修士論文概要九五 本論は﹁従軍記者制度﹂成立過程の初発段階における重要な一事例である西南戦争を対象に︑戦地への新聞記者派遣とその取扱われ方について︑政府・軍・新聞社の三つのアクターの相互関連に注目して分析し︑通時的特色と意義を探ろうとするものである︒
第Ⅰ部﹁情報統制﹂では︑西南戦争における戦争情報に関する統制の全
体像を追究した︒
第一章﹁西南戦争以前の情報統制﹂では︑西南戦争における情報統制を
理解する前提として︑西南戦争以前の事例を整理した︒西南戦争以前の情
報統制は︑太政官布告によって官省側の情報漏洩を防止する一方︑新聞社
向けの報道規制はせず︑風説であれば掲載を禁止しないというものであっ
た︒政府から提供される情報が少なくても︑新聞社側への規制はなかった
ため︑新聞社は風説等の掲載や独自取材で記事を補うことが可能だった︒
第二章﹁戦争報道統制の開始と展開︱東京紙を中心に︱﹂では︑東京紙
を対象に︑政府による報道規制の展開過程と︑規制に対する新聞社側の対
応を明らかにした︒当初政府は根拠の無い説︵浮説︶と確実性の担保され
た説︵﹁確報﹂︶とを区別し︑太政官布告によって前者の掲載のみを禁止︑
警視局による事前検閲も開始した︒新聞社は確報掲載による民心安定を自
らの使命と捉えており︑規制は妥当視された︒しかし︑次第に報道規制が
強化され掲載禁止事項が設定されると︑確報であっても紙上に掲載できな い情報が生まれた︒これにより浮説や虚説の掲載を防止するという政府と新聞社の共通利益がくずれ︑浮説の規制には協力的だった新聞社も︑確報ならばすべて掲載すべしという立場と敗報は掲載しないという立場に分かれた︒以上のような報道姿勢に関する議論は︑熊本城の開城によって草稿の事前検閲が廃止されたことで︑解決されることなく争点として残った︒
第三章﹁政府による積極的情報公開﹂では︑政府が①電報の公開︑②内
務卿から府県宛の戦況達によって政府を情報源とする﹁確報﹂流通策を
とっていたことを指摘し︑検討を加えた︒情報公開の背景には︑政府が諸
勢力の反政府軍への呼応を恐れていたことがある︒そのため︑風説を沈静
化させる﹁確報﹂を流すことが必要であったが︑敗報の公表には慎重な姿
勢が取られた︒このような制約はあれど︑情報が欠乏している新聞社は両
者を﹁確報﹂として受容した︒
第四章﹁政府/軍内部における情報統制の展開﹂では︑九州から戦争情
報が発信される段階での処置に注目し︑現場での情報をめぐる問題を浮か
び上がらせ︑情報をいかに管理しようとしたかを明らかにした︒西南戦争
の勃発に伴い︑熊本近隣諸県は内務卿からの情報収集要請を受けて戦地へ
探偵人︵県官や警官︶を派出したが︑これは軍にとって二つの意味で不都
合であった︒第一に軍事関係者以外の戦地往来が取締上不都合であったこ
と︑第二に探偵人が諸県を通して中央政府に送る戦争報告に誤報が多かっ
たことである︒そこで軍は︑戦地の総督本営に諸県探偵人の戦地往来を認
可させ︑電報の真偽判断基準を担わせることで戦争情報の一元化を実現し
た︒当事者としての政府軍︑その意思決定機関である総督本営が情報の真
偽判断の基準となり︑戦地往来の官吏等を制限する権限も持った︒この措
置により︑政府は一定程度信頼できる情報を得ることが可能になった︒
第Ⅱ部﹁記者派遣﹂では︑記者の戦地入りの方法︑戦地での扱われ方の
変遷を︑統制主体と問題となった事項を中心に追い︑戦地派遣記者が統制
西南戦争における情報統制と記者派遣
渡 邊 桂 子
九六
されていく過程を検討した︒
第一章﹁西南戦争以前の記者派遣状況﹂では︑西南戦争以前に行われた
軍事行動への記者派遣を整理した︒台湾出兵では﹃東京日日新聞﹄の記者
が御用商人の手代という形で随行し︑政府は﹁新聞記者﹂という肩書での
随行を拒否しつつも随行を黙認していた︒江華島事件では︑﹃朝野新聞﹄
の記者が黒田清隆全権大使に随行を願い出た︒黒田は随行を差支なしとし
たが︑川村純義海軍大輔は軍艦への乗船を拒否した︒この際︑記者の乗組
は機密の問題等ではなく︑単に乗員数の問題で議論され︑陸軍軍人の乗船
と同列で対処されている︒その後︑記者の随行拒否が各新聞社に伝えられ
た︒以上のように︑西南戦争以前から﹃東日﹄以外の諸社も軍隊に随行し
ての取材を試みており︑政府/軍の側にも一定の理解があった︒
第二章﹁戦地への記者派遣︱熊本城連絡以前︱﹂では︑東京から派遣さ
れた記者が戦地に入るまでの流れを概観し︑どのような手続きで戦地入り
していたのかを詳しく検討した︒
西南戦争の勃発に伴い︑東京紙の記者が続々と九州入りを実現する︒各
社から派遣された記者達は︑京都・大阪で政府高官から戦地までの通行許
可証を得る等便宜を受け︑神戸参謀部の手配で戦地へと輸送された︒この
輸送事務は兵員輸送の場合と同様であり︑初めに行動を起した﹃東日﹄福
地桜痴への対応が先例となった︒ただし︑政府高官と軍との間には新聞記
者取扱に関する見解に相違があり︑政府高官が情報発信や記録という面か
ら戦地派遣記者を支援した一方︑戦地や阪神の参謀部等の﹁現場﹂は︑業
務を円滑に進行するために部外者が紛れ込むのを嫌ったのである︒
戦地では︑総督本営が記者の戦地往来を﹁公然﹂とは許可しなかったた
め︑記者達は個人的なコネクションを利用して官職を得︑通行印鑑を所持
するという既存の制度に則った形で戦地往来の資格を獲得した︒総督本営
は﹁県令の処置に任せる﹂というかたちでこれを黙認していた︒戦地の軍 は︑新聞記者を介した情報漏洩よりも︑軍事に関係の無い人間が本営に出入りすることで生じる混雑を嫌っていたのである︒前述のように︑戦地を軍事関係者以外が往来することは敵味方の判断を困難し︑情報発信の面でも不都合があったため︑戦地では探偵人の戦地往来を総督本営の許可を得て通行印鑑を持つ者に限っていた︒新聞記者への対処も︑戦場における人の管理という同様の文脈からなされていたのである︒
第三章﹁派遣記者取扱の展開︱熊本城開城以後の記者取扱情況︱﹂では︑
熊本城開城以後の戦地取材と記者の統制の変化を扱った︒熊本城開城後︑
戦地にいた新聞記者は熊本での取材と前線での取材が可能になった︒その
過程で︑各所の本営を廻って戦況を聴取する形式と︑特定の部隊に随行す
る形式が現われた︒前者においては︑許可を得て戦地を独行する方法と︑
士官に付添われて戦地を見学する方法があった︒後者においては常に士官
が随行した︒また︑政府軍で新聞記者に保護を与える決議があったという
新聞記事も見られる︒記者はただ単に戦地を駆け巡っていた状態から︑軍
の統制下に入ったのである︒
補章﹁九州紙の事例﹂では︑県庁との関わりが強かった長崎県の﹃西海
新聞﹄︑熊本県の﹃熊本新聞﹄︑愛媛県の﹃海南新聞﹄が西南戦争時とった
行動の一部を紹介し︑本論の分析結果に照らして若干の考察を加えた︒西
南戦争勃発を受け︑各紙は県下の民心安定のため︑県庁に情報提供を申込
