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A Study on Brancusirs Direct Carving Sculpture

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SURE: Shizuoka University REpository

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Title

ブランクーシの直彫り彫刻に関する研究

Author(s)

登坂, 秀雄

Citation

静岡大学教育学部研究報告. 人文・社会科学篇. 37, p. 1-17

Issue Date

1987-03-23

URL

http://doi.org/10.14945/00004116

Version

publisher

Rights

(2)

ブランクーシの直彫 り彫刻に関する研究

A

Study on Brancusirs

Direct

Carving Sculpture

登 坂 秀 雄

Hideo TosAKA

(昭和 61年10月 11日受理) 序 今世紀 は初期の段階 において,I美術史上嘗て見ぬ現象 を生 じた。 ヨーロ ッパ

,ロ

シアを舞台 に発生 したイタリア未来派 を始め とする革命的芸術運動である。スイス 0チ ューリッヒに起 き たダダイスムはフランス, ドイツにおいてはシュール リアリスムとなって展開 し, ドイツでは 表現主義的造形表現が「バ ウハ ウス」の運動へ と引 き継がれ

,ロ

シアにては絶対主義運動 を起 こし

,ロ

シア革命の後

,構

成主義へ と向かった。その他

,オ

ランダの新造形主義

,イ

ギ リスの 渦巻主義 とい う様 に政治的・社会的条件 の許で発生 し

,国

際的 な芸術運動 となって拡が って いった。取 り分 け彫亥1における一側面か ら見 ると

,未

来派彫刻宣言 (1912年

)の

中で見 られる 新素材の使用に関する提唱や

,ロ

シア構成主義 に見 られる空間 と時間の提示 はその後の彫刻の 世界 を拡大す るものであった。 この様 な芸術運動の背景には

,自

然科学 と産業技術の発展 とそ の結果 としての市民社会の繁栄,ま た

,資

本主義の発生 にともなって労働者階級 を生 じさせ, 結果 として社会主義思想が出発 し

,広

範 に拡が ったことなどが挙げ られる。 この様 な状況の下 に1904年よ り53年間を芸術 の世界の中心的な都市パ リに生活 し

,彫

刻制作活動 を したコンス タ ンチ ン・ ブランクーシは

,こ

の革命的芸術運動 に同調 した り

,新

しい文明に同化 させ ようとは しなかった様 に見える。パ リには世界 に名声 を博 して円熟期の頂点にあったロダンがいて伝統 的な技法 (mOdeling)の 中に人間の生命 を謳いあげていた。一時期 をロダンの許で過 ごしたブ ランクーシは

,ロ

ダンの許 を去 ると同時にヨーロ ッパ に継承 されて きた彫刻か らも方向 を転換 した。現代美術 の揺笙期 といえる中で革命的芸術運動の渦中に属する事 も

,伝

統的彫刻 の系譜 の中に浸 る事 もな しに

,全

く独 自の世界 を切 り開 き

,今

世紀 における現代彫刻史に一つの原点 ともいうべ き足跡 を残 した。ブランクーシにおける論評 は特 に多い とい う分 けではないが

,取

り分 け少 ない とも思われない。 しか しなが ら

,(ブ

ランク早シ自身が伝記的発言 を好 まなか っ たようだが

)他

の彫刻家の伝記 (的

)論

証 と異 な り

,人

間ブラ ンクーシとしての存在が浮彫 り にされて くる所 までこない。ブランクーシの生活ぶ りと

,同

一テーマ を長い年月かけ繰 り返 し 作 られ

,な

,幾

つかのテーマが重複 して追求 される制作姿勢 と彫刻その ものの結実は

,ブ

ラ ンクーシに神格 さ

,さ

え与 えて きた。11年前のフランスにおけるブランターシの作 品 との出会

(3)

いから始まって

,‐

2年 前のノ

ィァマニア旅行

,そ

して今夏のアメリカ東部の旅行における作品と

の対話をもとに考察

.し',81年

間燃や

tた

生命を再現すへく論証を企てるつもりである。

ホビッツァ・ 出発

ルーマニアの首都 ブカ レス トか らクライオヴァ を抜 けティルグ・ ジウに向 う列車の窓か らは

,カ

ルパチア山脈が空 との境 に帯状 に遠々 と連 らなっ ている。カルバチ山脈 までは平担で

,遮

る ものの 無い平原の連続である。見渡たす限 りの とうもろ こ し畑 そ して

,ひ

まわ り畑。畑が途切れると放牧 地帯。牛や羊 の面倒 は老人 と子供の仕事の様であ る。夏 とはいえ肌寒いルーマニアの気候 の中で子 供 は上半身裸で裸足。折 れ枝 を片手 に している。 平原の中に夕 日を浴 びて一頭の牛 は

,プ

ロ ンズの ① ブラ ンクー シの生家 様で引 き締 まり厳 しく

,美

しい。ティルグ・ジウに近づ くとカルバチア山脈は迫 り

,幾

分高原 に位置するのであろう

,樹

々の緑が増 して くる。ティルグ・ジウはプランクーシのアンサンブ ルとも呼ばれているモニュメント「無限柱」,「接吻の問」,「沈黙のテ‐ブル」がある。「沈黙 のテ‐ブル」の設置されているす ぐ後にジウ川が流れているが

,川

を渡り

,森

林地帯の中を丘 陵に合わせ25キロ程行 くとコンスタンチン・ブランクーシの生家のあるホビッツァ小村がある。 1984.8.17 . ,1876年: 2月 19日 に コ ンス タンチ ン0ブラ ンクーシは次男 と して生 まれ た。 父 ニ コ ラエ に とって は母マ リアは二番 目の妻 で

:先

妻 との間に三人の男子が あ り

,更

に コ ンス タンチ ンの下 に弟 と妹が あ り

,共

に生活 を していた。 オルテニ アの高原地帯 の農民 は自ら土地 を持つ 自由農 民 で

,ブ

ラ ンクニシー家 も自由農民であ ったが土地 は狭く豊 かで はなか った。父親 は農業の み に専念 してぃた訳ではなかったようで

,父

親に関 して「放浪の人だった。」と語っているとこ ろから察すると出稼せ ぎの様な生活をしていたのであろう。現在 も残っている生家を見る限 り, この大家族が住むには余 りに小さいち七歳の時に牧童 として奉公に出されている。生活そのも のに関しても相当厳 しい少年時代を過ごした事 と思われる。「末だ近代文明が全 く及んでいな かった辺境の地は

,ま

だ森林地帯 と小川のせせ らぎと鳥の群れがあ り

,そ

れは

,彼

の想像力の 世界に印象を永 く継続 したであろうと思 われる魅力的な風景であったし地方における厳 しい社 会的慣例 (風習

)と

哀愁の合は

,人

格形成に重要な事柄である。」は'今で も我々の目に映るその 風景は非常に厳 しく感 じられるのであるが

,当

時は更に厳 しい社会情勢が少年期のプランクー シに与えていたと思われ

,ブ

ランクーシは数度にわた り家出をしている。

9歳

の時家出をして テ ィルグ 。ジウの染物屋で働 いている。 この時は母親に連れ戻 されているが11歳の時に家出を したブランクァシは再 び家 に帰 る事 はなかった。 この年令で意志 と自律心 は強 く

,好

奇心 に満 ち

,向

学心 に燃 えていた。テ ィルグ・ ジウか らスラチナ

,ス

ラチナか らクライオヴァに移る。 クライオヴァ`では酒場で働 く。 クライオヴァがプランクーシの美術修業への窓日ともい うべ き 記念すべ き場所 となる訳であるが本人にとって も思い もよらぬ事であったろう。ホビッツアに いた頃にいつで もナイフを使 って本の枝 に

V字

型の刻みを彫 っていたとい うブランク

=シ

は,

(4)

ブランク‐シの直彫 り彫刻に関する研究 牧童の時に更に農工具の技術を教わったと思われる。タライオヴァで も木彫は続けられていて, その技術は人の注 目を集めたようで

