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田山花袋 『東京 の三十年』 にお ける 明治の東京

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(1)

岡山大学経済学会雑誌30(3)

, 1 9 9 9, 5 7 ‑ 8 9

田山花袋 『 東京 の三十年』 にお ける 明治の東京

神 立 春 樹

1 は じめ に 2 明治初期の東京

(1) 東京の荷 (2)伯母のたたず まい (3)兄への想い 3 明治の東京一都心 と山の手 ,近郊

(1)市街 の状況 (2)山の手の風景 (3) 東京の西郊 4 庶民の生活

5 明治 の時代状況

(1) 学校 と上野図書館 (2)憲法発布の 日 (3)日清 ・日露戦争 (4)明治天皇の逝去 6 おわ りに

1

は じ め に

本稿は田山花袋の 『東京の三十年』における東京の描写の検討を行ない, これを通 じて明治の東京の特質を見ていきたい。

「その時分は,東京は泥棒の都会 ,土蔵造の家並の都会 ,参議の箱馬車の 都会 ,橋の枚に露店の出る都会であった。考‑ て見 て も夢 のや うな気がす る」で始まるこの 『東京の三十年』は,「自伝的要素を中心 とした明治 ・大正

(1)

の文壇回想録」である。そ こには

1 8 81

(明治

1 4 )

年に

9

歳の時に東京京橋の

(1) 『日本文芸鑑賞事典

6

』1 9 8 7

ぎ よ うせい

5 2 9

ペ ージ。

57 ‑

(2)

書店 ・有隣堂の丁稚小僧 として上京 ,翌年秋帰郷の後

,1 8 8 6

(明治

1 9 )

年に 再び上京 してからの

3 0

年間の作家 となってい く道程 ,文人 との交遊が記 され ているものであるが,生活の場 としての東京の街の様子 ,風俗 ,その移 り変

りを随所に描写 したものでもある。

この 『東京の三十年』は,木村礎氏が明治中期以降の東京の様子を活写 し (

2 )

ている部分がある,とその史料的重要性を指摘 されているが

,

『東京の三十 年』岩波文庫版の 「解説」において,竹盛天雄氏は 「終 りに一言 して置かね はならなぬのは,生活の場 としての東京の風俗や街の様子 ,気分などが印象 的に浮彫 りにされている点である。それを追 う花袋の視線は,下町から山手 へ,さらには新たに開けゆ く郊外にまで及んでいる。生 きものとしての都市 の発展 ,変遷がそ うさせるわけである。『東京の三十年』の意味は,この よう

(3)

な面においても見なおされるにちがいない上 と記 され ている。そ して ,こ (4)

の作品については,すでに前田愛氏によって考察 され ,杉浦芳夫氏に よって (5)

もと りあげられているO私 も

『拝借詩』‑その時代性」における考察におい (6)

て部分的に使用 した ことがあるo ここで改めて検討を行ないたい。

以下の本書の検討は,『田山花袋全集 第15巻

』( 1 9 7 4

年 文泉堂書店)に 収録 されたものに よる。引用ページはこの書のそれを示す。

(2)木村礎 「国生村‑長塚節 『土』の世界」木村礎編著 『村落生活 の史的研究』1993 八木書店 ,なお 『木村礎著作集 第八巻 村の世界 ・村の生活』1996 名著 出 版。

(3)竹盛天雄 「解説東京の三十年』1981年 岩波書店 333ページo

(4)前田愛 『幻影の街 文学の都市を歩 く』1985年 小学館,前田愛著作集 第五巻』に 抄録。

(5)杉浦芳夫 『文学のなかの都市空間』1992 古今書院。

(6)拙稿 拝借詩』‑その時代性『岡山大学経済学会雑誌』第26巻第2 1994年。

5 8 ‑

(3)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 555

2

明治初期 の東京

(1)東京 の街

本 書 の 冒頭 の 「そ の時 分

」「

川 ぞ い の家

「読 書 の声 」 は

,1 8 8 1

(明治

1 4 )

年 ・82年 の足 か け2年 間 の東 京 京 橋 の書 店 有 隣 堂 の丁 稚 小僧 の時 代 を振 り 返 った部 分 で あ る。

書 店 の丁 稚 小僧 の録 弥 ‑年 少 の頃 の花 袋 の奉 公 した店 は京 橋 の大通 の角 に あ った。 主 と して農 業 の書 を扱 って い たO 「京 橋 と 日本 橋 を 渡 ら な か っ た 日 は な かっ た」 (447ページ) , とい うよ うに毎 日得 意 先 廻 りな どを した 。

私の小 さな小僧姿を私は東京の到 るところの町 々に発見 した。最初は年上 の中小 僧に伴れ られて,或は串を曳いた り,或は本を山のや うに負った りして,取 引先や お得意の家を廻って歩いたOある冬の 日は,途中か ら俄にぼた雪になった.雪 に敷 まされて,背中には沢山な重い本 ,下駄にはごろごろと柔かい雪がたまっ て ,こけ つ転びつ して,漸 く一緒に行った番頭に扶け られて串で帰ってきた。私は まだ満九 歳十 ケ月になったばか りの幼い子供であった。 (449‑450ページ)

私の使ひに行 くところで,一番遠 いところが二箇所 あった。一つは高輪 の柳 沢伯 邸 ,もう一つは駒場の農学校であった。其処に便にや らされる時には,小 さい私 は ことに うんざ りした。表面は元気 よく飛び出 して行 くけれ ども,その道の遠 いのに はいつ もへ こたれたO殊に,高輪 と青山の丁 目の長いのが閉 口した.何丁 目,何丁 目 と書 いてあるのを兄い兄 い歩 いて行 くのであるが,それが八丁 目,九丁 目,十丁 目 と続いた。駒場の農学校は殊に遠かった。

しか し,宮坂を下 りると,あた りが何処 とな く田舎々々して来て,藁葺 の家 が あ った り,小川があった り,橋があった り,水車がそ こにめ ぐってゐた りした。私はそ こを歩 くと,故郷にでも帰って行ったや うな気が して,何 とな く母親や祖 父母 のゐ る田舎の藁葺が思い出された。小 さい私は涙な どを拭 き拭 き歩いた0

59‑

(4)

(452‑459ページ) この よ うに ,京橋 に住 み込 み東京 の街 中を ,そ して郊外 を歩 いたが , これ に よって多 くの ことを見 た。

その時分は,東京は泥浮の都会,土蔵造の家並の都会,参議の箱馬車の都会,橋の 決に露店の多 く出る都会であった。考‑て見ても夢のや うな気がする。京橋 日本橋 の大通の中で,銀座通を除いて,西洋造 りの大きい家屋は,今の須田町の二六新聞 社のところにあったケレ‑商会 といふ家一軒であったoそれは三階の大 きな建物 で,屋上には風につれてぐるぐる廻る風測計のや うなものがあった。何でも外国の 食料品か何かを売ってゐた.

三越はまだ越後屋 と言って,大きな折れ曲った店に黒い中に白く抜いた字の暖簾 が長 くか iつてゐて,中から,番頭や小僧の 「お‑,お‑」と言ふや うな一種語調の ある呼声が聞えた。通 りも狭 く,成ほどロチの眼には汚い狭い暗い東洋の都会 とい ふ風に映 じたであらうと思はれる.須田町の突当 りは,楊柳などの銘々とした広 い 火除地で,例の昔の錦絵にある東京新名物の石造の眼鏡橋が乗ってゐたO

(445ページ)

この よ うに ,京橋 ・日本橋 あた りも西 洋 造 りの大 きい建 物 は一 つ しか な く,越後屋 の昔 なが らの様 子 ,狭 い通 り,広 い火除地 な ど江戸 時代 の名残 り の多 い ことが記 され てい る。 「京橋 か ら,江戸橋 を渡っ て ,両 国橋 に行 く間 , そ の間にはいかに多 くの江戸式 の細 い露地 が縦 横 につけ られ てあっ たであろ

うか」 (449ページ),「眼鏡橋 か らずつ と上野 の広 小路へ と通 っ て ゐ る狭 い ゴ タ ゴタ した御成通 ,湯 島の切通 しの折れ 曲った細 い道」 (454‑455ページ) な どと露地 の描写 は こまかい。 「見馴れた ,大通 りばか り歩 い て ゐ るの は平 凡 で退屈 なので ,私 はめづ ら しい露地か ら露地 ‑ と後 には歩 いた」(449ページ) こ とか らの もので あ る。

