ヘレニズム期の研究以来,喜劇はしばしば三つまたは少なくとも二つの段階 に分けられてきた.アリストパネスの作品を読んだ人は誰でも,その後の時代 の喜劇との違い,つまりその時間や場所の統一感の無視,同じ共同体の市民(1) に対する直接の攻撃を含むやりたい放題の言動や粗野な言葉遣い,現実逃避的 なユートピアといったような空想的な筋書きに驚かされる.一方,新喜劇は意 味や,扱う範囲,最終目的などがもっと制限されており(2),中産市民の日常生 活に焦点を当て,個人攻撃や強烈な言葉遣いは避ける傾向にある.その筋書き はより現実的で,登場人物の動機は心理学的観点から説得力があるように感じ られる.そして,意図的に,アリストパネス的ユートピア(3)探索というよりは, エウリピデスの軽いロマンス劇を模倣している. 今回,新喜劇に登場する金銭ずくで働く「危険」な女たちの代表者である遊 女(ἑταίρα/meretrix)に絞って,焦点を当てることにした.本論文では,沢山 の変化がもたらされたにもかかわらず,喜劇というものは,根本的には保守的 なジャンルであり,その手法はアリストパネスの時代からメナンドロスの時代 まで全く変わっていないということを示す.それを示すために,本論文では, 一見全く共通性がないかのように思われる二つの社会的集団,つまり,古喜劇 で揶揄される政治家たちと新喜劇で揶揄される女性たち,を取り上げて比較す る. アリストパネスとメナンドロスをつなぐこれらの集団に注目する際,物事を 一般化すること,不正確化することによって弊害が起こりうる可能性をあらか じめお断りしておく.しかしまずはとにかく,この議論を極端なところまで進 めてみよう. 1.文学の伝統のもつ社会的機能に基づく内在的な統一性 本論文では,喜劇でも用いられ続けた過激な iambographi の影響に目を向 けるというよりは,格言や,アエソポスの寓話,神話的な先例,ジョークブッ クというような面白い逸話の集成といった別の分野に,ひとまずここでは大雑
危険な女たちとギリシア喜劇の一貫性
マルティン チエシュコ
把に着目したいと考える. これらの喜劇以外の文学世界はアリストパネスからメナンドロスに至るまで ほとんど変わっていない.なぜなら,それらは重要な社会的機能を十分に充足 していたからである.これらの物語は,法廷で審判人たちを楽しませるために よく用いられたが,明らかに実生活においても同様であったと考えられる. それらは腹を立てるか,侮辱された敵対者をなだめるためにも用いられたと 考えられる.よく練られた話は社会的機能を充足する.喜劇においても,それ らは喜劇的な筋書きを映し出す鏡となった.法廷において,この手法は頻繁に 用いられた:οἱ δὲ λέγουσιν μύθους ἡμν, οἱ δ’ Αἰσώπου τι γέλοιον. / οἱ δὲ σκώπτουσ’, ἵν’ ἐγὼ γελάσω καὶ τὸν θυμὸν καταθμαι(Ar. . 566-67). メナンドロスの の中で,デメアスは隣人に対し,自分の息子モスキ オンがその隣人の娘に手を出してしまったこと(とはいっても,息子はのちに その娘と結婚するため,新喜劇の世界では何の問題もない)を説明せねばなら ないのだが, その際に神話的先例を持ち出す. οὐκ ἀκήκοας λεγόντων, εἰπέ μοι, Νικήρατε, τν τραγωιδν ὡς γενόμενος χρυσὸς ὁ Ζεὺς ἐρρύη διὰ τέγους καθειργμένην τε παδ’ ἐμοίχευσέν ποτε ; Νι. ετα δὴ τί τοτο ; Δη. ἴσως δε πάντα προσδοκν ; σκόπει, το τέγους εἴ σοι μέρος τι ρε. Νι. τὸ πλεστον. ἀλλὰ τί τοτο πρὸς ἐκεν’ ἐστί; Δη. τότε μὲν γίνεθ’ ὁ Ζεὺς χρυσίον, τότε δ’ ὕδωρ. (Men. 589ff.) このような物語は,喜劇が人間の極端な行為を追求したうえで,それでも社 会的規範の世界へと戻ることを助けるのだ.つまり,もしも神であるゼウスで さえそのようなことをしでかしたとするならば,我々死すべき者たる人間たち が,いかにして衝動に抗うことができるのか? ということを提示するのであ る.このような先例は解決法を簡潔に示し,相手方をなだめ,喜劇に対して, 社会的に非難されるべき行為の描写に白紙委任状を与えるという意味があった と考えられる(4). アリストパネスの においては,「弱論」(ἥττων λόγος)が若者に対して, 同様のことを言っている.つまり,なにか悪いことをして,例えば間男として 捕まった場合にも,ただ神話的先例を持ち出してゼウスを責めればよいのだ,
