承久の乱後の王家と法親王 : 後高倉王家の事例か ら
著者 曽我部 愛
雑誌名 人文論究
巻 59
号 4
ページ 64‑81
発行年 2010‑02‑20
URL http://hdl.handle.net/10236/8506
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
││ 後 高 倉王 家 の 事例 か ら
││
曽 我 部
愛
は じ め に 法親
王は 院権 力に よる 顕密 仏教 統制 を目 的に
︑白 河院 によ って 創出 され た制 度と され る︒ 平田 俊春 氏に よっ て先 鞭 を つけ られ た法 親王 につ いて の研 究は
⑴
︑平 岡定 海氏 や平 雅行 氏ら によ っ てそ の 国 政 上・ 宗教 統 制 上の 意 義 が積 極 的 に 評価 され ると
⑵
︑そ の後 は法 親王 の初 例と され る覚 行が 仁和 寺御 室で あ った こ と か ら︑ 仁和 寺 御 室の 成 立 から 法 親 王 の創 出過 程を 論ず る視 角の もと に研 究が 進ん だ⑶
︒ 特に
︑横 内裕 人 氏が 仁 和 寺 御室 は
﹁院 権 力の 分 身﹂ と して 院 権 力 を護 持す る宗 教権 門で あり
︑院 権力 はミ ウチ 僧た る御 室を 通じ て中 世仏 教界 を王 家と いう イエ に包 括し よう とし た と 指摘 して いる こと は重 要で ある
⑷
︒他 方︑ 御室 以外 の法 親王 や院 政期 以降 の 法親 王 に つ いて の 研 究は 立 ち 後れ て い る
︒そ のな かで
︑鎌 倉時 代の 天台 系法 親王 の分 析か ら︑ 法親 王の 有す る寺 院勢 力統 制の 機能 及び 貴族 社会 にお ける 政 治 性を 積極 的に 評価 した 安達 直哉 氏の 研究 は注 目さ れる
⑸
︒安 達氏 の指 摘 は仁 和 寺 御 室の み な らず
︑延 暦 寺 など の 権 門 寺院 に配 され た法 親王 をも 含め て︑ 総体 とし ての 法親 王を 論じ るこ との 必要 性を 促す もの であ ろう
︒な によ り院 政 が 中世 前期 を通 じて 公家 政権 の基 本と なる 政治 形態 であ った こと を勘 案す れば
︑そ の政 治形 態と 不可 分の 関係 にあ る
六 四
法 親王 につ いて 広く 分析 を行 うこ とは
︑中 世前 期の 王家 の存 在形 態を 考え るう えで も有 益で ある
︒ そこ で本 稿で は鎌 倉期
︑特 に承 久の 乱後 に成 立し た後 高倉 王家 の法 親王 達を 素材 とし て検 討す るこ とに した い︵ 以 下
︑︻ 系 図︼ 参照
︶⑹
︒ 後高 倉院
︵守 貞親 王︶ は︑ 承久 三年
︵一 二二 一︶ の承 久 の乱 に お け る後 鳥 羽 皇統 の 断 絶を 受 け て
︑太 上天 皇の 位を 贈ら れ院 政を 開始 した
︒そ して 後高 倉院 と妃 北白 河院 の間 に誕 生し た三 人の 皇子 うち
︑年 長の 第 一 皇子 尊性 と第 二皇 子道 深は すで に出 家し てい たた めに 天皇 候補 とな りえ ず︑ 第三 皇子 茂仁 が後 堀河 天皇 とし て即 位 す る︒ その 結果
︑尊 性・ 道深 は後 堀河 即位 後の 同年 十月 に親 王宣 下 を受 け
︑法 親 王 とな っ た ので あ る⑺
︒ こ のこ と は 後 高倉 王家 が乱 以前 には 皇位 皇統 とは 無縁 の存 在で あり
︑尊 性達 が法 親王 とし ての 基盤 を何 ら保 持し てい なか った こ と を端 的に 示し てい よう
︒こ のよ うな 成立 事情 をも つ後 高倉 王家 の法 親王 を取 り上 げる のに は二 つの 理由 があ る︒ 一 つ は法 脈や 師資 相承 の過 程︑ 天台 座主 や仁 和寺 御室 とい う立 場か ら個 別に 言及 され てき た従 来の 鎌倉 期法 親王 研究 に 対 し︑ 法親 王を
﹁親 王﹂ とし てひ とつ の王 家の 構成 員と いう 枠組 みの 中で 考察 する 目的 から であ る︒ いま 一つ は鎌 倉 期 固有 の皇 統の 問題 から であ る︒ 承久 の乱 と四 条天 皇の 夭折 は鎌 倉期 の王 家に 二度 の皇 位皇 統の 変化 をも たら した
︒ 法 親王 創出 の本 義が 白河 の王 権護 持と その 正当 化を 図る こと にあ った と の指 摘 を 踏 まえ る な らば
⑻
︑後 高 倉 王家 は 承 久 の乱 によ って 一度 リセ ット され た皇 位皇 統が 新た に一 から 歩み 始め た事 例で あり
︑そ の過 程に おけ る法 親王 の動 向 の 検討 は︑ その 存在 意義 と王 家の 存在 形態 を探 る点 から も重 要と 考え る︒ そこ で以 下︑ 本稿 では 後高 倉王 家の 法親 王 の 顕密 寺院 諸職 をめ ぐる 二︑ 三の 具体 事例 から 右の 問題 を考 察す る︒ 承
久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
六 五
一︑ 道 深 法親 王 と 東大 寺
・ 仁和 寺
︵1
︶東 大寺 東南 院院 主職 寛喜 三年
︵一 二三 一︶ 三月
︑国 母で ある 北白 河院 の御 所持 明院 殿に 東大 寺衆 徒が 群参 し︑ 同寺 領播 磨国 大部 荘の 預 所 職治 部卿 局の 非法 を訴 える とい う事 件が 起こ った
⑼
︒こ れは 治部 卿局 の年 貢 未進 に 基 づ く前 年 来 の東 大 寺 側の 預 所 職 改替 要求 にお いて
︑北 白河 院が 自身 に仕 える 女房 であ る治 部卿 局を 擁 護し た こ と に起 因 す る⑽
︒ した が っ てこ の 事 件 は東 大寺 衆徒 と北 白河 院と の対 立と も捉 える こと がで きる が︑ その 背景 に先 だっ て起 こっ てい た東 大寺 東南 院院 主 職 をめ ぐる
︑東 大寺 と道 深法 親王 及び 後高 倉王 家と の対 立が 存在 して いた こと に注 意し なけ れば なら ない
︒そ こで 以 下
︑道 深の 東南 院院 主職 相続 をめ ぐる 事例 を検 討す る︒ なお この 相続 問題 につ いて は︑ すで に平 雅行 氏︑ 遠藤 基郎 氏 に よる 先行 研究 があ るが
⑾
︑本 稿で は道 深と 後高 倉王 家の 動向 に注 目し 事態 の推 移を 追う こと にし たい
︒ 道深 は建 永元 年︵ 一二
〇六
︶に 誕生 し︑ 建保 四年
︵一 二一 六︶ 十二 月に 仁和 寺で 御室 道助 法親 王を 戒師 とし て出 家 し たの ち︑ 東大 寺で 受戒 し︑ 同寺 東南 院に 入室 して いる
⑿
︒道 深の 東南 院 院主 定 範 の もと へ の 入室 は
︑将 来 の院 主 継 承 者と して のも ので あっ た︒ しか し承 久三 年︵ 一二 二一
︶に 起こ った 承久 の乱 によ って 状況 は一 変す る︒ 仁和 寺御 室道 助の もと に次 代御 室と し て 入室 して いた 順徳 院皇 子尊 覚は
