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2013 年度 修士論文 初期唯識思想における vastu の概念 大谷大学大学院仏教学専攻修士課程 岸上仁

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(1)

    2013 年度

    修士論文

初期唯識思想における vastu の概念

大谷大学大学院 仏教学専攻修士課程

1222005 岸上 仁

(2)

目次

1. 序論... 1 1.1 研究目的と方法... 1 1.2 訳語について...1 1.3 先行研究... 2 2. vastuの様々な概念... 4 2.1有部における vastu の概念... 4 2.1.1名称・意味としての vastu —言語表現の因... 4 2.1.2因としての vastu —自性と区別される vastu...7 2.1.3所縁としての vastu... 9 2.1.4十二因縁における vastu...13 2.2『声聞地』における vastu の概念... 15 2.2.1所縁としての vastu... 15 2.2.2六根・六境の vastu... 17 2.2.3 vastumātra... 18 2.3『菩薩地』における vastu の概念(「真実義品」以外)... 20 2.3.1対立概念を包含する vastu  —有為と無為、存在性と非存在性...20 2.3.2言語表現を離れた vastu と vastumātra... 22 3.『菩薩地』「真実義品」における vastu の概念...23 3.1 vastuの三つの意味... 23 3.1.1〈所縁としての vastu〉と〈分別で成立した vastu〉 ...23 3.1.2〈勝義の実在としての vastu〉と vastumātra ... 25 3.2分別と vastu... 27 3.2.1分別の性質—vastu を生じるもの... 27 3.2.3 vastuの性質—分別を生じるもの...28 3.2.3分別と vastu の関係...28 3.3『菩薩地』の四尋思・四如実智... 29 3.3.1名尋思所引如実智...30 3.3.2事尋思所引如実智... 30 3.3.3自性仮説尋思所引如実智... 31 3.3.4差別仮説尋思所引如実智... 31 4.考察... 32 4.1 vastuの概念の変遷... 32 4.2「分別より事態が生じる」の意味... 33 4.3他論書との関係と今後の展開... 34 おわりに...36 使用テキストと略号... 37 参考文献...37     

(3)

1.

序論

1.1 研究目的と方法 仏教の歴史の中で、唯識思想はどのような問題意識を背景として生まれてきたかということを、初期 唯識思想の研究を通してあきらかにすることが本稿の大きな目的である。その手がかりとして、本稿で は『瑜伽師地論』(『瑜伽論』Yogācārabhūmi, YBh)、特に『菩薩地』(Bodhisattvabhūmi, BBh)を中心に 扱う。 『瑜伽論』はインド大乗仏教の一派である瑜伽行派が依り所とする論書である。伝承によれば無着 (Asaṅga)が兜率天に上って弥勒菩薩から授けられたとも、弥勒(Maitreya)が無着に講述し、のちに無着 が講じたとも言われ、漢訳では弥勒、チベット語訳では無着を著者としている。しかし一時に一人の 人物によって造られたものかどうかは疑問が持たれており、複数の著者による共著とする説や、複数の 著者と編纂者により歴史的に成立したものとする説など様々な説がみられる。いずれにしても、『瑜伽 論』は玄奘訳で百巻に及ぶ大部の経典で、内部に様々な発展段階の思想を含んでいると言われる1。 その中で『菩薩地』は「本地分」の約 1/3 を占め、特に古い思想を伝えている箇所であるとされる2。 サンスクリット原典では 28 章よりなり3、第 4 章「真実義品(Tattvārthapaṭala)」に哲学的な思想が集中 している。そこでは vastu(事態)という概念を中心として思想が展開される。そして vastumātra(単なる 事態)という表現で示される vastu の概念が思想的に重要な役割を果たしていると考え、本稿ではその 概念を整理し、唯識思想との関係を考察したい。 それに先だって、「真実義品」周辺における vastu という表現のコンテクストを整理するために、ま ず有部における使われ方を『阿毘達磨倶舎論』(Abhidharmakośabhāṣya, AKBh, 以下『倶舎論』)を中心 に、時に『阿毘達磨大毘婆沙論』(『婆沙論』)を参照しながら見ていきたい。また『瑜伽論』において は『声聞地』(Śrāvakabhūmi, SBh)の用例を概観したい。『菩薩地』では「真実義品」以外の用例をま ず整理する。それらの準備のうえで、最後に「真実義品」での vastu の概念を精査し、唯識思想との関 連について考察したい。 1.2 訳語について ここまで vastu に「事態」という訳語をあてた。この vastu という語をどのように捉えどのように訳 すかが、「真実義品」の思想を読み解く上で非常に重要であると考える。Monier-Williams, “A Sanskrit-English Dictionary”では、“vastu: n. the seat or place of; any really existing or abiding substance or

essence , thing , object , article…”となっている。√vas + tu であるから、もともと「住むところ」「場」 というような意味の用語である。また現実に存在する物質、実在(reality)のような概念として「事物」

などと訳されることも多い。漢訳、及びチベット語訳は 1)

དངོས་པོ་

境事,具,財物,事,物,樂具 

2)

དོན་

事 3)

གཞི་

事 4となっている。 現代語訳では、Frauwallner [1956]は“Ding/thing”、宇井 [1961]は

「事物」、Willis[1979]は“given thing”、(三事は“the three bases”)、相馬 [1986]は「もの」、「実物」、 「事物」(三事は「三つの事柄」)、高橋 [2005]は訳語を当てず(巻末の和訳の箇所では「事物」)など としている。 「事」という言葉を日本語の側から考えると、われわれは「事」「こと」ということばを様々に使 用している。「事物がある」「ある事象が起こる」「事態を把握する」「ほんとうの事(こと)は何か」 「〜という事(こと)について考える」「これは事実である」「身の事実を知る」など多数挙げられる。 しかしその意味をあまり厳密に考えていない。したがって「事」という漢語や「こと」という日本語 1 勝呂[2009]p.297 など 2 Frauwallner[1956], 宇井[1958]p.56, 勝呂[1989]]p.112, 竹村[1995]p.54 など 3 翻訳はチベット語訳と、漢訳は玄奘訳、曇無讖訳、求那跋摩訳がある。

(4)

が意味することと、vastu という言葉で意味することは何が同じで何が違うのかということも、念頭に 置く必要がある。このことは本来重要ではあるが、日本語の概念の整理は本稿では厳密にはできない。 さて、有部においても『瑜伽論』においても vastu は様々な概念として用いられるが、必ずしも「事 物」というのような何らかの外界の実在という固定的な概念ではない。以下に述べるが、『瑜伽論』 に限らず、三世実有を主張する有部においても、vastu の概念は確かに固定的で、根・境・識の「境」 の範疇で捉えられるような限定はあるが、必ずしも外界の事物を指していない。また「真実義品」にお いては、本論で述べるように vastu を言語表現の所縁、あるいは言語の活動領域(field, base)のような意 味で使ったり、世間の人々にとっての vastu というように、仮の実在、分別によって成立したもの、と いうような意味で使ったり、また勝義の実在、法性のような意味で使ったりする。このように「真実 義品」では、vastu の意味を明確に使い分け、かつ複数の意味を持たせながら真実について説いている と筆者は考える。したがって、vastu という言葉を“認識の対象となる物質”、“実在する対象”という限 定的で固定的な概念として考えてしまうと、「真実義品」の思想が見えなくなる恐れがあると考える。 例えば「勝義的実在である vastu」といっても、認識を超えた、認識の制約を外したときに現れるであ ろう事物、いわばカントのいう「物自体」(Ding an sich)5というようなことがらを意味しておらず、そ のような現前の事態を離れて別に実体をもった存在を想定しているのではないと筆者は考える。した がって、この世間(有情もふくめて)に起こりうるあらゆる事象(event)、あるいは現に起こっている出来 事、事態(process, situation, Vorgang)といった流動的な概念と捉えたほうがよいのではないだろうか。

eventや process は field も reality も、ひいては imagination も delution も含む。

以上を踏まえて、「真実義品」を見てみると、”実在する対象”と考えると矛盾するように見える記 述もすっきりと整理され、後述するように、分別、勝義、などといった他の概念との関係や唯識思想 との関連性が明瞭になるように思う。 vastu の訳語として、日本語の「事物」という語は「事と物」で はあるが、「もの」の方に意味の重点があり物質的で固定的な意味合いが強い。そこで本稿では「事 態」と訳すことを試みる。しかし原語の意味を離れて概念を固定化してしまわないために、場合によっ ては vastu もしくは事態(vastu)と記載することにする。 その他、重要な概念を示すと思われる訳語についてあらかじめ整理しておく。本稿では次のような 訳語を使用することとする。

vastu: 事態, vastumātra: 〈単なる事態〉, nimitta: 徴表, sad / asad: 存在の(存在する〜) / 非存在の(存 在しない〜), bhūta / abhūta: 実在の(実在する〜) / 非実在の(実在しない〜), sad-bhūta / asad-bhūta: 実在の(実在する〜) / 非実在の(実在しない〜), bhāva / abhāva:〈有る状態〉、状態 / 〈無い状態〉 svabhāva: 自性, dravya: 実体, ātman: 我、本質, ālambaṇa: 所縁, viṣaya: 境, āśraya: 依り所,