と(Ar. . 1071-82).つまり,このような物語は,情熱というものの本性を 問うものでもある.神でさえ屈服する情熱に,人間は神以上に抗うことができ るのだろうか? アリストパネスはこのような物語を極端に皮肉な方向へ向けているのだが, 彼とメナンドロスの違いは,単にその量の違いであって,質の違いではない. もし私たちにアエソポスの個々の寓話の具体的な成立年代が分かれば,もう少 し確固としたことが言えるし,劇作家とアエソポスの比較にもっと立ち入るこ とができるが,実際にはそうではない.豚売りの債務者(Halm 11, Perry 5)や, 2 匹の犬―一方は猟犬で,もう一方は愛玩犬なのだが―によって主人にふ っかけられた喧嘩(Halm 217, Perry 92)は,アリストパネスの喜劇に出てくる 状況を想起させる.そして,もちろんメナンドロスの 632-34 はアエ ソポスの寓話に出てくる,庭師と,井戸に落ちたところを飼い主が助けようと した際にその主人の意図を取り違えて嚙み付く犬の話(Halm 192, Perry 120) をほのめかしているように感じられる:Σιμ. ϕίλτατε / κατάβα. Σικ. Πόσειδον, ἵνα τὸ το λόγου πάθω, / ἐν τι ϕρέατι κυνὶ μάχωμαι ; μηδαμς(Men. . 632-34).ここでは,この挿話が,会話の興味深い背景を作り出している. この普遍的な材料としての民話は,アリストパネスにとって有用だったのと 同様,メナンドロスにとっても,劇中で状況を簡潔にまとめるために有用だっ ただろう.そして,それはしばしば芝居の筋の方向性にも大きな影響を与えた と思われる.λύκος ἔχανεν(狼は無駄に口を開ける)という表現は格言となり, 頻繁に現れる.
プラウトゥスの . 194: (Euclio) inhiat aurum ut devoret「彼は飲み込も うとして黄金を見つめた」や, . 605: nam illic homo tuam hereditatem inhiat, quasi esuriens lupus「というのは,あの男は,燃え立つ狼のように,彼 の遺産を見つめた」に見られるように,メナンドロスやアリストパネスの作品 からも同様の例を指摘することができる(5). 喜劇で用いられる言葉遣いは保守的なので,少なくともアリストパネスやメ ナンドロスのような全く異なる作品を一元化する,このジャンルの一側面を示 すことができていれば嬉しい. 2.危険な政治家たちと同じく危険な女たち さらに先へ進み,このような保守的な原動力が,登場人物たちの描写におい ても効力をもったことを示したいと考える.そのために,表面上は全く似ても
似つかない二つの集団を比較したい.つまりそれは,例えば 動政治家クレオ ンのような,アリストパネスによって攻撃される政治家たちと,新喜劇に登場 する遊女や売春斡旋者(πορνοβοσκός/leno/lena)たちである. もし市民というものが共同体の犠牲式に参加することによって定義されるな らば,女性は,ヘシオドスによって述べられる神話的表現によれば,犠牲獣を 焼くための火にまさに対立するものとして説明される.都市における火を燃や すあらゆる犠牲式だけでなく,およそ女性の役割は,都市における同胞市民た ちとの信心深い暮らしとは対極にあるものとして繰り返し理解されてきた.つ まり,女性とはゼウスによってもたらされた罰であり,プロメテウスとの知恵 比べの最終判決であり,プロメテウスの旨そうな脂に包まれた大 骨の捧げも のに対する,邪悪な内面を巧みに覆い隠したゼウスのユーモアに富んだ「ひね り」だったのである. ただ大きなテーマを簡潔にするために,(誰もが政治家になる可能性を持っ ていた)男性と(テスモポリア祭の時でさえも犠牲を捧げるナイフを振るうこと ができなかった)女性との相違は,社会的行動の全ての範疇において浸透して いたことを具体的な言葉で示すために,女性の役割に対するこのヘシオドスの 鮮明な神話的解釈を用いる.