︑乱 によ って その 立場 を追 われ
⒀
︑替 わっ て 道深 が 御 室 後継 者 と して 位 置 付け ら れ る こと にな った ので ある
︒道 深は 同年 十月 十三 日に 親王 宣下 を受 け︑ 同二 十一 日に 南都 から 仁和 寺に 入っ た︒ これ は 換 言す れば
︑承 久の 乱に 起因 する 皇位 皇統 の変 化に よっ て︑ 新た な皇 統の 法親 王た る道 深が 次代 の仁 和寺 御室 に設 定 さ れ た の であ る
︒道 深 の立 場 の 変化 は 東 南 院に 大 き な影 響 を 与 えた
︒東 南 院 門 徒 は︑ 三 論・ 真 言 両 宗 を 兼 学 し﹁ 常
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
六 六
住
﹂を 原則 とす る東 南院 院主 職と 仁和 寺御 室 職 と は﹁ 不レ
能二
御兼 帯一
﹂ と して
︑新 た な 院 主後 継 者 を後 高 倉 院に 要 求 し
︑結 果
︑久 我 通 親息 定 親 が後 継 者 とさ れ 定 範 のも と に 入室 し た の であ
る⒁
︒と こ ろが 定 範 が嘉 禄 元 年︵ 一 二二 五
︶ 二 月に 死去 する と︑ 決着 した はず の院 主職 相続 問題 が再 燃す る︒
﹃ 明月 記﹄ 同年 三月 九日 条に は︑
︵ 後 高 倉 院
︶
定 範法 印東 大寺 東南 院 門 跡︑ 可レ
為二
仁和 寺 宮 御沙 汰一
由︑ 法皇 御在 世 之 時︑ 進二
証 文一
了云 々
︑日 来 伝聞
︑南 京 頗 憤 思云 々︑
︿ 南京 事︑ 可レ
為二
仁 和寺 御領
一
事
﹀︵ 割 注│ 筆者 注︒ 以下 同︶ と あり
︑定 範は 後高 倉の 存生 中に 仁和 寺宮 道深 への 東南 院相 続を 証文 を以 て約 して いた とい うの であ る︒ これ はつ ま り 東南 院を 仁和 寺の もと に置 くこ とに 他な らず
︑当 然の こと なが ら東 南院 門徒 をは じめ とす る東 大寺 側の 激し い反 発 を 招く こと とな った
︒こ こに 定範 の証 文を もと に権 利を 主張 する 道深 と︑ 生前 の後 高倉 の承 認を 拠り どこ ろと する 定 親
・東 大寺 衆徒 らと の対 立が 表面 化す る︒ そう した 状況 のな かで 同年 十一 月︑ 定親 の濫 妨を 停止 し︑ 道深 に東 南院 門跡 房舎 聖教 なら びに 附属 荘園 二十 八ヶ 所
│ すな わち 院主 職│ を安 堵す る旨 の後 堀河 天皇 宣旨 が出 され た⒂
︒ この 宣 旨は 記 載 さ れた 内 容 から
︑道 深 の 十月 三 十 日 付の 解状 に応 じる かた ちで 出さ れた こと が判 明す る︒ ここ で注 目さ れる のが
︑定 親を
﹁偸 相二
語 院内 僧徒
一
︑ 不レ
帯二
一 紙之 証文
一
︑无
二
指 道理
一
︑恣 可レ
補二
彼 院主 職一
﹂ と 非難 し
︑﹁ 永 禁二
遏 定 親之 奸 謀一
︑ 都 停二
止 甲 乙押 妨一
﹂ す るこ と を 求 めた 道深 の解 状を 認め る︑ この 官宣 旨が 出さ れた 背景 であ る︒
﹃ 明月
記﹄ 同 年十 一月 十六 日条
には
﹁ 可レ
被レ
下二
官符
一
之 由母 后骨 頂給
﹂と あり
︑官 宣旨 は﹁ 母后
﹂北 白河 院が 道深 への 院主 職相 続を 確た るも のと すべ く︑ 後堀 河に 迫っ て 出 させ たも ので ある こと がわ かる
︒﹃ 明 月記
﹄同 日条 の記 事は その 経緯 を以 下の よう に述 べて いる
︒ 去 比公 家可
レ
被レ
進二
請 文一
之由 有二
其 沙汰
一
︑自
二
女院
一
被レ
奉二
其 草一
︑披 見 之 処︑ 無 品法 親 王 庁申 解
︑端 書 以下 文 章 極 不二
尋 常一
︑此 事 摠無
二
先 例一
之 間︑ 極 難レ
量二
可否
一
︑又 視 了已 講
︿通 親 公 子︑ 維摩 当 講﹀ 有二
摧 折 詞 等一
︑又 約 而
︵ 直︶
入二
定範 室一
由載
レ
之︑ 云レ
彼云
レ
是︑ 事頗 軽々
︑御 室聞 食召
二
大 蔵卿
一
︑被
レ
逢二
此御 方一
︑且 相計
︑見 苦文 章等 令レ
置レ
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
六 七
︵ 直
︶
之
︑被
二
清書
一
進 令レ
参二
高 野一
給 之間
︑於
二
女 院一
又 被レ
置二
其 状一
︑只 如レ
本 書成 被レ
進︑ 随被
レ
成二
官 符一
了︑ 而寺 衆 徒 蜂 起︑ 打二
付 大仏 殿一
可二
逐 電一
云々
︑ す なわ ち北 白河 院が 草案 を成 した 無品 法親 王庁 解は 極め て違 例な もの であ り︑ また 道深 によ る院 主職 相続 の正 当性 を 支 持す るも ので もあ った
︒興 味深 いの は︑ これ を聞 いた 御室 道助 が文 章等 を訂 正・ 清書 した にも 関わ らず
︑北 白河 院 は 道助 が清 書し た草 稿を 再び 当初 の状 態に 直し
︑そ れに した がっ て官 符が 出さ れた とい う点 であ る︒ 道深 のみ なら ず 北 白 河 院 も院 主 職 相続 に 一 方な ら ぬ 意 欲を 燃 や して い る こ とが う か がえ よ う︒ し かし こ の 宣 旨は 事 態 の収 拾 ど こ ろ か
︑か えっ て東 大寺 衆徒 等の 強訴 を引 き起 こす
︒事 態の 悪化 を憂 慮し 御室 道助 や仁 和寺 側も この 官宣 旨の 受け 取り に 慎 重な 対応 を求 めた が︑ 道深 およ び北 白河 院は それ を無 視し てい る︒ 十二 月に 入る と︑ 十六 日に は興 福寺 衆徒 等が 先の 官宣 旨の 取り 消し を求 めて 関白 近衛 家実 邸に 群参 し︑ 裁許 が無 け れ ば東 大寺
・興 福寺 を焼 払う と迫 った
⒃
︒こ れは 東南 院主 が三 論宗 長者 で ある こ と に 由来 し 東 大寺
・興 福 寺 が行 動 を 一 にし たも ので ある
︒し かし
﹁北 白河 院・ 彼宮
︑全 無二
御 承引 之気
一
﹂ とい う有 様で
︑さ らに 道深 は東 南院 の所 領支 配 に 関す る文 書を 仁和 寺に 運び
︑親 王庁 下文 によ って
﹁住 京輩
﹂に 所領 の 充行 い を し てい
る⒄
︒二 十 三日 に は 北白 河 院 近 臣の 大炊 御門 光俊 が同 院の もと に⒅
︑ 翌日 には 藤原 定家 が尊 性法 親王 のも と に参 上 し て それ ぞ れ 院主 職 放 棄を 訴 え た
︒近 臣達 のみ なら ず︑ さら には 関白 家実 や関 東申 次の 立場 にあ った 西園 寺公 経ま でも が院 主職 放棄 を促 すに 至り
︑ つ いに 道深 と北 白河 院は 院主 職を 手放 すこ とに なる ので ある