大通 りには馬車が走 る。 「今 では余程 の 田舎 でなけれ ば見 る こ と もで きな

‑6 0

(5)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 557

い ガ タ馬 車 が ,例 の射 乳 を 鳴 して ,雨後 の泥 浮 の 中 を凄 し くはね を飛 して通 っ て行 っ た」 (446ページ)。

夜 の通 り,橋 の枚 に は食 べ物 な どの露 店 が 多 く出たC

夜は通 りには種 々な食物の露店が出たo飴屋 ,しる粉屋 ,おでん備酒 ,そば切 りの 屋台,大福餅 ,さういふ ものが小 さい私の軌をそ iつたO中で,今は殆 どその面影を もみせないもので,非常に旨そ うに思ほれた ものがあったO冬の寒い夜な どは殊 に さ う思ほれた。それはすい とんといふ もので,蕎麦粉か うどん粉かをかいた ものだ が,其の前には,人が大勢立って食った。大 きな井 ,そ こに入れ られたすいとんか ら は,暖か さうに,旨さ うに,湯気が立った。そ こにゐる中小僧が井を洗ふ間がない位 にそのすいとんは売れた。

京橋の橋 の西の萩には,今では場末でも見ることの出来ない牛の コマ切 の大鍋 か ら,白い湯気が立って,旨さ うな旬ひが行 きかふ人々の鼻を撲った。立派 な扮装 を した人達 も平気で其処で立って食った。

食物 と言へば,橋の歓には,大抵何処の橋の枚にも,さういふ露店が沢 山出てゐ た。今 日考へ ると,成ほ ど支那の市街 とい くらも異ってゐない。栄 口,牛別荘 ,遼陽 あた りに行 くと,今でもさ ういふ光景を 目にす ることが出来 るが,中でも日本橋 の 故 と,江戸橋の萩 と,荒 目橋の訣 とが一番盛んで賑やかであった。大 きな傘 を張っ た鶴屋 ,真鈴の大釜を光 らせた甘酒屋 ,さういふ屋台の向 うには,例の魚河岸 の 白 壁が晴れた碧い空に浮 き出 して並んでゐて,錆びた川には,伝馬や荷足が一杯 につ まって見 られた。 (447‑448ページ)

通 貨 に は天 保 銭 が使 わ れ て い た

。 1

銭牢 は

2

厘 足 りな い の で馬 鹿 者 , うつ け者 の津 名 に使 わ れ た この天保 銭 は 中 々便 利 で あ った。 豆 腐 ,蕎 麦 の も りか 汁 ,鮭 の切 身 ,湯 銭 な とがす べ て これ

1

枚 で 間 に合 った。 天保 銭 1枚 に まけ る とい うと餅 は よ く売 れ た。 (446ページ)

61‑

(6)

これ らは,その頃の東京の回想的描写である。

また

,

「両国の橋 の決は,育 ,石川雅望の書いたや うな趣 は,も うその時分 は沢山残ってゐなかったけれ ど,それで もまだ見世物はかな り残ってゐた。

セ ンチメンタルな節で客を引 くのぞ きか ら くり,大蛇 の招牌 ,不慣 な小人 島,さ ういふ ものが店を並べて,大 きな声 で客を呼んでゐた」 (449ページ),

「・‑‑薩摩原の大 きな荒涼 とした原,仲店がまだ今のや うに賑やかでな く, 観音堂の裏に,砂書 きや ,猿や ,居合抜 きや ,いろいろのもの ゝゐた浅草 の 奥山,此方の門か ら向 うの門まで,易者の店や見世物や飲食店で一杯 になっ てゐた西本願寺の境 内,・‑‑」 (454ページ),と見世物 の多か った ことを記 し ている。

この ように東京 の町中を,そ して郊外 までも歩 きに歩いた。そ して先は ど みた京橋 ・日本橋 の様子や橋 の枚 の露店 の様子大道芸な どの見世物をいろい ろ観察 した。その描写は庶民の息遣いを伝 えて くれ る。

(2)伯母のたたずまい

「川ぞひの家」 (455‑457ページ)は,深川の大工町の小名木川 ぞ いの家 に ひっそ りと暮す伯母の思い出を記 している。年末 ,主人の使いで鮭を2疋か つ ぎ,その方面に歳暮の使いに来たついでに立 ち寄 った場面である。

深川の高橋を渡 って,それについて左に行 くと大工町がある。その中名木 川に臨んだ二階屋 の入 口の格子を明けて,その板敦で,幼ない録弥が何か音 を立てていると

,

「『何だね ,録かえ・‑‑』か う言って伯母が驚いたや うな顔 を して出て来た」。鮭を2疋持 っているので驚 いたが ,ことの次第 を聞いて 安堵 し,喜んで迎 え入れて くれた。

母の姉で,や さしい芝居好 の伯母だ った。伯母はその頃,45, 6歳 ‥息子 が1人 ,娘が1人いるが,実子ではない。夫に早 く死なれて,針仕事な どを して一人で暮 していた。芝居 もよいがお銭がかか るか らと貸本屋で借 りた本

‑6 2

(7)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 559

を読 む の を楽 しみ と して い た。

この家 に は ,郷 里 か らの往 来 の ときな どに母 ,兄 な ど も立 ち寄 った 。

二階か ら眺めた小名木川の朝夕の景色は,今だに見えたo通って行 く舟 ,ギイ と いふ櫓の音 ,を りを り帆が大 きな家のや うな影を欄干に甑 らした。朝早 く音 かわ に 臨んだ家 々のまだ起 きない中か ら,「あさ り !むきみ」か う叫んで,小 さい権をあや つって,ゆたゆた と流れに漂ひなが らあさ り舟が通って行ったOそれをあち こちで 呼び留めると,小舟は静かに岸に寄って来た。舟の中はあさ りや蛤で一杯 に満 た さ れてゐた。伯母は よく呼び とめては,目ざるを持って行ってそれを買ったO

午後には,購殻町か ら出て高橋に寄ってそ して利根川へ と出て行 く小 さな汽船 が いつ も通って行ったO此汽船は私にはなつか しかった。何故なら,それは私達 が故 郷か ら乗って都会‑出て来た汽船であるか ら 川 。

母親 も私達 も田舎か ら往来す る度毎 ,いつ もこの伯母の川添ひの二階に泊 ったQ 母 と伯母は殊に仲が好かった。・‑ (456‑457ペ ージ)

幼 くして丁 稚 小僧 とな った録 弥 少 年 に と って , この伯 母 が どれ ほ どか 頼 り で あ った ろ う。 伯 母 に と って は幼 くして丁 稚 奉 公 して い る録 弥 が どれ ほ どか 不 慨 で い とお しか った こ とで あ ろ う。

いずれ共時は,御馳走になった り小道を貰った りしたであらうと思ふが ,私 はは っ き りとその時のことを記憶 してゐない。唯今 も覚えてゐるのは,私が鮭 を二疋小 さい体に負って寒 さうに出かけて行 くのを門 口に立って遠 くまで見送った伯母 のや さしい顔 ! あの世の中の敷難にやつれた雛の多い神経性のなつか しい顔 !

(457ペ ージ)

‑63‑

(8)

(3)兄への想い

「読書 の声」 (458‑460ページ)は幼 い録弥少年 の兄 に寄 せた思 いを記すC 本郷 のそ の近所 まで使 いに来 た録弥 は,「弓町三丁 目‑‑‑包 荒 義 塾 ‑‑」

とつぶや きなが らの兄 の学 ぶ包荒義塾 に兄 に会 いた くてや って きた。

湧 くや うに聞える読書の声 !

私はなつか しくなって,小さな姿を其窓に寄せた。其処には修業に出てゐる兄が ゐるのである。 しかし一面には,か ういふ小僧姿の弟を他人に見られる兄を気の毒 がって,私は公然兄を訪れて行か うとはしなかったO (458ページ)

兄 がひ ょっ くり出て来 るのを期待 した。兄 は一家 の運 命 を双肩 に担 い ,懸 命 に勉強 してい る。「下駄 を買ふ銭 もな く,着 た き りの着物 で ,ぼろ袴 を穿 い て ,そ して一生懸命 に勉強 してゐ る。それ を思ふ と,私 の敷難 な どは ,まだ 言ふに足 りない と幼心 に も私 は思った。 しか し,一面 では ,か うして兄 が勉 強 してゐ るのが羨 し く且悲 しかった」。

ふ と格子 を開けて 出て きた人 がいた。 「私 は慌 て ゝ其処 を離れた」。 しか し 兄 ではなか った。 「あの書生 が兄 だ と好 かっ た。か うまた私 は思っ た」。再 び 窓際 に近寄 ることは しなか った。 そ して あ る ことが頭 を よぎ った。

不都合があって,一時私が帰されたのを,詫びて再び其店に行った時の ことな ど が私の胸を往来 した。その時,「もう,そんな ことをす るん じゃないぞ,忘れて も・・・‑な‑‑‑」か う言って,町の裏通にある小さな蕎麦屋で,なけなしの財布の銭 をはたいて,天ぷら蕎麦を二つ奪って呉れた‑・・・O私は私の眼に涙の彦んで来 るの を覚えたOそれをまざらすために,私は路傍の小石を拾ってそして投げたo

(459ページ)

‑64‑

(9)