adhiṣthāna: 基礎, vikalpa: 分別, parikalpa:妄想、abhūtaparikalpa 虚妄分別, vijñāna: 識, vijñapti: 識象, vijñaptiāmātra: 〈単なる識象〉, tattva: 真実 1.3 先行研究 仏教思想において『菩薩地』「真実義品」をどのように位置付けるかについては、様々な先行研究 がある。Frauwallner[1956]は『菩薩地』を『瑜伽論』の中でも最も古い箇所であると位置づけた6。 5 「「物自体」とは認識主観とは独立に、それ固有の存在のあり方をしているものを意味する」(『カント事典』弘文 堂, 1997)。物自体の概念はカントの著作の中でも変更があるが、ここでは「物自体」の認識の不可能性を示す『純 粋理性批判』における概念として取り上げた。 「したがって、われわれは諸物自体そのものとしてのいかなる対象についての認識をもつことはできず、ただ それが感性的直観の客観であるかぎりにおいてのみ、すなわち現象としての対象についての認識をもちうるこ とが、批判の分析的部門において証明される」[B XXVI] (有福孝岳訳『カント全集 4』岩波書店) (B:『純粋理 性批判』B 版) 6 Frauwallner[1956] p.265

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Schmithausen[1969]は瑜伽行派の主要な学説である三性説やアーラヤ識説が『菩薩地』には見られな

い7と指摘する。宇井[1958]も「…三性三無性説は菩薩地決擇に於て恐らく初めて説かれるものであっ

て、本地分には、菩薩地と雖、殆ど説かれることは無く、説かれるとしても單なる關説の程度を出で

ない8」とし、『菩薩地』は瑜伽行派の最初期の思想を伝えるものではないかとする。

唯識思想との関連について、Schmithausen[1976]は『菩薩地』には objects や phenomena(nimitta)は 誤った認識や精神活動(vikalpa)の産物であるとする説が見られるが、「その説は誤った認識は単なる精 神のイメージに過ぎないものでなく、実際に things を生み出すということをほのめかしているようであ る」とし、絶対的な本質(Suchness, tathatā)と比較して認識もその産物も真実ではないというような説は

「Yogacara idealism の準備段階ではあるが、idealism そのものではない9」としている。荒牧[1976]は

「『菩薩地』こそ、三性説成立以前の、しかも三性説成立に至るまでの過程を示す基礎資料ではない か10」としている。兵藤[2010]は三性説との関連を認める11が、唯識思想とは結びついていない12として いる。また高橋[2005]は、「『菩薩地』「真実義品」の思想は勝義として実在する vastu という概念を 中心に構成されており、すべての外界の存在を否定し、唯識を主張する瑜伽行派の思想全体から見れば 独特な思想と言える」としているが、vastu の思想は「摂決択分」の五事説・三性説に引き継がれてい るとし、「『菩薩地』の vastu の概念は思想的に孤立したものではない13」という。以上をまとめると、 『菩薩地』「真実義品」は、1)三性説、唯識思想ともに結びついていないとする説、2)三性説の前段階 とはいえるが唯識思想とは結びついていないとする説、3)唯識思想の前段階であるという説などがある が、いまだ確立したものはない。 vastuを中心とした議論としては、次のような主張が見られる。池田[1998]は、「真実義品」に見られ る「分別から vastu が生じる」という表現について、「「真実義品」の vastu はまさしく「絶対的実 在」として存在する。このような実在論においては「分別から vastu が生じる」ということは論理的に あり得ない」とし、後代の付加であるとする。相馬[1984]は、「『菩薩地』真実義章においては言葉に よる表現を離れた本性にある事物そのものを認める立場に立っていることは明らかである」とし、 「この vastu は・・・縁起的なあり方あるいは空性を超えた存在であって、それゆえに勝義存在たりう る」という。「絶対的存在を『中論』は否定し、『菩薩地』は認めた」ともいい、vastu を絶対的実在 と理解し「あえて我(大我)を説くことのできた『宝性論』への“有垢真如の存在証明の理論”を提供 した」と考えられるという。高橋[2001]は、「分別から vastu が生じる」「vastu から分別が生じる」と いうことについて、「心の働きから存在物が生じるとするのは、唯識思想との関係を予想させるが、こ うした記述は vastu を勝義的実在とする『菩薩地』の思想とは矛盾しているようにも思われる」といい、 「勝義的実在である vastu がまず存在し、それが原因となって分別が起こるとすると、勝義的なものか ら世俗的な迷いの世界や輪廻が生じることになってしまう」から、「分別から vastu が生じる」という 7 Schmithausen[1969] p.823 8 宇井[1958] p.86

9 Schmithausen[1976] p.239, “…There are, however, some portions of the Yogacarabhūmi -especially the chapters Bodhisattvabhūmi and Bodhisattvabhūmiviniścaya- where we meet with a kind of nominalistic philosophy according to which finite entities are mere denominations (prajñaptimātra), or with a theory that considers objects or phenomena (nimitta) to be the product of false conceptions or disintegrating mental activities (vikalpa). But just the latter doctrine seems to imply that false conception produces things really, and not merely as mental images. Only as compared with the absolute 'Suchness' (tathatā), both conceptions and their products are unreal. Thus, these theories may be regarded as special forms of Mahayanistic illusionism. They may be stages preparing Yogacara idealism, but they are not yet idealism itself.” 10 荒牧[1976] p.17 11 兵藤一夫[2010] p.291「「真実義品」には三性それぞれに相当する語は見られないが、そこに説かれる真実観の中に 三性説の基本的な考え方が見られる」 12 兵藤一夫[2010] p.302「色などの諸法は自性を有するものではないが、不可言説な本性を有して実在することを示そ うとするものである…また、色などの事物が外界のものであることを前提としており、それらが心において顕現し たものとはされていない。したがって、唯識思想とは結びついていないと考えられる」 13 高橋[2005] p.16

(6)

意図は、「迷いの世界の原因が分別にあることを説こうとしている者と理解すべきであろう」と締めく くってている。また、「vastu は分別の基体でありながら、言語表現し得ない本質を持つという点で勝 義的実在と考えられているが、これは同一の vastu の二つの側面であり、したがって本質的に vastu は 実在でなければならない。しかし「分別から vastu が生じるという一見すると矛盾する記述がある14」 とし、「「分別から vastu が生じる」とは vastu が分別の展開に陥った状態、すなわち分別が名称と関 連しながら、様々な様態を持って vastu に対して働きかけている状態を表していると考えられる15」と いう。本村[2005]は「真実義品」と「摂決択分中菩薩地」の vastu と nimitta を取り上げ、「摂決択分」に おいて nimitta が真如と不一不異であるといわれることについて、「〈因相〉(nimitta; 筆者補足)と真如 (〈事〉(vastu; 筆者補足))は同じ言説の基体であるが、〈事〉は勝義としての基体であり、〈因相〉 は世俗的なものとしての基体なのである」という。ここでの、言説の「勝義としての基体」とはどうい うことかという疑問が残る。また「基体」というのは adhiṣṭhāna の訳語と思われ高橋[2005]も使用して いるが、それについて袴谷[2006]は、高橋[2005]についての書評で、「アリストテレスの哲学用語や松 本史朗博士の「基体説」を想定しているならば、それについて触れた上で特に後者であれば dhātu との 関係を論じるべきだ」指摘しているが、「基体」という訳語とその概念は慎重に考える必要がある。 以上のいずれの研究者も、主張の差異はあるが、vastu は分別とは別の、分別の対象となる外界の存 在物があるとし、あるいは vastu によって認識している対象とは別の、認識を外したときに現れ出るよ うな“勝義的実在”を認めている、と受け止められる傾向がある。 確かに「真実義品」は実在を強調していることについては同意するが、「実在」が外界の存在物や、 有部のいう自性、ましてや絶対的な大我に繫がる内容を意味するかどうかは疑問であり、慎重に検討 する必要がある。筆者は「勝義的実在」といっても、認識を除いて別にある何らかの実在ではないと 考える。単純に認識を除いてその先に認識と無関係な何かがあるのではなく、ほんとうの認識とは何 かを徹底して探究し、認識の中に真実をみるところに「真実義品」の意図があると見るからである。 では「真実義品」において「勝義的実在」とは何を意味するのか。そのことを初期唯識思想における vastuの概念を踏まえながら考察し、唯識思想の背景を探りたい。

2. vastu

の様々な概念

2.1有部における vastu の概念 2.1.1名称・意味としての vastu —言語表現の因 『倶舎論』「界品」には、有為を説くところで事態(vastu)の用例が見られる。 まず有為とは何かという問いに対して、

