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NATOの東方拡大―第一次拡大から第二次拡大へ

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NATOの東方拡大

―第一次拡大から第二次拡大へ―

金 子  讓 はじめに 米ソ首脳が冷戦の終結を謳い上げた1989年末の米ソ・マルタ・サミットと相前後し て、北大西洋条約機構(North Atlantic Treaty Organization: NATO)は自らの存立意義 を、従前の「軍事同盟の枠組み(framework for a military alliance)」から「国際同盟の ための政治枠組み(political framework for an international alliance)」へと変更した1。こ うして90年7月にロンドンで開催されたNATO首脳会議は、「我々は安全と安定が軍事の 次元のみに依存するものではないことを 改めて確認するとともに、北大西洋条約第 2条 に規定される 政治的要素 の強化に努める所存である2」と宣言し、既にソ連(後にロシ ア)を「敵」とは規定し得ない新たな環境への適応を開始した。それは 、本質的に不可 測な将来に備えるために、集団防衛(collective self-defence)を規定する軍事同盟の根幹 部分(bottom line)を確保しながらも、この部分を表面化させることなく、統合軍事機 構の改編や戦略の修正といった上部構造(superstructure)の変革を通じ、ヨーロッパ全 体の安全保障機構への発展を期す試みへと繋がっていったのである3 このようにNATOは新たな道の模索を開始したのであるが 、東方への拡大問題は、そ の出発点からNATOの目指す将来像との矛盾を孕んでいた。NATOがその姿を「政治化」 の中に、端的には、ロシアとの協調関係の中に探り始めたのと 対照的に、過酷なソ連支 配の桎梏から脱出した旧東欧諸国が、その経済的苦境を克服する方策としての 欧州共同 体(European Community: EC)への加盟を希求する一方、将来の大国ロシアの復活を恐 れ、「軍事同盟」としてのNATOへの加盟を期待し始めたからである。

冷戦の余韻が残るこの時期、NATOは旧東欧地域に生じた力の空白を埋める必要こそ 痛感していたものの 、東方への拡大をロシア政府が新たな「封じ込め」と見做して反発

1 この NATOの変質については、North Atlantic Treaty Organization, Facts and Figures (NATO

mation Service, 1984), p. 22 と、North Atlantic Treaty Organization, Facts and Figures (NATO Infor-mation Service, 1989), p. 13 を対照。

2 Declaration on a Transformed North Atlantic Alliance issued by the Heads of State and Government

Participating in the Meeting of the North Atlantic Council (The London Declaration), 6 July 1990.

3 NATO の構成要素を、北大西洋条約第3条、第4条、及び、第5条といった、軍事同盟としての機

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することや、あるいは、これがロシアの民族主義者 に言質を与え、無為な対立の火種に 繋がることを 警戒していた。加えて、この東方拡大が、新規加盟諸国の抱える民族問題 や国境問題 をNATO内部に持ち込む恐れの大きいことや、既存の同盟諸国によって冷戦 時代に築き上げられた凝集力 が損なわれることを理由に、さらには、防衛範囲 が拡大す ることを懸念し、時期尚早と見做していた。それ故、東方への拡大がNATOのアジェン ダとして採り上げられることもなかったのである。 Ⅰ NATOの第一次東方拡大と問題点 ところが、93年8月下旬、ワルシャワを訪問したエリツィン(Bolis Yeltsin)大統領がワ レサ(Lech Walesa)大統領との会談において、ポーランドの期待するNATO加盟に「暗黙 の了解」を与えたことが報道されると、この外的条件に触発される形で拡大論議が一挙に 政策課題へと高まったのである。その結果、10月に急遽トラヴェミュンデ(Travemuende) で開催された非公式国防相会議において、NATOは、将来の拡大に含みを持たせながらも、 当面の課題を旧東側諸国との緩い軍事協力に留める枠組みとして設ける「平和のためのパー トナーシップ(Partnership for Peace: PfP)」に据えるとともに、このPfPにロシアが積極的 に参加するよう期待を表明することで、拡大問題を先送りすることに同意したのである。

こうして94年1月に北大西洋理事会(North Atlantic Council: NAC)がPfPを採択すると、

NATO拡大を巡る論議は一応の収拾が図られたように思われた4。だが、これで旧東欧諸国の 不安が解消したわけではなかった。奇しくも前年10月にはロシアの政情不安が、エリツィン 大統領によるロシア最高会議ビルへの武力鎮圧行動となって顕在化していた。こうした大統 領の姿勢が再びロシアを強圧的な対外政策へと駆り立てる恐れがあった。あるいは、強いロ シアの復活を掲げて擡頭し始めた反動勢力がエリツィン政権の動揺を誘う危険もあった。旧 東側諸国との政治・外交面での協力の強化を目的に91年12月にNATOが創設した北大西洋協 力理事会(North Atlantic Cooperation Council: NACC)もこのPfPも、彼らの期待には合致しな かった。旧東欧諸国の不安はNATO加盟以外に拭い去る方法がないように思われた。

他方、これと時期を符合して、米国政府内部 でのNATO拡大の動きが加速してゆく。 には、戦力配備や戦略といった、戦略環境の変化に応じて変更を要する上部構造(superstructure)とに分類 する、Michael Howard, “The Remaking of Europe,” Survival, vol.32, no.2 (March/April 1990), p.104. を参照。

4 NATO が採択したPfP については、Partnership for Peace: Invitation Documents issued by the

Heads of State and Government Participating in the Meeting of the North Atlantic Council (Brus-sels, 10 January 1994) とPartnership for Peace Framework Document issued by the Heads of State and Government Participating in the Meeting of the North Atlantic Council (Brussels, 10 January 1994) を 参照。この文書には将来のNATO 拡大に含みを残しながらも、緊急かつ現実的な視点から、当面の具体 的な目標をNATO自身が新たな活動領域として期待する平和活動面での協力に据える一方、これに参加

