• 検索結果がありません。

日本佛教學會年報 第76号 016r-01北川 前肇「日蓮の経典観」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "日本佛教學會年報 第76号 016r-01北川 前肇「日蓮の経典観」"

Copied!
2
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

日 の経典観

北 川 前 肇

(立 正 大 学) 1.法華経の行者日連 日 (1222 82)が,みずから 法華経の行者日 と称したことは, 周知のとおりである。その表明から,歴史的に法華経信仰を中心とする 持経者 の存在を認めつつ,その 持経者 の信仰とは異にする日 の 意図を汲み取ることができる。 そこで,あらためて日 が自称した 法華経の行者日 の意味をたず ねてみると,法華経の 持経者 が経典の読誦や解説等に主眼を置き,そ の経力に依拠しつつ信仰儀礼を媒介として,死者への追善供養や現世の祈 りを行ったのに対して,日 は,法華経という経典を絶対媒介として,釈 尊に直参し,みずからが末法の世における大導師を志向したことに,その 特質がうかがえる。それは,日 が自己をどのような仏教者としてイメー ジしたのかという問題と深い関わりをもつが,日 が真の釈尊の弟子を目 指し,しかも 日本第一の智者 となることを誓願していることからも, そのことがうかがえる。 叙上のことを確認すると,日 が真の仏弟子を目指し,しかも末法の世 における日本第一の智者を志向するとき,法華経という経典は,釈尊の人 格体としての意味を持ち,その生身の釈 如来の勅命が日 の行動の軌範 日 の経典観(北川前肇) 203

(2)

となり,日 の人格体に釈尊の全身がよみがえるという側面を有している。 このことから,日 が法華経のみならず,一切経を受容するとき,経典は 黒い文字の典籍という意味にとどまらず,仏教の教主釈尊の実語であり, 真実の教え(開目抄・定本遺文539頁)ということになるのである。 2. 依法不依人 ところで,日 が理想の仏弟子像を探求する過程において,それを決定 づけたものは,いったい何であったのかをたずねてみると,それは仏教の 教主釈尊であり,一切経であった。たとえば親鸞にとっての法然房源空の 存在,あるいは道元にとっての天童如浄という存在とは,明らかに異にす る。すなわち日 が八宗・十宗を研学する過程において,各宗の祖師たち に随うことなく,中国の陳・隋時代に活躍した天台大師智 (538 597) が, 専ら経文を師として一代の勝劣をかんがへしがごとく,一切経を開 きみる (報恩抄・定本遺文1194頁)という態度を堅持し,その結果,一切 経の中で法華経が経典中の大王であるとの結論に到った(報恩抄・定本遺 文・1195頁)。そして,この方法を選取するうえで決断づけた経文が, 大 般涅槃経 の 如来性品 に説示される 依法不依人 (正蔵第12巻401頁 中)の文であった。この 法に依る という場合の 法 の概念には,釈 尊および釈尊の悟りが包含され, 人に依らざれ という 人 には,菩 以下のすべての祖師が包摂されているのである(報恩抄・定本遺文1194 頁)。 以上のことから,日 にとって経典とは,釈尊一代の教説(真理)であ ると同時に,その教説を示されている仏格(釈尊)をも包含していること が理解できるのである。 日 の経典観(北川前肇) 204

参照

関連したドキュメント

・コミュニティスペース MOKU にて「月曜日 も図書館へ行こう」を実施しているが、とり

睡眠を十分とらないと身体にこたえる 社会的な人とのつき合いは大切にしている

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

手動のレバーを押して津波がどのようにして起きるかを観察 することができます。シミュレーターの前には、 「地図で見る日本

層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

   手続内容(タスク)の鍵がかかっていること、反映日(完了日)に 日付が入っていることを確認する。また、登録したメールアドレ