,ブ

ランク早シの運命的な出来事は

,ジ

アヌーの『ブラン クニシ』の中に語 られている。「ブランクーシにとぅて木で出来ないものは無かったもある日, 酒場の一人がブランクニシにバイオリンが作れるかどうか挑戦 して賭をした。ブランタ‐シは 本の梱包用のみかん箱をよく曲がるよう薄 く削 り

;手

仕事でそれを完成 した

6ジ

プシ■の演奏 家が弾 く為に呼ばれ,.楽器から流れる澄みきったその音色は聴衆を魅了 した。酒場の客の二人 であった資産家の工場主グレチェスコは

,ブ

ランターシを引き取 り

,保

護者 となって

,1894年

にクライオヴァの美術工芸学校に入学 させた。」°18歳のこの年 まで文盲状態であったブラン ターシは全 ぐの独学で読み書 きを覚えたという。クライオヴァの美術工芸学校は

,謂

わば職業 学校で現在

,格

子などの木工品が残っている。木工 と彫刻においては特に優秀であったが

,他

の全ての教科においても高成績を修め

,首

席で事業 している。塑造における彫刻への関心はタ ライオヴァの美術工芸学校で芽ばえたのであろう

:1898年

,事

業 と同時にブカレス トの国立美 術学校の彫刻科に入学 した。入学試験の時に作 られたラオコーンの胸像の模刻は写真で しか見 る事は出来ないが

,そ

の作 られたものの表情の中に

,す

でに優れた技術力 と彫刻からの感性の 表出を見い出す事が出来る。.ブカレス ト美術学校入学後半年近 く経ってからの制作にヴイテリ ウスの胸像頭部の模刻があ り

,こ

の習作で学校から賞を与えられているも(ブランクニシによ る現存の最初の作品である。)「 1902年 (卒業の年)¨・。この年の作品として残されているのは, 旧友ジョルジェスク

=ゴ

ルジャンの胸像だがプランクーシはクライヨヴァヘ戻 り

,こ

の旧友を 前にして

,額

のひろさ

,鼻

の長さ

,日

幅などをひとつひとつ測 り

,そ

れをあてはめながらこの 胸像をつ くらたという。こういう制作の仕方 もまたブクレシュチの学校でヘーゲルに教わらた のであろうも まさに,アカデ ミックなや り方である。これらブクレ シュチ時代の作品は……正確 さということが特徴 となぅている。そ れはヘーグルの教 育によるものであったが また しか し

,ク

ライヨ ヴァで見せたブランクーシの職人 としてのす ぐれた技術 と結びつ く ものであったということができよう。そしてさらにもうひとつ見逃 せないのは

,そ

れが またこの彫刻家が終生ロマ ン主義 とは無縁で あったことともつなが っているという事実である。」0中原佑介氏の 論証の一部である力ヽ 胸像制作にあたってのプロセスと木工におけ る技術 と後のプランク

,シ

が確立 した彫刻の形体 とその姿勢を結び つけての考察 と思われる力

,,私

,こ

の時期の作品 (写真のみで し か見 られず

,彫

刻を写真の中に語る事は議に反する事であるが

)に

,前

記 したラオコァン以来

,ブ

ランターシにとっての彫刻の要素 の一つに感情表出が認められ

,取

り分け顔の表情の中に見受けられ る。敢えてこの様に記すのは

,後

のブランクーシの変化の中に重要 と思われるからで

,私

はロマン主義的傾向の強 くなって行 く過程の 姿 として踏まえている。 ブランク

,シ

のブカレス トの美術学校で最初の指導は彫刻家イワ ン・ジョルジェスクによって授けるが急逝 したためにヘーグルに引 き継がれたのである。F当時のルーマニアの彫刻界は謡笙期にあっ た。彫刻 といえばモニユメント

,胸

,墓

の為の胸像 といったもの ②人体標本

(5)

雄 がすべてであ り, しかも公的なモニュメントはほとんどフランスやイタリアの彫刻家に依頼 し てつ くって貰 うという状況だったようである。イオン・ジョルジェスクはルーマニア人の彫刻 家 として公のモニュメントをつ くった最初の人物だった。ジ ョルジェスクの作品はロマン主義 的傾向の強いものとして位置づけられている。」0ク ライオヴァからブカレス トにまで行った理 由はただ彫刻科がブカレス ト美術学校にはあるというだけだったのであろうか。ジョルジェス クの名はどの程度知れ渡っていたのであろうか。彫刻家を目指 した青年は彫刻界の状況をどの 様な目で捉えていたのであろうか。粘土に接 したブランクニシは

,そ

の可塑性の中に自れの感 情を移入することに適 した材料である事を早い時期に知 り得たのではないだろうか。1898年に は胸像 を地方展に出品 してお り彫刻 に対する気持は昂揚 していた。解剖学の教授ディミトリ エ・ゲロタの指導を受け

,二

年をかけて制作 した く人体標本》があるが

,こ

れは口▼マ・カピ トリーノ美術館の

Andnousの

石膏像 (ブランク‐シ自身による写真の中に見受けられる

)を

モデルとしてつ くられている。人体彫刻の探求のために制作 されたのであろうが

,

ミケラン ジェロの若 き日の解剖の姿 ともイメージは重複する。デイミトリエ・ゲロタは後にブランクー シの生活の為に幾 らかの送金をした人物であるが,《人体標本》制作中の二年間に二人の間に どの様な会話がなされたのか興味深い。憶測になって しまうので

,彫

刻家を目指 した若 きブラ ンクーシがルーマニアにおける彫刻界の状況を芸術家特有の感覚を持って受け止め

,ロ

マン主 義的傾向の中に自らの制作指針を向けていたという事のみを留めてお く。 1902年

,ブ

カレス ト美術学校での

4年

間の修学の後

,イ

タリア留学 を国に申請 したが実現 し なか った。友人の中にパ リで ロダンの影響 を受 けたルーマニア人で最初 の彫刻家デ ィミ トリ エ・パチュレアがいた。ロダンの存在 を示唆 したのであろう。ブランクーシはパ リに向か う決 意 をして1903年

,ル

ニマニアを出発する。途中 ミュンヘ ンに立寄 り

,パ

リには1904年の7月 に 到着 している。ブカレス トか らパ リまでの殆ん どの行程 を歩いた。一銭 も持 たず出発 し

,途

中, 身に着けていた物 を売 って食 にあてた とい う。少年時代 に度々家出をし

,ま

た一人で生活費 を 得て きたブランクーシにとっては

,働

けば何 とかなる と思 ったのであろ う。オルテニアの農民 の子 として生 まれた生命力の強 さを思わせ る。パ リについたばか りのブランクーシは言葉 に不 自由 したのであろ う

,ル

ーマニアの友人 と二人でシテ・ コン ドルセ

9番

地の

8階

に部屋 を貸 り た。 しか し

,同

年の うちにラ・ ブールス広場

10番

地の屋根裏の部屋 に一人で移 った。ブカレ ス ト美術学校時代の解剖学の教授デ ィミ トリエ・ゲロタより

,生

活費 としての送金 を受 けてい る力、 日曜 日はパ リのルーマニア教会で働 き

,夜

はレス トランや酒場で皿洗いをした。 1904年の初めの年 は制作が思 うように出来なかった様であるが, しか し

,ラ

・ ブールス広場 10番地の屋根裏部屋では作 られた。(浮彫 り 。頭像・胸像 は石膏 になってい るが

,写

真のみの 確認

)1905年

5月 に ドーフイン広場16番地へ移 る。建物内にはルーマニアの留学生が多か った 事 もあるが,1制作の為 の条件 を少 しずつ よ くしていったのであろう。6月 には

,パ

リの美術学 校 (エコール・ナシ ョナル・デ ,ボ ザール

)へ

入学す る。ルーマニアか らの留学費 を得 る。ボ ザールでは彫刻家アン トナ ン・ メルシェの指導 を受 ける。1905年の後半か らは制作量 も一気 に 多 くなるが

,ブ

カレス トの頃の延長線上 にある。肖像 をかな り作 っているが

,そ

の中で くプラ イ ド〉 と名付 けられた少女の胸像がある。ブランクーシにとって

,最

初の象徴的なタイ トルが 付 け られた作 品 とい う事で注 目される。 くプライ ド〉 はブロンズに鋳造 された。健康的なフォ ゛ ヽ

(6)