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93年末にはカーター(Jimmy Carter)政権時代の国家安全保障担当大統領補佐官を務め たブレジンスキー (Zbigniew Brzezinski)の後ろ盾を得たレイク(Anthony Lake)補佐官 が、NATOの拡大をクリントン(Bill Clinton)大統領に進言していた。また、年が明ける と、ロシアとの関係を重視する立場からNATOの拡大に反対する姿勢を崩さなかった国務 省のタルボット(Strobe Talbott)旧ソ連・新独立国家(NIS)担当特別顧問も、国務副長 官への昇進を機に態度を軟化させてゆく。こうして閣内の意思統一が図られると、94年1 月、チェコを訪問したクリントン大統領はNATO拡大を「いつ、どのようにして実施する か(when & how)」の問題と発言し、この争点を巡る米国政府のトーン変化を伝えたので ある。そしてさらに、94年7月にはポーランドを訪問した同大統領が、同国をNATOへの 新規加盟の第一候補であると表明するとともに、これに反対するロシアには拒否権限がな いことを言明した。この時点において、英仏はなお拡大を急ぐ米国の姿勢に難色を示した ものの、11月には隣接地域の安定を優先したドイツのコール(Helmut Kohl)首相が、公 式にNATO拡大を支持した。このようにNATO拡大論議は、米国政府の意向を強く反映さ せながら、拡大そのものの是非を問う初期段階を脱し、「どの国をいつ加盟させるか(who & when)」といった具体的な段階へと移行していったのである5 NATOによる本格的なボスニア空爆によってユーゴ紛争に解決の兆しが見え始めた95年 9月下旬、NATOは拡大への反対姿勢を崩さないロシアを半ば無視する形で自らの拡大方 針を伝える文書をPfP参加諸国に送付した。そして、この文書には、新たな対立による ヨーロッパの分断を招くことなく 、政治・経済分野に亘る広範な安全保障の枠組みを欧 州・大西洋地域(Euro-Atlantic Area)に構築する趣旨が記されるとともに、NATO加盟に 伴う権限と義務が銘記され、こうした条件を満たすべく、北大西洋条約第10条に則して新 規加盟を求める諸国の努力を促したのである6。これに加え、12月の北大西洋理事会にお いて、NATOはロシアとの新たな関係を規定する協調的安全保障(cooperative security) に初めて言及した7。けれども、一方の安全の確保が他方の安全を損なわない安全保障体 制を目指すことを謳ったこのNATOの言明を、ロシアが受け入れたわけではなかった。 する諸国の領土保全に危機的な状況が発生した場合には、NATOとしての軍事行動の可能性に含みを残 しながら、状況に応じて個別に協議する旨、表明するに留め、課題の先送りを図ることが記されていた。 5 NATOの東方拡大が、同盟諸国間の合意の形成によってではなく、米国の国内政治の論理に支配される 形で推移したことを論ずる、金子讓「NATO拡大を巡る政治学」『新防衛論集』第24 巻第3号(1996年12 月)、83-98頁、及び、金子讓「新生NATOの行方−−東方への拡大からミッションの拡大へ」『防衛研究 所紀要』第2巻第1号(1999年6月)、52-71頁、を参照。なお、後者は、 “The Birth of a New NATO: A Triumphant Alliance in Jeopardy,” NIDS Security Reports, no. 1 (March 2000),pp. 80-100. として転載。

6 Fact Sheet on NATO Enlargement とともに、拡大の目的や原則を謳った第1章など合計6章で構

成されるStudy on NATO Enlargement issued by the Heads of State and Government Participating in the Meeting of the North Atlantic Council が送られた。

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その後、96年は米ロ双方が大統領選挙を控えていたためにNATOとロシアの溝を埋める 顕著な動きは見られなかった。また、再選を果たしたクリントンとエリツィンが翌97年3 月に揃って臨んだ首脳会議においても拡大を巡るロシア側の理解を得ることはできなかっ た。だが、ロシアには既に廻り始めた拡大の歯車を押し止める力が存在しなかった。こう して5月下旬、両者は協力協定(Founding Act on Mutual Relations, Cooperation and Security between NATO and the Russian Federation )を結び、常設合同理事会(Permanent Joint

Council: PJC)の設置に合意した8。拡大を危惧するロシアの懸念を軽減するためのこの措 置は、NATOがその合意事項を実行に移す前にロシアとの協議に臨むといった譲歩と引き 換えに、ロシアは拡大を黙認するといった 思惑が込められていた。 97年7月、マドリッドで開催されたNATO首脳会議は、オープン・ドア政策(申請を行い、 条件を満たした国から順に加盟を承認する方針)を掲げるとともに、第一次拡大の対象をポー ランドとチェコとハンガリーに限定することを主張する米国案に最終的に同意した。将来のロ シアの軍事的反発や自らのコミットメントの拡大を危惧する故に、これを今回限りの措置とし てルーマニアやスロベニアなどの加盟を要求したヨーロッパ側の思惑は退けられた9。同時に、 この会議は、選考に漏れたルーマニアとスロベニア、さらには、バルト諸国を次回の拡大にお ける最有力候補と名指しする一方、拡大の対象から外れた諸国の不安に対処するために、北大 西洋協力理事会の機能強化を目的に掲げて同年5月に新設した欧州・大西洋パートナーシップ 理事会(Euro-Atlantic Partnership Council: EAPC)を活用する方針を明示したのである10

97年12月、北大西洋理事会は加盟対象となった3カ国と議定書を交換した後、これら 諸国に正 式の招 聘 状を送付 した。こうして99 年3月、ミズーリ州にあるトルーマン (Harry S. Truman)図書館に集った3カ国の外相は、北大西洋条約第14条の規定に則 り、加盟関連文書を米国政府に寄託した。その結果、創設50周年を目前に控えた99年3 月には19カ国で構成される新たなNATOが誕生したのである。 この間、拡大に反対するロシア はNATOに対して強硬な対決姿勢を示さなかった。勿 論、ロシアにその力のなかったことが決定的であり 、あるいは 、米国を始めとする先進 諸国によるロシア経済の建て直しへの協力が功を奏したとも言えるだろう。また、軍事 的観点に立てば、欧州戦域における 大規模攻撃 や奇襲の危険を大きく減退させた欧州通 8 NATO とロシアが共有する安全保障問題を協議するために新設された常設合同理事会については、 NATO 事務総長、NATOの代表国、ロシアの三者による共同議長制の下での議事運営がなされる旨、合 意されたほか、年2回の外相・国防相会議、月例の大使級会議の開催が定められ、さらに、首脳会議に ついても適宜開催することが同意された。また、ロシアがNATOの拡大に首肯しなかったことを反映し て、この協定には新規加盟国への核配備を行わない旨を記した一方的なNATO宣言が付け加えられた。