︒し かし 道深 の放 棄後 も相 続問 題は 紛糾 し︑ 翌年 にな っ て よう やく 定範 の門 弟で あっ た道 快へ の相 続が 決定 して いる
︒こ れは 北白 河院 が定 親の 相続 にあ くま で反 対し たこ と も 要因 のひ とつ であ った
⒆
︒ この 東南 院院 主職 をめ ぐる 問題 から は︑ 次の 二つ の点 が指 摘で きる
︒ま ず一 点目 は︑ 生前 の後 高倉 の決 定を 翻し
︑ 東 大 寺 や 仁和 寺 内 部の 反 対 を退 け て ま で院 主 職 の兼 帯 を 図 ろう と す る道 深 及 び北 白 河 院 の姿 で あ る︒ そし て そ こ に
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
六 八
は
︑時 の東 大寺 別当 成宝 のよ うに 東大 寺内 部に も後 高倉 王家 側の 動き を支 持す る勢 力が 存在 して いた こと を見 逃し て は なら ない
︒遠 藤氏 も指 摘す るよ うに
︑皇 位皇 統た る後 高倉 王家 と結 びつ きを 深め
︑法 親王 を入 寺さ せる こと で東 南 院
︑ひ いて は東 大寺 の寺 格を 高め よう とす る動 きも あっ たこ とも 事 実で あ ろ う⒇
︒ つ づい て 二 点目 は
︑こ の 相続 問 題 は 公家 政権 と権 門寺 院間 の問 題に 留ま らず
︑そ の過 程で 幕府 を巻 き込 んで いる こと であ る︒ 具体 的に は︑ 定親 や道 快 は 相論 の過 程で
︑幕 府僧 定豪 を頼 って いた
︒定 豪は 当時
︑幕 府の 権威 を 背景 に 畿 内 寺院 諸 職 に介 入 し てお
り
︑東 南 院 相続 問題 も幕 府の 権威 を背 景に した 定豪 達と
︑道 深と の対 立構 図と して 捉え るこ とが でき る︒ そし て道 深自 身が 後 年
︑定 豪の 妨げ によ り院 主職 相続 が叶 わな かっ たと 認識 して いる こと は︑ こう した 問題 にお ける 幕府 の影 響力 を考 え る うえ で重 要で ある
︒
︵2
︶仁 和寺 御室 職 次に 東南 院問 題の 発端 にな った 仁和 寺御 室職 につ いて
︑道 深に よる その 継承 の過 程を 検討 する
︒仁 和寺 御室 道助 法 親 王の もと に入 室し てい た道 深に
︑最 初に 伝法 灌頂 の話 が持 ち上 がっ たの は嘉 禄二 年︵ 一二 二六
︶二 十一 歳の 時で あ る
︒﹃ 明 月記
﹄同 年五 月二 十日 条に
︑
︵ 北
︶
廿 日︑
︵ 中略
︶午 時許 覚法 眼来 談︑ 去比 関白 殿以
二
助清 朝臣
一
︑ 宮早 速可
下
奉レ
授二
灌 頂一
給上
由
︑自
二
比 白河 院一
度 々被
レ
仰
︑雖
下
不レ
知二
案 内一
事上
︑ 依二
頻仰 詞一
加レ
詞 由令
レ
申歟
︑ と みえ るよ うに
︑道 助の もと に関 白近 衛家 実が
︑道 深に すみ やか に灌 頂を 授け るよ うに 北白 河院 が頻 りに 催促 して い る 旨を 伝え てき たの であ る︒ 北白 河院 の執 拗な 催促 に困 惑し てい る家 実の 姿が うか がえ る︒ この 情報 を藤 原定 家に も た らし た︑ 史料 中の
﹁覚 法眼
﹂と は︑ 道助 の房 官と して 中心 的立 場に あ った 覚 寛 と いう 人 物 であ
る
︒し た がっ て こ の 情 報 は 極め て 信 憑性 の 高 いも の と い えよ う
︒北 白 河院 の 要 請 に対 し 道 助は
︑灌 頂 の 師た る に は 五十 歳 以 後 と す る 承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
六 九
﹁大 師御 遺戒
﹂が 存在 する こと
︑先 例と して 尊重 さ れる
﹁北 院 御 室﹂ こと 守 覚 法親 王 の 場 合は 三 十 五歳 で 伝 法灌 頂 を 授 けた こと
︑な どを 理由 に挙 げて 灌頂 実施 に消 極的 な態 度を みせ てい る︒ そも そも
︑当 時三 十五 歳だ った 後白 河院 皇 子 守覚 が元 暦元 年︵ 一一 八四
︶に 同じ く後 白河 皇子 の十 九歳 の道 法法 親王 に灌 頂を 授け たの も︑ その 道法 が建 暦二 年
︵一 二一 二︶ に四 七歳 で後 鳥羽 院皇 子で ある 十七 歳の 道 助に 灌 頂 を授 け た のも
︑両 例 と も 師の 危 急 の病 が 原 因で あ っ た
︒そ こで 嘉禄 二年 当時 に三 十一 歳で あっ た道 助は
︑三 十五 歳で 伝法 灌頂 した 守覚 の先 例を 理由 に︑ ひと まず は早 期 実 施を 求め る北 白河 院の 訴え を退 ける こと に成 功し たの であ る︒ 再び 道深 への 伝法 灌頂 が取 り沙 汰さ れた の は︑ 寛 喜二 年
︵一 二 三〇
︶︑ ま さ に御 室 道 助 が三 十 五 歳に な っ た年 で あ る
︒こ の間
︑道 深は 安貞 元年
︵一 二二 七︶ に広 隆寺 別当 職を 獲得 し︑ 寛喜 元年 には 宮中 にお ける 修孔 雀経 法勧 賞と し て 二品 に叙 され るな ど
︑ 御室 継承 者と して の地 盤を 少し ずつ 築い て いた
︒そ し て 同 年閏 正 月 には 早 速﹁ 今 年十 月 宮 可レ
有二
御灌 頂一
︑ 御室 卅五
︑北 院一 度之 御例 也﹂ とあ り︑ 先度 の道 助の 言質 と して 今 度 は 有無 を 言 わせ ず 灌 頂実 施 が 決 定さ れて いる
︒そ して 同年 十二 月に 道助 から 道深 への 灌頂 が行 われ
︑そ の 間北 白 河 院 は灌 頂 決 定を 幕 府 に報 告 す る とと もに
︑灌 頂の 日次 の決 定に 関与 し︑ 灌頂 当日 は仁 和寺 に御 幸し て灌 頂を 見届 けて いる
︒ なお 道深 への 伝法 灌頂 直後 の同 年十 二月 二十 五日 には
︑道 助は 仁和 寺観 音院 結縁 灌頂 で大 阿闍 梨を 勤め た︒ 土谷 恵 氏 によ れば
︑観 音院 結縁 灌頂 は仁 和寺 の主 要法 会で あり
︑そ の大 阿闍 梨を 勤め るこ とは 伝法 灌頂 と共 に︑ 御室 にと っ て 極め て重 要な 通過 儀礼 であ ると いう
︒伝 法灌 頂と 観音 院結 縁灌 頂と い う二 大 通 過 儀礼 を 終 えた 道 助 は︑ 翌年 三 月 に は高 野山 に蟄 居し
︑仁 和寺 寺務 の実 質的 権限 は道 深の もと へと 移っ てい った ので ある
︒ 以上 述べ てき たよ うに
︑道 助か ら道 深へ の伝 法灌 頂の 実施 及び 御室 職相 続に 至る 一連 の過 程に おい ては
︑道 深自 身 よ りも
︑国 母と して の権 威を 背景 に北 白河 院が 灌頂 実施 を強 硬に 要求 して いる 点が 特徴 的で ある
︒こ れは
︑承 久の 乱 で 敗北 した 後鳥 羽皇 統か ら︑ 仁和 寺御 室と いう 王家 にお ける 特別 な地 位を 自身 の皇 統に 獲得 しよ うと する 後高 倉王 家