そしてバッコス祭の狂乱の中で野生獣を手で引き 裂いて生肉を食べる ὠμοϕαγία(生食)のような行為を通して,女性たちは,肉 は(男性が)焼くものだという文明社会のタブーを踏み越えたのだ.この女性の marginalization は,女性たちはより感情的で,ともすれば性欲(6)や食欲に危 険なまでに支配されやすいため,制御されなければならないという一般的な信 念と密接に関係している. そしてここで,喜劇にとって興味深い,これら二つの異なる集団の間を取り 持つ融合が始まる.つまり,貪欲な 動政治家たちは女性化されたものとして, すなわち彼らの富に対する過度の欲望を全く制御できていないものとして描か れるのだ.個人的利益のために集会で喋り過ぎることは彼らを女々しいものだ と感じさせた,とも言えるかもしれない.まず,旺盛な食欲に対する批判がど のように両者に向けられたかを見てみることにしよう.制御を失うことは教養 のない人間の典型的な特徴だ.Ar. . において,ペルシア王の元から戻った 使者たちは次のように述べている: Οἱ βάρβαροι γὰρ ἄνδρας ἡγονται μόνους τοὺς πλεστα δυναμένους ϕαγεν τε καὶ πιεν. ( . 77-78)
彼ら自身はこのような,全ギリシアの礼儀作法に反する野蛮な「礼を失した行 為」にさらされた,つまり,彼らはガラスと黄金でできた杯から混じりけのな い生のワインを無理矢理飲まされた,と. Ξενιζόμενοι δὲ πρὸς βίαν ἐπίνομεν ἐξ ὑαλίνων ἐκπωμάτων καὶ χρυσίδων ἄκρατον ονον ἡδύν. ( . 73-75) クレオンはプリュタネイオンでペリクレスよりもよいものを食べていた: κεν τ κοιλίαι εἰσδραμὼν εἰς τὸ πρυτανεον, ετα πάλιν ἐκθε πλέαι. ΟΙ. Ἀ Νὴ Δί’, ἐξάγων γε τἀπόρρηθ’, ἅμ’ ἄρτον καὶ κρέας καὶ τέμαχος, ο Περικλέης οὐκ ἠξιώθη πώποτε. ( . 280-83) 喜劇の登場人物にとっては,クレオンが手に入れたお金を「しぶしぶ支払う」 (文字通りの意味は「飲み込んだものを吐きだす」)のを見るよりも嬉しいこと はなかった:εὐϕράνθην...τος πέντε ταλάντοις ος Κλέων ἐξήμεσεν(Ar. . 5-6). 小銭を財布ではなく口に入れるという習慣,そして途方もない額のお金を (例えば魚などのような)高級な食事に浪費する習慣は,おそらく,クレオンの ような不誠実な政治家たちが富を飲み込む行為を,観客が眼前に思い浮かべる 手助けをしたことだろう.このような欲望は,自分を卑しめる行為であるため, 恥ずべきものだった.宴の場における典型的な売春とは性的快楽を提供するこ とだったが,次に挙げるクレオンに対する攻撃は,直接的に彼のこのような恥 知らずの政治的行為を性的行為になぞらえて非難し,それをプリュタネイオン, つまりシュンポシオンと同様の公共の場と結び付けた.ここで食事をすること の換喩(metonymy)はその最たる例である.クレオンはまさに宴の場で,(食 べ物を手に入れるために)快楽を提供する,金で雇われた売春婦とみなされた のだ:ἐν πρυτανείωι λαικάσεις( . 167). このような宴は,新喜劇によく出てくる,宴とそこでの女性の旺盛な食欲の 描写と似ている.例えば,女性たちは船 1 隻分の食事を貪り食うと表現され る:
illae autem senem
cupiunt extrudere incenatum ex aedibus, ut ipsae solae ventres distendant suos. novi ego illas ambestrices: corbitam(7) cibi comesse possunt. (Pl. . 775ff.)