ブランクーシの直彫 り彫刻に関する研究 ルムの引 き締 まらた彫刻である。1906年になると肖像彫刻は少な くな り

,子

供の頭像や胸像が 多 くなる。形体上 に も変化が表 われてい る。 く少年の胸像〉では

,頭

部 は右 に傾 け

,右

方 の腕 は肩の付 け根か ら切 られている。顔の表情の中のみでは表現 しえな くな り

,全

体の中に

,よ

り 彫刻的に動勢 をとらえる方向が出て きた。 肖像彫刻の相称か らのこの変化 は

,ロ

ダンの影響 と 受 け止める事 も出来る。ブランク

,シ

の年下の友人で画家の くニコラ・ ダラスクの胸像〉では, 更 に直接的な仕事ぶ りを見 る事が出来る。腰 までの半身像で

,右

腕 は肩の付 け根か ら切断 され 右 日と右耳 ははらき りと作 られているが

,左

目は閉 じられ

,像

の左側半分 は全体 の中にマチ ェールは統一 されている。像の右側 と左傾1は故意に異 なって制作 されている。 この非構造的に 作 られたブロンズ像 は

,光

の効果 に変化 を与 え生命感 を強 く表わ している。彫刻 において腕 を 切 られた画家の ダラスクとブランクーシの会話 も興味深い。 ダラスク「何 を して絵 を抽いたら よいのだろ うか」 ブランクーシ「 目を持 って」0。 休息〉 と題 された作品の中には別の一面 を 見 る事が出来 る。石膏の魂の中に溶けこむように して斜めに横 たえる頭像 は

,顔

と頭部の一部 が形造 くられているだけで,「安息」の状態 を全体 の中に表 わ している。 ロダンの作品の中に 頭部の前面のみ を彫 り出 した作 品があるが

,こ

れは

,ロ

ダンが ミケランジェロの未完の作品か ら影響 を受 けて作 った もので

,ブ

ランクーシの く休息〉 とは大 きな違いがある。 く休息〉 にお ける表現 は

,絵

画的情感す ら感 じさせ

,休

息の雰囲気 を醸 し出 してい る。1906年の秋のサ ロ ン・ ドー トンヌにイタリアの彫刻家 メダル ド・ ロ ッソが

,ロ

ウの く少年の頭部〉 を含 む三点 を 出品 している。 この時の展覧会 には

,ブ

ランクーシも くプライ ド〉 を出品 しているので

,当

然 口 ,ソ の作品を見ている。ロダンの躍動感か ら

,デ

リカシーやニ ュア ンスの領域 とで も言おう かロ ッソの持つ世界1に 新 しい開拓 の 目を向け始めていた様子が伺える。パ リで彫刻制作 に入 っ てか らの変化 は著 しい。パ リに強い決意 を持 って来たブランクーシにとって

,ロ

ダンヘの傾倒 は最初の変化 を見て読み取 る事が出来る。 しか しなが ら

,そ

の始めか ら天性の才能 を発揮 させ, 彫刻制作 を推めて きたブ ンクーシにとって

,自

然主義的な再現性の強い塑造の制作 に

,疑

間を 感 じ始めて きたのではないか。天賦のオ能の他 に

,真

面 日で真剣 なその性格 は

,精

神的な純粋 性 を思考 しは じめ

:表

現すべ く葛藤 していた時期 と思われる。

ロダンとの出会い・別れ

1906年の秋のサロン・ ドー トンヌヘの くプライ ド〉の出品は

,ロ

ダンの 目に留 まった。助手 としてア トリエに来て働 くよう

,ロ

ダンに勧め られる。 この事の裏には

,ブ

ランクーシの友人 とパ トロンの二人の女性がロダンに働 きかけたようである。パ リのボザールにいたブランクー シは

,ボ

ザ∵ルの年令制限にかか っていた。 この働 きかけは

,喜

んだに違いない。1907年 1月 にボザールを出た後

,す

ぐにロダンのア トリエで働 いている。 しか し

,ロ

ダンのア トリエ にい たのは 3月 までの 3ヶ 月間だけである。余 りに有名な「大樹 の下では何 も育たない。」 とい う 言葉 を残 してア トリエ を退 くのであるが

,こ

のエ ピソー ドが “二人の巨匠の別れ

"と

,美

術史 の流れの中で捉 えれば美 しい。だが

,大

巨匠であったロダンと

,31歳

とはいえ遅 くに彫刻 を始 めた言わば青年期のブランクーシの状態 を考 えると

,話

は別である。ブランクーシのその後の 方向転換 と彫刻の仕業 を知 っている者 にとっては

,こ

の三 ヶ月の中にキニワー ドが隠されてい る様 に思える。 この頃のブランクーシの状況 は

,心

境 か ら述べ ると

,精

神状態 は非常 にデ リケー トで鋭敏 な 状態であった と思 える。 この事 を作品 を通 して考 えるならば くプライ ド〉 の後 に「子供」の彫

(7)

秀 坂 刻制作が行 なわれ感情表現の追求がなされている事や,「画家の肖像」の ような

,構

造 を くず して まで光の効果 の為 のマチエールの研究的作品

,そ

して,〈青春〉,く休息〉 の ようなロ ッソ に近い叙情的作品などがあげ られる。そ して

,こ

の様 な傾向が

,一

年間の中で進行 した とい う 事である。性格 は

,生

い立ちか ら見て くれば理解 される事であるが

,ル

ーマニア出身の農民の 子 として

,生

命の遅 しさを感 じす ぎると見過 ご しかねない。真面 日で勤勉 な姿勢 は独学で文盲 状態 を脱去,し

,人

柄 となって人 を引 き付 けて きた。 この頃のロダンの状況 は

,1989年

のパ リ博覧会へ の出品以来

,国

際的 に名が知 られ る様 に なっていた。その事 を察知 したロダンは

,1900年

のィヾり博覧会 には自ら個展会場 を建 て,「ロ ダン展」 を行なっている。 この展覧会は

,自

ら精力的に運動 した事 もあって大成功に終わるの である。ロダンはこの時の事 を「20万フランほどの売上げがあったが

,こ

れは もう少 し伸 びる はず だ。注文 もそれ以上 きている。 ほとん どすべ ての美術館が買っていった。 フィラデ イル フイアは『考 える人』 を買 った し

,コ

ペ ンハーゲ ンは

8万

フランを投 じて館内に独立 した部屋 をつ くった。ハンブルグ

,

ドレスデン

,ブ

ダペス トなどの美術館 もやってきた。」0と友人への 手紙に書いている。金の金額が出て来て嫌味な感 じは受けるが

,ロ

ダン自身にとって も

,全

盛 の時なのである。結局

,彫

刻の注文をこなす為に芸術家や技術者を雇うことになる。常時12人 以上の助手が働いたといわれる。この中には

,大

理石の主任をつとめたブールデルやデスピオ などの彫刻家が含 まれている。石の仕事は職人の仕事 という考えは

,ヨ

ーロッパ全土に広がっ ていた考えだが

,ロ

ダンも石に対 しては同様の考えを持っていた。 二人を同時に考える時

,余

りに違 う人間像が浮かび上がって くる。ブランクーシにとって, 当時

,す

でに教官的立場にあった

,ブ

ールデルやデスピオを職人としてのみ使 うロダンをどの 様に見たのか。ロダンの女性への行動 も

,公

然の事 として受けとれたのであろうか。ブラン クーシにとって会 う前に描いていたロダン像 と目の前のロダンとの違いに驚いた事 と思われる。 多分

:一

番失望 した事は

,彫

刻の注文作品を手がけてない時の助手達に手や足をつ くらせ

,注

文のあった時に

,合

体 させるというロダンの方法論であったろうと思う。失望無 くして

,大

巨 匠の許を3ヶ月で退 くはずはない。

祈 る人・ 接吻

1907年 4月 。 ロダンのア トリエ を去 るが

,ル

ーマニアの ペ トレ・スタネスクの墓のモニュメ ン トの依頼は一つの契 機 となったであろ う。 ブランターシはモニュメ ン トの為 に 7000フ ランを得ているが

