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梅素玄魚考 : その生涯と芸術性

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(1)

梅素玄魚考 : その生涯と芸術性

著者 山本 野理子

雑誌名 人文論究

巻 63

号 4

ページ 51‑75

発行年 2014‑02‑10

URL http://hdl.handle.net/10236/11637

(2)

梅 素 玄 魚 考

││ そ の 生涯 と 芸 術性

山 本

野 理 子

は じ め に

梅素 玄魚

︵一 八一 七│ 一八 八〇

︶は 幕末 から 明治 にか けて

︑江 戸の 出版 界を 鮮や かに 彩っ た人 物で ある

︒諸 文献 か ら 彼の 肩書 を抜 き 出 すと

︑﹁ 絵 師﹂

︑﹁ 図 案 家﹂

︑﹁ 筆 耕

﹂︑

﹁ 傭書 家

﹂︑

﹁ グラ フ ィ ッ クデ ザ イ ナー

﹂な ど と あり

︑多 彩 な 制 作活 動を 行っ てい たこ とが うか がえ る︒ しか しな がら

︑こ れら の文 献上 にお ける 玄魚 に関 する 情報 は量 にお いて 不 十 分で あり

︑ま た体 系化 され てい ない ため

︑彼 の全 体像 は依 然と して 掴み にく いと いう のが 現状 であ る︒ その 理由 とし て︑ 一つ に︑ 玄魚 が今 日の 諸研 究分 野の 各 枠 内に 収 ま りき ら な い多 方 面 に わた る 活 動し て い たこ と

︑ も う一 つに

︑彼 が幕 末の 出版 界に 深く 関わ り︑ それ なり の技 量が あっ たに もか かわ らず

︑画 壇の 主流 を歩 まず

︑俗 に い うニ ッチ な分 野を 専門 に扱 って いた ため

︑研 究対 象と して 取り 上げ にく かっ たこ とが 挙げ られ よう

︒ 梅素 玄魚 とは どの よう な人 物で あっ たの か︒ 彼の 独自 性・ 芸術 性は 概し てど のよ うな もの であ った のだ ろう か︒ 彼 の 名を 諸所 で目 にす るた び︑ この よう な疑 問が 浮上 する

︒本 稿で は︑ 玄魚 の全 体像 を把 握す るこ とで

︑こ れら の疑 問 の 解消 を試 みた い︒

五 一

(3)

その ため に︑ まず 第一 章で は︑ 先行 研究 に散 見す る玄 魚に 関す る記 述を 拾い 上げ

︑各 研究 分野 にお ける 玄魚 に対 す る 評価 や位 置付 けに つい て考 察す る︒ 第二 章で は︑ 玄魚 の生 涯を 辿り

︑具 体的 にど のよ うな 制作 活動 を送 って いた の か

︑ま た出 版界 や他 の世 界と どの よう に繋 がっ てい った のか につ いて 検証 する

︒第 三章 では

︑個 々の 作品 の分 析を 行 い

︑彼 の画 風の 特色 を掴 みた い︒ 最後 に︑ 本研 究で 明ら かに され るで あろ う玄 魚の 全体 像に つい て総 括し たい

︒ 一︑ 先 行 研究 に 見 る玄 魚 像 本章

では

︑諸 文献 に散 見す る玄 魚に 関す る考 察を 拾い 上げ

︑そ れぞ れの 分野 にお ける 彼の 位置 付け や評 価を 検証 す る こと によ り︑ 玄魚 像の 概略 とも いう べき 輪郭 を明 確に して いき たい

︒そ の手 始め とし て︑ 浮世 絵研 究に おけ る玄 魚 に 関す る記 述を 次に 抜粋 した い︒

玄 魚と 浮世 絵と 言え ば︑ 初代 歌川 広重

︵一 七九 七│ 一 八 五 八︶ の﹁ 名所 江 戸 百 景﹂

︵ 大 判 錦 絵 揃 物︑ 魚 屋 栄 吉 版︶ に付 され た目 録︿ 図1

﹀を 第一 に思 い浮 かべ る人 は 少 な くな い だ ろ う︒

﹁ 名 所 江 戸 百 景﹂ は︑ 安 政 三 年︵ 一 八五 六︶ から 五年

︵一 八五 八︶ にか けて 刊行 され た︑ 広 重晩 年の 代表 作で ある

︒こ のシ リー ズの 刊行 が完 結し た のち に︑ 画帖 など に仕 立て ると き︑ 画題 一覧 を示 すた め に付 され たの が︑ この 玄魚 作の 目録 であ る︒

1

「名所江戸百景」目録 国立国 会図書館蔵

梅 素 玄 魚 考

五 二

(4)

この 目録 にお いて 玄魚 は︑ 文字 の清 書を 含む 目録 一 枚 全体 の 図 案を 担 当 して い る︒ 四 季 折々 の 花 鳥を 背 景 に描 き

︑ 全 一一 八作 品の 各画 題を 流麗 な筆 致で

︑色 紙風 の枠 型内 に季 節ご とに 書き 並べ

︑装 飾美 の工 夫と 技を 凝ら して いる

︒ 従来 の浮 世絵 研究 にお いて

︑こ のよ うな 錦絵 揃物 の目 録に つい ては 取り 上げ て言 及し ない 傾向 にあ るが

︑詳 細な 解 説 がな され た数 少な い例 とし て︑ 本作 の画 集に 所収 され たヘ ンリ ー・ ス ミス の 著 述 が挙 げ ら れる

︒ス ミ ス の緻 密 な 分 析は

︑玄 魚の 造形 上の 特色 につ いて 理解 を深 める とい う点 にお いて 学ぶ とこ ろが 多い

︒し かし なが ら︑ スミ スは 玄 魚 を﹁ 絵師

﹂と 称し

︑目 録以 外に も浮 世絵 の摺 物や 揃物 とし て販 売す る際 の袋 絵を 制作 した こと を指 摘す る傍 ら︑ 原 稿 の清 書を 生業 とす る﹁ 筆耕

﹂で あり

︑浮 世絵 を専 門と しな いと 言 及し て い る

︒ こ こに 玄 魚 を︑ 芸術 家 と いう よ り も

︑﹁ 筆 耕﹂ とい う職 人と して 扱う

︑彼 に対 する 評価

・位 置付 けが 垣間 見え るよ うで 興味 深い

︒ 同じ く初 代広 重の 作﹃ 六十 余州 名所 図会

﹄︵ 越 村屋 平助 版︶ は︑

﹁江 戸名 所百 景﹂ より やや 早い

︑嘉 永六 年︵ 一八 五 三

︶か ら安 政三 年︵ 一八 五六

︶に かけ て刊 行さ れた 大判 錦絵 揃物 であ る︒ この 作品 にお ける 玄魚 作の 目録

︿図 2﹀ に つい て は︑ 大久 保 純 一 が詳 細 に 解説 し て いる

︒大 久 保 は︑ 玄魚 を﹁ 意匠 家﹂ と称 し︑ これ は芸 術家 と職 人の 両 義を 含ま せて いよ う︒ ここ でも 図様 の詳 細な 分析 がな さ れて おり