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
七
〇
の 行動 とし て理 解で きよ う︒ 二︑ 尊 性 法親 王 と 四天 王 寺 別当 職 つづ
いて 後高 倉王 家の もう 一人 の法 親王 尊性 につ いて
︑四 天王 寺別 当職 をめ ぐる 事例 を素 材に その 動向 を探 るこ と に した い︒ 尊性 法親 王は 建 久 五年
︵一 一 九 四︶ に誕 生 し︑ 承 元三 年
︵一 二
〇 九︶ 三月 に 出 家︑ 建暦 元 年︵ 一 二一 一
︶ に 延暦 寺妙 法院 実全 のも とに 入室 して いる
︒後 堀河 即位 後に 法親 王 とな っ た 尊 性は
︑同 年 十 二月 に は 護持 僧 に︑ 貞 応 二年
︵一 二二 三︶ 三月 には 山門 僧と して は初 例と なる 二品 に叙 され て い る
︒ こう し た 経 歴を も つ 尊性 に と って
︑ 最 初に 獲得 した 寺院 社会 にお ける 職が 四天 王寺 別当 職で あっ た︒ 四天 王寺 別当 職と は天 台宗 傘下 の四 天王 寺の 寺務 を総 裁す る職 であ る︒ この 別当 職を めぐ って は古 代以 来︑ 山門 と 寺 門が 同職 獲得
︑ひ いて は四 天王 寺の 支配 をめ ぐっ て対 立を 続け てい た︒ 康平 五年
︵一
〇六 二︶ に寺 門僧 覚助 が任 命 さ れて から は︑ 寺門 が別 当職 を独 占し てい たが
︑治 承四 年︵ 一一 八〇
︶に 平清 盛に よっ て山 門僧 明雲 が補 任さ れる
︒ し かし 明雲 の次 代に は再 び寺 門の 定恵 が任 命さ れ︑ 後白 河院 から 同職 を園 城寺 平等 院に 附属 させ る旨 の院 宣を 獲得 し て い る
︒と こ ろが そ の 後も 同 職 をめ ぐ っ て 対立 は 続 き︑
﹃四 天 王 寺別 当 次 第﹄ に よっ て 鎌 倉初 期
〜中 期 の同 職 相 承 過 程を みる と︑ 慈円
︵ 山門
︶│ 真 性︵ 山 門︶
│ 慈円
︵ 山門
︶│ 尊性
︵ 山門
︶│ 良 快︵ 山 門
︶│ 尊 性︵ 山 門
︶と な って い る︒ 尊 性 の前 任者 慈円 は再 三に 渡り 辞意 を示 しつ つも
︑嘉 禄元 年︵ 一二 二五
︶九 月 に没 す る ま でそ の 職 を退 く こ とは な か っ た︒ そし て慈 円の 没後
︑別 当職 をめ ぐる 抗争 が再 燃す るの であ る︒ 寺 門 はす で に 慈円 存 命 中に 別 当 職 の平 等 院 への 返 付 を訴 え る な ど し て お り
︑慈 円 後 任 に は 法 務 良 尊 を 推 し て い た
︒一 方︑ 山門 は慈 円の 遺言 をも とに 妙香 院良 快を 推す など して 両候 補者 を戴 く山 門・ 寺門 の対 立が 激化 し︑ 山門 側 承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
七 一
は 日々 蜂起 し︑ 良尊 を補 任す れば 堂舎 を焼 き払 うと 迫っ てい る
︒ そう し たな か で 突 如と し て 十月 十 九 日に
︑尊 性 を 四 天 王 寺 別当 に と の話 が 浮 上す る の で あ る
︒﹃ 明 月 記﹄ に よ れ ば 当 初 は 就 任 に 消 極 的 な 態 度 を み せ る 尊 性 で あ っ た が
︑同 二十 一日 に後 堀河 天皇 が尊 性に 別当 職継 承を 直接 求め ると 受諾 の構 えを みせ
︑同 年十 二月 に尊 性は 四天 王寺 別 当 に補 任さ れて いる
︒ ここ で疑 問と なる のが
︑な ぜ山 門・ 寺門 の候 補者 を退 けて 尊性 の就 任が 実現 され たの かと いう 点で ある
︒後 堀河 の 再 三の 勅と いう 点か ら後 高倉 王家 の意 向と 考え るこ とも 可能 だが
︑当 初尊 性が その 申出 を断 って いる こと から
︑一 概 に 王家 側の 意向 とは 判じ 難い
︒こ の疑 問に 対す る答 えは
︑以 下に 述べ る尊 性の 同職 辞任 の過 程か ら導 き出 すこ とが で き るだ ろう
︒ 先述 のよ うな 状況 での 尊性 の就 任は 当然 なが ら四 天王 寺僧 徒の 反発 を招 き︑ 寛喜 元年
︵一 二二 九︶ 十月 には
︑四 天 王 寺僧 徒が 尊性 を排 斥す べく 寺中 に藁 を積 み放 火を 企て てい る
︒ これ に先 だ つ同 年 三 月 には 日 吉 二宮 宮 仕 法師 が 殺 害 され た事 件に 関連 して 延暦 寺が 蜂起
︑そ の責 任を 負っ て︑ 尊性 が安 貞元 年︵ 一二 二七
︶以 来就 任し てい た天 台座 主 職 を 辞 任 する と い うこ と が あっ
た
︒四 天 王 寺に お け る同 年 の 排 斥運 動 は こ の 座 主 辞 任 の 機 に 乗 じ た 可 能 性 も あ ろ う
︒寛 喜三 年八 月に は四 天王 寺僧 徒は 尊性 の別 当解 任を 幕府 に訴 えて 騒擾 して いる
︒こ れに 対し て幕 府は
︑﹃ 明 月記
﹄ 同 年九 月三 日条 によ れば
︑ 天 王寺 可二
沙 汰鎮
一
由 被レ
仰二
関 東一
︑遣
二
武士
一
召二
取 凶 徒一
事
︑悪 徒 所 行已 以 至 極︑ 積 儲藁 之 上 放火 之 条︑ 更 非下
下二
︵ 暫
︶
向 武士
一
之進 止上
︑仏 法最 初之 寺若 為二
灰 燼一
歟︑ 後悔 可レ
無二
其 詮一
︑ 親王 督有
二
御 辞退
一
︑閑 有後 日沙 汰宜 歟之 由申
レ
之 間︑ 親王 已難
二
抑留 給一
歟︑ 武 力に よる 鎮圧 を求 める 尊性 側に
︑悪 徒が 放火 する 可能 性が ある 以上 武士 の派 遣は 困難 とし たう えで
︑そ の解 決策 と し て尊 性が 一旦 別当 を辞 任し
︑後 日再 び還 補す ると いう 方法 を提 示し てき たの であ る︒ 注目 すべ きは 幕府 がそ のよ う
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
七 二
に 言っ てき た以 上﹁ 親王 已難
二
抑留 給一
歟﹂ と評 価し てい るこ とで ある
︒さ らに この 問題 を受 けて 尊性 は﹁ 座主 法務 共 有二
所縁
一
︑ 可レ
止二
親 王寺 務一
由 示二
関東
一
之由
︑親 王被
レ
成レ
疑﹂
︑つ まり 座主 良快 と法 務良 尊と もに 縁故 のあ る前 関白 で 関 東申 次の 立場 にあ った 九条 道家 が︑ 尊性 の別 当職 辞任 を幕 府に 進言 した ため に︑ 幕府 が先 述の 解決 法を 示し てき た の では ない かと 疑っ てい るの であ る︒ これ らの 事実 は︑ 四天 王寺 別当 職に 対す る幕 府の 発言 力を 示し てい よう
︒し た が って すで に高 橋慎 一朗 氏も 指摘 され るよ うに