,こ

の金の一部で今 までの住 まい か らモ ンパルナス街54番地のア トリ■ を手 に入れた。墓の モニュメン トは

,ペ

トレとその娘の為の もので

,ペ

トレの 墓 の為 には胸像が作 られた。娘の墓の為 には

,幾

つ もの試 作 を試みている。写真 に示す ように前かがみになった裸像 に表現 されているが

,始

めの段階では着衣であった。左足 を少 し前 に出 してひざまづぃた若い女性が

,体

を前 に傾 け 頭部 は更 に下げて十字 を切 る動 きの中にまとめあげている。 左腕 はひ じの先か ら切 られている。 この作品は墓か らはず され

,現

在 ブカ レス トの美術館の ③祈 る 人

(8)

ブランクーシの直彫 り彫刻に関する研究 中に収 まっている。写真 による

,マ

チエールなどの判断か ら

,早

計 に

,稚

拙 な勉強過程の作品 などと見ては間違いである。彫刻 は写真で判断出来ない事 を物語 る作品で

,こ

の彫刻 を目の前 に した時の感動 は今 も残 っている。彫刻のまわ りの空気 は厳粛で清澄 な深 さを現出す るも込み 上げる哀愁は

,精

神的な女性の裸 を美化す るё芸術家の真剣 な態度 はそのまま形 となって表わ れている。表面のマチエァルの統一は

,肉

感か ら遠 ざけ人格す らも退 ける。人間の肉感的躍動 を避 ける為 に単純化 された形体 は

,彫

刻の全体 を包み込んでいる。腕の切断は

,細

かな邪魔な 表現 とともにカ ットしている。 これまでブランクーシによって作 られて来た彫刻 と,〈祈 る人〉 との違 いは

,そ

の まま自ダ ンの彫刻 との違いを現わ している。 ロダンのア トリエでの苦悩の結果がすでにブランクーシの 中にすつの方向を示 している。 ブランクーシの 〈祈 る人〉 における腕のカ ットは再現的具象彫 刻の表情の過多の消去の方法 を示 し

,成

功 している。 ロダンの生命表現 に必要な乳房の表現 も, ここには見 られない。感覚 として腕の中にあるとい う事のみ確認出来る程度であるも体全体の 引 き締 まった中に統一 されている。若い女性 の姿 は

,ロ

ダンの追求の結果のエ ロチ ッチに近 よ らない。左足 は少 し前 に出 しているが

,動

勢の為でな く「祈 り」の中に穏やか さを示 している。 自然主義的表面の印象 を避 けたこの表現 は

,ロ

ダンの彫 刻の表現方法か らの別方向への転換 を意味 している。 〈祈 る人〉 と同年1907年の後半 に制作 され

,ロ

ダンの彫 刻 と決定的な相違 を示す く接吻〉 と題す る石彫がある。全 てにおいて

,ブ

ランクーシのそれ までの作 品 との違いを見 せ てい るので全 く別人の作 品の様 な印象 を与 える。 この く接吻〉 の制作以来

,同

一主題 を繰 り返 し取 り上げ

,他

の テーマ と重複 して仕事が進 むようになる。他 の作家 に類 を 見ぬ長時間の中での連作 は

,ブ

ランクーシの特別 な探求方 法 と言 える。 この時か らブランク

,シ

の彫刻の世界の開拓 は始 まった。

7点

ある く接吻〉 の第1作か ら第

7作

までの 制作年数 は33年間に及んでいる。 ロダンの彫刻の中に1886 年の く接吻〉があるが

,ロ

ダンとの一致性 を捜す とすれば, タイ トルのみで

,全

ての点 で

,ロ

ダ ンに対 す るア ンチ0 テーゼである。ブランク

,シ

の この く接吻〉の特質 をあげ るならば,'まず技術的な意味で

,直

彫 り (direct carving) があげられる。19世紀のヨ■ロツパの石の彫刻はほとんど, 石膏のモデルから

,カ

リバスとポインティングマシーンを 使っている。 しか し

,直

彫 りの場合

,モ

デルはない。腕は 想像力によって導かれ

,想

像力は彫刻の手順 と材料により 影響 されるのである。石は粘土の軟 らかさへの批判から来 る直線的形体 を生み出す。粘土のインスピレーション的な 仕事の発展に対 して石はいつ も確固たる形で彫刻家の許に 提示 される。直彫 りは

,職

人の介在無 しに

,概

念 と完成 を つなぎ合わせるのである。 形体の上では

,乳

房は輪郭が彫 られている程度で

,男

女 ④接吻 ⑤接吻 モンパルナス墓地

(9)

雄 秀 坂 の性的特色の形体は

,合

わ さった面の中に消失 している。 日と目を合わせ

,唇

は合わされて一 つ になっている。男性の髪は真直 ぐで

,女

性 の ものはウェープがかかっている。鼻 は合わ さっ た面の中に消 している。耳はない。男女の抱擁する姿だが全体 には一つの直方体の中に収 まっ ている。⑤の写真に示 されたものは唯一の全身像で

,他

は全て半身像である。繰 り返 し制作 さ れるうちに全体像は

,丸

みが薄れ

,直

方体に近づいて行 く。腕なども非再現的になり

,日

は記 号化 されてい く。素材については

,石

灰石か砂岩系の材料である。敢えてロダンと比較すると, ロダンの く接吻〉 は

,大

理石で

,磨

かれ

,光

の反射が躍動感 を強めている。ブランクーシの く接吻〉においては

,彫

りは粗々しく

,ロ

ダンとは対照的である。③の写真の く接吻〉は

,モ

ンパルナス墓地にある1910年のモニュメントである。若 くして命を絶ったロシア女性の墓に, 残されたルーマニアの婚約者により依頼されて据えられたものである。この彫刻が墓に据えら れたことの解釈 と発想を探るにあた り

,ル

ーマニアの研究家ペ トル・コマネスクの書いている

ものを引用する。「昔,ル ーマニアや,そ の他の民族において

,樹

木は生きものと考えられ

, そ して

,本

は魂の化身であるとい う信仰があった。ルーマニアの農民は

,若

くして死 んだ墓の 上に しば しば木 を植 えた。又

,愛

す る男女の どちらか一方が死んで

,結

婚出来 なか った時に, 生 き残 っている者が死者の墓の上 に

,枝

がお互いにか らみ合 う様 に二本の本 をぴった りとくっ つけて植 えた。二本の本が葬式 に際 しては

,永

遠のかわ りなき愛の力 を表わす ように

,又,結

婚 に際 しては

,生

,又

は豊か さのシンボル となることもある。」0こ うした

,イ

ン ドョーロ ッパ 系の中の絡みあった樹々の伝説を関係づけた時

,こ

の墓に据えられた く接吻〉に対するプラン クーシの意図が明確化 され

,そ

うして

,そ

の後のブランクーシの幾つかの作品のもつ両義性に は

,同

時 に死 に対抗 して生 と

,後

の新 しい世代 の産出を祝 う意味が含 まれて くるのであ る。

眠れ るミューズ

1907年 にロダンの ア トリエ を出た後,〈祈 る人〉 く接吻〉 に見 られる様 に反 ロダン的彫刻制作 を試み その中において

,こ

れか ら進 むべ き方向 を画策 して いるが

,技

法的開拓 の直彫 りは

,翌

1908年には

,大

理石 によって行 なわれている。 く少女の頭部〉 く子供 の頭部〉 〈眠 り〉 〈眠る子供〉 くトルソ〉 などであるが, ここにおいての形体表現 における追求 は

,粘

土 によ るモデ リングの仕事 を大理石 によるカーヴィングの 仕事 に変 えた程度 に見 えるだけである。その中で注 目されるのは,〈眠 り〉 と題する作品で

,前

出 した く休息〉(石膏

)を

ルーマニア人の依頼 によ り

,大

理石に彫 り直 した ものである。現在 ブカ レス トの美術館 にあるこの作品は

,頭

部 とい う よ り顔面だけといった方が適切か も知れない彫 りにかかわ らず,「眠 り」の状態が よ く表現 さ

れている。頭部の傾向きが

,眠

る時の傾きと呼応 して自然さを感じさせるのであろう。頭部だ

けの彫刻であっても。「休息」が「眠り」にタイトルが変えられた,こ の事はプランクーシの

彫刻において重要なテーマであった事を思わせる。く

眠る子供〉 という彫刻のタイ トルもこの

年の作品の中にあるが

,「

眠 り」は「子供」のモデリングの制作の中で二年前から続けられて

いる。「眠 り」は

,フ

ロイ トなどの意識下の論に影響を受けていると思われる。

1910年

には

③眠れるミューズ

(10)