︑ス ミス 著同 様︑ 玄魚 の作 風を 知る 上で の重 要 な手 がか りと なっ てい る︒ ま た

︑錦 絵 揃 物目 録 そ のも の に つい て の 研 究 と し て

︑ 鈴 木 重三 の

﹁浮 世 絵﹁ 揃物

﹂詩 論

﹂を 挙 げ た い︒ こ こ で鈴 木は

︑錦 絵揃 物目 録に つい て︑ その 起源 や︑ 目録 が 揃 物 全体 に 与 える 効 果 等に つ い て 考察 を 展 開し て い る

2

「六 十 余 州 名 所 図」目 録 国 立国会図書館蔵

梅 素 玄 魚 考

五 三

(5)

錦 絵揃 物目 録に 着目 した 点や

︑そ の意 義に まで 追及 して いる とい う点 にお いて

︑貴 重な 研究 であ ると いえ る︒ 以上 に挙 げた

︑浮 世絵 研究 にお ける 諸文 献か ら︑ 浮世 絵界 にお ける

︑錦 絵揃 目録 作家 とし ての 玄魚 像が 浮か び上 が っ てき たが

︑目 録以 外の 作品 につ いて も検 証を 要す るだ ろう

︒ そこ

で次 に︑ 千社 札研 究に おけ る玄 魚に 関す る考 察に 注目 した い︒ 千社 札そ のも のは

︑制 作と その 享受 にお いて 浮 世 絵と も深 い関 連が ある が︑ ここ では ひと まず 風俗 史学 の立 場か らの 玄魚 考察 につ いて 検証 した い︒ 玄魚 と千 社札 につ いて

︑詳 細な 考察 がな され てい る研 究例 と して

︑滝 口 正 哉 の﹃ 千社 札 に みる 江 戸 の社 会

﹄を 挙 げ たい

︒こ こで 滝口 は︑ 玄魚 の関 与し た作 品と して こ れ らを 表 に まと め

︑分 野 ごと の 解 説 およ び 分 析を 試 み てい る

︒ こ のよ うな 方法 によ る玄 魚研 究は

︑他 分野 にお いて は未 だ発 達途 上で あり

︑玄 魚作 品を 具体 的か つ明 確に した とい う 点 にお いて

︑大 いに 意義 のあ る研 究で ある とい えよ う︒ これ らの 分析 の結 果︑ 玄魚 は﹁ 広い 交際 範囲 を背 景に 自ら が意 匠を 提供 する 作品 が幕 末・ 維新 期の 江戸 東京 の文 化 社 会 の 一 翼を 担

﹂い

︑ま た︑

﹁ 言い 換 え れば

︑梅 素 玄 魚 は幕 末

・維 新 のい わ ば メデ ィ ア プ ロデ ュ ー サー の 一 人 で あ っ た

﹂ とい う玄 魚評 価に 結実 して いる

︒こ の点 にお いて も︑ 浮世 絵研 究に お ける 玄 魚 評 価と は 一 線を 画 し てお り 興 味 深い

︒強 いて 言え ば︑ この 研究 にお いて は︑ 各作 品の 図様 分析 や玄 魚の 芸術 性に まで 考察 が及 んで いな いこ とが 難 点 であ るが

︑風 俗史 学上 の研 究に おい て︑ その よう な分 析や 考察 が必 要で ある かど うか は甚 だ疑 問で あり

︑江 戸文 化 全 体を 取り 巻く 社会 の中 での 玄魚 の位 置付 けが

︑こ こに おい て明 確化 され たこ とは 評価 に値 する

︒ 最後

に︑ ジャ ーナ リズ ム史 とい う分 野に おけ る︑ 玄魚 に関 する 研究

︑す なわ ち安 政二 年︵ 一八 五五

︶一

〇月 に起 こ っ た大 地震 後に 出回 った 鯰絵 につ いて 検証 して いき たい

梅 素 玄 魚 考

五 四

(6)

鯰絵 に関 する 研究 は数 多く 存在 する が︑ 鯰絵 とい う︑ 非合 法で 制作

・販 売さ れた とい う特 質上

︑玄 魚作 と断 定で き る もの は数 少な い︒ その よう な事 情も 含め

︑近 年の 諸研 究に おけ る玄 魚の 鯰絵 制作 につ いて の記 述は

︑概 して 次の 文 献 を典 拠と して いる

︒ それ は︑ 幕末 の戯 作者 であ り︑ 玄魚 の友 人で もあ る笠 亭仙 果︵ 一八

〇三

│一 八六 八︑ のち の二 代目 柳亭 種彦

︶が 安 政 の大 地震 を記 録し た随 筆﹃ なゐ の日 並﹄ であ る

︒ うち

︑玄 魚に 関す る 記述 を 抜 粋 して 要 約 する と

︑玄 魚 は品 川 屋 久 助と いう 版元 の依 頼で

︑﹁ 焼 場方 角付

﹂と いう 地震 によ る 火災 の 出 火場 所 や 被害 状 況 を 報じ た 瓦 版の 版 下 を書 い て い たと のこ とで ある

︒こ の﹁ 焼場 方角 付﹂ とは

︑地 震直 後か ら出 回 り︑ 現在 で い う 緊急 災 害 速報 で あ った が

︑火 災 が 落ち 着い てく ると とも に︑ 震災 を報 じる 瓦版 は戯 作性 を帯 び︑ いわ ゆる 鯰絵 とな って いっ たよ うだ

︒仙 果の 記述 か ら は︑ いち 早く 震災 状況 の報 道を 依頼 され た﹁ ジャ ーナ リス ト﹂ とし ての 玄魚 像が 浮か び上 がっ てく るの であ る︒ また

︑同 じく 玄魚 の友 人︑ 仮名 垣魯 文︵ 一八 二九

│一 八九 四︶ も玄 魚の 鯰絵 につ いて

︑の ちの 明治 一三 年︵ 一八 八

︶の 著書

﹃芳 譚雑 誌原 文抄 出 梅素 小伝

︵以 下﹃ 梅素 小伝

﹄︶

﹄ にお いて 次の よう な逸 話を 残し てい る︒ 震 災 後︑ 多く の 版 元が 玄 魚 宅に 詰 め 寄 り鯰 絵 制 作を 依 頼 し︑ さら に は

︑そ の 光景 を パ ロ デ ィ ー 化 し た︑ 鯰 の 頭 の 人 々︵ 版元 達︶ が玄 魚の 机の まわ りを 囲む 絵ま でも が作 られ たと の こと で あ る

