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第 六 三 号 2016 京 都 大 学 人 文 科 学 研 究 所 ISSN X

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Academic year: 2021

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Title

人文 第63号

Author(s)

Citation

人文 (2016), 63: 1-61

Issue Date

2016-06-30

URL

http://hdl.handle.net/2433/216023

Right

Type

Article

Textversion

publisher

Kyoto University

(2)

第 六 三 号

2016

京都大学人文科学研究所

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人文第 63 号―念校 随想     1 研究所本館移転の思い出     水野   直樹     講演     5 夏期公開講座﹁名作再読 ︱ いま読んだらこんなに面白い︵ 9 ︶﹂      5 石橋湛山を読む

自由主義と現実主義の真面目を尋ねて      山室   信一    ﹃官場現形記﹄を読む

清末中国﹁腐敗﹂官僚の世界      村上    衛    ﹃アンのゆりかご﹄を読む

村岡花子と植民地朝鮮      小野   容照    講演会ポスターギャラリー二〇一五     13 彙報     18 共同研究の話題     24 人文学研究資料とWeb     永崎   研宣    ﹁一﹂と﹁多﹂のトポロジー     武田   時昌    所のうち・そと     29 筆 誤 か ら み え た 二 百 年 前 の 言 語 調 査 の 現 場     池田    巧    ﹁文化大革命﹂の半世紀     岩井   茂樹    ﹁非正規雇用﹂武士の叫び     岩城   卓二    夢二再訪     高階絵里加    空想詩人、のち革命家

サン = ジュストの ﹃オルガン﹄      立木   康介    続・朱字のミステリー     藤井   律之    アジアのことをアジアの外で教えて     船山    徹    イン・ザ・コンタクトゾーン     ホルカ・イリナ    書いたもの一覧     48

人 文 第六三号

2015年4月―2016年3月

も   く   じ

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人文第 63 号―念校

研究所本館移転の思い出

  私が人文研に勤務していた期間は、さまざまな変動が起こっ た時期である。研究所の改組︵三部制から二部制への改組と大 部 門 化︶ 、 国 立 大 学 の 法 人 化 と そ れ に 伴 う 中 期 計 画 な ど の 立 案・実行、全国共同利用・共同拠点としての活動などであるが、 研究所本館の移転も私にとっては忘れられない大事件であった。 将来、人文研の歴史を振り返る時に少しは役に立つかと思い、 移転をめぐる思い出を記録として残しておくことにしたい。   本館の移転話しが出てきたのは、二〇〇四年の大学法人化よ り少し前のことであった。大学本部から移転の強い要請があっ たのだが、私などは学生時代に、東一条角の古い建物︵戦前の ドイツ文化研究所、戦後の西洋文化研究所︶を見ており、人文 研は東一条角にあるのが当り前と思っていたため、移転要請に 反発する気持ちが強かった。   しかし、一九七五年に建てられた東一条の本館は、書庫の狭 隘化、建物の老朽化

オイルショック期に建てられたため資 材が良くなかったといわれる

などのため、以前から改築が ―  1 ―

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人文第 63 号―念校 必要とされ、そのための予算要求も出していたが、認められて こなかった。これらの問題を解決できるなら、移転を進めてよ いかもしれない、と次第に考えるようになった。   移転先としては、本部構内の工学部の建物が候補となった。 工学研究科が本部構内から桂キャンパスに順次移転していたの で、空いた建物を改修して人文研本館とするというのが本部の 提案であった。二〇〇四年度から研究所内に移転のためのワー キンググループ︵WG︶が設けられ、人文学研究部主任であっ た関係で私がその責任者を務めることになった。WGでは、桂 に移転が予定されている工学部のいくつかの建物を見て回り、 工学部 5 号館︵土木工学を中心とする地球工学科︶が本館移転 先に適当と判断した。   WGで改修案を検討するにあたって私が作成した﹁新しい研 究 所 の 建 物 に 関 す る 基 本 的 コ ン セ プ ト﹂ ︵二 〇 〇 四 年 七 月︶ と いうメモが残っている。そこでは、 ﹁︵ 1 ︶独立性の高い建物、 ︵ 2 ︶ 研 究 所 に ふ さ わ し い 雰 囲 気、 ︵ 3 ︶ バ リ ア フ リ ー、 ︵ 4 ︶ エネルギーの省力化、 ︵ 5 ︶情報化に対応、 ︵ 6 ︶講義や各種行 事 に 利 用 で き る ス ペ ー ス・設 備、 ︵ 7 ︶ 将 来 を 見 越 し た 書 庫 ス ペースの確保﹂の七点をあげている。   これらのコンセプトを工学部 5 号館において実現するために、 WGでは何度も議論を重ね、また本部施設部と交渉した。例え ば、 5 号館の地下に書庫をつくり、可動式書架を入れることを 考えたが、地下には水槽に波を起こす巨大な実験装置やその他 ―  2 ―

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人文第 63 号―念校 の土木関係の実験設備があり、桂キャンパスへの移設は困難と の回答であった。また、東西に長細い建物であるため書庫や大 会議室をどこに設けるかが大きな問題であり、いくつかの図面 をつくって検討した。当初は東側に書庫を設けることを考えた が、結局、現在のように西側に落ち着いた。   工学部 5 号館の正面玄関は南側にあった。中庭をはさんで土 木工学教室︵レンガづくりの建物︶との行き来に便利なように つくられたからであろう。しかし、人文研の本館としては、東 一条の建物がそうであったように、できるだけ大学の外にも開 かれた形が望ましいと考え、北門に近い東側に正面玄関を据え るよう施設部に提案した。施設部の職員は最初戸惑った顔をし ていたが、後にはいい案だとして受け入れてくれた。   こうして二〇〇六年はじめから改修図面を具体的に検討する 作業を始めたが、それと並行して解決しなければならないいく つかの問題があった。一つは書庫に入れる可動式書架の購入費 用の問題である。これについては、金文京所長の決断で本部か ら四千万円を借り入れることになった。この借金は移転後、五 年ほどで返すことができた。もう一つの問題は、数理解析研究 所の研究室をどこに入れるかという問題であった。これに関し ては、数理研の藤重教授︵のち数理研所長︶と協議して、三階 西側の八つの部屋に入ってもらうことになった。結局、当初め ざした﹁独立性の高い建物﹂は、完全な形では実現できず、地 下に工学部の実験設備、一、二階に工学部の教室、三階に数理 ―  3 ―

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人文第 63 号―念校 研の研究室が入るということになったが、それでも全体として は、人文研本館にふさわしい建物になったのではないか、と考 えている。   二〇〇七年度と〇八年度の二期に分けて工学部 5 号館の全面 改修工事が行なわれ、人文研の研究室・図書室などの引越しも 二回に分けて実施した。こうして人文研本館の移転が実現した わ け だ が、 そ の 際、 本 部 か ら は 建 物 の 名 称 を﹁総 合 研 究 4 号 館﹂とする案が示された。私はただちに、建物面積の約七割を 人文研が占めているので、 ﹁人文科学研究所・総合研究 4 号館﹂ とするよう申し入れ、それが認められるという一幕もあった。   古い建物の改修ではなく、新築で本館を建てることができて いれば、まったく違う建物になったであろうが、現在の本館も 人文研が各種の活動を進めていくための条件をかなり満たして いるのではないだろうか。共同研究やシンポジウムの開催、内 外の研究者の受け入れ、そして文献・資料の蓄積と利用など、 本館の移転によって研究基盤の充実を図ることができたと考え ている。この建物を拠点として研究と教育をいっそう発展させ ていくことが、人文研に求められている課題である。 ―  4 ―

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人文第 63 号―念校

  