[AKBh4.20] te punaḥ saṃskṛtā dharmā rūpādiskandhapañcakam // (7ab) 次に、それら有為法とは、「色」などの五蘊である。

[AKBh5.2] ta evādhvā kathāvastu saniḥsārāḥ savastukāḥ // (7cd)

それら〔有為法〕はつまり、世路(adhvan)であり〈言語の事態〉(言依 kathāvastu) であり、 有離(saniḥsāra)であり〈事態を持つもの〉(有事 savastuka)である。

とある。まず、〈言語の事態〉(kathāvastu) について、世親は次のように注釈する。

[AKBh5.3] kathā vākyam / tasyā vastu nāma / sārthakavastugrahaṇāt tu saṃskṛtaṃ kathāvastūcyate / anyathā hi prakaraṇagrantho virudhyeta “kathāvastūny aṣṭādaśabhir dātubhiḥ saṃgṛhītāni”/

「言語」とは言葉(vākya)である。それ(言語)の事態とは名称(nāma) である。しかし、意味を持

14 高橋[2005] p.28 15 高橋[2005] p.32

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つもの(sārthaka)が事態であると言及するから、有為が言語の事態と言われる。もしそうでないと すると、「〈言語の事態〉は十八界に含まれる」という『品類足論』の文言が違ってくる。 事態とは名称(nāma)であり、意味を持つものであるとされる。さらに称友釈を参照する。

[AKVy21.6] kathā vākyam iti vistaraḥ. kathā vākyaṃ varṇ'ātmakaḥ śabda ity arthaḥ. tasyā vastu nāma-viṣaya ity arthaḥ. nāmnā punar artho 'bhidheyaḥ. tathā hi vakṣyati. vāṇ nāmni pravartate. nāmārthaṃ dyotayatīti.

「言語は言葉である」云々という。言語は言葉であり、音節を本体とする表現という意味であ る。それ(言語)の事態とは、名称という境(nāma-viṣaya) という意味である。また意味(artha)は名 称によって言語表現されるものである。例えば「言葉は名称において起こり、名称は意味を示 す」と〔後に〕説くだろう。

[AKVy21.12] Kathā-vastūny aṣṭādaśabhir dhātubhiḥ saṃgṛhītāni iti. kayā punar yuktyā sārthakaṃ vastu gṛhyate. dvi-vidhaḥ kathāyā viṣayaḥ. sākṣāt pāramparyeṇa ca. sākṣād-viṣayo nāma.

pāramparyeṇārthaḥ. sa hi sva-visaya-bhūtasya nāmno viṣaya iti. atas tasyāpi viṣayo vyavasthāpyate. asaṃskṛtaṃ kasmān na kathā-vastutvenoktaṃ. adhva-patitasya nāmno 'nadhva-patitena

sahārthāyogāt. viṣayo hetur iti vā artha-dvaya-vācaka-vastu-śabda-parigrahād vā. yad dhi kathāyā viṣayo hetu-pratyayaś ca bhavati. tat vastu. asaṃskṛtaṃ tu na hetu-pratyayaḥ kathāyā iti na kathā-vastu. 「〈言語の事態〉は十八界に含まれる」という。ではどのような道理で、意味をもつ事態を含 むのか。言語の境には二種ある。直接的な(sākṣāt)〔境〕と、間接的な(pāramparyeṇa)〔境〕とで ある。直接的な境とは名称である。間接的な〔境〕とは意味である。というのは、それ(意味)が 〔言語〕自身の境となる名称についての境であるからである。それ故、それ(名称)もまた境がある と定立される。 なぜ無為は言語の事態という性質をもつと説かれないのか。世に落ちているもの(有為)の名称 は、世に落ちていないもの(無為)を伴って、意味に結びつかないからである。また、境または因と いう二つの意味を表す事態という語が理解されているからである。というのは、言葉の境であり 因縁であるものが言葉の事態である。しかし無為は言語の因縁ではないから、言語の事態ではな い。 以上をまとめると事態とは名称であり、意味である。名づけることができ、意味をもつことがらで ある。様々な言語表現が起こる因であり、言語表現の対象であるとされ、直接的には「名称」として 現れ、間接的には「意味」として現れているという。 有為には事態があるが、無為には事態がないという。「有為には事態がある」ということは、各有 為法、例えば「色」などは、その「色」という名称で表される意味を持った性質であり、それを境と して「色」が語られる。一方「無為には事態がない」とは、事態が名称であり意味であるから、無為 には名称がなく意味がない、ということになる。「言語の因縁ではない」(na hetu-pratyayaḥ kathāyā)こ とである、という。無為が言語の因縁ではないということは、「無為」という名称を、無為について 語る様々な言語表現の出発点としてはならないことを示そうとしていると言える。あるいは、無為とは そのような言語表現が起こるような因とならないものであることを表しているといる。 では無為に事態がないならば、それを対象とする認識があり得るかどうかということが問題となる。 そのことが「根品」や「随眠品」で議論される。まず「根品」では、経量部の立場として無為は〈無 い状態〉(abhāva)であるということに対して、有部の立場から以下のように反論する。

[AKBh93.14] yady asaṃskṛtam abhāvamātraṃ syād ākāśanirvāṇālambanavijñānam asadālambanaṃ syāt / etad atītānāgatasyāstitvacintāyāṃ cintayiṣyāmaḥ /

(8)

【有部】もし無為がただ〈無い状態〉のみであるなら、虚空や涅槃を所縁とする識は、所縁が ないことになるだろう。

【経量部】このことは過去・未来の存在性について考えるときに考えるだろう。 これについては「随眠品」において議論される。それについては以下で取り上げる。

次に〈事態を持つもの〉(savastuka)についての記述も参照する。

[AKBh5.4] sahetukatvāt savastukāḥ / hetuvacanaḥ kila vastuśabda iti vaibhāṣikāḥ /

因を持つものであるから、〈事態を持つもの〉である。事態という語は因を表していると毘婆 沙師は伝説する。

ここでも事態とは原因を表している、ということを kila という表現を用いて毘婆沙師の説として述べら れる。したがって、世親の立場とは異にすると考えられる。称友釈に以下のように述べられる。

[AKVy21.28] savastukā - iti vasanty asmin prāk kāryāṇi paścāt tata utpattir iti. vastu hetur ity

arthaḥ. sa eṣām astīti savastukāḥ. pravacane hi vastu-śabdaḥ paṃcasv artheṣu dṛśyate. svabhāve

ālambane saṃyojanīye hetau parigrahe ca. svabhāve tāvat. yad vastu pratilabdhaṃ. samanvāgātaḥ sa tena vastuneti tena svabhāveneti gamyate. ālambane. jñeyā dharmāḥ katame. āha. sarva-dharmā jñānena jñeyā yathāvastu yathālambanam ity arthaḥ. saṃyojanīye. yasmiṃ vastuni

anunaya-saṃyojanena saṃyuktaḥ. pratigha-saṃyojanenāpi tasminn iti. hetau. savastukā dharmāḥ katame. sarva-saṃskṛtā dharmā iti. parigrahe. kṣetra-vastu-gṛha-vastu-āpaṇa-vastu-dhana-vastu-parigrahaṃ prahāya tataḥ prativirato bhavatīti. iha hetau vastu-śabdo veditavyaḥ hetu-vacanaḥ. kila iti. kila-śabdaḥ para-mataṃ darśayati. sva-para-mataṃ tv asya lakṣyate. savastukāḥ sasvabhāvāḥ saṃskṛtāḥ. asaṃskṛtās tv avastukāḥ prajñapti-sattvād iti.

〈事態を持つもの〉(savastuka) とは。その中に前もって諸の果が留まっており、後にそこから 生じるということから「事態とは因という意味である。」それがそれらにあるから〈事態を持つ もの〉である。というのは、教えにおいて、事態という表現は五つの意味に知られる。自性、所 縁、繫縛、因、所有とである。まず自性の意味では、事態が得られているものは、その事態を倶 有しているから、自性を〔倶有している〕と理解される。所縁の意味では、所知の法とは何か。 一切法は、知によって事態どおりに、所縁どおりに知られるべきである、という意味である。繫 縛の意味では、愛結によってある事態に繋がれているものは、瞋結によってもそれに〔繋がれ る〕と〔説かれている〕。因とは。〔つまり〕事態を持つ法とは何か。一切の有為法である。所 有とは。田事、家事、店事、財事の所有を捨てて、これらから離れるようになるという。ここは、 事態という表現は因の意味であると知られるべきである。因を説くと伝説する、という場合、 「伝説」という表現は、他の意見を示す。しかし彼(世親)自身の意見では、「〈事態を持つも の〉は自性を持つものであり、有為である。一方、無為は仮の存在(prajñapti-sattva)であることか ら、〈事態を持たないもの〉である」と定義される。 ここで自性、所縁、繫縛、因、所有の五つの事態を挙げる。有部の場合は、事態は「因」の意味で あり、「有為」は名称や意味をもち、それを因として言語表現できるという意味で事態を持つという。 「無為」は名称や意味をもたず、それを因として言語表現できないから事態を持たないという。 一方世親の立場では、事態を持つとは自性を持つことであるという。事態を「自性」の意味で考え る。もしくは事態である名称・意味をそのまま自性と考え、区別しないとも言える。したがって有部 の立場では、事態である名称・意味はそのまま自性ではなく、言語表現の因であるとし、名称・意味 と自性を区別する必要があったとも言える。これについては「根品」や「随眠品」の議論を見る必要 がある。