そこには女性に対する不信感が透けて見えるように感じられる.真に恋する 恋人は,自分の恋愛に満足しているため,空腹感を感じないはずだ(qui amat, tamen hercle, si esurit, nullum esurit(Pl. . 795)).しかし女たちは,実際に は愛していないため,恋愛関係から生まれる「副産物」のみを気にするのだ. クレオンは獲物を狙う鵜 λάρος( . 591, . 956)に えられ,公金を横領 したシモンは狼と結び付けられている(8).クレオンは,執務審査候補者となる 前から公金に手をつけ(9),執務審査候補者のうち誰がまだ青く,誰がすでに熟 しているかを吟味し(10),民衆は食べ物だと考えている.無邪気な人を見つけ たらその瞬間つかみかかり攻撃を加える( . 264).こういうわけで,クレオ ンは,新喜劇に登場する悪賢い遊女と,あるいはもっとあくどい売春斡旋業者 と,同等の存在とみなせるだろう.政治職も売春職も共同体にかかわるもので ある:verum enim meretrix fortunati est oppidi simillima: non potest suam rem obtinere sola sine multis viris(Pl. . 80f.).また, 動政治家と同様, この類の女たちには不誠実やなりすましも数多く見られる.売春婦は恋をし ているふりをするだけ:LENA. O mea Selenium, / adsimulare amare oportet.
nam si ames, extempulo / melius illi multo, quém ames, consulas quam rei
tuae( 95ff.).間接的証拠しかないが,同じく欺瞞的な売春斡旋業者がメ ナンドロスの作品にも登場したようである(11).この種の描写は,新喜劇を古 喜劇に近づける役割を果たしていると思われる.本質的に両者は同じ問いを投 げかけている.すなわち,「自己の利益になど目もくれずに,誠実な行動をと っているのは誰か,本当に恋をしているのは誰か,身を削ってポリスに奉仕し ているのは誰か,我々はどうしたら知ることができるのだろうか」という問い である. これまで見てきたような人間の動機・誠実さ・他者の振舞の評価方法に関す る不確かさは,ギリシア劇における中心概念の一つだと思われる.「しるし」 (σημεα)の探求があちこちに出てくるのも,それで説明がつくだろう.「しる し」は,人間の心の底にあるものを目に見えるかたちにした証拠といえる.あ
る種の信じがたい方法で,劇(悲劇,喜劇は問わない)の中には,人間心理解明 に役立つそのような「しるし」を開示するのに成功し,犠牲獣の肝臓を一目で 読み取るように「しるし」の意味を読み取ろうとするものがある.Equites の パプラゴニア人奴隷は,自分用にとっておいた食べ物の詰まった袋を,主人で あるデモスに気付かれぬよう隠す.メナンドロスの のニケラトスは, 自分の娘が授乳しているのを目にしたとき,問題となっている赤ん坊の本当の 母親が誰であるのかを知ることになる.どんなに不自然なものであれ,目に見 える「しるし」というものは,人間心理の不可知性(impenetrability)の問題を 解明する目的で劇が提示する「決定物」(closure)なのでもある. 政治家こそが真の権力を持っているが,アリストパネスは,彼らがもたらす 危険を誇張して提示することによって,自分がどれだけポリスに貢献してきた のかを述べ立てる: οὐδ’, ὅτε πρτόν γ’ ρξε διδάσκειν, ἀνθρώποις ϕήσ’ ἐπιθέσθαι, ἀλλ’ ῾Ηρακλέους ὀργήν τιν’ ἔχων τοσι μεγίστοις ἐπιχειρεν, θρασέως ξυστὰς εὐθὺς ἀπ’ ἀρχς αὐτ τ καρχαρόδοντι, ο δεινόταται μὲν ἀπ’ ὀϕθαλμν Κύννης ἀκτνες