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日本語教育は日本語能力を 育成するためにあるのか

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Academic year: 2022

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1 .はじめに―「日本語能力」を問う前提から

この特集のテーマは、「日本語教育が育成する日本語能力とは何か」である。

しかし、このテーマのもとで展開される「日本語能力」とはどのようなものを指すのだ ろうか。この議論は日本語教育を考える上で不可避の課題であることは間違いない。おそ らくは、この特集の問題提起の一つとして、「日本語能力」自体の概念を問い直すことが 組みこまれているはずである。

以上のような問題意識に基づき、本稿では、まず、日本語教育において「日本語能力」

がどのように捉えられてきたのかを概観し、その上で、日本語教育における筆者の「日本 語能力」観とその根拠を提示したい。さらに、「日本語教育は日本語能力を育成するため にあるのか」という疑問の下で、アイデンティティ形成に立ち会うことばの教育の観点か ら、これからの日本語教育がめざすべき方向性について論じることとする。

2.日本語能力はどのように捉えられてきたか―その画一化と社会的要因

本特集の趣旨にもあるように、日本語教育の問題は、能力評価のあり方と密接に結びつ いている。戦後の日本語教育は、戦前の植民地教育としての国語教育からの離脱という思 想からはじまった。また、当時の国語教育における文学鑑賞の世界から実際的な言語教育 へという流れの中で、日本語教育において何を教えるべきかという内容が求められたこと はいわば歴史の成り行きからして当然のことであったろう。60年代から70年代にかけて、

語彙・文型のリストが整備されたことは、このことを如実に示すものである。70年代後 半から80年代にかけて、コミュニカテイプ・アプローチの影響のもと、コミュニケーショ ン能力育成が謳われはじめた。しかし教育の現場では、コミュニケーション能力とは何か

育成するためにあるのか

―能力育成から人材育成へ・言語教育と  アイデンティティを考える立場から―

細川 英雄

1

キーワード

言語活動 環境としての場 アイデンティティ 人材育成 ことばの市民

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という本格的な議論もないまま、いわゆる文法・語彙・発音・漢字といった項目に限定さ れた運用知識を高めることがすなわち日本語能力を上げることであり、それがそのままコ ミュニケーション能力育成につながると思いこまれてきた。したがって、この分野では、

できるだけ均質な学習者集団を作るためにさまざまなプレイスメント・テストを行い、そ の集団を対象に語彙・文型を中心とした言語形式の知識を与え、画一的な方法で練習を繰 り返してきたと言える。これに連動して、従来の評価についての考え方は、学習によって 身についた能力をテスト等によって測るということを目的化して来たといえるだろう。

現実の日本語教育では、語彙・文型とその用法・機能を教えることがその教育内容に相当 するという考え方が依然として支配的である。その背景には、日本語という言語を効率 的・効果的に習得すること、させることという暗黙の了解があるように思われるし、さら に、その効率的・効果的な教授/学習のために、より優れた教育方法をめざすべきだとい う幻想が厳然と存在している。

3.「日本語能力」の解釈をめぐって―ことばの活動という行為の意味

では、特集標題の「日本語能力」はどのように解釈されるべきか。

まずは、従来の言語学での分類としての文法・語彙・音韻それに文字といった観点が考え られる。この観点は、言語の構造的側面に基づき、その構造領域の知識・情報の獲得とし て特定されたものである。

次に、コミュニケーションという観点からは、「聞く・話す・読む・書く」という四技能が 挙げられる。これは、言語による理解と表現の活動を外側から観察して得られた行為とし て着目したものである。

一方、日本語教育の目的が、言語そのものの知識の獲得ではなく、あくまでも言語の運 用にあるとするならば、その教育/学習の対象は、「言語」ではなく、「言語活動」に向け られなければならないはずである。人間の言語活動は、自己と他者の関係であると同時に、

自己の思考や内省をも含む、複雑で重層的な活動である。これは、個人の認識、思考に基 づく、論理と感覚・感情を包含した人間相互理解のための活動であり、世界諸言語による 人間の活動は、すべてこの言語活動の基盤の上に成り立っている。日本語を使用する際の 言語活動について、その言語的特徴を挙げ、日本語を特別視したり例外を認めたりするこ とは問題の本質の把握につながらない。

もしコミュニケーション能力の育成を唱えるならば、こうした「言語活動」の総体を問 題にしなければならないはずだが、上記の「日本語能力」という概念は、日本語の言語構 造上の知識または理解・表現における行為分類を示しているに過ぎない。