田山花袋 『東京の三十年』におけ る明治の東京 561

3

明治 の東京一都心 と山の手 ,近郊

(1) 市街の状況

本 書 の 「再 び東 京 へ」 か ら以後 は

,1 8 8 6

(明治

1 9 )

年 に再 び上 京 した後 の こ とを措 い て い る。

① 東 京 の変 化

「再 び東 京‑」で ,花 袋 は,「十 四年 頃 の東 京 と十 九 年 頃 の東 京 で はか な り に野 しい変 遷 を少 年 の私 の眼 に 映 じさせ た

」( 4 6 1

ページ), と記 して い る。

そ して 「明治 二 十年 頃」 とい う箇所 で ,当時 の東 京 につ い てつ ぎの よ うに 回想 して い る。

その時分は,大通に馬車鉄道があるばか りで,交通が不便であったため ,私達 は 東京市中は何処でもて くて く歩かなければならなかったC牛込の監獄署の裏 か ら士 官学校の前を通って,市 ヶ谷見附へ出て,九段の招魂社の中をぬけて神 田の方へ 出 て行 く路は,私は毎 日のや うに通った。

( 4 6 8

ペ ージ)

私は其時分か らかな りの健脚家で,東京のあちこちを地図を兄い兄いひ と りで大 抵は歩 き尽 した。高輪の泉岳寺 ,芝の公園,神明前 ,石川島,築地の居留地 ,東本願 寺 ,さういふ ところを よく歩いた。殊 に ,漢詩 と和歌 をやってゐ るので ,近 い名 所一上野 ,浅草 ,向島な どに よく出懸けた。 (470ページ)

その時分歩いた町で,私の記憶に残ってゐて,そ してすっか り変って了ったのは, 御成街道 と,湯島の切通坂 と,万世橋附近 と,浅草雷門前 と,神 田の神保町通 りな ど であった。湯島の切通の坂の細い ゴタゴタした通な どは,今でも別の世界 ではない か と思はれ る位に違って私の頭に残ってゐる。そ こには,古本屋や古着屋や が吹 き ま くる春の塵攻の中に ゴタゴタと店を並べてゐて,人が肩を摩 るや うに して歩 いて 行った。

‑65‑

(10)

御成街道 も細い道であった。幅三間位 しかなかった。従って,今 と比べて,何んな に賑やかであったろ う。人が行 く,荷馬車が行 く,やれ子供が鞍かれた,人が群かれ た といふ騒 ぎである。又軒を並べた店に も,何んなに濃やかな複雑 した不整 な不揃 ひな気分が報ってゐたであらう。汁 ,寿司,大福餅 ,鰻井 ,さ ういふ ものが古本屋 , 古道具屋 ,古着屋 と一列に軒を並べてつ i.いてゐたのであった。

眼鏡橋の橋の畔 も賑やかであったO今 日さうした光景を私は東京の何処 に求め る ことが出来るであらうかo露店 ,霞韓 ,立ん坊 ,土方 ,さ ういふ ものが橋 の歓 に一杯 に集ってゐて,橋畔にある共同便所の繁 昌は一通 りでな く,五人 も六人 も待 たなけ れば用を足す ことが出来ないといふ風であった。 まだその時分には破壊 し切れ ない 江戸の繁栄が残ってゐたのであった。 (470‑471ペ ージ)

新 しい もの と古 い ものが併 存 して い た の が か つ て の東 京 で あ った , とい う こ とを つ ぎの よ うに記 して い る。

外国風の家屋 と純 日本式の家屋 と相並んで軒をつ らねてゐるのが,その頃 の生活 の状態のシンボルを成 してゐた。それに,区劃をわけて,江戸風の町 と外 国風 の町 とが出来てゐた。一方は開け行 く形 ,一方は表へて行 く形 ,一方は急進的 ,一方は保 守的,さういふ二つの気分が東京の何処にも絡み合ひもつれ合って巴渦を巻 いてゐ るのを私は見た。

さ うか と思ふ と,麹町の番町あた りに来ると,当路の大官・・‑‑昔の書生 ‑‑の大 きな邸宅な どがあって,ひろい平坦な通を箱馬車が勇 しく駆けて行ったO参議 ,卿 か ら漸 く大臣な どといふ官名の出来た頃で,伊藤公の名誉が噴 々として社会 を圧 し

てゐた。 (471‑472ペ ージ)

東 京 の変 化 は , 田舎 か らや って来 た昔 の友 人 な どに は殊 にそ の感 が深 か っ た

。1 8 9 2

(明治

2 5 )

年 頃 に郷 里 の鹿 児 島県 に帰 って久 し振 りに上 京 して きた 友 人Tは ,昔 の跡 を さがす こ とが で き な い で ,市 街 の 中 を 彼 方 此 方 を 紡 っ

‑66‑

(11)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 563

た。 そ して 「何 も彼 も変 っ て 了 ひ ま した よ。 眼鏡 橋 (そ の言 葉 の なつ か しき よ) あた りな んか ,何 う考 ‑ て見 て も ,昔 の面 影 を さがす こ とが で き ませ ん ね 。 講 武 所 ‑ 入 っ て行 け ば ,そ れ で もい くらか そ の時 分 の さ まが残 っ て ゐ ま す け れ ど,須 田町 あた りで は , とて も昔 の こ とは考 ‑ られ ませ ん。 そ れ に , 御 成 街 道 ,浅 草 も変 りま した な。 も との狭 い通 の気 分 な どは , も う何 処 に も

あ りませ ん。 ‑‑」 と語 ったC (540ペ ‑ジ)

都会の変遷の中にゐるために,‑ ‑見馴れてゐるために,それほ どに も思はな い変化 ,その中に時は経って行 くのであった。

毎年見 る上野の花 ,向島の花だ。それでゐて,上野 も向島もその時分 とは既 に移 しく変ってゐた。上野には例の記念の黒門が既になかった。東照宮の傍の大 きな通 りな どもできた.公園の樹木は 日に月に煤個に襲ほれて枯れつ ゝある。鳥 もも う昔 私が子供で根岸にゐた時分は ど沢山集って来ない。図書館 も大 き く出来た.それ よ りも,更に更に一層変ったのは向島の花だ。多 くの工場の煤個のために,又た土手 を歩 くものの多いために,桜は年 々枯れて行って,昔は花の トンネルだ と言ほれた 言問あた りも,すっか りも う駄 目になってゐた。何 も彼 も移 り変 りつ ゝあったQ

言葉などにも,いろいろ と新 しい言葉が出来た。豆腐屋が鈴を鳴 して歩 いた り, 歯入屋が鼓を鳴 して通って行った りしたO出来た当座だけは,めず らしいと思ふが, それがす ぐ馴れて,昔か らあった もののや うに思ひ込んで了ふ。・

東京は益変 りつ ゝあったO (540‑541ペ ー ジ)

② 市 区 改正 と東 京 の変 化

其頃は東京は市区改正で喧 しかった。

明治初年の東京は,次第に新 しい 日本帝国の首都 として打建てられつ ゝあっ

土蔵造 りの家屋は 日に減って,外国風の建物は 日増に加はって行った。 日本橋 の大 通の改築が 口に上 されて,『無理に西洋風にす るのも考へ もんだ。日本風の土蔵が却 って首府の美観をそ‑てゐるぢやないか。』な どと言ふ ことが新聞な どに書かれた。

‑6 7‑

(12)

しか し新 しい東京の要求は,簸 るや うにあた りに満ちわたったO御成街道 は見 る 見る大きな通 りにな り,大通 もぐっとひろ くなって行った。橋梁のかけか‑ ,火消 地の撤廃,狭い通 りの改良,昔の江戸は日に日に破壊 されつ ゝあった。

水道工事もかな り面倒であった。私は牛込の山の手の町の通が,すっか り掘 り返 されて,全 くの泥浮に化 し,下駄でも歩 くことが出来なかったのを覚えてゐる。私 の歌の師匠の住んでいる田町の細い通などは殊にそれがひ どかった。

「丸で泥海ですなoJ

「何 うも水道工事でな。」 か う師匠も言った。

鉄管が彼方にも此方にもごろごろところがされて,泥鼠のや うになった人足が , 朝の寒空に,焚火を して,その周囲を取 り巻いてゐた りした。例の鉄管事件 な どと いふのがその頃にあったのである。

都下の五大橋 ,この内の新大橋が一番最後 まで元のまゝの木橋で残ったが,厩橋 , 吾妻橋 ,両国橋 ,新大橋 ,永代梼 ,それがすべて,古風な江戸式の木橋であった時代 が今更なつか しい。屋根舟なども,今では東京中二腹 とか三腹 とか しかないさ うで あるが,それを思ふ と,いつの間にか‑いつ変って行 くともな く変って行った東京

だ。

( 5 3 8 ‑5 4 0

ペ ージ)