ἔλαμπον, ἑκατὸν δὲ κύκλωι κεϕαλαὶ κολάκων οἰμωξομένων ἐλιχμντο περὶ τὴν κεϕαλήν, ϕωνὴν δ’ εχεν χαράδρας ὄλεθρον τετοκυίας, ϕώκης δ’ ὀσμήν, Λαμίας δ’ ὄρχεις ἀπλύτους, πρωκτὸν δὲ καμήλου. τοιοτον ἰδὼν τέρας οὔ ϕησιν δείσας καταδωροδοκσαι, ἀλλ’ ὑπὲρ ὑμν ἔτι καὶ νυνὶ πολεμε. ( . 1029-37) 同様に,女も無敵の存在である: Ἀλλ’ οὐ γάρ ἐστι τν ἀναισχύντων ϕύσει γυναικν οὐδὲν κάκιον εἰς ἅπαντα πλὴν ἄρ’ εἰ γυνακες. ( . 531-32) Οὐδέν ἐστι θηρίον γυναικὸς ἀμαχώτερον, οὐδὲ πρ, οὐδ’ δ’ ἀναιδὴς οὐδεμία πόρδαλις. ( . 1014-45) 政治家(のちには遊女もだが)を怪物になぞらえることは一種の遊びとなり, 劇作家は各々ライバルたちよりも一層誇張されたイメージを作り出そうと奮闘
した.クレオンは「民衆の番犬」を自称したため( . 894-994),アリスト パネスがそのイメージをもっと強烈なものにするのは容易いことだった.彼の ことをケルベロスと呼び( . 1030, 313),彼の死後もずっとそのイメージ を用い続けた.この劇作家が で提示しているものは,アナクシラス断 片 22 K-A との見事な対応関係を見せている.この断片では,遊女たちがあら ゆる種類の神話上の怪物に比せられるが,彼女たちはそのどれよりもはるかに 悪しきものとされているのだ.クレオンも(12)遊女も強欲さでは一番の怪物カ リュブディスに喩えられる(13).この渦巻怪物は,あらゆるものを吸い上げる 強欲な遊女としてのちに擬人化される.深い海は暗い腹に えられ(Pl. fr. 1. 3-4),ちょうどあらゆる河が海に流れ込むように,あらゆる葡萄酒は 酔っぱらった女の胃袋に流れ込む.政治家も女性もともに田舎住まいの無垢な 人間(ἄγροικοι(14))を食い物にし,「説得」の女神ペイトの力を利用する.政治 も恋も実際それほど変わるところはない: τοὺς τν ἀγροίκων οδα χαίροντας σϕόδρα, ἐάν τις αὐτοὺς εὐλογ καὶ τὴν πόλιν ἀνὴρ ἀλαζὼν καὶ δίκαια κἄδικα κἀνταθα λανθάνουσ’ ἀπεμπολώμενοι. ( . 371f.) いまや有能な政治家となった Ἀγύρριος は,女に喩えられ,借りてきた髭を 付けて男になったふりをしているだけだと攻撃される.男装という手段をとる 邪な,そしておそらくは自制のきかない「女たち」によって,アテーナイは支 配されるという危機にさらされることとなる: Ἀγύρριος γον τὸν Προνόμου πώγων’ ἔχων λέληθε καίτοι πρότερον ν οτος γυνή. νυνὶ δ’, ὁρς, πράττει τὰ μέγιστ’ ἐν τ πόλει. ( . 102-104) アテーナイとスパルタの大戦争が始まった原因は,それぞれの国の若者たち の熱情が狂暴化して相手国の売女を誘拐したことによる,と矮小化される: πόρνην δὲ Σιμαίθαν ἰόντες Μεγαράδε νεανίαι ’κκλέπτουσι μεθυσοκότταβοι