9 拡大を巡る米欧の思惑の違いについては、International Institute for Strategic Studies, Strategic Survey 1997/98 (London: Oxford University Press, 1998), pp. 29-36 を参照。

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常戦力(Conventional Armed Forces in Europe: CFE)条約の改訂交渉の開始に先立つ96 年5月に外縁部文書(Flank Document)を取り交わすことによって、NATO諸国がロシ

アの事情に配慮を示したことが重要であった11。そしてさらに、99年11月のCFE条約・

適合合意(Agreement on Adaptation of the Treaty on Conventional Armed Forces in Europe) の成立過程で、米国自らが欧州駐留戦力 の大幅削減を受け入れたことも 、軍事対立を惹 起させない強固な意思表示のサインとして、ロシアに伝えられたのである12 だが、それにも拘わらず、この拡大には将来に禍根を残しかねない大きな問題が潜んでいた。 米国ではNATO拡大を承認するための上院での批准審議に先立つ98年2月下旬、上院外交 Government, M-1 (97)81 (8 July 1997) を参照。 11 この文書が作成された最大の要因は、94年末に勃発したチェチェン紛争に対処するために、ロシア がCFE条約に抵触する戦力配備を行ったことにある。このCFE条約が全く想定していなかった事態 の発生に、条約締約国は人道的見地からロシアの軍事行動を牽制する一方、条約の効力を維持する措 置を講ずる必要に迫られたのである。  合意の内容は、まず第一に、92年5月のタシュケント合意(CFE条約の当事国であったソ連が崩壊 したことに伴い、ロシアとCIS 諸国の間で交わされた戦力の配分を巡る合意)に基づき、戦車1,300 輌、装甲戦闘車輌1,380 輌、火砲 1,680 門と上限を定められたロシアの外縁部のうち、レニングラー ド軍管区に関しては(エストニアとラトビアとベラルーシに接する)プスコフ州を、また、北コーカ サス軍管区からはヴォルゴグラード州、アストラハン州、ロストフ州の東部、クラスノダール地方の 一部を除いた狭い地域を新たに設定し、この地域に対して97年5月末から上述の配備上限を適用した ことである。つまり、保有上限数は変えずに、対象地域を縮小したのである。第二は、元来の外縁部 に対してはその上限を大幅に増加させ、戦車1,897 輌、装甲戦闘車輌4,397 輌、火砲 2,422門といっ た新たな暫定数値を設定するとともに、99 年5月末までに、それぞれの数値を1,800 輌、3,700 輌、 2,400 門へと下方修正するよう定めたことである。こうしてNATOはチェチェン紛争に苦慮するロシ アに条約違反の汚名を着せることなく柔軟に対応することで、他方、ロシアはこの新たな枠組みを受 け入れることで、条約破綻の危機を回避したのである。 12 この新たな合意の中で米国は90年11月のCFE条約で規定された保有上限のうち、戦車を55%、装 甲戦闘車輌を41%、さらに、火砲を43%削減した(下表を参照)。確かに、NATOが機動戦力として 重視する戦闘機と戦闘ヘリコプターについては微減に留まったし、この段階において、米国がヨーロッ パに配備する戦力が実際には新たな上限枠をも大きく下回っていた点を指摘することも可能である。し かしながら、米国がこのように大幅な削減を受容したことは、特に、NATOの東方拡大を懸念するロ シアに対し、将来に亘り、米国がこの法的な枠組みを遵守し、軍事対立を生み出す意図のないことを 伝える手立てとなった。  米ロの戦力の推移        上段:99年合意の保有上限        中段:90 年条約の保有上限        下段:現有戦力(2000.1.1)        戦車  装甲戦闘車輌  火砲   戦闘機  戦闘ヘリコプター    米 国 1,812 3,037 1,553   784 396   4,006   5,152   2,742  784   404         793 1,572  345  233 136    ロシア    6,350  11,280   6,315  3,416   855           6,400  11,480    6,415  3,450  890           5,375  9,956 6,306  2,733    741

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委員会に臨んだオルブライト(Madeleine K. Albright)国務長官がNATO拡大の意義を次のよ うに論じ、その理解を求めたのである13。すなわち、戦争を生起させないヨーロッパの枠組 みを拡大することが米国にも安全を提供すること、拡大によって新規加盟国が直面する問題 を自ら解決するインセンティブを与えること、新規加盟国が20万人の新たな兵員を提供する だけでなく、NATOに戦略縦深を付加することによって、NATO自体の強靱性と凝集力を育 むこと、を掲げたのである 。同時に、ロシアの反発を懸念する批判に対しては、NATOが 新規加盟国への核を始めとする戦力配備の自制を宣言している点に触れるとともに、仮りに これら諸国がNATOへの加盟を果たせない場合には、同地域の軍拡や反ロ・安保協定の締結 といった、ロシアにとっては却って由々しき事態の発生する危険を付け加え、拡大の合理性 を説いたのである。しかしながら、この証言の中で長官が触れた「NATOは軍事同盟であっ て、社交クラブではない」といった表現からは、これが上院議員を説得するための方便とは 言え、ロシアに配慮して、あるいは、ヨーロッパの安定のために、NATOが覆い隠そうとし てきた筈の「軍事同盟」としての性格が、却って強調されることになったのである。    他方、98年3月半ば、当初の予測を2ヶ月も前倒しにして開始された米国上院の批准審議 にも問題があった。何故なら、この案件が民主・共和両党間の政治の争点とはならず、審議 開始以前から多くの上院議員が、人為的に引かれた戦後ヨーロッパの分断線を解消し、人倫 に合致した市場民主主義を敷延すべきことを主たる理由に挙げて拡大に賛意を表明していた ために、軍事・安全保障上の核心に触れる論議が展開されなかったからである。こうして4 月末、この案件は大きな障害に突き当たることもなく、80対19の圧倒的多数の賛成を得て上院 を通過した 。だが、その結果、議会から付加された幾つかの条件の中には、NATOが軍事同盟 であること、NATOにおける強力な米国のリーダーシップが自らの死活的利益を守ること、こ のリーダーシップを維持するためには米国の戦闘部隊の駐留や核戦力の欧州配備が不可欠なこ と、といった、従前と変わらぬ「軍事同盟」としてのNATOの姿が求められていたのである14 そして、もうひとつの懸念材料が将来のバルト諸国の加盟問題であった。98年1月、ク リントン政府はバルト3国と米国・バルト諸国憲章15に調印した。この米国が単独で結んだ