夏期公開講座

名作再読 ︱ いま読んだらこんなに面白い︵ 9 ︶﹂

石橋湛山を読む

自 由主義と現 実主義の真面目を尋ねて

  二〇一五年の夏は、戦後七〇年の首相談話をめぐっ て、また歴代内閣がその行使を否定してきた集団的自 衛権の法制化をめぐって、議論が白熱した時期として、 必ずや追懐されることになるであろう。   そうした議論を見聞しながら、幾度も脳裏に浮かん できたのは、ジョージ・オーウェルの﹁言葉が醜く、 不正確になるのは、我々の考えがばかげているからだ。 しかし、我々の言葉の弱さが、ばかげた考えを持つこ とを容易にしている﹂という箴言であった。   果 た し て、 議 論 の 正 当 性 根 拠 と し て 持 ち 出 さ れ る ﹁自由な体制を守るために﹂ 、あるいは﹁激動する現実 に即応するために﹂という言表において、自由とは、 現実とはいかなるものなのであろうか? さらに、そ れらを主義として掲げることには、どのような意義が あるのだろうか?   こうした疑念に応えようとする際、最も引照基軸と なるのが、権力や世論に屈することなく自らが信じる リベラリズムとリアリズムを一貫不惑、弛むことなく 希求し続けた石橋湛山の言動である。石橋と彼が言論 の砦とした﹃東洋自由新報﹄について、その稀有な歴 史的意義をいち早く明らかにしたのは、人文科学研究 所の共同研究﹃大正期の急進的自由主義 ︱ ﹃東洋経済 新 報﹄ を 中 心 と し て﹄ ︵一 九 七 二 年︶ で あ っ た。 そ し て、湛山を核とする大正デモクラシー研究をライフワ ークとして追求されたのが、二〇一四年に逝去された 松 尾 尊 兊 先 生 で あ り、 ﹃近 代 日 本 と 石 橋 湛 山 ︱ ﹃東 洋 経 済 新 報﹄ の 人 び と﹄ ︵二 〇 一 三 年︶ に は、 湛 山 に 繫 がる言論人たちの言動が活写されている。湛山の足跡 ―  5 ―

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人文第 63 号―念校 を追い、その論説を再読することは、取りも直さず、 松尾先生の御業績を偲ぶことに直結せざるをえないの である。   しかしながら、明治・大正・昭和の三代にわたって 日々書き綴られた、補巻ともに十六巻の全集に纏めら れている湛山の論説の全貌をるのは容易なことでは ない。その膨大な論説からエッセンスともいえる卓抜 した議論を選び抜いて松尾先生が編集されたのが﹃石 橋湛山評論集﹄であり、これを﹃湛山回想﹄や﹃湛山 座談﹄を併せ読むことによって湛山の口吻や処世の実 相を知ることができるようになった。   それでは湛山が追い求め、体現したリベラリズムと リアリズムとはいかなるものであったのか?   再読にあたっては、まず第一次世界大戦開戦ととも に国論が一挙に参戦支持に回った時、好戦的態度を戒 め、青島を占領することに反対し、対華二一カ条要求 が日中関係を百年にわたって禍根を遺すことを指摘し た こ と な ど を 取 り 上 げ た。 湛 山 に と っ て、 ﹁個 人 主 義・民 主 主 義 の 上 に 築 か れ た る 非 軍 備 主 義、 自 由 主 義﹂こそが、日本の指針となるべきはずであった。   そして、ロシア革命が勃発すると、過激派討伐が叫 ばれる中で、あくまでも革命がロシアにおける労農層 や婦人たちの要求の結果であるとしてシベリア出兵に 筆鋒鋭く反対した。これらの論説に通底するのは、自 らの自由を要求するのであれば、それと同等以上の共 感をもって他者・他民族の自由を尊重しなければなら ないという確固たるリベラリズムの信念であり、自ら の思想信条を措いて事実を直視しない限り判断を誤る というリアリズムの思惟方法であった。   私たちは﹁第一次世界大戦の総合的研究﹂という共 同研究を続ける中で、マス・メディアのグローバル化 とプロパガンダ化を現代の起点として注目したが、そ うしたメディアの機能変化と問題性を的確に認識して いた数少ない言論人が湛山であった。第一次世界大戦 後、湛山は帝国主義時代の終わりと民族自決主義時代 の到来を確信したが、湛山や三浦銕太郎らが唱導した ﹁小 日 本 主 義﹂ は、 ま さ に そ の 現 実 に 対 応 す る 指 針 で あった。   しかし、五大強国になったという興奮は、更なる拡 張をる議論を現実主義と見紛わせ、湛山らの議論は 国策に逆らうものとして批判を浴びた。世論は、アジ ア・モンロー主義や﹁アジアの盟主・日本﹂を唱える 徳富蘇峰の大勢順応主義に喝采を贈った。反面で、蘇 峰らの議論を﹁大日本主義の幻想﹂と断じ、台湾や朝 鮮 を は じ め 海 外 の 領 土 や 利 権 の﹁一 切 を 棄 つ る の 覚 悟﹂ を 説 き、 ﹁弱 小 国 と 共 に 生 き よ﹂ と 勧 め た 湛 山 の ―  6 ―

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人文第 63 号―念校 議論は妄論として斥けられた。そのいずれを取るべき であったのかは、言うまでもないはずである。   湛山は、自由主義とは何かという問いに対して、そ れを﹁自由討議の精神だ。この精神こそ、今の日本に 最 も 必 要、 而 し て 最 も 欠 乏 し て い る も の の 一 つ で あ る﹂と喝破した。そして、第二次世界大戦の戦火が上 がるや﹁不合理な現実、無理な現実は、仮 令あったと しても、長続きはしない。真の現実として人間を支配 するのは、合理性を有 っている現実である﹂として合 理的現実主義を採る必要性を強調した。   湛 山 に と っ て の 自 由 と は、 ﹁権 力 か ら の 自 由﹂ で あ るとともにリアリズムに支えられた世論のもつ﹁権力 への自由﹂であり、それを追求すべく戦後は政治家に 転身し、首相に選ばれた。しかし、病を得るや自らが 以前に主張した議論に遵うべく職を潔く辞した。その 後を襲ったのが岸信介である。   もし、湛山がそのまま首相の職務を全うしていたら、 日本の戦後七〇年はいかなる歩みをることになった のであろうか?

『官場現形記』を読む

清末中国﹁腐敗﹂官僚の世界

   

  ある出版社から、高校世界史の教科書に載っている 世界の﹁名著﹂一〇〇冊ほどを手短に紹介するような 本の編集を依頼された。そもそも﹁名著﹂とは何かと いう大問題を脇に置いておくとしても、私が担当する 中国の場合、世界史の教科書をベースに選択してしま う と、 ﹁名 著﹂ の 半 分 は 秦 漢 時 代 以 前 の 書 物 に な り、 残りの大半は明清時代までの作品となる。中国近代史 にいたっては魯迅の作品と孫文の﹁三民主義﹂ぐらい しか取り上げるものがない。しかし、一般の読者が中 国の近代史を理解するてがかりとして、魯迅と孫文の 文章が適切かといわれると、正直疑問符がつく。かえ って違和感をいだかれ、最近顕著な日本人の﹁中国離 れ﹂を加速してしまうかもしれない。そこで、某出版 社には申し訳ないが、どの高校教科書にもまったく記 載されていない、当時の中国の現実を平易に紹介する ようないくつかの作品を、魯迅などとあわせてとりあ ―  7 ―

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人文第 63 号―念校 げることにした。その一つが夏期公開講座で取り上げ た﹃官場現形記﹄である。   経済・環境問題をはじめとして、現代中国の直面し ている課題は多い。その中で習近平政権の腐敗撲滅運 動とあわせて、中国における腐敗官僚の問題がしばし ばクローズアップされる。そして、摘発された高級官 僚の不正所得の額が数千億円に相当するというニュー スから、日本の腐敗とのスケールの違いに驚かされる ことも度々である。また、そのうちの某官僚の妻が京 都に豪邸をもっていたというような情報も流れてくる から、京都も無関係とはいえない。   かかる腐敗問題はしばしば現在の中国の政治体制と 絡めながら論じられる。しかし、中国の腐敗問題は中 華人民共和国時期、あるいは改革開放期以後にかぎっ たことではない。近代史においても中華民国期、清末 の 腐 敗 問 題 は よ く 知 ら れ て い る。 ﹃官 場 現 形 記﹄ は こ の清末の腐敗問題を語った代表的作品である。   作者は李宝嘉という人物、科挙は他の多くの受験生 と同様、何段階にもわたる試験の中途で挫折した。そ の後、上海で新聞を発行、雑文や小説のほか、ゴシッ プ記事を多数執筆した。本書はそうした彼の経験が十 二分に生かされた章回小説である。本書が書かれたの は一九〇一∼一九〇五年、清朝中国は日清戦争で日本 に敗北して列強の利権獲得の対象となり、続いて義和 団事件で列強八カ国に敗北して莫大な賠償金を課され、 最も危機的な状況に陥っていた。その中で、清朝中央 は光緒新政といわれる改革を進めていた。   しかし、本書の主人公達に﹁瓜分︵中国分割︶の危 機﹂ 感 な ど 毛 頭 な い し、 ﹁改 革﹂ は 建 前 だ け で、 む し ろ不正のチャンスととらえた。例えば、科挙の試験に 途中で失敗したので官職を買おうとするが、そのため の費用が仲介者に食い物にされる。公金着服で弾劾を 受けた官僚は大金を払って弾劾をもみ消してしまう。 軍隊は指揮官によって給与がピンハネされて欠員ばか りで、土匪の討伐にあたっては村を襲撃して略奪暴行 の限りを尽くし、その責任は全部﹁土匪﹂に押しつけ る。実業振興のための外国からの機械購入費用を使い 込んでしまった際には、外国人に機械買い付けを命じ た上司を訴えてもらうことでうやむやにしてしまい、 切り抜ける。   章回小説ゆえに本書の中で主人公は入れ替わるが、 いずれも血縁・地縁・学縁を用い、仲介者に頼りなが らカネを使ってピンチを切り抜けていく。彼らの動か すカネの額も大きく、ちょっとした手数料が現在の日 本円になおせば数千万円、使い込んだ公金は何十億円 となる。これは現在の中国における腐敗問題を想起さ ―  8 ―