ブランクーシの直彫 り彫刻に関する研究 くBarOness R.F〉 と題する頭像がある。エ コール・ ド0パ リの画家モデ ィリアーニは1909年よ り

2年

,ブ

ランクーシのア トリエで石 を彫 っている。くBarohёss R.F〉 は

,モ

デ ィリアーニ の石の頭像や

,描

かれた女性の顔 に

,引

き伸 ばされた細長の顔の輪郭において

,類

似性 を見せ ている。モデ ィリアー■は黒人芸術やエジプ ト彫刻への関心 を持 っていたが

,ブ

ランクーシは 影響 されたか も知れない。1907年の く少女の頭部〉 とい う類似 した石の作品がブランクーシに あるが

,モ

ディリアーニの制作以前 にこの様 な作品がある所 を見ると

,ブ

ランクーシがモデ ィリ アーニに影響 したのか も知れない。いずれにせ よ

,ブ

ランクーシの彫刻の展開 としては,〈眠 り〉 の内面的思考が,〈 BarOness R.F〉 の形体 を踏 まえて く眠れる ミューズ〉へ と発展 させて いる。 〈眠れ る ミューズ〉 と題す る作 品は大理石で彫 られた

,頭

部 だけの彫刻である力ヽ「眠 り」の自然の状態 に

,頭

部 を少 し傾 けた程度 に置かれる様 に作 られている。く眠れる ミューズ〉 のテーマは繰 り返 し進め られ

,進

め られるに したが って

,日

,鼻

,日

の細部の表現 は

,最

少限 の起伏 を感 じさせ る程度へ と転開す る。その結果

,頭

部の持つ形 は卵形の

,い

かに も幾何学的 な形体へ と進展す る。実際に最後の形体

,卵

その ものの形体 を作 りあげるのであるが

,ブ

ラン クーシは

,そ

の作品に く世界のは じまり〉 とい うタイ トルをつけている。人間内部の心が形に 還元 されて行 く様 を明確 に言い得ている堀内正和氏の言葉 を借 りると,「幾何学的 な形 は自然 のなかには少ないが頭のなかでは容易に思い描 くことが出来 る。それは人間の内部 にある形体 秩序の感覚か ら生 まれる形だ。」m ブランクーシは,〈眠れる ミューズ〉か ら直接 く世 界のは じま り〉 に至 った訳ではない。1910年か ら, 1920年までの10年間 を要 している訳で

,そ

の間に, この為 に思考が繰 り返 されたであろ うと思 われる作 品 に は,くプ ロ メ テ〉 (1911)〈 眠 れ る ミュー ズ〉 (1914)く新 生〉(1915)くうぶ声〉(1917)〈新 生〉 (1920)があげ られる。 これ らの彫刻のひとつ ひとつが完結 した形 をとり, 形体の美 しさのみでな く

,形

体 と空 間 との緊張 をつ

くり出している。それぞれの作品の大きさは

,腕

かかえこめる大きさだが

,「

タイトル」との一致を見

,究

極 的な大 きさを示 している。 く世界のは じま り〉が示唆す ものは

,自

己の世界・彫刻の世 界のは じま りと

,宗

教学者エ リアーデのい う宗教 における世界のは じまりともとれる。いずれ に して も

,ブ

ランクーシが1907年以降直彫 りの中で求めて来た形体 と

,ブ

ランクーシの思考 と の結実 を見る事がで きる。その結果

,新

たな世界への飛躍 をブランクーシの彫刻の中に

,そ

し て押 し進めて来たプロセスの中に

,己

ず と発見 したのではないだろうか。く眠れるミューズ〉 くプロメテ〉く新生〉などは

,大

理石 (白

)を

光沢が出るまで磨 きあげているが

,必

ずプロン ズで も作 られ

,や

はり磨 きこまれている。その結果の材質 (素材

)の

特質性 と

,形

体による材 料の選択の厳密な使い分けがある。 しか し

,こ

の事 は

,直

彫 りを始めて以来,「テーマ」一 「 タイ トル」一「形体」一「材料 (素材)」 一「仕上げ (マチエール)」 の一致を見る時

,初

期 段階からの思考の範ちゅうにあったものととるべ きかも知れない。心 と彫亥1に内在する意味性 とブランクーシの思考形態を宗教学者エ リアーデの言葉を借 り

,次

の項 目への足がか りとした い。「インドの神秘主義の語彙の中に人間

=家

の同一視が

,と

りわけ頭蓋骨 と屋根あるいは円 ⑦世界のはじまリ

(11)

舅 辮 難 , 思 口 印 の 作 と の   へ ヽ 翔 一 飛 ク   , ン   て ラ   し ブ そ 夕 ヽ

は ま l じ る 。 は あ の

の でく

な 為 ズ 行 一 の   ユ 仏 る た れ し 眠 一旦

屋根 との同一視が保持されてきた。…根本的な神秘体験

,す

なわち人間的状況からの解脱は

『屋根の破毀』と『空中への飛翔』という二重のイメージにようて表現されているのだ。……

大部分の古代的世界観においては

,『

飛翔』のイメージは超人間的な存在様態

(=神

,呪

術師

,

『精霊』

)へ

の接近を表わし

,そ

して

,窮

極的には随意に動 くことのできる自由を

,従

って霊

的状態を自らのものとすることを指している。……神話的次元では

,破

壊という乱暴な行為に

よって この世界 を超越 す る典 型 的行為 は

,宇

宙 の卵 ,『 無知 の :轟

殻』を『割 り』

,『

至福 とブッダの普

厳』 とを獲得

レを

彗彗事

:襲

空 間 の 鳥

〈世界のは じま り〉で結実 した一つのテーマは く空間の鳥〉 の連作へ と展開す る。テーマの重複 は

,同

一テーマ内での形体 の完結への方向 と

,同

時 に

,テ

ーマ同志の関連 をも示 している と考 えられる。ブランクーシの思考の内的作業が く世界のは じ ま り〉か ら く空 間の鳥〉へ と関連 を持 って進行 させ た として も 形体上か ら見て く空間の鳥〉の出発 は

,1910年

の くマイアス ト ラ〉 か らと見 るべ きであろ う。 〈マ イアス トラ〉 とは

,ル

ーマ ニアの伝説の中に出て くる鳥の名であるが

,直

接 的にルーマニ アに関連す るタイ トルが付 された唯一の作 品である。エ リアー デは「ブランクーシと神話」の中で,「『影響』 は彼 に一種の記 憶 回復 を起 こさせ

,彼

を不可避的に自己発見へ と導いた と言 え るだろ う。パ リの前衛芸術の作品や古代的世界 (アフ リカ

)の

作品 との出会いは

,彼

の中に 『内在化』 の動 き

,幼

年時代の世 界であると同時に想像 の世界であるゆえに忘 れがたい秘密の も の となっているあの世界への回帰の動 きを

,堰

を切 ったように 開始 させ たのであろ う。」0と影響 を前衛芸術 やアフ リカ彫刻 に 見てい る。 しか し

,直

接 の引 き金は

,ロ

ダンとの出会いであ り, 決別が

,自

己の出発点へ引 き戻 したので はないか と考 える。前 記 したが

,10年

間続 けて来た技術 を捨 てた事。それは

,10年

間 に授 けた彫刻 の指導 とい う事 をも含めて完全 に捨 て去 ったので はないか。何故 ならば 〈祈 る人〉以前の作 品は

,ブ

ロ ンズに鋳 造 された作 品以外,〈人体標本〉 を除いて全て消失 している。 たぶん

,ブ

ランクーシの手で こわされたのであろう。(く人体標 本〉 は彫 刻 家 に指 導 され た もので はない。

)こ

こで

,ブ

ラ ン ク

,シ

が帰依す る所 は何処であろうか。蓄積 して来た ものを, 自ら瓦解 して

,尚 ,同

じ世界 に生 きて出発 しようとす る時

,34

歳 のブランクーシは

,11歳

で家出をした少年の頃に

,必

然の如 ③ マ イ ア ス トラ

(12)

