

豊臣

徳川家康などの

全園を統ー

した権力者たちも

大 寺院と針立抗

を繰り

げています

。彼らはこ

ような

事態を

一掃するために検地や

万狩を

寺院にも適用し、

寺領を削減するとともに

守 護不入擢を腰止し、

政治権力の統制に服従きせるとともに、数万の

軍勢(僧兵)をかかえて

いる

大寺

院の

借 兵

を解散させ、

武器

をとりあげ.

ました

寺院法度

は大寺

といえども幕藩権力の

支配下に

くことを明確にしまし

b

各宗祇本寺

と触

頭寺院

の決定

徳 川 家 康 は

大 寺院の

軍 事

力 ー 経

酒力を削減するとともに、

本 寺

(

山)を各宗祇それぞれ複数にして、その

宗教的権力が

一つの本山に集中

することを排除しました

また各宗

とも本山が地

にある場

は関東に

も本山を新

し、関東本寺

として同

の権利を

えました

各宗

の本山

の下には触頭寺

院をきめています

触頭

寺院とは

幕府 の 法令

を宗祇内の

寺院に通達

する寺院のことです

。宗

祇によっては触頭寺院が江戸にない

場合に、その

末寺

で江戸にある

寺院に触頭寺院の

住職が常駐している場

合もあります

各宗の本山は先に

見たように政治的

酒的

軍 事的など

これまで

持っていた権限をほぽ取り上げられ、敬皐

道場としてのみ再生

されるこ

とになりました

そのことにより

幕府権力を背

に持つ触頭寺 院 の 方

が、その

宗振の本

山より

宗祇内では政治力

を持

つことになりま

した

(5)

近世仏教の成立と檀家制度 5

c l

曾侶の昇格制度

'

院法度では各

振の寺院の住職には{曾侶の資格を巌しく規定してい

ます

。宗

祇ごとの

若干の差

はありますが毎年夏と冬に

9

0

日間ずつ、合計

1

8

0

間 、 本 山 か そ れ ぞ れ の 地 域 の 有 力 寺 院 で 修 皐

修行することを

務づけています

このような修

修行を

2

5

-30

年間績け、試験に

格すると初めて住職の資格が与えられます

その後も修

怠ら

1

8

0

日間修

しますと、借階(借侶の階級)が上

します

その借階

に相

する

格の

に移轄していきます

そして

最高

の柴

として

各宗振の本山住職

人だけが、紫色の衣を着ることが出来ます

これは

の承認を得て

天 皇

から下賜きれるものでした

これに封して、本山

住職の次の位は黄衣(黄色の衣

)

ることが許され、伝

奏家

である公

家から渡されました

しかし時代が下がるにしたがって黄衣以下は責官

制になりました

{曾侶の位は上位の僧階は

天皇家

が、次いで伝

奏家

の公

家が、更に低い借階は門跡寺院が貰ることになりま

した

この結果天

都 の 公 家

門 跡

院 は 経 憤 的 に

莫 大

な 牧 入 を う る こ と に な り ま し

また京都の町ーには借階を求める多くの僧侶の姿が数多く

られるよ

うになりました

。京

都西障の衣

は様々な色の衣を作り、貰却し隆盛を

きわめておりました

明治

2

(

1

8

6

9

)

になり

天皇が東京へ移って

から

は、この制度は鹿止されました

京都の公家や門跡寺院、さらには

町人

の経糖は大きな打撃を受

けました

d

民間

敬者の締め出し

寺 院 法

度 が 制 定 さ れ 、 各

宗 本

触頭が決まり

祇 組 織 が 確

する

と、中世以来沙弥とか雲とか山伏とかいわれた

を持たない民間

教 者

たちは仏教教団から排除されることになりました

例えば、

「浄土

宗諸

法度J

3

5

か候の中で、幾っかを拾い出してその様子を探って見ましょう

①新寺の建立を巌

く禁止しています

②俗人の家を借り仏壇を置いて寺院に準ずるようなことは禁止してい

ます

廻園や遊行の修行{曾がその地域の

大名

の許しがないにもかかわらず

軽々しく布敬をしてはい

けないとしています

④借侶の資格を持たない仏道修行者の身で

、人

々に封して十念を授

たり、本来は僧侶が師弟関係をむすぶ血脈を授けたりすることは絶封に

許してはい

けないとしています。

つまり先に述べたように

3

0

年近くの巌格な修

修行をして僧侶の

格を取った者と民間

教者の違いを強調していることがわかります

e

院法度の特色

院法度についてはこれまでも各

祇内の封立抗争の時や徳川家康が

(6)