13 以下のオルブライト国務長官の発言については、U.S. Congress, Senate, Committee on Foreign

Relations, Administration Views on the Protocols to the North Atlantic Treaty on Accession of Poland, Hungary, and

the Czech Republic: Hearing before the Committee on Foreign Relations, 105th Cong., 2nd. Sess., February 24,

1998, pp. 7-13 を参照。

14 上院が呈示した付帯条件には、この拡大に係わる米国の政策が91年11月にNATOの採択した「新戦略

概念」から逸脱してはならない趣旨が盛られているが、いずれこれが更新される場合においても、「軍事同 盟」としての性格を保持すべきことが確認事項の中に含まれていた。これについては、U.S. Congress, Senate,

Protocol to the North Atlantic Treaty of 1949 on the Accession of Poland, Hungary, and the Czech Republic, 105th Cong.,

2nd. Sess., Executive Session, Congressional Record, vol. 144, (30 April 1998): S3756-S3782 を参照。

15 98 年1月16 日に署名されたこの文書の正式名称は、A Charter of Partnership among the United

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憲章は、その全体的なトーンから、協調的安全保障のロジックを支えるEAPCの精神に沿っ て、単に個別・具体的対象が言及されたに過ぎないと理解することも可能であった。しか しながら、憲章に盛られた「米国はエストニア、ラトビア、リトアニアのNATO加盟への熱 意を歓迎し、その努力を支援する」といった文言からは、逆に、米国が、同盟諸国との協 議を経ることなく、これら諸国の加盟に言質を与えたようにも読み取られたのである。 バルト諸国については 、仮りにロシア と国境を交えないリトアニアが加盟を達成した 場合でも、ロシア本国と陸上での接点を失うカリーニングラード州(Kalininglad Oblast) が、嘗ての西ベルリンと同様の難題をロシアに突きつけることになった 。また、エスト ニアとラトビアの加盟は、この両国にNATOの軍隊が常駐しないにせよ、NATOの防衛線 がロシア のそれと直接接 する状況を生むことになった。そして 、ロシア 政府を始め軍部 や議会(State Duma)がこうした状況を憂慮するのであれば、冷戦の終焉やCFE条約の 調印によって減退した筈のNATOとの緊張が高まることも必至であった16    Ⅱ NATOの第二次東方拡大と問題点 99年4月、創設50周年を記念してワシントンで開催された首脳会議において、NATO は自ら掲げるオープン・ドア政策を継続する意思表示の一環として 、また、新規加盟を 求める諸国に対してその基準を明示するために、加盟行動計画(Membership Action Plan:

MAP)を採択した17。そして 、これを受けて、加盟行動計画 に参加したアルバニア、ブ ルガリア、バルト3国、ルーマニア 、スロバキア、スロベニア 、マケドニアの9カ国が 第二次拡大に向けて加盟申請を行ったのである。 こうしてNATOの第二次東方拡大を巡る問題は、クリントン民主党政府の跡を襲って2001 年1月に誕生したブッシュ(George W. Bush)共和党政府に引き継がれることになった。 第一次拡大と同様、この米国の新政権の意向が決定的な役割を占めることは明らかであっ 16 バルト諸国のNATO加盟問題が現実味を帯び始めたことを受けて、クリントン政府の東方拡大政策を 蔭で支えてきたブレジンスキーは、それまでの拡大を積極的に進める立場を改め、慎重な態度に転換した。 すなわち、同じく拡大の道を歩み出した欧州連合(European Union: EU)が、当時、バルト諸国のうち のエストニアだけを第一候補としていたように、NATOもリトアニアのみを当面の拡大対象に据えるとと もに、爾後の拡大日程を遅らせ、ロシアに対して新たな現実を理解するための時間的余裕を与えるべきで あると主張したのである。これに加え、条件を満たせばロシアのNATO 加盟も可能と論じた、Zbigniew Brzezinski, “NATO: The Dilemmas of Expansion,” National Interest, no. 53 (Fall 1998), pp.13-17. を参照。

17 この計画の中で、NATO は加盟希望国に対し、PfPへの参加を必須要件とするとともに、政治・経済

領域(民族・国境紛争の平和的解決、国際法の遵守と人権の尊重、軍の民主的統制、自由経済活動の確保、 環境保護対策などの進捗状況)、防衛・軍事問題(NATOの集団防衛や危機管理ミッションへの貢献の可 能性)、資源問題(NATOの活動に貢献しうる国家資源の配分状況)、セキュリティ問題(機密保全態勢 の状況)、法制面(NATOへの貢献が国内法に抵触する可能性)に係わる年度計画書の提出を義務付けた。 NATO Press Release, Membership Action Plan (MAP), Press Release NAC-S(99)66, 24 April 1999 を参照。

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た。6月、就任後初のNATO首脳会議に臨んだブッシュ大統領は、第二次拡大を巡り、過去 の歴史や地勢的観点を理由に排除される国があってはならず、また、間接的表現ながらも ロシアには拡大を拒否する権限がない点を強調した18。これに対し、同年9月11日に米国で 発生した同時多発テロを契機に、中央アジア諸国の基地使用を容認し、アフガニスタンで の軍事情報支援を行ったばかりでなく、軍を警戒態勢に置かないことで最大の対米協力姿 勢を示したロシアのプーチン(Vladimir V. Putin)大統領は、安全保障の焦点がテロ対処 に移行した新たな時代にあってはNATO拡大が意味を持たないことを折に触れ力説した。 だが、ロシアは米国政府を翻意させることができなかった。11月半ばの米ロ首脳会談に おける共同声明の中で、NATOとロシアの関係を強化する新たなメカニズムを創設する方針 の謳われたことがこれを裏書きしていた19。その二日後、英国のブレア(Tony Blair)首相 が、NATOとロシアの関係を強化するために、また、安全保障上の緊急事態が発生した場合 にロシアを協議の枠組みから疎外しないことを目的に、ロシア・北大西洋理事会(Russia-North Atlantic Council)を創設する意向を記した書簡をプーチン・ロシア大統領、NATO加

