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2. vastu の様々な概念

4.3 他論書との関係と今後の展開

『菩薩地』では、そのように縁起的存在としての事態を表現していると考えるとしても、分別の果 であり因であるというのであるから、分別とは別に事態の実在性が表されているといえる。つまり事 態(所縁)—分別(能縁)という構図であり「分別から生じる」「分別を生じる」「仮説を自性とする事態 の現れ」とは言うが、分別そのものとは言わない。例えば『中辺分別論』のように「虚妄分別は存在 する」(abhūtaparikalpo ’sti23)とは言わない。あくまで〈単なる事態〉は存在するという。では事態が何 であるかといえば、果と見れば「分別より生じたもの」、因と見れば「分別を生じるもの」「分別の 所縁」である。このことはあえて「事態」という実在性を強調しているのか、「事態」がそのまま

「分別」であるとするにいたっていないと見るのかは疑問が残る。

例えば『八千頌般若経』では事態(vastu)という用語はほどんど使われず、無自性が強調される。『二 万五千頌般若経』の「弥勒請問章」と呼ばれる箇所では、事態が多用される。そこでは事態について、

「偶然に命名が付加される〈いとなみによる徴表〉(行相saṃskāra-nimitta)としての事態は、単なる分別

(vikalpamātra)である24」という記載があり、事態は単なる分別であるという。その後、法の区別につい

ての三種の行相(ākāra)について、「妄想された」(parikalpita)「分別された」(vikalpita)「法性としての」

(dharmatā)を挙げる25。『大乗荘厳経論』は『菩薩地』と章立てが類似しながら、事態(vastu)という言葉

をほとんど使わず「迷乱」(bhrānti)を多用する。

事態と分別をめぐる問題は、徴表(nimitta)という用語による記述にも表れる。『八千頌般若経』では 徴表を捉えない無相(animitta)を強調する。「弥勒請問章」では徴表としての事態は分別であるとする。

『菩薩地』では「菩提分品」では無相が述べられたが、「真実義品」では「仮説の語のための徴表と いう基礎であり、仮説の語のための徴表という依り所である、勝義の実在である事態を損減し、決し て存在しない」としてはいけないといい、事態とともに徴表の実在性が示されていた。『大乗荘厳経 論』「述求品」には「〈迷乱の徴表〉と〈迷乱〉は、色(rūpa)の識象(vijñapti)と非色(arūpa)の識象とで ある」26とあり、〈迷乱の徴表〉と〈迷乱〉をどちらも識象(識の現れ、記識vijñapti)であるという。そ

23 [MAVBh17.13] abhūtaparikalpo ’sti dvayan tatra na vidyate / śūnyatā vidyate tv atra tasyām api sa vidyate // (I.1) 24 [BZL237.15] bhagavān āha: (na) tv evaṃ sati maitreya vikalpamātram etad yad uta saṃskāranimittaṃ vastu yatredam

āgantukaṃ nāmadheyaṃ prakṣiptaṃ...

25 [BZL237.26] bhagavān āha: tribhir maitreyākārair bodhisattvena mahāsattvena prajñāpāramitāyāṃ caratā

dharmaprabhedakauśalye vartamānena rūpaprabhedaprajñaptir anugantavyā, vedanā saṃjñā saṃskārā vijñānaṃ yāvad budhdhadharmaprabhedaprajñaptir anugantavyā, yad utedaṃ parikalpitaṃ rūpam idaṃ vikalpitaṃ rūpam idaṃ dharmatā rūpam iti...

26 [MSABh60,23] bhrānter nimittaṃ bhrāntiś ca rūpavijñaptir iṣyate / arūpiṇī ca vijñaptir abhāvāt syān na cetarā //11-24 //

rūpabhrānter yā nimittavijñaptiḥ sā rūpavijñaptir iṣyate rūpākhyā / sā tu rūpabhrāntir arūpiṇī vijñaptiḥ / abhāvād  rūpavijñapter itarāpi na syād arūpiṇī vijñaptiḥ / kāraṇābhāvāt /

して徴表の意味は否定的にも肯定的にも示されている27。このように徴表の実在性を強調する場合と分 別の原因として退ける場合がある。また「弥勒請問章」では分別とその対象である徴表をどちらも分 別と捉え、『大乗荘厳経論』では迷乱とその対象である徴表を〈識象〉というなど、所縁と能縁を一 つの言葉で表現する傾向が見られる。

『菩薩地』の場合、分別の果と分別の因を「事態」と表し、分別の問題を事態という実在性を強調 することで捉えようとした。しかし「事態」(vastu)という言葉は、—多くの現代の研究者がそう捉えた ように—当時の仏教者の間でも「事物」という何か固定的な性質や、認識を超越した絶対的実在であ ると捉えられるおそれがあり、議論の対象となった可能性がある。したがって、認識と対象の問題を、