6 号~jj!_.斗号室+

寺領を与える時に布達

してきましたが、各

宗本山に射

してはほ‘同じよう

な内容で布達したのは

1

6

1

5

7

月が初めてのことでした

。 大

坂 の 障 が 終

わり、まず徳川家康が手をつけたのは有力寺院を統制することでした

法度の起草者と

して南輝

寺の金地院崇伝を起用しました

この時幕府が寺院法度を出したのは五山十剃諸山法度

7

か僚、

大徳寺諸

法度

5

か僚、妙心

寺 諸

法度

5

か僚、員

言 宗諸法度

1

0

か練、

高野

山衆徒法度

5

か 候 、 永 平

寺 諸 法 度

5

僚、線、持寺諸法度

5

か 僚 、 浄 土 宗 諸 法 度

3

5

候 、 浄 土 宗 西 山 振 諸 法 度

9

か候です

これ以外の宗祇ではすでに

1

6

0

8

に比叡山法度

7

か僚、

1

6

1

3

関東天台

宗諸法度8

か僚が出されて

います

しかし

1

6

1

5

の段階までには

日蓮

には法度は出

きれていません

1

6

1

5

7

の寺院法度の内容で共通するのは各宗本山の権限を強化

した

こと、数

を中心とする数回組織を成

立さ

せたこと、借位

借 官 の 昇 格

を巌格に

したこと、

守護不入

擁 な ど の 中 世

寺 院

がもっていた特権を排除

したこと

です

しかし

一方で五

山十剰諸山諸

法 度 の 中 で

「南輝寺

は深紫衣、

天龍寺

は洩紫衣、そのほか京都

倉の五

山は

黄 衣

」と規定し、深紫衣は臨済

宗南 蹄寺

のみとし、全宗振の中で最も高い

寺格の寺としています

の本山住職にも紫衣が与えられましたが、これは天龍寺に準ずると

浅紫衣し

か使用を

認め

ていませ

ん。

また五山振の京都五山

倉五

黄 衣

とし、その階級

別を明確にしました

以上のように

寺院法度

により、臨

酒宗の五

十剃

山が江

戸 時 代

においても

官寺的性格を

持ち

、その頂

点が南稗寺で

あるこ

とを強調

しています

f

寺院法度の効果と限界

寺院法度の

制定により仏教各

宗 祇

府の組織下に組み入れられるこ

とになり、各宗振の敬団濁自の動きは極力押さえつけられ、数囲内部の

階級関係も明確

されました。また敬団内の紛争も幕府の手に

より

解 決

されるようになりました

ープ

j

このとき寺院法度のあて先になった大

が各宗

の本山となり

団内部でこの寺を頂点とする組織化がはかられました

。幕 府

権力に抵抗

する

宗 教

は徹底的に弾

犀 き れ

寺院が中世以来持っていた守護不入権は

否定され

大 寺

院が持っていた

多くの田

畑山林は検地により

大牢が剥奪

きれ

ました

力を

失っ

寺院は幕府の下僕として存在するこ

とがゆる

れました

向この段階における寺院法度の限界も指摘しておきますと、第1

寺 院

法度の案文

が各

宗本

山住職から提出

され

地 院

崇伝がこれ

に加

筆訂正

加え、将

軍が

それを布

する

形 式 を 取 っ た た め 末 寺

にたいする

山側

の 要 求 の み が 盛

り込まれることになりました

。第

2

にはいずれも

宗祇 単

(7)

近世仏教の成立と檀家制度 7

位の法度となっており、仏敬全宗振寺院への統ー

した法度の内容ではな

く、幕府が全宗涯に劃して同一内容の法度をだすのは

5

0

年後の

1

6

6

5

年の

ことです。第

3

に宗祇組織が万全でなかった日蓮宗

向宗

時宗には

この段階までは法度は出きれていません

。 第

4

に、法度起草者の金地院

崇伝が

借侶であったことから徹底

した慮罰を伴う法令とはなっていませ

。第

5

に、先に述べたように南縄寺の地位が

寺院の頂点

になった

事なども注

目すべきことと思います

2

.

本末制度

a

法令

にみる本末制度

本末制度とは寺院の本山と末寺の関係を階級制度化したものです

。寺

院法度の中で本末制度に関する記事を拾ってみま

諸 末 寺 は 本 寺 の 法 度 に 違 背 し て は い け な い 事

0

6

1

2

5

2

8

「曹洞宗法度

J)

末寺として本寺の下知に従わなければいけない事

(

1

6

1

3

2

2

8

日「関

東天台宗諸法度

J)

本寺の許可を得ないで、末寺に居住してはいけない事

(

1

6

1

3

5

月2

1

日「関東新義員

宗法度

J J

日本曹洞宗の末寺は、これまでのように宗祖の教えを守らなけれ

ばいけない事

(

1

6

1

5

7

月「永卒

寺諸法度

J)

毎年行われる開山

代忌の法要に、加賀

(

川勝)

(

川勝)

越中(富山鯨)の

か園の諸末

は必ず本山へお参りす

(

1

6

1

5

7

月「縛、持

寺諸法度

J)

と、本

の権限が強化きれている様子がわかります

例えば本

から

法度

下知(命令)

家訓(宗内の捉)などが絶封である事とし、特に

が末寺の住職の人事権をもち、更に本山の開山忌

代忌などのお

りには末

は残らず本山に集ま

て法要に

加するよ

うに

強制している

様子もわ

かります

しかしこのような本山の意向を強調するためには、

と末

寺の階級

関係を明確にする必要がありました

その理由が

寺 院

本末帳の作成でした

b

寺院本末帳の

作成

全図

的に本山を頂

とする

寺院本末帳が作成

されたのは

1

6

3

2

-

1

6

3

3

年の

ことでした

この時期の幕府側にのこる

寺院本末

帳は現在園

立公文

館内閣文庫に残っています

次にその内容を表にして掲げてみましょ

(8)