盟各国政府、および、NATO事務総長に宛てて送付したことが伝えられた20。既定の拡大路 線を踏襲する代償として、国際テロへの対処を始め危機管理や軍備管理など相互の協力を 不可欠とする案件の審議に際し、NATOの最高意思決定機関である北大西洋理事会に議決権 を付与されたロシアを招聘する構想を呈示したのである。そして、同月下旬に訪ロしたロ バートソン(Lord Robertson)NATO事務総長とプーチン大統領の会談が行われると、12月 には2002年5月を目処に新たな理事会を発足させることが合意されたのである21 ロシアの危惧するバルト諸国のNATO加盟がほぼ確定した状況の下で、英国は事態の 悪化を回避する策に打って出たのである 。何故なら、NATOの防衛線の前進を危惧する ロシア軍部や議会が、NATOとの円滑な関係を模索するプーチン大統領への不満や焦燥 を募らせながら、徐々にNATOとの対立を醸す危険が生まれたからである。その場合、 CFE条約・適合合意の大幅な改訂を求めることも考えられようし、逼迫する軍事費の下 で通常戦力の強化に窮するのであれば、先行使用(first use)の選択とともに、既存の条 約に抵触しない戦術核兵器への依存を高めることも 予想されたからである。さらには、 既定の軍事デタント枠組みからの 離脱傾向を強めるブッシュ政府に倣い、CFE条約・適 合合意や中距離核戦力 (Intermediate-Range Nuclear Forces: INF)条約の破棄といった危

18 US President George W. Bush, Excerpted Remarks at the North Atlantic Council, NATO HQ,

Brussels, 13 June 2001 を参照。

19 Joint Statement by President George W. Bush and President Vladimir V. Putin on a New

Relationship between the United States and Russia, November 14, 2001 を参照。

20 “Blair plans wider role for Russia with NATO,” The Times, November 17, 2001 を参照。

21 NATO-Russia Joint Statement issued on the Occasion of the Meeting of the Permanent Joint Council

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険も残されたからである 。勿論、こうした懸念を他所にロシア が新たな戦略環境に馴染 んでゆくと楽観することも可能であった。だが、いずれにせよ ヨーロッパにおいて永年 に亘り培われた軍事デタントの精神が損なわれることに変わりはなかったのである。 2002年5月下旬、ローマに会したNATO加盟諸国の首脳とプーチン大統領は、5月半ばの レイキャビク合意に基づき、NATO・ロシア理事会(NATO-Russia Council)を創設する宣言 文書22に署名した。97年5月に発足した常設合同理事会に代わって誕生することの決まった この共同意思決定機関は、NATO加盟19カ国に「対等のパートナー」としての地位を付与さ れたロシアを加えた20カ国が、利害を共有する特定の安全保障分野の案件を、併存する北大 西洋理事会に倣い、NATO事務総長による議事運営の下で審議し、コンセンサス方式に則り 意思決定を図るという、画期的な協力の枠組みとなった。こうしてNATOとロシアが共同し て新たな脅威や挑戦に対処する基盤が構築されるとともに、この理事会の創設によって齎さ れるNATOとロシアの関係の質的転換を通じ、国連憲章を含む国際法や75年8月のヘルシン キ協定、さらには、90年11月のパリ憲章の精神に盛られた民主主義や協調的安全保障の原則 に立脚した恒久平和を、欧州・大西洋地域に築き上げてゆく方向が明示されたのである23 このように従前のNATOの意思決定機構にロシアが参画する装いの下に誕生した新理事 会は、傍目にはロシアがNATOへの「準加盟」を果たしたかのようなイメージを抱かせるも のであった。けれども、これによって両者の間に横たわる安全保障上の問題の総てが解消 された訳ではなかった。確かに、この理事会を舞台にNATOとロシアが進める協力の具体的 対象として、テロ対策、危機管理、大量破壊兵器(Weapons of Mass Destruction)の不拡散、 軍備管理及び信頼醸成措置、戦域ミサイル防衛、海難救難活動、軍の相互協力と組織改革、 民間緊急事態への対処、新たな型の危機への対処、の9項目が掲げられていた。また、ロ シアの意向を汲んで、この新理事会で審議する案件を事前に北大西洋理事会で諮らないこ とも合意されていた。だが、問題の核心は、このような広範な領域に亘るNATOとロシアの 協力が謳われ、恰もロシアがNATOへの加盟を果たしたかのような印象を与えたことではな く、協力の対象から巧みに外された対象、端的には、NATOが「同盟」の根幹部分として重

22 NATO-Russia Relations: A New Quality, Declaration by Heads of State and Government of NATO

Member States and the Russian Federation. この文書は「ローマ宣言」と呼ばれることになった。

23 この新理事会は、外相会議と国防相会議を年2回開催するとともに、適宜、首脳会談を行うこととした。

また、NATO常設代表会議に類似する大使級会議を少なくとも月1回開催する一方、理事会の構成国、あ るいは、NATO事務総長からの要請があった場合には臨時会議を設けることとした。これに加え、理事会 開催に向けた準備を行うために、政治問題に関して北大西洋理事会に助言を与えるNATO 政治委員会 (Political Committee)にロシアの代表を交えて構成する準備委員会(Preparatory Committee)を創設し、

月2回以上の会議を開催することが合意されるとともに、個別案件の処理については、適宜、委員会や作業 部会を設けることとした。他方、こうした政治代表による協議機関と併行してこの新理事会の下に創設され る軍事代表による協議機関に関しては、年2回以上の開催が定められた参謀総長会議、月1回以上の開催が 決まった軍事代表者会議、また、適宜開催される軍事専門家会議、がそれぞれ設置されることになった。