κθ’ οἱ Μεγαρς ὀδύναις πεϕυσιγγωμένοι ἀντεξέκλεψαν Ἀσπασίας πόρνα δύο κἀντεθεν ἀρχὴ το πολέμου κατερράγη Ελλησι πσιν ἐκ τριν λαικαστριν. ( 524-29) 遊女の育成にあたっていたとも された,ミレートス出身のアスパシアが, 内縁の妻としてペリクレスと生活したという事実が,政治と遊女の結び付きを 示す証拠となっただろう.この事実は,先に述べたことを念頭に置いて理解さ れるべきである.公の場に姿を現す女性というものは,共同体の一員とみなさ れ,それは,悪い意味で「政治的」とみなされるのと同じことをあらわしてい る.彼女たちは政治に影響を及ぼす破壊的存在である.熱情は悪しき政治の原 因にもなる. 政治それ自体,恋のようなものである.恋と同様,政治にも重大な物質的, 商業的コノテーションがつきまとう.つまり,恋愛関係に携わる両者に非があ るのだ.市民の側も不適切な選択によって,政治家を選んでしまうということ なのだ.例えば, . においては,「稚児」(ἐρώμενος)のデモスが不適当な「念 者」(ἐραστής)を選び取ってしまうことが問題となる: ΠΑ. Ὁτιὴ ϕιλ σ’, Δμ’, ἐραστής τ’ εἰμὶ σός. ΔΗ. Σὺ δ’ ε τίς ἐτεόν; ΑΛ. Ἀντεραστὴς τουτονί, ἐρν πάλαι σου βουλόμενός τέ σ’ ε ποεν, ἄλλοι τε πολλοὶ καὶ καλοί τε κἀγαθοί. Ἀλλ’ οὐχ οοί τ’ ἐσμὲν διὰ τουτονί. Σὺ γὰρ ὅμοιος ε τος παισὶ τος ἐρωμένοις τοὺς μὲν καλούς τε κἀγαθοὺς οὐ προσδέχει, σαυτὸν δὲ λυχνοπώλαισι καὶ νευρορράϕοις καὶ σκυτοτόμοις καὶ βυρσοπώλαισιν δίδως. ( . 732ff.) 基本的にデモスは,遊女同様,最も高額な金額を支払う客に身体を売る.ア リストパネスにとって政治とは,相互利益追求の行為なのである. 動政治家 も民衆もともに相手なしではいられない存在であり,相互依存状態と考えてよ く,互いに身体を売りあっているとすら言えよう.
では答えはどこに見出すべきか.私が思うに,ギリシア人は良い生まれこそ がポリスの問題に解答を与えると信じていたか,もしくは,卑しい生まれこそ が不適任で低俗な政治家を攻撃する便利な武器となると考えていたのである. 同様のことが新喜劇における遊女(もしくは遊女にされそうになっているとこ ろで自由市民であることが発覚する子女)の事情にもあてはまる.伝統的に喜 劇では,遊女として育てられたものの,最終的に自由民の生まれであることが 判明した女性は,見事に貞操を守っており,性交渉を経験することがあったと しても,それは専ら強姦によるものである.それに対し非市民の女性は性交渉 のパートナーの男性を多く有している.ここでも,良い生まれこそが,有徳, 貞操,自制を保証するものとなっているかのようである. このまま議論を続けることはできるが,一つ述べておきたいのは,政治家と 金目的の女とのあいだに類似性が見られることを指摘したからといって,私は, 「政治家の強欲さから遊女の強欲さへ」という直線的な発展があったと主張し たいわけではない,ということである.実際,すでにアルカイオスが遊女に お金をつぎ込むことに警告を加えている.遊女にものを与えるのは,灰色の海 の波間にそれを捨てるのと同様である,と.πό.ρ.ναι δ’ ὄ κέ τις δίδ.[ωι /ἴ]σα κἀ[ς] πολίας κμ’ ἄλ[ο]ς ἐσ.β.[ά]λην(Alcaeus fr. 117b. 26-27). アリストパネスの喜劇の中には,おそらく狡猾な売春斡旋業者であった「犬 狐」ピロストラトス ( . 1067-69, . 957)や,男からさんざんお金を吸い上 げて捨て去るようなあくどい遊女にも触れてある( . 346).政治家も遊 女も金持ちをターゲットにする(15).民主政が樹立する前の時代の遊女の名前 は,アルコンのように年代を示すものとして用いられた.