︑さ かの ぼっ て尊 性の 別当 職 就任 も 幕 府 の後 押 し があ っ た 可能 性 が 非 常に 高い とい える ので ある
︒そ して それ は尊 性の 天台 座主 職就 任・ 辞任
︑還 補の 過程 にお いて も同 様で あっ た︒ そう した 幕府 の対 応に もか かわ らず 尊性 は︑
﹁ 全不
レ
可二
辞退
一
由 被レ
申
﹂で あっ た︒
﹃明 月記
﹄に よっ て事 態の 推移 を 追 うと
︑九 月十 六日 に尊 性は
︑北 白河 院や 後堀 河の 憂慮 を受 け︑ 武力 によ る悪 徒鎮 圧に 際し て放 火・ 焼失 を懸 念し な が らも
︑辞 退せ ずと いう 姿勢 を崩 して いな い︒ その 後︑ 後堀 河は 事態 解決 を図 り公 卿ら に諮 問す るな どし てい るが
︑ 具 体的 な策 をみ なか った よう で︑ つい に十 月 二 十日
︑尊 性 は﹁ 被レ
甲 勇 士 等﹂ を四 天 王 寺 に派 遣 し て僧 徒 ら と合 戦 に 及 んで いる
︒こ の武 力行 使は 多数 の死 傷者 を出 した
︒し かし 事態 を収 拾 する に は 至 らず
︑結 果 と して 尊 性 は同 年 十 二 月十 三日 に別 当職 を辞 し︑ 後任 には 山門 の良 快が 就任 した ので ある
︒合 戦以 降か ら辞 任に 至る まで の経 緯は 史料 に 乏 しい が︑ 別当 職辞 任後 の尊 性は
︑後 堀河 なら びに 東宮 秀仁
︵道 家孫
︶の 護持 僧を 辞し て北 白河 院御 所に 籠居 して お り
︑そ の意 はあ くま で辞 任に は反 対で あっ たこ とが うか がえ よう
︒ この よう に尊 性は 就任 時の 消極 的姿 勢と は対 照的 に︑ その 辞任 時に は武 力に よる 僧徒 鎮圧 を強 行︑ あく まで 辞任 に 応 じな い姿 勢を みせ てい る︒ さら に尊 性は 天福 元年
︵一 二三 三︶ 七月 に同 別当 に還 補し たが
︑そ の際 にも 積極 的に 幕 府 に再 任を 働き かけ てい る
︒ こう した 同職 への 強い 執着 こそ が︑ 還補 後の 四 天王 寺 と 住 吉社 の 堺 相論 問 題 や四 天 王 寺 執行 渡辺 党遠 藤氏 によ る執 行殺 害事 件と それ に端 を発 した 寺内 紛争 にお いて
︑尊 性の 武力 によ る鎮 圧を 惹起 し︑ 尊 性 別当 時代 の 四天 王 寺 に つい て 検 討し た 川 岸宏 教 氏 が﹁ 尊 性の 事 跡 から 流 血 の痕 跡 を 払 拭し 尽 す こと は で きな い
﹂ 承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
七 三
と 評す るよ うな 状況 を生 み出 した ので はな いだ ろう か︒ そし て尊 性の 強い 執着 は︑ 時に 後ろ 楯で ある 幕府 の意 向に す ら 反す る行 動を もた らす こと もあ った ので ある
︒ 三︑ 後 高 倉王 家 と 法親 王 これ
まで 二章 にわ たっ て︑ 後高 倉王 家の 法親 王の 動向 につ いて 具体 例を 挙げ て検 討し てき た︒ その うえ で従 来の 研 究 では 仁和 寺御 室や 天台 座主
・四 天王 寺別 当と して 各々 個別 に言 及さ れて きた 両者 の動 向を
︑後 高倉 王家 とい う一 つ の 家 に 属 する 法 親 王と い う 枠組 の な か で新 た に 捉え 直 す な らば
︑ど の よ うに 評 価 し位 置 付 け るこ と が でき る だ ろ う か
︒ 第 一 に指 摘 で きる こ と は︑ 後高 倉 王 家 の法 親 王 達は 積 極 的に 権 門 寺 院に お け る諸 職 獲 得を は か っ てい る こ と で あ る
︒そ れは 法親 王個 人の 意志 とい うよ りは
︑後 高倉 王家 の方 針と して 行わ れた もの であ った
︒こ れに は二 つの 事由 が あ るだ ろう
︒ま ず一 つは 鎌倉 期固 有の 皇位 皇統 の変 化と いう 問題 に起 因す る︑ 法親 王と して の不 安定 性で ある
︒尊 性
・ 道深 とも に親 王宣 下は 後堀 河の 即位 後で あり
︑そ れは 承久 の乱 にと もな う後 鳥羽 皇統 の断 絶に よる 後堀 河即 位と い う 偶発 的事 象に 基づ くも ので あっ た︒ つま り法 親王 とし ての 素地
│具 体的 には 顕密 寺院 にお ける 地位 や経 済基 盤│ を 持 たな いま ま両 者は 突如 とし て法 親王 の地 位に 押し 上げ られ たの であ り︑ した がっ て相 応し い基 盤の 獲得 が当 初の 課 題 とな った とい える
︒こ れは 後高 倉王 家の 成立 初期 に諸 寺院 との 問題 が集 中し て起 こっ てい る点 から も裏 付け られ よ う
︒例 えば 先に みた 東南 院院 主職 と四 天王 寺別 当職 問題 は︑ 嘉禄 元年 に後 高倉 王家 が同 時多 発的 に直 面し た問 題で あ っ た
︒ また 基盤 の獲 得と いう 点で は︑ 例と して 尊性 が入 室し てい た妙 法 院は
︑尊 性 の 時 代に 門 跡 とし て 確 立を み た と され てい るが
︑こ れは 法親 王と いう 貴種 尊性 のも とで 院領 の再 編や 新 たな 所 領・ 諸 職 の獲 得 が 積極 的 に 進め ら れ
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
七 四
人物 の
※
□囲 は院及 び天 皇を 示す︒
また 本論 で言及す る主要人物 は ゴ
シ ック で示 した
︒
︻系図︼後高倉王家関係系図
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
七 五
た ため に︑ 経済 基盤
・寺 院と して の格 とい う両 面か ら﹁ 門跡
﹂と して 整備 され たこ とを 示し てい よう
︒ もう 一つ は︑ 法親 王に よっ て王 権護 持や 宗教 界の 統制 をは かる
︑前 代以 来の 法親 王に 求め られ てき た役 割か らで あ る
︒仁 和寺 御室 は院 権力 によ って 創出 され た﹁ 院と 緊密 な血 縁的 紐 帯で 結 ば れ た宗 教 権 門﹂ であ
り
︑院 権 力を 護 持 す る存 在で あっ た︒ 北白 河院 が道 助に 道深 への 伝法 灌頂 を強 引に 迫り
︑自 らの 皇統 の御 室の 現出 をは かっ たの もこ の た めで ある
︒同 時に 御室 は王 家御 願寺 であ る六 勝寺 検校 を兼 帯し た︒ 例え ば法 勝寺 の法 会は 中世 学僧 の重 要な 僧綱 昇 進 の途 であ り︑ これ を検 校と して 統括 する 御室 を通 じて 王権 が顕 密寺 院の 統 制 をは か っ た こと が 指 摘さ れ て いる
︒ ま た そ の 寺司 に は 御室 を 頂 点に そ の 下 に 大 寺 院 の 座 主
・別 当 が 配 さ れ︑
﹁天 皇 王 権 の 宗 教 的 表 象 で あ る 御 室 法 親 王 と