︒ し かも

︑多 く の 人が こ の よう な 鯰 絵 を買 い求 めた ため

︑玄 魚は 震災 長者 の一 人に 挙げ られ たそ うで あ る

︒ ここ か ら︑ 玄 魚 の需 要 と 知名 度 の 上昇 の 様 子 が読 み取 れる ので ある

︒ 以上

︑諸 分野 の先 行研 究に おけ る玄 魚に 関す る記 述を

︑玄 魚の 評価 や位 置付 け注 目し なが ら拾 い上 げて きた

︒こ れ ら を総 括す ると

︑彼 の制 作活 動は 王道 とは 言え ない が多 岐に わた って いた こと

︑ど の分 野も 共通 して 出版 界と 関わ り を 持っ てい たこ と︑ おそ らく 今日 私た ちが 知る 以上 の知 名度 があ った とい うこ とな どが 浮か び上 がっ てき た︒ その 結 梅 素 玄 魚 考

五 五

(7)

︑本 稿の 目的 であ る玄 魚の 全体 像を 把握 する ため の︑ 糸口 が見 えて きた よう に思 われ る︒ 二︑ 玄 魚 の生 涯 に つい て 前掲

の﹃ 梅素 小伝

﹄は

︑玄 魚と 三〇 年以 上の 親交 のあ る︑ 仮名 垣魯 文が 著し た玄 魚の 伝記 であ る︒ 玄魚 が六 四歳 で 没 した 明治 一三 年︵ 一八 八〇

︶二 月の 翌 三 月よ り

︑玄 魚 追悼 の た め﹃ 芳譚 雑 誌﹄ と い う雑 誌 に 連載 さ れ た︒

﹃芳 譚 雑 誌

﹄と は︑ 上野 池之 端の 薬舗 主人

︑九 代目 守田 治兵 衛︵ 一八 四一

│一 九一 二︶ が自 店の 宣伝 のた めに 出資 し︑ 明治 一 一 年︵ 一八 七八

︶か ら一 七年

︵一 八八 四︶ に か けて 刊 行 され た 雑 誌で あ る︒ こ の 治兵 衛 は︑

﹁ 宝丹

﹂の 包 み 紙や 効 能 書 の図 案を 玄魚 に依 頼し てお り︑ また 玄魚 は自 宅を

﹁宝 丹﹂ の大 売捌 所︵ 販売 代理 店︶ とし て販 売を して いた とい う か ら︑ この 二人 の交 際が 親密 であ った こと は確 かで ある

﹃ 梅素 小伝

﹄は のち に︑ 亀戸 天神 境内 妙義 社付 近に 玄 魚の 記 念 碑建 築 計 画の 際 の︑ 寄 付 者へ の 配 本と し て 魯文 自 ら 再 編し

︑治 兵衛 の﹁ 序言

﹂を 付し て明 治一 八年

︵一 八八 五︶ 三月 に刊 行さ れた が︑ 実際 に建 碑が なさ れた かど うか は 不 明で ある

︒ 本章 では 玄魚 の生 涯を 検証 する ため の基 本文 献と し て︑ この

﹃梅 素 小 伝

﹄ を 引用 す る︒ ま たこ れ に 並行 し て︑ 各 時 期に おけ る玄 魚の 作品 遍歴 や交 際関 係に つい て紹 介す る︒ なお

︑作 品に つい ては 玄魚 作と 断定 でき るも のを 主に 扱 い

︑画 の内 容等 の詳 細な 分析 は次 章に 譲る

︿幼 少期

﹀ 文化 一四 年︵ 一八 一七

︶秋

︒玄 魚︑ 日本 橋本 石町 に生 まれ る︒ 本名 はの ちに 父と 同じ 宮城 喜三 郎を 名乗 るが

︑幼 名

梅 素 玄 魚 考

五 六

(8)

は 不明 であ る︒ 玄魚 は宮 城家 の一 粒種 であ り︑ 六代 目 にあ た る

︒ 玄 魚 の父

︑五 代 喜 三郎

︵一 七 八 六│ 一八 四 八︶ は

大 経師

︵表 具師

︶を 生業 とし た︒ この 父︑ 五代 喜三 郎は

︑国 学者 で歌 人の 岸本 由豆 流︵ 一七 八八

│一 八四 六︶ に入 門

︑﹁ 玄 魚﹂

︑﹁ 喜 哉﹂ と号 す︒ 玄魚 の号 も︑ この

﹁玄 魚﹂ の号 を継 いだ もの で︑ オタ マジ ャク シを 意味 する

﹃ 梅素 小伝

﹄に よれ ば︑ 玄魚 は﹁ 年甫 三才 の頃 よ り硯 に 親 み筆 墨 を玩 弄 び父 母 に迫 り て 白 紙を 乞 ひ 蚯蚓 書 を以 て 常

の 遊戯 に換 る

﹂ とあ り︑ 幼年 の頃 から 書へ の関 心が 強か った こと が述 べら れて いる

︒同 じく 幼少 期の 逸話 とし て︑

!"

翌 年︹ 玄魚 四歳 の頃

︺春 の事 成し が︑ 猪路 々々 歩行 の際

︑そ の家 の近 傍に 道 普 請の 往 来 車止 の 制札 を 建 たる が

土 木功 成て 其建 牌路 傍に 倒れ たる を︑ 喜三 郎此 牌の 文字 を人 指の 頭に て撫 るこ と数 度︒ 家に 帰り て毎 例の 如く 紙

筆 を乞 ふて

︑前 に指 頭に て撫 習ひ し車 止の 二 字 を書 す る︒ 字 体 整 ひ位 置 備 り て︑ 未 だ初 登 山 の麓 を も 過ら ざ る

三 四才 の小 児の 業と は思 はれ ず

︒︹ 後略

︺︵ 読点

︑︹

︺内 筆者

︶ 四歳 の時

︑制 札に 書か れた

﹁車 止﹂ の文 字を 指で なぞ って 覚え

︑幼 児と は思 えな いほ どに 整っ た字 体で 書き 写し た と のこ とで ある

︒玄 魚が 書に 関し て天 賦の 才が あっ たこ とが うか がえ る︒

︿青 年期

﹀ 天保 二年

︵一 八三 一︶

︑ 一五 歳の 時︑ 浅草 諏 訪町 の 書 画骨 董 舗︑ 金 子吉 兵 衛 家 の丁 稚 と なっ た

︒こ こ でも

︑彼 の 書 に まつ わる 逸話 が残 され てい る︒

主 家 営業 の 多忙 き に より 書 筆 を好 む も 曾 て其 余 暇を 得 ず︒ 然 れ共 天 賦 の 才筆 範 本 を 座 辺 に 据 て 之 を

#

筆 す る に

原 書の 筆勢 字体 に比 して 毫も 違へ ず

︒︵ 読点 筆者

︒︵

︶ 内原 著︒

︶ 丁稚 とな って から は書 をた しな む余 暇も ない 玄 魚 であ っ た が︑ 範本

︑お そ ら く店 で 扱 っ てい た 書 の類 で あ ろう が

︑ こ れを 本物 と見 紛う ほど 正確 に書 き写 した との こと であ る︒ 梅 素 玄 魚 考

五 七

(9)

この 吉兵 衛家 には

︑五

︑六 年務 めた が︑ の ち 天保 七 年︵ 一 八三 六

︶︑ 玄 魚二

〇 歳 の 頃︑ 実父 喜 哉 老衰 の た め実 家 に

!