8 季• .Jil斗号室+ 第

2

1

6

3

2

-

1

6

3

3

年 諸 宗 寺 院 本 末l

脹目

年号 月 日 書名 宗派 冊数 1632 9 5 五山之目録 臨斉宗 2 1632 11 9 海土宗諸ミ年之帳 海土宗 3 1632 11 9 j宇土宗i首上寺末事帳 持土宗 4 1632 11 24 常世主之正宗寺末寺筈上 ~8~斉宗 5 1633 19 法花宗諸守目録 日蓮宗 6 1633 28 本隆寺之帳 日蓮宗 7 1633 2 11 京者11本国寺末寺帳 日蓮宗 8 1633 2 20 遠什│奥山方広寺輪番所本末帳 蹴斉宗 9 1633 2 21 鎌倉宝戒寺末寺書上 天台宗 10 1633 2 21 ニ州関山正宗寺末寺帳 臨j斉宗 11 1633 2 関東真言宗古義本末帳 真百宗 12 1633 3 1時宗日必応&H

r

末寺帳 時宗 13 1633 3 12 北京泉1尚寺本末帳 真言律宗 14 1633 3 14 正法山妙心ヰ単寺末寺並末々帳 臨済宗 15 1633 5 2 相州宝泉寺帳 曹洞宗 16 1633 5 16 関東真邑宗新義本末帳 真百宗 17 1633 5 16 /1 真百宗 18 1633 5 曹洞宗通幻i成本末記上 曹洞宗 19 1633 5 /1 下 時洞宗 20 1633 5 竜穏.~f本末帳 曹洞宗 21 1633 6 12 相州鎌倉建長寺末寺綴 臨済宗 22 1633 6 12 鎌倉芳福

t

字智¥'海妙末寺帳 臨済宗 23 1633 11 26 寂光寺末寺記録 日蓮宗 24 1633 11 28 京割前寺末寺帳 日蓮宗 25 1633 11 28 妙満守末寺帳 日蓮宗 26 1633 11 28 上京妙覚寺諸末寺覚 日蓮宗 27 1633 11 28 京I質妙寺末寺帳 日蓮宗 28 1633 11 洛陽法華宗本禅寺末寺帳 日蓮宗 29 1633 11 洛防本能寺末寺帳 日蓮宗 30 1633 12 巧ミ妙l¥¥ii寺末寺帳 日蓮宗 31 1633 12 京妙法寺末寺帳 日蓮宗 32 1633 12 3 洛陽二条寺田T要法寺末寺帳 日蓮宗 33 1633 12 j]本寺諸末寺之帳 日蓮宗 34 1633 武州竜淵寺帳 曹洞宗 35 10 妙泉寺寺領書付 日蓮宗 36 11 芳福寺御寄進微授末寺書立 臨済宗 37 中峯派水戸之内清音寺末寺書上 臨済宗 38 J

山11:¥世之』葉子書物 蹴斉宗 39 断 晴 樹楓遡 : 捌 ヨ

I

問 曹洞宗 40 遠州曹洞宗小末寺帳 曹洞宗 41 駿州曹洞宗小末寺帳 曹洞宗 42 妙連寺末寺帳 tl蓮宗 43 京本法寺末寺帳 日蓮宗 44 1684 5 25 入目録上@主之諸宗末事候目鈎 45 1684 5 25 入目録下 ( /1

i

i

史料は国立公文書館内閣文庫J好成

(9)