む︒太政官布告第二一号を遵守しようという態度やその根拠は東京紙と同
様であった︒また︑﹃熊本﹄と﹃海南﹄は熊本城開城後に戦地での取材を
企図している︒﹃熊本﹄は各地の本営を廻っての戦況聴取を願い出て許可
された︒﹃海南﹄は記者を愛媛から九州に移動させる必要があり︑熊本県
に通行印鑑の付与を願い出たが︑熊本県と軍団本営のやりとりの中で却下
される︒当初は県令の処置に任せていた記者への対応が︑県令が政府軍に
伺いを立て︑政府軍が決定するように変化していたことが窺える︒
修士論文概要九七 以上︑本論では︑西南戦争における戦地派遣記者の取扱について︑情報統制の中に位置づけて検討してきた︒ここで明らかにしたことを以下の二つにまとめる︒
第一に︑西南戦争における情報統制は︑当初の情報の欠乏という状況が
前提としてあり︑その上で︑人心安定と戦争遂行という目的に規定されて
いたことである︒情報の欠乏は新聞社に風説の掲載を促し︑風説の掲載禁
止は︑政府による﹁確報﹂公表の必要性を生じさせた︒一方︑軍では作戦
遂行のために軍事情報の信頼性を高める必要があり︑戦地での情報発信と
人の往来を許可制として総督本営のもとに一元化した︒こうして︑軍内部
で﹁確報﹂を流通させる基盤が整い︑政府高官はこれらの情報を新聞社へ
の対応や府県への戦況達といった情報統制の上で活用可能になったのであ
る︒一方で︑西南戦争が内戦であったため︑政府は敗報の公表に慎重な態
度をとった︒敗報をも公表しようという立場も存在したことを考えると︑
明治政府が経験した最初の本格的戦争報道が内戦であったことは︑敗報を
公表しないという態度を選ばせた点で重要である︒
第二に︑情報統制が戦地派遣記者の取扱に影響を与えたことである︒﹁確
報﹂流通という情報統制の基本方針は︑より確実な情報を得られる地点に
向かうという点で政府高官に記者の戦地行きを支持させた︒情報の欠乏を
背景に戦地での人の管理を通した政府/軍内部の確報流通ルートが構築さ
れたことは︑同様の論理で新聞記者を処遇することにつながった︒官吏の
資格を付与するという形がとられたのは︑当時戦地で成立していた戦地往
来のルールを適用することができたからである︒戦地派遣記者は現場の状
況に応じた扱いをされたため︑戦地の情況が政府軍有利になるにつれ︑記
者の取材にも便宜が図られるようになる︒後の従軍記者に繋がる︑特定の
部隊へ従属し保護を受けて取材するという形式が出現するが︑これは一方
で取材場所︑取材対象に対する統制でもあった︒
九八
本論は︑日本近代史学史においてその具体的検討が立ち遅れている﹁官
学﹂の特質を再検討するため︑明治中後期から昭和戦前期にかけて活躍し
た歴史学者・黒板勝美︵一八七四〜一九四六︶の事蹟を検討したものであ
る︒従来の日本近代史学史は︑おおむね官学と非︑ないし反官学の二潮流に
弁別されて来たが︑このうち同時代への強力な問題意識を保持する後者に
対する研究が進捗し︑前者に対する研究は僅少であった︒しかし︑充実し
た研究機構︑多数の学者の輩出︑国家社会に対する影響力などを鑑みれば︑
官学の様態を研究する必要があることは言を俟たない︒
この官学に対しては︑久米事件以降︑社会との軋轢に萎縮して所謂﹁官
学アカデミズム﹂と称される学風を特徴としたとする通説的見解がある︒
これは︑史料編纂掛︵後の史料編纂所︶を中心とする研究体制を基礎とす
るもので︑古代・中世史研究の基礎史料の独占と部外者の疎外︑編年型政
治史・外交史・制度史の優位とそれに直接関係しない社会・経済・文化と
いった分野の軽視︑史料考証・古文書研究の主流化と主体性・思想性︑同
時代への問題意識の欠如などを特質とするとされ︑総じてこの学風は﹁考
証主義﹂とみなされている︒そしてこの学風が継続するにつれ︑これに対
する批判が京都帝国大学など官学の周辺や民間史学の中に出現︑やがて官
学内部からも皇国史観やマルクス主義史学が勃興したとされる︒近年進捗 しつつある平泉澄研究や︑一九三〇年代の歴史学への着目は︑歴史学者の国民教化や戦争関与に対する批判的再検討であるが︑同時に学風としての﹁官学アカデミズム﹂への異議申し立ての一種としてこれらを理解する傾向をも併せ持つ︒ところが︑久米事件から皇国史観やマルクス主義史学の勃興に至るまで牢固として存在したとされるその﹁官学アカデミズム﹂の具体的検討は至って少ない︒近年︑一九二〇年代半ばに官学内部から出現した皇国史観やマルクス主義史学を同じく﹁構成主義的歴史観﹂として理解する潮流が出現しているが︑その母体となった官学のあり方に対する検討がなおざりにされている感がある︒
このような研究状況から︑本論では久米事件から一九二〇年代半ばに至
るまでの官学の特質を再検討するため︑歴史学者・黒板勝美を取り上げ︑
その史学史的位置を検討した︒この時期に一貫して東京帝国大学に在籍︑
活躍したことと同時に︑近年﹁構成主義的歴史観﹂の保持者として位置づ
けられる後発世代の羽仁五郎・平泉澄を育成したというのが︑黒板を取り
上げる所以である︒
この黒板に関する研究は従来ほとんどなく︑日本古文書学の創始者︑新
旧﹃国史大系﹄の校訂・編纂者として︑また史蹟保存事業や博物館政策の
先駆的提唱者など︑草創期の学者としての多面的な活躍が認識されていた︒
近年では︑これらの活動を国民教化や植民地支配という観点から捉え直す
研究潮流が起こっているが︑さらに最近になって︑黒板の史学史的位置に
対する検討が開始されつつある︒成田龍一は一九三〇年代の歴史学の状況
を﹁三派鼎立﹂と分析するなかで︑黒板の歴史理解を本質主義と位置づけ︑
池田智文は成田の理解を引き継ぎつつ︑この三派とも考証主義批判を共有
しており︑黒板の立場は一九〇八年の﹃国史の研究﹄まで遡及し得るとし
た︒また齋藤智志は史蹟保存事業に対する黒板の姿勢が過去の﹁文化的復
現﹂を目指しており︑それは同時代の学者の﹁社会の大勢﹂への着目と関
黒板勝美の史学史的位置
││﹁官学﹂の再検討に向けて││
渡 邉 剛
修士論文概要九九 連すると論じている︒
本論においては︑成田・池田・齋藤によって示された﹁本質主義的歴史
観﹂︑考証主義批判の保持者としての黒板という見解に留意しつつも︑こ
れらがなお試論的見解にとどまっているため︑あくまで黒板の史学史的位
置を︑時期を追って検討する必要を認めた︒また併せて︑従来基礎的調査
が不十分であった黒板の研究業績や︑教化事業をも検討課題としたもので
ある︒まず第一章﹁﹁史料蒐集時代﹂への不満から理解へ﹂では︑黒板が帝国
大学に入学する一八九三年から︑洋行に出発する一九〇八年までの思想と
行動を検討した︒大学から大学院にかけて︑黒板は古文書研究と﹃国史大
系﹄校訂に傾倒していくが︑大学院在学中の一八九七年︑雑誌﹃江湖文学﹄
に発表した﹁現今史学界の欠点︵史論と素養︶﹂において︑史学の﹁素養﹂
としての補助学の充実を訴えるとともに︑社会の変遷を叙述する﹁史論﹂