"

戻 り︑ 家業 の大 経師 を継 い だ︒ そ の傍 ら

︑玄 魚 は﹁ 或時 は 他 の需 む る ま に

!

"

種 々 の模 様 雛形

︑招 牌の 大 字 を書 し

或 ひ は 其 頃世 に 流行 せ し 千社 参 詣 の 題名 牌 に 着 色 あ る 版 下 を 書 認 め

︑自 己 も 其 社会 に 入 て

﹂︵ 句 読 点

︑︹

︺ 内 筆 者

︶と あり

︑次 に説 明す るが

︑様 々な 副業 を行 って たこ とが 分か る︒ まず

︑小 袖類 の柄 見本 帳で ある 雛形 模様 につ いて は︑ 大経 師の 素養 とし て︑ 玄魚 が有 職文 様に 精通 して いた こと は 容 易に 想像 でき

︑副 業的 では ある が︑ この 時期 の玄 魚が す で に出 版 界 と関 わ り があ っ た こ とを 示 す 好材 料 と なろ う

次 に︑ 招牌

︵看 板︶ の大 字と ある が︑ 商家 の店 頭に 掲げ たも のか もし れな いし

︑広 告印 物を 招牌 と呼 ぶこ とも あっ た

よ うな ので

︑詳 細は 判然 とし な い

︒ま た︑ 千 社札 の 図 案制 作 を した こ と や︑ 千 社札 の

﹁社 会︵ 連︶

﹂に 入 っ てい た こ と も触 れら れて おり

︑こ こで も出 版界 との 繋が りを 読み 取る こと がで きる

︒ この 青年 期に おい て︑ 丁稚 時代 に書 画の 名品 に触 れ︑ 美的 感性 を養 う機 会を 得た こと

︑ま た︑ 実家 を継 ぎ大 経師 と し て︑ 書画 に装 飾を 施し 鑑賞 品と して 完成 させ る技 術を 磨い たこ とは

︑の ちに

﹁図 案家

﹂と して 開花 する ため の礎 と な った こと であ ろう

︿壮 年期

﹀ 嘉永 元年

︵一 八四 八︶

︑ 父喜 三郎 が 他界 し

︑玄 魚 は妻 を 迎 える

︒こ の 二︑ 三 年 のち

︑魯 文 は︑ 玄 魚宅 を 初 めて 訪 ね て いる

︒玄 魚三 四歳

︑魯 文二 二歳 の頃 であ った

︒こ の二 人の 親交 は︑ 玄魚 が六 四歳 で没 する まで

︑三

〇数 年続 く︒ この 時期 より

︑玄 魚の 署名 が次 第に 当時 の刊 行物 にみ られ るよ うに なる

︒一 番早 い時 期の もの では

︑嘉 永二 年か ら 三 年に かけ て刊 行さ れた

︑江 戸 内 外の 記 録﹃ 武 江年 表

﹄︵ 正 編八 巻

︑斎 藤 月 岑編

︑須 原 屋 伊八 ら 合 梓︶ の巻 末 に﹁ 后 輯 四巻 傭書

宮 城呂 成﹂ とあ り︑ 玄魚 が 後 半の 四 巻 の傭 書

︵筆 耕︶ を 担当 し た こ とが 記 さ れて い る︒

﹁ 呂成

﹂は 玄 魚

梅 素 玄 魚 考

五 八

(10)

の 別号 で︑ 本姓

﹁宮 城﹂ の漢 字か らそ れぞ れ﹁ ウ﹂ 冠と

﹁土

﹂偏 を除 いた もの であ る︒ また

︑傭 書以 外に も︑ 弘化 五年

︵一 八四 八︶ から 慶応 四年

︵一 八六 八︶ にか けて 刊行 され た長 編伝 奇小 説﹃ 仮名 読 八 犬伝

﹄︵ 三 一編

︑為 永春 水ら 作︑ 歌 川国 芳 ら 画︑ 丁子 屋 平 兵衛 ら 合 梓︶ の うち

︑嘉 永 三 年︵ 一八 五

〇︶ に 刊行 さ れ た 九 編 下 冊の 裏 表 紙︿ 図3

﹀全 体 の図 案 を 玄 魚が 担 当 して い る こと が

︑﹁ 玉 石 子

﹂ の署 名 と︑ 玄 魚の ト レ ー ド マ ー ク であ る﹁ 凹凸 菱印

﹂︿ 図 4﹀ から 分か る︒ 傭書 とは 違い

︑よ り玄 魚の 創作 性が 発揮 され る︑ いわ ば﹁ 作品

﹂で ある

︒ こ の時 期の 裏表 紙絵 制作 を機 に絵 画的

︑創 作的 な内 容の 依頼 が増 えて いく ので ある

︒ 引き 続き 嘉永 五︑ 六年

︵一 八五 二︑ 五三

︶の 頃︑ 錦絵 揃物 目録 の依 頼が 舞い 込ん でく る︒ 嘉永 五年 から 翌年 にか け て 刊行 され た︑ 歌川 国芳

︵一 七九 七│ 一八 六二

︶画 の﹁ 木曽 街道 六十 九次 之内

﹂︵ 大 判錦 絵揃 物︑ 辻岡 屋文 助ら 合梓

︿図 5﹀ が時 期と して は早 い︒ 国芳 とい った 幕末 三大 浮世 絵師 に数 え上 げ ら れる 巨 匠 の作 品 に 関わ っ た 玄 魚は

︑安 政 年 間︵ 一八 五 四│ 一 八五 九

3

『仮名読八犬伝』九編下冊の裏 表紙 早稲田大学図書館蔵

4

3

に同じ(部分)

梅 素 玄 魚 考

五 九

(11)