近世仏教の成立と檀家制度 9

表で明らかなように、寛永の「諸宗末寺帳」といわれるのは、

No1

-N043

までです

No

44

N045

は後年の

1

4

年に作成きれた「寛永諸宗末

寺帳」の目録ですので、全体で

43

冊となります。

この表で気がつくことは

1

6

3

2

年に本山から幕府に提出されたのは浄土

2

冊と臨酒宗

2

冊の計

4

冊にすぎません。そしてそのいずれもが

9

月以降

です。これに射して多くの本末帳は

1

6

3

3

年に提出されていることがわか

ります。

1

6

3

3

年と年号が付されているのは

30

冊、月のみ記載されている

のは

2

冊、年月日すべてしるされていないのは

7

冊ですが、これも

記載形

式からみますと

1

6

3

3

年に含めていいと思われますので、これを加えると

1

6

3

3

年分は合計

3

9

冊となります

。これは全体の約

91%

にあたります

つぎに宗祇ごとの冊数をみてみますと、合計

43

冊の内日蓮宗の

1

7

冊が

断然多く、次いで臨隣宗

1

0

冊、曹洞宗

8

冊、員

宗律宗

4

冊、浄

土宗

2

冊、天台宗と時宗はそれぞれ

1

冊です

日蓮宗がとりわけ多いのは、

1

6

3

0

年宗内を

分する論争が展開された

からです。これを身池割論(しんちたいろん)とよんでいます。

I

とは山梨県系の身延山久遠寺のことであり、

「池」とは東京都の池上本門

をきします

日蓮宗の雨本山が、将軍徳川秀忠夫人の崇源院の葬式法

要が東京都の芝にある浄土宗増上寺で行われるのに参加することの

を、江戸幕府老中を前に割論しました

久遠寺は参加すべきとしたのに

劃 し て 、 本 門 寺 は 参 加 す べ き で は な い と

張しました

その論旨は、

「宗祖日蓮は法華経の信者でない者に到しては、例え園

であっても、

不受不施を貫くべきと主張している」としました。不受不施とは「施し

もしないし施しも受けない」とする考えです。論争に負けた日蓮宗不受

不施振本門寺住職日樹は伊那

(

長野豚

)に

追放されました。その後幕府

はキリスト教と同様に日蓮宗不受不施振を禁止しました。その

2-3

年後

の本末帳提出なので、幕府は日蓮宗については不受不施源

院やその借

侶の

上を命じ、徹底的に追跡をしました

このような背景が日蓮

末帳の多きにつながっています

特に京都の日蓮宗寺院の内、妙費寺が

不受不施振の接点であったため京都の本末帳が多く作成きれています

方で、身延山久遠寺はこの機曾に

閣の総本山の地位を確固たるも

のにしました

このときの本末帳で大きな宗祇で現在史料が残っていないのは

です

なおまた天台宗もわずか

4

か寺のみの

上であり、大字は未提出

の朕態です

次に寺院本末帳にみる宗祇単位の分布をみてみたいと思います。この

表は園立公文

館内閣文庫所臓の諸宗末

4

3

冊を集計したものです

この帳面に記載されている寺院の線、数は

12080

寺です

次に表につい

て説明します

(10)

10 号jj!_斗 号室午 第3表 寺 院 本 末Ip長にみる宗派単位の分布 宗派 九州 四国 中国 近畿 ~tl注 東海

'

P

部 関東 東北 松前 不記 不詳 ぷEふ3,iきi

i

%

天台宗 4 4 0.03 2 古義真百宗 57 871 928 7.68 3 新義真百宗 276 30 2325 69 2700 22.35 4 真百律宗 12 4 17 0.1 5 持土宗 451 45 91 13 601 4.98 6 l時宗 15 10 18 24 42 130 35 275 2.28 7 酎斉宗 57 23 80 76 38 918 557 4 167 1920 15.89 8 曹洞宗 5 1207 2089 54 12 2 3371 27.91 9 日蓮宗 60 20 284 256 302 464 841 20 4 13 2264 18.74 ぷ口hきn↓ f 132 44 375 367 641 2720 7272 227 4 270 28 12080

%

1.09 0.36 3.1 3.04 5.31 22.52 60.2 1.88 0.03 2.24 0.23 注史料は寛永9-10年 (1632-1633) r諸宗寺院本末帳J (国立公文書館内閣文庫所蔵)

第一

宗振ごと

に検討してみますと、このとき本末帳が作成されたの

は 天 台 宗 古 義 員

宗 新 義 員

宗 員

律 宗 浄 土 宗

宗 臨 酒

日蓮宗の

9

つの宗祇です

こ の 寺 院 数 が 省 時 存 在 し た 寺 院

数 の 何

分 の ー

か は は っ き り し ま せ ん が 、 例 え は

宗 の 場 合

1

74

7

「寺院本末帳」に比較すると、寛永の諸宗末寺帳に記載されている寺院

数は

1

9%

にすぎません

しかしともかく

府 側 の 史 料 で

1

6

3

0

年代までた

どれるのは現在のところこれだけです。この段階で本末帳を提出してい

ない主な宗涯の一つは一向宗です

如以来北陸

東 海

畿内に勢力を

伸ばしていたことを

考え

ると

一 向 宗 の み で も 全

体の

1

2

0

8

0

寺を

はるか

上回

る数

字 と 思 わ れ

ます

また

4

寺のみ記されて

いる

天 台 宗 の 場 合

も1

7

8

6

年 「 天 台 宗 本 末

帳 」 に よ れ ば 約

1000

0

寺 の 末 寺 を 抱 え て

いま

これらのことから寛永の諸宗末寺帳の限界はありますが、宗祇別に

若干の検討を

したいと思います

まず

天 台 宗 で

は鎌

倉の宝戒寺が提

出したも

ので

、相模園

の末寺

3

寺を

上げています

。天台宗の本

山格である比叡山延暦

寺や闘東の本

山であ

る川越の

喜多院

などから提出されたものは残

ていません

古義員

9

2

8

寺 で

、現

するものは関

東海地方の寺院のみし

か記載がありません

新 義 員

寺 院 総

2

7

00

寺 が 記 載 き れ て

い ま す が 、 こ れ も ま た

「関東員

宗新義本末帳

」と

表 題

にあるように、

記載

されている

寺院の

布地域は関東が中

で、北陸・東北

東海の順になっています

律宗

については

泉涌寺のみで

、わずか

1

7

寺に

すぎませ

浄土宗は「浄土宗諸寺之帳」と「浄土宗増上寺末寺帳」の2

冊ですが

その内容は

表題の

ように関東の

記載

が中心です

時宗は「時宗藤津遊行末寺帳

J

1

のみで

、時

1

2

振の内遊行涯のみの

(11)

近世仏教の成立と檀家制度 11

上です

しかしその末寺は全園

3

9

か園に分布しています

臨 済 宗 は 鎌 倉 建 長 寺 京 都 妙 心 寺 遠 江 方 贋 寺

甲正宗

五山十

刺 諸 山 常 陸 正 宗 寺 常 陸 清 音 寺 鎌 倉

幅 寺 浄 智 寺 浄 妙

などの

本末帳です

この

でみる限り臨酒宗の教線は全園的な蹟がりをみせて

いますが、これは妙心寺の末寺が

49

か園に分布し、また敷は少ないです

が五山

十剃

諸山が

6

0

か園に分布しているためです

曹洞宗の末寺は陸奥園に

5

4

か寺ほど存在しますが表に見る如く東海

中部

関東に集中しています

日蓮宗は京都

1

6

本山がすべて本末帳を提出しているため、畿内並びに

その周辺の地域にも分布していますが、やはり多いのは関東です

つぎに全宗振を地域的にみますと、寺院数が最も多い地域は関東地方

で、全体の

6

0

.