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2.1.2因としての vastu —自性と区別される vastu

無為は事態を持たない(avastuka)ということについて、どういう意味で事態を持たないというのか、 また無為とは〈有る状態〉(bhāva)なのか〈無い状態〉(abhāva)なのか。このような問題をめぐって、 『倶舎論』「根品」で議論されている。

離繫とは何か、という問いに対して、以下のような議論が展開する。

[AKBh92.2] āryair eva tatsvabhāvaḥ pratyātmavedyaḥ / etāvat tu śakyate vaktuṃ nityaṃ kuśalaṃ cāsti dravyāntaram / tad visaṃyogaś cocyate pratisaṃkhyānirodhaś ceti /

sarvam evāsaṃskṛtam adravyam iti sautrāntikāḥ / na hi tad rūpavedanādivat bhāvāntaram asti / kiṃ tarhi / spraṣṭavyābhāvamātram ākāśam / tadyathā hy andhakāre pratighātam avindanta ākāśam ity āhuḥ / utpannānuśayajanmanirodhaḥ pratisaṃkhyābalenānyasyānutpādaḥ pratisaṃkhyānirodhaḥ / vinaiva pratisaṃkhyayā pratyayavaikalyād anutpādo yaḥ so 'pratisaṃkhyānirodhaḥ / tadyathā nikāyasabhāgaśeṣasyāntarāmaraṇe /・・・

[AKBh93.4] yady asaṃskṛtaṃ nāsty eva, yad uktaṃ bhagavatā, ye kecid dharmāḥ saṃskṛtā vāsaṃskṛtā vā virāgas teṣāṃ agra ākhyāta iti katham asatām asann agro bhavitum arhati /

na vai nāsty evāsasṃskṛtam iti brūmaḥ / etat tu tad īdṛśaṃ yathāsmābhir uktam / tadyathā asti śabdasya prāgabhāvo 'sti paścād abhāva ity ucyate / atha ca punar nābhāvo bhāvaḥ sidhyati / evam asaṃskṛtam api draṣṭavyam / abhāvo 'pi ca kaścit praśasyatamo bhavati, yaḥ

sakalasyopadravasyātyantam abhāva ity anyeṣāṃ so 'gra iti praśaṃsāṃ labdhum arhati / vineyānāṃ tasminn upacchandanārtham / 【有部】聖者によってのみ、それの自性は自証されるのである。しかしこれだけは言える。常 (nitya)でありまた善 (kuśala)である一つの実体(dravya)が存在する(asti)。それが離繫といわれ、ま た択滅とも言われる。 【経量部】経量部の人々は、「すべての無為は実体ではない(adravya)」という。というのは、 それは「色」や「受」などのように一つの〔法としての〕〈有る状態〉が存在するのではない。 【有部】それではどうなのか。 【経量部】1)ただ触が〈無い状態〉であることが、虚空〔無為〕である。例えば、闇において 抵抗するものを得ないとき虚空という。2)すでに生起した随眠と生(janman)が滅し、択 (pratisaṃkhyā)の力によって別の〔随眠と生〕が生起しないことが、択滅(pratisaṃkhyānirodha)で ある。3)択とは関係なく、縁を欠くことによって生起しないことが、非択滅である。例えば、人 生の途中で死んだとき、衆同分の残り〔はもう生起しない〕ようにである。・・・ 【有部】もし無為がまさに存在しないならば、世尊によって「有為でも無為でも、いかなる諸 法の中で離貪が第一であるといわれる」と説かれるが、どのようにして非存在(asat)のなかで、非 存在が第一となり得るだろうか。 【経量部】決して無為が全く存在しない、と我々は言っているのではない。しかしそれは我々 の説くように〔存在するの〕である。例えば、声について、先に〈無い状態〉があり(asti)、後に また〈無い状態〉がある、と言われるような〔しかたで無為は存在する〕。そしてさらに、〈無 い状態〉が〈有る状態〉ということは成り立たない。無為もまた同様であると考えるべきである。 〈無い状態〉であっても、何らかの最も称賛に値するものであり、それはすべての災難が完全に 〈無い状態〉となることであり、他のものの中で、第一という称賛を得るのに相応しい。所化を それについて説得するため〔説かれたの〕である。

[AKBh93.15] yadi punar dravyam evāsaṃskṛtam iṣyeta, kiṃ syāt / kiṃ ca punaḥ syāt /

vaibhāṣikapakṣaḥ pālitaḥ syāt /

devatā enaṃ pālayiṣyanti, pālanīyaṃ cet maṃsyate / abhūtaṃ tu parikalpitaṃ syāt / kiṃ kāraṇam /

(10)

amuṣya ca vastuno 'yaṃ nirodha iti ṣaṣṭhīvyavasthā kathaṃ prakalpyate / na hi tasya tena sārdhaṃ kaścit saṃbandho hetuphalādibhāvāsaṃbhavāt / pratiṣedhamātraṃ tu yujyate amuṣyābhāva iti /

bhāvāntaratve 'pi yasya kleśasya prāptivicchedād yo nirodhaḥ prāpyate, sa tasyeti vyavadiśyate / 【有部】またもし無為がまさに実体であると認められるならば、どのように〔過失がある〕か。 【経量部】ではまたどのように〔利得がある〕か。 【有部】毘婆沙師の主張が擁護されるだろう 【経量部】擁護すべきと考えるなら、神がそれを擁護するだろう。しかし非実在を分別するこ とになるだろう。 【有部】どのような理由でか。 【経量部】というのは、それ(無為)に関して「色」「受」などのような自性が認識されること はなく、また「眼」などのように作用もない。 また「これは(ayam)それの(amuṣya)事態(vastu)の滅である」と第六(属格, amuṣya)を立てること がどのように成立するか。というのは、それ(事態) にはそれ(滅)との間に何の関係もない。因果 などとなることはあり得ないからである。しかし「それ(事態)の〈無い状態〉」というように、 ただ否定することは妥当である。 【有部】〔滅は〕別の〈有る状態〉であっても、ある煩悩の得を断ずることによって、それの 滅が得られるとき、「それ(滅)は、それ(事態)の〔滅である〕」と示される。

[AKBh93.20] tasya tarhi prāptiniyame ko hetuḥ /

dṛṣṭadharmanirvāṇaprāpto bhikṣur ity uktaṃ sūtre / tatra katham abhāvasya prāptiḥ syāt /

pratipakṣalābhena kleśapunarbhavotpādātyantaviruddhāśrayalābhāt prāptaṃ nirvāṇam ity ucyate / āgamaś cāpy abhāvamātraṃ dyotayati / evaṃ hy āha / yat khalv asya duḥkhasyāśeṣaprahāṇaṃ pratiniḥsargo vyaṅgībhāvaḥ kṣayo virāgo nirodho vyupaśamo 'staṃgamaḥ anyasya ca

duḥkhasyāpratisandhir anutpādo 'prādurbhāvaḥ / etat kāntam etat praṇītaṃ yad uta sarvopādhipratiniḥsargas tṛṣṇākṣayo virāgo nirodho nirvāṇam iti /

kim evaṃ neṣyate nāsmin prādurbhavatīty ato 'prādurbhāva iti /

asamarthām etāṃ saptamīṃ paśyāmaḥ / kim uktaṃ bhavati / nāsmin prādurbhavatīti yadi satīty abhisaṃbadhyate, nityam evāprādurbhāvaprasaṅgo nirvāṇasya nityatvāt / atha prāpta ity

abhisaṃbadhyate, yata eva tatprāptiḥ parikalpyate, tasminn eva saṃmukhībhūte prāpte vā duḥkhasyeṣyatām aprādurbhāvaḥ /

ayaṃ ca dṛṣṭānta evaṃ sūpanīto bhavati /

pradyotasyeva nirvāṇaṃ vimokṣas tasya cetasa iti /

yathā pradyotasya nirvāṇam abhāva, evaṃ bhagavato 'pi cetaso vimokṣa iti /

abhidharme 'pi coktam, avastukā dharmāḥ katame / asaṃskṛtā dharmā iti / avastukā aśarīrā asvabhāvā ity uktaṃ bhavati /

nāstyāyam arthaḥ / kas tarhi /

pañcavidhaṃ vastu / svabhāvavastu yathoktaṃ, yad vastu pratilabdhaṃ samanvāgataḥ sa tena vastuneti / ālambanavastu / yathoktaṃ, sarvadharmajñeyā jñānena yathāvastv iti / saṃyogavastu / yathoktaṃ, yasmin vastuni anunayaḥ saṃyojanena saṃprayuktaḥ pratighagsaṃyojanenāpi tasminn iti / hetuvastu yathoktaṃ, savastukā dharmāḥ katame / saṃskṛtā dharmā iti / parigrahavastu / yathoktaṃ, kṣetravastu gṛhavastv iti / tad atra hetur vastuśabdenoktas tasmād asty evāsaṃskṛtaṃ dravyata iti vaibhāṣikāḥ / tasya tu hetuphale na vidyete iti / gataṃ tāvad etat /