に 入 る と

︑も う 二 人 の 巨 匠︑ 初 代 広 重 と 初 代 歌 川 国 貞

︵ の ちの 三 代 豊国

︑一 七 八 六│ 一 八 六 四︶ の 作 品 に も 携 わ る こと と な る︒ 初代 広 重 の錦 絵 揃 物 目録 に つ い て は

︑ 既に 第一 章で 紹介 した とお りで ある

︒ 錦 絵揃 物目 録制 作に 加え て︑ 玄魚 の安 政年 間に おけ る 主 な 活 動 の ひ と つ に

︑草 双 紙 の 図 案 や 装 丁 が 挙 げ ら れ る︒ 三大 巨匠 の内

︑初 代国 貞︵ 三代 豊国

︶と は︑ この 分 野に おい て関 係し てい る︒ 例 えば

︑天 保一

〇年

︵一 八三 九︶ から 明治 元年

︵一 八 六 八

︶に か け て刊 行 さ れた

︑長 編 伝 奇小 説

﹃児 雷 也 豪傑 譚

﹄︵ 四 三編 一 七 三 冊︑ 美 図 垣 笑 顔 ら 作︑ 和 泉 屋 市 兵 衛 版

︶ の 主た る挿 絵を 初代 国貞 が担 当す るが

︑そ のう ち︑ 数冊 分の 見返 し絵 は玄 魚の 図案 によ る︒ 見返 し絵 とは

︑草 双紙 の 見 返し

︑す なわ ち表 紙を めく った 次ペ ージ に︑ 標題

・作 者・ 絵師

・版 元等 の文 字情 報︵ 刊記

︶と とも に描 かれ た︑ 物 語 と関 連す る内 容の 略画 を示 す︒ おそ らく 天保 年間

︵一 八三

〇│ 一八 四四

︶頃 より 盛ん に挿 入さ れる よう にな った の で はな いだ ろう か︒ 玄魚 の見 返し 絵に 関し て︑ 嘉永 六年

︵一 八五 三︶ から 安政 二年

︵一 八五 五︶ にか けて 刊行 され た︑ 歌舞 伎劇 の小 説 化

﹃与 話情 浮名 横櫛

﹄︵ 七 編二 八巻

︑三 代 目瀬 川 如 皐原 稿

︑楳 田 舎好 文 作︑ 歌 川 国芳 画

︑山 本 平吉 版

︶に お いて も ま た

︑や はり 落款 を多 くは 残さ ない もの の︑ かな りの 点数 の見 返し 絵を 玄魚 が担 当し てい ると 思わ れる

︒本 作で

︑玄 魚 は 六編 の序 文︿ 図6

﹀も 執筆 して おり

︑こ の版 本の 制作 に携 わる 重要 人物 であ ると いう こと を証 明し てい る︒

"

!

この 頃の 彼の 人 気 振り に つ いて

︑魯 文 は︑

﹁︹ 前 略

︺凡 そ 錦 絵 合 巻︵ 所謂 草 双紙

︶の 版元 悉 く 梅素 亭に 来 訪し て 其

5

「木曽街道六十九次之内」目録 東京都立図書館蔵

梅 素 玄 魚 考

(12)

版下 の筆 耕と 外題 表紙 扉 の略 画︹ 見 返し 絵︺

︑巻 帙 の模 様

を托 すに

︑此 等 の物 玄 魚が 筆 に 出 ざれ ば 看者 最上

の 製

と せず

﹂︵ 句 点 と

︺内 筆 者

︑︵

︶ 内 原 著︶ と 述 べ て いる

︒こ れ は︑ 錦 絵 や 草 双 紙 の 筆 耕

︵傭 書

︶︑ 外 題 表 紙 扉︵ 見返 し 絵︶

︑ さら に は 包装 用 の 袋 絵 ま で を も 玄 魚が 請け 負っ てお り︑ 玄魚 作で なけ れば 最上 品で はな い とま でさ れて いた こと を示 して いる

︒図 案家 とし ての 人 気を 不動 のも のと した のち は︑ さす がに 傭書 の方 は同 業 の輩 に譲 って いた よう であ る

︒ 草双 紙や 錦絵 の制 作に 携わ る中

︑玄 魚の 交際 関係 も一 気に 華や かに なっ てい く︒ 浮世 絵師 では 前出 の三 代豊 国︑ 国 芳

︑初 代広 重︑ その 他門 人数 名︑ また 歌 舞 伎作 者 で は二 代 目 河竹 新 七︵ 一 八 一六

│一 八 九 三︶

︑三 代 目 瀬川 如 皐︵ 一 八

〇 六

│一 八 八 一

︶︑ 戯 作 者 で は 前 出 の 仙 果︑ 柳 下 亭 種 員︵ 一 八

〇 七│ 一 八 五 八︶

︑楽 亭 西 馬

︵一 七 九 九│ 一 八 五 八

︶︑ そ の他 梨園 の人 々な ど︑ 玄魚 は彼 らと の交 際を 通し て︑ 創作 活動 の向 上の 糧と して いっ たよ うで ある

︒ さら に︑ もう ひと つの 転機 が玄 魚に 訪れ る︒ それ は安 政二 年一

〇月

︑江 戸を 襲っ た大 地震 であ る︒ 震災 直後

︑玄 魚 に 鯰絵 の依 頼が あっ たこ とは 既に 述べ たが

︑そ のよ うな 利益 はし ょせ ん水 物で あっ た︒ 魯文 は︑ 震災 後の 玄魚 につ い て 次の よう な逸 話を 残し てい る︒

一 日繁 筆の 寸暇 板元 何某 に誘 引せ られ

︑此 頃山 谷堀 に開 業た る豚 鍋を 食せ ん迚 彼處 に到 り︒ 食に 就に 豚肉 の味 奇

ら し く 佳味 を 覚 え︑ 玄 魚 食 す る 事 分 に 過 た る よ り

︑所 謂 食 傷 の 気味 と て 心地 常 な ら ず

︒家 に 帰 り て 吐 瀉 激 し

"

!

︑其 夜苦 悩に 堪ず

︒遂 に病 痾と なり 病床 に平 臥す るを

︑二 ヶ月 余り 鯰を 画き 填詞 して 得た る金 は悉 く医 療薬 用

6

『与話情浮名横櫛』序文 早 稲田大学図書館蔵

梅 素 玄 魚 考

六 一

(13)

の 資金 と成

︑漸 く全 快に 趣き し折

︑地 本屋 品川 屋久 助が

︵狂 句の 号田 舎︶ 其枕 辺を 訪ふ て﹁ 喰溜 めた 鯰を 豚で 皆

!

"

吐 し

﹂と 言 棄 た る に 見 舞 に 来 た り 傍 辺 に 居 合 せ た る 人々 も 掌 中 を 打 て 笑 ひ あ へ り

︒︵ 句 読 点 筆 者

︑︵

︶ 内 原 著

︶ これ によ ると

︑震 災後 繁忙 を極 めて いた 折︑ ある 版元 に誘 われ て近 々開 業し た豚 鍋を 食べ に行 った とこ ろ︑ 食あ た り をお こし て二 か月 間も の間 病床 につ いて しま った とい う︒ 回復 まで に医 療費 がか かり

︑と うと う鯰 絵に よっ て得 た 収 入は 底を つい てし まっ たそ うだ

︒見 舞い に来 た版 元品 川屋 久助 が の 句が 皆の 笑い を誘 った

︒ 利益 は失 った もの の︑ 前述 した よう に︑ 玄魚 の稼 ぎ振 りが パロ ディ ー化 され たほ どで ある から

︑震 災を 機に 玄魚 の 名 が市 井の 人々 にま で一 気に 広ま った こと は間 違い ない だろ う︒ 以上 に述 べた よう に︑ 安政 年間 の頃

︑様 々な 要因 が働 いて 玄魚 は大 躍進 を遂 げた が︑ 彼の 制作 活動 はこ の期 をピ ー ク に

︑ゆ っ く りで は あ るが 減 少 傾向 を た ど るの で あ る︒ この こ と は 必ず し も 玄魚 人 気 の低 迷 を 意 味す る も の で は な い