市 区改正 とは

,1 8 8 8

(明治

2

1) 年

8

月1

6

日,勅令

6 2

号 を もって公布 され た

「東 京市 区改正条 令」 に も とづ く東京 都市 改造 事業 で あ る。 改正事業 の対 象 は ,旧

1 5

区 の約

7

割 強 が改正 区域 と定 め られ ,道 路

31 6

路 の新 設 ・改 修 の は か ,河川 につ いては新整 8件 ,改修

2 2

件 ,外濠整 理4件 ,さ らに橋梁 ,鉄 道 の設 計 ,公 園 の新設

4 9

カ所 (約

1 0 0

万坪),諸市 場 ・屠殺 場 計

8

カ所 ,火葬 場

5

カ所 ,共 同墓 地

6

カ所 な どの設置 が計 画 され ,直 ちに着 手 され た。市 区改 正事業 は ,以後

1 91 9

(大正

8)

年 に都市計 画法 が公布 され るまで

31

年 間 にわ た って継続 され た。結 果 は道 路

1 2 3

線 ,公 園

3 2

カ所 ,運 河 開設 な ど

7

カ所 が完 成 した はか ,上水道 私設 を完成 した。 ただ し下 水道 は大 部 分 が未完成 で ,市

‑6 8‑

(13)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 565 (7)

場 と築 港 につ い て の計 画 は着 手 され な い ま ま中止 とな った。 そ の 間 の支 出総 額3730万 円の うち道 路 費 が2596万 円 で ,総 額 の69.5%,上 水 道 費 が1043万 円

(8)

で,27.9%で あ った。 日比 谷 公 園 は こ の 改 正 事 業 の 一 環 と して 開 設 され た が,1893(明治26)年 設 計 され た もの の起 工 は1902(明治35)年4月 で あ っ

(9) た。

その頃でも,東京は,私が最初に来た頃に比べ ると,夢い く変って行っ てゐたの であった。市区改正は既にその八分を完成 し,地下の水道 も出来 ,家並な ども非常 に立派になった。四五年前に出来た 日比谷の公園 も,その時は樹木が貧弱で,何だ, これでも公園か と思ったほ どであったが,その頃はもう立派な樹木の影の多 い公 園 になっていた。戦地に行 くことが決った 日,そ こを通 ると,梅が美 しく空 に捺すや

うに咲いてゐた。 (588ページ)

③ 「東京の発展

此頃の東京の発展は 目覚 しいものであった。変遷の空気の中に浸ってゐてほ ,そ れが 目に立ってそれ とわか らぬけれ ど,田舎か らでも来て,ひ ょっ とその真 申に置 いて行かれれば,何処が何 うか さっぱ りわか らな くなったに相違なかった。市 区改 正は既に完成 され,大通 の路はひろ く拡げ られ ,電革は到 るところに,その捻 るや

うな電線の音を鞍 らせた。

明治十四年あた りの東京は ? 泥浮の道に円太郎馬車の放った東京は ? 橋 の枚 に飲食店の多 く出てゐた東京は ? 箱馬車の通った時分の東京は ?

電車が出来たために,市の繁華の場所 も,次第に変って行った。郊外に住む人 も, 買物をす るには,その近所で買はずに,電車で,市街 の中心へ と出て行った。従って

(7)『東京百年史 第二巻』1972年 東京都 1436ページC (8)前掲 (7)と同一書 1441ページ.

(9)藤森照信 『明治の東京計画』1990年 岩波書店 254ページ。

‑69‑

(14)

三越,白木屋 ,松屋などといふ呉服店も大きな構‑ となった。

主 として,電車 と交叉するところ,客の乗降の多いところ,さういふ箇所が今迄 の繁華を奪ふや うになって,市街の状態が一変 した。銀座の尾張町の角 ,神 田の須 田町,上野の広小路 ,それに見附々々の衝は昔 と丸で変って了ったQ

交通の便につれて,住民の種類の変って行 くのは,寧ろ本能的,無意識的と言っ ても好い位で,注意 して見てゐると,其処に一番烈 しい変遷の渦を巻いてゐるのを 見ることが出来た. (657‑658ページ)

東 京 での市 内電 車 の最 初 は,1903(明治36)年8月22日,東京電 気鉄 道会 社 の新橋 〜 品川 の電 車運 転 開始 で あ る。 同社 の電 車 はつ い で11月 に新 橋 〜上 野 間 ,翌1904年3月上 野〜浅草 間が開通 した。他方 ,東 京市 街鉄 道会 社 に よ る電 車 は1903(明治36)年9月 に数寄 屋橋 〜神 田間が 開通 し,つ いで 同10月

I̲lい 日比谷 〜半蔵 門間 ,同11月半蔵 門〜有楽 町 間 が開通 す るな ど続 々開通 したo なお,1906(明治39)年 の鉄 道 国有法 以前 に ,現在 の 山手線 の新 橋 〜 品川 間 は1872(明治5)年5月 ,品川 〜池 袋 は1885(明治18)年3月 ,田端 〜上 野 間 は1883(明治16)年7月 ,上 野〜秋 葉 原 間 は1890(明治23)年 11月 (貨 物 のみ),池袋 〜 田端 間 は1903(明治36)年4月 が開通 してい る。中央 線 も新 宿 〜飯 田橋 間が1894(明治27)年10月 ,飯 田橋 〜御 茶 の水 間 は同年12月 に関

目い 通 した。

著 しい東京 の変貌 を花袋 は描写 す る。

大通 も殆 ど揮て江戸時代の面影を失って了った。破壊 と建設 との相図は ,一時東 京の市街に不思議な,不統一な光景を示 したが,今ではそれも一段落ついたや うに, 不統一のまゝに落附いて了った。日比谷公園,凱旋道路 ,東京駅の大きな停車場 ,あ

(10)『東京百年史 第3巻』1972年 東京都 611ページ。による。

(ll)石塚裕道 『東京の社会経済史』1977年 紀伊国屋書店 99ページ。

‑70‑

(15)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 567

そ こいらあた りも,考へ ると,全 く一変 して了ったものだ。 (658ペ ージ)

変 化 の大 きい の は丸 の 内 , 日比 谷 の あた りで あ る。

日比谷は元は練兵場で,原の真申に大 きな銀杏樹があって,それに秋は夕 日が さ し,夏は砂塵 ,冬は泥淳で,此方か ら向 うに抜けるにす ら容易ではなかった。 こと に,今の有楽門か ら桜 田門に通ず る濠に添った路は,雨が降ると路がわ る く,車夫 は串の歯の泥浮に埋れ るのを滴 した ところである。そ してそれが砂 くとも明治二十 七八年 まで,さ ういふ風であったOそ して 日比谷の大神宮に行 く途中に,グラン ド ホテル といふ今ではあんな小 さな小 さな外国旅館なんぞ見た くて も見 られ ないや う なホテルがあった。そ こを歩いて私は中央新聞社に毎 日通勤 したO

私が東京に来た頃には,東京府庁は土橋の中にあった。その時分には,済石に,普 だ江戸の昔の空気が処 々に渦を巻いてゐて,高い火見櫓 ,大 きな乳のついた門 ,な まこじつ くいの塀な どが並んだ。確か府の中学校 もその構 内にあった。私 は一年二 季に,僅かな父親の恩給の金を其処に受取 りに行った。其頃は役人達は 日本風 の家 屋 の一部に卓を並べて,傍に本箱を置いて,小 さな硝子張 りの口か ら書類 を受渡 し

した。今では,田舎に行っても,もうさうした光景は容易に見 られない。

従って丸の内は,いやに陰気で,さび しい,荒涼 とした,寧ろ衰退 した気分が満ち わたってゐて,宮城 も奥深 く雲の中に鎖 されてゐるや うに思ほれたQ何 といふ相違 であらう。今は濠の四囲を軽快な電車が走 り,自動車が飛び,を りを りは飛行機 ま でやって来た。今ではさび しいとか陰気 とかいふ分子は影 も形 も見せな くなっ て了 った。宮城の松 ,その上に廉 く春の雲 ,遥かにそれ と仰がれる振天府 ,すっか り新 し く生々とした色を着けて来た。 (658‑659ペ ージ)

つ づ い て ,東 京 の 旧城 郭 外 の地 区 の変 化 に 目をや るO

外濠の電車の通 るあた りも,全 く一変 した。溜池‑その岸には,春はなづ菜 ,板芹

7 1 ‑

(16)

などが萌えて,都人士が摘草に よく出かけて来たものだが,それが埋立て られ て , 今の賑やかな狭斜街にな り,青山御所の向 うには,大 きな東宮御所が建築 されたQ この濠端の花の見事な ことは,今は東京名所 の一つに数へても好い位だ。弁慶橋 の 柳の録 ,春雨の梱 る朝な どは,何 とも言ほれない情趣に富んでゐるC

四谷 ,神楽坂 ,本郷 ,この三つの通 りは,城の外郭で賑やかな ところであった。四 谷はさう昔 と変ってゐない。神楽坂 も半分は元のま ゝである。 この濠端の道 , これ が随分長い殺風景な路で,春先 ,風の吹 く頃はほ こりが立って,古着屋の店 の色 の 態せた古い着物な どが柄ってゐた ものだが ,今 ではそ の面影 を見 る ことが 出来 な い。本郷の通 りは概 して幅広 くなったDあの有名な栗餅の店 ももうな くなった.