対象の性質にではなく、あくまで対象の認識の仕方に関わる問題として捉えるために、つまりカント の言葉を借りるならば超越的(transzendent)にではなく超越論的(transzendental)に考え28、そして超越論的 側面と実在的側面を同時に考える工夫が各論書において為された可能性が考えられる29。例えば『菩薩 地』において〈分別で成立した事態〉〈所縁としての事態〉〈勝義の存在としての事態〉と事態を3つ 意味に捉えていることは、認識の問題を存在のあり方として捉えているといえ、遍計所執性、依他起性、

円成実性の三性の表現につながる可能性がある30。また、事態の存在性を強調し、分別の果と分別の因

〈迷乱の徴表〉と〈迷乱〉は、色(rūpa)の識象(vijñapti)と非色(arūpa)の識象とであると説かれる。〔前者は〕

〈無い状態〉であるから、またもう一方(後者)も存在しないだろう。

「色の迷乱」についての徴表の識象が「色の識象」と考えられ、「色」と呼ばれる。しかしその「色の迷乱」は

「非色の識象」である。「色の識象」というものは無いのだから、もう一方の「非色の識象」もまた存在しない。

因が無いからである。

27 例えば次の二偈は意味内容を肯定的に見る。

tadabhāve yathā vyaktis tannimittasya labhyate / tathāśrayaparāvṛttāv asatkalpasya labhyate //11-17 // それの〈無い状 態〉において、それの徴表の明瞭な姿(vyakti)が認識されるよ うに、 そのように、依り所の転回(転依, āśraya-parāvṛtti)において、虚妄分別の〔明瞭な姿〕が認識さ れる。

tannimitte yathā loko hy abhrāntaḥ kāmataś caret / parāvṛttāv aparyastaḥ kāmācārī tathā patiḥ //11-18 //

それの徴表において、実に迷乱のない世間の人は思いのままに行動するだろうが、 そのように転回において、

倒錯していない行者は、思いのままに行動する者である。

一方次の遍計所執性を表す偈は意味内容を否定的に見る。

yathā jalpārthasaṃjñāyā nimittaṃ tasya vāsanā / tasmād apyarthavikhyānaṃ parikalpitalakṣaṇaṃ //11-38 //

言葉に対応する対象の概念という徴表と、その習気と、またそこからの対象の顕現が、 妄想された特徴(遍計所 執相)である

yathā nāmārtham arthasya nāmnaḥ prakhyānatā ca yā / asaṃkalpanimittaṃ hi parikalpitalakṣaṇaṃ //11-39 //

名称と対象とに対応して対象と名称が顕現することは、実に正しくない分別の徴表であり、妄想された特徴(遍 計所執相)である。

28 「わたしは対象にではなく、対象を認識するわれわれの認識の仕方に、この認識の仕方がアプリオリに可能である かぎりにおいて、一般に関与する一切の認識を超越論的(transzendental)と称する。」[B25] (訳は『カント事典』弘 文堂, 1997による)

29 『大乗荘厳経論』で〈迷乱の徴表〉と〈迷乱〉をどちらも〈識象〉(vijñapti)と表したのは、現れた事態であるとい う存在的側面と、分別であるという認識的側面を両方表す工夫であったとも考えられるのではないか。

30 『菩薩地』ではこのような三性説の用語は見られない。しかし「摂決択分中菩薩地」の三性説の記載を見ると、

「真実義品」の3つの事態に通じるところがある。

[VinśS: P26a1, D24a1]གཞན་གྱི་དབང་གི་ངོ་བོ་ཉིད་གང་ལ་བརྟེན་པར་བརྗོད་པར་བྱ་ཞེ་ན།སྨྲས་པ།ཀུན་བརྟགས་པའི་ངོ་བོ་ཉིད་ལ་

མངོན་པར་ཞེན་པ་དེ་ཉིད་དང་།བདག་གི་རྒྱུ་མཚན་མཐུན་པ་ལའོ།།

[T1579.30.705b20]問依他起自性當言何所依止。答當言即依遍計所執自性執。及自等流。

依他起性は何に依っていると言うべきかと問うならば答えよう。遍計所執性において、執着そのものと自己 の等流に依ることである。

[VinśS: P26a7, D24a5]ཀུན་བརྟགས་པའི་ངོ་བོ་ཉིད་ལས་དུ་དག་བྱེད་ཅེ་ན།སྨྲས་པ།ལྔ་སྟེ།གཞན་གྱི་དབང་གི་ངོ་བོ་ཉིད་སྐྱེད་པར་བྱེད་