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視する戦略概念の策定や共同防衛態勢の構築を巡る審議に、ロシアが関与できない点にあっ た。こうして見れば、NATO・ロシア理事会の創設は、第二次拡大におけるバルト諸国の加 盟を前提に、NATOが一定の譲歩を示すことによって、昔日の力を失ったロシアに政治・外 交面での得点を与え、また、これによってNATOとの円滑な関係の道を模索するプーチン政 権を側面支援する「政治的」措置にほかならなかったのである24 プラハでのNATO首脳会議を目前に控えた11月11日、ブリュッセルを訪問したプーチ ン大統領はロバートソンNATO事務総長と会談した。この会談後の記者会見において、 ロバートソン事務総長はNATOの第二次拡大、とりわけ、バルト諸国の新規加盟を危惧 するプーチン大統領に配慮し、プラハ 会議におけるNATOの決定が如何なるロシアの死 活的安保利益 も損なうことがないことを 強調した。これに対し、10月末にモスクワ市内 で発生したチェチェン武装勢力が引き起こした 劇場占拠に対するロシア 政府の対応を、 この事件に国際テロリストが加わっていたことを理由に同事務総長 が支持したことへの 謝意を表したプーチン大統領は、同時に、NATO防衛ラインのロシア国境への接近を憂 慮する軍部が新たな戦力配備計画を策定している事実に敢えて言及し、相互の軍事的抑 制の必要を説いたのである25 11月21日、プラハで開催されたNATO首脳会談は、懸案のバルト諸国に加え、ルーマニ ア、ブルガリア、スロバキア、スロベニアの新規加盟に合意した。第一次拡大と同様、米 国政府の意向を強く反映したこの決定に、ロシアが介在する余地はなかった。その結果、 既存の加盟諸国による加盟議定書の批准を経て、2004年5月には26カ国で構成される新た なNATOが誕生することになった。また、同会議は、拡大の対象から外れたアルバニアと

24 NATO・ロシア理事会に対する評価については、例えば、Robert E. Hunter, “NATO: A Security

Bridge to the 21st Century,” Enlargement and Future of Europe 2002 (Institute for International

Policy Studies, 12 November 2002) を参照。これに対し、ロバートソンNATO事務総長は、5月14 日にレイキャビクで始まった北大西洋理事会の冒頭、NATO・ロシア理事会創設の合意文書が調印さ れる5月28 日を「冷戦終了の日」と謳い上げた。Opening Statement by Secretary General, Lord Robertson at the Opening Session of the Meeting of the Council in Ministerial Session, Reykjavik, Iceland, 14 May 2002 を参照。また、レイキャビクで採択されたコミュニケでは、NATO 拡大を巡 るロシアの反発を緩和するために、99年11 月に調印されたCFE条約・適合合意の枠組みに屡々抵触 するチェチェンでのロシアの軍事行動を、領土保全に向けたロシアの正当な権利の行使として支持す る一方、人権擁護を掲げながらも、チェチェン武装勢力側に対しては政治解決を図るよう自制を促し たのである。Ministerial Meeting of the North Atlantic Council held in Reykjavik on 14 May 2002,

Final Communique, M-NAC-1(2002)59 を参照。

25 会談後の共同記者会見については、Press Point by NATO Secretary General, Lord Robertson and

Vladimir Putin, President of the Russian Federation, 11 November 2002 を参照。ここで、プーチン大 統領がこの時期を選んでロバートソン事務総長を訪問した理由について触れておかねばならない。NATO はプーチン大統領に対し、プラハ・サミットへの招聘状を送付した。だが、同大統領にとってこの会議 への出席が、間接的にせよ、NATO 拡大を承認することを意味する以上、招待を受け入れることはでき なかった。他方、ロシアにとって、拡大を巡るロシアの態度をNATOに明示するためにも、また、NATO との良好な関係を維持してゆく上でも、サミット直前のNATO 事務総長訪問は必要であった。

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マケドニアに対し、その加盟に向けた努力を歓迎するとの意向を表明するとともに、クロ アチアに対しては 一層の努力を求めることになった。これに加え、テロ対策の観点から コーカサスと中央アジアの占める戦略的重要性に言及し、こうした地域諸国との関係強化 を欧州・大西洋協力理事会 とPfPを介して図る方針を明示したのである26 Ⅲ 結語に代えて:爾後の展望 NATOが拡大決定を行った同じ日、ロシア共産党のジュガーノフ(Gennady Zyuganov) 党首はプーチン大統領に対し公開書簡を送り、ナチス侵攻以来の深刻な軍事的危機を静観 するロシア政府を難詰した27。だが、この間、ロシア政府が拱手傍観したわけではなかっ た。NATOの決定に先立つ7月下旬には、イワノフ(Sergei Ivanov)国防相が、NATOの 軍事基地をバルト諸国に設けないのであれば、同地域周辺でのロシア軍の増強を行わない 旨、言明する一方、カリーニングラード州の防御に向け、バルチック艦隊の即応態勢を維 持する方針を表明していた。また同時に、ソ連の崩壊に伴いCFE条約の枠組みから離脱し たバルト諸国にNATOが攻撃兵器を集積することを懸念して、これら諸国が同条約に加盟 するよう要求していた28。これと併行して9月には、2010年を目処に着手した徴兵制度廃 止の一環として、リトアニアとエストニアに隣接するプスコフ州に展開する第76空挺師団 を志願兵のみの部隊に改編するとともにその即応態勢を強化していた29。だが、見逃して ならないのは、上述の措置の何れもがCFE条約を始めとするヨーロッパの軍事的安定の枠 組みを逸脱しておらず、さらに11月のNATO拡大決定の後も、ロシアがNATOとの軍事的 対立を惹起する方策を取らなかったことである。国内の反発を抑えたプーチン大統領の下 で、ロシアもまたNATOとの安定した関係を維持する姿勢を遵守したのである。 ところで、第二次拡大を巡ってはNATO内部の問題、つまり、拡大の意義付けも重要な 争点であった。NATOは、将来のロシアとの関係を規定する上でも、第一次拡大の過程に纏 り付いた「軍事同盟の拡大」のニュアンスを払拭する必要があったからである30。そして、 そのためには上部構造の転換をさらに図ることによって、端的には、領域防衛用重武装戦

26 NATO Press Release, Prague Summit Declaration issued by Heads of State and Government Participating in the Meeting of the North Atlantic Council in Prague on 21 November 2002, Press Release (2002)127, 21

November 2002 を参照。

27 “Russia calm about NATO’s expansion”, Russia Journal, November 21, 2002 を参照。 28 “Ivanov: no buildup if Baltics join NATO,” Russia Journal, July 29, 2002 を参照。