【経量部】それでは、それ(滅)の得の決定にどのような因があるか。 【有部】経に「比丘は現法涅槃(dṛṣṭadharmanirvāṇa)を得た」と説かれている。その場合、〈無 い状態〉のものをどのように得ることがあるか。 【経量部】対治の獲得によって、煩悩と後有との生起が完全に遮られるような依り所を得るか ら、「涅槃を得た」というのである。 聖教もまた、ただ〈無い状態〉だけであることを示している。次のように言う。「実にこの苦 が残り無く断ぜられ、各々放棄され、終止し、離貪し、滅尽し、静止し、制圧され、またそれ以 外の苦が継続せず、生起せず、顕現しない状態であるならば、それは欲求されることであり、希

(11)

望されることである。すなわちすべての執着の放棄であり、渇愛の終止であり、離貪であり、滅 尽であり、涅槃である。」 【有部】このようであるなら、あることにおいて(asmin)現れないから、これ故に現れないとど うして認められないのか。 【経量部】我々はその第七(処格)には意味がないと考える。〔処格で表すことで〕何が説かれ ることになるのか。「あることにおいて現れていない」ということが、もし存在すること(sati)を 意味するならば、恒常的に不現起を導出することになる。涅槃は常住だからである。また「得ら れた」ということを意味するならば、まさにそれによってそれの得が考えられるところの、まさ にそれが現起し、あるいは得られるとき、苦が顕現しないと認められるべきである。 次の例はそのようによく解釈される。 「灯火が滅するように、彼の心は解脱している」 灯火が滅することが〈無い状態〉であるように、同様に、まさに世尊の心の解脱もそうである といわれる。 またアビダルマにおいても、「事態をもたない法とは何か。無為法である」と説かれている。 「事態をもたない」というのは本体がないこと、自性がないことである。」と説かれている。 【有部】〔あなたが言うような〕その意味ではない。【経量部】それではどうなのか。 【有部】五種の事がある。自性事とは、「もしその事態が獲得されたら、彼にはその事態を倶 有する」というような場合である。所縁事とは「一切法は智によって、事態の通りに知られるべ きである」・・・(以下、上記と同様の五事の説明のため略す)。このうちの「因」が事態という表現 によって説かれるから、無為は実体として存在すると毘婆沙師はいう。しかし、それには因・果 はないということはすでに理解されていることである。 「無為は事態の滅である」いわれることについて議論している。経量部の立場として、無為は〈有る 状態〉(bhāva)が〈無い状態〉(abhāva)となることであるとする。これは自性(svabhāva)が三世に渡って 存在することを認めない本無今有説に基づいているといえる。したがって事態を自性としても問題なく、 無為に事態がないこと(avastuka)を、自性がないことであると解釈する。自性がない、ということを認 める。それに対して有部は三世実有の立場であるから自性がないということを認めないため、「無為 に事態がない」というときの「事態」を自性と考えると三世実有の立場に反する。したがって事態は 自性という意味ではなく因であるから、「事態の滅」といっても「因としての性質の滅」のことであっ て「自性の滅」ではないというのである。 五事について上記を挙げることと、有事と無事が、有因と無因を意味することについては『婆沙 論』にも次のように示され、無事ということは無因であり、三有の生を超えることを表していることが 説かれている。 [T1545.27.288b] 事に五種有り、一に自体事、二に所縁事、三に繫事、四に因事、五に摂受事なり。 ・・・因事とは品類足論に説くが如し「云何が有事の法なりや、云何が無事の法なりや」と。彼の意 は、有因の法、無因の法を説くなり。又伽他に説く、 苾芻よ、心、寂静なれば、能く諸事を永断す、 彼は生死を尽すが故に、後有を受けず。 と、彼の頌の意は、一切の生死は皆、因に依る。因有るが故に、生死有り、因断ずるが故に、生 死尽き、此に由りて復未来の三有の生を受けずと説くなり。 2.1.3所縁としての vastu 「随眠品」で vastu が初めに見られる箇所をみる。遍行の随眠と非遍行の随眠の随増についての原則

(12)

を述べた後、次のようにいう。

[AKBh289.9] nānāsravordhvaviṣayaḥ (18a)

anāsravālambanā anuśayā naivālambanato 'nuśerate / nāpy ūrdhvabhūmyālambanāḥ / kiṃ kāraṇam / tadālambanasya vastunaḥ,

asvīkārād vipakṣataḥ / (18b)

yad dhi vastv ātmadṛṣṭitṛṣṇābhyāṃ svīkṛtaṃ bhavati, tatrānye 'py anuśayā anugamayitum utsahante / ・・・ / na caivam anāsravā nāpy evam ūrdhvā bhūmiḥ / ato na tadālambanās teṣv anuśerate /

無漏と上〔地〕を境(viṣaya)としてもつもの(随眠)は、〔その境を所縁として随増〕しない。 無漏を所縁とする随眠が、所縁によって随増することは決してない。上地を所縁とするものにもな い。何故か。それらの所縁である事態(vastu)は、 わがものとされることはないからである。〔なぜなら〕対治であるからである。 というのは、我見と渇愛とによってわがものとされる、その事態に対しては、他の随眠も随増す るだろう。・・・しかし、無漏はそうではなく、上地もそうではない。故にそれら(無為法や上地) を所縁とするもの(随眠)は、それら(無漏法や上地)に対して随増しない。 ここでは随眠の所縁を事態(vastu)としている。上記の五つの事態でいえば「所縁」あるいは「繫 縛」の事態ということになる。無漏や上地といった事態を所縁とする随眠は随増しないという。何故 かといえば、無漏や上地といった事態は「わがものとされることはないからである」という。事態が わがものとされない、ということは後に取り上げるような、事態に「非存在を増益する」ということ と関連すると思われる。 次に煩悩によって所縁に対してどのように繋がれるかについての分類がなされる箇所を見てみる。ま ず自相を所縁とする煩悩は貪・瞋・慢であり、共相を所縁とする煩悩は見・疑・無明であるとした上 で、以下のように述べられる。

[AKBh295.8] rāgapratighamānaiḥ syād atītapratyupasthitaiḥ /

yatrotpannāprahīṇās te tasmin vastuni saṃyutaḥ //23//

atītā pratyutpannāś ca rāgapratighamānā yasmin vastuny utpannā na ca prahīṇās tasmin vastuni taiḥ saṃyuktaḥ / ete hi svalakṣaṇakleśatvān na sarvasyāvaśyaṃ sarvatrotpadyante /

sarvatrānāgatair ebhir mānasaiḥ (24ab)

yatrāprahīṇās te iti vartate / anāgatair ebhir eva rāgapratighamānair manobhūmikaiḥ sarvatra vastuni saṃyutas traiyadhvike / mānasānāṃ tryadhvaviṣayatvāt /

svādhvike paraiḥ / (24b)

anyai rāgapratighair anāgatair anāgata eva vastuni saṃyuktaḥ / ke punar anye / ye pañcavijñānakāyikā rāgāś ca pratighāś ca / utpattidharmibhir evaṃ /

tair eva tu,

ajaiḥ sarvatra (24c)

anutpattidharmaiḥ pañcavijñānakāyikair api sarvatra vastuni saṃyuktaḥ / traiyadhvike 'pi,

śeṣais tu sarvaiḥ sarvatra saṃyutaḥ //24//

ke punaḥ śeṣāḥ / dṛṣṭivicikitsāvidyās traiyadhvikāḥ / taiḥ sarvair api sarvasmin vastuni saṃyuktaḥ / sāmānyakleśatvāt / yāvad aprahīṇā ity adhikāro 'nuvartata eva /

ある〔事態〕についてそれら(煩悩)がすでに起こり未断であるとき、〔煩悩がすでに起こ り未断であるその人は〕過去・現在の貪・瞋・慢によってその事態に繋がれている。 ある事態について過去と現在の貪・瞋・慢がすでに起こり未断であるとき、それら(過去と現在 の貪・瞋・慢)によってその事態に繋がれる。それらは自相の煩悩であるから、必ずしもすべて の人に、すべての〔事態〕に対して起こるのではない。 〔煩悩がすでに起こり未断であるその人は〕意〔識と相応する〕未来のそれら(貪・瞋・ 慢)によって、すべて〔の事態〕に〔繋がれる〕。

(13)