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人文第 63 号―念校 せるような莫大な金額であり、当時の格差社会の一端 をも示している。   このような本書を読んでいけば、いい加減なことが まかり通り、正直者が馬鹿を見て、他人の金や公金を どれだけうまく自分のポケットに入れるのが才能であ るかのようにみえてくる。つまり、読者は当時の中国 官僚の﹁常識﹂を自然に身につけることになる。   もちろん、腐敗問題は清末の官僚がとりわけ道徳的 に堕落していたからおこったのではない。地方財政の 貧困、官僚制度の混乱、経済発展と格差の拡大といっ た、より根深い構造的な問題が腐敗の背景にあった。 したがって、革命で清朝がひっくりかえったところで 問題は何ら解決せず、腐敗問題は民国期も続く。共産 党が政権を取った後、腐敗は見えにくくなっただけで、 様々な政治運動の中、党官僚の不正行為はより深刻な 事態を引き起こしていた。そして改革開放以降、腐敗 は目に見える形で広がってきた。急成長した中国経済 を 背 景 に 膨 大 な 中 国 マ ネ ー が 海 外 に 向 か う 現 在、 ﹃官 場現形記﹄の世界はグローバルに拡大し、その一端は 我々の身近にまで及んでいるかもしれない。

『アンのゆりかご』を読む

村岡花子と植民地朝鮮

  ﹃ア ン の ゆ り か ご﹄ は モ ン ゴ メ リ の﹃赤 毛 の ア ン﹄ の翻訳で知られる村岡花子の評伝であり、二〇〇八年 にマガジンハウスから刊行された︵二〇一一年に新潮 社 か ら 文 庫 化︶ 。 著 者 の 村 岡 恵 理 氏 は 村 岡 花 子 の 義 理 の孫にあたる。   再読するにはやや新しい感のある本書を取り上げた のには、ふたつ理由がある。   ひとつは、本書が二〇一四年度上半期NHK連続テ レビ小説﹁花子とアン﹂の原案になったこと。もうひ とつは、私の個人的な思い出である。   私は数年前に﹃朝鮮独立運動と東アジア﹄という本 を出したのだが、実は少しだけ村岡花子が登場する。 村岡花子の夫である三と、その父である平吉が運営 する福音印刷合資会社という横浜の印刷所が、朝鮮独 立運動と間接的につながっていたからである。   日本の植民地時代の朝鮮では、言論の自由が著しく ―  9 ―

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人文第 63 号―念校 制限されていた。そのため、朝鮮人活動家は独立運動 団体などの機関誌を発行する際、朝鮮半島に比べれば 検閲などが厳しくない日本で朝鮮語の出版物を発行し ようとした。   ところが、日本にはハングルの活字を持っている印 刷所がほとんどない。そうしたなか、クリスチャンの 村岡家が経営する福音印刷合資会社は、朝鮮語の聖書 を印刷していた関係でハングルの活字を持っていた。   そのため、朝鮮が植民地となった一九一〇年から関 東大震災で福音印刷合資会社が倒壊する一九二三年ま で、日本で朝鮮人が発行した出版物の多くは、福音印 刷合資会社で印刷されている。そのため、特高の尾行 刑事にもつきまとわれていたようだ。   ちょうど﹃アンのゆりかご﹄が出たばかりの頃、何 か朝鮮関係のことをご存じでないかと思い、私は村岡 美枝、恵理の両氏が主催する村岡花子文庫を訪ねた。   朝鮮との関係についてはご存じではなかったようで、 後から聞いたところ、どうして朝鮮独立運動の研究者 が連絡してきたのか不思議に思われたそうだ。ただ、 村岡花子文庫には福音印刷合資会社のメモ用紙が残さ れていて、そこには朝鮮語聖書の印刷代金が記されて いた。   それから数年、私は先述した本を出し、福音印刷合 資会社が関係する研究は過去のものとなった。村岡花 子の名を思い出すこともなくなっていたから、二〇一 四年にドラマになったときは、懐かしい感じがした。 そして、ドラマ効果で﹃アンのゆりかご﹄が再び書店 に並ぶようになり、私は文庫化されていることを知っ た。   著者は文庫化にあたり、いくつか加筆している。そ のなかに朝鮮関係の叙述があり、福音印刷合資会社が 朝鮮独立運動関係の雑誌を印刷していたことが触れら れている。   これがきっかけになったのかは分からないけれども、 私は関東大震災以降に村岡家と朝鮮とのつながりがど うなったのか、気になりはじめた。   ﹃ア ン の ゆ り か ご﹄ に 書 か れ て い る よ う に、 福 音 印 刷合資会社は横浜の本社を村岡花子の義理の弟にあた る村岡斉、東京支社を夫の三が受け持っていた。村 岡斉は震災により死去するが、東京にいた三は無事 であり、花子とともに一九二六年に青蘭社書房という 印刷所を立ち上げている。   しかし、この印刷所を朝鮮人が利用した形跡はみら れない。この頃、朝鮮人活動家もまた東京に同声社と いう印刷所を立ち上げ、自らの手で朝鮮語出版をでき るようになっていたからだ。 ―  10―

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人文第 63 号―念校   村岡家が朝鮮と再び関係してくるのは、一九三〇年 代に入ってからである。村岡花子といえば、JOAK ︵日 本 放 送 協 会︶ で 放 送 さ れ て い た﹁コ ド モ の 新 聞﹂ の﹁ごきげんよう、さようなら﹂が有名である。実は この番組は、朝鮮︵JODK、朝鮮放送協会︶でも放 送されていた。聴いていた人の多くは朝鮮在住の日本 人だったと思われるが、朝鮮語新聞﹃東亜日報﹄の番 組表にも出演者として村岡花子の名前が記されている。   村岡花子が朝鮮と本格的に関わりはじめるのは、戦 争、 と く に ア ジ ア・太 平 洋 戦 争 の 勃 発 以 降 で あ る。 ﹃ア ン の ゆ り か ご﹄ で は、 戦 時 下 の モ ン ゴ メ リ の﹁命 がけの翻訳﹂に叙述の力点が置かれているが、戦争協 力というかたちで植民地朝鮮の人々と再会するのだ。   朝鮮人を含めたアジアの人々を戦争に動員するため のプロパガンダには、数多くの日本の文学者が駆り出 されたが、村岡花子もそのひとりである。ここでは、 事例をふたつ紹介しよう。   ひとつは、一九四二年に東京で開かれた大東亜文学 者大会。村岡花子はこの大会に参加し、短い文章も残 している。一方、朝鮮からは李光洙が参加している。 李は日本に留学していた一九一〇年代は独立に燃える 青 年 だ っ た が、 ﹁対 日 協 力 者﹂ に﹁転 向﹂ し て い た。 また、留学時代には明治学院に通い、村岡斉とは同学、 学内行事の委員をともに務めたこともあった。戦争の 勃発が、李と村岡家を独立運動から戦争協力へとかた ちを変えて結びつけたのである。   も う ひ と つ は、 映 画﹃家 な き 天 使﹄ ︵一 九 四 一 年、 崔 寅 奎 監 督︶ 。 朝 鮮 人 牧 師 の 方 洙 源 が 経 営 す る 孤 児 院 の子どもたちが成長して、日本の軍人となっていく過 程を描いた実話にもとづく準国策映画である。村岡花 子は方洙源とともに一九四三年に﹃家なき天使﹄の資 料集を編集している。   その詳しい経緯は分からないが、村岡花子は編者と し て う っ て つ け だ っ た。 ﹃ア ン の ゆ り か ご﹄ に 書 か れ ているように、村岡花子はクリスチャンで、作家にな る前は孤児院で仕事をしていた。加えて、花子が嫁い だ村岡家の福音印刷合資会社には、夫の三が受け持 っていた東京支社も含めて、一九一〇年代から朝鮮人 が出入りしていたのである。   ﹁戦 争 中、 命 が け で﹁ア ン﹂ を 翻 訳 し た 村 岡 花 子 の 初めて明かされる情熱の人生。柳原白蓮、吉屋信子、 市川房枝⋮⋮時代を切り開いた人々との交流も胸を打 つ﹂ 。   こ れ は、 ﹃ア ン の ゆ り か ご﹄ の 帯 に あ る キ ャッ チ コ ピーである。村岡花子自身は間接的なものではあった が、 ﹁時 代 を 切 り 開 い た﹂ 朝 鮮 の 人 々 と の﹁交 流﹂ も ―  11―