例えば「私たちはカ リクセネの時代に生きているわけではない」(οὐ γὰρ τἀπὶ Χαριξένης τάδ’ ἐστίν ( . 943))というように. 政治家と女(この両者は常に制御を必要とする存在であるが)にまつわる不安 を特徴づける根本的類似性についてはまだまだ多くの例を挙げることができる が,最後に少し脱線気味に指摘したいのは,メナンドロスは作品中に,最も無 私無欲な遊女を描くときでさえ,敢えて伝統的に理解されてきた危険な女性像 を織り込むことで,不思議な効果を生み出そうとしたということである.かの ウルリッヒ・フォン・ヴィラモーヴィッツ = メーレンドルフがとりわけて称賛 したという,ハブロトノンに目を向けてみよう.この人物ほど他人を思いやる 遊女は他におらず,性格の良さは完璧と言えよう.彼女は,カリシオスと,彼 が乱暴を働いた娘とが円満に結ばれるよう尽力する.その娘を見つけ出すため, . .
彼女はまず初めに,乱暴を働いたのがカリシオスであることを確定させる必要 があった.そうするにあたり彼女は,自分が乱暴の犠牲となった娘であるふり をする.彼女の作戦は . 511-35 に述べられている. 彼女の武器となるのは,なりすまし,落ち着いた行動,カリシオスの反応の 予想,決まり文句的返答,曖昧さ,である.明らかにメナンドロスは善良な遊 女の一側面を描こうとしているが,それでもやはり彼女は,危険なほど頭の回 転が速い女性として提示されているのだ.一言で言ってしまえば,メナンドロ スは意図的にイメージの混合を行っている.観客である男性が彼女の能力を恐 れたことは間違いない.私は,普通ではないこのような性質の混ぜ合わせこそ が,メナンドロスの一大特徴だと思っている.アリストパネスと比較して過激 さは抑えられているものの,他方で非常に洗練されていると言える.この効果 を適切に捉まえるためには,対象に奥行きを加え,同時に別々の要素に焦点を 当てる二つの視点を結合する 3D メガネが必要となってくる.片側には,伝統 的な狡猾な遊女像があり,もう片側には,新しい他人思いの遊女像がある.し かし後者は,善なるものを目指して,自分の武器である頭の良さを利用するこ とも「できる」のだ.メナンドロス喜劇がアリストパネス喜劇の衰退物などで は決してないということを少なくとも部分的に示せたのならば,それで満足と したいと考える.日常生活劇においては政治に焦点を当てることが不可能であ る以上,メナンドロスは,アリストパネスのように男性を舞台の中心に置くこ とはできなかった.彼は,非政治的な人物,すなわち,悩みを抱えながら恋愛 をする青年のみを舞台にのせることができたのである.政治状況こそ変わって しまったものの,この劇作家は,時代的に先行するギリシア喜劇とのみしばし ば誤って結び付けられる創作技法の多くを,見事に活用しているのである. 注 ( 1 ) ὑποθέσεις μὲν γὰρ τς παλαις κωμωιδίας σαν αται τὸ στρατηγος ἐπιτιμν καὶ δικαστας οὐκ ὀρθς δικάζουσι καὶ χρήματα συλλέγουσιν ἐξ ἀδικίας τισὶ καὶ μοχθηρὸν ἐπανηιρημένοις βίον(Platonius, Fr. com. gr. 49ff. (Koster)). ( 2 ) ἐν δὲ τι μέσηι καὶ νέαι κωμωιδίαι ἐπίτηδες τὰ προσωπεα πρὸς τὸ γελοιότερον ἐδημιούργησαν, δεδοικότες τοὺς Μακεδόνας καὶ τοὺς ἐπηρτημένους ἐξ ἐκείνων ϕόβους, ἵνα μηδὲ ἐκ τύχης τινὸς ὁμοιότης προσώπου συμπέσηι τινὶ Μακεδόνων ἄρχοντι καὶ δόξας ὁ ποιητὴς ἐκ προαιρέσεως κωμωιδεν δίκας ὑπόσχηι (Platonius 65ff.). ( 3 ) πρὸς γυνακα καὶ πατρὶ πρὸς υἱὸν καὶ θεράποντι πρὸς δεσπότην, ἢ τὰ κατὰ