(660ペ ージ)

さ らに ,記述 は下 町 に及 ぶ 。

でも,下町 ,ことに,日本橋の奥の方に行 くと,今でも江戸の町の空気の残ってゐ るところがないでもない。親父橋 ,思案橋附近 ,横山町あた り,そ こらに行 くと,土 癖が違って並んでゐた り,大 きな問屋があった りして,何 とな く三百年の江戸 の町 の繁華の跡を見るや うな気がす る。

それか ら下谷の竹町 ,御徒町の裏通 りにも,こんな ところがあるか と思 はれ るや うな,二三十年以上 も時勢に後れた街の光景を見 ることがあるOそ こには ,江戸時 代 と言ふ よりも,寧ろ明治十五六年代の街の縮図を私に思はせる。

概 して,東京の外廓は,新 しく開けた ものだ。新開町だ.勤人や学生の住む ところ だ。そ こには昔の古い空気は残ってゐない。江戸 の空気は,文明に圧 されて,市の真 申に,寧ろ底の方に,微かに残ってゐるのを見 るばか りであるC (660ペ ージ)

そ して , この変 化 につ い て の記 述 を感 慨 を こめ て しめ く くる。

か うして時は移って行 く。あらゆる人物 も,あらゆる事業 も,あらゆる悲劇 も,す

‑7 2‑

(17)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 569

ベてその中へと一つ一つ永久に消えて行って了ふのであるoそして新 しい時代の新 しい人間とが,同じ地上を自分一人の生活のやうな顔をして歩いて行くのである。

五十年後は? 百年後は ? (661ページ) 以上の文章は明治期の東京の市街部の状況や変化をつぶ さに示す。

(2) 山の手の風景

「山の手の空気」は牛込界隈の風物をつぶ さにに描写 している。

花袋は この牛込のい くつかの所に移 り住んだ。1886(明治19)年7月14日

「一家をあげて牛込 区市 ヶ谷富久 町一二 〇番地 (会津侯 邸 内) に移 る上 1889(明治22)年 「牛込納戸町に転居上 1890(明治23)年 「牛込 甲良町に移 る」,1896(明治29)年2月 「四谷 内藤町か ら牛込区喜久井 町二 十番地 に転 居」,1899(明治32)年 「二月九 日,分家 ,太 田王者の妹 リサ (伊藤氏 ,明治 十三年十二月二十三 日生) と結婚」,1902(明治35)年 「六月十八 日,牛込納 戸町に転居」 ・ 「同月十一 日,牛込原町に転居」,1903(明治36)年10月 「十 六 日,小石川小 日向水道町に転居」,1904(明治37)年5月11日,牛込薬王寺 町に転居 ,十一月十 日,牛込弁天町に転居」,1905(明治38)年6月 「二十七 日,牛込山伏町に転居」 とい うのが,1906(明治39)年12月に東京市外代 々

(12)

木山谷132に住宅を新築 ,転居す るまでの居所 の推移 で ある。 この間 ,一 時 小石川区 日向水道町に住んだ以外は牛込 のい くつか の町筋 を転 々 ,居住 し た。

この ように牛込界隈が花袋の生活の場であった。

其処にも此処にも私がゐたC汚い袴をはいた私,す り減した下駄を穿いた私,香 白い神経質の顔をした私,髪を長 くして変な風にわけた私,兄と伴れ立って歩いて

(12)『田山花袋全集 新輯BJJ巻』1974年 文泉堂書店の 「年譜」によるO

‑73‑

(18)

ゐる私,母親 と一緒に買物に出かけて行ってゐる私 ,恋の思を闇に包んで人知れず娘 のゐる家の周岡を筋径 してゐる私,焼芋を買ってゐる私,将来の青雲を夢みつ ゝ得意 さうに歩いてゐる私,考‑出して来ると,その私は際限な く,其処の町の角 ,彼処の町 の通 ,屋敷の前などに見えた。

( 5 1 3 ‑5 1 4

ページ)

この よ うに よ く町 を歩 き,つぶ さに観察 してい る。

今でも其処に行 くと,所謂山の手の空気が私を堪 らな くなつか しく思はせ る。子 供を負った束髪の妻君,毎 日々々倦まずに役所や会社‑行 く若い人達 ,何 うして も 山の手だ。下町等では味はひた くても味ふことの出来ない気分だ。

山の手には,初めて世の中に出て行った人達の生活,新 しい不如意勝の, しか し 明るい若い細君のゐる家庭 ,今に豪 くならなければならないといふ希望の充 された 生活,さういふ気分が到る処で巴渦を巻いてゐる。その証拠には,新世帯の安道具 を売 る店 とか,牛肉の切売店 とか.安い西洋料理 とか.さういふ ものが際立って胆 に附 くのが牛込の街の特色だ.

( 5 1 3

ページ)

「牛込 で一番 先 に 目に立 つ の は」 昆沙 門 の縁 日で ,電 卓 が な い頃 は 山 の手 の人達 が神 楽坂 の通 に 出か け た ので非常 に賑 や か で あ った。大蛇 の見世物 , 露 店や植木屋 も出た. 「中町 の道 ‑ そ こは納戸 町 に ゐ る時 分 よ く通 っ た . 北 町 ,南町 ,中町 ,か う三筋 の通 りが あ るが ,中で も中町 が一番 私 に 印象 が深 かっ た。他 の通 りに比 べ て ,邸 の大 きな ものが あ った り,栽 込 の奇 麗 な のが あ った りした. そ してそ こか らは富士 の積 雪 が冬 は 目が さめ るばか りに美 し く眺 め られ た

」( 5 1 5

ページ),‑‑‑病後 の体 を母 につ れ られ て ,運 動 にそ こ此 処 と歩 いた ことが思 い 出 され る。 や き もち坂 はそ の頃 は狭 い通 で あっ た。家 もごた ごた と汚 く並 ん でゐた。坂 の中 ほ どに名代 の鰻崖 が あっ た」 (517ペー ジ)。 この よ うに牛込 の町筋 を描写 して い る。

74‑

(19)

田山花袋 『東京の三十年』におけ る明治の東京 571

この よ うに通 りに面 した 町厳 の牛 込 辺 りで あ るが ,一 歩 裏 手 に入 る とそ こ に は 自然 が い っぱ い で あ る。

柳町の裏には,竹薮な どがあって,夕 日が静かにさし紅 否そればか りか ,それか ら段 々奥に,早稲 田の方に入って行 くと,梅の林があった り,畠がつ ゞいた り,昔の 御家人の零落 して昔のま ゝ残って住んでゐるか くれた さび しい一区画があった りし たO山の手はさび しかったO早稲 田近 くに行 くと,雪の夜には狐な どが鳴いた。「早 稲 田町 こゝも都の中なれ ど雪の降る夜は狐 しぼな く」か う私は詠んだC

早稲 田の学校な ども小 さかったO建物が二つか三つぽつんと畑や田圃の中に立っ てゐた といふ風であったQその附近の町屋 も軒を並べてはゐたが,到底今 の繁華 を 夢想す ることも出来ないほ どさび しかった。生徒 も少な く,大抵は和服で ,ヒヤ メ シ草履などをはいて0君な どは通った。 (518ペ ージ)

早稲 田か ら鶴巻町へ出て来 るところは,一面の著荷畑で,早稲 田の著荷 と言えば, 野菜市場にもきこえた ものであったC私達はその署荷畑の中に細 く通 じて末 は野 の 雑木林の中に入って行 く路を よく歩いた。時には又 ,婆 さんがその取 り立 ての著荷 を寵に入れて負って売 りに来た。

静かに入って物を思った り何かす るに好いや うな林は,まだその頃はそ ここ ゝに 残ってゐた。英美の実が赤 く人知れず熟 してゐた り,初茸が出た りす るや うな松林 があった。冬は裏の林に凧が来たOそれに,その時分は一つ しかなかった山の手線 の汽車の音が,夕碁に遠 く野を掠めてきこえた。 (518‑519ペ ージ)

花 袋 は,1896(明治29)年2月 に 四 谷 内藤 町 か ら牛 込 喜 久 井 町 に 引 越 し たO そ こは あ る大 名 の下 屋 敷 の あ った跡 で ,築 山 は丘 に ,池 は 田に な って い た。屋 敷 の跡 は広 い原 で ,そ こに 1軒 ぽ っん とあ る家 を花 袋 一 家 は借 りたo 朝 に夕 にそ のひ ろび ろ した 田 と丘 とに対 して尽 きな い空 想 に耽 った。 田を越 した 向 こ うの丘 の上 の眺望 が非 常 に 良か った。 丘 の 向 こ うに は ,榛 の並 木 が