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人文第 63 号―念校 たしかにあった。   もっとも、その﹁交流﹂は必ずしも﹁胸を打つ﹂よ うな美しいものではなかった。村岡花子が、植民地を 持つ帝国日本で生きたことの証とでもいうべきであろ う。 ―  12―

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人文第 63 号―念校 ―  13― 四月 五月

講演会

 

ポスターギャラリー

 

二〇一五

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人文第 63 号―念校 ―  15― 七月 十一月 八月 十月

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十二月

一月

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人文第 63 号―念校

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人文第 63 号―念校

︿二〇一五年四月より二〇一六年三月まで﹀

人のうごき

◦井波陵一教授︵附属東アジア人文情報 学研究センター︶を当研究所長に併任 ︵四月一日∼二〇一七年三月三一日︶ ◦冨谷至教授︵東方学研究部︶を附属東 アジア人文情報学研究センター長に併 任︵四 月 一 日 ∼ 二 〇 一 六 年 三 月 三 一 日︶ ◦ 石 川 禎 浩 教 授︵現 代 中 国 研 究 セ ン タ ー︶を附属現代中国研究センター長に 併任︵四月一日∼二〇一七年三月三一 日︶ ◦小関隆准教授︵人文学研究部︶は、当 研 究 所︵人 文 学 研 究 部︶ 教 授 に 昇 任 ︵四月一日付︶ ◦矢木毅准教授︵東方学研究部︶は、当 研 究 所︵東 方 学 研 究 部︶ 教 授 に 昇 任 ︵四月一日付︶ ◦安岡孝一准教授︵附属東アジア人文情 報学研究センター︶は、当研究所︵附 属 東 ア ジ ア 人 文 情 報 学 研 究 セ ン タ ー︶ 教授に昇任︵四月一日付︶ ◦井狩彌介は、客員教授︵文化研究創成 研究部門、四月一日∼二〇一六年三月 三一日︶ ◦ JACQUET, Benoit Marcel Maurice フランス国立極東学院京都支部長は、 客員准教授︵文化研究創成研究部門、 四月一日∼二〇一六年三月三一日︶ ◦武上真理子 人間文化研究機構地域研 究推進センター研究員は、客員准教授 ︵附 属 現 代 中 国 研 究 セ ン タ ー、 四 月 一 日∼二〇一六年三月三一日︶ ◦藤本幸夫は、特任教授︵文化研究創生 研究部門、四月一日∼二〇一六年三月 三一日︶ ◦ VITA, Silvio 京 都 外 国 語 大 学 教 授 は、 特任教授︵四月一日∼二〇一六年三月 三一日︶ ◦小林隆道は、特定助教︵附属東アジア 人文情報学研究センター︶に採用︵四 月一日付︶ ◦目黒杏子は、特定助教︵附属東アジア 人文情報学研究センター︶に採用︵四 月一日付︶ ◦森川裕貫は、特定助教︵附属現代中国 研究センター︶に採用︵四月一日付︶ ◦岩井茂樹教授︵国際高等教育院︶を当 研究所︵東方学研究部︶に併任︵五月 一日付︶ ◦山崎岳助教︵東方学研究部︶は、辞任 の 上︵二 〇 一 六 年 三 月 三 一 日 付︶ 、 奈 良大学文学部准教授に就任 ◦小林隆道特定助教︵附属東アジア人文 情 報 学 研 究 セ ン タ ー︶ は、 辞 任 の 上 ︵二〇一六年三月三一日付︶ 、神戸女学 院大学文学部総合文化学科専任講師に 就任 ◦安藤房枝助教︵東方学研究部︶は、任 期満了により退職︵二〇一六年三月三 一日付︶ ◦水野直樹教授︵人文学研究部︶は、定 年により退職︵二〇一六年三月三一日 付︶

海外での研究活動

◦ HOLCA, Irina 講 師︵人 文 学 研 究 部︶ は、文部科学省科学研究費補助金によ ―  18―

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人文第 63 号―念校 り、 八 月 十 七 日 大 阪 発、 デ ィ ミ ト リ エ・カンテミル大学に於いて第三回国 際学会﹁ Ja pan : Pr e-mod ern , Mode rn, Contemporary ﹂ に 参 加 及 び 研 究 発 表、 ルーマニア・アカデミー図書館他に於 いてルーマニアにおける日本文学の受 容と教育に関する資料調査、ルーマニ ア中央大学図書館と国立図書館に於い て日本文学関係の資料調査を行い、ヒ ペリオン大学に於いてルーマニア日本 語教師会会長アンドレア・シオン︵ヒ ペリオン大学専任講師︶他と日本語及 び日本文学教育について意見交換、デ ィミトリエ・カンテミル大学に於いて カルメン・デュツ准教授他と文学理論 教育の現状と問題点及び﹁日本の文学 理 論 ︱ ア ン ソ ロ ジ ー︵ベ ー タ 版︶ ﹂ に 関する意見交換を行い、九月十六日帰 国。 ◦藤井俊之助教︵人文学研究部︶は、二 〇一五年三月二五日大阪発、ミュンヘ ン大学に於いて在外研究を行い、十月 一日帰国。 ◦竹沢泰子教授︵人文学研究部︶は、文 部科学省科学研究費補助金により、八 月十七日大阪発、カリフォルニア大学 バークレー校に於いて人種表象の日本 型グローバル研究に係る資料収集、シ アトルインターナショナル・ディスト リクト周辺に於いて日系アメリカ人に 遵守差別についてのインタビュー、ハ ーバード大学に於いて人種主義の国際 比較に関する資料収集及び共同研究を 行い、トロント大学に於いて講演及び 情報収集、シェラトン・トロントに於 い て 米 国 ア メ リ カ 学 会︵ American Studies Association ︶ 年 次 大 会 に 出 席 及び情報収集を行う。ケルン大学に於 いて前近代のエスニシティフォーラム に出席及び講演と情報収集、アンネ・ フランクの家と社会科学高等研究員に 於 い て 資 料 収 集、 JF Schaub 教 授 と ユダヤ人に関する共同研究打ち合わせ と南カリフォルニア大学 Ariela Gross 教授と黒人研究に関する共同研究打ち 合 わ せ、 M. Kriegel 教 授 と ユ ダ ヤ 人 に 関する情報交換を行う。コロラドコン ベンションセンターに於いてアメリカ 人 類 学 会 ︵ American Anthropological Association ︶ 年 次 大 会 に 出 席 及 び 情 報収集を行い、十二月二八日帰国。 ◦竹沢泰子教授︵人文学研究部︶は、文 部科学省科学研究費補助金により、二 〇一六年一月十二日大阪発、カリフォ ルニア大学サンタバーバラ校に於いて 人種表象の日本型グローバル研究につ い て Edward Telles 教 授 と 人 種 に 関 す る 共 同 研 究、 Mary Danico 教 授 と 意見交換を行い、カリフォルニア大学 ロ サ ン ジ ェ ル ス 校 に 於 い て UCLA 図 書館にて資料収集、南カリフォルニア 大学に於いて日系アメリカ人の会議に 参加及び講演、カリフォルニア大学バ ークレー校に於いてトロイ・ダスター 教授と研究意見交換、ステファン・ス モール教授と意見交換及び資料収集を 行い、三月二三日帰国。