の必要を高唱︑同時代の学界動向を痛烈に批判していた点は極めて重要で
ある︒しかし︑黒板はその後﹃史学雑誌﹄上で展開された﹁歴史の哲学﹂
論争では旗幟を鮮明にせず︑一九〇八年刊行の﹃国史の研究﹄初版におい
てもかつて﹃江湖文学﹄上で示した﹁史論﹂の高唱は鳴りを潜め︑同時代
の研究状況を﹁史料蒐集時代﹂として一定の評価を下している点を指摘し︑
この姿勢の変化は黒板自身が古文書研究と﹃国史大系﹄校訂に尽瘁するな
かで︑基礎研究の容易でないことを悟った故であると考察した︒
続く第二章﹁﹁科学的史論の時代﹂へ﹂では︑黒板が洋行から帰国した
一九一〇年から一九一七年までの研究活動を検討している︒この時期の学
界においては︑考証主義批判︑﹁文化史﹂の提唱︑歴史哲学の輸入などが
生じていたが︑黒板はこの一連の流れと無縁ではなく︑かつての学界批判
を表面化させ︑史学史的に注目すべき活動を行ったことを指摘した︒一点
目は︑黒板が﹁想像﹂などと称した︑厳密な考証にとどまらない推論を用 いた研究法の提唱と実践であり︑二点目は﹁文化史﹂︑事実上の思想史的
分野への志向︑そして三点目は学者が自己の観点から材料を選択する﹁主
観﹂への着目である︒ここにおいて︑黒板は考証主義や文化史の劣位とい
う︑既存の﹁官学アカデミズム﹂の特質から距離を持ったことは明確であ
り︑黒板自身︑一九一三年刊行の﹃国史の研究 総説の部﹄において︑現
在を﹁科学的史論の時代﹂に入りつつあるという認識を示したのである︒
そして第三章﹁文化史と国体論﹂では︑黒板が聖徳太子奉賛事業に本格
的に乗り出す一九一八年から︑自身の国体論である﹃国体新論﹄を刊行し
た一九二五年までを検討している︒この時期︑黒板は史料編纂掛と距離を
生じさせており︑その一因として黒板が史料編纂に絶対的比重を置かなく
なったことが挙げられる点︑前章で扱った時期と同様︑黒板は﹁文化史﹂
の提唱︑﹁主観﹂への着目を続けており︑従来提出していた論点をこの時
期にまとめるように心がけていた点を確認した︒その上で︑これらと一見
趣が異なる教化事業︑聖徳太子奉賛事業と国体論の講述に関して︑前者は
政治・外交的な観点での太子賛美にとどまらず︑古代における文化・思想
の維持発展への寄与を評価するものであり︑その論拠には黒板の﹁想像﹂
に基づく仮説が用いられていることを明らかにした︒また後者は︑記紀の
祖述という体裁をとらず︑民族の形成と発展が仮説的に述べられるもので
あって︑これもまた黒板の﹁想像﹂の一展開であると指摘した︒
本論においては︑﹁官学アカデミズム﹂と称される学風の主要素に対し︑
黒板が大学院時代から明確な批判者であって︑これが大正期以降の研究活
動に結実している点を明らかにした︒すなわち︑黒板は大正期以降︑官学
に在籍しながらも学風としての﹁官学アカデミズム﹂という枠では説明出
来ない史学史的位置にあったことが明らかである︒
また︑後発世代との関係については︑黒板は﹁主観﹂に言及しているも
のの︑それは学者によって対象が取捨選択されるという意味であって︑学
一〇〇
者の認識の主体を問うものではなかった︒従って︑成田・池田が黒板の歴
史理解を﹁本質主義的歴史観﹂と捉えたことは正鵠を得ているものの︑取
捨選択という意味での﹁主観﹂の登場は確かに認識の深化であり︑その意
味で﹁構成主義的歴史観﹂に至る一階梯としての位置づけが可能である︒
従って︑黒板の史学史的位置は︑明治期に形成された﹁官学アカデミズ
ム﹂と︑昭和初期に勃興した皇国史観やマルクス主義史学との中間にある
と言い得よう︒これは︑成田の所謂﹁三派﹂のうちの旧世代の一派ではな
く︑あくまで官学草創期の世代から新しい展開を見せたものであり︑後発
世代の母体として積極的な意義を見出し得る︒
本論の結びとして︑以上で得られた知見から︑久米事件から一九二〇年
代半ばに至る官学の変遷について試論的見解を提出した︒すなわち︑久米
事件以降に形成された﹁官学アカデミズム﹂は漸次批判にさらされ︑この
潮流が一九一〇年代の﹁文化史﹂の登場に繋がり︑黒板もこの一翼を担っ
た︒これが皇国史観やマルクス主義史学の母体となったが︑た方で﹁官学
アカデミズム﹂も存在し続けたのである︒
今後の黒板研究においては︑本論において提示した﹁文化史﹂家として
の黒板の思想と研究業績を掘り下げて考察することが求められよう︒そし
て今後の官学研究においては︑官学を﹁官学アカデミズム﹂とひとくくり
にするのではなく︑内部における見解の相違や世代︑各時期における研究
動向などに注意を向ける必要があろう︒いずれにおいても︑個々の歴史学
者の著作目録の作成など︑基礎的作業の充実がまずもって求められる現状
には︑特に注意せねばならない︒
修士論文概要一〇一 一︑問題の所在
本論文は︑近世とりわけ五代将軍綱吉期までの間において頻繁に行われ
た︑将軍の御成の実態とそれに伴う将軍・大名間の主従関係の変遷を明ら
かにすることを目的とした︒御成とは広義には︑将軍の鷹狩・寺社参詣・
大名邸訪問など外出全般を指す言葉だが︑本論文では︑将軍の大名邸訪問
という狭義の意味で御成をとらえ︑近世前中期に催された御成の特徴や意
義を分析した︒幕藩制国家の中で御成が果たした政治的役割を︑特に主従
関係の変質︑将軍自身の個性︑中世から近世にかけての権力基盤の移行等
といった側面から多角的に考察したのである︒
近世における将軍・大名間の主従関係に関する研究︑及び御成そのもの
に関する研究を概観した上で︑主に以下の三点を課題とした︒
第一に︑室町期から近世にかけての御成の変容を明らかにすることであ
る︒近世の御成は︑室町期に比べ式次第が短縮され︑数寄屋御成による茶
事が組み込まれる等の変化がある︒しかし︑どのように変容していったの
か︑その詳細はこれまで明らかにされていない︒秀忠期に成立した数寄屋
御成は︑当時の幕府にとっては﹁式正﹂の御成であったと考えられるが︑
室町期からの伝統的武家故実を継承する薩摩藩江戸詰家老伊勢貞昌は︑従
来の式正の御成が廃れて嘆かわしいと感想を述べている︒貞昌の考える室 町式﹁式正﹂御成と︑当時の幕府が推奨する数寄屋の﹁式正﹂御成には違いがあった︒この時期の武家故実の変容や︑数寄屋御成の具体的内容をおさえておく必要がある︒
第二に︑各将軍による御成を丁寧に追いかけることで︑その歴史的意味
を考察することである︒従来御成は︑①秀忠将軍時代までは訪問先に外様
大名が圧倒的多数を占めることから︑幕府の対大名統制の一環であった︑
②家光将軍期の幕藩体制確立期は︑次第に自身の寵愛する家臣宅への訪問
が増加し︑将軍が誇示した式正の御成はその使命を終えた︑③綱吉期は︑
御成が綱吉個人の恣意や偏寵︑趣味の満足を求めた遊興的な行事と化した︑
と理解されてきた︵佐藤豊三論︶︒しかしこの解釈には︑次のような疑問
がある︒①の時期における幕藩関係から考えて︑御成は対外様大名統制の
一環であり︑将軍と大名の主従関係の強化という幕府側の意図が色濃く見