「ある〔事態〕について、それら(煩悩)がすでに起こり未断であるとき」が〔ここにも〕つな がる。〔煩悩がすでに起こり未断であるその人が〕意地の未来のそれら貪・瞋・慢によって、三 世のすべての事態に繫がれる。意〔識に相応するもの〕は三世を境とするからである。 他のものによって、自世(未来世)〔の事態〕に〔繫がれる〕。 他の未来の貪・瞋によっては、未来の事態にのみ繋がれる。「他の」とは何か。五種の識〔に相 応する〕貪・瞋である。生じる性質のある〔煩悩〕については以上のようである。しかし同じそ れ(煩悩)について、 生じないのものによって、すべての〔事態〕に〔繋がれる〕。 生じない性質のある、五種の識〔に相応する煩悩〕によっても三世のすべての事態に繋がれる。 しかし、残りのすべてによって、すべての〔事態〕に繫がれる。 では「残り」とは何か。三世の見・疑・無明である。それらすべてによって、すべての事態に繋 がれる。共相の煩悩だからである。未断である限りという規定は〔ここでも〕はたらく。 ここでも「事態」とは煩悩の所縁である。また過去や未来についても煩悩の所縁を「事態」としてい る。煩悩を未断の者は、煩悩によって事態に繋がれるという。また意識は過去・未来・現在のすべての 法を所縁とすることから、意識と相応する未来の煩悩の所縁は、過去・未来・現在の三世すべての事 態がなりうるという。根・境・識の和合により認識が成立しているという有部の立場からは、意識が 所縁にできるということは過去・未来の事態も存在するということになる。これについては有部の立 場と世親の立場の議論が展開される。有部の立場では「境が存在するとき識が起こる」といい、「も し過去・未来が存在しなかったら、識は所縁をもたないことになるだろう16」という。一方世親の立場 では現在の法のみを実有とし、過去、未来の実有を否定する。 識は六根と六境から生じる(utpāda)という有部の立場にたいして、以下のようにいう。 [AKBh299.16] yad apy uktaṃ “dvayaṃ pratītya vijñānasyotpādād” iti, idaṃ tāvad iha

saṃpradhāryam / yan manaḥ pratītya dharmāṃś cotpadyate manovijñānaṃ kiṃ tasya yathā mano janakaḥ pratyaya evaṃ dharmā āhosvid ālambanamātraṃ dharmā iti /yadi tāvad janakaḥ pratyayo dharmāḥ kathaṃ yad anāgataṃ kalpasahasreṇa bhaviṣyati vā na vā tad idānīṃ vijñānaṃ janayiṣyati / nirvāṇaṃ ca sarvapravṛttinirodhāj janakaṃ nopapadyate /athālambanamātraṃ dharmā bhavanti / atītānāgatam apy ālambanaṃ bhavatīti brūmaḥ /

「二つ(根と境)によって識が生じるから」といったが、まずここで、このことを考察しなければ ならない。意と法とによって意識が生じるが、意が〔意識を〕生みだす縁(pratyaya)であるのと同 様に、法が〔意識を生みだす〕縁であるのか、あるいは法は〈単なる所縁〉(ālambanamātra)であ るか。もし、法も〔意識を生みだす〕縁であるなら、千劫後に生じるか生じないかという未来 〔の法〕がどうして今識を生じさせるだろうか。また、涅槃はすべての生起の止滅であるから、生 みだすもの(janaka)としてふさわしくない。したがって、法が〈単なる所縁〉であるならば、われ われは「過去・未来も所縁である」という。 世親は、未来の法や涅槃は「生みだすもの」としてふさわしくないから、未来の法や涅槃は〈単なる 所縁〉(ālambanamātra)であって、意識を生みだす縁ではないという。ここで「単なる」(-mātra)という ことばによって、「意識を生みだす縁」となることを除外し、「所縁」のみであることに限定している。 後に vastumātra, vijñaptimātra について論ずるに当たり、このことは重要であると思われる。 また所縁について、つづけて次のような議論がある。 [AKBh299.21] yadi nāsti katham ālambanam /

atredānīṃ brūmaḥ / yathā tadālambanaṃ tathāsti / kathaṃ tadālambanam abhūd bhaviṣyati ceti / na hi kaścid atītaṃ rūpaṃ vedanāṃ vā smarann astīti paśyati / kiṃ tarhi / abhūd iti / yathā khalv api

(14)

vartamānaṃ rūpam anubhūtaṃ tathā tad atītaṃ smaryate / yathā cānāgataṃ vartamānaṃ bhaviṣyati tathā buddhyā gṛhyate / yadi ca tat tathaivāsti vartamānaṃ prāpnoti / atha nāsti / asad apy ālambanaṃ

bhavatīti siddham / 【有部】もし、〔過去や未来の法が〕存在しないのなら、どのように所縁となるのか。 【世親】これについて、今われわれは答える。〔過去や未来の法は〕それを所縁とするように、 そのように存在する。どのようにそれを所縁とするかといえば、「あった(abhūt)」「あるだろう (bhaviṣyati)」というようにである。というのは、過去の「色」や「受」を思い浮かべているとき、 誰も「存在する(asti) 」とは見ないからである。それでは何と〔見るか〕。「あった」と〔見るの である〕。まるで知覚された(anubhūta)現在の「色」であるかのように、そのように過去〔の 「色」〕が思い浮かべられる。また、未来〔の「色」〕が現在〔の「色」〕となる(bhaviṣyati) よ うに、そのように 認識(buddhi)によって把握される。そこで、もしそれがまったく同じように存在 するならば、〔過去・未来は〕現在であることになってしまう。〔しかし、現在と同じように〕存 在しないのであれば、非存在も所縁となるということが成立する。 このような議論からわかることは、有部の立場は「すべての法は存在しており、存在しているから所 縁となる」ということである。過去・未来についても存在しているとし、現在の意識を生みだす縁で あると考える。それに対して、世親の立場では、過去・未来の法は「単なる所縁」であって、それらが 認識によって現在の法となって、それを現在の意識が把握するという。したがって、「ゆえに〈有る状 態〉と〈無い状態〉の二つが識の所縁である17」という。そして、六根・六境の関係において、境であ り事態(vastu)である「法」は〈単なる所縁〉であって、意識を生みだすのはあくまで根である「意」で あるとする。  次に所縁と事態の関係について、『倶舎論』「賢聖品」における vastu の用例を見ておく。 [AKBh374.24]kiṃ punaḥ kāraṇaṃ prathamānāṃ nāsti parihāṇiḥ / darśanaheyānām avastukatvāt / ātmādhiṣṭhānapravṛttā hy ete satkāyadṛṣṭimūlakatvāt / sa cātmā nāstīti / asadālambanās tarhi prāpnuvanti / nāsadālambanāḥ / satyālambanatvāt / vitathālambanās tu / katamaś ca kleśo naivam asti / viśeṣaḥ / ātmadṛṣtir hi rūpādike vastuni kārakavedakavaśavartitvenātmatvam abhūtam adhyāropayati /

tadadhiṣṭhānānuvṛttāś cāntagrāhadṛṣṭyādara ity avastukā ucyante / bhāvanāheyās tu rāgapratighamānāvidyā rūpādike vastuni kevalaṃ

saktyāghātonnatyasaṃprakhyānabhāvena vartanta iti savastukā ucyante / asti ca tac chubhādimātraṃ yatra teṣāṃ pravṛttayaḥ na tv ātmādileśo 'pi asti /

tathā hi bhāvanāheyānām asti pratiniyataṃ vastu manāpāmanāpalakṣaṇaṃ na tu darśanaheyānām ātmādilakṣaṇam / tasmād apy avastukā ucyante /

ではどのような理由で、初めての〔果に〕退失がないのか。見所断の〔煩悩〕は事態をもたな いからである。というのは、それらは有身見を根本とするから我を基礎として起こるもの(ātma-adhiṣṭhāna-pravṛtta) であるが、我は存在しない(na asti)からである。そうであるならば、非存在 (asat)を所縁とする(asad-ālambana) ということになる〔というならば、答えよう。〕非存在を所縁 とするのではない。諦(satya)を所縁としているからである。しかし非如実に(vitathā)所縁とするの である。しかし、いかなる煩悩がそのように〔諦を非如実に所縁とするの〕ではないのか〔と問 うならば答えよう〕。〔煩悩によって〕違いがあるのである。実に我見(有身見)は、色などの事 態について、行為と感受と意志を為すものとして、実在しない(abhūta)我を増益する。また辺執見 などはそれに基づいて伴って生じるから、〔有身見と辺執見は〕事態を持たないものといわれる。 修所断の貪・瞋・慢・無明は、色などの事態について、執着、障害、高慢、無知というあり方 で起こるから、事態を持つものといわれる。それら(修所断の煩悩)は、それらにおいて起こるが、 それらの清浄などだけが存在するのであって、我などは少しも存在しない。 17 AKBh300.12

(15)