︑特 権的 顕教 寺院 の長 官と いう 権力 配置
︒天 皇家 王権 の最 高の 氏寺 と い うに 相 応 し い配 置
﹂で あ った と さ れる
︒ そ して 尊性 が就 仕し た天 台座 主職 も延 暦寺 内の 諸職 に対 する 補任 権を 通じ て統 制を はか る重 要な 職で ある
︒し たが っ て 尊性 が四 天王 寺別 当職 に拘 泥し た理 由も
︑王 権に よる 権門 寺院 末寺 支配 への 介入 とい う側 面か ら理 解で きよ う︒ し か しそ れだ けで なく
︑畿 内の 一寺 院に すぎ ない 四天 王寺 の別 当職 に執 着し た背 景に は︑ 聖徳 太子 信仰 の中 心地 で﹁ 仏 法 最初 地﹂ であ る四 天王 寺を 自ら の王 家内 に獲 得す る狙 いも あっ たの では ない だろ うか
︒尊 性の 別当 時代 に﹁ 聖徳 太 子 未来 記﹂ の発 見が 集中 して いる のも 興味 深い
︒ 第二 に指 摘で きる こと は︑ 承久 の乱 後に 公家 社会 のみ なら ず寺 院社 会に も影 響力 を増 した 幕府 と︑ 後高 倉王 家が 積 極 的に 関係 構築 をは かっ てい るこ とで ある
︒そ もそ も後 高倉 王家 はそ の成 立事 情か ら幕 府と は協 調関 係に あっ たと 想 定 され るが
︑嘉 禄年 間に 直面 した 東南 院院 主職 や四 天王 寺別 当職 をめ ぐる 相論 は︑ 解決 の過 程で 後高 倉王 家に 幕府 の 重 要性 を再 認識 させ たは ずで ある
︒幕 府と の関 係 を 重視 す る この 姿 勢 こそ が
︑﹁ 安 貞 二年 の 政 変﹂ と呼 ば れ る近 衛 家 実 から 鎌倉 将軍 頼経 の父 であ る九 条道 家へ の突 然の 関白 交代 を発 現さ せ たと い え よ う
︒ さら に 尊 性は 先 述 の四 天 王 寺 住吉 社堺 相論 や四 天王 寺執 行等 殺傷 事件 にお いて
︑六 波羅 探題 北条 重時 と緊 密に 連携 をと りな がら 事態 に対 処し て
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
七 六
い る
︒ 北条 重時 は寺 社紛 争の 解決 にあ たっ て自 ら権 門寺 社と の交 渉に あ たり
︑公 家 政 権 との 政 治 的合 意 の 形成 に 関 与 した とさ れ︑ その 姿勢 が寺 社紛 争に 六波 羅探 題と 公家 政権 が連 携し て対 応す る方 法と して 定着 し︑ 幕府 が紛 争調 停 者 と位 置付 けら れる 要因 とな った とい う
︒ 換言 すれ ば︑ 顕密 寺院 の長 た る法 親 王 に は︑ 寺社 紛 争 にお い て 公家 政 権 の みな らず 幕府 とも 交渉 する 必要 が生 じた
︒そ れは 紛争 解決 手段 とし て法 親王 ひい ては 後高 倉王 家側 が︑ 幕府 の影 響 力 と武 力を 積極 的に 利用 した こと に起 因す るが
︑そ のこ とが 尊性 にみ える よう に極 めて 政治 的な 側面 を持 った 法親 王 を 生み 出す こと にも つな がっ たの であ る︒ 四︑ む す びに か え て 承久
の乱 によ って 新た に皇 位皇 統に 設定 され た後 高倉 王家 は︑ 自身 の王 家を 確た るも のと する ため に︑ 自ら の王 家 に 属す る法 親王 達を 積極 的に 権門 寺社 に送 り諸 職獲 得を 通じ て彼 らの 地位 確立 をは かっ た︒ それ は院 権力 によ る王 権 護 持・ 宗教 界統 制と いう 従来 の王 家に おけ る法 親王 の意 義と 変わ るも ので はな かっ た︒ しか しそ の過 程で 惹起 され た 寺 社紛 争に おい て︑ 承久 の乱 後権 威を 相対 的に 向上 させ た幕 府の 介入 を積 極的 には かっ たこ とか ら︑ 法親 王達 には 新 た な政 治性 が要 求さ れる よう にな った
︒そ れは 王家 と権 門寺 社と を媒 介す ると いう 承久 の乱 以前 の法 親王 の立 場が
︑ 乱 後に は王 家と 権門 寺社 と幕 府と いう 三者 を媒 介す る立 場へ と変 化し たた めで あっ た︒ 鎌倉 期固 有の 皇位 皇統 の変 化は
︑そ の都 度︑ 新た に皇 位皇 統と なっ た王 家に よる 宗教 的基 盤の 再構 築の 必要 性を も た らし た︒ その 任を 担っ たの がそ の王 家に 属す る法 親王 であ り︑ 後高 倉王 家の 場合 には 尊性 と道 深と いう 二人 の法 親 王 であ った
︒今 後は 当該 期の 政治 状況 や宗 教界 全体 の動 静な ど広 い視 野か ら分 析を 加え る必 要が ある だろ う︒ そし て 同 じく 皇統 の断 絶を 経て 成立 した 後嵯 峨王 家の 事例 を検 討し
︑後 高倉 王家 の事 例と 比較 する こと も必 要で ある
︒こ れ 承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
七 七
ら の諸 点は 現段 階で は論 及す る準 備は なく
︑今 後の 課題 とし たい
︒ 注
⑴ 平 田 俊 春
﹁ 法 親 王 考
﹂︵
﹃ 平 安 時 代 の 研 究
﹄ 山 一 書 房
︑ 一 九 四 三 年
︶︒
⑵ 平 雅 行
﹁ 中 世 移 行 期 の 国 家 と 仏 教
﹂︵
﹃ 日 本 中 世 の 仏 教 と 社 会
﹄ 塙 書 房
︑ 一 九 九 二 年
︑ 初 出 一 九 八 七 年
︶︑ 平 岡 定 海
﹁ 六 勝 寺 の 成 立 に つ い て
﹂︵
﹃ 日 本 寺 院 史 の 研 究
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 八 一 年
︶︒
⑶ 主 な 研 究 と し て 牛 山 佳 幸
﹁ 入 道 親 王 と 法 親 王 の 関 係 に つ い て
﹂︵
﹃ 古 代 中 世 寺 院 組 織 の 研 究
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 九
〇 年
︑ 初 出 一 九 八 四 年
︶︑ 横 内 裕 人
﹁ 仁 和 寺 御 室 考
│ 中 世 前 期 に お け る 院 権 力 と 真 言 密 教
│
﹂︵
﹃ 日 本 中 世 の 仏 教 と 東 ア ジ ア
﹄ 塙 書 房
︑ 二
〇
〇 八 年
︑ 初 出 一 九 九 六 年
︶︑ 横 山 和 弘 a
﹁ 法 親 王 制 成 立 過 程 試 論
│ 仁 和 寺 御 室 覚 行 法 親 王 を め ぐ っ て
│
﹂︵
﹃ 仁 和 寺 研 究
﹄ 第 三 輯
︑ 二
〇
〇 二 年
︶︑ 同 b
﹁ 白 河 院 政 期 に お け る 法 親 王 の 創 出
﹂︵
﹃ 歴 史 評 論
﹄ 二
〇
〇 五 年 一 月 号
︶︑ 亀 井 健 太 郎
﹁ 仁 和 寺 性 信 を 通 し て み た 法 親 王 の 創 出 過 程
﹂︵