招へい研究員

◦徐   静波   復旦大学日本研究センター 教授、副センター長   近代日本知識人の中国認識︵一九二十 ∼一九四五︶ ︵文化連関研究部門︶ 受入教員   山室教授 ―  19―

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人文第 63 号―念校   期間   四月一日∼八月三一日 ◦ Jensen, Casper Bruun Honorary Fellow, School of Management, Science and Technology Studies, University of Leicester   自然を社会化する ︱ 環境問題に対する インフラストラクチャーの対応 ︵文化生成研究部門︶ 受入教員   石井准教授   期間   七月五日∼二〇一六年一月五日 ◦田   世民   淡江大学日本語文学系助理 教授   東アジアから考える日中文化思想交流 ︵文化連関研究部門︶ 受入教員   岩城准教授   期間   八月十六日∼ 二〇一六年二月十五日 ◦安   相佑   韓国韓医学研究院   責任研 究員   日本残存韓医学資料の研究 ︵文化生成研究部門︶ 受入教員   武田教授   期間   一月二十日∼ 二〇一六年四月十九日 ◦童   嶺   南京大学文学院副教授   域外漢籍及び十六国・北朝思想史と学 術史の研究 ︵文化連関研究部門︶ 受入教員   永田准教授   期間   三月七日∼六月六日

招へい外国人学者

◦茅   海建   University of Macau 教授   戊戌変法と明治日本 受入教員   石川教授   期間   七月十六日∼八月十四日 ◦方   旭東   華東師範大学教授   東アジア近世思想史研究 受入教員   古勝准教授   期間   九月一日∼ 二〇一六年八月三一日 ◦李   虹   中南民族大学副教授   日中哲学交流史 受入教員   石川教授   期間   九月七日∼二〇一六年九月七日 ◦蕭   紅顔   南京大学建築興城市規劃学 院副教授   ﹃墨子﹄にみえる先秦時代の建築理念 受入教員   岡村教授   期間   九月十五日∼十二月二五日 ◦   威   武漢大学歴史学院副教授   出土文献から見た戦国秦漢郡県制の研 究 受入教員   宮宅准教授   期間   九月十六日∼ 二〇一六年九月十五日 ◦祝   平一   中央研究院歴史語言研究所 研究員   明、清醫者的家訓 受入教員   瀬戸口准教授   期間   十一月一日∼十一月三十日 ◦ Rupert COX   マ ン チ ェ ス タ ー 大 学 人 文学部上級講師   A Comparative Study of Coral Reefs in Okinawa and Guam as Militarized Environments. 受入教員   田中教授   期間   十二月四日∼ 二〇一六年一月二七日 ◦ SOTOMURA Ataru University of Wuerxburg Lektor ︵ Senior Lec -turer ︶   いわゆる宇宙仏のアイデンティティ 受入教員   岡村教授   期間   二〇一六年二月二九日∼ ―  20―

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人文第 63 号―念校 二〇一六年四月一日

外国人共同研究者

◦ Scherrmann, Sylke Ulrike   青島旧蔵ドイツ語文献中の法制関係資 料の調査 受入教員   岩井教授   期間   二〇一二年四月一日∼ 二〇一六年三月三一日︵継続︶ ◦尹   寧實   University of Tront, East Asian Studies Department Post -doctoral researcher   戦時期植民地朝鮮における内鮮一体論 と民族超克論崔南善を中心にして 受入教員   水野教授   期間   二〇一四年八月一日∼ 二〇一六年二月二九日︵継続︶ ◦ TAJAN, Nicolas Pierre   トラウマと文明 ︱ ﹁傷﹂の歴史からみ た人類 受入教員   立木准教授   期間   四月一日∼ 二〇一七年三月三一日 ◦ Smith, Craig Anthony University of British Columbia Lecturer   中国におけるアジア主義の受容と展開 受入教員   石川教授   期間   八月二七日∼ 二〇一六年一月三一日 ◦張   西艶   北京外国語大学博士後期課 程   日本における山海経についての考察 受入教員   冨谷教授   期間   十月十四日∼ 二〇一六年四月十四日 ◦趙   恩成   Columbia University   北朝鮮のビナロン開発と李升基に関す る研究 受入教員   水野教授   期間   九月二二日∼十月二五日

受託研究員

◦ REDDY, Sreedevi CMR 教 育 機 関 、 CMR 大学非常勤准教授   近代・平和主義・戦争協力長谷川時 雨を中心に 受入教員   田中教授   期間   九月一日∼ 二〇一六年八月三一日

外国人研究生

◦ RUSCH,Markus   親鸞論 ︱ 救済論と生 ︱ に関する研究 受入教員   大浦先生   期間   四月一日∼ 二〇一七年三月三一日 ◦ YONG Tsun Nyen   仏教知識論の形成と東アジア的展開 受入教員   船山教授   期間   六月一日∼ 二〇一六年三月三一日 ◦ BUCKELEW, Kevin Delaney   唐・宋・元代中国の禅仏教における 世者 受入教員   船山教授   期間   七月一日∼ 二〇一六年六月三十日 ◦金   善美   十∼十四世紀東アジアにおける礼儀制 度の比較研究 受入教員   矢木教授   期間   九月一日∼ 二〇一六年二月二九日 ◦陳   俊華 ―  21―

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人文第 63 号―念校   小を以て大を観る ︱ 日本の早期仏教彫 刻におけるミニチュア像の効能 受入教員   稲本准教授   期間   九月一日∼ 二〇一六年五月三一日 ◦ HOEISAETER, Tomas Larsen   古代仏教史 受入教員   稲葉教授   期間   十月一日∼ 二〇一七年三月三一日 ◦楊   長玉   唐の西部境界について 受入教員   宮宅准教授   期間   十一月二日∼ 二〇一六年二月二九日 東 ア ジ ア 人 文 情 報 学 研 究 セ ン タ ー 講 習 会 ◦二〇一五年度漢籍担当職員講習会︵初 級︶   第一日︵九月二八日︶    オリエンテーション 冨谷   至    漢 籍 に つ い て︵四 部 分 類 概 説 を 含 む︶ 永田   知之    カードの取り方 ︱ 漢籍整理の実践 土口   史記   第二日︵九月二九日︶    工具書について 髙井   たかね    漢籍関連サイトの利用     附属図書館情報サービス課相互利 用掛 大西   賢人    実習を始めるにあたって 梶浦   晋    漢籍目録カード作成実習   第三日︵九月三十日︶    目録検索とデータベース検索 安岡   孝一    漢籍データ入力実習︵一︶   第四日︵十月一日︶    和刻本について 文学研究科教授   宇佐美   文理    漢籍データ入力実習︵二︶   第五日︵十月二日︶    朝鮮本について 矢木   毅    実習解説 土口   史記    情報交換 ウィッテルン・クリスティアン ◦二〇一五年度漢籍担当職員講習会︵中 級︶   第一日︵十一月九日︶    オリエンテーション 冨谷   至    経部について 古勝   隆一    叢書部について 藤井   律之    叢書と漢籍データベース 安岡   孝一   第二日︵十一月十日︶    史部について 宮宅   潔    漢籍データ入力実習︵一︶   第三日︵十一月十一日︶    子部について 古勝   隆一    漢籍データ入力実習︵二︶   第四日︵十一月十二日︶    集部について 人間・環境学研究科教授 道坂   昭廣    漢籍データ入力実習︵三︶   第五日︵十一月十三日︶    漢籍と情報処理 ウィッテルン・クリスティアン    実習解説 土口   史記    情報交換 ウィッテルン・クリスティアン

お客さま

◦十月九日 グラスゴー大学教授、イギ リ ス 中 国 学 協 会 会 長 Jane Duckett ︵石川、村上、森川が対応した︶ ―  22―

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人文第 63 号―念校 ◦十月十六日 中国社会科学院マルクス 主義学院副院長 賈朝寧 他五名︵石 川、森川が対応した︶ ―  23―