そうであるならば、修所断〔の煩悩〕には心を奪う〔特徴〕と心を奪わない特徴をもった別々 の事態があるが、見所断〔の煩悩〕には「我」などの特徴はない。したがって事態をもたないの である。 見所断の煩悩は「事態を持たない」といわれる。随眠品の用例から考えると、事態は煩悩の所縁で あるから所縁がないということになるが、ここではそうでない。有身見は我を基礎(ādhiṣṭhāna)として起 こるというが、我は所縁ではなく、諦もしくは五蘊であるという。それらを「非如実に所縁とし」 「我を増益する」という。ここでの「事態」の使い方は注意が必要である。「色などの事態につい て・・・実在しない我を増益する。・・・から〔有身見は〕事態を持たない」という場合の「色などの事 態」は所縁である。そしてそれがないのではなく、増益した「我」がないことを「事態がない」と いっており、今度は「我」というような実体を持つもの(自性を持つもの)はないというような意味であ る。したがって、この短い文章の中で「事態」を所縁と自性の二つ意味で使っていることになる。  煩悩の所縁といっても、認識の所縁といっても、いずれも実在しないものを所縁ということはできな いから、何らかの実在があるという意味でその所縁を「事態」といっていると思われる。一方、煩悩 もしくは認識の側、つまり能縁について、それを「事態」というかどうかが問題である。我は増益さ れたものであるから、有身見は事態を持たないという。これはつまりある所縁となる事態について、 「我である」とするような認識の内容もまた事態といい、それは本来ないものであるという二重構造 になっていると思われる。この構造は『菩薩地』「真実義品」において事態の概念を理解する上でも 重要であると思われる。 2.1.4十二因縁における vastu 『倶舎論』「世間品」に十二因縁が説かれる箇所に以下のように述べられる。 [AKBh135.3] sa punar eṣa dvādaśāṅgaḥ pratītyasamutpādas trisvabhāvo veditavyaḥ / kleśakarmavastūni / tatra

kleśās trīṇi (26a) 

trīṇy aṅgāni kleśasvabhāvāny avidyātṛṣṇopādānāni /

dvayaṃ karma (26a') 

aṅgadvayaṃ karmasvabhāvaṃ saṃskārā bhavaś ca /

sapta vastu (26b)

saptāṅgāni vastusvabhāvāni vijñānanāmarūpaṣaḍāyatanasparśavedanājātijarāmaraṇāni / kleśakarmāśrayatvāt /

yathā ca vastu saptāṅgāni

phalaṃ tathā / (26b')

saptaivāṅgāni phalabhūtāni / śeṣāṇi pañca hetubhūtāni / karmakleśasvabhāvatvāt /

また、その十二支縁起とは、煩悩(kleśa)・業(karma)・事態(vastu)との三つを自性とするものと知 るべきである。そのうち、 煩悩とは三つである(26a)。 三支は煩悩を自性とする。つまり、無明・渇愛・取である。 業とは二つである(26a')。 二支は業を自性とする。つまり、諸行・有である。 事態は七つである(26b)。 七支とは事態を自性とする。つまり識・名色・六処・触・受・生・老死である。業と煩悩の依り 所(āśraya)であるからである。また、七支が事態であるように、 そのように果である(26b')。 七支は果となる。残りの五つは業・煩悩を自性とするから因となる。

(16)

[AKBh135.23] kleśāt kleśaḥ kriyā caiva tato vastu tataḥ punaḥ /

vastu kleśāś ca jāyante bhavāṅgānām ayaṃ nayaḥ //27//

kleśāt kleśo jāyate tṛṣṇāyā upādānam /

kleśāt karma / upādānād bhavo 'vidyāyāś ca saṃskārāḥ / karmaṇo vastu saṃskārebhyo vijñānaṃ bhavāc ca jātiḥ /

vastuno vastu vijñānān nāmarūpaṃ yāvat sparśād vedanā jāteś ca jarāmaraṇam / vastunaḥ kleśo vedanāyās tṛṣṇeti /

yasmād eṣa nayo vyavasthito bhavāṅgānāṃ tasmād avidyāpi kleśasvabhāvā vastunaḥ kleśād veti jñāpitaṃ bhavati / vedanāvasānāc ca jarāmaraṇavastunaḥ punaḥ kleśo bhāvīti nātra punaḥ kiṃcid upasaṃkhyeyam / 煩悩からは、煩悩と作用(kriyā)のみが〔生じる〕。それ(作用)からは、事態が〔生じる〕。 またそれ(事態)からは、事態と煩悩とが生じる(jāyante)。これが有支の道理である(27)。 【煩悩→煩悩】煩悩から煩悩が〔生じる〕。つまり渇愛から取が〔生じる〕。 【煩悩→作用】煩悩から業が〔生じる〕。つまり取から有が、無明から行が〔生じる〕。 【作用→事態】業から事態が〔生じる〕。つまり諸行から識が、有から生が〔生じる〕。 【事態→事態】事態から事態が〔生じる〕。つまり識から名色乃至触から受が、生から老死が 〔生じる〕 【事態→煩悩】事態から煩悩が〔生じる〕。つまり受から渇愛が生じる。 このように諸の有支の道理が確立されたから、煩悩を自性とする無明も、事態もしくは煩悩から 〔生じる〕と示されていることになる。受を終わりとする〔事態〕と、老死を〔終わりとする〕 事態が、また煩悩を生じるといい、ここでさらに何も加えられることはない。 識・名色・六処・触・受、生・老死の七支は、業と煩悩の依り所(āśraya)であるから事態(vastu)であ るという。業と煩悩は何もないところに起こるのではなく、何かを依り所としている。それを「事 態」と表現し、識・名色・六処・触受、生・老死の七支を指すという。一方その「事態」は業と煩悩 の果であるともいう。業と煩悩は「事態」を依り所とするが、その「事態」は業と煩悩の果であると いう。このように相互の関係が述べられる。 同様の表現は『婆沙論』にも見られる。 [T1545.27.122a13] 或は煩悩と業と及び事とを三と為すをいう。即ち無明・愛・取を説きて煩悩 と名け、行と有とは是れ業にして、餘支は是れ事なり。・・・復次に、此の十二支の縁起法は、即ち 煩悩と業と苦を展転して縁と為るなり。煩悩は業を生じ、業は苦を生じ、苦は苦を生じ、苦は煩 悩を生じ、煩悩は煩悩を生じ、煩悩は業を生じ、業は苦を生じ、苦は苦を生じるをいう。 さてここで「事態」という表現で何を表しているのか。業と煩悩は、仮のものではない具体的な人 間の事実を依り所としているが故に「事態」というのではないか。また、業と煩悩の結果実際に顕れ た、具体的な人間の苦の姿であるが故に「事態」というのではないか。前者は業と煩悩の結果、後者 は業と煩悩の原因である。これまでの有部の主張からすれば「事態」は因であることが強調されてき たが、ここでの「事態」は因であると同時に果であることが示されている。「事態が生じる」(vastu jāyate; √jan)という言い方もそれを表しており、『倶舎論』の他の箇所には見られない。同じ「事態」 を因と果の両面から見ているといえる。また、「生じる」「滅する」という場合、先にも示したよう に「何処においてか」ということが問題となる。この生滅をめぐる因と果と事態の関係が重要と思わ れる。これについては後に vastumātra について論じるところで考察したい。

(17)

2.2『声聞地』における vastu の概念 2.2.1所縁としての vastu

一方、『瑜伽師地論』に目を移す。『声聞地』「第一瑜伽処」の種姓地において、「種姓に安住す るプドガラ」(gotrastha pudgala)について述べられるところで、以下のようにある。

[SBh-I30.20] tatra mṛdvindriyaḥ pudgalaḥ katamaḥ / yasya pudgalasya jñeye vastuny ālambane

'tyarthaṃ dhandhavāhīnīndriyāṇi bhavanti mandavāhīni vā śrutamayena vā cintāmayena vā bhāvanāmayena vā manasikāreṇa saṃprayuktāni, yaduta śraddhā vīryaṃ smṛtiḥ samādhiḥ prajñā vā na samarthāni na pratibalāni dharmasya vā prativedhāyārthasya vāśu ca prativedhāya tattvasya / ayam ucyate mṛdvindriyaḥ pudgalaḥ // そのうち、軟根のプドガラとはいかなる者か。知られるべき事態(所知事 jñeya vastu)である所 縁(ālambana)に対して、聞所成、思所成、修所成の作意に相応するそのプドガラの諸根は極めて 気乗りせずゆっくりとはたらく。つまり、信、精進、念、定、あるいは慧が、法あるいは意味を 理解する、あるいは真実(tattva)をすばやく理解するはたらきがなく、能力がない。これが軟根の プドガラといわれる。 この箇所を含めて、知られるべき事態(所知事 jñeya vastu)である所縁(ālambana)という言い方が繰り 返し見られる。ここで事態は知られるべきことであり、所縁であるという。 「第二瑜伽処」で所縁について以下のように述べられる。