…75‑

(20)

並 び ,彼 方 の路 を通 る車 の音 が静 に秋 の空 に響 い た

( 5 1 9

ページ)0

私は一人で又は友達 と一緒に,よくその丘の上に立った。今ではもうそ うした眺 望台を私達は何処にも得 ることは出来まいと思ふ。ひろいひろい地平線の上 に漂っ た雲 ,向 うに連 りわたった 目白台の翠倣 ,下に江戸川が細 く布を引いたや うに流れ てゐるのが手に取 るや うに見えた。秋の静かな 日の夕 ぐれな どは殊に よかった。そ れに,丘の上には一面に萱原がさらさらと鳴った。

( 5 1 9 ‑5 2 0

ページ)

その丘の上か ら見 ると,桔棒 ,磨 ,私のゐる狭い書斎 ,さ ういふ ものが唯一 目に見 わたされたO又 ,反対に私の家の縁か らは,丘の上に立ってゐる人の顔が赤 く夕 日 に照されて見えた。私は月の夜な どに,榛 の林をぬけて,丘の上を通って,そ して家

に帰って来た りした。

( 5 2 0

ページ)

(3) 東京 の西郊

「川 ぞ ひ の路」 は ,西 郊 を描 写 して い る。

花 袋 は ,四谷 の大 木 戸 (四谷 内藤 町) に移 り住 ん で い た 乳

1

20

銭 の 日 給 で , さ る歴 史 家 の家 で午 後3時 まで写 字 の仕 事 を した が ,そ こか ら毎 日, 新 宿 の先 の角 等 町 の裏 を流 れ る玉 川 上 水 に添 って歩 い て行 った 。

新宿の山手線の跨切・・・‑それ も唯一線あるばか りであったが,それを越 ゆ る と, 玉川上水は美 しい水彩画のや うな光景を次第に私の前に展けて来た。槍の林 が ある と思ふ と,カサカサ と風に鳴る萱原がある。坂路にそって昔か ら住んでゐ る らしい 百姓家が一軒ぽつねんとしてある。栗の木がある。 と,帯を引いたや うな細 い水 の 流れが,渡渡 として流れてゐるのが眼に入る。

水が‑ ところ急瑞をつ くって,泡を立て ゝ流れたO

斜坂になって両方 の岸には,秋は美 しく尾花が粧点 された。橋が ところ どころに 絵のや うにか ゝつてゐた.

( 4 9 2 ‑4 9 3

ページ)

…7 6‑

(21)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 573

これ は郊外 の描写 で あ る。

「丘 の上 の家」,「郊外 の‑ 小屋 」 は ,郊外 に住 む二 人 の文 人 を尋 ね た こと につ いての もので あ る。

「丘 の上 の家」 (544‑554ページ)は 国木 田独歩 との交 遊 を 記 す もの で あ る が ,そ こは太 田玉 著 とと もに ,渋谷 の先 の国木 田独 歩 の家 の訪 問 の様 子 が記

され てい る。それ は11月 の末

,

東 京 の近 郊 に よ く見 る小春 日和 で ,菊 な どが 田舎 の垣 に美 し く咲 いて ゐた」。 この 日二 人 は道玄坂 のば れ ん屋 とい う旅 館 に逗 留 してい る宮 崎湖処 子 を尋 ね たが ,あい に く留守 で ,近 くに住 む 国木 田

し1.ll 独歩 を訪 ね た ので あ る。

渋谷の通を野に出ると,駒場に通ずる大 きな路が檎林について曲ってゐて,向 う に野川の うね うね と田圃の中を流れてゐるのが見え,その此方の下流には ,水車が か ゝつて頻 りに動いてゐるのが見えたO地平線は鮮やかに晴れて,武蔵野に特有な 林を持った低い丘がそれか らそれへと続いて眺められた。私達は水車の傍の土橋 を 渡って,茶畑や大根畑に添って歩いたC (544ページ)

二 ,三度,この辺に国木 田とい う家はないか とたずね,「ぢや,あそこだ。牛乳屋 の向 うの丘の上にある小さい家だ」 と教えられた。

少 し行 くと,果 して牛の五六頭がごろごろしてゐる牛乳屋があった。「あ ゝ,あそ こだ,あの家だ !」か う言った私は,紅葉や栽込みの傾斜の上をチラチラしてゐる 向 うに,一軒小さな家が秋の午後の日影を受けて,ぽつねんと立ってゐるのを認め た。

(13) 「年譜」に 「一八九六 (明治二九)年 二六歳 十一月,宮崎湖処子の解介で初めて 国木田独歩を上浜谷村の孤屋に訪 う」とある (前掲 (12)と同一書 279ページ)。

‑771

(22)

又少 し行 くと,路に面 して小さい門があって,傾斜の下に別に一軒また小 さな家

があるO

( 5 4 5

ページ)

そ こと思 いなが ら入 るが ,そ の家 の上 さんが 「国木 田 さん ,国木 田 さんは あそ こだ !」 と言 って ,夕 日の明 るい丘 の上 の家 を指 したO

路はだらだらと細 くその丘の上‑と登って行ってゐた。傾斜地,目もさめるや う な紅葉,畠の黒い土に くっきりと鮮かな菊の一叢二叢,青々とした菜畠‑ふ と丘の 上の家の前に,若い上品な色の白い痩削な青年がぢつと此方を見て立ってゐるのを 私達は認めた。

「国木田君は此方ですか。」

「僕が国木田。」

此方の姓を言ふと,兼ねて聞いて知ってゐるので,「よく来て呉れた。珍客だ。」と 喜んで迎えて呉れたO

( 5 4 5 ‑5 4 6

ページ)

「‑‑・縁側 の前 には ,葡萄棚 が あっ て ,斜坂 の紅秦や輝樹 を透 して ,渋谷 方面 の林だ の丘だ の水車だ のが一 目に眺め られた」 この家 は

,

「六畳一 間 ,そ のつ ぎが二塁 ,そ の向 うが勝手 となって」 いる

( 5 4 7

ページ)a

初対面 であ るのに話 ははず み , 日の暮 れ るの も忘れ て しま った。帰 り仕度 をす る と,引 きとめ られ

,

「今 ,ライス カ レーをつ くるか ら,一緒 に食っ て行 き給‑」 と言われ

,

「大 きな皿 に炊 いた飯 を明けて ,そ の中に無造作 に カ レー 粉 を混ぜ た奴 を ,匙 で皆 な して片端か らす くっ ては食っ た さまは ,今 で も私 は忘 る ゝことが 出来 ない。 『旨いな ,実 際 旨い』 か う言 っ て私 達 も食 っ た」

( 5 4 7 ‑5 4 8

ページ)0

この丘 の家 は よ く行 く所 とな り,そ こに泊 まった りす る よ うにな った。

その丘の上の家の記憶は,私にはかな り沢山ある。訪ねて行 くと,国木 田君は縁

78‑

(23)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 575

側に出て,「おーい」 と声をあげて,隣の牛乳屋を呼ぶ。そ して絞 り立ての牛乳を一 二合取 り寄せて,茶碗にあけて,それに コオヒイを入れて御馳走を した。

(549ページ)

丘の上の後の方には,今 とは違って,武蔵野の面影を偲ぶに足 るや うな林や ら丘 や ら草薮や らが沢山にあった。私は国木田君 とよく出かけた。林の中に埋れ たや う に してある古池 ,丘か ら丘へ とつ ゞく路にきこえる荷車の響 ,夕 日の空に美 し くあ らほれて見える富士の雪 ,ガサガサ と風になび く萱原薄原 ,野中に一本 さび しさ う に立ってゐる松 ,汽車の行 く路の上にか ゝつている橋 ‑さういふ ところを歩 きなが ら,私達は何んなに人生を論 じ,文芸 を論 じ,恋 を論 じ, 自然 を語ったであろ う

か。 (549ページ)

「郊 外 の‑ 小 屋」 (567‑570ページ) は柳 田国 男 の居 宅 を訪 ね た と き の こ と で あ る。

春のまだ浅いある日の午後 ,社か ら帰 りを山手線で ぐる りと品川を廻って渋谷 で 下車 した。

もう四時す ぎであった。私は停車場を出て宮益 の通‑行って,それか らかね て聞 いて知ってゐる路を左‑ と入って行ったo さび しい田舎道だ.霜解の道は まだ凍 ら ずに,靴が深 く深 く入った。私は成たけ路の好いところを拾ふや うに して歩いたo

今では,そ こはすっか り家屋が建って,小 さな工場の個突か ら細い個が願 った り す るのが電車の中か ら見えるが,その時分は,まださび しい郊外の,家 と言っ て も ちらほら藁葺の屋根が見える位のものであった。柳 田君はその時分一二 ケ月 ほ どそ この農家のある一間を借 りて,そ こか ら役所 の方‑ と通ってゐた。

まだ松岡姓で,柳 田家‑養子に行 く話のきまったばか りの時であった。今 の夫人 が十八九であったD まだお茶の水に通ってゐた。 (567ページ)

79‑

(24)

花 袋 は丸善 に寄 って ,受 け取 って きたかね てか ら注文 していた い くつ か の 本 を もっていた。

泥浮の道を通 りすぎると,大 きな棒の樹の下に,さびしい一軒の藁星があって , そこの一間に柳田君が住んでゐた.