τὰς περιπετείας, β ιασμοὺς παρθένων, ὑποβολὰς παιδίων, ἀναγνωρισμοὺς διά τε δακτυλίων καὶ διὰ δεραίων, τατα γάρ ἐστι δήπου τὰ συνέχοντα τὴν νεωτέραν κωμωιδίαν, ἃ πρὸς ἄκρον ἤγαγεν Εὐριπίδης(Satyrus, Vita Euripidis P. Oxy 1176, fr. 39 col. vii). ( 4 ) これらの物語は人間の過ちの原因とすらなりうる.例えば,Ter. . にお いて,若者はゼウスの愛欲の絵を見たあとで少女を強姦する. ( 5 ) τὸ γὰρ λεγόμενον τας ἀληθείαις “λύκος / χανὼν ἄπεισι διὰ κενς”(Aspis 372-73, cf. Epitr. 1002 Arnott), アリストパネス(「スパルタ人たちは飢えた狼と同様 信頼できない」):οσι πιστὸν οὐδὲν εἰ μή περ λύκωι κεχηνότι(Lys. 630). cf. e.g. Euphro fr. 1. 30-31, Eubulus 15. 11. ( 6 ) Πσα γυνὴ ϕιλέει πλέον ἀνέρος, αἰδομένη δὲ κεύθει κέντρον ἔρωτος ἐρωμανέουσα καὶ αὐτή( 10. 120(Nonnus, Dionys. xlii. 209)).
( 7 ) corbitae dicuntur naves onerariae(Paul. ex . p. 37, 7 Müll).
( 8 ) Στ. τί γὰρ ἢν ἅρπαγα τν δημοσίων κατίδωσι Σίμωνα, τί δρσιν / Σω.
ἀποϕαίνουσαι τὴν ϕύσιν αὐτο λύκοι ἐξαίϕνης ἐγένοντο( . 351-52). ( 9 ) τὰ κοινὰ πρὶν λαχεν κατεσθίεις( . 258).
(10) τοὺς ὑπευθύνους σκοπν, / ὅστις αὐτν ὠμός ἐστιν ἢ πέπων ἢ μὴ πέπων
( . 259-60).
(11) dum fallax servus, durus pater, inproba lena / vivent et meretrix blanda,
Menandros erit(Ov. 1. 15. 17-18).
(12) Παε παε τὸν πανοργον καὶ ταραξιππόστρατον / καὶ τελώνην καὶ ϕάραγγα
καὶ Χάρυβδιν ἁρπαγς, / καὶ πανοργον καὶ πανοργον πολλάκις γὰρ αὔτ’ ἐρ( .
247-49).
(13) LYD. Meretricem indigne deperit. M. Non tu taces? / LYD. Atque acerrume
aestuosam: absorbet ubi quemque attigit(Pl. . 470).
(14) ἐπώλεις δέρμα μοχθηρο βοὸς / τος ἀγροίκοισιν πανούργως(Ar. . 316-17). (15) EY. Καλλίας ἄρ’ οτος οὕρνις ἐστίν. ῾Ως πτερορρυε. / ΠΙ. ῞Ατε γὰρ ὢν γενναος ὑπό 〈τε〉 συκοϕαντν τίλλεται, / αἵ τε θήλειαι πρὸς ἐκτίλλουσιν αὐτο τὰ πτερά( . 284-86). (京都大学)