2%

をしめます

2

位 は 東 海 地 方 で 全 体 の

22.52%

をしめ

ます

この

地域を合わせますと約83%に達します

このことから考え

ますと寛永の本末帳は江戸を中心としたこの

地域の本寺格の寺院が本

末帳の提出に応じたものと考えられます

その意味では全図的に各宗振

を通じて分析することは出来ません

3

.

檀家制度

檀家制度とは、

の経営を檀家がききえる制度です

日本人全員が仏

敬徒として寺の檀家に編入されることになったのは

1

6

4

0

-

1

6

6

0

年頃の

ことです

私は檀家制度が成立するまでには、四つぐらいの段階があっ

たと考えています

a

1

段階は

1

5

5

0

年頃です

買は我々の先祖たちはすでに

1

5

00

年頃か

ら伊勢参宮にでかけていた記録が残っています

伊勢参宮へは同一村落

の仲間や知人たちと同行しています

人々は伊勢参宮が終わるとその後

高野 L

L

J

や奈良

京都ー大坂へ足を伸ばし、名所旧跡を見皐しています

と く に 高 野 山 で は 山 上 の 伽 藍 や 奥 の 院 へ 参 詣 し 、 宿 坊 に 泊 ま っ て い ま

そ し て 宿 坊 で は 朝 の 勤 行 の 折 雨 親 や 近 親 者 の 菩 提 を 供 養 し て い ま

高 野 山 の 宿 坊 に は 当 時 泊 ま っ た 人 の 宿 帳 (

山帳)

と菩提供養をし

た時の記録「日牌

月牌帳

J

(にっぱい

がっぱいちょう

)

が残されて

います

そこには庶民の戒名(法名)

姓氏名

現 住 所

参詣者との績

柄などが詳しく

か れ て い ま す

特 に 庶 民 の 戒 名 が 頻 出 す る の は

1

55

0

-

1

5

70

年頃からです

この時期の戒名は宗振を問わず「

字戒名」で

このことから我々の先祖は寺とのつながりがあり、寺の住職から戒

名をつけてもらっていたことが明らかになります

檀家制度というほど

(12)

12 号r-ji!_,斗吾持

のものではありませんが、緩やかな寺と檀家の関係がすでに成立してい

たといえます

。そ

して伊勢参宮のおり近親者の戒名を位牌から

書き寓

て 持 参 し 、 高 野 山 で 供 養 を し て も ら っ た と 考 え ら れ ま す 。 ま た こ の 日

月牌帳からみますと我々の先祖の多くの人がすでに

1

5

5

0

年代にはほ

とんどの人が苗字(みょうじ)をもっていたことも明らかにしてくれま

このような史料は高野山の宿坊(塔頭)には津山残っています

上の

ことから我

々の先祖たちが寺で葬式を行い

、住職に戒名

をつけても

らい、寺と檀家の関係を結ん

のは

1550

年頃からである

考えられま

b

2

段階は

1

6

1

4

年です

は前

年の

1

6

1

3

1

2

月将

軍徳

川秀忠は

突然

「伴天連追放令

J

(ばてれ

んつ

いは

うれい

)

を布達

します

。そ

して

1

月には

全圏の大名に命じて領内のキ

シタンを捕ら

え、仏教に改

「鶴

支丹寺請証文

J

(ころびキリ

シタンてらうけしようもん

)

くことを義務づけ、近所の寺院の檀家になることを強制しました

つまりこの段階でキリシタンは寺院の寺請証文をもらい、その寺の檀家

にならなければ、身分が保証きれませんでした

次に

九州

!の小

倉藩で賞

に提出された「轄

支丹寺請証文

」を紹介してみましょう

(

前園8郡と

豊後園

2郡

=幅

岡牒の

部と大分麻の

部)はこの時約

40

万石の石高を持ち、藩主は細川忠興でした

支丹

請証文」

には

つの形式があります

1

は轄吉利支丹

本人の証文、第2は村役人の証文、第3は

の住職の証文です

次にそれ

ぞ、れの証文について説明をしたいと思います

資料

1

慶 長 一 九 年 (

一六

一四

)

倉藩轄

支丹寺請証文

① 轄吉利支丹本人の証文の形式

今度はてれん門徒御改ニ付而、ころひ申候て、即一向宗ニ罷

成正行寺へ参申候、ころひ申上候は少も偽不申上候、其上請

人別紙ニ立申候問、於相違仕者御法度ニ可被仰付候、的魚堅

如件、

慶長十九年

月廿二日

産回与兵衛殿

魚住万五郎殿

嶋 田 村

五右衛門(花押)

(

井家文

熊本大事図

館所蔵)

(13)

近世仏教の成立と檀家制度

J3

資 料

2

村役人の証文の形式

嶋田村五右衛門はてれんもんところひ申候テ、副

ニ罷

成、正行寺へ参り申候、魚堅ニ我等請人罷立候、以来於相違

仕ハ御法度ニ可被仰付候、馬後日

一筆

如件、

慶長十九年

月廿

蓮田与兵衛殿

魚住万五郎殿

資 料

3

寺の住職の証文の形式

天罰起請文前

之事

嶋田村五右衛門請人

同村の頭

百 姓 久 三

郎(黒印)