てとれる︒しかし他方で︑大名が将軍の御成を画策したり︑逆に幕府から
の御成の打診を断ったりした事例も確認できる︒また②と③の間の時期に
ある家綱期の御成が検討されていない︒家綱期はほとんど御成が行われな
かったが︑その理由が追究されていないのである︒そして次の綱吉の御成
は︑綱吉個人の恣意や偏寵による遊興的行事であったと理解されている︒
確かに綱吉の御成先は︑綱吉が寵愛する側用人の柳沢や牧野が圧倒的に多
いが老中や御三家︑外様の前田家にも御成をしているという意味を検討す
る必要がある︒
第三に︑御成から主従制の変容を検討することである︒将軍・大名の主
従制については︑﹁権力構造論﹂・﹁幕藩制構造論﹂という大きな枠組みの
もと︑戦前から研究がされてきた︒その後︑藤野保氏は徳川一門や譜代大
名の創出の実態と幕府の改易・転封策とを︑幕府政治史の動向と関連させ
て考察し︑北島正元氏は元禄・享保期までを対象に︑幕府の政治過程や基
礎構造を総合的に研究してきた︒また︑近年では儀礼研究が盛んになり︑
近世における将軍の大名邸御成と 主従関係
池ノ谷 匡 祐
一〇二
大名家から将軍への献上をめぐる分析などもみられる︒しかし︑御成とい
う儀礼から将軍︱大名の主従関係を考察しようとする発想はまだない︒
二︑本論の構成
第一章﹁秀忠・家光期における将軍御成﹂では︑第一節において︑室町
期からの武家故実の伝来を︑薩摩藩家老伊勢貞昌の事例を中心に詳述した︒
第二節では︑中世と近世における式正御成の変容を︑室町期・秀吉期・家
康期・秀忠期といった区分を設け︑それぞれの御成の特徴を分析した︒第
三節では︑近世における数寄屋御成の展開を︑寛永七年において行われた
家光の島津家久邸御成の事例をもとに考察した︒
第二章﹁家光・家綱期における将軍御成﹂では︑第一節において︑大御
所秀忠没後における将軍家光の御成の特徴を分析した︒近世における御成
には︑大別して三種類の御成︱室町版式正御成・数寄の御成・数寄屋御成
︱があること︑家光の御成が段々と遊興的性格を帯びるに至ったことを論
じた︒第二節では︑家綱期における御成とその衰退を論じた︒家綱期は老
中等による強固な合議制のもと︑寛文印知によって将軍と大名を結ぶ御成
の衰退が確かなものとなったことを詳述した︒第三節では︑明暦二年家綱
期唯一の事例である酒井忠勝邸御成について考察した
︒同御成は︑近世
の式正御成の事実上最後となった事例であり︑家綱と忠勝の主従関係を強
固なものにする狙いがあったといえる︒
第三章﹁綱吉期における将軍御成﹂では︑第一節において︑綱吉による
将軍専制政治の展開と御成復活について述べた︒綱吉は前将軍家綱の養子
として将軍職に就任したため︑新たな主従制を構築する必要があったが︑
御成の復活はその一事例であったといえる︒第二節では︑元禄十五年に行
われた綱吉期唯一の外様大名の事例である前田綱紀邸御成をもとに︑綱吉 期の御成の特徴を詳述した︒第三節では︑同様に前田邸御成の事例をもとに︑打診から準備期間に至るまでの出来事を中心に検討を行った︒
三︑本論文の成果
本論文の成果を︑以上に挙げた課題に対応する形で︑以下の二点にまと
めることとした︵課題二と三は一つにまとめた︶︒
第一に課題一の﹁室町期から近世にかけての御成の変容について﹂であ
る︒すなわち︑①室町の式正御成は︑寝殿において式三献の儀と武具の献
上が︑会所において十一〜十七献にも及ぶ酒肴の饗応が︑そして休息の間
において猿楽が行われ︑還御となる御成であった︒②秀吉の式正御成は︑
この室町版式正御成を簡略化したものであった︒③近世の式正御成は︑大
きく分けて三種類あり︑︵1︶室町版式正御成を簡略化したもの︑︵2︶上
記室町版式正御成を簡略化したものに︑当時幕藩体制を確立する一手段と
されていた数寄行事を加えた﹁数寄の御成﹂と呼ぶもの︑︵3︶﹁数寄の御
成﹂が途中に数寄行事が入るのに対し︑最初から数寄屋に入る﹁数寄屋御
成﹂と呼ばれるもの︑の三種類であった︒④同じ近世でも綱吉の式正御成
は︑秀忠〜家綱期にかけて行われた上記三種類の式正御成とは異なり︑︿①
下賜・献上儀礼︑②講書︑③御能﹀の三点が含まれるものであった︒以上
を踏まえると︑﹁式正﹂御成とは︑基本的には室町時代に定められた武家
故実の習わしを指すが︑必ずしも後の各時代︵秀吉・家康・秀忠・家光・
家綱・綱吉︶の御成がそれを同様に踏襲するものではなかったといえる︒
それぞれの時代に﹁式正﹂もしくは﹁式正﹂に準ずるものが設けられ︑御
成の在り方も変わっていった︒近世においてはむしろ﹁式正﹂という概念
そのものが無くなっていったのかもしれない︒
第二に︑課題二の﹁御成の果たした役割・歴史的意義について﹂及び課
修士論文概要一〇三 題三の﹁御成からみる主従制の変容について﹂である︒近世における主従制を考える上で︑御成の果たしてきた役割は大きい︒秀忠・家光期の幕藩体制確立期の御成は︑訪問先に外様大名が圧倒的多数を占めることから︑大名統制を目的としている︑という従来の理解だけは説明がつかない︒なぜなら︑この時期将軍を招く藩側の視点に立てば︑むしろ積極的に将軍を迎え入れようとしたり︑御成の打診を断ったりする例もあるからだ︒この時期の御成には将軍と大名それぞれの思惑を結び付ける﹁紐帯﹂としての性質が秘められていたと考えることが出来る︒しかし︑こうした御成は︑家綱期に領知宛行状を全国の大名に一斉発給した﹁寛文印知﹂によって︑その役割を一時終えたと言える︒これまでは︑将軍と大名との個人間の強い繋がりのもと︑御成が成されてきたが︑寛文印知によって︑全国の大名に対して領知宛行状を統一的一斉発給にしたという点で︑将軍と大名との主従制が﹁個﹂から﹁家﹂へと体制的に変化していったのである︒以後全国の大名に対する領知宛行状を一斉に発給するという点は︑綱吉期にも踏襲された︒ただし︑綱吉は家綱の直系ではなかったので︑将軍としての自己の権威を高めるため新たな主従関係を構築した︒側用人制度を創出したり︑多くの大名をとりつぶしにしたり︑分家大名を奥詰に登用したりしたことは︑その表れであったといえる︒そして︑このような綱吉期の新たな主従関係の枠組みを念頭に置くと︑武家儀礼の重視と将軍権威の発揚として︑御成の復活を解釈することができる︒
一〇四 本論文は︑一四世紀︱一五世紀初頭に生きたチュニス出身の歴史家
・
政治家イブン
・
ハルドゥーン︵‘Abd
al-Ra
ḥmān b. Mu
ḥammad, Walī al-Dīn
Ibn Khaldūn,
一三三二︱一四〇六︶の生涯のうち︑マムルーク朝統治下のエジプトに移住した一三八二年から一四〇六年までの時期に焦点を当て︑
マムルーク朝史家の手になる史料に基づき︑その政治
・
教育活動の考察を 行ったものである︒一三三二年チュニスに生を受けたイブン・
ハルドゥーンはイフリーキヤ︑マグリブ及びイベリア半島の各地で政治家として活動