「‑君ゐますか.」

幸にゐて,私は縁側か ら入って行った。竹薮に淡 く薄れてゐる夕 日,梅 の白 く咲 いてゐる畑 ,霜に赤 くやつれた菜畑 ,さういふものがいかにもラスチックな さび し い感 じを私に起 させた。

「好い処だね。」

「ちょっと好いだろ う?」 (568ページ)

文芸 の新 しい思潮 につ いて な ど,話 はつ きないO「其 夜 は ,夕 飯 を御 馳走 に なっ て ,夜 の更 け る まで話 した。そ して ,『泊 っ て行 きた ま‑』 と達 っ て とめ るのを ,若 い妻 が待 っ て ゐ るだ ら うと思 っ て ,最 後 の 山手 線 で新 宿 ま で 来 て ,そ こで乗替 ‑ て帰 っ て きた」 (570ページ)Q

ここに も,東 京近 郊農村 の風 景 が描写 され てい る。

花 袋 は

,

「私 は そ の前 年 の十 一 月 に ,代 々木 の郊 外 に新 居 を つ くっ た 」 (601ページ) と記す よ うに1906(明治39)年 に ,代 々木 山 谷 に 住 宅 を 新 築 し た。

‑‑・さう思って,郊外の畑の中に,一軒ぽっつ りとその新居を構へた。朝 の 白い 霜,遠 くにきこえる市声 ,場末の町の乗合馬串の倒軌の音 ,雪解のわるい路 ,それで

も私は静かに社から帰って後の時間を書斎に過す ことを得たのを喜んだ。

(601‑602ページ)

ー80‑

(25)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 577

「社 ‑ の往 復 の途 中 ,新 た に 開 け た 郊 外 の泥 浮 深 い路 を ,長 靴 か 何 か で ,‑‑‑

」( 6 0 0

ページ) と道 の悪 い ことを記 して い る。

社 とは博 文 館 で あ る。 それ は 山崎直方 ,佐藤 伝戒 を主任 とす る 『大 日本地 誌』 の編韓 の仕 事 で あ る

。1 9 0 3

(明治

3 6 )

年 か らで あ る。 日露戦 争 が始 ま っ た

1 9 0 4

(明治

3 7 )

3

月 に博 文 館 か ら派遣 の私 設第二 軍従 軍 写真 班主 任 と し て従軍 す るな ど して一 時編 纂事 業 か ら遠 ざか るが ,帰 国後 再 び従 事 した。初 め は編輯 室 は大橋 家 の邸宅 の一 室 で あ った が ,や が て小石川 の工 場 へ移 され た。

工場の空気は,0家の邸宅 とは丸で違ってゐた。そ こには午飯に食ふ旨い西洋料 理 もなければ,鰻井 もなかったo菓子などもなかったC茶はひどい番茶で,卓の上は いつ も塵攻 と煤煩 とで真黒になってゐた。

( 6 3 7 ‑6 3 8

ペ‑ジ)

『大 日本地 誌』 は あ ま り売行 きが よ くな くて博 文 館 で の継 子扱 いにな り, した が って張合抜 けが して ,あ ま り力 を入 れ られ な くな った。 会合 はだ んだ ん少 な くな り,週 1回 とな った。

一週一回の木曜 日がす ぐやってきた。「又,今 日は小石川だ.」 か う言って私は社 か ら廻って行った。工場のけた ゝましい汽笛,職工達の荒っぽい気分,煤個 ,ぞんざ いな普請から来るわるい感 じ,さういふ中で,私達は時には眠い半 日を過 し,時に は寒い一夜をすごした.退屈な写真の選択に二週 も三週 もか ゝつた りした。

「木曜 日はや り切れないな。」

か うした不平は,いつも私のロから出た。

それ も無理はなかった。私の郊外の家は遠かったC電卓から電辛‑乗 り移って, Yの停串場か ら下 りると,あた りはすっか り寝静 まって,灯影 も稀に,軒燈が唯 さ び しくあた りに輝いてゐるばか りであった。

( 6 3 8 ‑6 3 9

ページ)

‑81

(26)

4 庶民の生活

1899(明治32年)2月9日に分家 し,同月20日に結婚す るまで,花袋は田 山一家に居住を ともに していた。父を西南戦役で亡 くしている田山家の当主 は兄である. この兄の家に同居 していたのである。

兄実弥は,1880(明治13)年に館林の小学校 を卒業 し,東京本郷 弓町3丁 目の包荒義塾 (中村峰南の漢学塾)に入 る,1886(明治19)年叔父横 田良太 の旧主岡谷繁実に認め られ ,岡谷が出仕 していた修史局の書記 となる,1888

(明治21)年兄 ,叔父横 田良太の長女登美 と結婚,1891(明治24)年5月14 日 登美死去,1895(明治28)年 「兄実弥登 ,文科大学に新設 の史料編纂掛

し14、 に職を得 る」,とい う経過である。

修史局 とは官立の国史編纂所である。1869(明治2)年に史料編輯国史校 正局が和学講談所 内に設置 されたが,それはまもな く修史局 とな った。それ は2年後に修史館 と改称 された後 ,さらに1898年 (明治31)に帝国大学に移 管 されて臨時編年史編纂掛 と称 した後 ,史料編纂掛 とな った。後 の東京大学

(15)

史料編纂所である。実弥が どの ような身分であったのかは不祥であるが ,‑

公務員であることには相違ない。

憲法発布の 日,一家は牛込納戸町に居 たOそ の ときの住 いは

, 2

, 6

壁, 4畳半 の3間 で ,ここに兄 夫婦 ,母 ,花袋 ,弟 が一緒 に住 んでい た

(466ページ)。場所 は牛込の中町の通 りがほぼつ きようとす る所 にあ り,大家 は大蔵省の属官を勤める人である (516ページ)0

七円位の家賃の狭い家屋,庇の低い暗い室,さういふところに住んでゐてさへ, 兄の月給では,生計が月々足 りないので困るほど私の家も貧しかった。

(14)前掲 (12)と同一書の 「年譜」による。

(15)角川 日本史辞典』1966年 角川書店。

‑82‑

(27)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 579

(481ページ)

牛込 の甲良町 に一家 が移 った のはそ の翌年 であ った。家賃 が高 い とい うの で この甲良町 の親類 の借家 に移 った。 「そ の 甲良町 の家 は二 間 しか なかった。

長火鉢 の置 いて ある方 が六 畳 ,座敷 が八畳」 とい う狭 い家 であ った。 ここに 兄夫婦 ,母 ,弟 ,そ して録弥 の5人が生活 した。「母 と姥 と兄 との間柄 が 円満 に行 かなかった」 とい うが ,それは狭 隆 な住 い と家計不如意 のゆ えで もあろ うか. ここで兄嫁 は死去 したO花袋 と弟 は腸 チ フスにかか った。 (481‑482 ページ)

‑‑その座敷の裏の奥の所に面 した窓のところに,私は机を置いて,精 々と筆を 動かした り,限 りな く甘い空想に耽った りした。机を押 しつけて置いたところが壁 で,右の障子に一枚硝子が大きく入ってゐたが,その障子を透 しては何もない狭い い小さな庭が見えた.そこで私はよく涙を流 したC思ひのまゝにならぬ涙 ,少女 にあこがれるゝ涙,姪の不意の死に対する涙,社会に出て逸早 く成功 した人達を羨 む涙,家計の貧 しさを悲 しむ涙,焦せっても自己の力の足 りないのを悲 しむ涙‑‑。

(482ページ)

納戸町 にい る頃 ,弟 と2人 で神 田に ある英語 の学校 に通 った。 「牛 込 の監 獄 の裏 か ら士官学校 の前 を通 っ て ,市 ヶ谷見付 ‑ 出て ,九段 の招魂社 の中を ぬけて神 田の方 ‑行 く路 は ,私 は毎 日のや うに通 った」 (408ページ)。道 が遠 いので帰 りは腹 がへ って困 った。途 中にあ る菓 子屋 , ことに倍 パ ンを売 る店 の前 では ,銭 が あ る とつ い買 って しま う。 家 が近 くな る と ,豆 腐 だ ,いや 香 々だ と昼食 のおかず のあて っこをす る。

豆腐の煮やつこ,油揚の焼いたのかがある時は,それでも御馳走であったo大抵 は沢庵の漬物か赤潰豊かで,さらさらと飯を食ったO (469ページ)