惣庄屋

瞬瀬新五

兵 衛

(花押)

(松井家

文書

熊本大串図書館所臓)

今度伴天連門徒御改ニ付而

浅見村

兵吉

浜脇村

新十郎

今迄きりしたんにて御座候つれ共、今月九日より我等宗旨に罷成

候、此者之儀向後迄我等請人ニ立申、若相違之儀御座候と、わき

口より

立 御 耳 ニ 候 者

、 拙 者 ヲ 可 被 成 御 成 敗 候 、 其 上 党 天

帝 蒋

天ー四大天

、惣而日本園中

六 十 余

小 之 紳 祇

冥道、伊豆箱根

雨量士権現、

嶋大明神、別而当園之惣廟由原八幡大菩薩

、 祇

園牛

頭 天 王 、 閥

所 大 権 現 並 英 彦 山

大権現、

別 而 ハ 浅 見 八 幡

大 菩

薩、殊ニ

頼樺迦牟尼如来、達磨奪事師諸之請御救ヲ、部類審属榊

罰冥罰各々於身ニ罷蒙、今生ニては、白廟黒瀬之身卜成、後生ニ

てハ無間地

獄ニ堕罪シ、浮世更

ニ不可

有之者

也、依

天罰

起請文

如件

慶長十九年

月九日

田村

右衛殿

田仲角兵衛殿

浜 脇 村 宗 幅 寺 玄 香 ( 花 押 )

(松井家

文 書 熊 本 大 串 図 書 館 所 臓

)

資料

1

の本人の証文は嶋田村五右衛門本人が、これまではキリシタンであったが、

今回の宗

門改めによりキリ

シタンを

轄び

宗正行寺の檀家

にな

たこと、これは偽

りではないこと、そ

ため請け人(保証人)を

立てて

別紙で私の身分を保証してもら

(14)

14 季五斗

f

E

うこと、もしキ

シタンに立ち返えった場合はいかなる鹿罰も受けること、これらの

事を誓約する文章の形式をとっています。宛先は小倉藩の役人です。

資 料

2

の村役人の証文は①の史料で別紙とあったものです。

文 章 の 内 容

は ほ ぼ 同 じ で す が 、 こ の 村 の 頭 百 姓 ( か し ら び や く し よ う ) 久

郎 と 惣

庄 屋 ( そ う じ よ う や ) 嘱 瀬 新 五 兵 衛 の

2

名 が 五 右 衛 門 の 身 分 を 保 証 し て

いる様子がわかります

。宛先は同様です

資料

3

は寺の住職の証文の形式です

豊後園速見郡浅見村兵吉と浜脇村

新 十 郎 が キ リ シ タ ン を や め て

2

9

日、浜脇村の宗幅寺の檀家になったこ

と、この

2

名 の 者 に つ い て は 宗 幅 寺

住 職 玄 香 が

そ の 身 分 を 保 証 す る こ

と、もしはかからこの

2

名 が キ リ シ タ

ン だ と 言 う 者 が

い た ら 住 職 を 慮 罰

し て ほ し い こ と 、 そ の 後 牢 に 起 請 文 を つ け て 紳 仏 に 誓 う 形 式 を と っ て い

ます

宛先は小倉藩の役人です

以 上 の よ う に 小

倉 藩

は領内の轄

利 支 丹

1

人 ひ と り に つ い て

3

通 の 証 文

を作成しています

こ の 時 小 倉 藩 で 捕 ら え ら れ た キ リ シ タ ン は2

0

4

7

人と

記 録 さ れ て い ま す

同様の証文は全圏各地で作成したと思われますが、

ほとんど現存しません

。 一方 こ の よ う な キ リ シ タ ン 弾 墜 を 目 撃 し た ま わ

りの人々も身分保証をするのは

寺 の 住

職 で あ る こ と が 明 白 に 分 か り 、 キ

リシタン以外の多くの人々も自分の身を

守る

ために寺と檀家の繋がりを

持つことになりました

c

第3

段階は

1

6

3

5

年頃からのことです

。幕府はこの年に寺社奉行を新設し、本格的

に宗教統制をはじめました

この時期から全圏各地でキリシタンでない者に射しても

寺請証文が作成されるようになりました。京都の南禅寺門前の証文の例をみてみま

資 料

4

南 禅

寺 西

門前住人

利 支 丹 改 請 状

仰 せ 付 け ら る 御

法度書畳

南蛮人之伴天連之事

日本伴天連、付いるま之事

一、切したん之宗旨之事

右之宗旨之者こ

れあるにおいては、急

;度申上ぐべ〈候

き り し た ん 井 伴 天 連 之 宗 旨 を 守 者 こ れ あ る に お い て は

父 母 女 子

たりと云共、

急 度

中上ぐべく{氏、其外

一類巾、付御被宮中ニも

人も御座なく{氏、よって後日のための状、件の如し、

寛永十二

乙亥年十月十三

南禅寺西門前

助 作 ( 略 花 押)

(15)

近世仏教の成立と檀家制度 15

左吉(略花押

)

鯖 雲 院 御 納 所 様

(

京 都 市 南 諦 寺 所 蔵 文

)