1970年代後半のコミュニカティブ・アプローチの思想は、言語教育の目的がコミュニ ケーション能力育成にあることへの大きな転換点となった。たとえば、ネウストプニー

(1982、1995)は、社会学者ハイムズのコミュニケーション理論をもとに、実質活動とコ ミュニケーションの構図を描き、さらに、コミュニケーションの中に、「文法能力」「社会 言語能力」「社会文化能力」のあることを指摘した。この理論は、コミュニケーションと いう行為について考えるための重要な示唆を与えた。とくに、コミュニケーション能力を

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いくつかの要素に分解することによって、その構造を明らかにしようとした点で優れた理 論であり、現在までその影響力は大きい。ただ、このモデルは、生きた動態として機能す る言語による活動の総体を全体と部分の関係から構造的に分析したもので、「文法能力」

「社会言語能力」「社会文化能力」と、具体的なことばの活動との関係については何も述べ ていない。言い換えれば、これは、あくまでも分析モデルであり、実際のことばの活動の ありようとは異なるものである。

しかし、教育実践の現場では、部分から全体への実現をめざすかの如く、「文法能力」「社 会言語能力」「社会文化能力」の諸要素を固定化してしまった。つまり、実際の活動を再 現しないはずの分析モデルを教育目的化し、その現場に応用しようとしたのである。

問題は、本来、外側からは計測できない、個人の中に内在する活動総体の一部を分析的 に取り出すことで計測したこととし、その結果を以って、それを「日本語能力」であると 断定するとともに、その計測値をあげることが「コミュニケーション能力育成」であると する考え方それ自体に所在するのである。

4 .コミュニケーション能力育成を目的としないことばの教育とは何か

では、日本語教育は何をもってその目的とすべきなのか。

前述のように、「言語活動」そのものは不可視の動態であるので、その一部を分析的に 切り取って「日本語能力」とすることは不可能である。したがって、これを教育目的とす ることはできない。

日本語能力の育成を目的としないということは、すなわちコミュニケーション能力をも その育成の目的としないということにもなる。

では、そのような「能力」育成を目的としない日本語教育とはどのようなものなのか。

それは、個人の中の一部の能力を育成するという立場ではなく、全人的なホーリスティッ クな立場で、どのような人材を育成するのかという立場である。それは同時に、学習者自 身が、どのような社会の中で、どのような個人としてあるべきかという問いでもある。

このことは単純に人間形成というような用語では解決できない。人間を形成するのは、

どこかのだれかではなく、ほかならぬ当該の個人自身であるからだ。教師は、他者として その個人の自己意識の活性化に立ち会うしか方法はないからである。しかも、こうした個 人に内在する意識の活性化は、本人にしか認識・自覚できないものであり、一方的に働き かけたところでそれがすぐさま活性化につながるとも言えない。したがって、教師にでき ることは、個人のなかの意識化が促進され、ことばによる活動が活性化するような環境 の場をつくることぐらいしかない。この環境の場をつくるということが、言い換えれば、

Mediation(仲介)と呼ばれる作業につながる(ザラト、2007)。ここにおいて、教師の役 割は、大きく見直されるはずである。

このような立場に立つと、日本語教育にとって必要なのは、言語活動の総体の活性化で あるということになる。これからのことばの教育は、一人一人の中にある能力を可視化し ようとする試みから決別し、より大きな視点での人間の教育として考えられるべきではな いかというのが本稿の提案である。

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5 .どのような環境の場をつくるかという課題―能力育成から人材育成へ

現在の日本語教育のあり方を反省的に捉え直すには、個人の日本語能力だけに着目し て、これを訓練するという日本語教育の発想を見直すことから始まる。考えてみれば、コ ミュニケーションとは、広く自己と他者の人間関係を構築する行為であると言えるし、さ らにそのことによって、共通のコミュニティを形成していく行為でもある(細川、2007)。

このことは、それぞれの価値観の交流やそれに伴う自己の内省が重要な要素となるだろう し、それはコミュニティにおける当事者自身のアイデンティティの問題とも深く関与して いることを認識しなければなるまい。

このような立場からすると、日本語教育を学習者個人の能力訓練という点だけにシフト させて考えることは、教育全体の立場を否定することになるばかりでなく、学び手として の学習者の生涯学習の方向性を見失わせる恐れも生じることとなろう。ここで重要なこと は、学習・教育・研究の場を、自己と他者を取り包む環境として捉え、この言語活動環境 としての場をどのように設定するかという課題について考えていくことになるであろう。