ブランクーシの直彫 り彫刻に関する研究 く考 え を巡 ら した ことと推 察す るも牧童 の頃聞いたであろ う伝 説 の話 と

,そ

の頃 ル‐マ ニ アで見 た空 を飛 ぶ鳥 は

,ブ

ラ ンクー シの 明 るい未来 を示唆す る 自由べ の羽博 を持 って

,夢

を懐 かせ たのであろう。伝説の鳥 と

,夢

みた鳥は くマイアス トラ〉 と なって彫刻 された。一作 目の自大理石の くマイアス トラ〉は現

在ニューヨークの近代美術館にある。く

Double Car,atid〉

の上

に載 っていて

,人

の 目線か らはかな り上方 に作品があるように 感 じられ る

6ま

ずは威厳す ら感 じて しまう作品である。次 に豊 かに膨 らむ胸 は見 る者 と呼応 して安 らぎを与 える。全ては磨か れているが

,照

り返す輝 きは無 く

,光

は形の中に充満する。 こ の磨 きは作品の形体 と合い まって完壁 な ものである。 白大理石 の透明性 は

,周

囲の空間 と和合す る

6ル

ーマニアの伝説 を彿彿 させ る。191o年の くマ イアス トラ〉か ら く空間の鳥〉 まで を連 作 として見 る と27点を数 え

,30年

間に渡 る連作 となる。 くマ イ アス トラ〉

(7点

)か

ら く空 間の鳥〉(16点

)の

中間 に く鳥〉

(4点

)の

作 品があるが

,形

体的な意味での大 きな変化 として 捉 える と

,四

段 階 に分 ける事 が 出来 る。最初 の くマ イアス ト ラ〉 か ら

5番

目の 〈マ イアス トラ〉 までは

,首

の傾向 きと胸の 膨 らみが微妙 に違いを見せ るだけだが

6番

目と

7番

目の くマイ アス トラ〉 は

,足

の部分 は変わ らないが

,首

か ら上 は真直 ぐ上 方 に向けられ

,嘴

の部分 は浅い

Vカ

ットで示 されている。 く鳥〉

(4点

)に

至ると

,足

の部分の 形体が消去 されて胸か ら一気 に下に向か らて絞 られた形 になる。上体 は

, 6, 7番

目と同様, 真直 ぐ上方 に向けられている。 この第

3段

階 までの変化の中に上昇のイメニジを見い出す事が 出来 る。その事 を裏付 ける様 に く鳥〉 か らの台座 は菱形の連結 した形 になっている。 このギザ ギザの輪郭 を持つ菱形の形 は

,

しぼ られた足の部分か ら豊かな胸へのフォルム と相侯 って上昇 への運動 を強める。この菱形の形体 は

,ル

ニマニアの人家によく見 られる柱の形である。最後 の段階 く空間の鳥〉 に至 っては全体 は紡錐形 をして

,嘴

にあたる部分 は切断面 を残すのみ とな る。そ して

,下

の部分 に

,下

か ら上へゆるやかにすぼまる二段の形体が加えられた。第

3段

階 での台座部分の菱形が鳥の中に取 り入れ られたのであろう。 ここに上昇のイメージが形 となっ て完結す ると直 ぐ下の台座 は円柱の形体 に変わる。第

3段

階の 〈鳥〉 までは

,プ

ランクーシ自 らの タイ トルの様 に

,形

体 に鳥のイメージを残 している。 この事 は思考の中に「鳥」 に対する こだわ りが まだ見 られるか らであろう。 く空間の鳥〉 に至 って「上昇」のイメージの確立,「飛 翔」の概念 の思考が

,別

のルー トで押 し進めて きた く世界のは じま り〉 と合体 し

,(自

分 の) 彫刻の本質を確認 し得た時 と見たい。 〈空間の鳥〉 を見た者 は

,誰

で もが不思議 に思 うに違いない。特 に大理石の作 品 を見ると, 空間の中で夢 を見ている様で

,作

品が夢 を見ているのか

,自

分が夢 を見ているのか。形 は空間 の中に消 え入 る様でいて

,よ

くよ く見 ると確固 としてある。 この左右 シンメ トリカルな形体が 何故 に

,こ

の様 な現象 を感 じさせ るのだろうか。先端 にいって輪郭的には鋭いはずの

,こ

の細 長い形体 において

,堅

さはない。いやお うな しに心 を惹 き付 けるこの力は

,精

神の他 の何 もの で もない。人間の感性 との対話。全 て を意識下の状態の中に

,自

昼夢 の中に対話す るプ ラン ⑩ 空 間 の 鳥

(13)

雄 秀 坂 登 クーシの彫刻 は

,ブ

ラ ンクーシのパ リの ア トリエ の中で制作 された ものであ る。 木

彫 同一テーマの繰 り返 しの制作の中で

,特

異 に見 える木彫の作品が不連続 に登場する。 タイ ト ル

,形

体 における他のシリァズ との相異 は

,ブ

ランクーシの思考の姿勢 と

,ブ

ランクァシの人 間性が出てい るエ ッセイの様 に感ず る。石の直彫 り彫刻が始め られて

6年

後の1913年に く第一 歩〉 と題 される木彫が制作 される。幼児が初めて歩 き始める姿 を形 にに した もので

,形

体的に, アフ リカ彫刻 との類似性が見 とめ られる。翌年

,ニ

ユーヨークの展覧会に出品された後

,頭

部 だけが残 され

,あ

とは

,本

人の手でこわされた。頭部 はプロンズに鋳造 され くThe First Cry〉

と題 される作 品で

,磨

かれた。 このい きさつ は

,ア

フリカ彫刻の影響 を指適 され

,そ

の事 を気 に しての行動 とシ ドニー・ ガイス トは述べている。10く小 さなフランスの少女〉 と題す る作品 は

,形

体 か らは,〈第一歩〉 と同様

,ア

フ リカ彫刻の臭いはある。が

,ブ

カレス トの村落博物 館 にある家 を見 ると

,門

か ら始 まって

,柱,戸

,調

度品

,道

具に至 るまでほどこされた彫刻 群 に類似 し

,あ

るいは

,ル

ーマニアその ものの臭いなのか も知れない。モデ ィリアーニ とア ト リエで共 に仕事 をしたことは前 に述べたが

,少

くともその時か らアフリカ彫刻 に心 を動か され たの も確かだろ う。 この頃のパ リにおいては

,(広

くは

,ヨ

ーロ ッパ

)ア

フ リカ美術 の生命力 に対 して

,多

くの芸術家が注 目している。その背景 には

,社

会的状況 に対する疑間が生 じて き たことが原因 している。 アフ リカ彫刻 に関 して,「バ ン トゥ・ ニグロは

,人

間の神秘的な生命力 を強めるために破壊 された秩序 を回復するための儀式 を必要 とす ることになって くる。すべての もののなかに精霊 を認めることはアニ ミズムの宗教であ り

,こ

のア ミニズムの宗教的・象徴的機能 を果たすため に亥Jまれたアフリカの彫刻 は

,こ

の儀式のなかで重要 な役割 を果す もの となっている。われわ れが

,ア

フリカの彫刻 としてその造形 を賞讃 しているアフリカ彫刻は

,こ

のような宗教的な機 能 をもった もの として彫刻家 によって刻 まれた ものである。」い)と

,土

方定一氏 は述べている。 彫刻家 とは

,そ

の種族の長老のことである。 この彫刻が生産 された場所 は

:ア

フリカ全域では ない。西 アフリカとコンゴを中心 とする地域で

,耕

作地 (サヴァンナ

)と

森林地帯である。・こ の状況 はルーマニアの環境 と類似 してお り

,ル

ーマニアの宗教観 と根源的な類似 を見せている。 ブランクーシがアフリカ彫刻 に触発 された として も

,形

体的に模倣 したとは思 えない。ルー マニアには

,本

に対する宗教観があ り

,ブ

ランクーシは

,子

供の頃に身につけていたと思わせ る事柄がある。本の材質の使い分 けである。そ して

,樫

の様 な硬い本の時は粗いナタ彫 り式の 彫 り方 を見せ

,軟

い本の場合 には

,丸

みを帯 びた形 にな り

,磨

いている。この事 は

,テ

ーマに よってブランクーシの中で選択 されている。 この様 な材料の選択 は昔のルーマニアの家 を見 る 事で知 る事 もで,きる。ブランクーシは本 を使 う事 によって