とあり、まず前段の三か僚では幕府法令そのものを掲げ、後段では門前にはキリシ

タンは一

人も居ないこと、もしキ

シタンを接見すれはすぐに京都所司代に届けると

述べています。

ところで、

請 証 文 の 作 成 が 本 格 化 す る の は

1

6

3

8

年 の こ と で す

この

2

月末日島原の筒

L

で 原 城 が 落 城 し ま し た

ほ ぽ 牢 年 後 か ら 幕 府 は 本 格

的 に キ リ シ タ ン 弾 塵 政 策 に の り だ し ま し た

こ の 時 キ リ シ タ ン 高 札 を 掲

し、その摘援を指

したことはよく知られています

。 次

にその史料を

見てみましょう

資料

5

キリシタン高札

伴 天 連 の 訴 人

銀 子 武 百 枚

入 満 の 訴 人

きりしたんの訴人

五拾枚文は

拾枚訴人によるべし

右 訴

人いたし候輩ハ、たとい同宗門たりというとも、宗旨をころび申

出 候 に お い て ノ ¥ 其 科 を ゆ る し 、 馬 御 褒

付 可 被 下 旨 、 仰 出 ら れ

{

以上、

寛 永 拾 五 年 九 月 十

(

青 文 庫

熊 本 大

付属図

館 所 蔵

)

この褒賞金の額は、例えば伴天連の場合の銀

200

枚は四人家族の生活費でほぼ

20

分にあたる高い金額です

。いるまんの場合は

1

0

年分、キリシタンの場合でも

3-5

年分

にあたります。

この高額な褒賞金のため多くのキリスト敬徒が芋蔓式に捕らえられる

ことになりました。密告制度の恐ろしさです。

こ の 同 じ 時 期 に 天 領 ( 幕 府 が 直 接 支 配 し た 所 ) で は キ リ ス ト 敬 徒 以 外

の 人 々 に も 寺 請 証 文 の 提 出 が 義 務 づ け ら れ ま し た 。 幕 府 が 出

した

寺 請 証

文の案文を見てみましょう

資料

6

吉 利 支 丹 宗 御 改 ニ 付 以 一 札 申 上 候 事

何の村のたれと申者は、

右 の 者 ど も 、 我 等 一 宗 の ぽ だ い

(

菩 提

)檀那にてござ候こと

賓 正

(16)

16 号.~斗号室干

な り 、 も し キ リ シ タ ン 宗 旨 に て 候 と 、 わ き よ り 訴 人 ご ざ 候 わ ば ¥

愚 借 ま か り い で 、 申 し わ く べ 〈 候 、 い ず れ の 宗 の 寺

(藤津市羽鳥

砦 博 氏 所 戴 文

)

幕府は代官を通じて天領の村の名主(庄屋

)にこ

のような案文を配布しています。

これに封して名主はそれぞれの村の檀家名の提出を申し入れました。はほ

1

ヵ月後に

提出されたのが次の史料です

資 料

7

支 丹 御 改 め に つ き 一

札申

上候こと

羽 鳥 村

(

) の 者 ど も 、 わ れ ら

ー 宗 の 菩 提 檀

那 に で ご ざ 候 こ と

賓 正

り 、 も し き り し た ん 宗 旨 に て 候 と 、 わ き よ り 訴 人 ご ざ 候 わ ば 、 愚

借 ま か り い で 申 し わ く べ く 候 、 寛 永 十 五 年 寅 ノ 十 月 十 六 日

成 瀬 五 左 衛 門 殿

藤 津 ち ゃ う こ う じ

(常光

)

佐 右 衛 門

新 左 衛 門

義 左 衛 門

長 右 衛 門

新 兵 衛

左 衛

助 九 郎

(藤津市羽

砦 博 氏 所 菰 文

)

東海道藤津宿にある浄

土宗

常光寺は隣村の羽鳥村にいる檀家の佐右衛門以下七名が

キリシタ

ンで

ないことと身分保証をしています

宛先は代官成瀬五左衛門です

この

時から日本人

全員

は近くの

寺請

することを

義務づ

けられました

しかしすぐにこ

の寺請証文を挺子

(

)として

檀家制度が確立しかと

えば必ずしもそうではあり

ませんでした

あまりにも

急速

教政策の展開により、

寺請証文を

作成するべき

がまだ存在していない地域もありました

。現存

する史料で

全圏各

地の

寺院の

開創年代

をみてみますと、

1

6

4

0

年代から

1

6

6

0

年代にかけて開創された寺院は全体の約

7

0

%

占めています

つまり寺請証文が義務づけられたことにより、檀家の側が

を開創

し、そこに住職を

定住

させる動きが盛んになりました

そのことからこの

2

0

間に

請証文を作成する寺が績々と建立されることになりました

(17)

近世仏教の成立と檀家制度 17

d

.

第四段階は

1

0

年代になります。

1

4

年幕府は全園の大名に封してそれぞれの

藩に宗門奉行(寺社奉行)の設置を求め、キリシタン統制をより強

化しました

。1

6

6

5

年「宗旨人別改帳

J

(戸籍)の作成を命じました。その折寺院住職に封してそれぞれ

の檀家の名前の上に、寺の印鑑を押印することを命じています。その後「宗旨人別改

帳」を作成する度に

寺の

押印は績けられました

つ ま り 寺 院 が こ の 戸 籍 業 務 に 関 わ る よ う に な っ て か ら 、 寺 院 は 檀 家 を

完 全

に 掌 握 す る こ と が 出 来 る よ う に な り ま し た

。 現 在

も 績 い て い る 檀 家

制 度 は

1660-1670

年代に確立したと

言っ

て い い と 思 い ま す

4

.