29 “DM reports military cuts, says more may follow,” Russia Journal, November 18, 2002 を参照。 30 第一次拡大の過程では、NATOがなお冷戦のロジックに固執していたと述懐する、Stephen Hadley,

US Deputy National Security Adviser, “Challenge and Change for NATO: A U.S. Perspective,” NATO/ GMFUS Conference, Brussels, 3 October 2002 を参照。

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力の一層の削減を通じ、根幹部分である「軍事同盟」の色彩を薄めることが肝要であった。 その意味では、皮肉な逆説として、第二次拡大の対象国がNATO戦力の向上に裨益し ないことが僥倖であった。また、2001年9月の同時多発テロ以降、NATOの戦力強化目標 がテロや大量破壊兵器の齎す新たな脅威への対処といった、NATOが域外(out-of-area) 活動と位置づける 危機管理活動 に本格的に移行し始めたことがさらに重要であった。 2002年6月、防衛計画委員会と核計画部会の合同会議として開催されたNATO国防相会 議は、NATOの存立意義を今日の戦略環境変化、とりわけ、テロや大量破壊兵器が齎す脅 威への対応の中に見出すとともに 、そのための軍事能力を早急に確保する方針を明示し た。そして 、ABC兵器に対する防御、戦略輸送、戦闘支援、偵察及び目標選定、ジャミン グ及び空中給油、の各能力がその強化目標に掲げられた。こうしてNATOは、99年のワシ ントン・サミットで合意された防衛力強化指針 (Defence Capabilities Initiative: DCI)の遂 行に向けて対象品目を絞り込む一方、冷戦時代に構築された領域防衛を目的とした固定化

された司令部を、危機管理型の移動式司令部へと改編する方向を打ち出したのである31

11月、第二次拡大を決定したプラハ・サミットは、同時に、米国の要請に沿って、緊 急対応部隊 (NATO Response Force: NRF)の創設に合意した。そして、EUが欧州独自の 戦力として創設を急ぐ緊急展開軍との重複が危惧されるこの 1個軍団規模のNATO部隊 は、2004年10月までに初期作戦能力を確保するとともに、2006年10月には完装されること になった。また、司令部改革の一環として、従前の欧州連合軍(Allied Command Europe) と大西洋連合軍(Allied Command Atlantic)の機能を一元化し、領域防衛を含むものの危 機管理作戦の統括を主任務とする戦略司令部(Allied Command Operations)に改編する とともに、 相互運用 など機 能 面での強 化の任を 負う戦略司令部(Allied Command Transformation)を新設することにも合意した。これに加え、先のDCIに代わり、加盟各 国毎の戦力強化目標を定めたプラハ防衛能力強化方針 (Prague Capabilities Commitment:

PCC)も同意され、こうして上部構造の本格的な改編が始まることになったのである32 このようにNATOはソ連に対抗するために築き上げた強固な領域防衛態勢を危機管理 型の軍事態勢へと改編する動きを速めているが、このことは結果としてみれば 、NATO の新たな存立意義を明示するうえでも大いに貢献することになった。こうしてNATOが 着手した新たな安全保障レジームの模索は、嘗てケネディ(John F. Kennedy)米国大 統領が描いた大西洋共同体(Atlantic Community)の実現、つまり、NATOを従前の軍

31 Ministerial Meeting of the Defence Planning Committee and the Nuclear Planning Group held in

Brussels on 6 June 2002, Final Communique, Press Release (2002)071 を参照。

32 NATO Press Release, Prague Summit Declaration issued by Heads of State and Government Participating in the Meeting of the North Atlantic Council in Prague on 21 November 2002, Press Release (2002)127, 21

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33 ケネディ大統領が初めて大西洋共同体に言及したのは、61 年5月のカナダ議会での演説である。

“Address Before the Canadian Parliament in Ottawa. May 17, 1961,” Public Papers of the Presidents

of the United States, John F. Kennedy, 1961 (Washington: United States Government Printing Office,

1962), p. 385 を参照。この演説の中で彼が用いたのは「北大西洋共同体(North Atlantic Community)」 であったが、その後、61 年6月初めにパリのNATO本部を訪問したケネディは、NATOが当該地域 の安全保障のみならず、他の地域においても重要な役割を果たすことによって、自らの新たな境地を 拓いてゆくことが肝要であると指摘した。ケネディは、西欧の同盟諸国が米国の掲げる政治理念を共 有し、自由と独立を希求する世界の人々に支援の手を差し伸べるために協同するよう促したのである。 “Remarks in Paris Before the North Atlantic Council. June 1, 1961,” Public Papers of the Presidents of the United States, John F. Kennedy, 1961, pp. 427-428 を参照。

34 但し、米国内で頭を擡げ始めたNATOの意思決定方式の変更が正式なアジェンダとして検討に付され

るとなると、話は別である。2003 年5月7日、米国上院は前年11月のプラハ首脳会議において合意さ れた7カ国の新規加盟を了承し、これによって改訂される北大西洋条約を批准した。また、上院は同時 に、将来の加盟国の増大を見込んで、さらには、先般のイラク戦争遂行の是非を巡る米英と仏独の対立 によって、トルコ防衛のための装備移転の決定に手間取り、11日間もの空白を生んだ点を重視し、NATO の意思決定方式である全会一致の原則を見直すよう提起した。U.S. Congress, Senate, NATO

Expan-sion, 108th Cong., 1st Sess., Congressional Record, vol. 149 (May 7, 2003): S5842 を参照。こうした意思

決定方式の変更は、NATO の規定する防衛範囲の外側で展開される危機管理(crisis management )活 動においては、NATOの名を冠した有志国家連合(coalition of the willing)による迅速で効率的な決断 と行動を容易にするかも知れない。しかしながら、「伝統的な同盟」が前提に据える領域防衛(territorial defence)活動に目を向ければ、これを無効にするばかりか、NATO自体を解体に導く危険を孕んでいる。 何故なら、これによって北大西洋条約第5条に盛られた「共同」防衛の遂行、つまり、ひとつの締約国 に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃と見做すことに同意し、その安全を回復しかつ維持するため に必要な行動を共同して採る、と謳った「同盟」の根幹が崩壊してしまうからである。

35 この点を指摘する、James Appathurai, “Closing the capabilities gap,” NATO Review, Autumn