し︑名声を得たが︑政争のなかでやがては失脚した︒その後政治活動から
身を引き︑隠遁生活に入って大著﹃省察すべき実例の書﹄‘’‘‘‘ṣṭの執筆に取り掛
かった︒その第一部に相当する﹃歴史序説﹄を書き上げた後
には故郷チュニスに戻り︑一三八二年︑マムルーク朝統治下のエジプトに
移住した︒一四〇六年に同地で没するまで︑マーリク派の大カーディー
qā
ḍī al-qu
ḍā
と し て 司 法 行 政 に 参 与 し た ほ か
︑ 学 院
madrasa
︑ 修 道 場
khānqāh
等に教授の職を得て学問・
教育活動に携わった︒エジプト移住後のイブン
・
ハルドゥーンの活動については︑﹃イブン・
ハルドゥーン自伝︱西また東︱﹄ḥ に基づく幾つかの研究が存在するものの︑同時代史
料との比較検討は十分でなく︑マムルーク朝の政治的
・
社会的状況を踏ま えた考察は為されていない︒したがって本論文では︑﹃イブン・
ハルドゥー ン自伝﹄とマムルーク朝史料の比較検討によってイブン・
ハルドゥーンの 活動をマムルーク朝時代の社会的・
政治的背景の内に位置付けることを試みた︒
本論文は序論と結論︑及び四つの章から構成される︒まず序論において
は︑フィッシェルによる文献目録︵
, London,
一九五八︑四八五︱五一二頁︶および石丸純一﹁イブ ン・
ハルドゥーン研究文献︵ヨーロッパ語の部一六九七〜一九九八︶﹂︵﹃いわき明星大学大学院人文学研究科紀要﹄創刊号︑二〇〇三︑三一︱七六︶に基づいてイブン
・
ハルドゥーン研究史を概観︑その研究動向を把握し︑在エジプト期のイブン
・
ハルドゥーン研究が﹃イブン・
ハルドゥーン自伝﹄に基づく活動紹介に留まっている点を指摘した︒併せて︑﹃イブン
・
ハルドゥーン自伝﹄とマムルーク朝史家による伝記を併せて参照し︑その来歴
を概括した︒
第一章ではマーリク派大カーディーとしての活動に焦点を当てた︒六度
にわたる大カーディー就任
・
解任時の要因︑及びそれに関わったシャム スッディーン・
ラクラーキーやヌールッディーン・
イブン・
ジャラールといったウラマーの経歴や活動を伝記史料から分析した︒これによって﹃イ
ブン
・
ハルドゥーン自伝﹄に描写されていない任免の背景について︑初回の任命から三度目の解任までを分析した︒四期目以降の任免や職務内容に
関する記述が乏しい点については︑この時期にスルタン位にあったファラ
ジュ︵在位一三九九︱一四一二︶が幼少で︑前スルタン
・
バルクークと異 なりイブン・
ハルドゥーンを任用する明確な政治的意図を持たなかったためである可能性を指摘した︒また大カーディー在職中の職務内容として︑
エジプトにおけるイブン ・ ハルドゥーン
の活動
││マグリブ出身ウラマーの一事例として││
荒 井 悠 太
修士論文概要一〇五 二度目の就任時にバルクークの命令で実施された公証人の調査︑及びハナフィー派高官バドルッディーン
・
クリスターニーの遺言書を巡って為され た公証人の不正に対する裁判︑イブン・
ハルドゥーンがとった処置に着目 し︑イブン・
ハルドゥーンの任命がスルタン・
バルクーク当人の政治的意図の反映であることを指摘した︒
つづく第二章では︑イブン
・
ハルドゥーンとスルタン・
バルクークとの 関係が悪化し︑公職に就任していない時期に焦点を当てた︒アミール・
ヤ ルブガー・
ナースィリーとミンターシュの反乱によるスルタン・
バルクー クの廃位︑執事長ustādār
マフムードの財産没収mu
ṣādara
という二つの 事件におけるイブン・
ハルドゥーンの行動を中心に有力アミール達との関 係の在り方を分析した︒また︑伝記史料から窺えるイブン・
ハルドゥーンの人柄をこれと併せて考察し︑第一章とは対照的な︑私人としてのイブン
・
ハルドゥーン像を提示した︒第三章では教育活動に焦点を当てた︒イブン
・
ハルドゥーンがエジプトで行った教育活動については︑﹃歴史序説﹄にみられる文明論や歴史学理
論が後世の学者に与えた影響に焦点を当て︑マクリーズィーやイブン
・
アズラク等との比較検討を行った個別的研究が既に複数著されている︒これ
に対して本論文では︑イブン
・
ハルドゥーンがエジプトで講義を行った際の受講者︑及び彼の下でテクスト朗誦の試験
を取得した者を伝記史料から抽出︑分析を行った︒その結果として︑イブ
ijāza
‘arḍを行った者︑免状 ン・
ハルドゥーンは法学や法源学︑伝承学等︑伝統的諸学を教授していたことを指摘した︒また︑歴史家サハーウィーの手になる伝記史料﹃九世紀
の人々における光輝﹄Ḍ’‘‘を中心に抽出 したイブン
・
ハルドゥーンからの免状取得者の内には︑明らかにイブン・
ハルドゥーン︑及びその他の授与者との直接的接触が見られない人物が含まれていた︒この点に関して︑ウラマーの旅行に伴う免状の請求
istidʻā
’ 行為によって免状の授受が成立していたことを説明するとともに︑こうした交流を可能とする広範なウラマー・
ネットワークにイブン・
ハルドゥーンが参与していたことを指摘した︒
第四章では︑後期マムルーク朝︵一三八二︱一五一七︶時代の歴史家
・
伝承学者イブン・
ハジャル・
アスカラーニーによって展開された﹃歴史序 説﹄批判に着目した︒彼によれば︑イブン・
ハルドゥーンは三代イマーム・
フサインの死に関して﹁彼の祖父︵=預言者ムハンマド︶の剣によって殺害された﹂と記述し︑またイスマーイール派のファーティマ朝︵九〇
九︱一一七一︶初代カリフ
・
ウバイドゥッラーとアリー家との系譜上の連 続性を主張している︒イブン・
ハジャルとその弟子サハーウィーはこの二 つの主張を関連付け︑イブン・
ハルドゥーンの﹁逸脱﹂bid
‘aの証明であると主張した︒ローゼンタールはフサインに関する言及について︑これが
イブン
・
ハルドゥーン自身の主張ではなく︑マーリク派法学者イブン・
ア ラビーからの批判的引用であること︑及びイブン・
ハジャルの批判が引用の事実を無視した作為的なものであることを既に指摘しているが︑本論文
ではファーティマ朝の系譜に関するイブン
・
ハルドゥーンとイブン・
ハ ジャルの見解を検討し︑相違が生じた要因を分析した︒まずイブン・
ハジャルを含むマムルーク朝史家の伝記史料を調査し︑ファーティマ朝カリフと
アリー家を繋げた系譜が少数ではあるが含まれていることを明らかにした︒
またイブン
・
ハジャルによるファーティマ朝批判が専ら宗教的な観点から 為されている点を指摘し︑イブン・
ハルドゥーンが﹃歴史序説﹄にみられ る独特の文明論において﹁連帯意識﹂‘a
ṣabīya
の根源として系譜上の繋がりを重要視し︑ファーティマ朝創設の原動力としてアリー家の連帯意識の
存在を主張しているのに対して︑イブン
・
ハジャルの批判がファーティマ朝の宗教的逸脱に対する敵意に由来しているために︑両者の主張は噛み合
わないものとなったと結論した︒
一〇六
本論文は︑先行研究において等閑視されてきたマムルーク朝の史料を多