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共同研究の話題

人文第 63 号―念校

人文学研究資料とWeb

  共同研究班﹁人文学研究資料にとってのWebの可 能性を再探する﹂の三年間が終了した。ナショナル・ デジタルアーカイブ構想が形を成し始め、日本語古典 籍三〇万点をデジタル化するプロジェクトが開始され るなど、文化資料のデジタル化・デジタルアーカイブ が改めて注目を集め、同時に、人文学の置かれた危機 的状況が露わになった時期でもあった。   当研究班では、主に人文学のための情報発信と蓄積 の媒体としてのWebという観点を中心として検討を 重ねてきた。Webが様々なメリットとデメリットを 人文学にもたらしてきたことには多くの人が同意する だろう。本研究班が目指したのは、デメリットをいか にしてうまく減らし、メリットの部分を多く享受でき るようにするか、ということだったと総括することが できる。そこには技術の問題だけでなく、ライセンス や合意形成など、避けては通れない複数の論点が錯綜 しており、それらを紐解きながら検討を重ねてきた。   現在までのWebにおける人文学の情報発信と蓄積 について反省してみると、まず、日進月歩の技術革新 の結果、技術や規格がどんどん変化していき、それに あわせたスクラップ&ビルドが延々と重ねられてきて いるという現実がある。使いやすくなることは大いに 結構なことだが、人文系の研究者から見ると、紙媒体 では一度作れば数十年、あるいは数百年利用可能だっ た成果の発信と蓄積が、デジタルでは数年で作り直し になってしまうと言われてもなかなか納得がいかない。 さらに、特定のソフトウェアに依存しすぎたデータ構 造になっていて、システムを更新するのに莫大な費用 がかかったり、ソフトウェアを更新したら過去のデー タを一から作り直さなければならなくなったりしたこ とも少なくなかった。   そういった事態を避けるために、ソフトウェアとデ ータをきちんと分離して、データの部分に可能な限り 人文学の知見をきちんと記述して、ソフトウェアが変 わっても、作成に手間をかけたデータの部分は次のシ ステムでも若干の機械的な手直しのみで移行できるよ うにしようとする様々な試みが、国際的には長く続け られてきている。とりわけ、人文学向けデジタル化資 料の記述形式を検討する Text Encoding Initiative コ ンソーシアムの取組みは注目に値するだろう。この種 ―  24―

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共同研究の話題

人文第 63 号―念校 の試みは、個別のプロジェクト同士でのデータの非互 換問題の解決策としても機能してきており、結果とし て、この種の流れにうまく対応することで人文系研究 者の労力を軽減しつつその知見をより深く長くデジタ ル媒体に蓄積することに成功しつつある。ただ、その 一方で、そのような枠組みについての合意形成は決し て容易なものではなく、人文学者と情報工学者の双方 が主体的に携わることで慎重に進められており、すで にガイドラインを公開して成果を出しているものの、 人文学全般に適用可能なものにしようという、その壮 大な目標に対してはまだ発展途上の段階である。そこ では、新たなニーズが提示されたなら、それまでの積 み重ねの上に矛盾なく適切にそれを積み上げていく、 ということが繰り返されてきているのである。すでに 決められ流通しているガイドラインに着目し参考にす ることも重要だが、それだけでなく、そのような合意 形成の場が設定されているという点もまた興味深く、 注目に値すると思われる。   残念ながら日本ではまだ全般的にこの種の流れにう まく対応できておらず、依然としてスクラップ&ビル ドに人文系研究者が付き合わされてしまっている例が 少なくない。そのことは、一方で、人文系研究者の協 力を得にくいという状況をも生み出しており、人文系 研究者が加わることで創りだし得る学術的な深みを持 ったデジタルアーカイブの登場を妨げてしまっている 面もある。これは人文学がデジタル時代に発揮し得る 潜在力をうまく引き出せず、結果として公共知に十分 に貢献できていないという点でも残念なことである。 この種の取組みを日本でもきちんと進められるように していくことは、今後の重要な課題の一つであり、継 続して取り組んでいきたい。   最後に、この種の流れの一つとしてこの数年急速に 広まりつつある規格についてご紹介しておきたい。W eb上のデジタルアーカイブでは、これまではWeb サイト毎に異なるソフトウェアや規格が用いられ、多 くの場合は、それぞれのサイトの使い方を覚えなけれ ばうまく使いこなすことができないという状況であっ た。ヨーロピアナやDPLAといった統合検索サービ スが登場してきたことで、検索だけは部分的に統合で きたが、高精細画像を閲覧する段階となると各サイト に行って使い方を覚えつつ、いくつものサイトにアク セスし色々なビューワを操作しなければならなかった。 こ の 状 況 を 改 善 し よ う と す る の が I I I F︵ Interna-tional Image Interoperability Framework ︶ と い う 規 格である。英国図書館、フランス国立図書館、スタン フォード大学、オクスフォード大学ボドリアン図書館 ―  25―

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共同研究の話題

人文第 63 号―念校 等、大規模デジタルアーカイブを公開する機関が中心 となって始まったこの枠組みでは、利用者が好きなビ ューワを選び、そこに各機関の高精細デジタル化資料 を一元的に表示し、拡大縮小・注釈を付加するなどの 操作をすることができるようになっている。あくまで も、画像等の相互運用に関わる部分のみを対象として おり、デジタルアーカイブに関わる全般をフォローす るわけではないのだが、研究資料としての利用という 観点からもこの規格がもたらし得る利便性はかなり大 きなものとなることが期待される。すでに広まってい る既存の技術をうまく組み合わせることで実現されて いる堅実な規格であり、徐々に増えていく参加機関の リストを見ていると、今後大きく広まり、デジタルア ーカイブの世界を一変させることが大いに予想される 一方で、日本の機関が未だに一つもリストされないこ とに若干の不安も感じるところである。ちょうど、本 稿の校正中に、京都大学図書館機構がこの規格に参加 する事への関心を表明したところだが、このIIIF に限らず、デジタル化文化資料をめぐる様々な国際的 な動向に日本からもうまく対応していくことができる ような枠組みを、いかにして作り、維持していくか。 それもまた、今後の重要な課題の一つである。

「一」と「多」のトポロジー

  科学史研究室が運営する共同研究班には、多彩な分 野の研究者が出入りしている。科学史家に加えて臨床 の現場で働く医師、鍼師、薬剤師がおり、中国思想、 宗教学から漢字学、簡牘学、古文書学に至るまで多種 多様な研究者が参加している。だから、文献読解では メンバーそれぞれの食いつくところが異なっていて、 味 わ い 方 は 各 人 各 様 で あ る。 ﹁一 に し て 多、 多 に し て 一﹂という東洋的思考がそこに具現している。   私の場合、サイエンスの原義である﹁生きるための 智恵﹂を追究しているので、分野も時代もまったく拘 らず、聖俗取り混ぜた読書生活を行っている。興味の 中心は、自然と人倫を繋ぐ創造的思考にある。共同研 究メンバーの多元的なアイデアをウォッチングするこ とも楽しみになっている。   人文研に赴任してから、共同研究会とは別立てで科 学史基礎文献の読書会を運営してきた。私の雑多な関 心を最も満たしてくれたのは、金文京氏のグループと ―  26―

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共同研究の話題

人文第 63 号―念校 合流して﹃事林広記﹄を読んだ時である。その合同読 書会は、金文京氏からのお誘いだった。事林広記研究 会では大半は読み終えたが、科学技術関連の事項だけ が残っているというのだ。そこで、服飾史の相川佳予 子氏、道教・科学思想の坂出祥伸氏、天文暦学の宮島 一彦氏、新井晋司氏、本草学の森村謙一氏、櫻井謙介 氏など、藪内清・山田慶兒両先生の時代から参加する 古 参 メ ン バ ー に 呼 び か け、 ﹃事 林 広 記﹄ の 専 門 家 で あ る奈良大学の森田憲司氏らと一緒に読解を試みた。   ﹃ 事 林 広 記 ﹄ は 日 用 類 書 の 先 駆 け で あ り 、 社 会 生 活 を 送るために必須の知識を諸書からカットアンドペース トしたマニュアル本である。だから、オリジナルな発 見 、 発 明 は な く 、 か な り い い 加 減 な 抜 き 書 き に な っ て い る 。 し か し 、 科 学 や 技 芸 の 著 作 は 他 書 に は ほ と ん ど 取 り 上げられないから、新奇な記事が満載である。しかも、 挿し絵による図解がふんだんに用られていて、棋譜や 琴譜もある。冒頭では、詳細な天文図とともに﹃新儀 象法要﹄の説明文がまるごと引用されていて驚かされ た。内容が難しくてかえって節略できなかったのであ る。この記載は、藪内先生も見逃していた資料である。 特に韓国、日本では得難い情報源になっており、類書 の科学啓蒙という新たな考究課題を浮かび上がらせた。   近年では、術数学、伝統医療文化の人文研拠点研究 に 加 え て、 同 志 社 大 学 の 仏 教 天 文 学 研 究 会︵仏 天 研︶ 、 大阪産大の古算書研究会にも参加し、円通﹃仏国暦象 編﹄ や 岳 麓 書 院 秦 簡﹃数﹄ ﹃九 章 算 術﹄ を そ れ ぞ れ 輪 読している。仏天研は、リーダーの宮島一彦、林隆夫 両氏が退職したことに伴い、白眉准教授のビルマク氏 と協力して人文研に本拠を移すことになった。さらに、 術 数 学 研 究 会 の 仲 間 に よ っ て、 出 土 簡 帛、 ﹃天 地 瑞 祥 志﹄ 、﹃卜 筮 元 亀﹄ 、 近 世 養 生 書 な ど の 読 解 ワ ー ク シ ョ ップが分立し、私の関わる共同研究会、読書会のテー マ は ど こ ま で も 拡 散 す る 方 向 に あ っ た。 と こ ろ が、 ﹁多﹂から﹁一﹂へと向かわせる出来事に遭遇した。   それを演出したのは、北海道教育大学釧路校准教授 の石井行雄氏である。北里大学で行った正月明けの研 究会の懇親会で、石井氏から滋賀の園城寺に面白そう な資料があるから見に来ないかと誘われた。十九世紀 に活躍した大寶和尚が遺した一群の典籍が屋根裏から 出てきて、そのなかに天文暦学関係の資料が含まれて いると言うのである。石井氏は、国語史とりわけ訓点 資料の専門家であるにもかからわず、毎回研究会に自 費参加している。医心方読書会では、石井氏の指導で オコト点に従って訓読する会読をスタートさせた。そ の奇才ぶりは、かつて大学キャンパスに闊歩していた 博識の学者、文士を彷彿させる。 ―  27―