﹃ 國 史 學
﹄ 一 八 九 号
︑ 二
〇
〇 六 年
︶ を 挙 げ て お く
︒
⑷ 横 内 前 掲 注
⑶ 論 文
︒
⑸ 安 達 直 哉
﹁ 法 親 王 の 政 治 的 意 義
﹂︵ 竹 内 理 三 編
﹃ 荘 園 制 社 会 と 身 分 構 造
﹄ 校 倉 書 房
︑ 一 九 八
〇 年
︶︒
⑹ 本 稿 で は
︑ 後 高 倉 院 と そ の 妃 北 白 河 院 と の 間 に 誕 生 し た 皇 子 女 達 か ら 構 成 さ れ る
﹁ 家
﹂ を 後 高 倉 王 家
︑ 後 高 倉
│ 後 堀 河
│ 四 条 か ら な る 皇 統 を 後 高 倉 皇 統 と す る
︒ な お 当 該 期 の 公 家 社 会 に お け る 後 高 倉 王 家 の 位 置 付 け は 前 稿 に 詳 し い た め
︑ 本 稿 で は 省 略 し た
︒ 併 せ て 参 照 さ れ た い
︒︵ 拙 稿
﹁ 後 高 倉 王 家 の 政 治 的 位 置
│ 後 堀 河 親 政 期 に お け る 北 白 河 院 の 動 向 を 中 心 に
│
﹂
︿﹃ ヒ ス ト リ ア
﹄ 二 一 七 号
︑ 二
〇
〇 九 年
﹀︶
︒
⑺
﹃ 百 錬 抄
﹄ 承 久 三 年 十 月 十 三 日 条
︒
⑻ 横 山 前 掲 注
⑶ b 論 文
︒
⑼
﹃ 民 経 記
﹄ 寛 喜 三 年 三 月 一
・ 十 三 日 条
︒
⑽ 治 部 卿 局 は 北 白 河 院 司 で あ っ た 平 親 長 の 娘 で あ り
︑ 父 子 と も に 後 高 倉 王 家 に 近 仕 す る 存 在 で あ っ た
︒ な お こ の 大 部 荘 預 所 職 問 題 に つ い て は
︑﹃ 小 野 市 史 第 一 巻
︵ 本 編
Ⅰ
︶﹄
︵ 小 野 市
︑ 一 九 九 二 年
︶ 及 び 遠 藤 基 郎
﹁ 鎌 倉 中 期 の 東 大 寺
﹂︵
﹃ 論 集 鎌 倉 期 の 東 大 寺 復 興
│ 重 源 上 人 と そ の 周 辺
│
﹄ 東 大 寺
︑ 二
〇
〇 八 年
︶ を 参 照
︒ 当 該 期 の 大 部 荘 に つ い て は 小 原 嘉 記
﹁︿ 重 源 遺 産
﹀ そ の 後
│ 初 期 勧 進 所 と 東 大 寺
│
﹂︵
﹃日 本 史 研 究
﹄ 五 六 六
︑ 二
〇
〇 九 年
︶ に 詳 し い
︒
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
七 八
⑾ 平 雅 行
﹁ 定 豪 と 鎌 倉 幕 府
﹂︵ 大 阪 大 学 文 学 部 日 本 史 学 研 究 室 創 立 五
〇 周 年 記 念 論 文 集
﹃ 古 代 中 世 の 社 会 と 国 家
﹄ 清 文 堂
︑ 一 九 九 八 年
︶︒ 遠 藤 前 掲 注
⑽ 論 文
︒ 平 氏 は 幕 府 僧 定 豪 に よ る 畿 内 寺 院 諸 職 へ の 介 入 と い う 側 面 か ら
︑ 遠 藤 氏 は 鎌 倉 中 期 の 朝 廷 と 東 大 寺 の 関 係 を 検 討 す る な か で 主 と し て 東 大 寺 側 か ら そ れ ぞ れ 言 及 し て い る
︒
⑿
﹁ 仁 和 寺 御 伝
︵ 顕 証 書 写 本
︶﹂
︵ 奈 良 国 立 文 化 財 研 究 所 編
﹃ 仁 和 寺 史 料 寺 誌 編 二
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 六 七 年
︒ 以 下
﹁ 仁 和 寺 御 伝
﹂ は こ れ に よ る
︶︒
⒀
﹃ 明 月 記
﹄ 安 貞 元 年 十 二 月 一 日 条
︒
⒁ 年 月 日 未 詳 東 大 寺 東 南 院 住 侶 等 申 状 案
︵ 東 大 寺 文 書
︑﹃ 鎌 倉 遺 文
﹄ 四 六 三 六 号
︒ 以 下
﹃ 鎌
﹄ と 略 記 す る
︶︑ 年 未 詳 四 月 二 十 四 日 東 大 寺 衆 徒 牒 案
︵ 東 大 寺 文 書
︑﹃ 鎌
﹄ 四 六 五 六 号
︶ な ど
︒
⒂ 嘉 禄 元 年 十 一 月 五 日 官 宣 旨 案
︵ 東 大 寺 文 書
︑﹃ 鎌
﹄ 三 四 二 七 号
︶︒
⒃
﹃ 明 月 記
﹄ 嘉 禄 元 年 十 二 月 十 六 日 条
︒
⒄
﹃ 明 月 記
﹄ 嘉 禄 元 年 十 二 月 十 八 日 条
︑ 前 掲 注
⒁ 文 書
︒
⒅ 大 炊 御 門 光 俊 は 後 堀 河 皇 女 室 町 院 を そ の 手 許 で 養 育 し て い る
︵ 年 月 日 未 詳 北 白 河 院 藤 原 陳 子 書 状
︿﹃ 鎌
﹄ 補 一
〇 三
〇 号
﹀︶
︒ ま た 光 俊 は
︑ 後 高 倉 院 政 期 に は 院 近 臣 と し て 朝 廷 内 に 政 治 的 位 置 を 占 め て い た こ と が 指 摘 さ れ て い る
︵ 本 郷 和 人
﹃ 中 世 朝 廷 訴 訟 の 研 究
﹄ 東 京 大 学 出 版 会
︑ 一 九 九 五 年
︑ 六 三
〜 六 五 頁
︶︒
⒆
﹃ 明 月 記
﹄ 嘉 禄 二 年 六 月 十 三 日 条
︒
⒇ 遠 藤 前 掲 注
⑽ 論 文
︒ な お 東 南 院 主 と し て の 親 王 の 入 室 は 鎌 倉 末 期 の 伏 見 天 皇 皇 子 聖 珍 が 初 例 で あ り
︑ 永 村 眞 氏 は こ の 聖 珍 の 入 室 が
﹁ 東 南 院 門 跡
﹂ と 呼 称 さ れ る 契 機 に な っ た と 指 摘 し て い る
︵ 同
﹃ 中 世 東 大 寺 の 組 織 と 経 営
﹄ 第 一 章 第 三 節
︑ 塙 書 房
︑ 一 九 八 九 年
︶︒ 平 前 掲 注
⑾ 論 文
︒ 道 深 と 定 豪 は 東 南 院 院 主 職 の み な ら ず
︑ そ の 後 も 安 貞 元 年 に は 広 隆 寺 別 当 職 を
︑ 天 福 元 年 に は 伝 法 院 座 主 職 を
︑ 嘉 禎 四 年 に は 金 剛 峰 寺 検 校 職 の 人 事 を め ぐ っ て 対 立 し て い る
︒
﹃ 明 月 記
﹄ 安 貞 元 年 十 月 二 十 九 日 条 に は
︑﹁ 仁 和 寺 親 王
︿ 御 室 御 弟 子
﹀︑ 取レ
之
︵ 広 隆 寺 別 当 職
│ 筆 者 注
︶ 可二
知 給一
︑︿ 広 隆 寺 別 当 御 室 之 寺 務 更 無
レ
例 云 々
﹀︑ 是 東 大 寺 東 南 院
︿ 定 範 譲
﹀︑ 以二
定 豪 威一
被二
領 知一
之 会 稽
﹂ と あ る
︒ 覚 寛 に つ い て は
︑ 土 谷 恵
﹁ 定 家 と 仁 和 寺 御 室
│﹃ 明 月 記
﹄ の 世 界 か ら
﹂︵ 明 月 記 研 究 会 編
﹃ 明 月 記 研 究
﹄ 一 号
︑ 一 九 九 六 年 十 一 月
︶ に 詳 し い
︒ 承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
七 九
﹁ 仁 和 寺 御 伝
︵ 顕 証 書 写 本
︶﹂
︒
﹃ 明 月 記
﹄ 寛 喜 二 年 閏 正 月 十 日 条
︒ こ の 早 急 な 決 定 の 背 景 に は 関 白 九 条 道 家 の 尽 力 も 想 定 で き よ う