く参照したことで︑フィッシェルらの先行研究を補完するものとなった︒
ウラマーとしては稀な自伝的史料である﹃イブン
・
ハルドゥーン自伝﹄が前近代のウラマーの在り方を解明してゆく上で有用な史料であることは論
を待たないが︑マムルーク朝の元で安定した活動を展開できたであろう在
エジプト時代の人的ネットワーク︑すなわちマムルーク朝支配者層やウラ
マーとの交流を窺わせる記述は十分でなかった︒本論文ではマムルーク朝
期の史料を用いることによってこれを補い︑アミールおよびウラマーとの
政治的な関わり︵第一章・第二章︶︑学問・教育面からみたウラマーとの
交流︵第三章︶︑学者による批判を通してみたマムルーク朝期の﹃歴史序
説﹄評価︵第四章︶に分けて論じた︒
本論文の成果と今後の課題を総括すれば︑以下の様になろう︒まずイブ
ン
・
ハルドゥーンのバイオグラフィーの観点からは︑マムルーク朝史料の 活用により︑イブン・
ハルドゥーンの活動の背景にあったアミールやウラマーとの関係性を明らかにした︒しかしその一方で︑より広汎なウラマー
研究の観点から︑今回明らかにしたイブン
・
ハルドゥーン中心の人的ネットワークにはどの程度の普遍性が認められるか︑という新たな問いが生じ
る︒この問題については︑既存のウラマー研究の成果を活用するとともに︑
イブン
・
ハルドゥーンの周辺に限定されないより包括的な史料の分析を行ってゆくことが今後の課題となる︒
修士論文概要一〇七 修士論文では︑ブリテン海軍における強制徴募︵
Impressment
︶について︑大規模に強制徴募が行われた最後の戦争であるフランス革命戦争・ナ
ポレオン戦争期︵一七九三
−一八一五︶に限定し︑考察した︒
強制徴募とは︑健康な人間を陸海軍へ強制的に入隊させる慣習のことで
ある︒ただし︑本論文では︑海軍の強制徴募に着目する︒なぜなら︑陸軍
での強制徴募は一八世紀後半にはほとんど行われていなかったからであり︑
当時優勢であった海洋派︵
Blue Water Policy
︶の考えに基づき︑海軍が陸軍よりも重視されていたからである︒
従来の強制徴募に関する研究は︑制度史と社会史の観点による分析及び
表象について行われてきた︒一方で︑抵抗や反対が多数みられた強制徴募
が︑なぜ成立しえたのかという論点に正面から取り組んだ研究は少ない︒
そこで︑本論文の目的を︑様々な抵抗や反対を受けながら︑強制徴募が行
われ続けた︑ないしは正当化された理由を明らかにすること︑とする︒
第一章では︑戦争の経過と︑ブリテン海軍の状況を概観した︒開戦する
と︑海軍の人員は急増し︑戦前は二万人を下回っていたのが︑最大時には
十四万五千人を上回った︒このように急激に多くの水兵が必要になった︒
なぜなら︑戦時において海軍は︑海上封鎖︑貿易の保護︑陸海両用作戦︑
艦隊決戦という四つの重要な役割を担っていたからである︒また︑本章で は︑比較のためにブリテンの主要な敵対国であるフランス海軍の人員配備方法を概説した︒フランス海軍では︑基本的に登録制が採用されていたが︑水兵の登録数が足りない場合は強制的な徴募も行われた︒
第二章では︑強制徴募以外の人員徴集方法︑すなわち︑志願兵制と割当
法の二つについて説明した︒志願兵制では︑報奨金や拿捕賞金といった金
をちらつかせて志願者を惹きつける方法と︑﹁海事協会﹂をはじめとする
慈善団体が孤児や貧者に教育を施し︑服を与えて志願兵として海軍に送り
込む方法の二つがあった︒志願兵制と強制徴募だけでは水兵の需要を満た
せられなかった政府は︑一七九五年に数次の割当法︵
35 Geo III c. 5, 9,
29
︶を施行した︒これは各州に対して︑特定数の健康な男子を海軍へ供給するように規定した法である︒州ごとに割り当てられた人数は異なるもの
の︑内陸を含むイングランド︑ウェールズ︑スコットランドに課された︒
この割当法で何人が海軍に入ったかという正確な数値は不明だが︑小ピッ
トが文句なしに成功と述べたように︑良い結果を残したと思われる︒
第三章では︑強制徴募の歴史︑法整備︑保護︑対象者︑組織と方法を扱っ
た︒強制徴募の起源は︑アングロ・サクソンの時代にさかのぼることがで
きるほど古いといわれる︒一六九六年には︑強制徴募に対する批判が高ま
り︑水兵登録法が制定されたが︑十分人員が集まらなかったことを受けて︑
一七一〇年に廃止されてしまった︒その後一七四〇年代に︑海軍の人員を
集める目的のみに特化した強制徴募部︵
Impress S ervice
︶が組織され︑より効率的に人員徴集が行われるようになった︒ナポレオン戦争終結後は︑
大規模な戦争が発生しなかったこともあり︑強制徴募が実際に行われるこ
とはなくなった︒そして︑一八三五年に登録法が︑一八五三年には継続軍
務法が︑一八五九年に海軍予備役法が制定され︑強制徴募はブリテン海軍
から姿を消した︒
強制徴募を許可している法も禁止している法もない︒その代り︑王座裁
ロイヤル・ネイヴィーにおける強制徴募
││フランス革命戦争・ナポレオン戦争期を
中心に││
金 崎 邦 彦
一〇八
判所の二つの判例によって︑強制徴募の合法性が論じられている︒一七四
三年のブロードフット判決と一七七六年のタブス判決である︒前者は︑強
制徴募されそうになったブロードフットが強制徴募隊に抵抗して隊員を殺
してしまった事件の判決であった︒首席判事は︑強制徴募は︑国王大権で︑
コモン・ローに基づき︑古来の慣習であると述べた︒後者でも首席判事は︑
ブロードフット判決で示された見解を裏書きした︒この二つの判例のため
に︑これ以降強制徴募に対する法的攻撃が行いづらくなった︒
強制徴募から保護されていた層が存在していた︒無差別に強制徴募して
しまうと︑水兵の源である商船水夫のなり手がいなくなってしまうし︑海
上での経済活動が滞ってしまう︒それらを防ぐために︑見習い水夫︑外国
人︑漁船の船長らが保護された︒ただ︑偽造保護証の濫発や︑外国人にも
かかわらず︑アメリカ人が強制徴募されるという問題があった︒
強制徴募の対象となったのは︑﹁海を利用している人々︵
persons using
the sea
︶﹂である︒具体的には︑﹁水夫︑船乗り︑川の船で働いている人々﹂であった︒ただし︑戦争中︑著しく水兵が不足している場合は︑保護され
ている人々や一度も船に乗ったことのない陸者をも強制徴募することが
あった︒しかし︑家屋を所有しているものや︑身体障害者は︑たとえ強制
徴募されても解放された︒また︑強制徴募された水兵の正確な数を割り出
すのは困難である︒なぜなら︑強制的に連れてこられたものの︑志願兵だ
と報奨金がもらえるために︑男が抵抗なしに入隊するように徴募海佐に
よって志願兵として登録される事例があったからである︒
陸上での強制徴募を行っていたのは強制徴募部であった︒徴募海佐は大
きな街に配属され︑志願兵を募ることと同時に強制徴募を監督した︒海尉