པ་དང་།དེ་ཉིད་ལ་ཐ་སྙད་འཇུག་པར་བྱད་པ་དང་།གང་ཟག་ལ་མངོན་པར་ཞེན་པ་སྐྱེད་པར་བྱེད་པ་དང་།ཆོས་ལ་མངོན་པར་ཞེན་པ་སྐྱེད་པར་

བྱེད་པ་དང་།དེ་གཉི་ག་ལ་མངོན་པར་ཞེན་པའི་བག་ཆགས་གནས་ངན་ལེན་ཡོངས་སུ་འཛིན་པར་བྱེད་པའོ།།

[T1579.30.705c4] 問遍計所執自性能爲幾業。答五。一能生依他起自性。二即於彼性能起言説。三能生補特伽 羅執。四能生法執五能攝受彼二種執習氣麁重。

と見るところは、存在の問題を認識の面から捉えているといえ、アーラヤ識との関係を窺わせる。こ れらことは本論からのみではこれ以上論じることはできない。今後さらに他論書とその関係を詳細に 検討する必要がある。

おわりに

唯識思想の問題は、物質的か精神的か、存在論か認識論かという枠組みで捉えられる場合がある。

しかしそう捉えるよりも、苦の事実しての事態とは何か、とまず仏教の根本的課題をおさえたうえで、

その事態が恒久的な性質ではないならば、それが生じ、存在し、変化し、滅するということはどうい うことか、また何において起こっているのかという自己存在の問題を、認識に対する批判を通してあき らかにして行くことにある、と考える必要があるのではないか。「外界の事物の否定」は例えば『唯 識二十論』などで積極的に論じられてはいるが、それは唯識を説明する手段であって、問題意識として の背景とは別に考えるべきではないだろうか。単なる外界の事物の否定であれば独我論(solipsism)31と の違いもはっきりしない。唯識思想の背景としては、外界の事物の否定よりも、〈事態〉の恒久的性 質の否定を前提として、〈分別で成立した事態〉という「言語表現できる」分節化され分析的に捉えら れた結果としての対象を否定し、その否定によって、真の対象は「言語表現できない」分節化される前 の、縁起的存在としての自己の経験であることが要請されるではないかと考える。つまり〈単なる事 態〉という表現において、〈単なる〉で否定しているのは、恒久的な性質しての作者・受者である我の 否定と、対象である自己経験の言語表現による分節化の否定である。『菩薩地』では「分別」を対象 とするのではなく、「事態」の実在性を強調し対象とする形をとった。その先に分別が想定されるか ら、分別をまずは直接否定せずに「言語表現」を否定するという表現になった。そして、実在性の強 調によっておろそかになった認識の問題をもう一度徹底する中から、〈単なる事態〉とは、縁起に裏付 けられ経験される〈分別〉あるいは〈識象〉(vijñapti)であることが要請される。このような可能性を考 える。

自己の認識を徹底的に批判しつつ、自己における経験された事態の縁起的存在としての実在性、苦 の事実としての「事態」をあきらかにし、その「事態」を「滅する」とはどういうことか、事態を超え るということはどういうことかを探究する。人生に何かが有ると言って迷い、何も無いといって迷うよ うなわれわれが、「事態を滅する」といって何を滅しようというのか、そしてその先に何が有るという のか。そのような問題を「唯識」という言葉でどのように探究しようとしたのかという問題意識を もって、唯識の論書を研究することは一つの必要な姿勢であると思われる。本稿における「事態」

(vastu)の研究はその基礎となると考える。

遍計所執性にはいくつの作用があるかと問うならば答えよう。五つ、すなわち依他起性を生じることと、同 じそれに対して言語表現をおこすことと、プドガラに対する執着を生じることと、法に対する執着を生じるこ とと、その両者に対する執着の習気の麁重を捉えさせることである。

〈分別で成立した事態〉が現れたものを〈所縁としての事態〉とするという本論での理解と、遍計所執性が依他起 性を生じるということとは通ずるところがあると思われる。

31 独我論とは、「広義には〈自己だけ〉を重視する立場一般を指し・・・、狭義には〈自己だけ〉が〈存在する〉とする 立場を指す。西洋近代哲学は、その認識論上の傾向として、確実な知識の範囲を意識内在の領域に求め、外界や他 我に関しては懐疑論的・不可知論的な見地をとる傾向が強かったが、その帰結の1つとして、実在するのは自己と その意識内容だけで、他我や事物は自己の意識内容に過ぎないとする、存在論的な独我論の主張が時になされた。

これが強い意味での独我論である」(『哲学・思想事典』岩波書店, 1998)。

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