,人

=生

=家

を精神的思考の観 念 を持 って彫刻 したのではないか と思われる。(アフ リカにおいて も

,彫

刻 される場合

,本

が 選択 されている

)話

を戻す と,〈第一歩〉 と く小 さなフランスの少女〉の中には

,ブ

ラ ンクー シは根源的な生命力 を表現 した といえる。子供 を作 った事が理由である。 他 に く放蕩息子〉 くアダム とイブ〉の様 にロダンの タイ トル との一致 を見せ るものがあ る。 しか し

,こ

こで比較論 は しない。 〈放蕩息子〉 は極度 に抽象化 された頭部 と家 とが合体 した様 な形体で

,ブ

ランクーシ自身がルーマニアの慣習の中に漂 う姿 とも見れる。材質は樫の本で, 直線 的な形体 の作品である。 〈アダムとイヴ〉 は直方体の本 を境 に

,上

にイヴ

,下

にアダム を

(14)

ブランクーシの直彫 り彫刻に関する研究 作 り

,イ

ヴは栗の本で丸みを帯 びた形 に

,ア

ダムは樫の本で

,ギ

ザギザのある柱 を想定 させ る 直線的形体 を見せている。 イヴには豊饒 を

,ア

ダムには

,男

の地下で支 える役割 を

,ル

ーマニ アの宗教 的思考の中に表現 した ものであろう。 また

,ア

ダムの形体 は

,数

点ある木彫の くカリ アチュー ド〉 と類似 している。木彫 は

,第

一次世界大戦の時期 に多 く作 られている。戦争 を避 けて

,ス

イスで ダダイスムを起 こ した芸術家など

,パ

リを後 に した者 も多い。パ リに留 まって いたブランクーシに

,不

安 は多かったと思われるが

,そ

の様 な時故 に

,石

の制作 に見 られる探 究姿勢 とは別な

,ブ

ランクーシに しては

,生

活 に直接的 とさえみえる木彫が作 られたのであろ う。他 に,〈魔女〉や

,ル

ソーとの出会いを彿彿 させ る様 な くエキゾチ ックな植物〉

,初

め く仏 陀の精神〉 と題 され

,後

に く王の中の王〉 とタイ トルが変更 された作品など特異なタイ トルの 付 された作品。 〈男の トル ソ〉 の様 にブロ ンズにもされた作 品。後に拡大 された く雄鶏〉 や, 野外のモニュメ ン トに結実す る 〈無限柱〉 など

,木

彫作品には

,様

々な思考で

,拡

散 してい く。 逆に絞 り込んで来れば

,そ

こにブランクーシが見えて くることになるのだが。 モ ニ ュ メ ン ト ルーマニアのテ ィルグ・ ジウ市 に1938年 く無限柱〉が 設置 された。1935年に

,第

一次世界大戦の戦没者の為の モニュメ ン トとして依頼 される。二つの作品 を設置す る ことを依頼 されたブランクーシは く無限柱〉 の他 に く接 吻の門〉 を置 く事 を計画 した。更 に

,見

知 っていたテ ィ ルグ・ ジウではあったが

,現

地 にお も向 き

,自

ら設置す る場所 を決め る と同時 に 〈テーブル〉

(?)と

〈30の椅 子〉 と 〈沈黙のテーブル〉 と 〈2つのベ ンチ〉 を加 える 事 を計画 し

,現

在有 る様 に したのである。テ ィルグ ◆ジ ウは現在で も都市 とい うよ り小 さな町であるが

,ブ

ラン クーシの彫刻 は

,英

雄通 りの両端 に設置 されている。東 の外 れの

,以

前 は干草市場 と呼 ばれた公 園の少 し盛 り上 が った中心 に,30メ ー トル近い高 さの 〈無限柱〉が建 っている。この公園には

,更

に東のはず れに

,円

型の くテーブル〉が設置 されている。 く無限柱〉か ら英雄通 りを西へ向か うと

,踏

切 りのない線路 を横切 り

,

しばら く行 くと

,英

雄通 りの真 中に建つギ リシャ教会 に行 きあたる。 教会 を巡 るように して西へ,く無限柱〉か ら1キロメー トルの所 は

,テ

イルグ 0ジ ウの公園で ある。 〈接吻の門〉 は公 園に少 し入 ってはい るが

,公

園の門の様 に して存在 してい る。テ イル グ・ジウ公園は南北に長い長方形の大 きな公園であるが く接吻の門〉 は南の端近 くに位置 して いるしく接吻の門〉の両脇 に く2つのベ ンチ〉が置かれている。 く接吻の問をくぐり真直 ぐに進 むと 〈沈黙のテニブル〉がある。門 とテーブルの間には道の両側 に30の椅子が並 んでお り, 3 つづつが向い合 った道の上 には大理石で四角い線が描 かれている。 く沈黙のテーブル〉 の直 ぐ 裏 ろはジウ川が流れている。これがブランクーシのア ンサ ンブルと呼ばれるモニュメン トの配 置であるが

,非

常 に厳格 な置かれ方 を示 している。 ⑪無 限 柱

(15)

ティルグ・ジウのモニュメント配置図》

第一次世界大戦の戦没者の慰霊のモニュメン トとして選ばれた作品 と厳格 な配置 と

,テ

ィル グ・ ジウの場 とを考 え合 わせ る時

,ブ

ランクーシの思考の体系 を見 る事 は可能である。く無限 柱〉 は

,形

の上では既 に木彫の中で作 られて来ている。又,'この菱形の連系する形 は 〈`鳥〉の 台座や くアダム〉の形の申などに試みられて きた。ルーマニアの家の柱の中に見い出す事が出 来 る。柱 は (家の構造 その ものが

,宇

宙の三界 を結 ぶ為の世界像 と見 る古代 的宗教観の中で

)天

を支える象徴である。 この上昇のシンボ リズムは菱形の連続の中に

,見

る者 を

,下

か ら 上へ と押 し上げる

6屋

根 を支えていた家の柱 は

,今

や宇宙 を支える事 となったのである。東の はずれの円型の くテーブル〉 は

,何

の為 に置かれたのか。 く空間の鳥〉の連作の中で,〈鳥〉 の 段 階か ら 〈空 間の鳥〉へ と移行 し

,結

実 した時 に,〈鳥〉 の台座であった菱形 の連系の形 は 〈空間の鳥〉 では1「 鳥」 その ものが「飛翔」 し得 た為 に

,台

座 は円柱の形 になった事 を指適 した。 この円柱 の形が

,こ

こに在 る。〈空間の鳥

)は ,今

まさに

,柱

が支 える宇宙の中に飛翔 しているのである。円型の くテーブル〉 は,〈空間の鳥の台〉 と呼ぶべ きであろ う。 この様 に

考察するのは

,ブ

ランクーシ

│ま

台座の事に関して

,美

史上見られない神経の使い方をしている。いいかえれば

,

今までの台座の観念を変え

,台

産を払いのけた作家とい

える

│1更

に準あて言サなら

11‐

台座の払拭は

,建

築の装

飾的にも存在して来た彫刻を

,独

立した存在にしえたとい

うことにもなる。ロダンは人間の生命を表現することに よつて

,本

間の許に

,彫

刻を引き戻 したのであるが

,全

く別な思考で

,別

な方法の中│で

,彫

刻を独立させ

,彫

そものに力を与えたのである。〈

接吻の門〉は,直 彫り

彫刻 を初めたばか りの く接 吻〉 か らの延長の ものであ る ことは

,タ

イ トルから知れる事であるが,「F可」に至っ ては初期の具体的形象は見られない。形象は

,思

考の中 に象徴化され

,デ

ザイン的な図像を呈 している。柱の部 分は,〈接吻〉の中での

,日

だけが取 り上げられ

1円

型 に図像化され

,豊

饒を意味 している様に思える。門の上 '部には

,全

身像の 〈接吻〉の輪郭的形象が一周 してお り , 前後16体

,左

4体

ずつの40体が彫 り込まれている。全 体は

,厳

格な四角いマ ッスの中に取 り込 まれている。 く接吻の門〉 と く沈黙のテーブル〉

,そ

の間の椅子の配 置と道上の白い図象の配置の厳格さは 〈接吻の門〉の空 ⑫ 接 O F電 ①沈 黙 の テ ー ブ ル

(16)