︒し かし なが ら︑ それ では

︑万 延 か ら慶 応 年 間︵ 一八 六

〇│ 一 八六 八

︶︑ 激 動 の幕 末

・維 新 の頃

︑玄 魚 は どの よ う な 日々 を送 って いた ので あろ うか

︿中 年期

﹀ 万 延 元年

︵一 八 六

〇︶

︑玄 魚 四 四 歳 の 時

︑親 友 で あ る 魯 文の 出世 作﹃ 滑稽 富士 詣﹄

︵ 七編 一四 巻︑ 歌川 国虎 画︑ 芙 蓉 堂 版

︶︿ 図 7﹀ の 刊 行 が 開 始 す る︒ 玄 魚 は︑ 表 紙・ 裏 表紙 とも に見 返し 絵を 提供 する ほか

︑三 編上 巻で は序 文 も執 筆し てい る︒

7

『滑稽富士詣』三編下巻 国立国会図書館蔵

梅 素 玄 魚 考

六 二

(14)

そ の 他︑ 錦絵 揃 物 目録 や 草 双紙 の 見 返 し絵 や 装 丁︑ ある い は︑ 双 六︑ 錦絵 の 背 景・ コ マ 絵︑ 一 枚 も の の 横 浜 絵 な ど

︑数 にお いて は安 政の 頃ほ どで はな いが

︑様 々な ジャ ンル の依 頼を 受け

︑玄 魚の 特色 の一 つで ある 多様 性は

︑更 に そ の幅 を広 げて いっ た︒ 同じ く文 久元 年︑ 玄魚 の出 世を 支え た一 人で ある 国 芳 か他 界 し︑ そ の追 善 の ため に 刊 行 され た 死 絵が 刊 行 され た

︒ 国 芳門 人の 歌川

︵落 合︶ 芳幾

︵一 八三 三│ 一九

〇四

︶が 画を 担当 する が︑ 山々 亭有 人︵ 一八 三二

│一 九〇 二︑ のち の 條 野採 菊︶

︑ 魯文 とと もに 玄魚 も追 悼句 を寄 せ てい る

︒後 年︑ 国 芳の 筆 塚 建設 の 際 に も玄 魚 が 傭書 を し てお り

︑こ の こ とか らも

︑玄 魚と 国芳 門人 達と の親 交が 読み 取れ よう

︒ 創作 活動 のか たわ ら︑ 文久 年間

︵一 八六 一│ 一八 六三

︶末 の頃

︑前 出の 新七

︑有 人︑ 芳幾

︑魯 文ら と三 題噺 再興 の 会

﹁粋 狂連

﹂を 結成

︑次 第に 流行 とな った

︒三 題噺 とは

︑客 から 任意 に 三つ の 題 を 出さ せ

︑こ れ を即 興 で 綴り 合 せ て 一席 の落 語と する 落語 の一 種 で ある

︒文 化 元 年︵ 一八

〇 四︶

︑ 三笑 亭 可 楽︵ 一 七七 七

│一 八 三三

︶が 創 始 した と い わ れて いる

︒ この

﹁粋 狂連

﹂に は︑ 金座 役員 が出 資し

︑本 職の 落語 家︑ 柳亭 左楽

︵生 年不 詳│ 一八 七二

︶や 三遊 亭園 朝︵ 一八 三

│一 九〇

〇︶ も参 加し た︒ この 流行 に乗 じ て︑

﹁興 笑 連﹂ と いう 会 も 結 成さ れ た

︒﹁ 三題 茶 漬︑ 三題 菓 子︑ 煙管 に

三 題張 衣類 に三 題染

︑或 は三 題櫛

︑三 題 簪

﹂︵ 句点 筆 者︶ など

︑こ の 頃 の 新商 品 に は︑ 悉く

﹁三 題

﹂の 二 字が 冠 せ ら れる ほど

︑一 大社 会現 象に もな った よう であ る︒ 文久 三年

︵一 八六 三︶ には

︑﹃ 粋 興奇 人伝

﹄︵ 仮名 垣魯 文・ 山々 亭 有 人合 編︑ 歌川 芳幾 画︑ 丸屋 徳造 版︶ と題 した

﹁粋 狂連

﹂︑

﹁ 興笑 連﹂ の人 物伝 集ま で刊 行さ れる とい った 過熱 ぶり で あ った

︒ 同じ く文 久三 年に おい て︑ この 年行 われ た第 一四 代将 軍徳 川家 茂の 上洛 を描 いた 大判 錦絵 揃物 一六 二枚 とい う超 大 作

︑い わ ゆ る﹁ 御 上洛 東 海 道

﹂︵ 三 代 豊 国ら 合 作

︑越 前 屋嘉 十 ら 合梓

︶が 刊 行 され た

︒玄 魚 は この 目 録 を 担 当 し て 梅 素 玄 魚 考

六 三

(15)

い る︒ 目録 の図 案は 二種 あり

︑一 つは 一五 五枚 組︑ ある いは 一六 二枚 組用 に作 られ

︑も う一 つは 五五 枚組 用に 作ら れ

た も の で あ る︒ 後 者 に は﹁ 三 題 咄 の 御笑 楽︹ 御上 洛 の 掛 詞

︺仲 間 玄 魚

!

﹂︵

︺ 内 筆 者︶ と あ り︑ 当 時 玄 魚 が

﹁粋 狂連

﹂の 活動 に傾 倒し てい た様 子が 示さ れて いる

この 頃よ り︑ 慶応 年間 にか けて

︑粋 狂連

・興 笑連 合同 の﹁ 狂画 合﹂ が開 催さ れる

︒こ こに 玄魚 も絵 師︑ ある いは 評 者 と し て 参 加 し た と の こ と で あ る

︒当 時 の 玄 魚 は も は や︑ 制 作活 動で はな く︑ 趣味 世界 の活 動を 専ら とし てい たよ うで あ る︒ 混沌 の幕 末・ 維新 を経 て明 治の 世に なっ たの は︑ 玄魚 五 二歳 の時 であ る︒ 彼の 趣味 人と して の生 活は 晩年 まで 続く の であ った

︿晩 年﹀ 明治 三年

︵一 八七

〇︶ から 九年

︵一 八七 六︶ にか けて 刊行 さ れ た︑ 魯 文 の 代 表 作﹃ 西 洋 道 中 膝 栗 毛

﹄︵ 一 五 編 三

〇 冊︑ 一 二編 より 総生 寛作

︑芳 幾ら 画︑ 万笈 閣版

︶に は︑ いく つか の 挿 絵 に 狂歌 が 添 えら れ て おり

︑玄 魚 も 三 句を 残 し て い る︒

︿図 8﹀ 一 方︑ 装丁 や 見 返し な ど に玄 魚 の 手 が加 え ら れ た 形 跡 はな い︒ こ の 他︑

﹁六 二 連﹂ と いう 劇 評 グル ー プ の 幹事 を 九 代 目 市 川 團 十 郎︵ 一 八 三 八│ 一 九

〇 三︶ と と も に 務 め

︑﹃ 俳 優 評

8

『西洋道中膝栗毛』初編上巻 早稲田大学図書館蔵

梅 素 玄 魚 考

六 四

(16)