このことを考えるためには、まずことばの教育の目的について検討しなければなるま い。ここでは、総合的な意味での「人材育成」の観点が重要であることを指摘したい。

たとえば、日本語学習者の場合には、留学・専門分野の学習・研究・将来の職業へとい うような流れが想定できる。このような道筋において自律的に考えていくことのできる個 人を日本語教育の枠組みの中でどのように育成できるかということである。すなわち、自 らのテーマを発見・気づき、それを個人の利害だけに収束させず、社会への参加という形 で実現できる人材の育成である。ことばを学びつつ提示されるテーマは、きわめて多岐に わたる。それは、その学び手個人の過去・現在・未来の生涯ドラマの断面でもあるといえ る。その固有のテーマを他者に向けて提示するという行為によって、学び手は、自らの人 生テーマを初めて意識し、専門性への自覚および将来の職業への道筋として形成してい く。さらに、このテーマは、一人の個人として生きていくうえで、ことばの活動を自律的 に自覚し、他者・社会との関係を総合的に捉えていく個人となること、つまり、ことばの 市民としてのあり方とも連動している。

こうしたことばの教育の方向性は、言語項目のみの教授に終始してきた教師にとって は、自らの問題意識のあり方を根本的に捉えなおす場となろう。そうなったとき、日本語 教育の主たる目的は、日本語という言語を効率的・効果的に習得する/させることではな く、日本語の活動によって生じる諸問題を対象として自らのことばとは何かを徹底的に考 え、考えさせることとして浮上してくるに違いない。

ここで育成されるのは、個人の「能力」ではなく、ことばの活動のプロセスを通じて育 まれる、一個の「人材」の総体である。その育成される個人とは、自分のテーマの発見・

形成を通して、自らが帰属する社会とは何かを考える人材である。自分のテーマの発見と はまず自分の過去・現在・未来を結ぶテーマの発見であり、このテーマは自らの生活・仕 事・人生を貫くモデルとなるものであり、それは必然的に生涯を通じて学び続ける人生の 構築、すなわち生涯学習へとつながるものである。重要なことは、個人の持つ、さまざま な特性を自らデザインできるような道筋を教育研究組織として創ることであろう。このこ

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とこそ、人間のアイデンティティ形成に立ち会う教育の、本来的なあり方である。

6 .おわりに―ことばの教育の役割へ向けて

この特集の問題提起を受けて、本稿では、「日本語能力」自体の概念を問い直しつつ、

日本語教育において「日本語能力」がどのように捉えられてきたのかを概観した上で、「日 本語能力」と「日本語活動」の混同について指摘し、かつ「日本語活動」が不可視の動態 であることを述べた。さらに、標題の「日本語教育は日本語能力を育成するためにあるの か」という問いに対して、私はあえて「否」と応え、コミュニケーション能力育成という 目標自体の問題性について言及した。ことばの学びとは、ことばの活動を通して、自らの テーマを発見するとともに、それを個人の利害だけに収束させず、社会への参加の実現へ 向けて、自らを更新させていくことである。この人材の育成、すなわち、ことばの市民形 成こそ、これからの日本語教育がめざすべき新しい方向性であることを提案した。

個人の持つテーマの重要性は、言語教育という特定の分野のみならず、各教科・学科を はじめとする専門分野の教育あるいは職業訓練等のそれぞれの分野・領域においても具体 的な課題として意味をもつだろう。個人の視点を忘れた社会追従や技術主義に陥ることな く、一人ひとりの問題意識に基づくテーマの発見に根ざしたものでなければならない。む しろ、ことばの活動を通した、生涯にわたるテーマの発見こそ、人間にとって重要であり、

このことは、個人の生涯を通じてなされるべき課題であると私は考えるからである。

1 ほそかわ・ひでお(早稲田大学大学院日本語教育研究科・教授)

引用文献

ネウストプニー、J.V(1982)『外国人とのコミュニケーション』岩波新書

―(1995)『新しい日本語教育のために』大修館書店

ザラト、G「「文化リテラシー」とは何か:異文化能力の評価をめぐるヨーロッパの議論から」『変貌 する言語教育』くろしお出版、2007、pp. 116-140

細川英雄(2007)「日本語教育学のめざすもの―言語活動環境設計論による教育パラダイム転換とそ の意味―」『日本語教育』132号 79-88、2007年1月

―(2008)「日本語教育学における「実践研究」の意味と課題」『早稲田日本語教育学』3号 1-8、2008年 9月

―(2009)「実践研究は日本語教育に何をもたらすか」『早稲田日本語教育学』7号1-8、2009 年 9月

【付記】本研究は、科学研究補助金による共同研究「アイデンティティ形成にかかわる言 語教育とその教師養成・研修プログラムのための実践的研究」(基盤研究(C)、課題番号:

22520540、研究代表者:細川英雄)の成果の一部として行われるものです。資料等の詳細

については、研究室ホームページ(http://www.gsjal.jp/hosokawa/) をご覧ください。

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