‑8 3‑

(28)

半ば居候的な弟である録弥がいることに よっていっそ う逼迫 したであろ う が,この録弥を抜 きに しても,この‑俸給生活者である実弥の家族の生活は 逼迫 していたであろ う。 この家族の生活の描写は,当時の庶民の生活状況を 示 しているといえる。

5

明治 の時代状況

(1) 学校 と上野図書館

丁稚小僧の時,兄が学んでいる包荒義塾を,そ っと訪れた。一家の運命を 担 って必死に勉学に励む兄の苦労を思 うとともに,兄を羨ましく思 った録弥 である。

花袋は,16歳のとき,陸軍軍人を志 し,士官学校 (または幼年学校)にそ なえて麹町中六番町の促成学館に学び,18歳にその受験に失敗 した後 ,神 田 仲猿楽町の 日本英学館 (後の明治学館)に移 って英語を学ぶ。20歳のとき, 弁護士た らんとして 日本法律学校 (いまの 日本大学)に入学 したが,学資が

(16)

続かず退学 した とい うようにい くつかの学校で学んだ。その一つの学校の様 子をつぎのように記 している。

「私 と弟 とは一緒に神田にある英語の学校に通った」 (468ページ)。その学 校は

,

「自由党の時の有力者林包明といふ人の建てたもので ,星亨 な どが顧 問であった。あの学校は後に,佐 々木侯爵の子息の学校になって,明治学館 と言ほれたが,砂 くともそ こで三年はど私は英語を習った」(472ページ)

,

「私 は会話や英文法の時間には,いつ も欠席 したO会話な どは私には何 うでも好 いといふ気が してゐた。で,私は教場の上草履のま ゝで,神保町通や小川町 通を歩いた。貧 しい書生達に取って幸ひなことには,その小川町を少 し行っ て右に折れて又左 にち ょっ と入った ところにいろは屋 といふ貸本屋があっ

(16)前掲 (12)と同一書の 「年譜」に よる。

‑841

(29)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 581

た。今 では本 の代価 を私 は な いでは貸 して呉 れ る貸本屋 もな いや うだ が ,そ の頃 はそ の金 が な くつ とも ドシ ドシ借 りて来 られ た。 ‑‑」(472‑474ページ)

「上 野 の図書 館」(488‑491ページ)は ,上野 の図書館 とそれ をめ ぐる ことか らを記 して い る。

上野の図書館は,其時分はまだ美術学校の裏の方にあったC私に取っては,その 図書館は忘るべからざるものの一つである。私は一週に二三度は必ず牛込 の山手か らて くて くと其処へ出かけて行った。

五銭出して,後には私は二階の特別閲覧室に行ったo大きな硝子窓,白いカアテ ン,外にざわざわ動いて見える新線,キラキラする日影 ,その窓際で,私は終 日長 く 本を読んだ り空想に耽った りした。

閲覧者は大勢居るけれ ども,少 しでも声を立てると,しっ と言ほれるので ,室 内 は水を打ったや うに静かで,監視のを りを り静かに通って行 くス リッパの音が きこ えるばか りであった。

こ こで若 き花 袋 は本 を読 んだ。 「私 は近 松 ,西 鶴 を す べ て 其 処 で読 ん だ 。

『国民 之友』 に 出た慶 花 君 の翻 訳 に なっ た六 号活 字 の外 国文 学 の紹 介 ,それ は殊 に私 に は有益 で あっ た上 「ツル ゲ ネ フ の 『猟 人 日記 』 の梗 概 ,中 で も

『山番』 の紹介 が私 を驚 か したD私 は段 々 トル ス トイ , ドス トイ ェフ ス キ ィ , ゴー ゴ リな どといふ ロシア文学 の作 家達 の名 を知 っ た上 「トル ス トイの

『戦 争 と平 和』 の英訳 は ,其 時 分か ら図書館 に あっ た。 で ,私 は半 分位 しか わか らなかっ たけれ ど,兎 に角 毎 日行 っ てそれ を読 んだ」 (488‑489ページ)。

兎に角,私は図書館に三年四年を送ったo矢張,その時分にも電車はないので,私 は東照宮の階段を下 りて,不忍池を ぐる りと廻って,そ して本郷の通か ら牛込 の方 へと歩いてて くて く帰って来た。途中,さまざまの空想やら妄想や ら,乃至は小説 の構成などに頭を一杯に して・‑‑Q過ぎ去った昔 よ,なつか しい昔 よO

(491ページ)

8 5 ‑

(30)

( 2 )

憲法発布 の 日

1 8 8 9

(明治

2 2 )

2

月11日,大 日本帝 国憲法 は公 布 され た。「議 会 の開会式 や ら何 や ら, さ ういふ祝 日が其所 に沢 山に あっ たけれ ども,私 は何 も覚 え て 居 なかっ た。唯 ,憲法発布 の 日,そ の 日の雪 を私 は覚 えて ゐ る

」( 4 6 6

ペ ージ)

とこの 日の こ とを花 袋 は記 して い る。

その前の日から俄かに雪模様になったが,夜は人通 りが絶える位に,凄 しい雪 に なった。

「生憎だな,目出度い日だ と言ふのに。」 か う私の母は言った。

私の家は,共時は,田舎か ら出て来た最初の山の手の奥の家か らN町‑ と引越 し てゐた。兄 と結婚 した従妹の丸常には,赤い派手な手絡がかけられあった。二畳,六 畳,四畳半の三間。

それほどに降 り凍った雪 もそれでもあ くる朝はか らりと晴れて,路は泥浮 ではあ るけれ ども,下町の方へ祝典を見に出かけて行 く人達が沢山あった。 日本橋 ,京橋 には屋台だの芸者の手古舞だの茶番だのがあって,賑やかだ といふことであった。

「行って見ないか,録。」

兄 も母 もか う言って勧めて呉れたけれ ど,私は丁度何か文章か詩かを昨夜か ら作 ってゐたので,「面倒臭い」と言って,終 日家に引寵って暮 した。兄は弟をつれて賑 かな方‑と出かけた。

( 4 6 6 ‑4 6 7

ペ 」ジ)

近 所 の町 々で も巷 々の祝典 の催 しが あ った。所 々に で きた屋 台か らは賑 や か な太 鼓 や噺 の音 が 聞 えて きた。 余 りに人 が 出てい くの に つ られ て 花 袋 も ,

「泥浮 と残雪 との午 後 の 日影 の中を ,通 りの方 ‑ と出て行 っ た」。仮 装 の行 列 が通 って行 った

。 ( 4 6 7 ‑4 6 8

ペ ージ)

‑8 6‑

(31)

田山花袋 『東京の三十年』における明治の東京 583

(3) 日清 ・日原戦争

「出発 の軍隊 (日清戦争)」 (498‑500ぺ‑ジ) 「陣中の鴎外漁史」 (570‑576 ページ)は二つ の戦役 に言及 した箇所 である。

それに砲兵工廠の活躍 した媒煩の光景は,今でも私の眼にちらついて見えた.勿 論,その時は日番の戦役の時ほどではなかったけれど,それでもその水道橋 ,小石 川橋の一区劃は,青い,黒い,白い媒個で凄 じく塗 りつぶされてゐるのを私は見適 さなかったO (499‑500ページ)

日露戦役 には ,博文館か ら派遣 の私設第二軍従軍写真班主任 として従軍 し た。宇治か ら戦地に出発す る前 ,広 島で軍 の軍 医部長 の森鴎外を宿所 に訪ね た。初対面 であるのに ,鴎外か ら 「ま ァ,此処‑来た ま‑。花袋君だね ,君 は?」 といわれたが,「この 『花袋君だね君 は ?』 が非常 に嬉 しかった上 と 花袋 は記 してい る (573ページ)。

( 4 )

明治天皇の逝去

「号外売 の声 ,それ も戦時に於 け るや うな賑やかな声 で もな く,さ うか と 言って ,小 さな事件を大 き く誇張的に報道す る浮 はついた声で もな く,政治 の変革 を報ず る物めづ らしさといふ声 で もな く,何処 とな く沈み切った悲痛 な号外売 の声が街路を走って通って行った」(684ページ)では じまる 「明治天 皇 の崩御」 は明治天皇 の逝去をめ ぐる感慨を記 した ものである。朝 ,郵便箱 の所 に行 く。 「崩御 の号外がそ こに入ってゐた。『あ ゝた うと う御か くれにな ったか。』か う思ふ と,何 とも言ほれない気が したOいろいろな ことが胸 に一 緒 に ごた ごた と集って来た上 「私 は黙然 として立尽 した。親 しみの多 い,な つか し味の多い,恐れ多 いが ,頼 りに も力に もし申上げた私達 の明治天皇は 崩御 された !」 (685ページ)O

明治天皇の逝去 は7月30日である。 「その夏は雨 の多 い い夏 で あ った。 天

87‑

参照

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