判 記﹄ とい う劇 評誌 も刊 行し てい た︒ この

﹃俳 優評 判記

﹄は

︑明 治一 一年

︵一 八七 八︶ から 一九 年︵ 一八 八六

︶に か

け て二 七冊 が刊 行さ れて おり

︑六 二連 の活 動 も ほ ぼこ の 時 期と み て よい だ ろ う︒ さ らに 玄 魚 は︑

﹁楽 屋 白粉

﹂と い う

も の を 作 り販 売 し てい た ら しく

︑こ の 頃 梨 園 と の 繋 が り が 強 か っ た こ と が う か が え る

︒こ の

﹁楽 屋 白 粉﹂ の 販 売 や

︑先 述 の 守 田治 兵 衛 薬舗 が 販 売す る

﹁宝 丹

﹂の 代 理店 業 な どか ら の 収 入で

︑生 活 そ のも の は 安 泰 し て い た の だ ろ う

︒こ の頃 から は︑ 二世 梅素 玄魚 こと 関根 薫︵ 本名 竹二 郎︑ 生没 年不 詳︶ が︑ その 画業 を開 始さ せて いる

︒そ の他 と し ては

︑﹁ 五 号の 平仮 名﹂ と称 され た︑ 活版 印刷 にお ける 活字 の制 作に 関わ って いた こと も知 られ てい る

︒ 明治 一一 年に は︑ 魯文 が会 主と なり

︑﹁ 珍 猫百 覧会

﹂と い う猫 に 関 する 書 画 骨董 品 な ど を展 示 す ると い う 大規 模 な イ ベン トが 開催 され た︒ 魯文 の旧 友 と して 玄 魚 は︑ 河竹 新 七︑ 瀬 川如 皐 と と もに

︑﹁ 三 翁﹂ と 呼ば れ

︑後 見 役と し て 会 の 隆 盛 を見 守 っ た

︒ 晩年 は こ のよ う に 遊 芸 の 世 界 に 生 き な が ら

︑明 治 一 三 年︵ 一 八 八

〇︶ そ の 生 涯 に 幕 を 閉 じ る

︒享 年六 四歳

︒辞 世の 句﹁ 何時 に迎 が来 ても ここ ろよ く 南無 阿弥 陀仏 六時 ごろ なり

﹂︒ 以上

︑玄 魚の 生涯 を︑ 彼の 作品 やそ の他 の活 動と とも に編 年的 に検 証し た︒ ここ にお いて

︑玄 魚の 業績 の全 体像 の 輪 郭線 がか なり 鮮明 にな って きた よう にも 思わ れる

︒次 章は

︑そ の輪 郭線 の内 側︑ すな わち 玄魚 作品 を分 析し

︑彼 の 独 自性

・芸 術性 を明 らか にし たい

︒ 三︑ 玄 魚 の作 品 に つい て 本章

では

︑玄 魚の 独自 性・ 芸術 性に つい ての 考察 を目 的と して いる ため

︑彼 の業 績の うち

︑玄 魚自 らの 創作 性が 発 揮 でき ない もの

︑す なわ ち︑ 純粋 に原 稿の 清書 とい う意 味で の傭 書に つい ては 取り 上げ ない

︒し たが って

︑玄 魚の 業 梅 素 玄 魚 考

六 五

(17)

績 の主 軸で ある 図案

・意 匠に 関す るも のを 主に 取り 上げ る︒ また

︑本 研究 にお いて 筆者 は玄 魚の 膨大 な数 の作 品の 分 析 を行 った が︑ 本稿 では 紙幅 の関 係上

︑玄 魚作 品の 特徴 がよ く表 れて いる 作品 を抜 粋し て考 察し たい

︿錦 絵揃 物目 録﹀ 玄魚 が︑ いつ ごろ から 揃物 目録 を制 作し

︑ど の 絵 師の 作 品 に関 わ っ たか は

︑前 章 に おい て 既 に述 べ た︒ こ こで は

︑ 前 掲の

﹁御 上洛 東海 道﹂ の目 録を 取り 上げ

︑玄 魚の 独自 の様 式や

︑描 かれ た内 容に つい て分 析し たい

﹁ 御上 洛東 海道

﹂の 目録 の図 案が 二種 あ る こと は す でに 述 べ た通 り で あ る︒ 一つ は

︑一 五 五枚

︿図 9﹀ 及 び一 六 二 枚 を組 にし て画 帖等 で売 り出 す際 に付 けら れた もの であ る︒ もう 一つ は︑ 五五 枚組 用︿ 10図

﹀の もの であ る︒ どち ら も 玄魚 作で ある が︑ その 図案 は全 く異 なっ てい る︒ まず

︑前 者で ある が︑ 鶴亀 を上 下に 配し た﹁ 東海 道名 所風 景﹂ と記 され た枠 があ り︑ これ はこ の揃 物全 体の 標題 を 図

9

「御 上 洛 東 海 道」目 録(一 五

五枚)河鍋暁斎記念美術館蔵

10

「御上洛 東 海 道」目 録(五 五 枚)静岡市地域産業課蔵

梅 素 玄 魚 考

六 六

(18)

示 して いる

︒本 編部 分の 表記

︑す なわ ち 一 図一 図 に おけ る 揃 物全 体 を 示 す表 記 は︑

﹁ 東海 道

﹂︑

﹁ 東海 道 名 所﹂

︑﹁ 東 海 道 名所 之内

﹂な ど統 一に 欠く が︑ この 目録 にお いて

﹁東 海道 名所 風景

﹂と いう 表記 がな され たの は︑ これ は江 戸時 代 当 時︑ 時事 的・ 政治 的な 内容

︑取 り分 け徳 川将 軍に 関す るこ とを 出版 する こと が禁 止さ れて いた とい う事 情を 考慮 し て

︑あ くま でも 東海 道の 風景 をテ ーマ とし て描 いて いる こと を強 調す る意 図が あっ たの だろ う︒ 続い て︑ 本編 部分 の各 画題 が五 段の 長方 形枠 の中 に箇 条書 きさ れる

︒各 画題

︑主 に地 名で ある が︑ その うち 東海 道

五 五の 宿駅 名が 目立 つよ う︑ 間の 宿や 周 辺 の名 所 は︑ 字 下げ を し て記 さ れ て いる

︒最 後 に︑

﹁ 通計 百 五 十五 番

︵あ る い は百 六十 二番

︶﹂ と

︑組 枚数 が示 され て いる

︒五 段 目 は別 に

﹁画 工﹂ 欄 が設 け ら れ︑ こ の揃 物 を 描い た 絵 師名 が 記 さ れて いる

︒そ れぞ れの 枠に は︑ 打雲

︑天 地ぼ かし

︑雲 形な ど料 紙を 模し た装 飾を 施し てい るが

︑こ のよ うな 装飾 料 紙 風の 意匠 は玄 魚の 他の 図案 にも 使用 例が 多く みら れ︑ 玄魚 の特 色の ひと つと 言え よう

︒ 背景 は︑ 笹竜 胆紋 を染 め抜 いた 幔幕 と松 竹梅 の意 匠が 描か れて いる

︒幔 幕は

︑大 名行 列の 際本 陣等 に掲 げら れ︑ 当 時 にお いて は東 海道 の旅 を象 徴す るモ チー フの ひと つで あっ た︒ また

︑笹 竜胆 は江 戸時 代に おい て︑ 源頼 朝の 紋と し て 認識 され てお り︑

﹁ 東国 の将 軍﹂ とい う連 想か ら転 じ て︑ 出版 物 や 歌舞 伎 の 衣装 等 に お いて は し ばし ば 徳 川将 軍 を 示 唆す るた めに 使わ れた