が徴募海佐の補佐を行い︑実際に強制徴募隊を指揮した︒強制徴募隊は基
本的に海尉一名︑下士官二名︑隊員一〇名で構成され︑隊員は棍棒とカト
ラスと呼ばれる短刀で武装していた︒海尉は︑枢密院令に基づき海軍省が 発行した強制徴募認可証を必ず所持していかなければならなかった︒
第四章では︑強制徴募に対する抵抗や反対の言説と正当化の言説につい
て分析した︒史料は︑議会議事録︑裁判記録といった公的なものから︑パ
ンフレット︑新聞記事︑小説︑バラッド︑水兵の自伝といったものまで利
用した︒強制徴募に対する民衆の暴力的な抵抗は︑イングランドだけでな
くスコットランドでも起こるなど全国的な広がりを見せた︒例えば︑一七
九三年十月︑リバプールでは群衆によって強制徴募隊本部が破壊されたし︑
一八〇三年三月︑ブリストルでは︑群衆が強制徴募された人を救出しよう
として徴募隊に泥や石を投げつけ︑徴募隊から発砲されたために一人の少
年が死亡した︒このように︑強制徴募の対象となった水夫だけが抵抗した
のではなく︑住民も水夫の側に加わって抵抗した︒こうした暴力的な抵抗
のほかに︑強制徴募されたら︑友人や家族に偽の借金裁判で訴えてもらう
方法や︑偽造保護証を用いる方法︑強制徴募が終わるまで身を隠すといっ
た方法で︑人々は強制徴募を逃れようとした︒
直接的な抵抗に加えて︑強制徴募は︑様々な媒体において︑ブリテンの
自由や合法性︑奴隷貿易との類似性︑階層間の格差︑家族との別離︑効率
性という五つの論点で非難された︒一つめの論点では︑議会やパンフレッ
ト︑バラッドにおいて︑強制徴募は︑マグナ・カルタ第三九条に反してお
り︑ブリテン的自由を侵害していると批判された︒二つめでは︑議会やパ
ンフレットにおいて︑強制徴募は奴隷貿易同様に不正で非人道的であり︑
博愛主義者は強制徴募にもっと注目すべきだと主張された︒三つめでは︑
女性解放論者や急進主義団体が︑強制徴募のために︑貧者が金持ちの犠牲
になっていると非難した︒四つめでは︑女性解放論者が︑強制徴募のせい
で家族が引き離され︑残された家族が貧困に苦しむと主張し︑家族の別離
はバラッドのテーマにもなった︒五つめでは︑海軍軍人やウィッグ議員が︑
強制徴募のために水夫が海軍を避け︑少年は水夫を目指さなくなるため︑
修士論文概要一〇九 人員集めにおいて非効率だと攻撃した︒
ここまで述べたような抵抗や反対がある一方で︑強制徴募を正当化する
言説もあった︒強制徴募は合法であり︑必要であり︑一部の水兵に甘受さ
れていたという三つの論点である︒合法であるという論点では︑一七九三
年五月のフォックス事件の判決で王座裁判所首席判事は︑強制徴募がコモ
ン・ローに基づいていると明言した︒また︑弁護士のバトラーは︑強制徴
募は太古から行われてきたとして︑その合法性を主張した︒必要であると
いう論点では︑マウントモーリス子爵は︑強制徴募部に頼らずに艦隊の人
員配備を行うのは不可能であり︑強制徴募の権利は公共の福祉によって正
当化されていると述べた︒議会では︑海軍卿のウィリアム・ダンダスがテ
ムズ川の強制徴募について︑米英戦争が続く限り必要であると答弁した︒
水兵による甘受という論点では︑商船水夫のニコルは︑強制徴募されて苦
しい思いをしたにもかかわらず︑﹁必要の前に法律なし﹂と述べて強制徴
募を擁護した︒リチャードソンも強制徴募を経験したが︑徴募前に水夫に
自由を持たせさえすれば︑強制徴募してもよいと認めた︒一七九七年のス
ピットヘッドとノーアの水兵反乱において︑議会に水兵の請願を提出した
が︑給料の増額や食事の改善という要求はあったものの︑請願の中に強制
徴募の廃止を求める項目はなかった︒
本論文の結論は以下のとおりである︒強制徴募は︑海軍や水夫だけの問
題ではなかった︒水夫に加えて︑その家族や港の住人も強制徴募に抵抗し
た︒さらに︑議員から急進主義者やバラッド作者までが関心を持ち︑様々
な論点で強制徴募を批判した︒しかし︑強制徴募は︑コモン・ローに基づ
き︑古来の慣習であったことが判決やパンフレットで明示され︑その合法
性が認められた︒また︑強制徴募は︑公共の福祉のため︑戦争遂行のため
に必要とされたいた︒最後に︑強制徴募の対象であった水夫の一部ですら︑
代替案はなく強制徴募は必要であると認識していた︒これら三つの理由か ら︑強制徴募は正当化されていたのである︒
一一〇
本修士論文は︑西欧に比べ大きく遅れている中世後期のシチリア王国史
研究を扱ったものである︒わが国において︑イタリア南部及びシチリア島
に関する研究は︑ノルマン王朝期︵1130年︱1189年︶シュタウ
フェン朝期︵1189年︱1266年︶まででその筆を置いている︒それ
ゆえに︑本論文は︑西欧で行われてきた
13世紀後半の諸論考を踏まえなが
ら︑問題の所在を確認し︑一考察を加えることで︑わが国の西洋史分野の
欠落を埋め︑シチリアを中心とした地中海史研究の発展に貢献することを
念頭に置いた︒
中世後期シチリア王国史では︑政治・文化・経済のあらゆる面での衰退
が唱えられていた︒ブルクハルト︵
Burckhardt, J.
︶やクローチェ︵Croce, B.
︶によって︑皇帝フリードリヒ2世の死とともに︑イタリア南部及びシチリア島は︑恒常的な戦争による混迷と北部及び中部諸都市の搾取の場で
あると指摘され︑そこに外交上の衰退が見出された︒そうした動向は︑ロ
ペス︵
Lopez, R. S.
︶の﹃商業革命﹄やアブラフィア︵Abulafia, D.
︶の﹃二 つのイタリア﹄で踏襲され ︵1︶︑シチリア島が経済のみならず政治的中心から 排除されたことが指摘されている ︵2︶︒加えてこうした衰退を巡る議論は︑1282年のシチリアの晩禱事件を契機に︑シチリア王国が二つに分裂した
ことと関連付けられ︑アンジュー朝シチリア王国に諸因を求める傾向が展
開した ︵3︶︒ しかしルーバー︵
Roover, R. de
︶やブレナー︵Brenner, R.
︶の影響を受けたエプステイン︵
Epstein, S .
︶は︑中世後期のシチリア王国に︑上記動 向に異議を唱える形で︑内的な経済発展を指摘した ︵4︶︒こうした動向は南地中海世界の再考察を促し︑北イタリア諸都市による商業拡大の歴史だけで
なく︑シチリア王国を含む南地中海世界を西洋世界において︑どのように
位置づけるのかを問いかけた︒
本論文は︑そうしたエプステインらの見解を踏まえながら︑アブラフィ
アが指摘する政治史における﹁中心からの排除﹂という衰退論を見直し︑
中世後期の地中海世界においてシチリア王国の位置づけを再考察した︒そ
のために︑政治的中心からの排除が謳われた
13世紀後半︑1266年シチ
リア王に即位したシャルル治世下の王国統治を分析した︒特にシャルルと
商人
mercator
との関係を
﹃アンジュー朝文書局発給史料﹄
に残された文書と︑それをトスカーナ地域に
絞り編纂したテルリッツィ︵
Terlizzi, S .