幕府宗教行政の転換と寺側の対応

1

6

1

5

年 寺 院 法 度 以 来 本 末 制 度 が 本 山 の 決 定

本 末 帳 の 作 成 に よ っ て 確

立 し 、 本 寺 が 末 寺 を 掌 握 し 、 触 頭 を 通 じ て 幕 府 の 法 令 が 貫 徹 さ れ る よ う

に な り 、 宗 祇 車 位 の 封 建 的 支 配 体 制 が 出 来 上 が り 、 信 侶 の 階 級 も 形 成 さ

れ 、 本 末 制 度 は 確 固 た る も の に な り ま し た

。こ

れ を 挺 子 に し て 寺 院 は 檀

家 か ら 経 済 的 な 牧 奪 を 行 う よ う に な っ た わ け で す 。 と こ ろ が こ の こ と が

幕 藩 領 主 の 年 貢 牧 奪 機 構 を 脅 か す こ と に な り ま し た 。 こ の た め 幕 府 は こ

れ ま で の 仏 教 保 護 政 策 の 手 直 し を し な け れ ば な ら な く な り ま し た

それ

が次に述べる諸宗寺院法度の制定です。

a

諸 宗 寺 院 法 度 の 制 定

1

6

6

5

7

1

1

幕府は全宗祇

に統

した内容で諸宗寺院法度を布達します。一つ

は将軍判中旬9か僚、 も

つは老中連署財ごうか保てかす。つぎにそれをみてみましょう

資料

8

将 軍 剣 物 諸 宗 寺 院 法 度

、 諸

宗 の 法 式 は

、あい簡L

す べ か ら ず 、 も し 不 行 儀 の 輩 こ れ あ ら ば

きっと沙汰に及ぶべきこと、

一 宗 の 法 式 を 存 ぜ ざ

る借侶は、

寺 院 住 持

とすべからざること、

付 、 新

義を

たてて奇怪之法を説くべからざること、

本 末 の 規 式 こ れ を 観 す べ か ら ず 、 た と え 本 寺 た り と い え ど も 、 末

に封して理不

謹 の 沙 汰

あるべからざること

檀 越 の 輩 は 何 寺 た り と い え ど も 、 そ の 心 に ま か す べ し 、 僧 侶 方 よ

りあい争うべからず、

(18)

18 号Z斗 吾 持

徒党を結び、闘争を企て、不似合の事業すべからざること、

園法に背くの

到 来 の 節 、 そ の 屈 あ る に お い て は 、 異 儀 な く 返 す

べきこと、

寺院

仏閣修復の時、

麗に及ぶべからざること、

付、仏閣僻怠なく掃除申しつくべきこと、

寺領一

切これを

責買

すべか

ず、井

物に入るべからざること、

由緒なき者、弟子の

望み

あ る と い え ど も 、 み だ り に 出 家 せ し む べ

からず、もしょんどころな

き子

細 こ れ あ ら ば 、 そ の 所 の 領

官 へ

あい断り、その

にまかすべきこと、右の燦々、諸宗ともに

こ れ を 堅 〈 守 る べ し 、 こ の ほ か 先 剣 の 保 政 い よ い よ こ れ に あ い 背

くべからず、もし違背においては

、 科

の 軽 重 に 従 い こ れ を 沙 汰 す

べし、猶下知;伏に載するものなり、

寛文五年七月十一日

(

Ir御触

寛 保 集 成J

1

1

7

4

1

2

)

① そ れ ぞ れ の 宗 抵 の 儀 式

作法を確買に守るように強調しています

② 自 分 の 宗 振 の 儀 式

作法を知らない者は住職にしてはいけない、と

宗祇性を強く

押し出しています

③ 本 寺 末 寺 の 関 係 で は こ れ ま で 本 寺 の 権 限 が 強化

されていましたが、

ここでは部分的ながら末寺の権限をみとめています

④寺と檀家との関係については、これまでは寺の方が優位で、したが、

ここでは檀家側に

寺の選

樺権を与えています

これは大きな変化で

す。

⑤末寺か‘結束して本寺に抵抗することを禁止しています

⑥ こ の 箇 候 は 守 護 不 入 権 を 否 定 し た も の で す

中世以来犯罪人

浮浪

人が寺に駆け込みその罪を逃れていましたが、江戸時代においては

これを認、めないとしたことです。

⑦ 寺 の 堂 塔

伽藍を大きくしたり、華美にすることを禁じています

⑧ 寺 領 の 責 買

質入を禁止した候文です

⑨ 僧 侶 の 削 減 を 図 っ た 候 文 で す

出家の希望があった場合その地域の

領主

代官の許可を義務づけています

さらに最後にはこれまでの寺院法度と異なり、罰則を設けています

1;(に資料

2

をみてみましょう

資 料

9

中連署朕

{

康々

僧侶の衣体その分限に応じ、これを着すべきこと

、 井 仏 事 作

儀式檀那これを

むといえども、相応に軽くすべきこと、

jJ

建 立 の 由 諸 こ れ あ る 寺 院 の 儀 は

、そ

の檀那のはからいの僚と

参照

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