2002 (Internet Version)を参照。 事同盟から自由と民主主義を育む価値共同体へと発展させる可能性を示唆している33。勿 論、域外で発生する危機に際し、全会一致の意思決定方式(consensus rule)を採るNATOが 緊急対応部隊を軸に共同行動を採るのか、あるいは、価値観こそ共有するものの、米欧双方 の国益や国力の違いから共同対処を難しくするのか、明言することは難しい。さらに、この 1個軍団規模の緊急対応部隊にとって可能な軍事作戦が限定的となることを認めるのであれ ば、この部隊そのものは、将来に亘り、NATOの盟主としての主導権確保を狙う米国の地位 を象徴するに過ぎないのかも知れない。しかしながら、これによって伝統的な軍事同盟から の脱皮を図るNATOにとって、一定の方向が指し示されたことも確かなのである34 また、NATOの軍事態勢の転換は、その拡大を軍事同盟の伸長として危惧するロシア の不信の払拭にも貢献することになった 。第二次世界大戦後の米国がパワー・プロジェ クション能力を維持・強化してきたのと 対照的 に、同盟諸国の軍がこれまで領域防衛戦 力の拡充に努めてきたことに 鑑みれば、遠隔地 での作戦展開を前提とする危機管理ミッ ションに要する米欧の能力較差(capability gap)が容易に埋められることはないだろう し35、加えて、同盟諸国の財政事情 から推して、危機管理型の軍への転換が必然的に領 域防衛戦力の削減に繋がるのであれば、CFE条約が規定する領域防衛戦力のさらなる削

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減が期待されるからである36。その結果、これがロシアの懸念を払拭する有効な手立て となる可能性が増したのである。そして、上部構造の大幅な変革によって、NATOが真 の変革(transformation)を遂げる時、またこれに伴い、ロシア人の意識からも冷戦のロ ジックが消える時、ロシアのNATO加盟が現実の政治課題として俎上に上ることになる のかも知れない。 ところで、こうしたNATOを巡る動向に中国が反応し始めたことにも着目しておかね ばならない。 2002年10月にロバートソン事務総長訪問を訪問した関呈遠(Guan Chengyuan)駐ベ ルギー大使が、この中国としての初のNATOとの公式接触において、中央アジア地域を 巡るテロ情報の交換を提案したことが報じられた37。これに対し、NATOは11月初旬、 ロバートソン事務総長が「2年前に、ドイツ や他のNATO諸国の兵士が、中国と国境を 接する国において 任務に当たるなどと 誰が考えたであろうか38」と論じ、間接的表現な がらNATOと中国の関係の存在に言及したのである。 ロシア、カザフスタン、キルギス、タジキスタンとともに結成した上海ファイブを改 組し、2001年6月には新たにウズベキスタンを加えるとともに、テロ対策の強化を打ち 出して上海協力機構(Shanghai Cooperation Organization: SCO)の発足を達成した中国 と、2001年9月の同時多発テロを契機に中央アジア諸国に前進基地を構えた米国やPfP を介した同地域との協力関係強化を探り始めたNATOが、接点をもつのは当然であっ た。また、これら諸国が将来、NATOへの加盟を果たすことになるであれば、中国に とっては直接的 に防衛ライン を接することになるNATOと、予め関係を調整しておくこ とも重要であった。 だが、中国のNATO接近にはこれとは別の背景も存在した。冷戦後の世界における米 国の一極支配への懸念を共有し、2001年7月には善隣友好協力条約の調印によって新た な紐帯を結んだ筈のロシアが、同時多発テロ以降、親米路線に転じたことに、中国は危 惧を募らせ始めたのである。事実、2001年11月の米ロ首脳会談において、ロシアは米国 の主張に沿う形で中国の懸念する対弾道ミサイル ・システム制限(ABM)条約の破棄に 同意したし、さらには 、NATOへの準加盟のニュアンスを含んだNATO・ロシア理事会 36 ドイツ政府は2003 年5月21 日、シュトラック(Peter Struck)国防相が閣議に提出した国防政策 指針を公表した。この中でドイツ政府は、伝統的な国防問題の優先度が低下する反面、紛争予防や危 機管理が連邦軍の主任務となり始めたとの認識を示すとともに、国内9基地の閉鎖と6千人の兵員削 減によって生ずる財源を、海外派兵費用に充当する方針を表明した。

37 毎日新聞(2002 年11月21 日)、及び、 “Putin explains pro-West policy in China,” Russia Journal,

December 3, 2002 を参照。

38 NATO Secretary General, Lord Robertson, “The Summit Ahead: Accession, Transformation,

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39 また、この首脳会談において、プーチン大統領はNATO・ロシア理事会の進展に満足していること、

バルト諸国が反ロシアの姿勢を取るとは考えられないのでバッファー・ゾーンは必要ないと考えている ことに言及するとともに、ロシアには将来のNATO加盟を希望する諸国を妨げる理由がないことを付 け加えた。 “Putin explains pro-West policy in China,” Russia Journal, December 3, 2002 を参照。

の創設を介して米国との関係を深めていたからである。中国は孤立化を恐れていた。他 方、ロシアにとっても中国との関係を悪化させる理由は存在しなかった 。西方における NATO拡大への懸念が完全に払拭できない以上、上海ファイブで達成した中ロ国境戦力 の引き離し合意をも反故にしかねない東方での中国との無用の対立を避けねばならな かったからである。そのため 、2002年12月初めに訪中したプーチン大統領は、米国との 対立が非生産的であると 論ずる一方、国益重視の観点からNATO拡大には反対の意向を 表明するとともに、中国とのパートナーシップの重要性を確認したのである39 また、中国にとって、上述の中ロ関係に関連するもうひとつの懸念が米国との直接的 な関係にあった。中国は、同時多発テロ以降、テロや大量破壊兵器の拡散への対処に奔走 する米国政府が、いずれ過去の戦略に回帰し、中国を戦略的競争者(strategic competitor) と見做して対決姿勢を強めることを警戒したのである。それ故、中国のNATOへの接近 は、その盟主である米国との戦略対話チャネルの確保を図る手掛かりともなったのである。 このようにNATOの東方拡大問題は、ヨーロッパの安全保障問題に留まらず、また、 NATOとロシアの関係に限定されることなく、中国をも巻き込みながら、ユーラシアの 地政戦略地図を塗り替え始めたのである。

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