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共同研究の話題

人文第 63 号―念校   園城寺のお宝調査は、高田宗平氏がすぐに日程を塩 梅 し て く れ た し、 ﹃宿 曜 経﹄ の 写 本 も あ る と の こ と な ので、いそいそと出かけた。すると、梵暦研究に関す る手書き原稿や講述ノートが一まとまり残っていて、 そのなかに佐田介石の﹃立世︵阿毘曇︶論日月行品台 麓考﹄の書き入れ稿本もあった。これは、仏天研で取 り組んでいる梵暦運動の重要資料である。また、大寶 和尚が持ち歩いていた書物に室町鈔本があり、そこに 一般の漢籍が一つだけあると言うので、ついでに見せ てもらった。なんと﹃事林広記﹄の室町写本ではない か。パソコンに残っていた共同研究会のデータをあれ これまさぐってみると、どうやら朝鮮刊本の写しと判 断される。後日に前原あやのさんに協力してもらって 写真を撮り、助教の宮紀子女史に声をかけて、彼女の 手元にある対馬の宗家文庫本とつきあわせてみた。す ると、版心までそっくりに模写している。しかも、叡 山文庫本にある江戸鈔本とぴったり合い、ともに宗家 文庫本と異なる部分があって、より古い姿を留めてい る。これは大発見、宗家文庫本とともに出版しようか と二人で大いに盛り上がった。   ﹁ 一 に し て 多 、 多 に し て 一 ﹂ と し て ﹁ 一 ﹂ と ﹁ 多 ﹂ と 同一視するのは、西田哲学でも語られるし、西洋社会 を﹁一にして多﹂と評した研究書もある。しかし、そ こ で に ﹁ 多 ﹂ は 、﹁ 一 ﹂ か ら 増 殖 、 発 展 し た も の で 、 個 々 に自立した思想、文化をイメージしている。しかし、 中 国 の 場 合、 そ し て 私 の 場 合、 ﹁多﹂ は﹁一﹂ ︵太 極︶ が細分化し、俗物化したものである。自然界の多様性 というのは美しいコンセプトになっているが、現実世 界は要するにどれを取ってもみんな同じものはなく、 烏合の衆物が雑然と同居する。その混沌を独善的に一 括りにするところに、自然探究の醍醐味がある。 ﹁一﹂ の部分集合が ﹁多﹂ であり、道 ︵タオ︶ 、元気、天理に よって通貫させる。それが、中国的トポロジーである。   近年の研究生活での出会いは、何かしらこれまでバ ラバラに行ってきた研究活動の複数に絡まり合うもの ばかりである。石井氏を含む北大グループと歴博にあ る年号勘文資料の共同研究が立ち上がり、院生時代に 取り組んだ緯学や革命勘文の研究を再開することにな った。生命現象とは、やはり見えざる力によって不可 逆的に流されていく有限の運動である。その場合、エ ントロピーが増大して無秩序へと向かう宇宙原理では な く、 む し ろ 雑 然 と し た﹁多﹂ ︵= 生︶ を﹁一﹂ へ と 誘導し、やがて死滅という大きな秩序︵= ﹁無﹂ ︶に帰 着させようとしている。定年から僊去へのゴールが近 づいてきたことをそれとなく知らせる神の思し召しに ちがいない。 ―  28―

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所のうち・そと

人文第 63 号―念校

調査の現場

   

  清の乾隆年間に編纂された﹃西番譯語﹄という一連 の資料がある。清朝が版図内の諸民族を把握するため に行った一種のアンケート調査による報告書で、北京 の故宮博物院に所蔵される九種類の写本は、分布地の 異なる四種類のチベット語方言、および白馬語、ギャ ロン語、リュズ語、トス語といった西南中国のチベッ ト系少数民族語の語彙を記録したものである。同類の 写本は、京都大学や大谷大学にも数種類が所蔵されて おり、本によっては単語ごとに界線を引いて漢語の語 彙項目を印刷した版本に、手書きで現地のことばを記 入したタイプのものがあって、これがオリジナルの調 査ノートに近いと考えられている。故宮所蔵の写本に は界線は無く、漢語の語彙項目、現地語の音写漢字、 チベット文字のすべてがとてもきれいに筆写されてい る。宮廷に収めるにあたり、丁寧に清書した写本を作 成したのであろう。   宮中に献上されたからには、これこそが数ある写本 のなかでも﹁完成品﹂なのだろうと予想していたのだ が、閲覧してみると、予想を覆す事実がいくつもあっ た。写字生は達筆であり、チベット字の書きかたにも 通じていたけれども、チベット語あるいはチベット文 字で書かれた民族語はあまり理解していなかったらし い。チベット語を理解しているのであればあり得ない、 あるいは見過ごすはずのないような綴り字の誤りが散 見するからである。もし清書を作成する段階で現地語 に通じた者の校閲を経たならば、このような誤りだら けの写本を宮廷に献上することはなかったはずだ。   チベット語方言の記録の場合には、チベット文語と の対応関係が明らかな語が多いので、語の同定がしや すいが、それ以外の現地語については、チベット系の 言語とはいえ、語の同定は容易ではない。各本の前書 きにはその言語がどのあたりで話されているかという 地理情報の記載があるものの、行政の統治範囲の地名 を列挙しているにすぎず、記録された言語がそのうち のどこの方言なのかを特定することは困難である。う まく現地語の話し手の協力が得られたとしても、違う 方言や古いことばが書かれていたとすれば、どんな語 形を記録したものか、判断に苦しむ場合が少なくない。 ましてや記録に誤りが含まれているとなると、困難は さらに大きくなる。 ―  29―