[SBh-II42.1] tatrālambanaṃ katamat / āha / catvāry ālambanavastūni / katamāni catvāri / vyāpy ālambanaṃ, caritaviśodham ālambanaṃ kauśalyālambanaṃ, kleśaviśodhanaṃ cālambanaṃ /

ここで、所縁とは何か。答える。四つの所縁である事態(vastu)である。四つとはなにか。1)遍満

所縁2)浄行所縁3)善巧所縁4)浄惑所縁である。

tatra vyāpyālambanaṃ katamat / āha / tadapi caturvidhaṃ / tadyathā savikalpaṃ pratibimbaṃ, nirvikalpaṃ pratibimbaṃ, vastuparyantatā, kāryapariniṣpattiś ca /

このうち、遍満所縁とは何か。答える。それもまた四種である。つまり、1)〈有分別影像〉

(savikalpa pratibimba)2)〈無分別影像〉(nirvikalpa pratibimba)3)〈事態の限界まで尽くしたあり方〉(事

辺際性 vastuparyantatā)4)〈成すべきことを成し遂げたること〉(所作成辨 kāryapariniṣpatti) である。

tatra savikalpaṃ pratibimbaṃ katamat / yathāpīhaikatyaḥ saddharmaśravaṇaṃ vā avavādānuśāsanīm vā niśritya, dṛṣṭam vā, śrutam vā, parikalpitaṃ vopādāya jñeyavastusabhāgaṃ pratibimbaṃ

samāhitabhūmikair vipaśyanākārair vipaśyati, vicinoti, pravicinoti, parivitarkayati, parimīmāṃsām āpadyate / 〈有分別影像〉とは何か。例えば、ここである人が正法の聴聞あるいは教授や教説に依って、 見たり聞いたり分別したことに関して、知られるべき事態に類似した影像(pratibimba)を、定地に属 する観の行相(vipaśyanākāra)によって観察し、整理し精査し、思惟し、考察する。

tatra jñeyamvastu / tadyathā aśubhā vā, maitrī vā, idaṃpratyayatāpratītyasamutpādo vā, dhātuprabhedo vā, ānāpānasmṛtir vā, skandhakauśalyam vā, dhātukauśalyam āyatanakauśalyaṃ, pratītyasamutpādakauśalyaṃ, sthānāsthānakauśalyaṃ, adhobhūmīnām audārikatvaṃ, uparibhūmīnāṃ sāntatvaṃ, duḥkhastyam,

samudayasatyaṃ, nirodhasatyaṃ, mārgasatyam / idam ucyate jñeyam vastu /

このうち、知られるべき事態とは、つまり不浄観、慈悲観、因縁観、界分別観、数息観(五停心 観)、蘊善巧、界善巧、処善巧、縁起善巧、処非処善巧、下地のあらいあり方、上地のしずかなあ り方、苦諦、集諦、滅諦、道諦、これらが知られるべき事態である。

tasyāsya jñeyavastuno 'vavādānuśāsanīm vā āgamya, saddharmaśravaṇaṃ vā, tanniśrayeṇa

samāhitabhūmikaṃ manaskāraṃ saṃmukhīkṛtya, tān eva dharmān adhimucyate / tad eva jñeyam vastv adhimucyate / tasya tasmin samaye pratyakṣānubhāvika ivādhimokṣaḥ pravartate jñeyavastuni / na taj jñeyam vastu pratyakṣībhūtaṃ bhavati samavahitaṃ saṃmukhībhūtaṃ / na ca punar anyat tajjātīyaṃ dravyam / api tv adhimokṣānubhavaḥ sa tādṛśo manaskārānubhavaḥ samāhitabhūmika, yena tasya jñeyasya vastuno 'nusadṛśaṃ tad bhavati pratibhāsaṃ / yena tad ucyate jñeyavastusabhāgaṃ pratibimbam iti / yad

(18)

ayaṃ yogī santīrayaṃs tasmin prakṛte jñeye vastuni parīkṣye guṇadoṣāvadhāraṇaṃ karoti / idam ucyate savikalpaṃ pratibimbaṃ // その知られるべき事態について、教授や教説、あるいは正法の聴聞によって、それに依って定地 の作意を現起させ、それらの諸法を勝解する。まさにその知られるべき事態を勝解する。その時、 知られるべき事態について、直接に知覚したものに似た勝解が生じる。その知られるべき事態は直 接に顕れたものでもなく、出会ったものでもなく、現前にあるものでもない。またそれ(知られる べき事態)と同種の他の実体でもない。しかしそれは勝解の知覚であり、それと似た、定地に属す る作意の知覚である。それによって、その知られるべき事態と相似したものとして、それの顕現が 生じる。それによって、それが知られるべき事態と類似した影像といわれる。かの瑜伽行者はそれ を判断して、その考察されるべき本来の知られるべき事態について長所と短所を決定する。これが 〈有分別影像〉といわれる。

nirvikalpaṃ pratibimbaṃ katamat / ihāyaṃ yogī pratibimbanimittam udgṛhya na punaḥ vipaśyati, vicinoti, prativicinoti, parivitarkayati, parimīmāṃsām āpadyate / api tu tad evālambanam amukto śamathākāreṇa tac cittaṃ śamayati / yaduta navākārayā cittasthityā adhyātmam eva cittaṃ sthāpayati, saṃsthāpayati,

avasthāpayaty, upasthāpayati, damayati, śamayati, vyupaśamayati, ekotīkaroti, samādhatte / tasya tasmin samaye nirvikalpaṃ tat pratibimbam ālambanaṃ bhavati / yatrāsāv ekāṃśenaikāgrāṃ smṛtim avasthāpayati, tad ālambanaṃ / no tu vicinoti, prativicinoti, parivitarkayati, parisīmāṃsām āpadyate / tac ca pratibimbaṃ pratibimbam ity ucyate / [・・・]itīmāni tasya jñeyavastusabhāgasya pratibimbasya paryāyanāmāni

veditavyāni // 〈無分別影像〉とは何か。ここで、この瑜伽行者は影像の徴表(pratibimba-nimitta)を受け取り、 しかし観察せず、整理せず、精査せず、思惟せず、考察しない。しかし、その同じ所縁を捨てるの ではなく、止の行相(śamathākāra)によってその心をしずかにする。つまり、心を留めさせる九つの 行相によって、つまり心を内住させ、等住させ、安住させ、近住させ、調順にし、寂静にし、最極 寂静にし、専住一趣にし、等持する(九種の心住)。その者にとって、そのとき無分別であり、その 影像が所縁となる。そこにおいて、この一境の念を安住させるような、それが所縁である。しかし 観察せず、整理せず、精査せず、思惟せず、考察しないのである。そしてその影像は、影像といわ れるが・・・、以上、これらがその者にとっての、知られるべき事態に類似した影像の同義語と知る べきである。

vastuparyantatā katamā / yālambanasya yāvadbhāvikatā yathāvadbhāvikatā ca /

tatra yāvadbhāvikatā katamā / yasmāt pareṇa nāsti rūpaskandho vā, vedanāskandho vā, saṃjñāskandho vā, saṃskāraskandho vā, vijñānaskandho vā, veti sarvasaṃskṛtavastusaṃgrahaḥ pañcabhir dharmaiḥ /

sarvadharmasaṃgraho dhātubhir āyatanaiḥ sarvajñeyavastusaṃgrahaś ca āryasatyaiḥ / iyam ucyate yāvadbhāvikatā /

tatra yathāvadbhāvikatā katamā / yālambanasya bhūtatā tathatā / catasṛbhir yuktibhir yuktyupetatā / yadutāpekṣāyuktyā, kāryakāraṇayuktyā, upapattisādhanayuktyā, dharmatāyuktyā ca / iti yā cālambanasya yāvadbhāvikatā yā ca yathāvadbhāvikatā tad ekatyam abhisaṃkṣipya vastuparyantatety ucyate //

〈事態の限界まで尽くしたあり方〉(事辺際性)とは何か。所縁に関する〈限りを尽くしたあり 方〉(尽所有性 yāvadbhāvikatā)と〈そのようであるというあり方〉(如所有性 yathāvadbhāvikatā)であ る。 そのうち、〈限りを尽くしたあり方〉とは何か。それより他には存在しないこと、〔つま り、〕一切の有為の事態が包摂されるのは、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊という五つの法に よってであり、一切の法が包摂されるのは界と処によってであり、一切の知られるべき事態が包摂 されるのは四聖諦によってである。これが〈限りを尽くしたあり方〉といわれる。 そのうち、〈そのようであるというあり方〉とは何か。所縁に関する真実性、真如性である。 四つの道理によって、道理を具えたあり方である。つまり観待道理、作用道理、証成道理、法爾道 理である。以上、所縁の〈限りを尽くしたあり方〉と〈そのようであるというあり方〉、これら をひとまとめにして、〈事態の限界まで尽くしたあり方〉といわれる。

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