︒し たが って

︑文 字︵ 画題

︶に おい ては 東海 道物 錦絵 揃物 であ るこ とを 強調 しつ つも

︑背 景 に よっ て鑑 賞者 に将 軍上 洛の 絵で ある こと をほ のめ かし てい る︒ ただ し︑ 幕政 に対 する 好意 的態 度を 示す ため

︑松 竹 梅 とい うめ でた い図 柄も 抜け 目な く取 り込 んで いる

︒ さて

︑次 に五 五枚 用の 目録 であ る︒ 画面 は大 きく 三分 割さ れる

︒上 下に 有職 文様 風の 意匠 を施 した 霞形 を配 し︑ 中 央 部分 に揃 物本 体部 分の 各画 題︵ 宿駅 名︶ と副 題と して 画の 内容 を箇 条書 きに して いる

︒宿 駅名 はそ れぞ れ当 時の 国 別

︵﹁ 武 蔵﹂ 等︶ にま とめ られ てい る︒ 画面 右側 に 大き く 配 され た 槍 袋に

︑揃 物 全 体 の標 題 を 示す

﹁東 海 道 五十 三 駅 図 会﹂ の文 字が 記さ れて いる

︒槍 袋は

︑こ の揃 物の 本編 部分 の図 中に

︑将 軍の 行列 を示 唆す るモ チー フと して 数多 く 梅 素 玄 魚 考

六 七

(19)

描 かれ てい る︒ その 下方 には

︑文 机︑ 竹 鞭︑ 葵 が描 き こ まれ て い る︒ 文机 は 書 院︵ 政 務を つ か さど る 空 間︶

︑葵 は 徳 川 将軍

︵家 茂︶

︑ 竹鞭 は馬

︵移 動︶ を暗 示し

︑幕 府の 政 務機 関 が 一時 的 に 京へ 移 動 し たこ と

︑す な わち 将 軍 上洛 を 暗 示 して いる と解 釈で きよ う︒ なお

︑将 軍は 本来

︑乗 物と 呼 ばれ る駕 籠で 移動 する のが 習わ しで ある が︑ 家茂 は上 洛 時好 んで 馬に 乗っ て移 動し

︑ま たそ の姿 は庶 民に も目 撃 され てい たと いう

︿草 双紙 の表 紙見 返し 絵﹀ 玄魚 は前 述の 通り

︑草 双紙 の表 紙見 返し 絵を 数多 く手 掛 けて いる

︒彼 の画 業の 中で

︑点 数に おい ては

︑見 返し 絵 が一 番多 いと 思わ れる

︒見 返し 絵は 普通

︑表 紙を めく っ てす ぐの 頁に 掲載 され た図 案を 示す が︑ 本に よっ ては 裏 表紙 の見 返し 部分 にも 同様 の図 案が 掲載 され るこ とが あ る︒ 玄魚 の見 返し 絵の 図案 は︑ 竹や 梅等 の植 物や

︑掛 け軸

・ 扇子

・提 灯・ 食器 等の 身近 な小 道具 類︵ 静物 画︶ を意 匠 的 に 描 い た も の が 大 部 分 を 占 め る︒ こ こ で は 例 と し て

︑前 出の 長編 伝奇 小説

﹃児 雷也 豪傑 譚﹄ から

︑確 実に 玄 魚作 の落 款が 認め られ る見 返し 絵の うち いく つか を抜

11

『児雷也豪傑譚』二五編上 巻 早稲田大学図書館蔵 図

12

『児雷也豪傑譚』二五編下巻

早稲田大学図書館蔵

梅 素 玄 魚 考

六 八

(20)

粋 して 次に 挙げ

︑そ の内 容の 分析 をし てい きた い︒ まず

︑二 五編 上巻

︿図 11﹀ には

︑扇 子と 芙蓉 が描 かれ る︒ 扇子 には

︑﹁ 児 雷也 豪傑 譚 二五 篇 上之 巻 柳か

︹下

︺ 亭 種 員 作 一 雄斎 国 輝 画 甲寅 春 成 る 甘 泉 堂

﹂︵

︺ 内 筆 者︶ と 刊 記 が 記 さ れ て い る

︒同 二 五 編 下 巻

︿図 12﹀ に は

︑団 扇 と 菖 蒲が 描 か れる

︒団 扇 に は︑

﹁じ ら い や か う け つ も の が た り

︹児 雷 也 豪 傑 譚︺ に し ふ 五 へ ん

︹二 五 編

︺下 のま き︹ 下巻

︺た ねか づつ くる

︹種 員作 る︑ 一二 編 より

︺く にて るえ がく

︹国 輝描 く︑ 一六 編よ り︺ 泉市

︹和 泉屋 市兵 衛︺

﹂︵

︺ 内筆 者︶ と︑ 同じ く刊 記が 記さ れ てい る︒ ここ で︑ この 二つ の絵 が対 をな して いる こと に 気が 付く であ ろう

︒刊 記の 役割 をも 果た して いた

︑い わ ば付 属品 の見 返し 絵に

︑玄 魚は この よう な機 知を 含ま せ

︑鑑 賞品 とし ての 完成 度を 高め てい る︒ 同作 三一 編上 巻︿ 13図

﹀の 見返 し絵 に二 匹の 蛙が 描か れ てい るが

︑同 三一 編下 巻︿ 14図

﹀に これ また 二匹 の蛙

が 描 か れ てい る

︒﹃ 児 雷 也 豪 傑 譚﹄ は︑ 蝦蟇 の 妖 術 を 使 う 怪盗 児雷 也を 英雄 義賊 とし た伝 奇小 説で ある

︒そ れ故 に

︑蛙 を モ チ ーフ と し た図 様 が この 作 品 に 多 く 見 ら れ︑ 玄 魚画 も例 外で はな い︒ 下巻 には 落款 はな いが

︑こ の二 図 が 続 絵 と な っ て い る た め︑ 玄 魚 作 で あ る こ と が 分 か

14

『児雷也豪傑譚』三一編下 巻 早稲田大学図書館蔵

13

『児雷也豪傑譚』三一編上 巻 早稲田大学図書館蔵 梅

素 玄 魚 考

六 九

参照

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○玄委員 そこで、累積頻度 55%と 95%のほうで、それが平均風速で 55%と 95%か、最大 風速での