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所のうち・そと

人文第 63 号―念校   ﹁ギ ャ ロ ン 訳 語﹂ の 記 録 を 見 て み る と、 語 彙 項 目 の ﹁骨﹂ に あ た る 現 地 語 の 発 音 を 漢 字 で﹁殺 又﹂ と 音 写 し、 チ ベ ッ ト 文 字 で は sharu と 表 記 さ れ て い た︵便 宜 上 チ ベ ッ ト 文 字 は ロ ー マ 字 に 置 き 換 え て 示 す︶ 。 両 者を対照すれば明らかに音写字の﹁又﹂は﹁入﹂の書 き 損 じ と 判 断 で き る。 現 代 ギ ャ ロ ン 語 方 言 で は﹁骨﹂ は[ ʃ r ə ] シ ャ・ル の よ う に 発 音 す る。 こ の よ う な 軽微な誤字ならまだわかりやすい。しかしおそらくは 通訳を介して行われたであろう最初のインタビュー調 査の段階で、質問者と回答者との間で誤解が生じてい たと思しき誤例もある。   ﹁甜﹂の項目を見ると、漢字音写は﹁各敏﹂ 、チベッ ト 字 で は di meng と 綴 ら れ て い る。 ま ず こ の 不 一 致 でどちらかに筆写上の誤りがあることは確実。しかも 現 代 の ギ ャ ロ ン 語 で は﹁甘 い﹂ は[ kə cçhi ] カ・チ ヒィのような発音で、記録とは全く対応しない。これ は 漢 字 音 写 か ら 判 断 す る に、 ﹁甘 い﹂ で は な く ギ ャ ロ ン 語 の[ kə mj m ] カ・ミ ャ ン﹁お い し い﹂ を 記 録 し て お り、 チ ベ ッ ト 字 の 綴 り は 字 形 の 類 似 か ら g を d に 見 誤 っ た と 考 え ら れ る。 も し も 文 献 上 の 記 載 を 信頼してフィールド調査の検証を経ていなければ、清 代のギャロン語では﹁甘い﹂は﹁各敏﹂ガ・マン、あ るいは di meng ンディ ・ マンと言っていた、 と歴史的 に 誤 っ た﹁復 元﹂ が な さ れ て い た か も 知 れ な い。 ︵た だし当時記録された現地語の方言で﹁甘い﹂と﹁おい しい﹂という語を区別していなかった可能性は残る。 ︶   また﹁綵絹﹂の項目をみると、音写漢字では﹁達兒 底更票﹂ 、チベット字では da i ki khyar と記録してあ った。いずれも現代ギャロン語の﹁あやぎぬ﹂とは全 く対応しない。チベット字の綴りにも誤りが含まれて い る に 違 い な く、 意 味 不 明。 ﹁絹﹂ と か 色 彩 関 係 で、 似た発音の語は無いかとあれこれ調べたり、現地語の 話し手に何人かねてみたりしたがサッパリわからな い。やがて音写漢字の﹁達兒底更票﹂を口の中で何度 も唱えていた現地語の研究協力者が、これはきっとダ ルディ︵帽子︶ ・ケンピョル︵キレイな︶ ﹁キレイな帽 子﹂ と 書 い た ん だ、 チ ベ ッ ト 字 の 綴 り は 正 し く は * ta rti ki phyar に 違 い な い、 と 気 が つ い た。 想 像 す る に、 質問者は帽子に綾絹が縫い付けられた部分を差して、 これは何というのかとねたのであろう。   最 後 に 極 め 付 き の 誤 例 を ひ と つ。 語 彙 項 目 の﹁請﹂ に対応する現地語は﹁達辟﹂と音写され、チベット字 で は ta phe と 綴 ら れ て い た。 記 録 さ れ た 語 音 が 一 致 しているので誤記はなさそうだが、現代ギャロン語で ﹁お 願 い す る / 招 待 す る﹂ は ka sgor カ・ス ゴ ル と 言 い、 全 く 対 応 し な い。 現 地 語 で[ tɑ ph ] タ・パ と ―  30―

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所のうち・そと

人文第 63 号―念校 は、 ﹁客人﹂のことだという。   ああそうか、中国語でそんなふうに質問をして誤解 されたのか⋮思わず笑いがこみ上げた。言語調査では、 この種の誤解はいつでも起こりうる。

「文化大革命」の半世紀

  無産階級文化大革命   この文字の連なりを見るたび に、 か ら だ に 緊 張 が 走 る。 香 港 で 出 版 さ れ た 馮 驥 才 ﹃一 百 個 人 的 十 年﹄ を 読 ん だ の は も う 三 十 年 ほ ど 前 の ことだ。暴力にさらされた人びとの心声はわたくしの 頂門に一撃を加えたが、その振動が励起されるようだ。 文革起始の事どもは、脳裏にほとんど何の印象も残し ていない。しかし、林彪墜死の真相、清明節の﹁反革 命﹂事件と鄧小平の失脚、四人組逮捕などについては、 驚 き や と 惑 い の 記 憶 が 鮮 明 で あ る。 ﹁民 主 と 法 制﹂ を 主張して弾圧された﹁李一哲﹂の大字報を読む会が文 学部東洋史研究室でおこなわれていたのは一九七六年 のことだった。英国から人文研に来ていた若手研究者 の要望をうけてのことだった。   一九八〇年の冬には、天津の南開大学の留学生宿舎 の食堂にあつまった同学や職員とともに、白黒TVに 映し出された林彪集団・四人組裁判の映像を見つめる ことになった。当時、中国ではTVを見るときに部屋 を暗くするのが常だった。映画と同じ感覚だと思えば まあ納得できる。ところが、トラックがヘッドライト を点灯せずに夜間の道路を疾走するのは理解を超えて いた。危ないだろう、電気の節約にもならないし、と 中国の友人に質問すると、ライトは眩しくて危ないの だ、というトンチンカンな答えが返ってきた。最近、 この不思議な習慣は文化大革命の時期に始まったこと を知った。   ﹁武 闘﹂ に よ っ て 大 学 や 各 種 機 関 が 混 乱 に お ち い る と、 毛 沢 東 は﹁工 宣 隊﹂ ﹁軍 宣 隊﹂ を 送 り こ ん で 沈 静 化をはかった。表向きは﹁毛沢東思想宣伝隊﹂であっ たが、実質は軍人ないしは軍出身者を核とする新指導 部となった。政府機関、企業や学校も軍事管制下に入 れられたわけである。インドシナ半島の戦火拡大、珍 宝島におけるソ連軍との交戦という状況のなか、文革 は半臨戦の態勢のなかで進展した。一九六九年の秋に は戦争への備えが活発となり、大都市ではでは専門学 ―  31―

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所のうち・そと

人文第 63 号―念校 校︵大学・学院︶を部分的に地方に疎開させるに至っ た。   軍事的緊張が高まると、軍隊の流儀が社会に浸潤す る。灯火管制というほどではないが、消灯して走行す る軍用車が手本となって一般車両にも無灯火の習慣が 広まったらしい。当時、自動車学校などはなく、運転 の技術は入営して身につけるのだという。夜間無灯火 で運転できることは生死に関わる技量である。除隊し て運転手に転じても軍隊流にやるのは腕に覚えがある からだ。自転車を走らせていて無灯火のトラックに肝 を冷やしたわたくしは、あやうく毛沢東の遺産の犠牲 になるところだった。   一九八一年八月に北京大学へ移った。指導教授の陳 慶華先生にお願いして、第一歴史案館の利用許可を もらう手続きをした。数か月をへてようやく許可がお り た の で、 ﹁工 作 組﹂ へ 出 む い て 紹 介 状 を 受 け 取 る よ う 指 示 さ れ た。 ﹁工 作 組﹂? い っ た い 何 の 仕 事 を す る部署なのだろう。わからないまま出頭し、固い表情 を崩さない年配の幹部にじろりと睨まれると、いささ か緊張した。   最近になりようやくが解けた。北京大学と清華大 学には、文化大革命末期に江青や姚文元らの指示を受 けて著述をおこなう﹁梁效﹂という集団があった。一 九七八年に実権を握った鄧小平は、打倒された人員の 名誉回復とともに、造反派や﹁梁效﹂に関係した教員 の査問をおこなう要員を両大学に送りこんだ。この教 育部副部長・部長直属の部署が﹁工作組﹂であった。   馮友蘭先生とならんで﹁梁效﹂の顧問であった周一 良先生は、当時、講義や大学院生の指導をしておられ なかった。それは審査が三年をへてなお未了だからだ ということは当時から聞こえていた。資本主義の日本 から送りこまれてきた怪しい留学生たる岩井の案館 利 用 申 請 も、 ﹁工 作 組﹂ で 数 か 月 を か け て 審 査 さ れ て いたわけである。呼びだされたのは面接査問だという ことになる。まことに恐れ多いことであった。   こうした瑣事の文脈をたどることができるのは、近 年、文革とその前後のできごとについての文章が鬱勃 と し て 現 れ で く る か ら だ。 文 革 研 究 は い ま だ に﹁禁 区﹂であるし、文革博物館をつくるべきだという巴金 の主張に当局が耳を傾けることもない。当事者たちは、 もっとも若い中高生の紅衛兵でも、半世紀をへて一斉 に退休の期を迎えつつある。おぞましく、かつ熱い体 験を書きとどめ、燼餘の日記や資料を整理し、胸にた まった想いを吐きだしたいという欲求、しかも時間は たっぷりある。禁書になっても、香港・台湾がある。 国外におかれたサーバーはバーチャルな自由空間を提 ―  32―

参照

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