︒ 関 白 は 嘉 禄 二 年 当 時 の 近 衛 家 実 か ら 九 条 道 家 に 交 代 し て お り
︑ こ の 時 期 の 道 家 は 外 戚 の 地 位 を 獲 得 す べ く 後 高 倉 王 家 と 協 力 関 係 に あ っ た
︒ な お 道 家 は 嘉 禎 四 年
︵ 一 二 三 八
︶︑ 道 深 の も と へ 子 息 法 助 を 入 室 さ せ て い る
︒ 法 助 は 鎌 倉 将 軍 の 父 か つ 四 条 天 皇 の 外 祖 父 た る 道 家 の 権 勢 を 背 景 に
︑ 希 代 の 摂 関 家 出 身 の 御 室 後 継 者 と し て 位 置 付 け ら れ て い く こ と に な る
︒
﹃ 明 月 記
﹄ 寛 喜 二 年 閏 正 月 十 日
︑ 同 年 十 二 月 八 日
〜 十 日 条
︒ 土 谷 前 掲 注 論 文
︒ 道 深 は 寛 喜 三 年 三 月 に 仁 和 寺 寺 務 に 補 任
︑ 同 年 九 月 十 七 日 に は 総 法 務 宣 下 な ら び に 六 勝 寺 検 校 に 補 さ れ て い る
︵﹁ 仁 和 寺 御 伝
︵ 顕 証 書 写 本
︶﹂
︶︒
﹃ 百 錬 抄
﹄ 承 元 三 年 三 月 十 六 日 条
︑﹁ 天 台 座 主 記
﹂ 七 十 四 世 尊 性
︵ 渋 谷 慈 鎧 編
﹃ 校 訂 増 補 天 台 座 主 記
﹄ 第 一 書 房
︑ 一 九 九 九 年 復 刻 第 二 刷
︑ 以 下
︑﹁ 天 台 座 主 記
﹂ は こ れ に よ る
︶︒
﹁ 天 台 座 主 記
﹂ 七 十 四 世 尊 性
︒ 以 上
﹃ 新 修 大 阪 市 史 第 二 巻
﹄ 第 二 章 第 四 節
︵ 大 阪 市
︑ 一 九 八 八 年
︶︒
︵ 貞 応 三 年 正 月 二 十 日
︶ 慈 円 願 文
︵ 山 城 青 蓮 院 文 書
︑﹃ 鎌
﹄ 三 二
〇 二 号
︶︑ 慈 円 一 期 思 惟 記
︵ 山 城 青 蓮 院 文 書
︑﹃ 鎌
﹄ 補 八 四 三 号
︶ な ど
︒ 貞 応 二 年 七 月 日 園 城 寺 衆 徒 申 状
︵﹃ 寺 門 伝 記 補 録
﹄ 二 十
︑﹃ 鎌
﹄ 三 一 四 一 号
︶︑ 貞 応 二 年 八 月 日 園 城 寺 衆 徒 申 状
︵﹃ 三 井 続 燈 記
﹄ 八
︑﹃ 鎌
﹄ 三 一 五
〇 号
︶︒
﹃ 明 月 記
﹄ 嘉 禄 元 年 十 月 二 日
・ 十 九 日 条
︒
﹃ 明 月 記
﹄ 寛 喜 元 年 十 月 三 日 条
︒ こ の 事 件 に 連 動 し て 絵 解 法 師 に よ る 四 天 王 寺 金 堂 舎 利 の 盗 難 未 遂 事 件 が 起 こ り
︑ 金 堂 に 守 護 の 兵 士 が 配 置 さ れ て い る
︵﹃ 明 月 記
﹄ 寛 喜 元 年 十 月 三 日 条
︑﹃ 民 経 記
﹄ 同 年 十 月 二 十 五 日 条
︶︒ 事 件 の 経 緯 は 上 横 手 雅 敬
﹃ 鎌 倉 時 代 政 治 史 研 究
﹄ 第 二 章 四 節
︵ 吉 川 弘 文 館
︑ 一 九 九 一 年
︑ 初 出 一 九 七 九 年
︶︑ 石 井 清 文
﹁ 寛 喜 元 年
︑ 尊 性 法 親 王 の 天 台 座 主 辞 任 と 六 波 羅 探 題 北 条 時 氏
﹂︵
﹃ 政 治 経 済 史 学
﹄ 三 六 六
︑ 一 九 九 六 年
︶ な ど を 参 照
︒ 高 橋 慎 一 朗
﹁ 尊 性 法 親 王 と 寺 社 紛 争
﹂︵
﹃ 遙 か な る 中 世
﹄ 一 九
︑ 二
〇
〇 一 年
︶︒
承 久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
八
〇
﹃ 百 錬 抄
﹄ 寛 喜 三 年 十 月 二 十 日 条
︒
﹁ 天 台 座 主 記
﹂ 七 十 四 世 尊 性
︒
︵ 貞 永 二 年
︶ 三 月 二 十 一 日 尊 性 書 状
︑ 天 福 元 年 七 月 十 二 日 尊 性 書 状
︵﹃ 向 日 市 史 史 料 編
﹄︿ 向 日 市
︑ 一 九 八 八 年
﹀ 尊 性 法 親 王 消 息 集
︑ 二 三
・ 五 七 号
︶︒ 川 岸 宏 教
﹁ 聖 霊 会 守 護 の 武 士
│ 尊 性 法 親 王 別 当 時 代 の 四 天 王 寺 に つ い て
│
﹂︵ 奥 田 慈 応 先 生 喜 寿 記 念 論 文 集 刊 行 会
﹃ 仏 教 思 想 論 集
﹄ 平 楽 寺 書 店
︑ 一 九 七 六 年
︶︒
﹃ 百 錬 抄
﹄ 嘉 禄 元 年 十 二 月 十 七 日 条 に は
﹁ 園 城 寺
︵ 中 略
︶ 本 寺 堂 舎 閉
二
門 戸一
︑ 断二
絶 恒 例 仏 事
一
了
︑ 依二
天 王 寺 別 当 之 訴一
也
︑ 又 東 大 寺 大 仏 打
二
閉 門 戸
一
︑ 同 停
二
止 恒 例 仏 事一
︑ 是 又 依二
東 南 院 々 主 事一
也
﹂ と あ る
︒ 村 山 修 一
﹃ 皇 族 寺 院 変 革 史
│ 天 台 宗 妙 法 院 門 跡 の 歴 史
│
﹄ 塙 書 房
︑ 二
〇
〇
〇 年
︒ な お 妙 法 院 門 跡 の 成 立 時 期 は 論 者 に よ り 異 な る
︒ 黒 田 俊 雄
﹃ 寺 社 勢 力 論
﹄︵ 岩 波 書 店
︑ 一 九 八
〇 年
︶︑ 衣 川 仁
﹁ 中 世 延 暦 寺 の 門 跡 と 門 徒
﹂︵
﹃ 中 世 寺 院 勢 力 論
│ 悪 僧 と 大 衆 の 時 代
│
﹄ 吉 川 弘 文 館
︑ 二
〇
〇 七 年
︑ 初 出 二
〇
〇
〇 年
︶︑ 吉 澤 一 成
﹁ 妙 法 院 門 跡 の 確 立
﹂︵ 五 味 文 彦
・ 菊 池 大 樹 編
﹃ 中 世 の 寺 院 と 都 市
・ 権 力
﹄ 山 川 出 版 社
︑ 二
〇
〇 七 年
︶ な ど
︒ 横 内 前 掲 注
⑶ 論 文
︒ 平 前 掲 注
⑵ 論 文
︑ 上 島 享
﹁ 中 世 前 期 の 国 家 と 仏 教
﹂︵
﹃ 日 本 史 研 究
﹄ 四
〇 三
︑ 一 九 九 六 年
︶ な ど
︒ 遠 藤 基 郎
﹁ 天 皇 家 御 願 寺 の 執 行
・ 三 綱
﹂︵
﹃ 中 世 王 権 と 王 朝 儀 礼
﹄ 東 京 大 学 出 版 会
︑ 二
〇
〇 八 年
︑ 初 出 二
〇
〇 五 年
︶︒
﹃ 明 月 記
﹄ 安 貞 元 年 四 月 十 二 日 条
︑ 天 福 元 年 十 一 月 二 十 二
・ 二 十 四 日 条
︒ 拙 稿 前 掲 注
⑹ 論 文
︒
︵ 天 福 二 年
︶ 二 月 十 四 日 尊 性 書 状
︑︵ 天 福 二 年
︶ 二 月 十 九 日 尊 性 書 状
︑︵ 天 福 二 年
︶ 四 月 八 日 尊 性 書 状
︵﹃ 向 日 市 史 史 料 編
﹄ 尊 性 法 親 王 消 息 集
︑ 六 八
・ 七
〇
・ 七 六 号
︶︒ 高 橋 前 掲 注 論 文
︑ 木 村 英 一
﹁ 鎌 倉 時 代 の 寺 社 紛 争 と 六 波 羅 探 題
﹂︵
﹃ 史 学 雑 誌
﹄ 一 一 七 編 七 号
︑ 二
〇
〇 八 年
︶︒
│
│ 大 学 院 文 学 研 究 科 研 究 員
│
│ 承
久 の 乱 後 の 王 家 と 法 親 王
八 一