︶﹃シャルル・ダンジューとトス カーナとの関係における文書集﹄o’
(1950, Napoli)
︑加えてフランス王国に焦点を絞り編 纂したボワール︵Boüard, A . de
︶の﹃シチリア王シャルルのフランス王国に関する証書と書簡集1257︱1284﹄
(1926, Paris )
を利用し︑地中海世界において地域横断的な分析を試みた ︵5︶︒ 第一章では︑シャルルが商人に与えた諸特権
privilegia
︑その多くは商業特権として寄港許可や商館の設置︑商売の安全保障などであるが︑に着
目した︒そしてその特権付与の見返りにシャルルが利用することができた
商人たちの協力を観察した︒
13世紀にみる商人層の台頭は著しく︑各地で
商業活動の活発化を見ることができる︒フランス王権やアラゴン王権が地
中海に進出することで︑地中海交易において︑それ以前のイタリア北部諸
中世後期地中海世界における シチリア史を巡って
高 橋 謙 公
修士論文概要一一一 都市の独占的な状況に変化がもたらされた︒そうした状況の変化において︑シチリア王国を支配下に置いたシャルル・ダンジューの進出過程を概観した︒
次いで︑こうした社会変動によって︑商業におけるシチリア王国を巡る
諸特権の重要性が高まるとともに︑政治的な側面での利用価値の高揚をみ
ることができる︒第二章ではシチリアの晩禱事件を巡る政治動向と商人階
層との関係に焦点をあてた︒
シチリア王国の分裂の契機とされる晩禱事件は︑シャルルの悪政に憤慨
したシチリア島民による暴動という側面と︑アラゴン王及びビザンツ皇帝
とシャルルとの地中海政治における対立による反アンジュー政策という側
面の二つの側面から説明されることが常であった ︵6︶︒シャルルのシチリア王
国統治は前者の暴動の原因と結びつき︑シャルルの支配確立及び維持にお
いて重要視されていた商人階層の役割は︑治世後半では注目されてこな
かった︒治世後半の1270年代に入ると︑度重なる戦争や政治動向︑それに伴
う諸特権の剥奪から︑財源確保に重宝していたトスカーナの金融商人の離
反や主要な軍事力を提供したジェノヴァ商人の離反を招いた︒その結果1
278年から1282年にかけてシャルルの統治状況は瓦解していくこと
となった︒そうした潜在的かつ重要な状況の変化は︑シャルルにパレルモ
の暴動の鎮圧とアラゴン王権の侵略を阻むのに十分な財源と軍事力を与え
ず︑シャルルはシチリア王国の分裂を招いたのであると指摘した︒
第三章では︑第二章で分析した晩禱事件史を踏まえ︑シチリア島の地中
海世界の位置づけについて考察を加えた︒
13世紀後半︑確かにシチリア王
国は分裂することとなった︒しかしその過程でシャルルが行った諸特権の
付与剥奪は︑商敵が増え活発な動きを見せた
13世紀の商人階層との同盟関
係を手繰り寄せ︑それ自体がシチリア王の政治的武器として機能したこと を知らせてくれる︒それが
12世紀のノルマン朝期から続くことを示しなが
ら︑
13世紀後半では︑地中海商業の活発化から︑さらに有効に活用される
ようになったことを指摘した︒
こうしたシチリアを巡る諸特権が︑シャルルに政治的な求心力を得るこ
とを可能にし︑逆に剥奪することで敵を作らせた︒本論文は︑シチリア王
の持つ諸特権を与え奪う権利によって︑シチリア島が政治の中心から排除
されたことを否定し︑むしろシチリア王国統治における重要な役割を担っ
ていたことを明らかにした︒それは地中海世界においてシチリア王国が政
治及び経済の中心に位置づけられることを示唆しているのである︒
︽主要参考文献︾
Abulafia, David, “Bad Rulership in Angevin Italy: The Sicilian Vespers and Their
Ramification,” , 8 (1996), 115‒136
---, “Charles of Anjou Reassessed,”, 26 (2000), 93‒114
Epstein, Steaven, (Norht Caroline, 1996)
Jordan, Edouard, (Paris, 1909).
Leonard, Emile, (Montrouge, 1954)
Runciman, Steaven,
(Cambridge, 1958)高山博﹃中世地中海世界のシチリア王国﹄︵東京大学出版︐1993︶
斉藤寛海﹃中世後期イタリアの商業と都市﹄︵知泉書館︐2002︶
中山明子﹁中世後期都市コムーネの平和と秩序に関する一考察︱
13世紀後半〜
14世紀前
半におけるシエナ︱﹂﹃大阪音楽大学紀要﹄
48︵2009︶︐101︱116
注
︵1︶ Abulafia, David,
(Cambridge, 1977), Lopez, Robert S., ︵邦訳﹃中世の商業革命︱
ヨーロッパ950︱
1 3
50
︱
﹄ ︶︵
Cambridge ︵法政大学出版会︶︶
︵2︶ Abulafia, David,
一一二
(London, 1997), p.71.
︵ 3 Croce, Benedetto, (Bari, 1925)Dunbabin, Jean, ︶や (London, 1998)を参照︒
︵4︶ Epstein, Stephan R.,
(Cambridge, 1992)を参照︒
︵5︶ ﹃アンジュー朝文書局発給史料﹄は1943年にドイツ軍のナポリ空襲によって︑
ナポリ国立古文書館
Archivio di Stato di Napoli
の損壊と共に多くが散逸してし
まった︒今日の﹃アンジュー朝文書局発給史料﹄は戦後ナポリのアカデミア・ポン
タニアーナを中心に再編纂されたものである︒
︵6︶ Amari, Michele, (London, 1850)やPercy, William A, “The Revenues of the Kingdom of Sicily under Charles I of
Anjou, 1266-1285 and Their Relationship to the Vespers” (Princeton, Ph. D, 1964)を参照︒
修士論文概要一一三 はじめに
エジプト先王朝時代では︑ナイル川下流域と東西砂漠地帯から産出する
種々の石材を用いて︑石製容器や泥岩製パレット︑石製歯牙形製品を典型
例として様々な石製品が製作された︒しかし︑その生産や流通について具
体的な像は提示されていない︒よって本論の目的は︑石製品の生産体制お
よび流通システムとその変遷過程を解明し︑地域的相違や共通項を捉える
点にある︒さらに︑各種石製品は︑土器や石器のように各遺跡における在
地生産ではなく︑大規模遺跡における集約的な生産が想定されている︒且
つ素材である岩石は産地が局在することもあり︑石製品の分布状況は地域
間の物資の分配と供給という観点から考察でき︑当該期の地域間交流を明
らかにできると考える︒
さらに︑石製品の生産と流通の時期的変化は︑その背景にある地域統合
という社会変化と併せて考えるべきである︒エジプト先王朝時代に関する
考古学的諸研究は︑初期国家の形成過程に沿った物質文化の変容を主たる
関心として進められてきた︒この物質文化の変容は︑土器や石器の地域色
が徐々に薄らいでいく地域統合過程に代表される︒他方で︑このような地
域性消失の背景には︑人間集団の移動・交流を介した物資や情報の流入と 受容が各地域間において必然的に存在した︒地域統合過程の研究は︑こうした動的な視点から捉え直し︑議論する余地が大いにある︒
研究手順としては︑まず各種石製品を新たに分類し︑それによる編年に
基づき︑各種石製品の器種構成・石材構成の分布状況を把握した︒次に︑
産地が限られる石材の石製品を資料とし︑考古学で一般的な交換分析の手
法を用いて︑石製品の流通について定量的な分析・考察を進めた︒最後に︑
以上の分析結果をまとめ︑地域統合過程との併行関係を論じることで結論
を導いた︒以下︑第4章から第6章を中心にまとめる︒
1.各種石製品の編年
本論では最新の土器編年であるヘンドリックス編年に基づき︑各種石製
品の編年を設定した︒その際︑ヘンドリックス編年を適用できる全個体を
集成し︑新たに体系的な器形・形態分類を構築した︒その結果︑概ね各種
石製品は︑
IC
期︑IIA-B
期︑IIC-D
期︑IIIA-B
期の4時期に区分可能であることがわかった︒
2.各種石製品の分布状況
まず
IC
期では︑石製容器の器形から見ると遺跡間での差異は認められない︒全器種構成がナカダ遺跡で出土している一方で︑他遺跡では散発的
である︒続く
IIA-B
期でも︑遺跡間で器形における差異は明確でなく︑点 数もほぼ変化ない︒続くIIC-D
期になると︑上エジプト地域内においては管状把手付き壷を中心とした様相であるが︑下エジプト地域の2遺跡では︑
それに加え︑鉢あるいは杯の出土が目立つ︒
IIIA-B
期では︑上エジプト地域では︑円筒形壷と管状把手付き壷が主体を占めるが︑下エジプト地域
エジプト先王朝時代の石製品研究
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変遷を中心に││