ブランク‐シの直彫 り彫刻に関する研究 間の中に「結界」 を想起 させ る空気 を感ず る6‐ く無限柱〉で羽ばた く心 は,〈接吻の門〉で身が 引 き締【まる。不思議 な事 に,く無限柱〉の周 りで 自転車 を乗 りまわすテ ィルグ 0ジ ウの子供達 も く接吻の 門〉か ら く沈黙のテ‐プル〉 の中で は見 られない3〈沈黙のテ‐ブル〉 は

,ブ

ラン ク‐シのア トリエの制作台 と同形の円テ‐ブルである。周囲には

,12個

の (球体 を真中で割 り: 割 り面 を上下に して合 わせ た形

)椅

子が配置 されている。12の数は

,一

年の月の数 を示すのか, 宇宙的思考の中での天体の周期 を示すのか

,い

ずれに して も時間的な流れを思わせ る。円型の く台〉一 く無限柱〉

T「

教会」一 〈接吻の門〉一 〈格子 と白枠〉― く沈黙のテーブル〉 この配 置 は

,正

,現

代社会の中で

,ブ

ランクーシの宇宙的思考が

,戦

争 とい う事態 にまで追い込ん だ社会構造 を救 う唯一の道である事 を示すかの様 に

,毅

然 としている。 エ リアーデが「…Ⅲ物質 を通 して現われた聖の発見 は,『宇宙的宗教』 と呼 ばれる もの

,す

なわち

,ユ

ダヤ教 出現 まで世界 を支配 し

,い

まだにアジアや『末開』社会で生 きている宗教経 験の型 を特徴づけるものである。西欧では

,こ

の宇宙的宗教 はキ リス ト教の勝利 に伴ない

,忘

れ られたのであった。全宗教的価値 と意義 を使い果 た し

,自

然 は」 自然科学的探究 にふ さわ し い『対象』 と.なることを得 た。」

0と

述べている。 この事 は

,ブ

ランク早シの彫刻 を解釈す る上 で も

,今

世紀の初期の革命的運動 を興 した芸術家達の心境 を考える上で も重要 な事 と思える。 く沈黙のテーブル〉 のす ぐ後 ろにジウ川が流れ

,ジ

ウ川 を渡 って更に西の方角の森林の奥 に ブランク‐シの生家が在 る事 を考 えると

,人

の一生 という大テーマを都市の中に現 出 した とも どれる。科学 と技術の優先 される現代社会にあって

,再

,原

始的 とも思われる聖の領域 を, 自然崇拝

,人

間尊重のテーマをかかげ

,広

大 なラン ドスケープを提示 した と見る。そ して

,そ

の土地柄 は

,正

,ア

フリカのプ リミテ ィーブ 。アー トの発祥の土地に類似 を見る

:ル

ーマニ アの平原のはずれ

,聖

なる森へ と連がる入日の小高い丘に位置 しているのである。 結 ヘ ンリ‐・ムーアは

,ブ

ランターシに関 して,「ゴシ ック以来, ヨーロ ッパの彫刻 には苔や 雑草が一 すなわち形 を全 くか くして しまうあ らゆる種類の表面の邪魔物が―一面 に繁茂 しす ぎ て しまった。 このはびこ りを除去 して

,今

いちどわれわれに形 を意識 させ るのが

,ブ

ランクー シの特別な使命であった。 これを行 うために

,彼

は非常 に単純直裁 な形 に集中 し

,い

わば彼の 彫刻 を一気筒 に してお くこと

,ほ

とん ど高貴 にす ぎるほど単一な形 を洗練 し

,磨

きあげること が必要だった。」¨。「そ うい うわけで彫亥」を単純 な (静的な

)形

体的単一性 に局限す ることは もはや必要でな くなった。」颯鋤と語っている。ブランクーシが直彫 り彫刻の中で素材 とフォルム の関係

,彫

刻 として確立する為の素材 に対す る技術 のプロセスを説 き

,完

結 したことを示唆 し ている。ヘ ンリー・ムーアは

,ブ

ランクーシの直彫 り彫刻 に影響 を受けて

,初

期の段階には, イギ リスの生国の石 を使 って直彫 り彫刻 を行 っている。ムーアは

,イ

ギ リスのゆるやかな起伏 にあわせ る様 な

,横

に拡がる世界 に

,彫

刻 を確立 した。 この 日でブランクーシの彫刻 を見 る時J く空間の鳥〉 は空気 を振撼 させて上昇す る。真直 ぐに上昇す るこの形体 は

,垂

直 と同時に■本 の水平軸 を想起 させ る。 この水平軸 は

,ル

ーマニアの土地である。ブランクーシもパ リに生活 しなが らルーマニアの風土の中で思考 した彫刻家であった。アメリカ (ニューヨーク

)で

は,

5回

個展 が 開かれてい るが

,パ

リで は二度 の個展 も開かれなかった。 しか し

,個

展 の為 に ニューヨークヘ行 ったが

,住

む気 は無かった様だ。ブランクーシにとって彫刻制作の場所 は, パ リ以外 にはなかった。パ リのア トリエで

,独

自の力で

,石

(材料

)を

全ての重力か ら開放 さ

(17)

雄 秀 坂 登 せた。ブランクーシは現代社会の中で

,思

考の源泉 とも言 うべ き世界か ら

,今

世紀初期 におい て

,彫

刻美術 史上の中に

,今

までにはない

,全

く新 しい一つの世界 を明示 した。「物質」の概 念 は

,現

代美術 を志向する芸術家の中に継承 されることになる。教育 を受けなかった貧 しい農 民の子が

,ひ

たす ら人間性の中に想いをこめ

,そ

して

,そ

の後の現代彫刻 をも動か してい くこ とになる。 │ 引 用 文 献

(1)Sidney Geist ttaё ker Brancusi:a stidy Of the sculpture P。 1

(2)IOnelJianou Adam Books Brancusi:The artist,his life and his e,och P。

24

(3)中 原 佑介 美術出版社 「美術手帳」

1977.7.ブ

ランクーシ:終わりなき始まり

P,225

∼226

(4)Sidney Geist HaCker Brancusi:The,sculpture P,20

(5)ウィリアム・ ハ ー ラ ン・ ヘ イル Time Lifeロ ダン :世 界最高の彫刻家 P。143

(6)Petru Comarnesco Arted(Petru Comarnescu avec 3)Brancusi la marche uer lhumain P.22 (7)堀内‐正和 聖豊社 現代彫刻へ の道 :終 りのない柱 P l19

(8)ミルチア・エ リアーデ せ りか書房 │エリアーデ著作集13宗教学 と芸術 :世 界の中心・寺院 。家 P。170∼P171

(9)ミ ルチア・ エ リアーデ せ りか書房 エ リアーデ著作集

13

宗教学 と芸術 :プラ ンクー シ と神話

P250

1101 Sidney Geist Hackёr Brancusi:A study of the sculpture The sculpture P,45

に⇒ 土方 定一 平凡社 土方定一著作集

12

近代彫刻 と現代彫刻 アフ リカの彫刻

P.398

00

ミルチ ア・ エ リアーデ せ りか書房 エ リアーデ著作 集13宗教学 と芸術 :現 代芸術 における聖の 永遠性

P.244

(18)

ブランクーシの直彫 り彫刻に関する研究

⑭アフリカ彫刻 ⑮フランスの少女

参照

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